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薮の蛇、あるいは

烏賊墨太郎烏賊墨太郎

【あらすじ】 甚爾と稽古し悟と友情(?)を深めながらスクスクと成長し、やがて直哉は初めて甚爾と出会った年頃になった。まもなく甚爾が家を出て行くことを察知しつつ日々を過ごす彼だったが、当主の不在中に突如として起きた事件に巻き込まれてしまう。それは甚爾と直哉を貶めるため、直哉の兄が仕組んだものだった。直哉はブチギレながら解決に奔走するが、予期せぬ事態が起こり……。   ※原作通り呪霊になって死んだ直がそこまでの記憶を持ってもう一度生まれ直す話です ※直の性格は普通に論外です ※メインは甚直(恋愛)ですが、五や伏や真双子と直の間にも感情(恋愛ではない)が生まれる予定です ※今回の話ではありませんが展開的に甚めマ→死別があります ※捏造過多 ※直哉の捏造兄(性格:ドブカス)が登場します (🦋‪Bluesky🦋‪を始めましたദ്ദി>ᴗ<) 浮上率はそんなに高いわけではないと思われますが、興味のある方は、どぞ〜♡→@ikasumi3)

以前の直哉が甚爾に出会ったのは、九つの頃だった。
 呪いが尊ばれるこの家で、呪いを持たない男がいる。何がきっかけだったかは忘れてしまったが、直哉は確かに九つのとき、そう聞いた。
 呪力がないということは、役目をまっとうできないということ。役目を果たせないということは、この家に生まれた意味がないということ。男のくせに、飯炊き女より地位が低い。そんな奴が、一体どんな面をしてこの家にいるのだろう。きっとさぞかし憐れで弱くて情けなくて、しょぼくれた姿をしているはずだ。直哉は無垢な瞳でそう思った。そうして、その男に会いに行った。
 だが、好奇心に身を任せて駆けた先には、すべての予想を裏切る人が立っていた。憐れで弱いなどとんでもない。むしろ誰よりも厳かで強くて恐ろしくて、今にも踏み潰されそうなほど大きい。彼の前では、生きとし生けるものみんなアリンコになってしまうような気さえした。直哉は、彼こそが天から世に与えられたホンモノの怪物――紛れもない〝最強〟なのだと知った。

 今、直哉は九つになった。かつておのれの人生を変えた出会いを果たしたあの頃と、ようやく同じ歳になったのである。
 そして直哉があの頃と同じ歳になったということは、それはすなわち、直哉が憧憬をいだいたあの日の甚爾が出来上がったことと同義であった。
 無造作に伸びた黒髪に、着流しから覗く隆々とした体。いつもここではないどこかを無感動に見つめていた昏い緑の瞳は、今は色の深さはそのままに直哉を見つめる。焦がれ続けたその色を眺め、直哉は懐かしいような感慨深いような、あるいは待ちわびたような心地で目を細めた。

 ――瞬間、パンッ! と空の爆ぜた音がして、絵の具をかき混ぜたバケツみたいに景色が絡まる。

 右、左、回り込んで左、下、くぐって上、右、左、左、後ろ、飛び越えて右。1/24を繰り返し加速し続けていく体を、時の隙間に滑り込ませていく。目の前に甚爾が見えて、消えて、また現れる。
 そのすさまじい高速の中で地面を蹴り上げ飛び上がったとき、横っ面が何かに張られて直哉は一秒フリーズした。瞬きの間もなく引き寄せられた顔面が大きな掌につつまれ、全身が容赦なく撃ち落とされる。
 ……かと思えば、地面につくすんでのところでぴたりと止まって、手を離された。一秒の間が解け、土埃とともに尻もちをついた直哉の前で、甚爾は気だるげに首を回す。

「だあ゙~~ッ……まァ〜た一歩も動かせんかったぁ!」

 直哉はそう言って大の字に倒れ込んだ。並の術師では目が追いつかぬほどの速度から解放され、一気にゆるんだ体はカッカとほてって指先まで血を巡らせる。
 甚爾はりんごのようにほほを赤くした直哉を眺めてくわりとあくびをすると、「オイ、めし」と端的に言った。

「ええ〜っ、もういっぺんくらいやろうや! まだお日さんもあない高いとこにあるし、なぁ? ええやろ?」
「腹ァ減ったんだよ。今日は終わりだ」
「じゃあメシ食ったらやろ? な? な!」
「言うこと聞かねーならツギはナシだ」
「うぐぐ……、……ケチ!」
「誰がだよ」

 飛び起きた直哉の額にズビシッと鋭い突きが刺さって、直哉は「ゴッ……」と呻いた。「俺のデコが凹むッ」と悶絶する直哉を横目に、甚爾は一人縁側へと上がって行く。とはいえ別に本気で痛がっているわけではなく(むろんそれなりには痛いが)甚爾も本気で怒っているわけではない。プロレスである。
 加茂家で起きた誘拐事件から、早数年。あれから多少悟との仲は変化したものの概ねつつがなく成長し、直哉は九歳になっていた。
 一方の甚爾は十九歳。あどけなさの残る少年の面影はもうずいぶんとなくなり、直哉が本当の意味で彼と出会った頃の、あの刃物のような瞳を持った立派な青年へと成長した。のそのそと歩く甚爾を追いかけて見上げれば、そこには何年経っても忘れようのないあの頃の姿がある。ただひとつ違うのは、その瞳に直哉が映っていることだ。

「今日のおにぎりは鶏おこわやって」
「フーン」

 まるい額を抑えながら、直哉はニコニコとゴキゲンに甚爾の背を追いかける。
 食事を運ぶのと引き換えに稽古をつけてもらう契約は、意外にも今日まで続いていた。厨房が忙しくなく女中に軽食を作ってもらえるとき、且つ甚爾の気が向いたとき、直哉は甚爾のもとに殴られに行く。
 この契約が成立しているのも、甚爾の禪院家での食事事情が相変わらず質素極まりないからだった。食事だけでなく、甚爾がこれほど大きく恐ろしく成長しても尚、その冷遇具合はほとんど変わらない。
 表立って何かされることはないものの、離れに押し込められ存在を抹消され、身の程を弁えない雑魚どもからは「次期当主候補に媚びる猿」だの「呪力はなくても猿芸はうまい」だのと冷ややかに侮蔑される。だんまりな甚爾の代わりに直哉が百倍くらい言い返すと、なぜか扇や甚壱に咎められるのが納得いかなかった。

「女中も気ィきかんよな。今日は父ちゃんたちごっそりおらんねやから、肉ぐらい運んでくれたらええのに」
「……。……あァ、やたら静かだと思ったら。今日、会合か」
「せやで。いつもより大きいヤツ。御三家だけやのうて他のお偉いさんも集まるから、俺は留守番にされたん。こないだ悟くんと一緒に暴れたからやって」
「何した」

 むしゃむしゃとおにぎりをほおばりながら、甚爾は関心があるのだかないのだかわからない顔で問う。ここ数日、直毘人たちは東京で開かれる呪術界の会合に赴いていた。そのため上から小うるさく行儀を説く者も今日はおらず、直哉は畳のへりを踏みつけ甚爾とおしゃべりに興じる。

「ナンもしてへんよ。ちいと誘拐されたトラウマの地で鍛錬に励んでただけ」

 そう言ってぺろっと舌を出す直哉の顔は悪ガキそのものだ。二十七で死に、生まれ直して九つになり、もうとっくに合計して三十路を超えるが、直哉はまだまだガキンチョを謳歌していた。甚爾は少し眉を上げ、薄く意地悪そうに笑う。

「よかったじゃねーか。誘拐されたおかげでトモダチできてよ」
「トモダチとちゃうわ、あんなん。悟くんは自分より弱いヤツとトモダチならへんねんて」
「へえ? ナマイキなガキ」
「ええねん、悟くん強いから、選ぶ権利あるモン。俺と悟くんは喩えるなら、そやな――砂場で親と一所懸命お城作っとうガキがおるとするやん? 俺らはそんなんくだらんて白い目向けとんねん。で、おんなしモンで目ェが合うたからつるんどるンや。どうせ悟くんはもっとナカヨシコヨシのトモダチができるさかい、それまでお互い暇つぶしや」

