大きなガラス窓から午後の日差しが差し込んで、チラチラと反射する光が眩しい。聡実はちょっと鬱陶しそうに目を細めて、手元のアイスティーを啜る。ストローで一口吸い上げると、既に時間が経って結露してしまったグラスの中で、氷が溶ける音がした。カロン。その音に被せるようにして、狂児が言った。別れようか、と。
「……は?」
聡実がポカンとした顔で、ポカンとした声を出して狂児を見上げる。チラと光が眼鏡に反射する。
狂児は何でも無いような声で「別れようか、俺たち」と繰り返した。
「何言って……」
「そうしよ。その方がええよ」
立て板に水の如く、流れるようにして狂児は勝手に続けた。
「聡実くんもそろそろ就職活動始まるやろうし、ええ加減俺みたいのとは別れた方がええ」
聡実はそれでも何も言えず、唖然としたまま狂児を凝視する。本当に意味がわからないと思った。よく晴れた昼下がり、さっきまでくだらない、他愛ない話をしていた恋人から、こんな別れ話をされるとは思わなかったから。
狂児とは付き合って一年ほどになる。告白は聡実からだった。狂児貯金と称して貯めた金──刺青を消して貰って関係を清算しようとしていたこともあったし、聡実自身、自分の将来を考えて狂児と縁を切ろうと思ったことだってあった。けれど、どうしたって聡実は狂児が好きだったし、それを押し殺して進む未来よりは、狂児と一緒に居られる地獄の方がよっぽどマシだと思った。だから告白した。
『好きです、付き合ってください』
何の捻りもなくそう告白した聡実に、狂児はただ頷いた。うん、ええよ、とそれだけ言って、それから二人は恋人として付き合った。たまに狂児が東京に来るタイミングでデートをして、聡実が大阪に帰って狂児の家に泊まったことだってある。キスをして、セックスもした。手を繋いで一緒に眠った。色んな所に行って、色んな景色を一緒に見た。美味しいものをたくさん食べた。幸せだったと思う、きっと。燃え上がるような恋なんかでは決してないけれど、それでも二人はちゃんと恋人同士として、この関係を順調に育んできた──はずだった。
「別れようってどういうこと」
「そのまんまの意味。言ったやん。これから聡実くん、就活も始まるし、俺みたいのと一緒にいたら要らん苦労背負うよ」
「そんなこと」
「あるよ。絶対」
言い切って、狂児はふと窓の外を見る。チラチラとする光に目を細めた。
「……嫌や」
「そう言わんといてよ、聡実くん」
「意味わからん。僕のために別れようってそういうこと?」
「というより、俺のためやな。この先君が俺のせいで苦労したりすんの見たくないねん」
聡実は今度こそ本当にポカンと口を開いてしまった。
「な……、何やねんそれ、そんな勝手な……情けないこと言うて」
「そうやな、勝手やろ。情けなくてええよ。ごめんな、俺、臆病者で」
「開き直んなや」
「開き直ってるわけとちゃう。……なあ、聡実くん。後生やから、お願い」
狂児の口調はずっと穏やかだった。ずっと前からこうすることを決めていたみたいに。それはもしかしたら、聡実が告白をして、それを承諾したあの瞬間からそうだったのかも知れないと思うくらいに。
後生だから、とまで言われて、聡実は無言になった。僕と別れるために一生のお願いのつもりで言ってるんかこいつ、とひどく腹が立ったけれど、それよりも衝撃の方が大きくて上手く思考が纏まらない。氷が溶けて、水滴がついているアイスティーのグラスを見下ろし、聡実は固まっている。
狂児は聡実の言葉をただ待っている。けれど、「ハイ」か「イエス」か頷くか、それ以外を聡実が言うことは許されない。そういう空気が横たわっていて、それがますます聡実を苛立たせた。何様のつもりやねん、こいつ。そう思って。
たっぷり数分は沈黙していたように思う。ようやく聡実は口を開いた。
「……別れたら、この先僕が誰を好きになろうが、誰と付き合おうが、狂児が何かを言える権利はあらへん。それでええんよな?」
半分睨みつけるようにしてそう言った聡実に、狂児は太い眉を僅かに跳ねさせる。少し怒ったような顔にも、戸惑ったような顔にも見えたが、すぐに元の何を考えているかわからない、薄ら笑いのような笑みが口元に浮かんだ。
「当たり前やん。俺みたいのと付き合うよりよっぽどええやろ」
「言ったな。ほんまにええんやな?」
「うん」
聡実はまた一度無言になると、不意にグラスを引き寄せて残ったアイスティーを飲み干す。
そして、
「わかった。別れましょう」
と、ひどく冷めきった声でそう答えた。
***
それから一か月ほどが経ったある日、大阪の組事務所で外出先から戻った狂児が見ると、兄貴分である小林が難しい顔をして応接セットのソファに座っていた。見れば、その前の広いテーブルにずらりと写真を並べて眺めている。
「どうしたんです、アニキ」
「おう、狂児。お前戻ったんか」
覗き込むように上からまじまじ見てみれば、その写真にはどれもこれも人相の悪そうな顔が並んでいる。明らかに祭林組と同様、「そっちの筋」の男たちだ。
「……なんかやらかした奴らですか?」
「ちゃうちゃう。ウチの傘下の組に居るそこそこ若い奴ら。まあ若い言うても、ギリ二十代が数人と、あとは三十半ばくらいか……」
「はあ」
「それなりに真面目な奴選ぼうとするとなあ、どうしても若い奴よりはもうちょい上の人間の方が、こう、多少はまともやん?」
ヤクザにまともも何もあるかいな、と内心で突っ込みながら狂児は首を捻る。
「何選ぼうとしてるんです?」
「ん~? あれや、今流行りのマッチングアプリ……いやアプリちゃうけど、まあお見合い的な」
「反社とのマッチングて需要あるわけ無いやん……。誰のお見合いです?」
突っ込みどころが満載過ぎる小林の言葉に尋ねると、小林はあっさりと言った。
「聡実センセの」
「……は?」
「やから、聡実先生。お前も知ってるやろ、ていうか付き合ってたんやろ? 知らんかったわ、言えやお前」
写真を両手に持ち、小林は両方を吟味するように眺めている。
「は……? え、アニキ、もっぺん言ってください」
「だからセンセやて。この間先生から急に連絡来てなあ」
「何でアニキが聡実くんの連絡先知っとるんですか」
「だいぶ前やけど、大阪帰ってきてた先生と偶然会うて……そん時も狂児とこれから飯行く、言うてたな。あー、あの時からもう付き合ってたんやろ? そんなこと知らんから、なんや狂児とまだ繋がっとるんか、今度良かったら俺も飯奢るわ~って適当にライン交換したんやけど」
狂児は呆然として小林を見つめる。いや危機感ガバガバ過ぎるやろあの子、何簡単にヤクザとライン交換とかしとるん……と自分のことは棚上げでそう思っていると、続く小林の言葉はまさに爆弾発言だった。
「狂児、お前別れたんやろ? それも知らんかったわ言えやお前、まあそれは置いておくとして……、先生からなあ、後生のお願いやからって頼まれてん。『僕と付き合ってくれるちょうどええ組関係の人おりませんか』ってなあ。なんやそれ、って面食らったんやけど、とにかく組繋がりやったら組員の男でも、水商売絡みでもなんでもええって言うから、なんやハチャメチャやけどとりあえず探してみるわって言って」
「はぁ!?」
「ほんでもマツリで探すと面倒やろ、何しろお前がおるんやし。せやからちいっと離れたところで、とはいえ一応目の届く範囲で傘下の組からとりあえずピックアップしよか~て」
のらりくらりとした口調でそんなことをのたまう兄貴分に、狂児はこれ以上は無いほどの大声で「あかんあかん!」と写真をひったくった。
「何言うてるんですか、アニキ! あかん、聡実くんにこんなヤクザ紹介するとか正気の沙汰やない!」
「お前こそ何言うてるん、お前みたいなヤクザとセンセが付き合うてたんやから、別に他のヤクザでも変わらんやろ」
「変わるわ!!!」
「うっさいのお。大体何やねん、センセに聞いたけどお前から別れよう言ったらしいやん。ほんならもう口出すなや」
「いやそれは」
「いやそれは、ちゃうねん。カタギのピッカピカの子ぉ引っ掛けて、ほんで都合よくポイっとしたお前に何か言われる筋合いセンセかて無いやろ。ええからその写真返し」
「……アニキ」
「返せ言うてるやろ。どつかれたいんかお前」
狂児の手から写真を引きはがすようにして取り戻す。石のように固まってしまった狂児を一瞥し、小林はガシガシと頭を掻いた。
「……わからんでもないけどな、お前の気持ちも。せやけど後生のお願いってセンセが言うたんや。わかるか、これで俺が断って次にセンセが何しでかすかわかったもんやないぞ。そういう子やってお前がよう知っとるやろ」
「……やからって、そんなアホなこと」
「おーおー元カレがピィピィ鳴きよって。アホなんはどっちや、そうならお前、別れるにしてももうちっと考えてから手放せや」
そこまで言われてしまっては、もう返す言葉もない。無言になって俯く狂児に、小林は言った。
「マ、晴れてセンセが誰かと付き合うようなことになったら一応教えてやるわ」
煙草を咥えて吹かしながら、小林はまた写真を見始める。その背後で、それでも立ち去れずに突っ立っていた狂児が、不意に小林の横から腕を伸ばした。その手が一番端に置かれていた写真を取る。
「狂児、ええ加減に……」
「アニキ。せめてこいつは外してください」
「は?」
狂児が手にしたのは、貴重な二十代ゾーンの若者である。並べた写真の中では唯一言ってよいくらい、屈託ない年相応の笑みを浮かべていて、見た目も悪くは無い。小林は怪訝そうに眉をひそめながら、狂児を振り返る。
