二月の朝は、まだ白かった。
吐く息が淡く曇って、ナマエはマフラーの端を指先でぎゅっと握りしめた。手袋をしていても指先はすぐに冷えてしまう。冷え性の彼女にとって、冬の登校時間はいつも小さな戦いだ。
けれど、その日の足取りはひと月前よりずっと軽い。
額に巻かれていた包帯は、もう取れていた。打撲の痛みも消え、擦り傷の跡も薄くなっている。
あの事故のあと、ナマエはしばらく両親から「走らない」「無理をしない」「よく見て歩く」と何度も言い聞かせられた。ゼノにも、スタンリーにも、似たようなことを少しずつ違う言葉で言われた。
ゼノは合理性という言葉を盾にしながら、ナマエの言動や顔色を以前よりよく見るようになった。
スタンリーは特別なことなどしていない顔で、さりげなく道路側を歩く位置に立つことが増えた。
どちらも、ナマエには分かっていた。
分かっていたからこそ、少しだけ申し訳なくて、けれど少しだけ嬉しかった。
「お母さん、行ってきます」
キッチンから顔を出した母が、柔らかく笑う。
「今日も寒いから、ちゃんと首元あったかくしてね」
「うん」
ナマエはバックパックを背負い、ランチバッグを抱えた。中身はいつも通り二つの弁当箱。一つは自分の分。もう一つはスタンリーの分だ。
「スタンリーくん、今日も完食かしらね」
「うん。昨日ね、ブロッコリーをピーマンのグリルに変えたら、スタンここにしわが寄ってた」
そう言いながら、ナマエは眉間を指さす。
「あら、分かりやすいこと」
「でも、ちゃんと全部食べてくれたの。だから今日はブロッコリーに戻しちゃった」
そう言って朗らかに笑うナマエ。母もくすくす笑い、ナマエの肩にそっと手を置いた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
外に出ると、向かいのゼノの家の前に、すでにスタンリーの自転車が止まっていた。
「おはよう、スタン」
ゼノの家の門柱にもたれていたスタンリーが、片手をポケットに突っ込んだまま顔を上げた。口元にはいつものロリポップキャンディ。金髪が冷たい朝の光を受けて、少しだけ白っぽく見えた。
「おはよ」
短い返事だったが、視線はすぐにナマエの額へ向かう。もう包帯はない。けれど、確認せずにはいられないのだろう。
視線に気づいたナマエが、額を触りながら苦笑いする。
「もう大丈夫だよ」
ナマエが先に言うと、スタンリーはわずかに眉を寄せた。
「まだ何も言ってねえじゃん」
「言いそうな顔してた」
「どんな顔よ」
「えっと……心配してる顔?」
スタンリーは一瞬だけ黙り、それからぷいと目を逸らした。
「別に。足元滑っから、転ぶなよって思っただけ」
「そっか。うん、気をつけるね」
ナマエが笑うと、スタンリーは何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。代わりに、ナマエの持っているランチバッグを自然に奪い取るように持つ。
「あ、スタン、それ」
「持つ」
「そんなに重くないよ」
「いいから、あんたは前見て歩きな」
こういう時のスタンリーは、それ以上言っても返してくれないことを、ナマエは知っていた。
ナマエは小さく息をつくと「じゃあ、お願い」と笑った。
二人で歩き出す。ゼノはすでに大学へ行く支度をしている時間だろうか。二階の窓の方をちらりと見ると、カーテンの隙間から銀色の髪が一瞬だけ見えた気がした。
ナマエが小さく手を振ると、その影も少しだけ手を振る動きを見せ、すぐに奥へ消えた。
それだけで、ナマエはまた少しだけ元気が出る。
スタンリーはそれを見て、何も言わない。ただ、いつものようにナマエの歩幅に合わせて、少しゆっくり歩いた。
事故から約一ヶ月。
三人の日常は、表面上は元に戻っていた。
朝、ナマエとスタンリーが一緒に登校する。昼には二人で弁当を食べ、放課後はゼノの家へ行く。三人がそれぞれの定位置で時間を過ごす、今までと同じ日常。
けれど、ほんの少しだけ変わったものもあった。
ナマエは、ときどき言葉を選ぶようになった。
ゼノの研究が行き詰まっている時、以前なら「休んでね」と間髪入れずに言っていたところを、一度だけ飲み込むようになった。