 ここ数年で、直哉と悟の間には何やら奇妙な関係性が芽生えた。互いに近い年頃の近い立場の近い存在と考えればそれは必然だったのかもしれないが、きっかけは間違いなくあの誘拐事件である。
 五条と禪院の関係が悪くなってから数百年、水面下ではそろそろ関係修復を望む声もある中、しかし今代の嫡男の二人がこのように育つとは互いの家の誰も想像していなかった。このようにとはつまり、直哉の表情の通り「クソガキ」ということだ。
 会合で顔を合わせれば言い争いをし、時には開催場所に損害を出すほど烈しい喧嘩をし、かと思えば肩をつき合わせ、こそこそと二人だけで会話をして笑う。直哉の呪力を過度にキモイキショイと騒いでいた悟も、やがてサングラスで目を覆うようになったことでさほど文句を言わなくなり、二人はすっかり徒党を組んで大人の血管を二、三本だめにすることを仕出かすようになった。それは友情と呼ぶには苛烈で、犬猿の仲というには親しい。ぬるく乾いた――いうなれば、幼馴染みといったところか。

「オマエ、もう五条の坊に追い越されたのかよ?」
「……まだ速さでは五分、イヤ、ロクヨン、…………場合によっては五分やから!」

 直哉は苦し紛れに言った。甚爾は自分で訊いたクセにフゥンと興味なさそうに視線を外して、またおにぎりを口に詰め込む。
 と、ふいに直哉が顔を上げ、ぶすくれた顔から一転おかしそうに目を細めた。

「甚爾くん、ほっぺたにコメツブついとる」

 「誰も取らへんのにそないイッキグイするから。子供みたい」と、直哉はキャハキャハ笑う。甚爾は「ウッセ」と自分のほほをぬぐうと、袖についた米粒をとって直哉の口に突っ込んだ。いきなりのことに、直哉は「ムゴッ」と呻く。

「ぁに食わへんねん!」
「あーあ。取られちったぁ」
「コメツブやん! 甚爾くんが突っ込んだんやろ! バッチイ〜」

 顔を顰める直哉を見て、甚爾はヘン、と鼻で笑った。それからおもむろに指を舐め、冷めきった急須から茶をどぼどぼ注いで一息に飲む。

「残り、食っていいぞ」
「え? 珍し〜。おナカいっぱいなん?」
「外、出てくる」

 甚爾が立ち上がると、直哉はぱちりと目を瞬いて「ああ」と納得顔をした。

「今日も行くん? 最近多いなァ。いってらっしゃい」

 そう言って手を振れば、甚爾は「ン」と返事っぽい声を上げて一瞬で部屋から消える。
 甚爾の禪院家での扱いは変わらなくとも、甚爾本人には確かに変化が現れている。以前から甚爾はしばしばひっそりと屋敷を抜け出すことがあったが、このところその頻度が増えていた。
 呪力がなく元より家では透明人間扱いの甚爾は、成長するにつれますます気配の殺し方がうまくなり、今となっては足跡すら残さない。だからどこへ行っているのかは直哉も知らない。ただ、おそらく本格的に家を出る支度をしているのだろうな、と思う。
 前と同じ通りに行くのなら、甚爾はそろそろ禪院家を出奔する。体も出来上がり、十分な実力もついた今の甚爾なら、もうどこででもやっていける。あとは法的にも成人すれば、誰も甚爾を止められない。いよいよ天与の暴君が禪院の檻から解き放たれ、直哉の予言がまた一つ成就する日が来るというわけだ。

 ――アーア、寂しなるな。でもいつまでもここおっても甚爾くん何もせんし、できひんし。甚爾くんは外でスキに暴れてくれとったほうが、俺もええ。……けど。

「あ――。もうちょいで、イロイロ考えなあかんことがやってくる……」

 直哉は憂鬱そうにため息をついた。甚爾が家を出ていけば、全てが始まる。これまで削り、鍛え、ひとつひとつ嵌めていった歯車が、他のパーツの完成も待たぬままに、勝手に動き出す時がくる。
 ――まずは、そう。甚爾くんに、餞別でも用意してやらんと。直哉はそんなことを思って、まだ永久歯が生え揃わぬ歯でおにぎりにかじりついた。
 まさかそんなことをするいとまもないうちに、予期せぬ騒動が発生するとは――直哉でさえ知る由もなかった。

 事が起こったのは翌日だった。
 当主筆頭に禪院家が出向いている会合は数日がかりのもので、その日はまだ誰も帰ってきていなかった。任務もあるため、おそらく夜頃には扇と甚壱が幾人か同伴した炳の者を引き連れ帰ってくるだろうと推測されたが、朝方の家には灯、駆倶留隊、その他の親類、女中、使用人等しかいない。
 そんな折に、何やら屋敷の奥でざわめきが起こった。起き抜けの直哉が着付けをする使用人に寝ぼけ眼で「なに?」と尋ねると、数人が状況を確認しにばたばたと廊下を走っていく。
 喧騒、怒声、沈黙。――嫌な予感。直哉はさっさと着替えを済ませると、騒ぎの中心へと向かった。

「なんなん、喧しい」

 すると、禪院の最奥、忌庫に続く地下の通路にて、甚爾が灯数名に押さえつけられていた。
 まるで罪人みたいな扱いをされている甚爾を見て、直哉は目を丸くする。「なんなんコレ」と声をあげれば、出てきたのは灯の一人――直哉の何番目かの兄だった。術式を持ってはいるものの、相伝でないことから父に見放された男。

「コイツが訓練部屋の呪霊を逃がした」

 兄は甚爾を指さして言った。「ハ?」直哉は思わず甚爾を見る。甚爾はスンとした真顔のまま、虚空を見つめていた。いつもの顔だ。家の者に虐げられているときの、諦念に満ちた顔。

「呪霊を、逃がした? ……なん、その呪霊どこ行ったん。家出てったん?」
「そうだ。屋敷を出て行った。コイツのせいで」
「どいつが出た。鍵は? 守り番は何してん、フシアナ?」
「あの、交代の隙を、狙われたようで。鍵は……破壊の跡が」
「交代の隙を狙われたようで? ハア。ほいで?」
「逃げたのは、部屋にいた一番強い呪霊です。二級相当の……」
「ア、ソオ。で?」

 「そこまでわかってなんで誰も追いかけてへんの?」と、直哉は矢継ぎ早に言った。直毘人もいない、扇もいない、甚壱もいないとなれば、今ここで最も発言権があるのは次期当主候補である直哉だった。それを当然のこととして理解している直哉の声は、まだ声変わりも済ませていない子供の声でありながら恐ろしいほどに鋭かった。
 その声にわずかに息を呑み、直哉の兄は能面のような顔のまま口を開く。遠い先祖をコピーアンドペーストしたみたいなつまらないパッとしない顔が視界に映るのが、直哉にはひどくうっとうしかった。

「コイツに追わせる」
「……甚爾くん?」
「そうだ。コイツが逃がしたのだから、コイツが責任をもって捕らえるべきだ。直哉、オマエもだ」
「俺がなに?」
「この猿を図に乗らせたのはオマエだろう。愚かにもコイツは禪院に反逆を企てようとした。自分が辛酸をなめさせられたあの部屋の呪霊で、当主のいない隙をついて誰かを殺そうとしたんだよ。他人の才能を妬んで、調子に乗って、哀れな奴だ。その責任を取るのはオマエだ、直哉。コイツの処罰は当主らが帰ってきてから決めるだろう。その前に呪霊を捕まえておかなければ、オマエの立場はないぞ」
「…………なんやそれ」

 ――くっだらな。

 直哉は鼻白んだ。――コイツ、そないヘタな筋書きが通ると思っとんのやろか。甚爾くんがそないなことするって言い分でホンマに通ると思ったんか。
 ――甚爾くんにかかりゃ、呪霊なんか使わずオマエらなんぞ「プチ」やぞ。腕ちょおブンッ振ったら「ブチ」やぞ。ホンマにわからんのかコイツ、甚爾くんは捕まっとるんやなくて「捕まっといてやってる」んや。「おとなしゅうしといてやってる」んや。オマエらなんぞ、呪霊なんざ使わんでも甚爾くんはいくらだって殺せるわ。
 ――でも、甚爾くんはなんも言わへんしやらへんのやろな。いっつも言い返さんもんな。「やってない」て言やあいいのに、メンドクサイ。つうか、こんなことのために呪霊、ホンマに逃がしとんのか? イヤ、まさか。……まさか、まさか、よなァ。

「ここにいるオマエら全員、おんなし意見なん?」
「……」
「ハア。ふぅん。へえ。オマエら顔覚えたからな。……ちなみにやけど、呪霊、ホンマに逃げとるん? 懲罰部屋確認してええ? まさかそないバカなこと、あると思いたくないねんけど」