「何でや」
「……顔が好かん」
ハッ、と小林が鼻で笑った。狂児をあしらうように手をひらひらと振り、
「元カレの嫉妬なんぞ見苦しいで」
「……そういうんや、……いや、それもあるかも知れんけど」
「あるんかい。お前キッショイな」
「せやけどそうやなくて……上手く言えませんけど、こいつはあかんです」
どうやら真面目にそう言っているようで、小林は煙を吐き出すと、少し考えるよう視線を浮かせ、「……しゃあないな。一旦こいつは外しとこか」と頷いた。
数日後、小林がしっかり素性も調査し(反社なので素性自体は真っ黒だが、それはさておき)、そうして選りすぐりの三人を用意した。
一人目はギリギリ二十代、聞くと元暴走族のトップを張っていたらしい。「組でしっかり礼儀も叩き込んどいたから、センセに失礼なことも無いと思うわ」と言われて渡された写真には、いかつい顔が映っている。とても二十代には見えないな、と思いながら、聡実はひとまず会わせてもらうことにする。
「ウチがケツモチしてる喫茶店、そこのマスターも俺らみたいのに慣れてるし、センセのお見合いの時は貸し切りにして貰うからそこ使って」
「わかりました」
「あと一応俺もおるようにするわ。隅っこのボックス席におるから」
「そんなんええのに」
「あかんあかん、カタギとヤクザ二人きりにさせるわけにいかんやろ。まあマスターもおるから大丈夫やと思うけど……」
「いや、小林さんやってヤクザやないですか」
思わず突っ込む聡実に、小林は本当に今気が付いたような顔で「そうやった」とふざけたことを言った。
そうして当日、聡実が「本日貸し切り」とプレートを提げているドアを開ける。マスターがこちらを見るなり、カウンター席に案内してくれた。
「岡さんですね。小林さんから聞いてます」
「あ、はい……お邪魔します」
いかにも昭和の純喫茶という風情で、静かなジャズがかかっている。照明も敢えてそうしているのかやたらと暗い。隅のボックス席に目をやると、人の気配がある。誰かまではわからなかったが、多分小林だろう。
そうこうしているうちに、一人目の見合い相手がやってきた。やけに緊張しているようで、「失礼します!」と無駄にデカい声が響き渡る。
「……こんにちは」
聡実がペコリと頭を下げると、男は背をピンと伸ばして「ちわっす!」と直角に頭を下げた。礼儀を叩きこんだとは言っていたが、なんか方向性ずれてない? と聡実は思いつつ、隣の席を勧める。
「あの、会うてくれてありがとうございます」
「こちらこそです!」
「はい、あの……じゃあ、えっと、質問してもええですか?」
「勿論です!」
「ええと……ご職業は」
途端、ボックス席の方から「ブッ」とコーヒーを噴き出す声が聞こえてきた。
「え、ご職業……?」
男も男で困惑したような顔をしている。
「あ、あの、自分、祭林組の傘下のモンで」
「ああ、そうやった。ごめんなさい、うっかりしてました」
「いえ!」
「えーと、じゃあ……前科あります?」
またボックス席の方から噴き出す声。
男はまた困惑気味に、
「いえ、無いです! こう見えて自分、スピード違反で切符切られたことくらいしかありません!」
「へえ。それは……」
聡実は一度言葉を探すように小首を傾げて、
「……綺麗なヤクザですね」
「ブッハ……!!」
ボックス席からヒィヒィ言う声が聞こえてくる。そんなおもろいか?
「ありがとうございました」
「終わりですか!?」
「はい……結果はまた後日」
「結果……?」
男は終始困惑した顔のまま店を立ち去った。
一人残った聡実は、静かにジャズが流れる店内で、マスターが出してくれたジンジャーエールを飲みながら「狂児は前科二犯やったよな、確か。今の人は無しやな」とぼんやり考えていた。
二人目はミナミのキャバクラや風俗を統括している男だった。
「センセが水商売絡みでもええって言うとったから、その界隈でとりあえずこいつ。口が上手いからそこそこおもろいと思うで」
渡された写真に写る男は確かに金髪でチャラそうだった。前回の男よりも年上の三十代らしいが、前回の男よりも若く見えた。とはいえ、年相応なような気もする。
「……なんか、こうして見ると、狂児さんって若く見えましたね」
「あいつは例外や。反社界の色男で有名やったからなあ」
「なんですかそのダッサイ二つ名は」
嫌そうに顔を顰めつつ、聡実はとりあえず前回と同じ店で二人目とも会うことにした。
店に入ると、相変わらずボックス席には人の気配がある。よく見れば二人いるようで、「小林さん誰か連れてきたんかな」と思いながらも、聡実は大人しくカウンターでミナミの男(仮称)を待った。
現れた男は、前回とは違って「こんちわ~」と流れるように隣に座ってきた。随分慣れているな、と思いながら頭を下げる。すると、唐突に男は喋り出した。
「聡実くん、就活中なんやって? 綺麗なお顔してはるなあ、ウチの系列でボーイから始めてそのうち本格的にホストとかどう?」
ガタッとボックス席から大きな音がした。聡実が不審そうにそちらを一度見、それから視線を男に戻した。
「今日は就活やなくて、お見合いに来たんやけど」
「ああそうやった、つい癖で……ごめんね」
「いえ。えーっと、そしたら聞いてもええですか?」
「何でもどうぞ!」
にこにこと笑う男の軽薄さは、出会ったばかりの狂児にちょっと似ているような気もした。聡実は少し考えてから、
「あの、カラオケ得意ですか?」
「カラオケ? なんでカラオケ?」
「……マツリはカラオケ大会あるやないですか」
「あ~、俺らはその下の組やからねえ。そっちはカラオケ大会無いんよ。でも俺は好きよ。結構上手いって言われる、しかも高音が得意」
「じゃあ、なんか歌ってみてくれます? アカペラでいいので」
「え~何にしよっかなあ」
男は楽しそうにスマホからサブスクの音楽リストを眺めて、そのうちの一曲、高音が評価されている某男性アーティストの最新ヒット曲を歌い出した。アカペラでもかなり上手い。
「……上手ですね。裏声が綺麗に出てる」
「せやろせやろ。なかなかええ声やったろ」
はい、と頷いた聡実は無表情のまま言った。
「なので不合格です」
「なんで!? 上手いのに!?」
困惑しながらミナミの男は退出していった。聡実はメロンソーダを啜りながら、「狂児の裏声はほんまに気持ち悪かったからなあ。あの人は無しやな」と考えていた。
そうしてしばらくぼんやりしていた聡実が、マスターに「失礼します」と頭を下げて出て行った直後、ボックス席からゆらりと長身の人影が立ち上がった。
狂児である。小林と一緒に、こっそりと聡実のお見合い(?)を覗きに来ていたのだ。
「アニキ、あいつどついてええですか」
「駄目に決まってるやろ、傘下の人間とはいえマツリの奴や無いんやぞ、お前の部下とちゃうわ」
「あんなニヤケ面して、よりにもよってホストに勧誘とか何してくれてんねん、そんな子とちゃうぞボケが」
「ボケはお前や。どうしても言うから同席させてやったんやぞ、余計なことすな」
「……次は誰紹介するつもりです?」
「三人目はなあ、硬派な男やで。幹部の身代わりにパクられてきっちりお勤めしたムショ帰り。両手の小指無いし、今時珍しいくらい任侠魂に溢れた奴や」
「そんなド級のヤクザ連れてきてどうすんねん!!」
「うっさいわ、お前かてド級のヤクザやろうが」
呆れながら煙草を吸う小林の目の前で、ハラハラとした表情で狂児は聡実が出て行ったドアの方を見つめていた。
三人目の男は見るからにヤクザの男である。スカーフェイスとはまさにこれ、と言わんばかりに顔に大きな傷跡があり、両手の小指は詰めてある。パンチパーマにサングラスをかけて現れた男を一目見るなり、さすがの聡実も思わず体を竦めて、「……あの、ほんまにごめんなさい。お帰り下さい」と言って一言も喋ることなく終わった。
その様子をボックス席から見ていた狂児と小林は、
「ほら! 子犬ちゃん怯えてるやないですか、可哀想に!」
「あかんかったか~。先生、ヤクザっぽい方がええと思ったんやけどなあ」
と小声で間抜けた会話を繰り広げていた。
三人との対面を終えて、後日聡実は小林に呼ばれて組の事務所までやってきた。「カタギさんに来させるとこやないんやけど、悪いなあ」と言いながら応接セットのソファに座る。この時間は誰もおらず、静かだった。思っていたよりもずっと普通のオフィスのような室内を、聡実が興味深げに見まわしていると、「次の奴は先生に選んで貰おうと思ってな」と小林から声がかかった。
「僕がですか」
「おん。その方がええかなと思って。これに纏めといたわ」
写真を纏めたファイルを渡されて、いよいよお見合いっぽいな、と聡実は思いながらそれを広げた。最早指名手配犯ブックにしか見えない。全員人相が悪すぎる。
それでも聡実はページをめくりながら、思い出したように口を開いた。
「この間、ミナミの人と会うてた時、もしかして狂児さんおりませんでした?」
「ああ。バレてたか、やっぱり。ちなみにその後のパンチパーマと会うてた日もおったで」
あっけらかんと小林が言った。聡実は顔を首を傾げる。
「若頭補佐って暇なんですか?」
「んなわけないやろ、仕事ほっぽって来てるだけ。必死やねんあいつ」
鼻で笑った小林に、聡実も気が抜けたように言った。
「そんな必死になるんやったら別れるなんて言わんかったらよかったのに」
「アホやろ」
「アホですね」
「……でも多分、センセのこと大事なんはほんまやで」
ポケットから煙草を取り出して咥えながら、小林はふと真面目な表情になる。
