「あら! 山田先生、また来てくださったんですか」
対応した看護師が呼んだその名前に、ステーション内の空気が僅かに色めきだった。
まさに今、受付に立つ男のはっきりとした顔立ちや体躯は、ラフな服装であることを差し引いても十分に人の目を引くものだからだ。遠巻きに投げかけられる視線、しかし当の本人はその気配を気に留めることもなく、どうもと素っ気ない会釈を一つだけ送ると、慣れた様子で面会のための受付書を埋めていく。自分の名前から何から、面会相手の情報以外はほとんどがでたらめのその書類は今回もつつがなく受理されて、男はもう一度軽く会釈をすると真っ直ぐ目的の部屋へと向かっていく。
ぬるい空気の漂う廊下を進む間に、時折つんとした消毒液の匂いが漂ってくる。個室の並ぶ病棟の、突き当たりの301号室。入り口の名札をそっと指でなぞって、開いたままのドアを申し訳程度に軽くノックする。
毎週水曜日の、十五時。男が来る時間は決まっていた。彼の家族が現れない日に。彼の友人たちが、大学で大切な講義を受けている間に。
部屋の中央、簡素なベッドに横たわる青年の顔を見つめる。病室の空気が不釣り合いなほど、彼はただ静かに眠っているだけのように見えた。今にも大きなあくびをしながら、目を覚ましそうな穏やかな寝顔で。
バイタル機器が彼の規則正しい鼓動を知らせているのにひとまず安堵をして、ベッド傍の椅子に腰を下ろす。
「……聡実くん、お寝坊さんやなぁ」
少しだけ開いた窓からは、しとしとと静かな雨の音が響いていた。湿度をはらんだ風が一筋吹き込んで、彼の額の髪を撫でる。
サイドテーブルの定位置に置かれたケースから眼鏡を取り出す。普段は自分が手を加えるまでもなくぴかぴかだったのに、しばらくの間ケースにしまわれていたせいで少しの曇りが見える。男は毎週、部屋を訪れる度にそれを綺麗に拭き上げる。そしてそっとテーブルへと置き直すのだ。彼が目を覚ました時に、すぐに手を伸ばせるようにと。目を開いて一番に見る世界が、少しでも曇りのないようにと。
「さて、今日はどんな話聞いてもらおかな。ああそうや……あの店、無くなるらしいわ」
薄いシートの椅子を少しだけ彼の方へと引き寄せて、男は呟くように言った。そのまま、眠ったままの相手へと語りかける。
「……じゃあ、あの日の話にしよか。聡実くんから確認したいことがあるって、言われた日のこと」
まるで子どもをあやすような、それでいて恋人に静かに愛を囁くような優しさをもって、男は言葉を紡ぎ始める。暴力と血と、無秩序にまみれた自分の人生。その中で一生、言葉にすることはないと思っていた一人の男としての自分の感情。
心の一番柔らかいところを開いて見せながら、彼が目覚めるその日まできっと、俺はこんな日を繰り返すのだろうと、狂児は静かにそう思った。
聡実と連絡がつかなくなってから、既に一ヶ月近くが経とうとしていた。
会う頻度で言えばそのくらいの期間が空くことはざらにあったし、その点については狂児はさほど気にしてはいなかった。しかしあの冬の、聡実とファミレスで一夜を明かした日からメッセージは一定の頻度で互いの間を行ったり来たりしていた。現在、彼からの連絡は、五月の連休明けに聡実が東京に戻った頃あたりから完全に沈黙している。こんなにも返事が無いのは初めてのことだった。
それ以降も時々は狂児の方から「元気?」だとか「食べたいもんある?」だとか当たり障りのない連絡は入れている。しかし一向に既読はつかないまま時間だけが経ってしまった。
聡実が望む限りそばにいるとは言ったものの、彼がこんな風に急に雲隠れするような性格だとは思えなかった。自分の存在が不要になる日が来れば、面と向かって「もう会わない」と伝えてくれるような子だと。それは驕りでは無く、自分が聡実に惹かれる本質はきっとそういうところにあるのだと狂児は確信している。だからこそ余計に、突然の音信不通に対して少しずつ不安が募ってきているのだ。どこかで問題に巻き込まれていたり、一人でどうしようもないことを抱えていたりはしないかという不安が。
ヤクザとしての手段を用いてこの謎を解くのは、きっと簡単なのかもしれない。けれどもし聡実のこの行動の背景に、彼が自分に知られたくない柔らかな秘密があったとしたなら。それを力ずくで暴くような真似はしたくないと、狂児は素直にそう思っていた。そしてそう思った自分に対して、ひどく驚いてもいた。
とは言え心配なことに変わりはなく、結局、旧友のいるタイミングを口実にして彼のバイト先に顔を出すくらいのことしか思いつかなかったのだ。
「げっ。狂児お前、まじで来たのかよ」
ファミレスに現れた狂児の姿を確認して、開口一番にマサノリはそんな悪態をついた。邪魔すんじゃねーぞ、なんて言葉とは裏腹に荷物をどさっと片付けて、狂児が座るための席が作られる。手渡されたメニューを受け取り、友人と挨拶を交わしながらソファ席に腰を下ろす間にも、狂児は店内の様子を隅から隅まで確認する。聡実の姿は、見当たらない。
