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怒りの行き先

りすけりすけ

【ミドルスクール編】第7話 前話にて思わぬライアン追悼コメを頂き、笑わせてもらいました。ありがとうございます。 よかったな、ライアン!

スタンリーは、その日、弁当箱をナマエに返さなかった。
返せなかった、という方が正しいのかもしれない。

午後の選択学科の教室へ向かう途中、ゴミ箱の中に捨てられていた弁当箱を見つけた時、彼の中の深い部分で、確かにスイッチが入ってしまった。けれど、表面上は努めてそれを隠した。
授業が終わり、放課後になり、いつものようにナマエと並んでゼノの家へ向かう時も、スタンリーはその冷たい感情を表に出さないようにしていた。

ナマエはまだ知らない。
自分が朝早く起きて作った弁当が、誰かの悪意によって持ち出され、捨てられていたことに。そんな可能性に、彼女はまだ辿り着いていない。
ただ、自分がなくしたのだと思い込んでいる。
だから放課後、ナマエは何度も小さく「ごめんね」と言いかけた。口に出さないように我慢しているのが、スタンリーには分かった。
それが余計に腹立たしかった。

「スタン、今日……」
「何」
「……ううん。なんでもない」

ナマエはそう言って、少しだけ笑う。
いつもより控えめな笑みで。
そうやって彼女が我慢する姿を見るたびに、スタンリーは口の中のロリポップを噛み砕きそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。

ゼノの家に着くと、ゼノはすでに部屋にいた。机の上には相変わらず、小難しい資料やノートが広がっている。いつものように、ナマエは丸椅子を引き寄せてゼノの隣に座り、スタンリーはソファに腰を下ろした。
日常は、形だけなら崩れていない。
だが、ゼノはすぐに気づいた。

スタンリーがいつもより静かだということに。
ナマエがいつもより少し肩をすぼめていることに。

「ナマエ」

ゼノが穏やかに声をかける。

「今日は昼食をあまり取っていないね」

ナマエはぎくりとした顔をした。

「えっ、どうして分かるの?」
「君は空腹時、いつもより少し反応が遅くなる。それに加えて、今日は僕の説明に対する相槌の間隔もいつもより長い」
「ゼノ……観察が細かいよ」
「君は分かりやすいからね」

ゼノはさらりと言い、それからスタンリーへ視線を移した。

「スタン。君も同じだ」
「……別に」
「その“別に”は肯定と受け取るべきかな」

スタンリーは答えなかった。
ナマエは少し慌てたように手を振る。

「今日ね、私がお弁当をなくしちゃって。だから、カフェテリアで買ったんだけど……」
「なくした?」

ゼノの目が細くなる。
その反応に、ナマエは困ったように笑った。

「うん。朝、ロッカーに入れたつもりだったんだけど、昼に見たらなくて……私、そそっかしいから、どこか別のところに置いちゃったのかも」
「あんたは朝、ちゃんとロッカーに入れてたぜ」

スタンリーが低く言った。
ナマエが振り返る。

「スタン」
「言ったろ。俺は見たって」

ゼノの視線が、わずかに鋭さを増す。
ナマエは戸惑ったように瞬きをした。

「でも……じゃあ、どうして」
「さあね」

スタンリーは短く返した。
その先を言えば、ナマエがさらに困惑してしまう気がした。

誰かが持っていったのだと告げれば、彼女は怒るより先に、自分のせいだと思うかもしれない。
ロッカーをちゃんと閉めなかったから。
目を離したから。
きっと、人を責めるより先に、自分を責める。
それが分かっていたから、スタンリーは何も言わなかった。
ゼノはしばらく二人を見ていたが、やがて静かに言った。

「見つかるといいね」
「うん……」

ナマエは小さく頷いた。

***

その日の帰り、スタンリーはいつもより早く家に戻った。
父はまだ帰っていなかった。家の中は静かで、暖房の低い音だけが壁にぶつかっている。キッチンのテーブルに、父が置いていったであろうメモがあった。

『遅くなる。夕食は冷蔵庫。』

それだけだった。
スタンリーはメモを一瞥し、上着を椅子にかけた。そして、鞄の中から弁当箱を取り出す。
ナマエとスタンリーの弁当箱。

ゴミ箱から拾い上げた時に、できるだけ汚れないようにしたつもりだった。それでも、匂いは残っていた。食べ物の匂いではない。捨てられたものの匂い。ナマエの料理から一番遠い、冷たくて乱暴な匂いだった。