ゼノもそれに気づいていた。
そして気づいているからこそ、自分から「少し休むよ」と言うようになった。
スタンリーは、ナマエが「大丈夫」と言うたび、その言葉の奥をより注意深く見るようになった。
大きく何かが変わったわけではない。
ただ、入ってしまった小さなひびの痕を、三人がそれぞれ忘れないようにしているだけだった。
***
学校に着くと、いつものように生徒たちの声が廊下に満ちていた。分厚いパーカーを着た生徒、明るい色のセーターを着た生徒、スポーツチームのロゴ入りジャケットを羽織った生徒。冬の教室は、それぞれの家の匂いや朝の空気をまとった子供たちでざわついている。
そんないつもの日常に、小さな違和感が混じった。
ナマエはロッカーを開け、教科書を取り出した。
その時だった。
「ねえ、君」
少し上から声が降ってきた。
振り返ると、見慣れない男子が立っていた。背が高い。顔立ちは整っている方で、いかにも自分が人からどう見られているかをよく知っているような笑い方をしていた。ナマエより一つか二つ上の学年だろう。
「私、ですか?」
「うん、そう。きれいな黒髪だね。ジャパニーズ?」
「はい。そうですけど」
「やっぱり。名前、何ていうの?」
「ナマエです。ナマエ・ミョウジ」
「へえ。ナマエっていうの」
相手はにこにこと笑っていた。悪意はなさそうに見えた。だからナマエも、いつものように穏やかに笑った。
「あなたは?」
「ライアン。八年生」
「ライアン先輩」
「発音、かわいいね」
その言い方が、なんだか少しだけ引っかかった。
けれど、相手は上級生だ。失礼にならないように、ナマエは曖昧に笑う。
「ありがとうございます」
「また話そうよ」
「えっと……はい。機会があれば」
廊下の向こうから同級生がナマエを呼んだため、そこで会話は終わった。ナマエは軽く会釈して、その場を離れる。
ライアンはそんなナマエに向かって笑顔でヒラヒラと手を振ってから、その場をあとにした。
少し離れた場所で、スタンリーがその様子を見ていた。
彼は自分のロッカーに寄りかかりながら、口の中のロリポップを舌で転がしていた。表情はいつも通りに見えた。けれど、アンバーの瞳は細く鋭くなっている。
スタンリーの姿を見つけたナマエが、小走りに駆け寄ってきた。
ナマエが近づくと、スタンリーは何事もなかったように目を逸らした。
「スタン、お待たせ」
「ああ」
「どうかした?」
「……今の」
「うん?」
「今話してたん、誰」
「さっきの?ライアン先輩って言ってたよ。八年生だって」
「ふうん」
「日本人なのかって聞かれたよ。学校に少ないし、珍しかったのかな?」
「へえ」
スタンリーの返事が少しだけ硬かった。
ナマエは首を傾げる。
「スタン?」
「何よ」
「……何か、怒ってる?」
「怒ってねえよ」
言葉だけならそうだった。
けれどナマエには、スタンリーの口元がほんのわずかに歪んだように見えた。
その日の昼休みは、いつも通りカフェテリアの隅で弁当を広げた。
ナマエがランチバッグから二つの弁当箱を出すと、スタンリーは何も言わず自分の分を引き寄せる。蓋を開け、甘い卵焼きを見つけると、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
ナマエはそれを見るのが好きだった。
「今日の卵焼き、少しだけ砂糖が多かったかも」
「別に、普通じゃん」
「そっか」
「悪くねえって意味な」
「うん」
スタンリーはそれ以上何も言わないが、やはり卵焼きから先に食べた。
ナマエは小さく笑い、箸を進める。午後の授業の話、宿題の話、放課後にゼノの家へ行ったら何を作って持って行こうかという話。いつもの会話。
いつもと変わらない日常が続くはずだった。
けれど、その日からライアンは、少しずつナマエの周囲に現れるようになった。
最初は廊下で挨拶をするだけだった。
「ナマエ、おはよう」
「おはようございます、ライアン先輩」
それだけ。
次は、ロッカーの前で少し話しかけてきた。
「そのノート、かわいいね」
「ありがとうございます」
「どこで買ったの?」
「前に家族でショッピングモールに出かけた時に」