――水曜の夜は、シフト入ってたと思うんやけど
大学の講義が一日中入ってて、木曜は午後からやから。いつかそう聞いたのを思い出す。刺青を消すための貯金は、本来の意図では無いが完遂してしまった。それでもバイトは続けたいと言っていた彼の表情は、晴れやかなものだったのに。
手に持ったメニューには目もくれずに店内を凝視していた狂児を見て、マサノリが徐に口を開いた。
「そういやお前、大丈夫なのかよ。甥っ子」
「甥っ子?」
「あのメガネの店員、甥っ子つってなかったか」
その途端、狂児は自分の胸が嫌な音を立て始めるのを感じていた。
「……大丈夫って、なにが」
「いや、怪我して入院してんだろ? 何で知らねんだよ⋯……ってそうか、姉貴が教えてくれねーのか」
あいつの代わりに入ってるバイトのにーちゃんが、死にそうな顔で言ってたからよ。そう話すマサノリの声が、エコーがかかったように次第に遠ざかっていく。頭の先から血の気が引いていくような感覚に支配されて、狂児は自分の腕が少し震えていることに気がついた。
聡実くん、そう小さく呟いた名前は喉に張り付いたまま声にならない。ぼんやりとした視界に映り込んだカラフルなメニュー表の文字は、一文字だって読み取ることができなかった。
「……じ、狂児!」
遠くで何度も繰り返される音。それが自分の名前で、その声の主がマサノリであると狂児が認識するまでにそれなりの時間がかかった。どのくらいの時間、自分がそうしていたのかもよく分からない。まるで、現実味が無かった。なぜだか思い出したのは自分があの男――組長である南条に出会い、極道の世界に足を踏み入れた日のことだった。あの時も確かこんな風に、足元がぐにゃりと覚束なかったような気がする。何かを踏み外してしまうような、そんな感覚。
靄がかかった意識がゆっくりと呼び戻されるのとともに、取り繕った笑顔を貼り付けてみたものの、そんな狂児の顔を友人は怪訝そうな顔で見ていた。
「ごめん、ちょっと驚いてもうて」
「ったく……気持ち悪い顔見せんじゃねーよ。さすがのお前でも、身内が倒れたら心配か。命に別状は無くてもよ」
マサノリは少し気を遣ったのか、なみなみと注がれたワインのグラスではなく隣にあった水を一口流し込んだ。聡実の同僚から仕入れたのであろう情報は、狂児の気持ちをほんの少しだけ落ち着かせた。聡実は生きている。そう思うだけで不思議と、身体に再び少しずつ血が巡っていくのを感じた。指先が冷えているのを自覚できるくらいには、体温が戻ってきていた。
なぁ、と狂児は呼びかける。マサノリの筆は、先ほどからあまり進んではいない。
「病院、どこか知ってる?」
「……ハァ? 俺が知るわけねーだろ。何だよ、組で調べさせたらすぐだろうが」
「それはそう、なんやけど」
その方法では嫌なのだと、他人に上手く伝える術を狂児は持たなかった。ヤクザの力で彼の元へと辿り着いたとして、それは聡実と自分の生きる世界が決して交わらないのだということを痛感するだけに思えるからだ。今すぐに顔を見てその存在を確かめたいのに、その事実を認めるのが狂児は怖かった。
またもや重たい沈黙の流れ始めたテーブルの空気に耐えかねたのか、アシスタントの誠が「あの」と口を開いた。
「めんたい子先生が、もしかしたらご存じなんじゃないでしょうか。確か同じアパートに住んでますよね、彼女」
明太子? と首を傾げる狂児の隣で、マサノリは合点がいったという顔をする。
「確かに。親でも来てたら何か聞いてるかもな。あの家、壁うっすいからよ」
渦中の人物に憶えは無いが、どうやら聡実と同じアパートに住んでるらしいことは狂児にも見当がついた。聡実の住む、あの四畳半の小さな部屋の防音性能は、僅かな時間しか滞在したことのない狂児にも十分想像はつく。かつて聡実の動向を追っていた頃、調査資料に並んでいた両親の顔をおぼろげに思い出す。公務員の父親と、パート勤務の母親。聡実くんってお母さん似なんや、そう思ったのを覚えている。そんな二人が例のアパートで慌ただしくと入院の準備をしている様子を思い浮かべて、病院の名前くらいは口に出していてくれないだろうかなんて淡い望みが胸の中に浮かぶ。
「でも突然そんなこと聞いたら、俺が完全に不審者だろ。お前のアパートに住んでる大学生の入院先、どこの病院か知ってるか? とかよ」
マサノリが苦い顔をしたのを見て、反射的に狂児は身を乗り出していた。頼む、一縷の望みをかけた懇願が喉の奥からせり上がる。
そんな狂児の様子を、マサノリはひどく面食らったように見ていた。
「……頼むわ、マサノリ」
そう繰り返す狂児の悲痛な声を、いつも飄々とした表情を崩さない男のこんな一面を、ついぞ見たことがなかったせいだろう。