「……なあセンセ、もう諦めたらどうや。俺やって狂児とはちゃうけど、先生みたいなまっさらなカタギの男は真っ当な人生歩んで欲しいって思うで」
諭すような口調に、聡実は小林を見つめ返した。やがて、
「誰でもええんです。狂児さんやないんやったら誰でも」
とはっきり言った。小林が煙を吐き出して真っ直ぐ聡実を見る。
「真っ当な人生なんて、狂児と付き合ってた時にそんなもん、捨てる覚悟もできてました」
透き通るその声が、透き通る決意を示しているようで、小林はしばらく無言だったが、やがて深く溜息をつく。
「ああもう、狂児もほんまにアホな奴やな……」
そうぼやきながら、指先に挟んだ煙草をゆらゆらとさせながら、サングラス越しに聡実を見据える。
「ええか。次で最後や。それで駄目なら諦めて、俺らとは縁切って就活せえよ」
それきり、言うべきことは言ったとばかりに腕を組んで沈黙する。聡実はそれには答えず、また黙々とファイルに目を通す。
不意にテーブルの隅に散らばった写真が目に入った。その一番上の写真を指差す。
「あの、それ……」
「ん? ああ、これは候補外や」
「ちょっと見せてくれませんか」
言うなりその写真を取る。あ、と小林が間抜けた声を上げた。聡実がそれを見つめながら、
「この人、どうですか」
「……あ~。それなあ、元々俺も一番それっぽいかなあと思ってたんやけど。先生と一番歳近いし。顔も悪ないし、聞いた限りじゃそれなりに仕事もできそうやったし、ええやんって思ってたんやけど……狂児が」
「狂児さんが?」
「いっちゃん最初に写真並べとった時に、こいつの写真だけ抜き取って、『アニキ、せめてこいつは外してください』って言ってなあ。知り合いってわけでも無いやろうけど、『顔が好かん』って言うだけで。ようわからんけど、あいつそういう勘は結構当たるんよ、やから外しといた」
聡実はもう一度写真を見た。確かに若い。やや童顔で、人懐っこい笑みで笑うその顔は、少なくとも今まで会った男たちに比べて親しみやすそうだと思う。
「……こいつは外してくださいって、狂児さんがそう言ったんですか」
「おん」
「それやったらこの人にします」
迷いのない口調で言い切って、写真をテーブルに戻した。小林は一度大きく目を見張る。そのうちに段々と表情が崩れ、
「……わざとやろ。狂児が嫌がるから、わざわざそいつを選ぶわけや。わっるい男やなあ、先生」
くつくつと喉の奥で低く笑いながらそう言った。聡実は目を伏せるようにして笑った。皮肉っぽく唇の端が持ち上がって、ひどく大人びた笑みだった。
「わっるい男に惚れてますからね」
聡実は、四人目の男とは二人きりで会わせてくれないかとお願いした。小林は呆れたように「センセも強情やな。そんなに狂児に嫌がらせしたいんか」と言い、聡実は何と答えるか考えるように眉を寄せて、結局「……それもありますけど」と素直に零した。小林は大笑いする。
「センセのそういう潔いとこ、俺も好きやで」
はあ、と無気力に返事をしながら、聡実は続けて、
「せやけど……それだけやなくて、ほんまにこれが最後なら、僕もちゃんと話してみようって思うんです。……どうせ狂児さんは僕の所に戻ってきてくれないんやから」
小林は驚いたように目を瞬かせた。一瞬の間があって、
「……センセのそういう腹の括り方も嫌いやないで」
「はあ……ありがとうございます」
「まあ、マスターもおるし大丈夫か。その日は狂児も行かせんようにしとくわ」
「お願いします」
頭を下げた聡実に、小林はサングラスの奥の瞳を眩しそうに細めていた。
その日、喫茶店のドアを開けると、既に男が一人カウンターに座っていた。店に入ると、「聡実さん? 初めまして」と満面の笑みで挨拶される。少し釣り上がったような目が猫みたいで、聡実は内心で勝手に「猫目さん」とあだ名をつけた。
「お待たせしてすみません」
「全然。なんか飲みます? 酒……はこの店出してないんやっけ。なんか適当でもええ?」
「あ、はい……」
「マスター、ジンジャーエール二つちょうだい」
気さくな様子で注文を通しつつ、聡実に座るよう促してくれる。隣に腰かけて、猫目を見上げた。目が合うと、ニコニコと屈託のない笑みを浮かべてくる。かつてないほど愛想の良いヤクザだ。
「小林さんから打診されて、男やって聞いとったけど、まさかこんなに綺麗な人やと思わんかったわ」
「え?」
「あ〜ごめん、こういうん言われるの嫌?」
「……嫌っていうか」
「俺そんなにお世辞とか上手い方や無いから、本心やで」
「そうですか……」
「反応うっす!」
そう言いながらも気を悪くした様子もなく、猫目はマスターが出したグラスを二つ受け取ると、一つを聡実に差し出してくれる。お礼を言って受け取り、とりあえず一口飲む。そろりと見ると「ん?」と笑顔のまま首を傾げられた。
「あの……小林さんにお願いしといて何ですけど、良かったんですか」
「何が?」
「いや、その……僕と、こんなお見合い? みたいなん」
「え〜俺は全然ええよ。言うたやん、こんな綺麗な人やったんやって。大歓迎やで」
「……それならええんですけど」
「聡実さん、ほんまにさっきから反応うっすいな〜! おもろいわ」
本当に面白そうに肩を揺らして笑う。それから話題を切り替えるようにして、
「なぁ、好きな食いもん何? 趣味とかある?」
「え?」
「一応お見合いなんやから、それっぽく話そ。普通に聡実さんのこと知りたいし」
「……はあ」
それから猫目とは普通の世間話のように会話した。これまでで歳も一番近いせいか、盛り上がるというほどでは無いものの、それなりに話が弾んでいったのは意外だった。恐らく、猫目のコミュニケーション力が高いのだろう。途中、聡実は「ヤクザなんか辞めても普通に働けそうな人やけどな……」と思ったりもしたが、言わないでおく。
ひとしきり会話して、ふと沈黙が訪れた。グラスに口をつけながら、これまでで一番長く話したな、と聡実が思っていると、不意に猫目が「聡実さん、知っとった?」と口を開く。
「なんですか?」
「俺ら、聡実さんの見合い相手ってことで来とるけど、小林さんからは絶対恋仲にはなるなって言われてること」
「……はい?」
「おかしな話やろ。昔マツリでも世話になったことのある人やから失礼のないように、でもカタギやからそんな仲になるんは厳禁、ってな。それ何のための見合いなん? ってようわからんけど、とにかく厳しく言い含められとってさ」
「………」
「聡実さんがどうなんかはわからんかったけど、小林さんはあんたにほんまに恋人作らせる気なんか無かったんやないかな。まあ俺も詳しいことは聞かへんかったけど」
聡実はグラスを両手に持ったまま、細く吐息した。「……そうですか」と呟く。不思議と騙された、という気はしなかった。それは多分、この間小林から「先生みたいなまっさらなカタギの男は真っ当な人生歩んで欲しい」と言われたせいでもある。
真っ当な人生に、当然ヤクザなんて存在は邪魔でしかない。あんなふうに諭してきた小林が、本気で聡実とヤクザを恋仲にさせようなんて思うはずがない。
恐らく最初から、面白がって協力してくれただけだ。そもそもが茶番だった。それに腹は立たない。立たないが、それでも虚しくはなってくる。多少の悔しさもある。
──どこまでいっても、ヤクザの手の平で転がされているようで。
俯いた聡実の横で、猫目がのんびりとした声で言う。
「せやから俺も、そんなつもり無かったんやけどさぁ。でも今日話してみたら、聡実さん普通にええ人やし、綺麗やし。ほんまに付き合ってみてくれへんかなあって思ったよ」
「は?」
思わず聡実は顔を上げた。猫目は相変わらずニコニコと無邪気な笑みで聡実を見つめ、それからグラスを置いているコースターの裏にボールペンで何かを書き込み、聡実に渡してくる。
「もしその気になったら連絡して。俺、待っとるから」
渡されたラインのIDと、猫目の顔を交互に見遣る。猫目はふっと笑うと、「ほなまた」とスツールから下りて店を出て行った。
残された聡実は、もう一度コースターに目を落とす。喋り方や声、顔の作り、会話の仕方。どれを取っても狂児とは似ても似つかなかった。でも。
(……全然ちゃうけど、ああいう人が相手でもええんかな)
魔が差したようにそう思った。多分この時、聡実はいい加減疲れていたのだと思う。聡実のためだと言って振った狂児にも、真っ当な人生をと説いて、協力してくれている振りをしながらこんな茶番をお膳立てした小林にも。
待っとるから、と言われた猫目の言葉を思い出す。
「もう、なんでもええか……」
ポツリと独り言がその場に落ちて、聡実は残り少なくなっていたジンジャーエールを飲み干した。
***
「そういや狂児お前、あの件どうなった」
「あの件?」
「ヤクの取引しようとしてた奴ら。身元割れたん?」
小林に言われて、担当している店の売上帳簿を計算していた狂児がラップトップから顔を上げる。ああ、と憂鬱そうな声を出した。
「進展無いですわ。ほんま上手いこと逃げられて」
「まあ実際に取引ある前に潰せたんやからとりあえずはええとしてもや。あの抜け道のルート知っとるのなんて限られとるやろ」
「そうなんやけど、組ん中に怪しい鼠はおらんかったので、どっから漏れたんか」
半年ほど前、祭林組の管轄にある港で薬の取引が行われるという情報を狂児が入手して、実際に行ってみればすっかりもぬけの殻の船だけが取り残されていた。マツリに見つかったことがわかったのか、直前に逃げたらしく、薬自体は大半が残されたままで、全てマツリで押収したものの、船を調べても薬を調べても出所が判明しない。