また次の日には、カフェテリアへ向かう途中で横に並んできた。
「ナマエ」
「ライアン先輩、こんにちは」
「ナマエってさ、昼、いつもあいつと食べてるの?」
「あいつ?」
「金髪の。目つき悪いやつ」
スタンリーのことだと分かって、ナマエは少し困ったように笑った。
「スタンリーのことですか?はい。友達なので」
「へえ……友達、ね」
ライアンはその言葉を、妙にゆっくり繰り返した。
「仲いいんだ」
「そうですね。ずっと一緒にいるから」
「ふうん……なんか面白くないね」
「え?」
「いや、なんでもない」
ナマエは意味が分からず首を傾げたが、ライアンはすぐに笑顔へ戻った。
視界に映るナマエとライアン。スタンリーの視線は、いつもより明らかに冷ややかだった。
この頃には、スタンリーの中にある違和感は、はっきりと形を持ち始めていた。
前にも似たようなことはあった。
エリオットが、理科の班でナマエと楽しそうに話していた時。あの時も、胸の奥が少しざわついた。ナマエが自分以外の誰かと笑っているのを見た時、なぜか落ち着かなかった。
だが、今感じているこれは、あの時のそれとは違う。
エリオットに対するものは、もっと幼くて、説明のつかない不機嫌に近いものだった。自分でもよく分からないまま、舌打ちしたくなるような感覚。
ライアンに対するものは、もっと明確に冷えていた。
喉の奥に、嫌な味が残るような。
砂を噛んだ時のような、不快感。
ナマエが笑って受け流しているのに、ライアンの視線がそこに長く絡みついているように見えた。言葉は軽い。笑顔も軽い。けれど、その軽さがかえって不愉快だった。
***
ある日の放課後、ゼノの部屋で、スタンリーはそのことをぽつりと話した。
ナマエがキッチンへ行き、ゼノの母に頼まれた皿を運ぶ手伝いをしている間、部屋には、ゼノとスタンリーだけが残っていた。
ゼノは机に向かい、大学で使う資料に目を通している。机の上には鉛筆、図面、数冊の本。スタンリーはソファに沈み、片膝を立てていた。
「先生」
ゼノの手が止まる。
「君がそう呼ぶ時は、僕に何かを聞きたい時か、あるいは面倒な話を持ち込む時だね」
「変な決めつけ方すんじゃねえよ」
「では違うのかい?」
「……違わねえけど」
ゼノはページに栞を挟み、椅子をスタンの方に回した。
「話してみるといい」
スタンリーはしばらく黙った。自分でも、何をどう言えばいいのか分からなかった。
「学校で」
「うん」
「上級生が、ナマエに話しかけてくる」
ゼノの黒い瞳が、わずかに細くなった。
「上級生?」
「ライアンって八年生。最近、やたら絡んでくる」
「ナマエは?」
「普通に返してんよ。あいつ、そういうん無視できねえじゃん」
「そうだね。彼女は波風を立てることを好まない」
ゼノの声は静かだった。責めるでもなく、慌てるでもない。ただ情報を整理している。
「相手に明確な害意は?」
「今んとこ、分かんねえ」
「だが、君は不愉快そうだね」
スタンリーは黙った。
ゼノはそれを見逃さなかった。
「以前、ナマエが同級生の男子と話していた時と同じかい?」
「違う」
「ほう、言い切ったね」
「あん時と、違う。何が違うのかははっきり分かんねえけど、でも違う」
「ふむ」
「……なんか、分かんねえけど、今回のが嫌な感じがすんだよ」
それは、スタンリーにしてはひどく曖昧な言葉だった。
ゼノは少しだけ目を伏せた。スタンリーは感覚で多くのことを捉える。弾道も、距離も、危険も。彼の中にある説明不能な不快感は、時に言葉より正確だった。
「なら、注意して見ておくといい。ただし、ナマエに不必要な不安を与えないようにすること」
「分かってんよ」
「彼女は自分のことになると、少し鈍いところがあるからね」
「はっ、ほんとに“少し”なら、まだ救いがあんね」
ゼノは小さく笑った。
「なるほど。確かにその通りだ」
その時、扉が開いた。
「お待たせ。ゼノのお母さんが、クッキー焼いたからみんなで食べてって」
ナマエが皿を持って入ってくる。
スタンリーはすぐに口を閉ざした。ゼノも何事もなかったように椅子を回転させて資料へ視線を戻す。
ナマエは二人を見比べた。
「ん?何か話してた?」