スタンリーは無言で弁当箱を洗った。
何度も、何度も。
スポンジを強く押しつけすぎて、指先が白くなる。蓋の隅、留め具の内側、底の角。ナマエならきっと、そこまでしなくてもいいよ、と困った顔で言うだろう。
けれどスタンリーは止めなかった。
水音だけが、静かな家に響く。
水が冷たい。
けれど、指先の冷たさより、胸の奥に沈んでいるものの方がずっと冷たかった。
洗い終えた弁当箱を拭き、乾かすために伏せる。

それから、弁当箱を包んでいたクロスを出す。クロスには少し汚れがついていた。洗えば使えるかもしれない。けれど、スタンリーはすぐに思い直した。

これは、もうナマエに返さない。

彼女がこの布を見たら、きっと何かに気づく。捨てられていたことまでは分からなくても、自分の作ったものが粗末に扱われた痕跡を見つけてしまう。
それだけは、嫌だった。
スタンリーはしばらくそれを見下ろした後、財布と上着を掴んで家を出た。

近所の小さな店で、布を選ぶのには時間がかかった。
スタンリーは、こういったものを選ぶことに慣れていない。銃の部品や工具なら迷わない。ロリポップの味も、気に入ったものをすぐ選べる。けれど、弁当箱を包むクロスとなると、何を基準にすればいいのか分からなかった。

派手すぎるものは違う気がした。
子供っぽすぎるものも違う。
結局、淡い青に小さな白い花が散った布を手に取った。小さな白い花が、どことなく彼女を連想させて、気づけばそれを握っていた。
もう一枚はシンプルなネイビーのクロスを取り、会計に向かう。

ふと、会計の近くに置いてあったロリポップの瓶が目に入る。スタンリーは足を止めた。
いつも自分が咥えているものと同じでは、何となく違う気がした。少し考えて、いちご味の小さなロリポップを一本だけ取る。

ナマエは甘いものが好きだ。
きっと、笑う。

そう思った瞬間、胸の冷たさの奥に、ほんの少しだけ別の熱が灯った。

***

翌朝、スタンリーはいつもより早く家を出た。
弁当箱は念のために袋に入れてから、自転車の前カゴに入れた。
しかし、まだ返さない。返す前に、やることがある。

空気は冷たく、夜の名残がまだ地面に貼りついている。自転車を走らせる間、頬に当たる風が痛い。
だが、その痛みはむしろ都合がよかった。頭が冴える。

ゼノの家の前に自転車を止めると、まだナマエは出てきていなかった。
向かいのナマエの家の窓には、キッチンの明かりが灯っている。窓ガラス越しに、人影が動くのが見えた。ナマエか、ナマエの母だろう。

スタンリーは門柱にもたれ、ロリポップの棒を指で弄ぶ。
しばらくして、ナマエが玄関から出てくるのが見えた。

「おはよう、スタン」
「おはよ」

声はいつもと同じだった。
しかし、ナマエは気まずそうに笑う。

「ごめんね。昨日、弁当箱なくしちゃったから……今日はスタンの分、作れなくて」
「別に」

反射のようにそう言ってから、スタンリーは自分の声が少し低すぎたことに気づいた。
ナマエの肩がわずかに跳ねる。
スタンリーは視線を逸らし、わざと軽く言い直した。

「カフェテリアで何か買うし、別に問題ねえって」
「うん……本当にごめんね。お母さんも、どこかに置き忘れたんじゃないかって言ってて。また学校で探してみるね」
「探さなくていい」
「え?」
「……そのうち、出てくんだろ」

言葉を選び損ねた。
ナマエは少し不思議そうにしたが、深くは聞かなかった。

「それと、ナマエ」
「なあに?」
「あんた、昨日から謝りすぎ」

スタンリーの言葉に、ナマエは目を丸くする。

「でも……」
「弁当、作ってくれてんのはあんたの善意だし。あんたが謝ることじゃねえよ」

ナマエは少し驚いたようにスタンリーを見て、それからホッとしたように小さく頷いた。

「……うん」

その返事があまりにも素直で、スタンリーはかえって言葉に詰まった。

学校に着くと、スタンリーはいつもより少し注意深く周囲を見回した。
廊下の流れ、行き交う生徒たちの視線の向き、ロッカー付近で立ち止まる者達を自然に追う。狙いを定めるのではなく、周囲の全体を把握する。

ライアンは、すぐに見つかった。

八年生のロッカーが並ぶ廊下の奥。友人たちと固まって笑っている。昨日と同じ顔ぶれだった。
スタンリーはその場では近づかなかった。
朝の時間帯は人が多い。ナマエも近くにいる。ここで動けば、余計に面倒になる。