取引の規模自体はさほど大きなものでも無かったし、使われた抜け道も封鎖済みで手は打ったが、シマを荒らされたことには変わりが無い。そもそもマツリでお薬はご法度。シマの港から大量の薬が持ち出されては信用問題にもなる。取引自体は潰せたからいいものの、幹部の中だけで内々に調べるよう、組長からも言いつかっていたが、これがなかなかわからないまま時間だけが過ぎている。
「たまーにハジキのデカい取引とかで、ウチだけやのうて下の組にも協力させることあるやないですか。そういう時にたまたま見つかった可能性はありますよ」
「そんなんもう、どんだけ疑わなあかんねん」
「地道に調べるしか無いですねえ。親父からもせっつかれてるんで、とりあえず若いの使ってもうちょい探らせますわ」
「おん」
「ところでアニキ」
「何や」
「……聡実くんの見合いどうなりました?」
「お前ほんまキッショイな」
無駄にソワソワとした雰囲気で聞いてくるので、心底呆れたように小林が返す。
「さあ、最後の奴と会うてからもう一週間くらい経つし、どうにもなっとらんのちゃう?」
「は!? また誰かと会うてたんですか!? 誰!? いつ!? 何で声かけてくれへんかったんですか、アニキ!」
「うっといなあ、知らんわ! お前かて仕事ほっぽり過ぎやったやろ、センセに構うな、もう」
「……せめて最後に誰と会ったんか教えてください」
「あ? あー……」
間延びしたような声で明後日の方を向いた小林が、しかしそのうち諦めて、
「あれや。お前がこいつはあかん、言うとったあの若いの」
「……はぁあ!? ちょ、アニキ! あいつはあかん言うたや無いですか!」
「聡実センセが自分で選んだんやからしゃあないやろ。大体あかんあかんって、何がや。具体的に何か悪いことしたんか、あいつ?」
「……そうやないですけど」
「お前の勘がよう当たるんは知っとる。せやけどなあ、一応こっちでも調査して紹介した奴や、そん時は何も出んかった。せやからどうしようも無いやろ」
狂児はそれで黙ったかと思ったが、
「……せやけど、アニキよりは人を見る目あるもん、俺」
「どつくぞお前。何やねんそれ」
まるで尻尾と耳が垂れた大型犬のような弟分を見て、小林は深くため息をつく。こいつええ歳のオッサンなくせして、そういう顔すると若い頃と変わらんな、と妙に懐かしくなってくる。
小林がそのまま胸ポケットから煙草を取り出した。目配せを受けて、狂児は久しぶりに兄貴分の煙草にライターを寄せて火をつける。紫煙をくゆらせながら、小林は狂児を流し見て言った。
「……狂児、もうええ加減に諦めろや。お前が自分で別れようって言うたんやろ。それならあとはもう、先生が自分で選ぶ人生や」
狂児はバツが悪そうな顔で、じっと小林の言葉を聞いていたが、やがてほとんど囁くような声で「……それでも、あいつはあかんです」と呟いた。
***
久しぶりの夜勤で、眠い目を擦りながら聡実は退勤した。階段から下りると、朝日が眩しくて目を細める。早朝、まだ人もまばらな町を歩き出そうと足を踏み出して──すぐに気が付いた。見間違えるはずは無い。
「……狂児さん」
「おはよ」
いつからそこに立っていたのかはわからない。だが、シフトを把握されていたことはわかる。これだからヤクザはどうかと思う。
「……東京で仕事ですか」
「……ちゃうけど」
「ほんなら何しに来たんですか」
「……ちょっと」
ちょっと。ちょっとって何?
夜勤明け、寝不足の頭では色々な情報処理が追い付かない。無駄に苛々してくる。
「……帰ってください。僕夜勤明けでもう寝たいんです」
「聡実くん、一言だけ聞いて」
「……何を?」
思わず立ち止まってしまった。聡実は内心で舌打ちする。そのまま通り過ぎれば良かった。
「最近会うた奴、居るやろ」
「はぁ? 何の話」
「小林のアニキから紹介された奴。聡実くんと歳も近くて、ちょっと猫っぽいツリ目の男、おったやろ」
「……それが、何ですか」
「やめとき」
「は?」
「あいつはあかん。やめとき」
短く、けれどはっきりと告げられたその言葉に、聡実は目を見張る。そして、
「お前、何様のつもりなん」
明らかな怒りを込めて言った。あまりにも腹が立って、手が震える。
「どの立場で物言ってるかわかっとる?」
「……うん」
「うん、やないわ。狂児が言うたんやろ、別れようって。後生やから別れて欲しいって。……忘れたんか?」
狂児は真っ直ぐ聡実を見つめてくる。その視線にさえ苛々が募る。
聡実は大きく息を吸うと、吐き捨てるように言った。
「僕と別れるってこういうことやで。僕が狂児さんやないヤクザ好きになろうが、付き合おうが、狂児さんが何かを言える権利は一つもあらへん。それでもええって狂児が言ったんや無いか」
一旦口を開いたら、もう止まらなかった。捲し立てるように聡実は続ける。
「狂児さん、僕の未来のためにそう言うたんよな。──自惚れんな。何やねん、何様や、お前。狂児が居ようがいまいが、僕の未来は僕が決めるもんや。お前以外のヤクザと付き合うっていう未来でもな」
「……ヤクザやからあかんって、そう言ってるわけや……いや、それもあるけど、でもそうやないよ」
「ほんなら何やねん。部外者が口出すなや」
「……せやね。部外者やわ、もう別れたんやから。勝手なこと言ってるんはわかっとるよ。それでもあかん」
「………何で? 普通の人やった。普通に話してくれて、普通に……待っとるから、気が向いたら連絡してって、それだけや。何があかんの」
「何でも。あいつだけはあかん」
聡実がどれだけ正論をぶつけても、狂児は破綻したことばかり言う。どう考えても、聡実の言い分の方が筋が通っているのに、それなのに──どうしてこの男の言うことを聞こうと思ってしまうのだろう。この期に及んで。こんなに憎らしいと、確かにそう思うのに。
「……もう、嫌や」
滑り落ちた言葉と一緒に、涙も一粒頬を伝った。聡実は強い瞳で狂児を睨みつける。震える拳を握り締めると、悲痛な声で言った。
「何で? ──何で僕のこと、嫌いになったから別れよう、くらい言うてくれへんかったんですか?」
「……聡実くん」
「嫌いになった、邪魔になった、やから別れようって。そんくらいのこと言えへんのですか。その方がよっぽど良かったのに」
頬をポロポロと伝う涙を止められないまま聡実は狂児を見つめる。けれど、狂児は静かに、ただ静かに、聡実を見下ろしている。
やがて、ポツリと呟く。
「……嫌いになんかなれへんもん。俺が、聡実くんのこと」
「───」
聡実の頭の片隅で、最悪や、と吐き捨てる自分が居る。こんな男の前で泣くなんてあまりにも悔しかった。けれど夜勤明けの、回らない思考とただでさえ寝不足の脳みそは簡単にキャパオーバーして、残るのはただ、自分の感情だけだった。そうして、この感情を振り回すのは、いつだって目の前のこの男だけなのだと聡実は知っている。
「それでもお前は、別れようしか言えへんのやろ」
狂児は無言だった。頷きもしない。
聡実は涙を手の甲で拭いながら、「何やねん、それ……」としゃくり上げるようにして呟いた。
「……いっつも、僕ばっかりや。いつも同じ、……僕ばっかり狂児のこと好きになって、僕ばっかり追いかけてる。十四歳の時も、十八の時も、今やってそう」
この男と出会ってしまってから。この男に見つかってしまってから。聡実の恋はいつも同じところにあって、そこから逃げられない。そういうふうになってしまったから。
でも、狂児がそれを許してはくれなかった。聡実の恋を、同じところに居続けようとすることを。俺と居ると不幸になるよ、そんな安っぽい言葉一つで終わらせたのだ。
──だから、もういいだろう。聡実は思う。お前が手放したのなら、お前の望み通り僕は逃げる、と。
「……もうええわ。二度と僕の前に顔見せんな」
聡実はそう言って、そのまま踵を返した。一度も振り返らずに歩いて途中からは走り出した。
そうしてどうやって帰ってきたのかよく覚えていないまま、自宅について、四畳半の狭い畳の上で膝を抱えてしばらく泣いていた。そのうちに空腹を覚えて、ようやく聡実は膝から顔を上げた。不思議だった。こんなに悲しくてもお腹は減るもんやな、と思った。
お菓子の一つでも無いかとのろのろと鞄を探ると、何かが手に触れた。その感触に思い出した。あの日、あの猫目から貰ったコースター。
引っ張り出して聡実はそれを見つめた。裏に書かれたIDを入力する。そこに出てきたアイコンをタップして、名前を名乗ってメッセージを入れる。
『この間の話、まだ生きてますか?』
すぐに既読がついて、返信があった。
『聡実さんさえ良ければ』
その文字を眺めて、はぁ、と息をつく。
もう、なんでもええ。どうでもええ。
『付き合って貰えませんか、僕と』
ほどなくして返ってきたのは、もちろん! というゆるキャラのスタンプと、それから『これからよろしく』の文字。
それを一瞥して、聡実はスマホの電源を落とすと畳に寝転がる。お腹は減っているけれど、しばらく動けそうに無い。何かを口にする元気もない。
なんだかひどく疲れてしまって、聡実はそのまま目を閉じる。できれば、隕石でも落ちて世界が終わってくれればいい。そんな馬鹿みたいなことを思いながら。
結果的に言えば、勿論隕石なんて落ちてくるはずもなく、世界が終わるなんてこともなかった。けれど、聡実は個人的にピンチに陥っている。文字通り、命の危機に。
何故か?
