弁当箱の一件が収まってから、数日が過ぎた。
あの日以降、ライアンたちは本当にナマエへ近づかなくなった。
廊下の向こうに姿が見えても、以前のように軽い調子で名前を呼ぶことはない。ロッカーの近くで偶然すれ違っても、彼らは何かを思い出したように視線を逸らし、少し不自然なほど早足に離れていく。
以前なら、ロッカーの前やカフェテリアへ向かう途中で、どこからともなく現れていた上級生たちは、まるで初めから存在しなかったかのようにナマエの視界から消えた。
「そういえば、ライアン先輩、最近見ないね」
昼休み、カフェテリアのいつもの席で、ナマエがぽつりと呟いた。
その日も、弁当箱は二つあった。
淡い青に白い花のクロスに包まれたナマエの分と、ネイビーのクロスに包まれたスタンリーの分。
新しい布はまだ少しだけ折り目が硬く、けれどナマエはそれを大切そうに扱っていた。
スタンリーは卵焼きを口に運びながら、何でもない顔で答える。
「さあね」
「何かあったのかな」
「飽きたんじゃねえの」
「そっか……」
ナマエは言葉とともに、どこかほっとした様な表情を浮かべた。
彼女は、人を悪く見ることが得意ではない。
ライアンがしつこく話しかけてきたことも、弁当箱が消えたことも、どこかで自分の不注意や相手との距離の取り方の問題として受け止めている節がある。
スタンリーは、それが面白くなかった。
けれど、彼女が何も知らないままでいることに、内心ほっとしている自分もいる。
「別に、あんたは何もしてねえんだし」
「……うん」
「気にすんな」
「うん。ありがとう、スタン」
ナマエは小さく笑った。
その笑顔を見て、スタンリーはまた、胸の奥が妙に落ち着かなくなるのを感じた。
弁当箱が戻ってきた日から、ナマエは以前と同じようにスタンリーの弁当を作ってきている。何も知らないまま、また朝の時間を自分のために使っている。
それが嬉しい。
けれど、嬉しいと思うたび、あの日のゴミ箱の光景が胸の奥を冷やした。
誰にも踏みにじらせたくない。
そう思った。
それは確かだった。
だが、その感情がどういうものなのか、スタンリーには分からない。
分からないまま、彼は今日も弁当を一つも残さず食べた。
***
放課後、ゼノの部屋でその話題が出たのは、ナマエがゼノの母に呼ばれて階下へ降りた後だった。
ゼノは机に向かいながら、分厚い本に目を落としていた。けれどページはしばらくめくられていない。スタンリーはソファに座り、ロリポップを口の端に寄せていた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
やがて、ゼノが先に口を開いた。
「ライアンたちは、あれからナマエに近づいてはいないようだね」
スタンリーはわずかに眉を動かした。
「よく知ってんね」
「ナマエが話してくれたよ。最近、彼らと話さなくなったとね」
「ふうん」
「君は、今またとても分かりやすい顔をしている」
「へえ、どんな顔よ」
「自分の行動が一定の効果を上げたことに安堵しつつも、ナマエに知られていないかを気にしている顔だね」
「……あんた、観察が趣味なん?」
「科学者にとって観察は基礎中の基礎さ」
ゼノはさらりと言い、椅子をくるりと回してスタンリーの方を向いた。
「君は、随分ナマエのことを気にかけているね」
スタンリーは返事をしなかった。
いつもの「別に」が出てこなかった。出そうとしたのに、喉の奥で引っかかった。
ゼノはその反応を見て、少しだけ目を細める。
「僕もナマエのことは大切に思っている。彼女が傷つくのは不快だし、今回の件は到底看過できるものではなかった」
「だったら何だよ」
「君の怒りは、それだけでは説明しきれないように見えた」
スタンリーの目が、ほんの少し鋭くなる。
「俺が怒ったら変かよ」
「変ではないさ。むしろ当然だ。ただ、興味深くてね」
「センセ、その目やめな。見透かされてるみたいで居心地悪いんよ」
「すまないね。癖のようなものさ」
全く悪びれていない声だった。
スタンリーは舌打ちし、視線を逸らした。けれど心の奥では、ゼノの言葉が妙に引っかかっていた。
説明しきれない。
それはスタンリー自身も思っていたことだった。
ナマエの弁当が捨てられたから怒った。