彼は何事もない顔で授業へ向かった。

午前の授業中も、スタンリーの意識は半分ほど別のところにあった。教師の話は聞こえている。問題も解ける。けれど、視線は何度も窓の外や時計へ向かう。

昼休みが近づく頃、再びライアンたちの姿を見つけた。
体育館裏へ続く渡り廊下の近く。人通りは少なく、教師の目も届きにくい。ライアンと友人たちは、そこで声を潜めて笑っていた。

スタンリーは曲がり角の手前で足を止めた。壁の陰に身を寄せる。普段なら、そんな真似はしない。
だが今日は違う。
確かめる必要があった。

「昨日のあれ、マジで顔見たかったな」

友人の一人が笑った。

「あー、ロッカー開けたら消えてるってやつ?」
「そうそう。あの子、絶対自分がなくしたと思ってるだろ」

ライアンの声がする。
ナマエのことを話していることは明らかだった。

「そういうタイプだよな。すぐ謝りそう」

胸の奥で、何かが軋む。
スタンリーは壁に背をつけたまま、息を殺した。

「でもさ、弁当ごと捨てるのはちょっともったいなかったんじゃね?」
「いいんだよ、あんなもん。あの金髪用だろ?」

ライアンが吐き捨てるように言った。

「毎日毎日、男の弁当作ってるとか、何なの。しかも俺が話しかけても、結局あいつのとこ行くし。あいつの事ちょっと悪く言っただけで、言い返してくるし」
「え、何。お前、あの子気に入ってんの?」
「まあね。小さくて可愛いし、顔も悪くないし、今時珍しくめっちゃ素直そうじゃん」

ナマエを値踏みするようなその言い方に、スタンリーの指先が冷たくなる。

「なのに、あの番犬くんがいつも近くにいるから、マジで邪魔なんだよなぁ」

番犬。
その言葉に友人たちが笑った。

「あー、金髪くん?」
「そうそう。いっつも隣にいるやつ。目つき悪いし、なんか睨んでくるし」
「番犬付きとか、ウケる」
「でもさ、あいつが居ない時ならいけそうじゃん」

その言葉に、スタンリーの呼吸が一瞬止まる。
怒りで熱くなるのではなく、逆に体温が下がっていくのを感じた。
ライアンは笑いながら続ける。

「あの子、気が弱そうだからさ。強引に押せばいける気がするんだよな」

スタンリーの中で、何かがぷつりと切れる音がした。

けれど、彼は動かなかった。
今ここで飛び出して、怒鳴って、掴みかかることは簡単だった。だが、昼休み前の校内で騒ぎになれば、ナマエの耳にも入る。教師に知られれば、事情を説明することになる。ナマエはきっと、自分のせいでスタンリーが問題を起こしたと思う。

それは駄目だ。

スタンリーは、ゆっくりと息を吐いた。
冷たく。
長く。

スタンリーは壁から離れた。
足音を殺して、その場を去る。

もう、十分だった。

***

昼休み、ナマエは自分のランチバッグを開けながら、まだどこか元気がなかった。

「スタン、お昼買ってきた?」
「ああ」

スタンリーは購買で買ったサンドイッチを机に置いた。
ナマエはそれを見て、また申し訳なさそうな顔をする。

「明日までに弁当箱、見つかるといいんだけど……」
「気にすんな」
「でも」
「ナマエ」

名前を呼ぶと、ナマエが顔を上げた。
スタンリーは、できるだけいつもの声を作った。

「飯、食いな」
「……うん」

ナマエは小さく頷き、箸を持った。

彼女は知らない。
昨日、自分の弁当箱がどこにあったのか。
今朝、ライアンたちが何を言っていたのか。
自分がどれほど危うい場所に立たされているのか。

知らなくていい。
そんなことを、ナマエが知る必要はない。

スタンリーはサンドイッチをかじった。まるで紙でも食べているような味がした。

***

午後も、スタンリーは努めていつも通り過ごした。
授業を受け、短く返事をし、教師に当てられれば答え、ナマエに話しかけられれば普段と変わらない声で返す。ライアンが廊下の向こうに見えても、視線を向けすぎないようにした。

放課後になると、二人はいつものようにゼノの家へ向かった。
今日は風が強い。ナマエは途中で、向かい風に髪を押さえながら笑った。

「今日、風強いね」
「ああ、結構吹いてんね」

一層強い風が吹き、ナマエは「ひゃっ」と瞬間的に足を止めてしまう。
そんなナマエの盾になるように、スタンリーはさりげなく、自身の体を風上にずらした。
それに気づいたナマエが、少し申し訳なさそうに笑う。