ヤクザに拉致されたからだ。
***
「初デート、ドライブしようか」などと誘われて、猫目はわざわざ大阪から車を飛ばしてやってきた。
どこに行くかは着いてからのお楽しみね、と本当に楽しそうな顔で言うので、聡実もあまり深く考えず頷いた。それがまずかった。
飲む? と渡された飲み物に何かが入っていたのだろう。いつの間にか眠っていて、次に目を覚ました時、そこは明らかに不穏な雰囲気しか流れていなかった。がらんとして薄暗く、ひどく寒々しい空間。コンクリートの床も壁も天井も、無機質な灰色でやけに埃っぽい。
起き上がろうとして、太い縄状の物で両手が縛られていることに気が付いた。思わず「は?」と声が漏れる。
「聡実さん、起きた〜?」
軽い調子で猫目の声がかかって、そちらを向こうと首だけ動かした。途端、こめかみに何かが当てられる。固い感触。
「動かん方がええで。これ本物やから」
何が、と横目にそれを見て息を呑む。真っ黒に光る拳銃だった。こんな物、初めて見た。
さすがに聡実が固まっていると、猫目は面白そうに言った。
「ごめんな〜、ちょおっと人質になっといてくれる?」
「……人質?」
「そ、アンタのこと餌にして釣り上げたい奴おんねん」
嫌な予感がしてきた。聡実は思いきり顔を顰める。
「誰ですか、それ」
「成田。知っとるやろ、反社界の色男〜言われてるマツリの成田狂児」
いやだからそのダッサイ二つ名は何やねん。ほんまふざけとんのか。
聡実はほとほとうんざりしてきたが、縛られた腕で身動きも取れない。仕方なく猫目を見上げる。
「……帰してください。僕、その成田と何の関係も無いです」
「んなわけないやろ」
「ほんまです」
猫目はまじまじと聡実を見つめる。その釣り上がった瞳が、弓形に曲がり嫌な笑みが浮かんだ。
「イロやったんやろ」
「イロ?」
「『聡実』。あいつの右腕にある名前、有名やで。成田ってなァ、あんなええ面してこれまで決まった女も作らん、隠し子もおらんらしいって、そらもう隙が無くていけ好かない奴やったんやけど、ある時から人の名前のスミ入れよった! って噂になってな。せやけどあいつ、上手に隠すもんやから誰やったかまったくわからんかったんよ。まさか大事にしまっといたイロが、男やったとはなあ」
意外やわ、と笑う男に、聡実は本当に嫌気が差してきて、
「なんかの間違いです。僕は成田のイロなんかやありません」
頑なにそう返しても、猫目はふん、と鼻で笑うだけでまったく聞き入れてはくれないようだし、相変わらずこめかみに当てられた銃も下ろして貰えず、聡実は背中に嫌な汗が伝うのがわかった。人質と言っていたから今すぐ殺されるようなことにはならないだろうが、うっかりこの男が引き金を引いたりしようものなら一巻の終わりだ。
聡実はどうにかして猫目の気を逸らせようと、話題を変えた。
「そもそも、どうして成田を釣り上げたいんですか」
「そんなんアンタが聞く必要無いやろ」
「……あるやろ。少なくとも何で僕が拉致られたんかくらい、聞いときたいわ」
猫目が意外そうに目を瞬かせた。それから嬉しそうに笑う。
「なんや、聡実さん肝据わっとるな~! ええなあ、やっぱり俺、聡実さんのこと好きやで。付き合えて良かったわ」
最早こんなことになってしまってすっかり忘れていたが、そういえば一応この男と付き合ったんだった、と聡実は今更思い出す。
「銃突きつけてる相手に言うことや無いですね」
真っ当な反論をすればますます猫目は機嫌よく笑い、「おもろいなあ聡実さん。なあ、成田と関係ないって言うならほんまに俺のイロになってよ」などとほざいてくる。話の通じない男だ。
「ま、そうやな。時間はあるし、教えたるよ」
猫目は銃は下ろさないままでべらべらと喋り出す。
「マツリは薬はご法度なんよ。当然下部組織の俺らんところもきつ~く言われとってなぁ。せやけど今時ヤクの一つも売らんで金稼げると思う? やっぱりなあ、任侠なんて古いんやから、ヤクザもアップデートせなあかんやろ?」
そんなアップデートはせんでええ。内心で突っ込みながらも、聡実は黙って聞いている。
「やけどそう簡単に組抜けられるもんでもないし、とりあえず副業でな。マツリと関係ない……って言うのもちゃうか、まああんまり仲良くしとらん組の方に昔の知り合いがおってさ。そいつに頼んで、売人やらせてもらうことにしたんよ」
「……組裏切った、いうことですか」
「そんな大層な話や無いって~裏切っとらんよ。副業や言うたやん、二足の草鞋ってやつ」
そんな話が通用するのだろうか、こんな反社で、と疑問に思いつつ聡実は猫目を見たが、猫目は相変わらず話に似つかわしくない爽やかな笑みを浮かべている。本当に、全て自分の思い通りに上手くいっているというような顔だ。
「したらこれが結構上手く行って、俺商売人の才能あったんやな~って、ハハ! もっと大量に捌けるんちゃうかって、なんと組の方から頼まれたんよ。ご指名やで? でもちいっと量が多くてな、船で出すのに税関もすり抜けて行ける港いうたら、マツリのシマくらいしか無い。そうやったらどうすればええと思う?」
「……さあ」
「実は昔マツリの仕事手伝わされた時にな、ちょっとした抜け道見つけてん。そこならマツリの目も緩いしな。せやから教えてやったんよ、このルート使えば行けますよ~って。したら組の奴ら喜んで喜んで。デカい取引になるで、お前もこっちきて幹部になれや、言うてくれてな。大出世やで」
そこで一度言葉を切った猫目は、銃を構えていない方の手で煙草を取り出し火をつけた。煙たくて苦い匂いが鼻につく。
「──やのにさあ」
と、猫目が一段低い声で言った次の瞬間だった。ガッ、という衝撃音があって、聡実は一瞬、何が起きたのかわからなかった。脳が揺れて、頭にジンジンと痺れるような感覚が広がっていく。痺れの後にじわじわ痛みがやってきて、ようやく殴られたのだと気が付く。硬い感触は恐らく拳銃のグリップ、それで殴られたらしい。少しずれてしまった眼鏡越しに見れば、猫目は煙草の煙を吐き出すと、さっきまで楽しそうにしていた笑みを消して、冷え冷えとした無表情になっていた。
「直前でポシャったんよ。誰のせいやと思う? 成田や。あいつどこで嗅ぎつけたんか、取引の日にマツリの人間わんさか寄越しよって! それ見て中止や、中止。誰がやったんかまではバレずに逃げられたけどな、こっちが何か月準備しとった思ってんねん。おかげで大金もパァや。『何成田に嗅ぎつけられてねん』って俺も散々な目に遭うてな、幹部の話も無くなって、組からも出てけ言われてさあ!」
フー、と鼻息荒くそう言った猫目は、心底忌々しそうに吐き捨てた。
「あいつがおらんかったら今頃俺も幹部になって、大金も引っ張って悠々過ごせてたんに。せやからあいつに一泡吹かせてやらな気が済まへんのや」
煙草を咥えたまま、猫目が下から覗き込むように聡実を見つめ、ニイッと笑った。
「どうせもう俺はどこにも戻られへん。捨てられた身やからな。まだマツリにはバレてへんけど、それも時間の問題や。せやからその前に、お前ダシにしてあいつから金取って高飛びしたろうと思ってな」
聡実は無言で男を見つめ返した。愉快そうに男の目が細まった。
「アンタのこと、気に入ったいうんはほんまのことやで。成田がちゃんと金持ってきたら、そのまま一緒に連れてって大事に囲ってやってもええ」
「どう考えてもお断りやろ」
「気ィ強いな。ま、逃げようなんて考えたらあかんよ。この倉庫、入り口一つしか無いし、窓も無い。入口も銃持った奴らが固めとる。成田の金引っ張ったら分け前やる約束で雇った奴らや、俺が逃げ切れるまでアンタと成田はここで可愛がって貰うんやな」
それもう、殺すって言うてるのと変わらんのや無い? と聡実はぐったりと脱力してしまう。殴られたこめかみは相変わらず痛いし、縛られた手首に食い込む縄も鬱陶しい。そして猫目は普通にやばい男で怖い。
なんでこんなことに、と思いながらも、元はと言えば半分は自暴自棄になって……いや、それも辿れば狂児のせいだが、迂闊にも聡実の方から「付き合いましょう」と言ったせいでこんなことになったわけだ。
しかも一つだけわかってしまったことは、狂児があれほど「あいつはあかん」と言っていたのはまさにその通りだったということだけだ。
どこまで行っても狂児の存在がついて回る。理不尽に聡実を振った男なのに、それでもその男が言っていたことも正しかった。狂児にしろ、小林にしろ、この猫目にしろ──本当に、何もかもヤクザの手のひらの上で転がされている。それが一番、聡実にとっては堪える事実だった。
今日は人生で一番最悪の日だ。聡実は泣きたくなってきた。大きく息を吐き出す。
もう嫌や、なんやねん、あいつと一緒にいてもいなくてもこんな危険な目に遭うんやったら何が何でも縋って別れなきゃよかった。こんな別れ損なことあるか?