彼女が自分を責めたから腹が立った。
ライアンが彼女を軽く扱ったから許せなかった。
理由はある。
なのに、そのどれを並べても、あの時胸の奥で荒れ狂ったものの正体には届かない。
ナマエに近づくな。
あの言葉は、ほとんど反射のように出た。
自分でも驚くほど低く、強く。
「……なんで俺、あんなに腹立てちまったんだろうな」
ぽつりと零れた声は、スタンリー自身にも意外だった。
ゼノはそれをからかわなかった。
ただ静かに、彼の横顔を見ている。
やがて、階下からナマエの声が聞こえた。
「ゼノー、スタンー!お茶持っていくね!」
その明るい声に、部屋の空気が少しだけ緩む。
スタンリーはソファの背にもたれたまま、ぼそりと呟いた。
「ったく、暢気なこった。気が抜けんね」
ゼノはそれを聞いて、ほんの少し口元を上げた。
「それが彼女の良いところさ」
「ま、そうなんだろうな」
扉が開き、ナマエがトレイを持って入ってくる。
「二人とも、何話してたの?」
「感情の分類についてだよ」
ゼノが何食わぬ顔で答えた。
「感情?」
ナマエは首を傾げる。
スタンリーは即座に言った。
「長くなっから、聞かなくていい」
「え、ちょっと気になる」
「やめときな。戻れなくなんよ」
「スタン、失礼だね」
「事実だぜ」
ゼノは肩をすくめる。
「まったく。君たちは僕の講義の価値を理解していないね」
「ゼノ、私は聞くよ?」
ナマエがにこりと笑う。
その笑顔に、ゼノはわずかに目元を和らげた。
「では、まず感情を生理反応と認知評価の相互作用として考えると――」
「OK、やっぱ止めな先生」
スタンリーが即座に遮った。
ナマエがくすくす笑い、ゼノが少し不満げに眉を上げる。
いつもの部屋。
いつもの三人。
けれど、その日、ゼノは確かに一つの観察結果を胸の内に留めていた。
スタンリーがナマエへ向ける感情は、自分がナマエへ向けるものと似ているようで、どこか違う。
自分にとってナマエは、家族に近い。守りたい。慈しみたい。無茶をすれば叱りたいし、笑っていれば安心する。
けれどスタンリーのそれは、もう少し剥き出しで温度が高い。
不器用で、本人にも扱いきれない熱を含んでいる。
ゼノはそれを口にはしなかった。
まだ言葉にするには早い。
何より、スタンリー本人がその正体を知らないのだから。
***
休日の午後。
ナマエは小さな紙袋を持って、ゼノの家の前に立っていた。
二月の空は薄い雲に覆われている。雪は降っていないが、風は冷たい。ナマエはマフラーに顎を埋め、インターホンを押した。
出てきたのはゼノの母だった。
「ナマエちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは。ゼノ、いますか?」
「いるわよ。今日はずっと部屋にこもってるの。よかったら様子を見てあげて」
「はーい」
ゼノの母は、ナマエの持っている紙袋に視線を落とした。
「それは?」
「クッキーです。午前中に焼いたので、ゼノとスタンにもと思って」
「まあ、いつもありがとう。ゼノも喜ぶわ」
ナマエは少し照れたように笑い、階段を上がった。
ゼノの部屋の前で、軽くノックする。
「ゼノ、入ってもいい?」
「どうぞ」
中から聞こえた声はいつも通りだったが、少しだけ疲れているようにも聞こえた。
ナマエが扉を開けると、ゼノは机に向かっていた。机の上には大学の資料らしき紙束と、分厚い本が何冊も積まれている。
窓辺には天体望遠鏡。壁一面の本棚には、相変わらず専門書や図鑑がぎっしり詰まっている。
いつもの部屋。
けれど今日は、少しだけ空気が硬い。
「こんにちは、ゼノ」
「やあ、ナマエ。スタンはまだ来ていないよ」
「そっか。これ、クッキー持ってきたの」
「それはありがたいね。糖分は脳の活動に必要不可欠だ」
「それならちゃんと食べてね」
「もちろん」
そう言いながら、ゼノは紙束に目を戻した。
ナマエはいつものように丸椅子を引き寄せ、ゼノの隣に座る。紙袋からクッキーを出して紙皿に並べ、ゼノの手の届く位置へ置いた。
ゼノは一枚取って口に運ぶ。
「うん。美味しいよ」
「ほんと?」
「本当だとも。君の料理の精度は年々上がっているね」
「えへへ、ありがとう」
ナマエは嬉しそうに笑った。