「ありがとう、スタン」
「別に。気い抜いたら、あんた風に飛ばされそうだかんね」
「ええ、それはちょっと言いすぎじゃない?」
「そんくらい危なっかしいってこと」
「ふふ。じゃあ、もし飛ばされちゃったら探しに来てくれる?」
「やだね。自分の足で戻って来な」

呆れたように笑うスタンリー。
寒さに鼻の頭を赤くしながら、ナマエもくすりと笑った。
その笑顔を見ると、昼間聞いたライアンの声が、また耳の奥に響いた。

強引に押せばいける。
気が弱そうだから。

―――させるかよ。

スタンリーの手が、ポケットの中で強く握られる。

ゼノの家に着くと、いつものようにゼノの母が二人を迎えてくれた。

「二人とも、おかえりなさい。寒かったでしょう」
「こんにちは」

ゼノの母は寒さで赤くなったナマエの頬を両手で包んでやる。
温かい手に包まれて、ナマエもふにゃりと笑った。

「ゼノは部屋に?」
「ええ。ゼノもさっき帰ってきたところよ。ナマエちゃん、怪我のところはもう本当に大丈夫?」
「はい、もう全然痛くないですよ」
「よかったわ。でも無理はしないでね」
「はい」

ゼノの母はナマエの頭を優しく撫で、それからスタンリーにも微笑んだ。

「スタンリーくんも、いつもナマエちゃんと一緒に来てくれてありがとうね」
「いえ……」

温かい家の匂いがした。
スタンリーの家とは違う。誰かが帰ってくることを前提にした家の匂い。ナマエの家にも、ゼノの家にもあるもの。

階段を上がり、ノックをしてゼノの部屋へ入る。
ゼノは机に向かっていた。帰ってきたばかりと聞いていたが、既に開いた本の横には、何枚もの紙が広がっている。
ゼノは顔を上げると、ナマエを見て、次にスタンリーを見た。

「やあ。ナマエ、顔が赤いね」
「風が強かったの」

ナマエは丸椅子を引き寄せ、いつもの位置に座る。
スタンリーはソファに腰を下ろした。
ナマエは今日の宿題を広げ、ゼノに分からないところを質問している。

「ゼノ、ここがね、また分からなくなっちゃって」
「ふむ。昨日の続きだね。君は式の変形そのものより、どこで変形するかの判断で迷っている」
「うん……」
「なら、まず目的地を明確にするべきだ。式も道順と同じで、どこへ向かうか分かっていなければ、途中で迷うからね」

ゼノの説明は穏やかだった。
ナマエもまた、真剣に頷いている。
スタンリーはその横顔を見ていた。

いつもの放課後。

守りたいと思った。

今この場所でナマエが安心してゼノの名前を呼び、ゼノが少し得意げに説明し、自分がソファでそれを聞いている、本当に何気ない時間。しかし、スタンリーにとって、このぬるま湯に浸かるような心地よい時間は、もはやかけがえのないものになっていた。その時間壊されたくなかった。

ナマエとスタンリーが宿題を終えた頃、下の階からゼノの母がナマエを呼ぶ声が聞こえた。

「ナマエちゃん、ごめんね。ちょっと手伝ってくれないかしら」
「はーい!ゼノ、スタン、私ちょっと降りてくるね」
「はいよ」
「すまないね、ナマエ」
「ううん。行ってくるね」

ナマエはにこにこしながら部屋を出ていった。パタパタと階段を下りていく音が聞こえる。
程なくして、今度はスタンリーが立ち上がった。

「ちょっと用がある」

ゼノが顔を上げる。

「今からかい?」
「ああ」
「内容は?」
「別に大したことじゃねえよ」
「その顔で『用』と言われたら、残念ながら物騒な想像しかできなくてね」
「悪かったな」

詳細を告げず、有無を言わせぬ様子のスタンリーに、ゼノはしばらく彼を見た。
その視線は鋭い。
短いやり取りであるというのに、やはりゼノは正確に意図を汲み取っていく。
ゼノは椅子をスタンリーの方にくるりと向け、足を組んだ。

「ナマエの件かな」

スタンリーは答えない。
答えないことが、答えだった。

「例の上級生かい?」
「……」

ゼノは椅子に座ったまま、スタンリーを見上げる。

「危険なことをするつもりなら、さすがに止めるよ」
「危険なことはしねえよ」
「おお、スタン。君の判断基準は、一般的な十二歳のそれとは少し異なる」
「あんたにだけは言われたかないね」