「……あんま期待すんじゃねーぞ。あいつ、昼間は基本的に寝てんだから」
マサノリが渋々打ち込んだメッセージに、すぐに既読は付かなかった。この細い糸を手放すまいと画面を凝視する狂児に、マサノリがもう一度メニューを手渡す。
「お前、何か食っとけ。そんなひどい顔で隣にいられても迷惑なんだよ」
そのぶっきらぼうな言葉の裏に見え隠れする優しさに、親父の息子やな、と狂児は思った。けれどそれは本来のこの男の性根だけではなく、堅気の人間だけが持つ特有の優しさみたいなものも入り混じっているように感じられる。それはいつも狂児が聡実に対して感じるものと、良く似た匂いがした。
狂児は受け取ったメニューへとぼんやりと視線を落とす。食欲の感じられない身体で、左から右へと行ったり来たり。それを何度か繰り返していた時、一通のメッセージを知らせる通知が鳴った。
『眼鏡の大学生の子なら、××病院の301号室ですよ』
『取り乱した母さんが呪文みたいに何回も繰り返してたから、覚えちゃった』
『北条先生も知り合いでしたっけ?』
途端、狂児の手元からメニューが静かに滑り落ちた。それはマサノリが声を掛けるよりもずっと、早かった。聡実の所在を知れたことへの安堵だとか、情報への感謝だとか、そんなことを気にする余裕が今の狂児にあるはずも無い。無我夢中で目的地を調べる。現在地、つまり駅からは二キロほど離れた総合病院がヒットする。
勢いよく立ち上がった狂児を、マサノリが制した。
「明日にしろ、狂児。どうせ夜は開いてない」
「……いや、でも近くには行っときたいから」
やめろ、とマサノリが静かにもう一度繰り返す。
「お前、そんななりで夜中の病院の前うろついてみろ。職質待った無しだぞ。堅気の甥っ子に迷惑かけんな」
「口を挟んですみませんが、俺も同感です」
誠も同意する。二人の声は落ち着いているものの、それでも強い響きで狂児を諫めた。その行動は悪手であると伝えるためだろう。行き場の無い焦燥を抱えながら、狂児は一度視線を彷徨わせてから、観念したように腰を下ろした。
「……明太子、さん? に、お礼言うといて」
背もたれに重たい身体を預け力無く呟いた狂児に、マサノリは「いいから食って黙って寝てろ」とだけ返した。そしてまた原稿へと集中し始める。
ただの甥、狂児にとっての聡実がそんな存在ではないこと、くらいとうに二人は気が付いているだろう。いい大人になって、いいや、これまでもこんな風に我を失って迷走しようとする狂児を見たことがある人間などいなかったのかもしれない。狂児自身だって驚いているのだ。自分の中に、こんな風に持て余す激情が眠っていたことを、知らなかった。聡実をこの世から永遠に失うかもしれない、そんなことを想像したことなどなかったから。
憔悴して黙り込んだ狂児の姿を揶揄うような真似を、マサノリも誠も決してしなかった。二人は黙ったまま白い原稿用紙を埋めていくことのみに注力している。その沈黙が狂児にはただ、ありがたかった。
翌日、狂児が聡実に会うことは結局叶わなかった。
それはある意味当然で、軽くシャワーを浴びて整髪料もさっぱりと落とし、その上にマスクも着用していたとはいえ、平日朝の病院という場所で、自分の存在が浮いていることは狂児自身も肌で感じていた。スーツ姿の中年男性はいくらでもいたものの、纏う空気が明らかに違う。
それに部屋の場所を知っていても、面会の手順や時間は決まっている。マサノリや誠の助言を聞いて、頭を冷やしてから来て良かったと狂児はその時ようやく我に返った。昨晩勢いのままに押しかけていたなら、出入り禁止にされたとしてもおかしくはなかっただろう。
とはいえどうにかして入れないものかと粘る気持ちは捨てられなかった。受付にまとまって置かれていた面会用紙を一枚引き抜いて、待合スペースの人混みに紛れながら。
そのうちに院内へと入って来た女性の姿が目に留まった。そう、岡優子の姿を捉えたのだ。面会開始は十四時からだ。それよりもずっと前に現れた優子は、どうやら一度荷物を預けに来たようだった。顔なじみになったのであろう看護師としばしの談笑して、再び病院を後にする。時間になれば戻ってくるつもりだろう。
狂児は自分に残された時間――今日は遅くとも夕方には事務所へ戻らねばならない――を考え、優子の滞在を見送ってから聡実の顔を見ることはできそうも無いという結論に行き着いた。それにもし聡実の両親と鉢合わせたとして、堂々と名乗れるような、面会用紙に書き記せるような名前も、関係性も、狂児は持っていない。
ただこの日に一つ救いがあったとすれば、病院ですれ違った優子の表情がひどく沈痛なものでは無かったことくらいだろうか。聡実の容態は、もしかしたらそれほどひどいものでは無いのかもしれない。それならばなぜ、返事が来ないのだろうという気持ちが新たに生まれてしまったわけではあるのだが。