「研究の話を、少しね」
ゼノが淀みなく答える。
スタンリーはロリポップを口の端に寄せたまま、短く言った。
「センセの話が長くなる前に止めてたとこ」
「もう、スタン」
ナマエが笑う。
その笑顔を見て、スタンリーの胸のざらつきは一瞬だけ薄れた。
けれど、消えはしなかった。
言い知れぬ不快感は、胸の奥に残ったままだった。
***
それから数日、ライアンの接触はさらに増えていた。
廊下で肩を並べようとする。移動教室の前にわざわざ待っている。ナマエが友人と話している時でも、自然に割り込んでくる。
ナマエはそのたびに、困ったように笑っていた。
「すみません、次の授業があるので」
「友達が待っているから」
「また機会があったら」
言葉は柔らかい。
拒絶というほど強くない。
だからだろう。ライアンは、退かなかった。
むしろ、その曖昧さを自分に都合よく受け取っているようですらあった。
そしてある日、昼休み前の廊下で、ライアンはナマエが持っていたランチバッグを見下ろした。
「いつも思ってたけど、ナマエのランチバッグって大きいよね」
「二つ入っているので」
「二つ?」
「はい」
「一つは君の、だよね?」
「はい」
「じゃあ、もう一つは?」
ナマエは少し迷ったが、隠すようなことでもないと思った。
「スタンリーの分です」
ライアンの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「なんであいつの分?」
「いつも、二人分作ってるので」
「……ナマエが自分で作ってるってこと?」
「はい」
「金髪の分も?」
その言い方が、引っ掛かった。
波風立てずにやり過ごすことも出来た。しかし、何だかスタンリーを馬鹿にされたみたいで、そこは黙っていることができなかった。
「金髪じゃないです。彼の名前はスタンリーです」
珍しく言い返したナマエに、ライアンの瞳がわずかに見開いた。
周囲にいたライアンの友人らしき男子たちが、顔を見合わせてにやにや笑う。
「何、ムキになってんの?」
「毎日ランチ用意するとか、もしかして彼女気取り?」
その言葉に、ナマエは瞬きをした。
「え?」
「毎朝、甲斐甲斐しく男の飯作ってるってことだろ?すごいね」
「そういうのじゃありません。スタンリーは大切な友達で……」
「“大切”だってさ」
別の男子が笑う。
ナマエはランチバッグの持ち手を握り直した。胸の奥が少しだけきゅっと縮む。けれど、相手は上級生だ。これ以上言い返したら、もっと面倒なことになるかもしれない。
もしかしたら、スタンリーにも迷惑をかけてしまうかもしれない。
ナマエは一度小さく息を吐いてから、落ち着いた様子で返した。
「本当に、そういうのじゃありませんから」
できるだけ穏やかに言う。
ライアンは笑ったままだったが、その目だけが少し冷たくなった。
「ふうん。でもさ、毎日作るって結構しんどいでしょ。あいつ、君にそんな事させて平気なんだ」
「作らされてるんじゃありません。私が作りたいから作ってるんです」
静かにはっきりとそう言った瞬間、ライアンの表情がまた少し変わった。
面白くなさそうに。
ナマエはそれに気づいたが、どうすればいいか分からなかった。
ちょうどチャイムが鳴り、廊下の流れが変わる。
「じゃあ、私、失礼します」
ナマエは軽く頭を下げ、その場を離れた。
曲がり角の向こうに、スタンリーが立っていた。
彼は全部を聞いていたわけではない。けれど、ライアンたちがナマエのランチバッグを見て笑っていたこと、ナマエの肩が少しだけ縮こまったことは見ていた。
スタンリーの胃の底に、何かが重く沈む。
ナマエが近づいてきた。
「スタン?どうしたの?」
「……別に。移動教室から戻っただけ」
「授業、こっちだったっけ?」
「そ」
「そっか」
ナマエは笑った。
いつもの笑顔だった。けれどそれは、いつもより少しだけ無理をしているようにも見えた。
スタンリーはそれが気に入らなかった。
何が、とはうまく言えない。
ライアンの笑い方か。友人たちの目つきか。ナマエが何もなかったように振る舞うことか。自分がその場で何も言わなかったことか。
おそらく、全部だ。