ゼノは静かに息を吐いた。

「何があったんだい?」

スタンリーの目がわずかに細くなる。

「昨日の弁当の件、ライアンの仕業だった。今日、話してんの聞いた」

ゼノの表情が消えた。

「……ほう」
「あいつら、笑ってた。ナマエが作ったもん盗んで捨てて、ナマエがなくしたと思って困ってんの、笑ってやがった。それに……」

スタンリーは少し言いよどむ。
ゼノは足の上で指を組んだ。
黒い瞳の奥に、静かな怒りが灯る。

「それに?」
「……ライアンの野郎が言ったんよ。俺がいねえ時狙って、ナマエに強めにいくってな。気が弱そうだから……強引に押せばいけるっつってた」

その言葉を聞いた瞬間、ゼノの黒い瞳からスッと光が消えた。

「なるほど。なんと愚かな発言だろう」
「同感だね」
「それで、君はどうするつもりだい」
「話をつけてくんよ」
「教師を含め大人に言う、という選択肢は?」
「証拠がねえかんな。あいつらはきっと冗談って言う。弁当箱は俺が持ってっけど、そんだけだ。手持ちのカードが弱い」
「なるほど、正しい分析だね」
「それに、ナマエに知られたら、あいつは自分のせいだと思っちまう」
「それも正しい」

ゼノは椅子にもたれてから、数秒黙った。
止めるべきかどうかを、考えている顔だった。

ゼノにとってナマエは、そこにいることが当たり前の大切な存在だ。彼女に実害が及びかけているなら、彼も黙ってはいない。だからこそ、スタンリーが今どれほど怒っているのかも、よく分かっていた。

ここで止めても、おそらくスタンリーは別の機会に動いてしまうだろう。
それならば、むしろ今の方がいい。

「スタン、やり過ぎてはいけないよ」

ゼノは静かに言った。

「相手は上級生とはいえ、同じミドルスクールの生徒だ。相手に怪我をさせれば、君自身にも処分が及ぶ可能性がある。それは実に非合理的だ」
「ああ」
「もし、君が相手に危害を加えたことをナマエに知られたら、彼女は自分のせいで君が凶行に及んだと、自分を責めるだろう」

スタンリーの眉がわずかに動いた。

「分かってんよ。これ以上近づかねえって、約束させんだけだ」

ゼノは目を細める。

「君の“だけ”はいまいち信用しきれないね」
「ゼノ」

スタンリーは低く、はっきりと言った。

「俺は、ナマエに泣かれたくねえんよ」

その一言は、不器用だが、まっすぐだった。
それだけで、ゼノには十分だった。

スタンリーが自分の怒りに任せて動こうとしているのではないこと。
ナマエをさらに傷つけないために、ぎりぎりの線を選ぼうとしていること。
ゼノはそれを理解した。
彼は一度息を吐いてから、スタンリーを真っ直ぐ見た。

「三十分以内に戻らなければ、僕も行くよ」
「いや、来んなって」
「なら、君が戻るしかない。できるかい、スタン」
「……ああ、できるね」

スタンリーは部屋を出た。
階下でゼノの母とすれ違う。

「あら、スタンリーくん、帰るの?」
「用があるんで少し出ます。すぐ戻ります」
「寒いから気をつけてね」
「はい」

スタンリーはそのまま外へ出た。
冬の夕方は早い。校舎へ向かう道は朝よりずっと静かだった。学校はまだ閉まっていない。クラブ活動の生徒や教師が残っている時間帯だ。
スタンリーは自転車を走らせた。
学校に着くと自転車を校舎前に停めてから、校舎の裏手へ回った。
ライアンたちがいる場所は、昼間の会話で分かっていた。放課後、人の少ない校舎裏の倉庫近く。教師の目が届きにくく、上級生がたむろするには都合のいい場所。
目的の場所に近づくと、笑い声が聞こえた。

「でさ、今日もあの子、金髪と一緒だったわけ?」
「そうそう。マジで番犬レベル。おかげで全然近づけなかったわ」
「お前、明日どうすんの?」
「タイミング見て話しかけるかな。あいついない時に」

思っていた通り、そこにライアンたちはいた。メンバーは昼間と同じ。全員上級生で、スタンリーより背も高い。
普通の十二歳なら、そこで足が止まるだろう。
だが、スタンリーは止まらなかった。
そんな彼に、ライアンが最初に気づく。