 まさかまさか、禪院の嫡流が私怨のために呪霊の封印を解き放ったなどと……。
 そんなことが起こったら禪院の信用はガタ落ち、呪術規定違反どころか非術師の身を危険に晒し、下手をすれば死人も出る。まさか身内のゴタゴタに、呪術師が非術師を巻き込むなんてことは……。

「ホンマモンのダボやったか……」

 懲罰部屋をチョイと覗いて、本当にかつてここにいた二級の――あるいは下手をすれば準一級まで育つ可能性のあった呪霊が消えていて、直哉は愕然とした。
 ――コレと血ィが繋がっとると思いたナイ……。死んだほうがええんとちゃうか? ホンマに。今すぐ飛び降りたほうがええで。将来のために。

「呪霊が街に出て人を襲えば、その咎はすべて甚爾にあるぞ」
「……。どないして甚爾くんあそこまで引っ張ってきたか知らんけどやな、オマエその言い訳ちいと無理あると思うわ。イヤ、わかっとるよ。口裏合わせとんのやろ。あそこにおるヤツら全員、このことに賛同しとるワケやね。うざったいお猿さん使うて俺を引きずり下ろそうちゅう作戦。ご苦労さんなこと」
「何の話をしているのだか意味がわからない。直哉オマエ、口の利き方に気をつけろよ。兄への態度がなってないぞ」
「兄?」

 直哉はせせら笑った。

「オマエらみたいなアタマにオガクズ詰まっとるようなヤツ、兄となんぞ思ったことナイわ。きっと種類のちゃう種から生まれたんやねえ、俺ら。ああヨカッタ、今日でそれを確信できたわぁ」

 咄嗟に、兄の拳が直哉のほほをぶった。見え見えの軌道だったが、わざと避けなかった。ホラ、すぐ手が出る。このダボカス単細胞が。「母さんをバカにするな!」――阿呆らし。身内の情? そんなの俺ら最初っから持ち合わせてないやろが。

「バァ〜カ」

 ――首括って死ね。

 ということがあり不本意ながら、直哉は甚爾とともに呪霊探しに屋敷を出たのであった。タイムリミットは今夜。ターゲットは禪院家から逃げた二級呪霊。特に呪具や武器となるものは持たされていないため、おそらく仕掛け人であろう兄からの無言のメッセージはこうだ。「呪霊に襲われて死ね、あるいは呪霊を捕らえられず落ちぶれろ」。

「オマエから殺したるわこのクソドブボケカス俺の出涸らし精子の腐った部分がァ!!」
「ウルサイ」

 キィンと響いた直哉の声に甚爾が耳を塞ぎ、遠くで鳥がバサバサッと飛び立つ。
 直哉はハア、ハア、と肩で息をして「死ね……殺す……」とキマった目で呪詛を吐いている。「マジの呪いになりそうだからヤメロ」と無表情で窘める甚爾は、直哉の荒れ具合とは反して――冷静に、とうとう来たか、という思いだった。
 数年前まではザクザクと、ここ数年はチクチクと続いていた嫌がらせが最近はずいぶん控えられていたため、そろそろ溜まった鬱憤がデカイ形で顕現するのではないかと予感していたのだ。みごと、大当たりである。

 まァデカイ形といっても、この程度なら甚爾にとっては大したことではないが。犯してもいない罪の濡れ衣などこれまでいくらだってかぶってきたし、非難されようと半殺しにされようと、既に底辺の地位がこれ未満になることはない。むしろ厄介なのは本当に呪霊を捕まえなければいけないほうで、もし甚爾が一人だったら適当にそのあたりを練り歩いて手ぶらで帰っただろう。
 だが、今回は直哉がいる。あの兄の言い分にしてみれば、甚爾という猿を飼っているのは直哉なので、甚爾の不始末は飼い主の監督不行届ということ……直毘人のいない隙に乗じて、直哉を叩こうという魂胆だろう。そして、それは彼だけの思索ではない。口裏を合わせたあの場の、少なくとも他にいた直哉の兄たちは、同じことを思っているにちがいない。

 直毘人は禪院家当主としての付き合いがあるので、今日帰ってくるとされているのは扇や甚壱といった面々だ。どちらも直哉とは次期当主を争う身、彼らの魂胆見え見えの言い分にも案外乗る可能性が高い。それに、甚爾が直哉にかまわれて調子に乗っているというのは、あの家全員の共通認識だ。
 甚爾のことを憎たらしく思うのは直哉の兄たちだけではない。むしろ彼らは憎むより、単に汚らわしく思っているだけかもしれない。彼らよりもよほど甚爾を憎むのは、相伝を持たない男、そもそも術式を持たない男――呪力のない甚爾を蔑むことでおのれの地位を何とか保ってきた者たちが、よりによって自分より目下のはずの甚爾が次期当主候補に目をかけられたことで、嫉妬と憎悪を燻らせている。彼らは甚爾を貶めたくて仕方がない。
 低い場所にいる者は底辺を憎み、高い場所にいる者は頂点を憎む。そうして出来上がったのは誰も彼もが敵だらけの空間だ。とにもかくにも、今日中に呪霊を捕まえられなければ、甚爾と直哉どちらにとっても不利益が生まれることは間違いない。

「面倒なことになったな」
「そもそもッ甚爾くんがァ! おとなしゅう捕まっとらんで、ハッキリ否定すりゃよかったんにッ」
「ああいう時は黙ってそうですか〜って顔すんのがイチバンはえーよ。猿の言い分なんざ誰も聞かねえし」

 甚爾は緩慢にしゃがみこみ、殴られたのと怒りとで真っ赤になっている直哉のほほにぺとりと自分の手の甲を当てた。アツい。この子供はいつもやたらとエネルギーに満ちている。呪力だけでない、甚爾の知らない種類のナニかが腹の奥でぐつぐつと煮えているのだ。これくらい煮えたぎっていなければ、あの家ではやっていけないのかもしれない。

「イチバンはえーのは甚爾くんがあの場の全員をボコすことやったッ!」
「バカ。その後がメンドーだろが」
「今とどっちがメンドーなのか考えてみたらどない? あ゙あッ!?」

 直哉はピクピクコメカミを引き攣らせながら、甚爾の泥だらけでシワクチャの着物をもっとシワクチャにする。――さっきはブチギレそうになってんのガマンしてて、コイツも成長したんだなと思ってたけど、別にしてねーな。と甚爾は思った。

「甚爾くんが呪霊見やんでもわかるンは知っとるけど、呪具なかったらさすがに祓えんやろ? あの呪霊、放たれた先で人でも喰うてたらワンチャン準一なってんで。心情的にはヨユーといきたいとこやけど、今の俺一人で準一いけるか知らへんよ」
「オマエ、等級あったっけ」
「まだナイわ。単独任務ももろてへんし」
「アー」

 甚爾はボリボリと後頭部をかいた。「マ、何とかなんだろ」とテキトーなことを言う。

「甚爾くん誰が呪霊逃がしたんか気づいとったやろ? 言うたればよかったんに! つう〜かあんッなくっだらない筋書き、B級映画でもナイわ! 星イチもつけたくナイけどクソ具合伝えたいンでしゃあなし星イチつけますゆうレベルのヤツや!」
「……」
「甚爾くんがァ、呪霊使て誰か殺そうとしましたァ? ハッ。誰を? あの場にいる全員、甚爾くんならワンパンで沈めれんのに誰を? 呪霊? なんで? そらオマエら雑魚の発想やろオマエらは呪霊使わな甚爾くんにかすり傷すら負わせられへんのやからなァ! 見え見えなんじゃドブカスがァ!」
「……」
「なんであない情けない顔して家ン中歩けるんか不思議でしゃあな――」

 五分ほど、甚爾は「そうですか〜」という顔をして直哉の話を聞いていた。結論として「全員ブサイク顔の呪霊に下半身からゆっくり煮溶かして食べられて死ね」というのが出たところで、「そろそろ追わねーと昼になるぞ」と声をかけて立ち上がる。直哉はまだ腹の鬱憤が収まらない顔をしながら、ハァーッと荒く息をついて歩き出した。
 ――呪霊の残穢は甚爾にも直哉にも十分わかるほどに残っていた。だがずいぶんと遠くまで行っているようで、二人は常人には出せない速さでひたすらに追いかけていく。これは一筋縄ではいかなそうだ。