どいつもこいつも勝手に僕の人生査定しよって。何が別れようや。何が諦めて就活せぇや。何が囲ったるや。ほんま、このヤクザたち僕の人生なんやと思っとるん。
猫目が言う通り、イロやったんなら良かったかも知れん。愛人やったらずっとあいつのそばにおれたんかな。その方がずっとマシやった。どうせこんなことになるんなら。
「……もう僕、あいつと何の関係もないですから来ないかも知れませんよ」
全部どうでもよくなってきて、投げやりに聡実がそう言う。けれど猫目はどこ吹く風だ。
「そら、電話してからのお楽しみや」
そう言うと、聡実のポケットからスマホを勝手に抜き取り、聡実の前に掲げて顔認証でロックを解除すると、連絡先から狂児の電話番号をタップする。倉庫内にコール音が響き渡る。すると、
「聡実くん?」
繋がった。その声だけで、猫目はほらな、と得意げな顔で聡実を振り返る。これ見よがしにスピーカーボタンを押して言った。
「成田、お前ようやってくれたな」
「は? 誰やお前。これ聡実くんの番号やろ」
「その聡実なぁ、今俺のそばで銃突きつけられて怯えとるで」
「……あ?」
電話口から、ぞっとするような低い声が聞こえてくる。
「何、お前。誰? どういうつもりや。聡実くんどうした、何するつもりや」
「そう焦んなや。ちゃんと一個ずつ答えたろな」
猫目は銃を器用にくるくると回しながら、
「一つ目な。小林さんから紹介された時は驚いたわ、噂の『聡実』、こんな綺麗な顔した男やったんやな」
「紹介……、はぁ、お前あいつか」
「あいつ? あいつってどいつやろ。ハハ、なんや成田に知られとったん? 俺も有名人やな!」
けらけらと笑う猫目に、一層不機嫌そうな狂児の声が返ってくる。
「きったない声で笑うなや。ほんで何? 俺がお前に何かした覚えないけど」
「よう言うわ~! 俺の大事な手柄おじゃんにしよって、ほんまお前のせいで全部パァになったわ」
「何の話や……」
と言いかけた狂児が、何かに気が付いたように一拍間をおいて、やけに気が抜けた声で「ああ」と言った。
「お前、もしかしてお前が鼠か」
「鼠ぃ~? そんなちょこまかしとらんて。お前らが間抜けやっただけやろ、気づきもせんで」
「ハー……、ほんでお前、勝手にネタバラシしといて何やねん? わかっとるんやろうな、ただで済まされへんぞ」
「そっくり返すわ。お前こそ状況わかっとらんのちゃう? 聡実の頭に風穴開いても知らんで」
銃口がまた当てられて、聡実は「勘弁してくれ」という疲れきった目で猫目を見上げた。
「……何がしたいん、お前」
「そうやそうや。二つ目の質問な。聡実殺されたくなかったらお前一人で金持ってこい」
猫目は心底愉快そうに、「一億やで」と続けた。
「一億や。三時間できっちり耳揃えて持ってこい。余計なこと考えんなよ、俺だけやなくてちゃんと雇った連中もおる。下手なことしたらすぐ銃ぶっぱなすような奴らや、お前が誰か連れてきてもすぐわかるからな」
そうしたら聡実は死ぬで、と言う言葉に、電話の向こうで狂児は一度無言になった。その沈黙が、狂児を困らせていると思ったのか、猫目はにやにやとしている。嫌がらせをしたいと言っていたのだからまあそうだろうが、腹の小さい男やなあ、と聡実はこんな状況でもやけに冷めた目でそれを見ていた。
だが、
「……そんなはした金でええの?」
不意に沈黙を破って狂児が言った言葉に、猫目も聡実も目を見張る。こいつ今何て言った? と言うように、思わず二人で顔を見合わせる。狂児の、いっそのほほんとしたような調子の声が続いた。
「聡実くん人質にしといて一億て、えっらい安いなあ。桁一つ二つ間違えてるんとちゃう?」
「お前、ふざけてんのか」
「ふざけとるわけやないよ。お前こそ誰相手に電話してると思っとるん? ……まぁええわ。一億な。どこ持ってったらええの?」
あくまでも平坦な狂児に、猫目は僅かに戸惑ったようだった。ぼそぼそと場所だけを伝える声が、さっきよりも少し弱い。
「……ふ~ん。そんなとこに隠れとんの。お前の持ち物やないやろ、どこのシマ? ちゃんと許可取って使てんの?」
「アホちゃうか? 言うと思ってんのか。許可なんぞ取るわけないやろ、とにかく一億や。三時間やぞ」
猫目は早口で言い切るとそのまま電話を切ろうとした。だが、それを遮るように、「聡実くん」と狂児が言った。反射的に、聡実が電話を見、「はい」と答えていた。それを猫目が慌てたように「おい!」と怒鳴りつける。けれど狂児は猫目など気にしていないように続けて、
「ごめんなあ、怖い思いさせて。すぐ助けにいくから待っとって」
「は……」
聡実が何かを口にするより先に、猫目が電話を切った。ひどく腹立たしそうに舌打ちする。
「な~にが助けにいくから待っとって、や。あいつヒーロー気取りか?」
ほんまにな。誰のせいでこうなってると思っとんねん。聡実は心の中だけで呟いて、はぁ、と深く溜息をついた。
***
狂児は二時間ほどで現れた。入口の重たそうなドアが開いて、銃を持った男五人に囲まれた狂児がそこに立っている。手には銀色に光るアタッシュケースを持って、背中に銃を向けられた状態で、猫目と聡実の前まで歩くと、何を考えているのかわからないいつもの薄ら笑いを浮かべたまま「約束通り一人で来たヨン♡」と冗談みたいな口調でそう言った。
「早かったな。ほんまに用意できたんか?」
猫目が不審そうに聞く。
「そら持ってきたよ。聡実くんの命が懸かってるんやから。心配なら中見たらええやろ」
「……そこにケース置いて手ぇ上げろ」
「はぁい」
大人しく頷いてホールドアップした狂児を確認して、猫目は銃口は聡実に向いたまま跪いてアタッシュケースを開ける。聡実も遠目に見れば、偽札でなければ、確かに、大量の万札がその中に揃っている。猫目は一瞬で興奮したように目を輝かせた。
「は、成田お前、マジか! 聡実一人のためにこんだけ金用意して、名前の通り狂っとんなぁ!」
「うっさいなあ、自分が言うたんやろうが、一億持ってこいや~て」
「は、ハハ……! ほんまに一億やん、これだけあればどうとでもなるわ」
銃はそれでも抜け目なく、聡実に向けられている。何も言えずに様子を見つめている聡実に、ふと狂児の視線が向いた。目が合う。すると、これまでの腹の読めない笑みとは違う、聡実を安心させるような優しい表情で狂児が一度小さく頷いた。大丈夫、というように。
そんな視線には気が付かずアタッシュケースをひったくると、猫目は銃を聡実に向けたまま後ろに後ずさっていく。入口のすぐそばまで行くと、猫目は歯を見せて勝ち誇ったように言った。
「じゃあな成田、あとは聡実と一緒にお前はこいつらに可愛がってもらえばええわ」
狂児を囲っている男たちを顎でしゃくり、それから聡実を見て、
「悪いなあ、聡実さん。けど恨むんならこいつのこと恨むんやで」
と、今度は狂児を顎でしゃくった。
お前に言われんでも、もう恨んどるわ、と聡実が顔を顰めたその瞬間だった。パン、と乾いた音で、銃声が鳴り響いて──走り出そうとした猫目の肩に銃弾が命中する。その拍子に、猫目の手からアタッシュケースが転げ落ちた。
「え……」
何が起こったのかわからず、聡実は目を丸くさせた。狂児を見上げると、さっきまで狂児を囲っていた男たちが、今度は猫目に向けて銃を向けている。
「……何しとんじゃおどれら! 向ける相手がちゃうやろうが!」
撃たれた肩から血が流れ、それを片手で押さえながら猫目が叫んだ。けれど、男たちは銃を下ろすことなく、真っ直ぐに猫目に向けて構えている。
「……は?」
聡実が思わず間抜けた声を漏らすと、狂児が振り返った。優しい笑みで「ちょお待っといて、聡実くん」と言いながら、男の一人から銃を取り上げて猫目に近付いていく。硬いコンクリートの床にボタボタと血が流れるのを見、「痛そうやなあ」とのんきな声を出しながら、猫目の前で足を止め、アタッシュケースを拾い上げた。
「ほんまツメの甘いやっちゃな。こいつらが本当にお前の仲間やと思っとった?」
「は……? 何、言うて」
「金で雇った連中はいくらでも金で寝返るで。お前から一億のお零れ預かるより、あいつらやってこの一億丸々貰える方が有難いやろ」
「な……」
「この金はお前のもんやない。こいつらへの依頼料や。──お前を始末するためのな」
言いながら、ポケットから煙草を取り出して咥え火をつけると、煙をひとつ吐き出した。
「あいつらも可哀想になあ、お前みたいなアホな鼠一匹始末するために一億も払わなあかんようになって」
「あ、あいつらって誰やねん」