「お、噂をすれば、番犬くんじゃん」

ライアンが馬鹿にしたように笑った。その声に、友人たちもスタンリーの存在に気付く。
スタンリーは黙って近づいた。

「何?迷子?」

友人の一人がからかう。
その瞬間、スタンリーの目がさらに冷えた。

「ナマエに近づくな」

単刀直入だった。
ライアン達は一瞬きょとんとして、それから笑った。

「え、何それ。怖いんだけど」
「聞こえなかったかよ。二度も言わせんな」
「君さ、六年生だよね?上級生にその口の利き方は――」

言い終わる前に、スタンリーは一歩踏み込んだ。
距離が詰まる。ライアンの笑顔が、少しだけ揺れた。
相手は背が高い。だが、反応は遅かった。
スタンリーの動きに迷いはなく、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。射撃で培った集中力は、距離が近くても変わらない。相手の重心、足の位置、逃げる方向。その全てを一瞬で見ていた。
スタンリーの手がライアンの襟首を掴んだ。
次の瞬間、ライアンの背中が壁に押し付けられる。
鈍い音がした。
襟首を掴み、逃げ場を塞ぐように壁へ押し込む。
力で押し負けたライアンは目を見開いた。

スタンリーは腕に力を込める。身長の差も年齢の差も、何もかもを覆すほどに、彼の気迫が場を支配していた。
アンバーの瞳が、冷たく細められている。

「昨日の弁当」

低い声だった。

「捨てたの、お前らだろ」

ライアンの顔から、笑みが消えた。
友人たちが一歩下がる。

「な、何言って……」
「聞いてたんよ」

スタンリーの手に力がこもる。
ライアンの襟元が詰まり、彼は息を呑んだ。

「ナマエが作った弁当を、ゴミ箱に捨てたっつって笑ってたな」
「た、ただの冗談だろ……!」
「冗談?」

その一言で、スタンリーの声がさらに冷えた。
ライアンはそこで初めて、目の前の相手が本気で怒っていることを理解した。

怒鳴るわけでもない。
暴れるわけでもない。
ただ静かに、淡々と言葉を紡ぐだけ。
だからこそ余計に怖かった。

十二歳の少年とは思えないほどの気迫と眼光が、静かに、そして確実に怒りの色を宿している。
その空気は、完全にこの場を制圧していた。

「ナマエは、自分がなくしたと思って謝ってた」

スタンリーの声が低く落ちる。

「お前らが捨てたもんのために、自分が悪いって顔してな」

友人の一人が慌てて口を開く。

「いや、やったのはライアンで、俺らは関係ない――」
「黙りな」

一言で、その友人は口を閉じた。
ライアンは恐怖をごまかすように顔を歪めた。

「……なんだよ!だって、あの子、俺が話しかけても全然なびかないし」

その言葉に、スタンリーの目が細くなる。

「は?」
「お前が横にいるから、こっち見ないんだろ。だから、ちょっと困らせようとしただけで」

ライアンは強がるように笑おうとした。

「弁当くらいで、何ムキになってんだよ」

次の瞬間、スタンリーはライアンをもう一度、強く壁へ押し付けた。

「ぐっ…」

怪我をさせるほどではない。あくまで威嚇。
逃げるな、黙れ、聞け。そう言葉よりもはっきり伝えるための動きだった。
ライアンの喉がひゅっと鳴る。

「ナマエが困ってんのも、全部冗談で済ませるつもりだったっての?」

スタンリーの手に力が入る。
ライアンは苦しそうに眉を寄せた。

「分かった、もう分かったから……!」
「分かってねえ顔してんよ」

スタンリーは相手の襟首をさらに押し上げた。
力の差と本気の怒りを分からせるには十分だった。

「次にナマエを困らせたら、今みたいに話し合いだけで終わらせねえかんな」

声は驚くほど静かだった。
スタンリーは相手の襟首をまた押し上げた。

「あと」

スタンリーの声がいっそう低くなり、ライアンが固まる。

「俺がいねえ時に強めにいくって話」

ピタリとライアンの表情が凍った。

「あれも、冗談か?」

友人たちは完全に黙った。
スタンリーは、今にも射殺さんばかりの視線でライアンを見据えた。

「ナマエは、お前のもんじゃねえ。あいつが笑って流してたからって、何してもいいってわけじゃねえんよ」

静かに、淡々と言い聞かせるような口調。
けれど、その一つ一つが冷たい刃のようだった。

「今後一切、ナマエに近づくな。話しかけんな。ロッカーにも、教室にも、カフェテリアにも近寄んな」
「そんなの――」
「できねえってんなら、教師に全部言うって選択肢もあんぜ」