答えを知りたくとも、きっとすぐ近くにいる聡実が、今はこんなにも遠い。そのことに行き場の無い歯がゆさを感じながら、狂児は大阪へと戻る他無かった。
帰阪後、感情を押し殺して普段通りの仕事をこなした狂児の心情に、そのわずかな揺らぎに気が付いた人間は、付き合いの長い組員の中にもきっといなかっただろう。帰宅できたのは深夜をとうに過ぎてからで、取り出したスマホにメッセージを打ち込む。
『聡実くん、どうしてる?』
『どこにいる?』
祈るような気持ちで送ったそれに、やはり既読が付くことは無かった。
その夜、狂児は夢を見た。普段は全く夢を見ないたちであるから、稀に夢の世界へ迷い込むと狂児はすぐにこれが夢であると気が付いてしまう。
狂児は空港にいた。この場所には見覚えがあった。東京へと向かう聡実を追いかけて、再び手を伸ばしてしまった場所だった。示し合わせたように自分の姿もあの日と全く同じ格好だ。
けれど現実と違うのは、そこには聡実の姿どころか、狂児以外の生き物の気配が全く感じられないということ。あの日のようにソファに腰掛けてみても、隣に聡実が現れることは無い。
一人分の空席をじっと見つめて、どのくらいの時間が流れただろうか。狂児はふと、胸ポケットの中の何かの気配に気が付いた。指先で引っ張り出したそれは、くしゃくしゃになった一枚の名刺だった。あの日、聡実が見つめていた自分の残像。思わず一つ、大きなため息が口をついて出た。
スーツの袖をまくると、右腕の定位置にはきちんと聡実がいる。良かった、と心底そう思った。たかが夢の中でも、聡実の気配を感じられた事に狂児はひどく安堵していた。
「……ほんまは会いたかったよ、すごく」
かつてと同じ言葉を呟いて、手元の名刺に視線を落とす。 再び縁を紡ぐべきでは無かったのかもしれない、そう思う日もあった。聡実の真っ直ぐな感情をぶつけられる度に、彼のごまかしのない優しさや愛情に触れる度に。けれどきっと何度繰り返したとしても、狂児から聡実の手を離すことはできないのだ。彼を手に入れたいから、と表現するのは狂児の抱える感情に対しては不釣り合いなほど乱暴だろう。狂児が持つ願いははただ、許される限り聡実の隣で過ごしたいということだけだ。それは狂児の人生の中で限りなく穏やかで、息のしやすい時間であるから。
狂児は立ち上がり、かつて聡実のいた席にそのすり切れた名刺を残した。この頼りない糸を、いつかまた彼が見つけてくれることを祈りながら。
「岡のお母さんって、いい人だよな。いやお父さんもだけどさ、本当に」
隣を歩いている丸山のその呟きに、マナは先ほどまで顔を合わせていた優子の笑顔を思い出した。いつでも明るく出迎えてくれる彼女の姿を思い、本心からそうだね、と相づちを打った。
現在入院中の大学の友人――それもとりわけ大切な――である岡聡実の見舞いに顔を出すのが、丸山とマナの火曜日の定例行事になってから、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
二人が聡実の事故を知ったのは、大学の教授を通してだった。外出の帰り道によそ見運転の車に衝突されそうになり、大きな事故は回避したもののその際に頭をぶつけた衝撃で入院している、と。その際に彼の荷物はほとんど、脆いスマートフォンなんかは勿論、事故が原因ですっかり使える状態では無くなってしまったらしい。連休明け早々に連絡の付かなくなってしまった友人をひどく心配しているのを見かねた教授が、彼の家族に了承を取った上で二人に教えてくれたのだった。
事故から聡実はずっと眠り続けている。眠るという表現が適切かはわからないが、マナにも周囲の人々の目にもそのように映った。頭の怪我自体は、数日間は重篤だったものの今は塞がっている。脳の大きな出血なども見られておらず、容態は安定している。ただ意識だけが戻らない状態が続いているのだ。事故に対する心因的なショックも影響しているのかもしれないと、聡実の両親からそう知らされた。深い悲しみの中にあっても、優しく温かな雰囲気を纏う彼の両親は、そのまま聡実の人となりを表しているようでもあった。いつか僕の地元にも遊びに来て、そう言って笑った彼の顔を思い出す。そんな彼の大切な家族にこんな形で会ってしまったことが、マナはただ悲しかった。
「岡ピ、早く目を覚ましてほしいね」
さみしいよ、とこぼした言葉もやはり本心だった。
大学で出来た友人は、付き合いはまだそれほど長くは無い。けれど慣れない東京生活を送りながら互いに励まし合い、時には何も考えずに遊んで笑い合って、小さな秘密を打ち明け合けることもできる。そういう友人が実はそんなに多くは見つからないことを、短い人生の中でもマナは既に知っていた。優しくて、真面目で、考えすぎてしまうところのある大切な友人の身を案じているのは、隣にいる丸山も同じだろう。