「この呪霊、父ちゃんが捕まえたヤツや言うとった。どうりですばしこい。ウザイわあ」

 残穢を辿りながら、直哉はそうフキゲンにため息をつく。「投射で仕留められた前例があんなら、オマエもやれんだろ」と甚爾が言うと、「ええ〜そう思う? 甚爾くんそう思う?」とちょっとうれしそうにした。チョロい。
 やがてしばらく追いかけて、二人はほとんど山か森と言えるような雑木林の入口に辿り着いた。コケとシダがわさわさと生える地面を通り、重い体を引きずるような残穢が中に入っていくのが感じられる。「ここやな」と足を止め、直哉は風圧でぐちゃぐちゃになった髪をかきあげる。

「わざわざ人気のないほう来るとか、ずいぶん引っ込み思案な呪霊やなァ。そういや確かコイツ、飛騨の山生まれやてハナシやったわ。子供の神隠し伝説とホンマモンの連続誘拐事件が重なってドエライもんになっとったんやって」
「ウゲエ」
「草木が生い茂っとる環境のが力が出るタイプかもしれへん。市街地行かずにここ一直線来たんや。なかなかメンドそうやね」
「……」

 直哉がなんとなく所感を告げると、甚爾は目をすがめて雑木林の奥を見つめた。次いでわずかに鼻を動かして、「確かに……」と呟く。

「ここ、池か沼あるだろ」
「そうなん? 知らへん、このへん来たことナイもん」
「水のニオイがする。ンでたぶん、この呪霊、水場が住処だ。オマエの言う通り、環境で強くなるタイプなのかもな」
「わかるん?」
「湿度が高いんだよ、コイツの残穢。あと足跡がなんか……ヌルッとしてる」
「甚爾くんていつも俺には見えへん足跡見とるよな。確かにあの呪霊、なんやカエルかヤモリに似とった気ィするなァ」

 直哉はパチパチと目を瞬かせて、残穢の上でゆらゆら手を振り回してみた。「……湿度かあ」と首を傾げ、感心したようにあどけなく笑う。

「甚爾くんはホンマ、探偵なれるで。ようわかるわそんなん。すごいなあ。いっぺんくらい、甚爾くんと目ェ交換こしてみたいわ」
「目っつーか、感覚とか、ニオイとかなんだけど」
「じゃあ首ごとすげ替えないとムリなんかな。ちなみに湿度何パーセント?」
「知らねーよ」

 軽口を叩きながら、「そんじゃ水場に行けばおるかもしれんのやね」と直哉は躊躇いなく雑木林に分け入っていく。
 申し訳程度に設置されていた石段に足を置くと、じわりと地面の底から這い上がるような嫌な怖気があった。――いるな。直哉は眉をひそめ、甚爾を振り返る。甚爾も直哉を見ていた。互いに、この奥に何かがいると確信を持つ。

「ハー……帳下ろしとこ」

 ――闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え。
 非術師には視認できない黒い幕が下りて、雑木林の中を隠す。「ほな行こ」と直哉が頤を差し向けると、甚爾はゆっくりと頷いて石段を登り出した。
 鬱蒼と茂る木々はさしたる手入れがされているようには見えず、進んでいくと確かに湿っぽい空気が鼻をつく。好き放題に伸びるクヌギや竹の葉が空を覆い、昼間だというのに中は一段と薄暗く視界も悪い。かろうじて残る石段はやがて途中からただの段差となり、しだいに影も形もなくなった。
 残穢は奥へ奥へと続いている。じっとりとした気配が肌にまとわりついて不快だ。凹凸の多い道に足を取られるせいで、だんだんと息が上がる。九つになったとはいえまだ成長期も来ていない直哉は、身につけられる体力に限りがあった。こういうときは生まれ直した境遇を恨めしく思う。

「子供の神隠しに、連続誘拐事件ね……」

 舌打ちでもしたい気分で足を進めていると、直哉と反して息も乱さず悠々と歩く甚爾が、ふいに独り言のように呟いた。

「……、なん?」
「イヤ。……オマエ、来ないほうがよかったかもな」
「ハ? なんで?」
「何となく」

 首を傾げる直哉に、甚爾は「あんま離れんなよ」と静かに言った。どういうことだろう。子供に関わる伝説や事件が元になった呪霊だから、子供である直哉は来ないほうがよかったとかそういうことだろうか。しかし、神隠し伝説があるのはここから遠く離れた別の山だし、くだんの呪霊も準一級に近いとはいえ家で飼っていた見知った呪霊だ。祓えないことはない、と思う。

「心配せんでも、俺ケッコー強いねんで。甚爾くんが稽古つけてくれてんねやから」
「……」

 甚爾は何も言わない。まァ甚爾くんからしたらそりゃ弱っちいガキかもしれんけど、と直哉はちょっと口を尖らせた。
 実際、直哉は齢九つにしては異常なほどの強さを手に入れていた。この歳でこれだけの才覚を発揮するのは、後にも先にも五条悟を除いて他にいないだろう。一生どころか二生目をかけて「アッチ側」を目指す直哉からすれば、そうでなければ何のために生まれ直したのかわからないので当たり前のことだ。おまけにほとんど必中の〝予言〟をするとなれば、この狭い呪術界で禪院家きっての逸材と認識されるのも必然である。

 だが、その地位もけっして磐石なものではない。それは今、こうして名指しで足を引っ張られていることからも明らかだろう。仮に直哉が五条悟ほど一強の実力を持っていたのなら、兄たちもこのような行動には出なかったはずだ。どれだけ自らを鍛え磨こうと、直哉と悟とでは生まれたときから残酷なほどに明瞭な違いがある。
 直哉の置かれた「次期当主」という地位から、ただひとつ抜け落ちている釘――〝十種影法術〟。それを持たなかった時点で、直哉はいつまでも「次期当主候補」であり、何かあれば替えのきく存在でしかない。それは前の生で身をもって痛感している。
 直哉にとって、当主の座とは目指すものではない。当然手に入れるべきものだ。障害になるものは蹴落としていく。ずっとそうやって生きてきた。今も。

「ちゃっちゃと済ませて、ウチ帰ってメシ食お」

 直哉がニッコリ笑いかけると、甚爾は軽くほほを歪めて返事の代わりとした。
 ――そのときだった。

「!」

 ざわり、と空気が動いた。これまで肌にふれていた空気が膜のようだったなら、それが一斉にズルッと移動したような感覚だった。

 直哉が動きの発端を探ろうとすると、既に甚爾が体を傾け一点を見据えていた。おそらく、そこにいるのだ。――呪力探知よりも甚爾くんの五感のが早いとか、ホンマにスゴすぎるわ。術師の立つ瀬ナイで。体に呪力を巡らせながら、直哉はむずむずと口角を上げる。いつでも術式を使えるようにと、足を開いて身構える、と。
 目の前を、何かがスサマジイ勢いで通過して行った。否、何か、ではない。
 ヌルついた両生類の足、赤ン坊みたいに膨れた顔。前足だけ生えたオタマジャクシにも似た、残穢をまとった化け物。

「出たッ!」

 直哉は反射的に地面を蹴りだし、呪霊の後を追った。呪霊はザカザカと二本の足を動かして木々の合間を駆けていく。
 ――キッショ。あないキショかったか? あの呪霊。元よりそれなりの速さとは予想していたが、それ以上に呪霊は足が速かった。初速の直哉が追いつけないのだから、並の術師は目で捉えられもしないだろう。ホンマに余計なことしくさって、と兄に対し殺意が漏れる。
 が、一度ふれてフリーズさせればこちらのものだ。投射呪法を重ねがけ、直哉は速度を上げていく。生い茂る木々を避け、呪霊の進行方向に回り込み、飛んでくる呪霊に手を伸ばした――その瞬間。

「――ッオイ、」

 直哉の後ろを走ってきていた甚爾が、何やら焦ったような声を出した。え、と思う暇もなく、直哉の右手は呪霊を捉えて振り抜かれる。
 掌に呪霊のヌルリとした皮がふれた途端、視界が変わった。

「あ?」

 幾重にも重ねられた速度が一斉に立ち消えて、尻もちをつく。
 ハタ、とまばたきを落とした直哉のもとに、くだんの呪霊はいない。甚爾もいない。たった一人きり、うっそうとした木々の中、直哉は呆然と座り込んでいた。