スタンリーは、思わず拳を強く握りしめた。
***
その翌日も、朝はいつも通りだった。
ナマエとスタンリーはゼノの家の前で合流し、一緒に学校へと向かう。その日もスタンリーはナマエからランチバッグを奪い、何食わぬ顔でそれを持つ。学校に着き、ナマエは自分のロッカーにランチバッグを入れた。
いつも通りだったはすだった。
午前中の授業が終わり、昼休みになる。
「ねえ、スタン。今日は外で食べない?」
気温は寒いが、天気も良く、日差しがあった。校内の中庭なら、少しは気持ちがいいかもしれない。
「いいぜ」
スタンリーが答える。
ナマエはロッカーを開けた。
中を見てから、手が止まった。
「……あれ?」
中を覗き込む。教科書、ノート、上着。そこまではいい。
朝入れたはずのランチバッグが無かった。
ナマエは一度ロッカーを閉め、もう一度開けた。そんなことをしても変わらないのに、見間違いだったらいいと思った。
しかし、やはりそこにランチバッグは無い。
「ナマエ?」
スタンリーが隣から覗く。
ナマエは顔を青くした。
「お弁当、ない……」
「は?」
「朝、ここに入れたのに。……もしかして、私、違うところに置いたのかな」
「いや、あんた朝ここに入れてたろ」
スタンリーは即座に言った。
ナマエは驚いたように彼を見る。
「見てたの?」
「見てた」
何でもないように言ったが、実際には、事故以来ナマエの動きに目が行くことが増えていた。監視しているつもりはない。ただ、気づくと見てしまうのだ。
ナマエは少し困った顔で笑おうとした。
「じゃあ、私がちゃんと閉めてなくて……落ちちゃった?」
「どこに落ちんだよ」
「誰かが間違えて持って行っちゃった、とか?」
「いや、無理あんだろ」
「でも……」
ナマエは言葉を飲み込む。
盗まれた、とは思いたくなかった。
自分の弁当だけならまだしも、スタンリーの分まで入っていたのに。
それが、なくなった。
ナマエの中で最初に浮かんだのは、怒りではなく、申し訳なさだった。
「スタン、ごめんね」
その言葉に、スタンリーの眉が動いた。
「なんであんたが謝んの」
「だって、スタンの分も……なくしちゃったから」
「なくしたって決まってねえだろ。それに、ナマエのせいじゃねえ」
「でも、今日はごめんね。お昼、何か買って」
「気にすんな」
ナマエの言葉に被せるように、スタンリーは短く言った。
ナマエのせいではないし、彼女を責める気もさらさら無い。
むしろ、こんなことで気に病んでほしくない。
しかし、ナマエにその思いは伝わらない。彼女は自分の失敗だと思い込んだまま、眉を下げている。
そんなナマエが、いつもより小さく見えた。
ただでさえ小柄なナマエが、肩を落として、ランチバッグの消えたロッカーの前に立っている。
スタンリーの中で、言葉にならない苛立ちが膨らんだ。
ナマエに対してではない。
この状況に対して。
ナマエが自分を責めることに対して。
彼女にそんな顔をさせた、見えない何かに対して。
スタンリーは、ナマエの腕を掴んだ。
「行くぞ」
「え?」
「何か買うんだろ」
「あ、うん」
スタンリーは踵を返した。
スタンリーに腕を引かれ、ナマエの思考が強制的に断ち切られる。
二人はそのまま、カフェテリアへと向かった。
あの後、カフェテリアで簡単な昼食を買ったが、結局ナマエはほとんど食べなかった。スタンリーも目の前のサンドイッチに無造作にかじりつくが、いつものように食が進まない。
いつもなら、並んで弁当箱を開け、ナマエが「今日はちょっと味濃かったかも」と心配そうに言い、スタンリーは「普通」と返して、結局全部食べてしまう。
その普通が、今日はなかった。
ナマエは皿の上のサンドイッチを小さく食べながら、何度も「ごめんね」と言いそうになっては飲み込んでいるようだった。
スタンリーはそれを見るたび、胸の奥がもやもやしてしまう。
ナマエが悪いんじゃない。
何度もそう言おうとした。
しかし、おそらく何度そう言ったとて、今のナマエには気休めにすらならないだろう。
スタンリーはサンドイッチを口に放り込み、小さく息をつく。
何かが起こっている。
弁当はおそらく、意図的に持っていかれたのだろう。
誰が何のために?