その時ふと、丸山が「あっ」と声を上げた。それにつられてマナも振り向く。
「何、どうしたの?」
「いや、今コンビニの前にいた人、山田先生かと思った! よく見たら背以外は全然違ったんだけど」
その言葉を頼りにもう一度振り返る。病院と大通りを挟んだ向かいにあるコンビニ。その前に、背の高い男が立っていた。年は自分たちよりもかなり上そうだが、何歳かと聞かれると上手く答えられない。黒い長袖のTシャツに濃い色のデニムジーンズというラフな出で立ちだが、言いようの無い雰囲気を持つ男だった。その鼻筋の整った顔立ちは、イケメンと呼ぶにも違和感がある。同世代にはいないビジュだな、とマナは思った。
「ねえ丸山、山田先生とは似ても似つかないイケオジなんですけど」
「だから背だけって! でもさ、岡って山田先生と仲良いから、お見舞い来てるかもしれないじゃん」
「それは確かに。先生も背高いし、関西出身だもんね」
「俺、講義取って無いけど、岡くんどうしてる? ってこの前聞かれたもん」
「そんな仲良よかったんだ。水曜の必修、岡ピだけ山田先生のクラスだもんね」
話しながら、マナはもう一度振り返った。例の男は既にコンビニを後にして、二人とは逆方向へ向かう後ろ姿が次第に小さくなっていく。男の進行方向のすぐ先には、二人が来た道、つまり病院へと続く大きな横断歩道があった。あの人も、誰かの見舞いに行くのだろうかとマナは思った。そしてなぜかその時に、未だ眠り続ける友人がかつて打ち明けてくれた、小さな秘密を思い出した。
「……岡ピの好きな人、このこと知ってるのかな」
「岡の? あの、年上って言ってた人?」
「そう。スマホもダメになっちゃったでしょ、岡ピ。相手も訳ありそうだったし、ちゃんと連絡行くのかなって」
「難しいんじゃない? そもそも俺らだって、スマホ無いともう連絡取れないじゃん」
「そうなんだけど! でも向こうも岡ピのこと大事に思ってくれてるなら、どうにかして会いたいだろうなって」
「俺らが岡の好きな人の顔知ってれば、探せるのになー」
目覚めたら、岡に教えてもらおうぜ。そう屈託なく笑った丸山の顔には、いつもの通り裏表が無かった。心の底から、聡実が目覚めることを信じているのが伝わる。こんな時でも明るさを失わない友人の言葉に救われながら、マナは静かに相づちを打つ。そうして、いつもの通りに聡実の無事を祈りながら駅へと歩みを進める。もう一つ、聡実の想い人が彼の元へと辿り着けるようにと願った。
二度目に狂児が病院を訪れたのは、翌週の火曜日のことだ。あれから週末は仕事に忙殺され、きっと今頃は家族も来ているだろうと思いながらどうしようもない気持ちで数日を過ごした。そして今日だって、面会できる当てもないままに病院へと来てしまったのだ。そんな狂児が聡実の友人とすれ違い、病院を出る優子とすれ違ったのは、偶然の幸運だった。面会時間は十七時まで、時刻は既に十六時半を過ぎている。
上手くいく確証は無い。それでもきっと今しかチャンスは無いと狂児は腹を括った。家族の帰宅、聡実の大学の人間関係、教授――全てのピースを無我夢中で繋ぎ合わせ、平静を装いながら淀み無く受付書を埋めていく。患者名、岡聡実。続柄、友人。面会者、山田――名字だけでは怪しまれるだろうと、その下に京二と書き記した。これで最低限のつじつまは合ってくれと願いながら、受付の看護師の元へと向かう。
「すみません、面会を」
「はい。あら、岡さん今日は大忙しですね。……ご友人ですか?」
看護師が狂児に対して投げかけたその質問は、疑いというよりも好奇の色が強かった。大学生の患者に、家族でも無い年の離れた友人の来訪。
「さと……岡くんは、大学の教え子で。僕にとっては年の離れた友人のようなものですが」
こういう時にすらすらと嘘がついて出るのは、ヤクザとしての狂児が培ってきた能力に他ならない。そのことに幾らかの嫌悪は感じながらも、今は背に腹は代えられないと努めて穏やかに狂児は言った。違和感を悟られぬよう、喋り過ぎないように意識を集中させながら。自分が名を騙っている人間を、この相手が知らないことを祈りながら。
狂児の祈りが届いたのか、看護師は納得の笑みを浮かべながら「どうぞ、突き当たりを曲がった301号室です」そう言って入室を許した。十七時までですよ、と付け加えてからまた己の業務へと戻っていく。タイムリミットは十五分。それでも、狂児にとっては十分だった。
突き当たりを曲がった、301号室。それほど長くは無いはずの廊下が、果てしなく遠く感じる。聡実の今の状態を知るのが怖いのに、それを上回るほどに会いたい思いが大きかった。この数日は、連絡がつかなかった一ヶ月なんて比で無いくらい、狂児は不安だった。聡実の存在がこんなにも曖昧になることなど、未だかつて無かったからだ。