「……ハア?」

 あたりを見渡せば、先程までいた雑木林と似ているが違った景色が広がっている。木々の密度や種類、それに空の色や空気まで、まるで別の世界に来てしまったかのようにまったく異なる。
 術式か、領域か。直哉は二つの可能性を思い浮かべた。懲罰部屋にいる呪霊は二級以下のため術式も領域も用いない呪霊であることが前提だが、最初に想定したように逃げ出した先で力が増すようなことがあれば、呪術を使う呪霊、すなわち準一級以上になる場合もある。
 もしかすると、触ることでスイッチが作動するタイプの呪術を身につけていたのかもしれない。直前で異変を察した甚爾が止めようとしたが、直哉は容赦なくぶっ叩いてしまった――といったところか。

「チッ……」

 鋭い舌打ちを投げて立ち上がる。術式によりどこかに転移させられたにせよ、生得領域に取り込まれたにせよ、直哉の目的は変わらない。甚爾と合流し、呪霊をぶちのめす。
 しかし、奇妙だ。直哉も伊達に二週目の人生をやっているわけではない。自分が今いる場所が生得領域かそうでないかくらい、本来ならすぐさま見分けがつく。
 だというのに、ここが領域かそうでないか、あたりからひしひしと感じる残穢の大元がどこにあるのか、何もかもボヤけていて曖昧だ。ただじっとりと湿った不快感だけがある。たとえ何らかのことがあって準一級に格が上がっていたとしても、つい昨日まで二級だった呪霊が、これほど撹乱してくるなど……

 ――アアーン……ワアー……ン……。

 有り得ない、と断じようとしたところで、ハッとする。
 どこからか、子供の泣き声がする。迷い子か呪霊か。どちらだ、と迷ったことに混乱した。
 帳は下ろしている。一般人が迷い込む可能性は少ない。今回の呪霊は子供が関わる呪いから生まれたのだ、十中八九後者だろう。ならばどこから聞こえてくるのか突き止めなければ――どこから?
 仮に、もし直哉が転移させられたのだとしたら、その先に人間がいてもおかしくはない。泣き声はシクシクと続いている。考えなければ。人間か、そうでないか。――否、なぜ迷う? 領域か、転移か。――わからないなど、有り得ない。思考が上滑りする。――本来なら、直哉はすぐにわかるはずだ。

 ――おかあさー……ん……おうち……かえりた……い……かえ……りたいよー……。

 そうだ、違う。
 わからないのは、直哉の経験則が通じないため。経験則が通じないのは、ここが正常な法則で回っている場所でないため。
 つまり、そもそもここが現実であるという想定が、間違っている。

「かえらせて」

 直哉が気がついた途端、足元に影を落としていた木の葉が全員、目を覚ました。
 まぶたのない魚みたいな目が、ギョロギョロと開いて直哉を見つめる。夕焼けとは違う真っ赤な空がじっとりと見下ろしてくる。踏みしめていた地面がぬかるむ。いくつもの小さな手が直哉を引きずり込んでくる。しがみつかれた体は動けずに、全身が泥沼に抱きしめられたみたいな心地がする。
 その全てが直哉の頭の中で起こっていた。この呪霊はそういう術式なのだと、直哉はわかっていた。

「見下ろすなや……!」

 直哉は即座に自分の片目を潰そうとした。おそらくこの呪霊の術式は、直哉の精神に作用している。夢の中に取り込むようなタイプだとしたら、痛みによって目を覚ますのが一番早い。
 だが、動かした手は目の先数センチのところでびたりと止まり、硬直する。行動をある程度制御できるらしい。いよいよもってここは現実世界でないどこかだ、という確信が持てる。

「き、き、き、ききききみは、い、い、いいい、なぁ」

 いくつもの目が、一斉に言葉を発する。
 どこから、も何もない。この声は、最初からどこからでも聞こえていたし、どこからも聞こえていなかった。

「きみ、きみ、おなじ。きみ、ぼくら、おなじ? なのに、ど、ど、どおおやって、どおやって、かえってきたのお、おおおお?」

 気味の悪い声がこだまする。ギョロリと目だけを動かして、直哉はどこかにいるであろう本体を探す。見つけたところで動けもしない今どう倒せばいいかわからなかったが、とにかくぐわぐわと脳に直接響くような声が気色悪くて、喉を潰してやりたかった。

「か、かかか、か、かえらせて、返らせて。還らせて? 孵らせてよおお、お、おお」

 刹那、泥濘の奥からズルリ、と膜を剥ぐように出てきたのは、あの呪霊だった。
 口を半開きにした膨れっ面から、ズルズルと蛇のように何かが出てくる。――卵だ。ひとつに繋がった透明の膜に、等間隔に並ぶ小さな顔。コイツらは、カエルの卵だ。

「きみ、きみみたいに、も、も、も、も、も、もういちど」

 呪霊は直哉を見ている。
 呪霊は直哉を羨んでいる。
 呪霊は直哉を妬んでいる。

「もういちど、うまれなおして」

 ――暗転。

 直哉が甚爾の目の前で消えてから、およそ三分が経った。
 消えた――ように見えた。少なくとも、甚爾の目からは。

 三分前、直哉は術式を用いて呪霊にふれた。本来なら、呪霊は投射呪法の効果により一秒間フリーズし、その隙に直哉か甚爾が呪霊を殴るなり捕らえるなりすれば済む話だった。
 実際、確かに呪霊は一秒間フリーズしたはずだ。見えはしないが気配で呪霊を捉えられる甚爾は、あの瞬間、呪霊が動きを止めたのを理解している。ところがそれと同時に、直哉が視界から消えた。そのことに驚いた甚爾が動きを止めたため、呪霊は再度雑木林を駆け始め追いかけっこは続いている。
 考えられるとすれば、直哉の投射呪法がふれることで他者に作用するように、あの呪霊が持つ何某かの術式もふれることによって作用するものだった、という可能性だ。もしそうだとしたら何とも相性の悪いことだが(何せ彼らは武器になるものを持っていない)甚爾の動体視力の前で忽然と姿を消されるなど、呪術の効果としか思えない。

 ただ、奇妙だ、と思うのは。あの呪霊は、元々禪院家の懲罰部屋にいた。つまり、今朝までは二級だった。そこから何かがあって等級が上がったのだとしても、直哉も甚爾も当然準一級を想定していた。
 それなのに、あの呪霊はどう見積もっても一級相当にしか思えなかった。術式の効果も、気配も、甚爾の研ぎ澄まされた五感の何もかもが「あれは強い」と言っている。二人が禪院家を出発してから、およそ数時間しか経っていない。その間に等級がふたつも跳ね上がるなど、一体何があったのか。
 否、今はそんなことよりも、直哉がどこに消えたのかが問題だ。直哉の気配は覚えている。甚爾の勘が正しければ、そう遠くには行っていない。が、あの直哉が暴れもせず騒ぎもせずあたりが静まり返っている時点で、いくらでも嫌な想像はできる。同時に、ただではくたばらない、という確信もある。
 とにかく、甚爾にできることは呪霊を叩くことだけだ。これまで直哉を相手にさんざん「ふれてはいけない」術式との戦い方は心得ている。呪霊をぶちのめすのも初めてではない。
 ――問題ない。そう思えるようになったのは、ここ数年で自分の力の使い方を知ったからか、まっすぐな瞳に何度も「強い」と言われたからか。自信やプライドなど、自分に最も縁遠いと思っていたのに。

 音もなく雑木林を駆けるしなやかな体が、呪霊を補足して獣のように跳び上がる。
 ――パン、と銃声のような音が響いた。甚爾が空気の面を叩いた音だった。強靭な肉体から放たれる打撃は宙を切り裂き、風圧を呼んで呪霊の体をふれずに叩く。直哉とてふれてはいけないとわかっていればこうしただろうに、あの術式は一度走り出したら止まれないのが不便だと思う。直哉が術式を使ってできることを生身でできてしまう甚爾だからこそ思うことだった。
 呪霊は明確にどこか一箇所を目指して逃げているようだった。走る距離が長くなるにつれ、空気の湿度が高くなる。やはり甚爾の推測通り、水場を住処としているのだろう。環境要因で強くなる呪霊はいくらでもいる。どこか巣のような場所に連れていかれてもう一段階強くなられたら洒落にならない。その前に、潰す。
 メキョリ、と音を立てて手近な木をへし折り、呪霊に投げつける。力任せに飛んでいった幹は、呪霊を巻き込んでいくつかの木々をなぎ倒した。今の攻撃をまともに食らったということは、あの呪霊は体に当たったものを何でもかんでも消すわけではないようだ。
 空気が揺れる。呪霊が何かを叫ぶ。何を言っているのか、甚爾にはさっぱりわからない。