犯人も、その意図も分からない。
ただ、一つだけはっきりしているのは、それがナマエを傷つけたということ。
スタンリーが怒りに震えるには、十分な理由だった。
***
ランチを終えてから、スタンリーはナマエとは別の選択学科へ向かった。
落ち込んだナマエから目を離すのは不本意ではあるが、こればかりは仕方がない。
別れ際に「また後でね」と笑ったナマエの顔。
笑っているのに、どこか泣きそうで、弱々しい、そんな顔。
あの顔を見ると、胸の奥が軋む。
移動教室のため、普段はあまり通らない廊下を歩く。校舎の端に近いその廊下は、生徒の数も少なく、ゴミ箱がいくつか並んでいた。
ふと、視線の端に何かが映った。
それは、最初は、ただの色に見えた。
淡い布の柄。
ナマエが弁当箱を包む時に使っているクロスと、似た色。
スタンリーの足が止まる。
視線がゆっくりとゴミ箱の方へ向かった。
ゴミ箱の口から覗くその布は、やはり見覚えのある色で。
スタンリーはゴミ箱に近づいた。
近づくにつれて、それは確信に変わる。
それはやはり、ナマエのクロスだった。ゴミの上に被せるように乗せられている。更にその下には、いつもスタンリーの弁当箱を包んでいる深い青色のクロスも見えた。
スタンリーはゴミ箱からクロスを拾い上げる。
「……は?」
ゴミに被せるように乗せられたクロスを取り払うと、更にその下に箱が二つ見えた。馴染みのある箱。
中身をゴミの中にひっくり返すような形で、無造作に放り込まれた二つの弁当箱。
スタンリーはしばらく動かなかった。
廊下の向こうで誰かが笑っている。教室から教師の声が漏れてくる。ロッカーの扉が閉まる音がする。
けれど、今のスタンリーには、その全てが遠かった。
彼はゆっくりと弁当箱の一つを拾い上げた。
見間違えるはずがない。
ナマエがスタンリーの分として使っている、少し大きめの弁当箱だった。蓋の端には、小さな傷がある。以前、スタンリーが急いで閉めようとして落とした時についた傷だ。ナマエは「大丈夫、まだ使えるよ」と笑っていた。
その時の顔が、頭に浮かぶ。
今日の昼、ロッカーの前で小さくなっていた顔も。
「今日はごめんね」と謝った声も。
スタンリーの指に、力が入った。
弁当箱の縁が小さく軋む。
誰が。
何のために。
しかし、そんな問いは、すぐに必要なくなった。
脳裏に浮かんだのは昨日の風景。ライアンたちの笑い声。ランチバッグを見下ろす視線。ナマエが困ったように笑いながら、それでも言い返した姿。
点が、線になる。
ざらつきが、胃の底で冷たく固まった。
今になってみれば、エリオットに感じていたものが、いかに子供じみた幼い苛立ちだったのかがよく分かる。
今のこれは、もうそんな可愛らしいものではない。
もっとはっきりと冷たくて、重くて、深いところにある感情。
ナマエが嫌な顔をした。
ナマエが自分を責めた。
ナマエが朝早く起きて作ったものが、踏みにじられた。
その事実が、スタンリーの内側を静かに塗り替えていく。
怒鳴りたいわけではない。
暴れたいわけでもない。
むしろ、頭はひどく冷えていった。
スタンリーは弁当箱を見下ろす。
空になったその箱は、ただの容器ではない。
ナマエの朝の時間であり、彼女の気遣いそのものだった。
「今日もスタンの分、作ってきたよ」と笑うナマエの声が聞こえた気がした。
スタンリーはもう一つの弁当箱も拾い上げ、蓋を閉めた。
かちり、と小さな音が廊下に落ちる。
その瞬間、彼の中で何かが冷たく切り替わった。
午後のチャイムが鳴る。
スタンリーは弁当箱を持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
その琥珀色の瞳は、冬の光を受けて冷たい光を宿していた。
