ようやく辿り着いた病室にはきちんと聡実の名があり、開いたままの扉の向こうに薄いカーテンが揺れている。
「聡実くん」
何を話そう、そう思うより先に狂児は聡実の名を呼んでいた。返事は無い。
「……聡実くん?」
二度目の呼びかけに対しても、返ってくるのは規則的なバイタル機器の音だけだ。狂児は病室へと足を踏み入れる。揺れるカーテンの向こう側へと回り込み、そしてようやく、聡実の姿を視界に捉える。ベッドに横たわる彼は、静かに眠っていた。
狂児は言葉を失った。その眠りが周期的なものではなく、意識の無いものだということを本能的に察知してしまったのだ。そして理解した。入れ替わり立ち替わりに、家族や友人達が彼を見舞うわけを。これまで連絡が付かなかった一ヶ月もの期間の理由を。
再び身体の中を駆け巡る感情は、今までに狂児が感じたことの無い類いのものだった。泣いたり叫んだりも出来ない。ただ破裂寸前の風船を、解除出来ない爆弾を、一人で胸の内に抱え続けるような感覚。どうすればいい、彼をここへ呼び戻すにはどうすればいい、浅い呼吸の中で頭はそんな答えの無い問いで埋め尽くされる。ただその中で、聡実の身体に目立った外傷が無いことが、狂児を少しだけ冷静にした。原因であろう頭の怪我も、ほとんどは良くなっているようだった。
もう一歩近付いて、聡実の呼吸に耳を澄ます。規則正しく上下する心臓は、か細くも確かにその存在を狂児に実感させた。聡実は生きている。その事実をゆっくりと飲み込んで、狂児は大きく息を吸った。
「……俺が君から離れるのはさ、君の意思がないと、あかんねん」
こぼれ落ちたその言葉は聡実に向けてか、自分に向けたものだったのか。けれど紛れも無く狂児の心からの言葉だった。聡実の意思で狂児の手を離す時、その時にしか狂児は聡実の存在を手放すことができない。こんな風に奪われるのは、それだけは違う、そう強く思った。
秒針を刻む音が、タイムリミットを告げる。
彼の指先に触れると、そこには血の通った温もりがあった。その体温を感じながら、名残惜しむようにその顔を目に焼き付ける。
「また来るよ。明日も、来週も、再来週も。君が目覚ましてくれるまで」
眠る聡実の顔を、とても綺麗だと思った。眼鏡を掛けていない顔はあどけなく、記憶の中の聡実とは少し違うようにも思える。
けれど狂児の知っている聡実の、大体が不機嫌で、それなりに怒って、そしてたまに笑ってくれる時の顔の方がもっとずっと好きだと、そう思った。
高木奈々江が担当患者である岡聡実の病室を巡回したのは、十四時を少し過ぎた頃のことだった。普段は午後の面会が始まる前には終わらせておくものの、今日はその前の仕事が少し押してしまったのだ。水曜日は彼の部屋を訪れる面会者が無いことも、時間の遅れを許した理由の一つだった。足早に病室へ入ると、部屋の中には二人の他に来客者の気配があった。
「すみません、失礼しますね」
定期的に来院する両親か友人だろうと、あまり遠慮もせずにカーテンを開いた奈々江は、ベッドの向こう側に腰掛ける男の姿を見て少し面食らった。そこにいたのはひどく整った顔をした、それでいて底知れない翳りを滲ませた男だった。男は聡実へと向けていた視線を一度こちらへと移して、小さく頭を下げた。立ち上がろうとした男に、奈々江は思わず「大丈夫ですよ」と声を掛けた。
「今は検温と点滴を替えるだけなので、そのままいていただいて構いませんよ」
「……そうですか。ありがとうございます」
奈々江の言葉に、彼は少しほっとしたような顔をして再び腰を落ち着けた。定期的に顔を出す彼の両親とも、友人とも似ても似つかないその男は、静かな病室の中でもひどく浮いていた。奈々江は手早く業務を遂行しながら、日勤の申し送りの際に引き継ぎの看護師に耳打ちされた言葉を思い出す。
『301号室の岡さんにね……俳優みたいな良い男が面会に来たのよ~! 大学の先生だって。教え子のお見舞いに来るなんて優しい方よね』
それはきっと彼の話だ、と奈々江は確信していた。大学の教員? この男が? 訝しむ気持ちを気取られぬように、奈々江は努めて平静に手を動かす。そう思う理由はなぜかと聞かれたら、目の前の男の存在に対して自分が少しだけ怯えているのを感じていたせいだ。看護師としては十分なキャリアを持ち、数多の患者の回復を見守り、そして最期を看取ってきた奈々江からしてみても、これまでに出会ったことのない雰囲気を持つ男だった。
男は奈々江が作業を続ける間も、じっと聡実のことを見つめている。その眼差しに滲む隠しきれない悲痛は、愛する人間の――家族やパートナーや、限りなく自分に近しい存在の――その身を案じる人間の見せるものだ。先生と教え子、その言葉の枠にはめるにはどうしたって無理がある。そう感じて、奈々江は自分の思考を恥じた。患者の、そしてその関係者のプライベートを勝手に詮索することは、この仕事にプライドを持つ奈々江にとっては恥ずべき行為だったからだ。