「察しの悪いやっちゃな。お前が鼠やってた向こうの組や。ウチのシマ荒らして薬売ろうとしてたやろ」
「……は?」
「は? って何が」
「な、何でわかった、あいつらやって」
「何でって、お前が教えてくれたんやろ。この倉庫、どこの組の持ち物か調べがついてへんってほんまに思っとったん? そ~んな秘密基地になるほど上手い場所やないで、ここ」
狂児は種明かしをするように、一つ一つ、丁寧に教えてやった。
電話があった後、狂児はすぐ横にいた若い衆に声をかけた。
「ここ、どこのシマかわかるか?」
猫目に指定された場所を伝えると、若い衆が一瞬難しい顔をしたものの、あぁ、と頷いた。デスクからガサガサと資料を取り出して狂児に見せてくれる。
「この間成田さんから探れって言われた時に見た覚えあります……ああ、これです。こいつらです。そのエリア、普段はほとんど使ってないみたいですけど」
そこにあったのは祭林組とはあまり行き来のない、比較的新しい組織だ。敵対している、とまでは言わないが、仲良くしているわけでも当然無く、仲良くするようなメリットがある規模でもない。
「アニキ」
「なんや」
「シマ荒らし見つかりましたよ。こいつらです」
狂児が資料を渡すと、呆れたような声で小林が言った。
「……なんや、大したことないやん。こんなんに出し抜かれたん?」
「ほんまですねえ、ほんで、鼠はこいつです」
デスクの上に写真を置いた。狂児が「こいつはあかんです」と言っていた、猫のような目で屈託なく笑う男の写真。その男に煙草を押し付ける。あ~、と失敗したような声で、小林が天を仰いだ。
「……お前の勘は、やっぱり当たるんやなあ」
「やから言うたやないですか。聡実くん巻き込まれて、ほんま恨みますよ、アニキ」
「わかった、わかった。俺が悪かったわ。ほんで先生のことどないするん?」
「持って行きますよ、一億。聡実くんの命には代えられませんもん」
「そらそうやなあ。ほんなら金、集めてこんとなあ」
「え、アニキ、手伝ってくれるんですか?」
「そら先生巻き込んでしもうたからな」
言いながらジャケットを引っ掛ける小林が、
「落とし前はきっちりつけてもらわんと」
と呟いて、その後を狂児が追った。
それからほどなくして、二人はその組の事務所で「相談」をした。
最初、突然やってきたマツリの二人に、わらわらと半グレ崩れのようなチンピラが「どこのモンや」と絡んできたのも構わず、「組長さんおります~?」と引っ張り出した男は、狂児を一目見るなり目を見開いた。それだけで白状したようなものである。腹芸のできん男やなあ、と呆れながら、
「お宅やったんですねえ、この間ウチのシマでえらい量のヤク捌こうとしてたん。やたら逃げ足が速いもんやから尻尾掴まらんくて大変やったわ」
「な、何の話……」
「今更バレてないと思うか? ところでさっきなあ、ウチが大事に大事にしてるお歌の先生が拉致られて一億持ってこいって脅されたんですわ。そいつ、どこに金持ってこいって言ったと思います? ほらここ。見覚えあるやろ?」
渡された写真の数々と、示された住所に、男の顔がどんどん青くなっていく。
「顔色悪いけどダイジョブ~?」
「な……、これ、誰が」
それまでただ黙って横にいた小林が、は、と小馬鹿にするように笑った。
「鼠使うにしても、もうちょっと頭ええ奴にするべきやったな」
「鼠……」
ハッとして男が顔を上げた。狂児が続けて写真を放り投げる。さっき、煙草で片目だけ潰してしまったが、明らかにあの男であることはわかる。冷や汗を流しながら写真を凝視している男に、狂児はトントン、とテーブルを指で叩いた。
「こいつやったんですねえ、マツリの情報持ち出してお宅らに抜け道教えたん。……で、どうするつもりや。 こいつのせいでシマは荒らされるわ、大事な先生は連れてかれるわ、金は強請るわ、何、まともに戦争したいん?」
次の瞬間、男は転がり落ちるようにしてすぐそばの床に土下座した。
「勘弁してください! あいつのことはもう縁切って関係ないんや」
必死な声で床に頭を擦りつける。それを狂児が踏みつけるようにして、
「関係ないは無いやろ~!! 現にこいつが今かくれんぼしとるんがお前らのシマなんやから。なあ?」
「勘弁してください、勘弁してください……!」
何度もそう乞う男の後頭部が、絨毯にめり込むようにして踏まれているのを、横で小林は無感動に眺めている。煙草を灰皿に押し付けて、
「……他所のシマ荒らしといて、ごめんで済んだら世話ないわ。なぁ、せやけどお宅らも気の毒や。鼠の脇が甘いせいで結局取引はおじゃん、縁切ったと思ったら勝手にシマの持ち物使われる。腹立つやろ? やからこういう話は簡単に行こうや」
「か、簡単にって」
「金や金。金で解決したろって言うてんねん。簡単やろ?」
小林が狂児に目配せする。狂児は踏みつけていた足を離し、しゃがみ込むと、男を覗き込む
「一億」
「え……」
「一億用意せぇ。一時間。ほんでこの鼠、ちゃあんとお前らで始末つけぇや。どうせ裏切者の始末なんか結果は一緒やし、ちょうどええわ。なんや、もう誰も信用せぇへんとわざわざ雇った人間使てるみたいやけど、一億あれば鼠一匹殺すくらいはしてくれるやろ」
「は……」
「それで手打ちにしたるよ」
「な、でもそんな、一億やとすぐには……」
「かき集めればそんくらいあるやろ。なんならこの場でウチのヤブ呼んだろか? 腎臓一個、目ん玉一個くらいやったらさっさと捌いてさっさと売ったるで、鮮度と速さが命やからなあ」
「ひっ、何とかします、何とかしますから!」
「おん、よろぴく~」
ひらひらと手を振り、狂児と小林はそのままその部屋のソファに深く腰掛けた。あとは、男があちこちに電話をかけ、金を集め、猫目が雇った連中の素性を割り出し、話をつけるまでそこに座っていた。
話を聞き終えた猫目はすっかり真っ青になって、口をハクハクと閉じたり開けたりしたが、
「う、嘘や」
「嘘ぉ? 何がやねん」
「そんな時間、無かったはずや。あいつら買収する時間まで……、そんなこと、できるはず無いやろ」
狂児は眉を顰めると、こともなげに返す。
「あったま悪いなあ、お前。できたから今、こうなっとるんやろ」
そして、撃たれていた肩に銃口を押し付ける。ぐっと抉るようにすると、猫目は痛みに叫んでその場に膝をついた。同じように膝をつき、狂児は今度は額に銃口を突き付けると、間近にその瞳を見つめる。冷え冷えとした、少しの温度も宿っていないような目で。
「筋は通して貰わんとな。あの子巻き込んでおいて、簡単に死ねると思うなよ」
猫目にだけ聞こえるような声でそう言った。ガタガタと震え出したのを銃で小突くようにし、それから立ち上がった狂児が後ろの男たちを振り返る。
持っていたアタッシュケースを、そのうちの一人に渡した。
「約束通りの一億やで。ほな、こいつ連れてって。これ以上その子に血生臭いところ見せたくないんや」
アタッシュケースを受け取った男は無言で頷くと、残りの男たちを引き連れて、猫目を引きずるようにして倉庫から出て行った。
男たちが出て行くと、急に倉庫の中は静寂が訪れた。張り詰めていた緊張感が霧散し、聡実は思わず息を大きく吐く。
「──聡実くん!」
すると、さっきまで散々ヤクザなムーブをかまし、この場を支配していた男が慌てたように駆け寄ってきた。あたふたとしながら縄をほどき、そのまま正面から聡実を見つめる。
「遅なってごめん……ここ殴られたん? 痛いなあ、他にどっか怪我しとらん?」
「………」
「怖かったな、ごめんな……あ、眼鏡もちょっと曲がってしもたな、もうほんまあのアホのせいで……」
「………」
聡実は無言で狂児を見つめ返すだけだった。何も言わない聡実に、狂児が眉を下げる。まるで叱られた犬みたいな顔だった。
「……なんか言うてよ」
そう言われて、聡実は口を開いた。
「アホは誰のことや」
「え」
「誰のせいでこうなったと……いや、もう二度と顔見せんなって言うたやん」
「……言われたけど」
「……何、こんなところまで来てるん。しかも元カレのために一億がはした金て、何?」
「……はした金やもん」
「ほんでほんまに一人で来るとか、アホちゃう? 銃持ってたのに、撃たれたらどないするん?」
「……ちゃんと買収したんやからええやん」
「そんなヤクザ理論知らんわ……ああもう」
聡実は疲れ果てたように肩を落とした。
「一億がはした金も意味わからんし、命張ってここまで来たのも、ほんまに意味がわからん……」
「そんなん、やって、聡実くんやもん。なんぼでも出すよ」
「一億でも?」
「一億やから何、そんなんどうでもええよ」
「……僕のためになんぼでも出せるん?」