「そんだけ叫べんなら大したことねえだろ」

 甚爾は鼻で笑うと、もう一度体勢を立て直した。甚爾は感覚的に理解していた。この呪霊には、中身がいる。中身を引きずり出さなければ、この呪霊を倒すことはできない。
 ズル、ズル、ともがきながら、呪霊が幹の下から這い出てくる気配がする。姿は見えないが、呪霊がまとう湿度や温度、空気の動きやニオイから、ぐにょぐにょと輪郭が歪みまくっている両生類の姿を思い起こさせた。呪霊は言葉にも似た呪詛で空気を震わせ、これまで逃げに徹していたのから一転、こちらに近づいてくる。

 ――アイツのほうが速えな。

 甚爾は突っ込んでくる呪霊を軽く避けると、太い幹に捕まって頭上に一回転し、その足で呪霊の真上から樹木を撃ち落とした。強制的に地に臥せられた呪霊が嘔吐く間もなく、道端の岩を片手で掴みあげ、おそらく頭であろう場所に投げつける。
 ビシャビシャビシャ、と呪霊の体液がぶちまけられたことを察知し、甚爾は二、三歩下がって二発目の幹をへし折った。中身が出たところで串刺しにするか、百舌の速贄の要領で縫い付けておいて、それから直哉を探しに行けばよろしい――と機をうかがっていると。

「……マジか」

 呪霊の中から出てきたのは、意識を失った直哉だった。

 否、違う。おそらく、直哉だけではない。呪霊の中身のそのまた中に、直哉がいるのだ。甚爾には呪霊が見えないから、直哉のみ出てきたように見えるだけで。事実、直哉は意識を失っているにもかかわらず、ズルリズルリと現れた体は緩慢に持ち上がって力なく浮いている。
 直哉が消えたとき、さして遠くに行ったように思えなかったのにどこにいるのかわからなかったのは、二重構造の呪霊のさらにナカにいたことが原因だろう。強すぎる呪霊の気配により、直哉の気配を辿れなかったのだ。
 直哉の脈はゆるく打っている。眠って夢を見ている者と同じ脈拍の速度だった。その顔色は死んだように真っ白で、安らかにも苦しそうにも見えない――「無」だ。その顔がやけに癪に障って、甚爾は持ち上げた幹を地面に打ち付けて砕くと、手頃な鋭さの木片を取った。

「……目ェ覚ましたら、きたねーきたねーって騒ぎそうだな」

 あとはひたすらに作業をするのみである。
 直哉のいる場所が呪霊の「胎」だとして、そこから全長何メートルかの呪霊を直哉を傷つけぬように刻むのは、今の甚爾にとってそう難しいことではなかった。甚爾がすべきことは「呪霊を捕まえる」こと。呪力のない甚爾のおこないは、呪霊を殺しはしない。
 何度木片が砕け、何度樹木が折れ、何度地面が割れようと、ひたすらに手を奮えばやがて呪霊は派手な風圧とともに破裂した。投げ出された直哉の体を危なげなく受け止めて、甚爾はそのほほを叩く。そしてふと、眉を顰めた。

「ぅ、……ゲホッ、ゴホッ、ガボッ、!」

 黒々と奇妙な液体を吐いて、直哉は呼吸荒く目を覚ます。

「ッ、の……キショいんじゃカス……、が……?」

 反射のような悪態をつき、ぱちりぱちりと目を瞬かせ、直哉はふしぎそうに甚爾を見上げた。キョトンとした瞳が、「……とうじくん、」と細く呟く。
 その幼いみぞおちを――甚爾は咄嗟に、拳で殴りつけた。

「ッ!? グ、ぅ!? ゲェ……ッ!!」

 どろどろと小さな口から溢れる液体は、黒く瘴気を放っている。呪霊の体に取り込まれた際に飲んだのか。だが、甚爾が吐き出させたいのはそんなモノではない。

「オマエ、何飲んだ」
「ゲホッ、オェッ……、……な゙、に? ぅ、ぐぇッ……」
「吐け」

 喉奥に手を突っ込むと、直哉は体を痙攣させ地面に吐瀉物を撒いた。その中にひとつ、非常に奇妙なものを見つける。

「そ、れ……」
「オイ。なんだ、これ」

 甚爾の拾い上げた「石」を見て、直哉はゼェゼェと肩で息をしながら言った。

「禪院の、……持っとる、一級の……呪物……?」

 毒々しい赤に光る、果物の種のようにも見える石。禍々しい気配を身につけたその小さな呪物から感じる気配は、先程甚爾が速贄とした呪霊とよく似ていた。
 ――つまり。

「ゥ、……グ、ゲエッ! ゲホッ、ゴボッ……」
「! オイ」
「ハッ、ハッ……、ェ、ぅえッ! ハッ……おええっ……、ッ、ッ?」

 甚爾の手の中で、直哉は再度大きく震えた。ゲポッ、と水っぽい音とともに地面を濡らすのは、どす黒い赤だった。――吐血。自分も血を吐いたことがあるので、甚爾は知っている。赤黒い出血は、胃からくる血だ。

「ぅ、……グ、」
「オイ、直哉」
「と……とぉじく、呪霊、たお……」

 それだけ喋って、直哉は糸が切れたように意識を失う。
 日が傾きかけた静かな雑木林に残されたのは、枝に突き刺さる呪霊と、直哉をかかえて呆然とする甚爾だけだった。

 片手に満身創痍の一級呪霊を引きずり、もう片手に吐瀉物にまみれた直哉をかかえて、甚爾は禪院の門をまたいだ。
 たちまちにさんざめく家の庭に呪霊を放り投げて、甚爾が目指すのはただ一箇所、話をすべき者の部屋。ずかずかと廊下を歩む甚爾のもとに幾人か躯倶留隊が駆けつけるが、呪霊の血を全身に浴びた甚爾の姿に気圧されて、何も言えずに身をすくませるしかなかった。

「オマエだろ」

 訓練場の一角。直哉の兄の数人とその取り巻きが固まって話をしているところに、甚爾は割り込んでそう告げた。
 甚爾が開いた掌に乗るのは、小さくて真っ赤な石。直哉の体内から吐き出された、正真正銘の呪物だ。

 目の前にいきなり呪物を突きつけられた男は、ひとつごくりと唾を飲んで「何の話だ」と甚爾を見上げる。今朝直哉に高説を垂れた、直哉の兄のうちの一人だった。何番目かは知らない。興味もない。甚爾がこの男について知っているのは、甚爾を虐げ陰で嗤っている大勢の中の一人だということと、直哉をひどく憎んでいるということだけだ。
 男は甚爾を見上げながら、チラリと甚爾の腕の中を一瞥する。だらりと白い腕を垂らし、甚爾に身を預けてぴくりとも動かない直哉を見たその目が、わずかに喜色を浮かべたのを甚爾は見逃さなかった。

「これを呪霊に取り込ませたのは、オマエだろ」

 この男がくだんの呪霊を意図的に逃がしたことは、甚爾とて初めから気がついていた。
 とはいえ、実際に手を下したのはこの男の手下か取り巻きだろうが。現場にいて指示を出したのは間違いないはずだ。うまく残穢を消していても、生きている人間の痕跡は至るところに残る。しかし、いくら何でも呪霊を逃がす際に呪物を与えていたところまでは、甚爾も直哉も思い至らなかった。
 呪物は人の毒となり、そして呪霊の養分となる。二級呪霊に一級呪物を食わせれば、どうなるのかは目に見えている。罪を被った甚爾と責任を負った直哉が呪霊を追えば、その先にいるのは予想以上に強化された化け物というわけだ。そうやって襲われたどちらかが怪我をするなり、死ぬなり、呪霊を取り逃がすなりすればいいと思ったのだろう。