スタンリーは淡々と言った。

「弁当を盗んで捨てたことも、ナマエが気弱そうだから強引に押せばいけるって言ってたことも、全部な」
「そ、そんな証拠、どこにも―――」
「あんよ。俺が持ってる」

その瞳は、どこまでも冷たかった。

「誰がどこで何言ってたか、全部言える。弁当箱も回収してある。昨日、ナマエのロッカー周りにいたやつも覚えてる。必要なら、一人ずつ聞かせる」

覚えているのは本当だが、確定的な証拠はハッタリだ。しかし、この場を完全に支配したスタンリーの言葉は、効果絶大だった。
ライアンの目が泳ぐ。
それは、彼らにとっても困る話だった。上級生が下級生の女子の弁当を盗んで捨てた。さらにしつこく接触しようとしていた。教師や親に知られれば、笑い話では済まない。しかも相手は、普段から大人しく、教師からの印象も悪くないナマエだ。
友人たちが慌てて頷く。

「もうしない!な、なあ、ライアン!」
「そうだよ、もう近づかないって!」

ライアンは唇を噛んだ。
悔しさと恐怖が混じった顔。
スタンリーはその目を見据えたまま、少しも表情を変えなかった。

「返事は」
「……もう、近づかない」
「声が小せえ」
「もう近づかない!話しかけない!だから離せよ!」

数秒。
スタンリーはその言葉の重さを測るように、ライアンを見ていた。
やがて、襟首から手を離す。
ライアンは壁にもたれ、咳き込んだ。
スタンリーは一歩下がった。

約束など、言葉だけならいくらでも破れる。だが、この瞬間、彼らの中に刻まれたものはあるはずだった。ナマエに近づけば、このアンバーの瞳が必ず見つけるという感覚。

それで十分だった。
スタンリーは背を向けた。
後ろから、小さく悪態が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
大きな騒ぎにする必要もない。
ナマエが明日、何も知らずにいつも通り笑えるなら、それでいい。

夕方の風が冷たかった。
スタンリーは自転車に戻ると、ようやく自分の手が少し震えていることに気づいた。怒りのせいか、冷えのせいか、分からない。

ナマエに近づくな。

そう言った自分の声が、耳にまだ残っている。
なぜ、あそこまで怒れたのか、分からなかった。

ナマエが悲しい顔をしたから。
ナマエの弁当が捨てられたから。
ライアンが彼女を軽く扱ったから。

理由はいくらでも並べられる。
けれど、それだけでは説明しきれない何かが、胸の奥で荒れていた。

スタンリーは自転車のかごに積んであった袋を掴んで教室へと向かう。
時間帯からもう人も少なく、誰ともすれ違うことなく、教室へと着いた。
ナマエの机に袋を置いてから、小さく息をつく。
これで彼女は、少しでも安心してくれるだろうか。

ゼノの家へ戻る頃には、空は薄暗くなっていた。約束の三十分をほんの少しだけ過ぎている。
玄関を開けた瞬間、階段の上からゼノの声がした。

「二分超過だ」
「細けえな」
「何事にも正確性は重要だよ」

ゼノは階段の上に立って、静かにスタンリーを見下ろしている。

「怪我は?」
「してねえ」
「相手は?」
「してねえ」
「問題は?」
「ないね」

ゼノはしばらく彼を見る。

「ならいい」

その声には、わずかな安堵が混じっていた。
スタンリーはふいと目を逸らす。

「ナマエは?」
「まだ母さんの手伝いをしている。君の不在については、僕が少し用事を頼んだと説明してあるよ」
「……助かんよ」
「礼には及ばないさ」

ゼノは少しだけ口元を上げた。

「ただし、次からはもう少し早く戻ることだね」
「次がある前提で話すの、やめてくんね」
「おお、スタン。困ったことに君の場合、次がないと否定しきれない」

スタンリーは返す言葉がなく、軽く舌打ちをした。

***

翌朝、ナマエが教室に入ると、自分の机の上に見慣れぬ袋が置かれていた。
中を覗いて、彼女は目を見開く。

「……あ」

弁当箱だった。
一昨日なくなった、ナマエとスタンリーの弁当箱。
きれいに洗われ、新しいクロスと一緒に入れられている。淡い青に白い花の柄と、シンプルなネイビーのクロス。ナマエが持っていたものではない。