「うん」
「命も張れるん」
「うん」
「……でも」
聡実は一度言葉を切って、
「それでも、手放したん」
今度は、狂児が黙る番だった。何を考えているのか、何と答えようとしているのか、しばらく沈黙して、やっと口を開く。
「だから手放したんよ」
静かな声だった。あの日、別れようか、そう言ったのと同じ調子だった。
「金なんかなんぼでも出せるし、君のためなら命も張れる。やから手放したんよ」
そう言った。でも、そう言ったくせに、そう言った自分の言葉に自分で傷ついたようにして狂児は項垂れる。
聡実はまた少し無言になったが、
「それで手放した結果、どうなりました? 僕、こんなんやけど。殴られて痛いし、普通に怖かったし」
「……うん」
「わかってます。自業自得やと思ってます。狂児さんに迷惑かけたとも思ってる。でもこうなりますよ。狂児さんが好きやから別れるって意味わからん綺麗事ばっかり言うんやったら。狂児さんの言う通りに綺麗なまんま生きてはいきませんよ」
透き通る声で、宣言するようにそう言う聡実を、狂児は顔を上げてまじまじと見つめる。
「……それ、俺のこと脅してるん?」
「ヤクザ相手にしとるんや。これくらいのことせんでどうすんの」
「君に君のこと人質にされたら……、俺、何もできひんよ」
「それならそばにおってくださいよ。……好きやから別れるんやなくて、好きやからそばに居る、で何であかんの?」
狂児は途方に暮れたように顔を歪めた。何かを言おうとした唇が、それでもまた閉じられる。微かに震えている手が聡実に触れようとして、けれど触れられずにまた引っ込む。
プチン、と聡実の中で何かが切れた。気が付いたら、「狂児!!」と叫んでいた。
「ええ加減にせえや! お前、ほんまはどうしたいん。……僕のこと、どうしたいん?」
狂児はそれでも黙って俯いていたが、少しして顔を上げた。その腕を伸ばして、おそるおそる聡実を抱き締める。最初はそうっと確かめるように、次に、聡実の背が反れるくらいにぎゅう、と強く。そうして小さな声で言った。
「……俺といると、苦労するよ」
「知ってる」
「今日みたいなこと、またあるかも知れんよ」
「治安悪すぎん? 無いようにせぇよ。あっても……今日みたいに狂児が助けに来ればええやろ」
「家族とも縁切らんといかんようになるかも知れん」
「説得するわ。それで駄目なら、そん時はそん時やろ」
「仕事やって、上手くいかんかも知れん」
「僕のためなら一億くらい出せるんやろ。そんだけあったらまあ、……派手に暮らさなければ生きていけるんちゃう?」
「それでええの、聡実くん。君、自立精神旺盛やん」
「自立精神て。別に、どうとでもなるやろ」
「……俺は、怖い」
「何が」
「聡実くんが俺と一緒にいるん、後悔するかも知れんことが」
ほんの少しの間があって、聡実が呟いた。
「……僕は、狂児がそばにおらんことが一番怖い」
狂児の体がびくりと震える。聡実は、自分の腕を回して、狂児を抱き締め返した。
「それに比べたら、なんも大したことやない。どれも。お前のせいで苦労することも、今日みたいな目に遭うんも、……家族と縁切らなあかんようになるんも。仕事が上手くいかんくても」
「………」
「まあ、狂児さえ居ればええとか、そんなふうには言われへんけど……、でも狂児がおらんのやったら、僕の人生は一つもええことなくなる。それだけはわかってる」
狂児はしばらく、聡実の言葉を噛み締めるみたいに聞いていた。無言で、何度も頭の中で反芻して、静かに呼吸する音だけが二人の間にあったが、とうとう諦めたように聡実の肩口に顔を埋める。溢れるようにして、言葉が滑り落ちていった。
「……好き。好きやで、聡実くんのこと。初めて会った時からずっと、いつも好き。中学生の時に歌ってくれてた綺麗な声も、お兄ちゃんなってちょっと低くなった声も好き。飴ちゃんみたいなきらきらした目も好き。……俺、君の顔ほんまにタイプでさあ、いっつも綺麗やなって思ってる。時々生意気なこと言うその口も可愛くてしゃあない。ずっとキスしてたいくらい好き」
これまで堰き止められていたものが一気に流れ出たような、怒涛の言葉の数々だったが、聡実はただ「知ってる」と一言言った。知ってる。知ってた。狂児がそんだけ僕を好きやって。そう呟かれて、それがどうにも嬉しくて、愛おしくて、狂児は堪えきれずに、
「俺、聡実くんの隣に、ずっとおってもええの。ずっと一緒に居たいって思ってるだけやなくて、ほんまにそうしてもええの」
「最初からずっと一緒に居ようって言うてる」
「……なんもしてやれんよ。足引っ張るよ、君の人生の」
「やから何。なんべん言わすねん、僕の人生勝手に決めんなや。それが不幸とは限らんやろ。両手両足全部引っ張られたって、……狂児が隣に居てくれることの方がよっぽど大事や」
「……なんでそんな、男前なん……惚れてまうわ」
「もう惚れてるやろ」
「いつも惚れてまうんよ。君と会う度に、いつも恋してる」
「乙女か……キモ」
「しゃあないやろ。そういうふうにできてんねん」
身も蓋もない言い訳だな、と思いながら、聡実も諦めたような口調で答えた。
「……僕もそうなんやろうな」
「何が?」
「言うたやん。十四の時も、十八の時も、……今やってそう。いっつも同じで、狂児のこと好きになる。僕ももう、そういうふうにできてんねん」
トントン、と背を叩かれて、少し腕の力を緩める。腕の中から、聡実が鼈甲飴みたいな丸くて大きな目で狂児を見上げてきた。その口元に、優しい笑みを浮かべている。
「大好きやから、ずっと一緒におってよ。狂児さん」
途端に狂児の顔がくしゃりと歪んで、ポロポロ涙が零れ落ちた。
「オッサンが泣くなよ……」
「やって~!! 聡実くんが男前やから~!!」
「さっきまでめちゃくちゃヤクザしとったのどこ行ったん……はあ」
大泣きし続ける男を、あやすように撫でてやりながら、聡実はふと思う。今日は人生で一番最悪な日だった。でも同時に、人生で一番最高の日でもあったな、と。
***
それからしばらくして、大阪の狂児のマンションで、二人ソファに並んでのんびりとしている時だった。見るともなしにテレビを眺めながらポテチに噛り付いていると、狂児が「今度なあ」と口を開いた。
「うん?」
「小林のアニキが、今度三人で飯行こうって言うてるんやけど」
「小林さんが? 僕と?」
「うん。この間のこと、聡実くんに迷惑かけたからって……どうする?」
「ええよ、別に。僕も色々協力してもらったし」
そう了承したものの、言い出した張本人である狂児はひどく嫌そうな顔をしている。
「……何?」
「嫌や~! 聡実くんヤクザに近付けたくない、アニキでも」
「狂児やってヤクザやろうが」
「俺はええねん。ていうか、俺はヤクザである前に聡実くんの彼氏やもん」
「まあ、それはそうですけど」
窓から差し込む光が少し眩しいのか、聡実が鬱陶しそうに目を細める。
「カーテン閉める?」
「ううん、明るい方がええから。……狂児さん、そのごはん、いつ?」
「え~やっぱり行く……? 行くか……」
「狂児が嫌なんやったら、小林さんと二人でもええけど」
「は!? あかんあかん! 何言うてるん、そんなん一番あかんわ!!」
「うるさ」
聡実は呆れて、またテーブルの上の袋からポテチを取ると口に放り投げた。もぐもぐと口を動かす聡実の聡実の横顔を見つめて、狂児は無意識のうちに手を伸ばす。そのまま柔らかく聡実の頭を撫でる。
「何?」
「ううん、別に。かわええなあって」
「何もしとらんけど」
「何もしてなくてもかわいいんやもん」
「変なの、狂児さん」
「変なことないやろ。俺、君のこと大好きやから」
すると、聡実が動きを止めた。すぐにその顔が嬉しそうに綻んで、ふふ、と笑う声。
「知ってる」
短くそう返して、またポテチに手をのばす聡実を飽きもせずに撫で続けながら、好きやなあ、と狂児はまた心の中で呟いた。
聡実の声が好きだと思う。聡実のきらきらと色素の薄い瞳が好きだと思う。たまに悪態をつくその唇も可愛らしい。
十四歳の、まだ声変わりもしていないソプラノで歌っていた少年に出会った時もそう思った。
十八歳の、少し背も伸びて、大人の顔つきになった青年に出会った時もそう思った。
会う度に君は成長して、会う度に君は綺麗になって、いつだって同じ君がいるわけやないのに。 それでも、今でも会う度に君を好きだと思う。その声も、その顔も、何をされても、どんなことを言われても。
狂児はいつも、聡実に同じ恋をしている。
そういうふうにできている。

