 問題は、呪物を取り込み一級となった呪霊が身につけてしまった、その術式にある。おそらく奴の術式はこうだ。――ふれた者を胎の中に転移させ、精神に干渉する。精神をいじられて目覚めず、胎から逃げ出せない獲物は、やがて本体の一部か養分となって死ぬ。
 「ふれた者を胎の中に転移させる」――食らうのではなく転移である。これが直哉に作用した際、肉体ごと呪霊の胎の中に入れられた直哉は、同じ呪霊の中にあった呪物と干渉することになった。
 あの呪霊は入れ子構造になっている。外側の呪霊の内側に呪霊が。さらに内側に術式が作用した獲物が。そうなれば、元より胎の中にあった小さな呪物は、どこに行くことになるか。
 その結果が、直哉の口からまろび出たこの呪物だった。男が呪いを込めて取り込ませた呪物は、巡り巡って直哉の腹に辿り着き、吐き出されたあともその身を焼いている。
 片手で手折れそうな直哉の喉からごろごろと鳴る呼吸音は、今まで聞いたこともない音だ。体温がひどく低いのに、心臓は小動物のように早鐘を打っている。呪力を持たない甚爾は、おのれの身に降りかかる呪いを跳ね除けることはできても、呪いに犯された他人をどうすればいいのかは知らない。だからこうして、元凶のもとを赴くほかなかった。

「……オマエ、何を言ってるんだ? 猿の言語は俺にはわからん。わかる言葉を喋ってくれるか」

 男がそう言うと、周囲の者はたちどころに嘲笑をにじませる。じっと男たちを見下ろす甚爾のことを、訓練場の入口から幾人かが遠巻きに見ていた。

「そいつ、何かあったみたいだな。祓霊には失敗したのか。普段次期当主だなんだとえらそうにして、実際祓霊に行けばコレか。自分の尻も自分で拭けないらしい」
「気味の悪い残穢へばりつけやがって、汚いなあ。よっぽどのヘマでもしたらしいな。近づけるんじゃない」
「そう言ってやるな、可哀想に。やっぱりガキと猿だけじゃ無理があったんだよ。馬鹿なことをしなければよかったのに」

 ヒソヒソヒソ、クスクスクス。
 死にかけの直哉を前にして、兄たちはうれしそうに嗤う。このまま死ね、とそう思っているのだろう。このまま彼らの思惑通りにいけば、禪院家にはひとつ空いた次期当主候補の席と、それを死なせた罪深い猿が残る。そういう魂胆だ。
 いつもなら。甚爾が、こうやって耳元を飛ぶ小虫みたいにうっとうしい嗤い声をぼうっと聞いていると、どこからともなく直哉が現れて、滑らかな語り口で十も百も倍にした罵倒を返す。
 けれど今、直哉はまぶたを下ろしたまま全身をぐったりとさせて何も言わない。投げかけられる言葉が聞こえているのかも怪しい。ヒソヒソヒソ、クスクスクス。そんな音の合間に、浅い呼吸と速い鼓動が命を削るように聞こえる。いつもなら、聞こえる音はもっと軽やかで、もっと愉快で、もっと生意気なはずなのに。

「……医者は」
「あ? なんだ。獣医でも呼べばいいのか?」

 ケラケラと笑う声が、いつも聞こえてくるのとどこか似ているのに、喩えようもなく不快だ。

「何があったか知らないが、俺を責めるのはお門違いだと理解しておけよ。なァ、猿。呪霊を逃がしたのは、オマエなんだから」

 今回のことが事故か、あるいは未必の故意か。そんなことは甚爾にとってはひどくどうでもいいことだ。どちらだとしても結果は変わらない。甚爾は裁判官ではない。過失だろうとそうでなかろうと、起こったこと以外は何も考慮しない。与えられるそれが悪意かそうでないかなど、考えることすら疲れてしまった。
 そうだ。もう、疲れたのだ。

 ――ゴンッ。

 何がきっかけになったのかはわからない。だがその瞬間、甚爾の拳から音がした。
 予備動作なく奮われた甚爾の拳は、目の前にいる男に当たって、嘲笑に歪む顔をさらに歪ませる。その歪んだ面が認識される前に、男は派手な音を立て、訓練場の壁まで吹っ飛んで行った。

「なッ……」

 誰かが絶句した。息を呑んだ。
 声が聞こえる。「殺せばええのに」なんて、軽く言いのけたそんな声が。

 ――強いヒトってのは、なァんでもしてええんやで。
 ――家のヤツらにムカつくことされたらな、殴ったらええんよ。ハラたつこと言われたら、殺したらええ。
 ――できるんやから。

「オマエだろ、っつってんだよ」

 ずかずかと男のもとまで大股で寄っていき、顔面を抑えてうずくまる無様な姿を見下ろす。

「呪霊を逃がしたのも、呪物を食わせたのも、全部、オマエらだろうが」

 それは初めて甚爾が言えた言葉だった。
 蜂の巣をつついたような喧騒がたちまちに広がって、誰かが走ったり叫んだり、悲鳴をあげたり怒声をあげたり、そうした音が甚爾の耳を通過して消えていく。数人の男たちが甚爾を止めようとまとわりついてくるのを腕のひと振りで払い除ければ、騒ぎがいっそう大きくなる。
 顔を歪めてヘンな呼吸をしているこの男もまた何かを叫んでいる気がしたが、甚爾には聞こえなかった。何もかもどうでもよかった。

「これ、飲めよ」

 片手には直哉をかかえているので、甚爾は仕方なく男の胸ぐらを掴み、無理やり体を立たせて壁に押しつけた。
 呪物を飲んだ人間をどう対処すればいいか、甚爾は知らない。知っていたとして、呪力を持たない甚爾がどうにかできる範疇ではないだろう。だから本当は穏便に、呪物を持ち出した元凶に対処法を聞くなり、治療を手配させるなり、しようと思ったのだが。――まァ無理か。当たり前だ。コイツらが猿の言い分を聞いてくれるわけはない。よしんば聞いてくれたとしても、弱りきった次期当主候補筆頭というこれ以上ない餌を前に、殺すか生かすか傷つけるか治すかああだこうだと綱引きの議論を始めるのは目に見えている。
 ならばコイツも直哉と同じ目に遭えばいい。そうすれば死に物狂いでどうにかしようとするだろう。これでも一応当主の息子だ。今家に残っている誰も直哉を助けようとしないのなら、価値の高そうな人間一人一人を順繰りにだめにして、医者なり反転術式使いを呼び寄せればいい。
 呪物を咥内にねじ込もうと、胸ぐらを掴んでいた手をひらく。

「――甚壱さんッ! 甚壱さん来てください、こっちです!」

 ふと、甲高い声が聞こえた。甚爾が首だけを動かすと、重い体積が廊下を歩いてくる足音が聞こえる。
 ――ああ、帰ってきたのか。

「何をしている」

 甚爾の兄――甚壱が姿を見せた途端、壁に押しつけられた男がほっと安心したように力を抜いたのがわかった。
 低く鼓膜を揺する声に、こんな声だったか、と思う。甚爾が甚壱と正面から顔を合わせたのは、およそ数年ぶりのことだった。

「甚、壱さんッ! コイツが、この猿――ガッ」

 だが、たった一人の他人よりも遠い兄が来たところで、甚爾が止まるわけはなかった。
 男の胸ぐらを掴み直し、甚壱に向かってぶん投げる。そのまま体ごと向き直ると、飛んできた男を受け止めきれず軽くたたらを踏んだらしい甚壱が甚爾を見た。その目。いつも嫌いだった。甚爾を憐れむような、同時に「なぜオマエが俺の弟なんだ」と言うような、父が当主の座を下ろされたのも母が死んだのも親族にデカイ顔をできなくなったのも、全部丸ごと甚爾のせいみたいな目で見てくるから。

「オマエ、何をした。ソレは……直哉は、どうした」

 きちんと説明してやるつもりはない。どうせ聞きやしないからだ。

「直哉は、コイツらのせいで呪物を飲んだ」
「……は?」
「当主か医者を呼べ。どっちかが来るまで、俺は一人ずつ、コイツらを壊す」
「何を言ってる?」
「邪魔するなら、オマエも壊す」

 気配から、甚壱の困惑が伝わってくる。甚爾はいつもひどく無口で、特に甚壱に対しては自分の考えや思いなど一度も語ったことはない。女中の誰かに、言葉足らずなのだ、と言われたことがある。あなたは賢いからきちんと話をすれば、猿だなどと馬鹿にされることはないのに、だなんて。けれど、甚爾は生まれたときから無口なわけでも、言葉足らずなわけでもなかった。

「甚壱さん、猿の言うことなんか聞くな! オマエ、馬鹿にするなよ。このッ――」
「オイ、やめろ!」

 立ち向かってくる男を、甚爾は蹴りで訓練場の外まで吹っ飛ばした。
 恐れを孕んだ瞳が一斉に甚爾を射抜く。ふしぎな心地だった。存在ごとなかったことにされ、いつもまるで透明人間みたいに誰にも顧みられなかったおのれが、今日はたくさんの瞳に映っている。認識されている。「猿」という評価が、別のモノに塗り変わっていく。