「戻ってきた……」

弁当箱を持ち上げると、中からカランと何かが動く音がした。
ナマエは恐る恐る蓋を空けてみる。

「これ……」

弁当箱の中には、小さないちご味のロリポップキャンディが一本入っていた。
ナマエは瞬きを繰り返した。
隣に来たスタンリーが、何気ない顔でその様子を見る。

「スタン、これ……」
「知んね」

即答だった。
あまりにも早すぎて、ナマエは思わず苦笑してしまう。

「まだ何も聞いてないよ?」
「顔が聞いてんよ」
「ええ……」

ナマエは困ったように笑い、それから弁当箱を大事そうに胸に抱えた。

「よかった。本当に、よかった……」
「ああ」
「……ありがとう、スタン」

誰が弁当箱を見つけてくれたのか、ナマエはなんとなく気づいていた。
弁当箱を抱えて嬉しそうに笑うナマエ。
それを見たスタンリーの胸の奥で、昨日から張り詰めていたものが、ふわりと解けていく。

「めでたいね」
「ふふ」

心底喜ぶナマエの様子に、スタンリーの口元も自然と緩んでいた。

***

その日の昼休み。
ナマエは少し迷っていた。
カフェテリアのいつもの席で、ナマエは自分のランチバッグを膝の上に置いたまま、なかなか開けなかった。

スタンリーは購買で買ったものを机に置く。

「食わねえの?」
「あ、うん、食べるよ」

ナマエは慌てて包みを開けた。
けれど、箸を持つ前に、そっと顔を上げる。

「ねえ、スタン」
「あ?」
「その……弁当箱、戻ってきたから」
「ん」
「スタンの分、明日からまた作ってきてもいい?」

その声は、恐る恐るだった。
断られるかもしれないと思っている声。
迷惑だったかもしれないと、不安になっている声。
一昨日、自分がなくしたと思って謝った時と同じ、申し訳なさそうな声。

違う。
全部違う。

ナマエは朝早く起きて、眠い目をこすりながら弁当を作ってくれる。自分のために、わざわざ手間と時間ををかけて。

それを、スタンリーは嬉しいと思っている。
必要だと思っている。
なくなると、昼の時間がひどく味気なくなるほどに。

気づけば、スタンリーは反射的に返していた。

「当たり前だろ」

声が思った以上に強く出た。
ナマエがぱちりと目を瞬かせる。
スタンリー自身も、少し驚いた。
自分の声が、こんなにはっきり出るとは思わなかった。否定の余地などないと、言葉が勝手に飛び出した。

周囲の生徒が少しこちらを見た気がして、スタンリーはすぐに視線を逸らす。

「……嫌なら、最初から食ってねえし」

付け足した声は、少しだけ頼りない。
ナマエは数秒、きょとんとしていた。
それから、安心したようにふわりと笑う。

「うん。じゃあ、明日からまた作ってくるね」

その笑顔を見た瞬間、スタンリーの胸の奥で冷たく固まっていたものが、少しだけ柔らかくなった。
完全に消えたわけではない。
ライアンの声も、捨てられた弁当箱も、まだ忘れられない。

けれど、ナマエがまた笑った。

それだけで、昨日から荒れ続けていた心が、ほんの少しだけ穏やかになる。

少し離れた廊下の向こうで、ライアンたちがこちらを見ていた。
しかし彼らは近づいてこない。
視線が合う前に、そそくさと背を向ける。
スタンリーはそれを横目で確認しただけで、何も言わない。
ナマエも気づかなかった。

彼女はただ、戻ってきた弁当箱と、小さなロリポップを大切そうに鞄の中へしまっている。

その仕草を見ながら、スタンリーは自分の胸の奥に残るあたたかくてむず痒い、名も知らぬ熱を持て余していた。

守りたい、という言葉なら少し近い。
でも、それだけでは足りない。
近づくな、と言った時の怒り。
当たり前だろ、と即答した時の強さ。
ナマエが笑っただけで、冷えた胸が少し温まる感覚。
どれも、今のスタンリーには説明できない。

ただ確かなこともある。
ナマエが自分を責める顔は、もう見たくない。
ナマエが作ったものを、誰にも踏みにじらせたくない。

そして明日、またあの甘い卵焼きが入った弁当箱を受け取ったら、自分はきっと、いつものように素っ気なく「普通」と言ってしまうのだろう。

けれど、それを全部食べる。
一つも残さず。

それが今のスタンリーにできる、いちばん正直な返事だった。

— End —

Comments 5

13 天前

さよなライアン。

翠希13 天前

…次は無ぇぜ…ライアン。

天井裏13 天前

首の皮一枚だぜライアン!

ほっとが飲みたい猫舌13 天前
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はるやん13 天前
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Sakuria
Where every work blooms
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