「少し体位を変えますね。失礼します」
仰向けに横たわる聡実の背あたりのシーツを引いて、右へと向きを返る。クッションを挟み込もうとしたその時、聡実の頭がぐらりと倒れ込みそうになった。けれど、無意識に伸ばしたのであろう大きな手のひらがしっかりとそれを支え、聡実の体勢が安定したのを見て安堵の表情を浮かべた。
「すみません、勝手に触ってもうて」
男が頼りなさげにそう謝った。西の訛り、聡実と同郷だろうかと奈々江は思った。
「いえ、助かりました。岡さんとは、その……」
そんな風に問いかけてしまったことに、奈々江自身も驚いていた。目の前の二人を言い表すための関係性が自分の中に見つからなかったのだ。家族、恋人、年の離れた友人、師弟、かつてのパートナー……そのどれでもあり、どれでもないような気もした。そこに好奇の目が無かったと言えば嘘になる。けれどそれ以上に、ただ純粋に知りたいと思ったのだ。どんな関係性の元で、この男がこんな風な眼差しをするのかを。
男は口元に手を置いて少し考えてから、頷いた。
「大学の教え子ですが……彼のことはそれよりももっと前から、知ってます」
「古いご友人なんですね」
「昔は俺の方が教え子やったんです。職場の風習で、カラオケ大会なんてもんがあって。聡実くんはすごく歌が上手やから」
「あら、じゃあ歌の先生だったんですね」
その光景を思い浮かべて、奈々江は思わず吹き出した。大学の先生になっても、カラオケ大会なんかではめを外すのかと想像すると何だかおかしかった。接待で行かされたスナックで、散々喉を潰して帰って来たときの夫の姿を思い出す。なんだ、意外と普通の男なのかも知れない。目の前の男に抱いていた得体の知れなさが少しずつ薄れていくのを奈々江は感じていた。
「俺が不出来な生徒やったから、聡実くんには心配かけてもうて。大事な予定すっぽかして来てくれたんですよ、本番」
「あら、生徒思いの優しい先生じゃないですか。岡さん、きっと穏やかで良い子なんでしょうね」
「そう……ほんまに優しくて眩しい子なんです。やから……」
男は一旦口をつぐんでから、「高木さん」と奈々江に呼びかけた。突然名を呼ばれて些か驚いたものの、胸元の名札の存在を思い出して納得する。男の視線は奈々江に注がれている。
「……聡実くんは、目を覚ましますか」
それは、これまで相手を変えて数え切れないほど問いかけられてきた言葉。けれど奈々江はすぐに答えることが出来なかった。男の瞳があまりにも真っ直ぐで、その目を見てどうしてか帰りを待つ自分の子のことを思った。もうすぐ五歳になる息子が、涙を流す直前に見せるような瞳。純粋でひどく無防備で、世界に傷つけられることを未だ知らないような。
「岡さんの……岡さんの、容態は安定しています。交通事故とはいえ大きな接触は避けられましたし、頭部の怪我もほとんど良くなって、脳の大きな出血所見もありません。ただ……」
伝えながら、奈々江はどうして自分はこんな言い方をしているのだろうと思った。励ますような言葉を、希望の持てる言葉を、患者やその周囲に与えるのが自分の仕事の一つであるという信念はある。けれどこの男に対して同じように振る舞うのは、子どもを納得させるために小さな嘘を重ねるのと同じことのように思えた。それは彼にとっては、何の救いにはならないのかも知れないと。
「目を覚まさないということは、まだ見つけられていない重大な損傷があるか、あるいは事故の心因的なショックによるものが影響しているのでは……と考えられます」
過去に事故に遭ったことがある人間が、二度目の遭遇で心の傷が呼び覚まされてしまうケースを何度か見たことがある、と奈々江は説明した。聡実にはそういった履歴は無かったが、まだ年若い青年だ。思春期の柔らかな心に大きな衝撃があったとしても何ら不思議では無い。その言葉に男は大きく目を見開いて、聡実の方へと視線を戻した。「なんで」と小さく呟く声が聞こえたものの、それが誰に向けて発せられたものなのかはわからなかった。
沈黙を裂いたのは、男のポケットから響いた振動音だった。スマートフォンの画面を一瞥した男が、静かに立ち上がる。そこで奈々江はようやく、自分が思っていたよりも長い時間が経ってしまっていたことに気が付いた。
「今日は失礼します。ありがとうございました。あの……聡実くんのこと、頼みます」
先ほどまでの沈痛な表情の上に申し訳程度の笑みを貼り付けて、男は頭を下げた。その顔を見て奈々江が思わず発した言葉は、やはり普段の自分らしくないものだった。けれど、伝えずにはいられなかった。
「……水曜日は、ご両親も友人もほとんどいらっしゃいません。また、来てください。そして岡さんと、ゆっくりお話ししてあげてください」