 ――俺、バケモンみたいな甚爾くんがいっちゃんスキ。

「直哉」

 甚爾の殺気に呼応して、甚壱がほとんど反射的に体を構える。訓練場の外からわらわらと人が集まり、ガランガランと警鐘が鳴り響く。群れ始めたニンゲンたちの中には、扇を筆頭にこれまで留守にしていた炳の姿があった。ちょうど会合から帰ってきたところ、騒ぎを聞きつけ駆けつけたのだろう。

「オマエ、なんでこういう時ばっか、いつも寝てんだよ」

 組み立てていた予定が全部狂った。こんなふうになるはずじゃなかった。けれどなってしまったのだから仕方がなかった。これも結局は、直哉の予言通りなのか。
 その日。甚爾は、日が沈むまで禪院家を蹂躙し尽くした。

「――甚爾くん」

 血と肉と骨と、命以外のあらゆるものを破壊し尽くされ息も絶え絶えの人々を見下ろしながら、甚爾は屋根の上で直哉をかかえていた。
 甚爾を抑えつけようと向かってくる男たちをちぎっては投げ、ちぎっては投げ。そのうち左手を空けるために直哉を背後に安置して、甚爾は一度も直哉に誰の手もふれさせず禪院家を半壊させた。こちらに向かうことのなかった女子供には手を出していないから、あくまで半壊である。
 直哉は途中から目を覚まし、甚爾がその肉体を奮うのを黙って見ていた。その時が来れば喜んで歓声をあげ手を叩くのだろうという甚爾の予想と反して、直哉はじっと縮こまったまま、呼吸もまばたきすらも惜しんで、ただ瞳だけを爛々と煌めかせ甚爾の一挙手一投足を追っていた。今この瞬間が、何事にも変え難いとくべつな時間だとでもいうように、直哉はひと時たりとも甚爾から目を離さなかった。

「甚爾くん、やっぱし、カッコええなぁ……」

 薄らぼんやりとした琥珀に夜を映し、直哉はまばゆそうに甚爾を見上げる。
 この騒動は直毘人にも伝わっている。おそらく今夜中には禪院の知る反転術式使いを引き連れて帰ってくるだろう。きちんとした治療を受けられれば、直哉もすぐにいつものクソ生意気なガキに戻るはずだ。

「これで、満足したかよ」

 ここまで何もかもをめちゃくちゃにしたら、甚爾はもう禪院家にはいられない。こんなことが起きずともいずれは出て行くつもりだったのでそれはかまわないが、もはや禪院にとって反逆者となった甚爾は、直毘人が帰ってくる前に直哉を適当な場所に置いて、一刻も早くこの場を離れなければならなかった。
 でも、そうやって一瞬誰の目からも離れたうちに、ゆらゆら揺らめいている黄金の瞳の中にある小さなロウソクが、ふっとかき消されるかもしれない、と思って。甚爾はいつまでも、直哉をかかえたまま禪院家を離れられずにいた。

「うん。俺、いま、サイコーの気分」
「最高ではないだろ。オマエ、死にかけてんだぞ」
「へへ……。俺が死にかけた代わりに、アレが見られたんやったら、いくらでも死にかけてええかも……」
「……」
「俺、なんやブッ倒れて、それから記憶ないねんけど、……まァ、甚爾くんものごっつ強いんで、もォどうでもええわ。やっぱ俺の、言うた通りやったやろ。もうだぁれも、甚爾くんに、かなわんよ……」
「……そうかもな。オマエ、もう静かにしてろよ」

 夜風に紛れた直哉の呼吸は、相変わらずひゅうひゅうと掠れていた。早く直毘人が帰らないか、もう最初から禪院家に帰らずに病院にでも向かったほうがよかったかと、甚爾は自ら風除けになってやりながら思う。

「甚爾くん、今日、ウチ……出てくんやろ」

 甚爾の言葉をさらりと無視して、直哉は言った。甚爾は少しばかり虚を突かれ、数秒黙って、小さく頷く。

「あのな……。俺の部屋、タンス預金あんねん。せやからそれ、持ってってええよ。センベツ」
「は?」
「そいでな、持ってくとき、アレ、むかしとった観察日記、置いてってな。交換こ、や。そやないと、金は、あげられへん。……あとな、俺、そのうち甚爾くんのとこに顔、見せるから。甚爾くんが本気で逃げへんかったら、俺、会いに行くから」
「……」
「それと……それからな、」

 アレと、ソレと、とうわごとみたいに呟く直哉に、甚爾は「……わぁった。わかったから、もう黙っとけ」と言って、そっと口を覆った。しばらくもごもごとし、パチンパチンと繰り返しゆっくり瞬きながら、直哉は尚も「それから、」と言い募る。

「俺な。いつか、ウチの当主になるから。――そうしたら俺、甚爾くんのこと、雇ったる。甚爾くんが、雇われてもええて思えるように、するから。せやから、それまで、おソトで待っとってね」
「…………」

 甚爾は一寸、言葉を失った。

「……あと、」
「あっ? まだあんのかよ」
「ある。あと……、オンナ選びには、気ィつけえよ……」

 そう言って、直哉はもごもごと口を動かし、とうとう目を閉じる。

「なんだそれ……」

 甚爾はちょっと呆然として、満天の星が輝く宵闇へと目を逸らした。

 ――本当は。甚爾は、少しだけ迷った。自分が家を出るとき、直哉を連れて行くか、連れて行かないか。
 なぜって、このロクでもない家で敵が多いのは、直哉も同じだったからだ。甚爾がこの家の誰のことも信じていないように、直哉もまた誰に対しても信用も親愛もいだいていなかった。それは直哉の生来の性格が原因の一つとしてあったろうし、よりによって猿の甚爾を「誰よりも強い」などと思ってしまったことも要因だろう。
 この家で直哉が認めているのは甚爾だけで、直哉がきらきらしい瞳で見上げるのも甚爾だけで、それは出会ってから数年ずっと変わらなかった。だから、甚爾は何となくこの奇妙なガキを手放すのが惜しいようにも感じていたし、コイツをたった独りここに置いて行くのは、なんだか酷なのではないかと思ってみたりもした。けれどたぶん、その考えはまったく違ったのだと、今の言葉を聞いてわかった。

「オマエさ」

 直哉は相変わらず、甚爾には理解できないことばかり言う。子供らしくないし、可愛げもないし、賢しらなその脳みそに一体どんな知識が入っているのだか、甚爾には何もわからない。

「オマエこそ……、俺の知らねえとこで、勝手にくたばんなよ」

 本当に、気味の悪いガキだ。
 それだけ言うのならオマエこそ、このくらいで死にかけたりするな。無鉄砲に飛び出して、流星みたいに駆けてって、くたばったりするなよ。絶対に。

「……ふへ。そら、俺のせりふ、やろ」

 直哉は笑った。初めて会ったときと変わらない、無邪気な笑顔だった。
 真夜中、甚爾は禪院家を出た。月のない、星が美しく瞬く夜だった。

つづく

— End —

Comments 78

K
kouki3 天前
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かびこ1 个月前

最高すぎてため息と涙がボロボロこぼれまくりました😭🙏 出奔の折に直哉を連れていくかどうか迷ってくれてありがとう直哉よかったね…という気持ちです😭 今後の二人の行く末が楽しみです。素敵なお話をありがとうございます!

1 个月前
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S
stsg side1 个月前
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2 个月前
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雷羅2 个月前

すっごくおもしろかったです。続きをお待ちしてます。

O
o0N2 个月前
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S
Sowo22 个月前
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U
uroco3 个月前

直哉と甚爾の共闘格好良!「ただではくだばらない、という確信もある」に甚爾が日頃相手してて直哉の心身の強さを認めてるんだなと嬉しくなりました。死にかけとはいえ格好良いバケモン甚爾を特等席で見れてよかったね直哉!連れて行こうか迷う甚爾🫶直哉は目的があるので寂しいけどお別れですね…

糖質マン3 个月前

今までずっと神なんていないと思ってたけど、いたわ。ここに(happy3)

ゆ²3 个月前

もう本当に大好きです…😭特に「甚爾は何となくこの奇妙なガキを手放すのが惜しいようにも感じていた」っていう文で涙と辛さと直哉が甚爾をこんなふうにまで変えたっていう喜びで情緒おかしくなりました😭😭続き待ってます😭

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10月の鮭3 个月前
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Sakuria
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