その言葉に、作り物みたいな男の笑みが静かに剥がれて落ちた。泣き出しそうに歪んだその顔を、憔悴を滲ませる背中を、奈々江ひどく歯がゆい気持ちで見送った。また来てください、と心の中でもう一度繰り返す。
この仕事に誇りを持っている。辛くても苦しくても、それ以上のやりがいも感じている。それでもどうしてか今は、残る業務を全て投げ出して家に帰りたくて仕方が無かった。普段は小言ばかりをぶつけてしまう大雑把で優しい夫と、近頃随分とませて生意気になってきた、それでも愛しくて可愛くてたまらない息子。奈々江の全て、守りたいもの、それを両腕にしっかりと抱きしめたくてただ、たまらなかった。
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ゆっくりと瞼を開くと、見慣れたファミレスの中にいた。その景色を眺めて、やっぱりなと狂児は思う。自分以外は存在しない店内。今夜はまたこの夢を見るような気がしていたのだ。そしてその予感は、的中した。前回と違うのは、今夜の狂児は現実と同じ姿をしていることくらいだ。
立ち上がり、従業員用のバックルームへと向かう。タイムカードを打刻する機械やら、手書きのアナログなシフト表の奥にロッカーが並んでいる。一番手前のロッカーに聡実の名前があった。現実の世界で、狂児はこの場所へ足を踏み入れたことはない。それでも現実と見間違うほど、その空間は細部までリアルにできていた。
聡実のロッカーの前で立ち止まり、昼間に看護師から聞いた話を反芻する。聡実の容態、目を覚まさない理由。それが心の防御反応であるとするなら、その原因は自分にあると自覚した時の絶望。それが繰り返し押し寄せる。
いつまで立ち尽くそうとも、今夜も聡実の姿は現れてはくれない。ロッカーの名札を指でなぞって、行く当ても無いまま店を後にする。空にはじっとりと重たい雲がかかっている。その景色はいくら眺めてもぴくりとも動かない。風の一つも吹いては来ない。湿度を纏ったぬるい空気だけが漂う世界。
蒲田の駅前、待ち合わせをした広場、不意に抱きしめられた電話ボックスの前。聡実くんて、公衆電話なんか使ったことあるんかな。垂れ流しの脳内はほとんどが聡実のことで埋まっていた。どんな小さなことでも、些末なことでもいい。彼の言葉で、もっと彼の事を教えて欲しかった。かつて自分が手放してしまった時間の分を、これから先に新しく生まれていくはずの時間の分を。
恐ろしく静かな街を当て所も無く歩きながら、狂児の胸にあったのは後悔の感情だけだった。交差点を越えたあたりから、左右の景色がコマ送りのように切り替わっていく。喫茶店、焼肉屋、スナック、決戦のファーストフード店、
そして――突如、目の前に夜の水辺が広がった。見慣れた大阪の風景。聡実が自分のために貯めた十五万を飲み込んだ鈍色の川。抱き締め返せなかった、出会った頃に比べて大きくなった聡実の身体。名残惜しさを隠し通せなかったあの夜の終わり。
またしてもポケットの中に何かを見つけた。控えめにチリチリとなるお守りはかつて聡実に貰ったものだ。これが原因なのだと、狂児はもう気が付いている。一つ静かに呼吸をして、ゆっくりと振り返る。ページを捲るようにシーンが変わる。蒸し暑い夏の空気、ところどころに規制線の張られた交差点、見るも無残に潰れた、かつての愛車の姿。 もし彼が助手席にいる時だったら――あの日、ぐしゃぐしゃになった左側のシートを見て沸き起こった感情は、紛れもなく怒りだった。二度とこんなことをさせてやるかと振り上げた拳は、聡実を守るためだけのものでは無かった。そうしなければ、気が済まなかったのだ。
狂児はわかっている。もしも今同じ状況に陥ったのなら、自分はあの時のように拳を振るうことは出来ないと。それが聡実の世界を破壊し、もう二度と越えることのできない断絶を二人の間に生み出すと知っているからだ。その時に自分が一番に守ろうとするのは間違いなく彼の生命であり、人生なのだと。
「聡実くん、約束して。俺より先に死なんって、言うてよ」
それはかつて自分が彼と交わした約束とは相反するものだ。矛盾しているのに、そのどちらも狂児の本心だった。けれど聡実のいない世界を生きていくのは、今の狂児には耐えられそうも無かった。
手に持っていたお守りを、ボンネットの上へと残す。今夜の狂児の示す目印。この夢のどこかに聡実がいるような、そんな気がしていた。
狂児の足は、自然と聡実の家へと向かっていた。無秩序な夢の世界の中でもそこに辿り着く道順は、不思議とわかっていた。今度は俺が待つよ、胸の内でそう呟く。それは聡実が目を覚ますまで。何日でも、何ヶ月でも、何年でも。























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