しばらくの間、二人は静かに過ごした。ナマエは持ってきたレシピ本を読み、ゼノは資料に目を通す。時々、ゼノが何かを書き込み、ナマエがそれを覗き込んで「難しそう」と呟く。
「難しいというより、面倒と言うべきかな」
珍しくゼノがそう言った。
「面倒?」
「他人の書いた式の整理が甘い。仮定条件も不明瞭だ。こういうものを読むと、脳の処理リソースが無駄に消費される」
「それって、すごく疲れるってこと?」
「平たく言えばそうだね」
ゼノはそう言って、眉間を押さえた。
その仕草は珍しかった。
ゼノは疲れていても、それをあまり表に出さない。研究に没頭して食事を忘れることはあっても、疲労を自覚して休むことは少ない。だからこそ、ナマエはその小さな動きにすぐ気づいた。
「ゼノ、疲れてるの?」
「少しね。だが問題はないよ」
「それ、ゼノが言うとあんまり信用できないよ」
「おお、ナマエ。僕への評価が厳しくなっていないかい?」
「だってゼノ、放っておくと休まないんだもん」
ゼノは少しだけ苦笑した。
ナマエは本を閉じた瞬間、ふと昨夜テレビで見た番組の内容を思い出す。
家族向けの情報番組だった。食後、母と一緒に何となく見ていた。テーマは「リラックスするための方法」。そこで、ハグには疲れを和らげたり、安心感を与えたりする効果がある、と紹介されていた。
ナマエはその時、「へえ」と思った。
ゼノは今、疲れている。
なら、試してみてもいいかもしれない。
そう考えた瞬間、ナマエの行動は早かった。
彼女は丸椅子から立ち上がり、ゼノの椅子の背後へ回った。
ゼノは資料に視線を落としたまま、少しだけ首を傾げる。
「どうしたんだい?」
ナマエは答える代わりに、そっと両腕を伸ばした。
そして、椅子に座っているゼノを背後からふわりと抱きしめた。
細い腕が、ゼノの肩の前で軽く重なる。
突然のバックハグだった。
しかし五歳からの付き合いである二人は、今更ハグ程度で動じることもない。
案の定、ゼノも特に驚く様子は見せなかった。少しだけ瞬きをしてから、穏やかに尋ねる。
「ナマエ。これは何かの実験かな?」
「えっとね、昨日テレビで見たの」
「テレビ?」
「うん。ハグには、疲れを取ったり、リラックスする効果があるって」
「なるほど」
ゼノは一瞬で納得したように頷いた。
この状況で「なるほど」と返せる十二歳もなかなかいないが、やはりゼノはゼノだった。
「つまり君は、僕の疲労軽減を目的として接触刺激による心理的安定効果を検証しているわけだね」
「えっと……たぶん?」
「実に興味深い。ハグによる安心感には、皮膚感覚からの刺激や、心拍、体温、さらにはホルモン分泌の変化が関与していると言われている。人間は社会的動物だからね。信頼関係にある相手との身体的接触によってドーパミンやオキシトシンの分泌が促進され、ストレス反応が緩和される可能性はある。さらにセロトニンの安定にも関与するという説が――」
「ゼノ、ちょっと待って」
「何かな」
「ハグされながら講義始める人、初めて見た」
「貴重な初体験じゃあないか」
「うん、なんか、すごくゼノらしい」
ナマエはゼノを抱きしめたまま、少し困ったように笑った。
ゼノの背中は細い。けれど、昔よりずっと大きくなった。五歳の頃、この家で出会った時には、もっとずっと小さかったはずなのに、今では椅子に座っていても、肩がしっかりして見える。幼い頃から隣にいたが、こうして抱きしめると、ゼノもちゃんと成長しているのだと改めて分かる。
ナマエはその背中に額を少し近づけた。
「で、どうかな?」
「どう、とは?」
「疲れ、ちょっと取れた?」
ゼノは少しだけ考えた。
ナマエの腕は軽い。力を込めすぎないようにしているのだろう。背中側から伝わる体温はあたたかく、確かに不快ではない。むしろ、肩の力が抜けるような、脱力感にも似た感覚がある。
ゼノは椅子の肘掛けに手を置き、軽く息を吐いた。
「一定の効果はありそうだ」
「ほんと?」
「ああ。ただし、比較対象が必要だね」
「比較対象?」
ゼノはナマエの腕をそっとほどき、椅子をくるりと回して彼女の方を向いた。
そして、何のためらいもなく両手を広げてみせた。
「前からも試してみよう」
「前から?」
「条件を変えて効果を比較する必要がある。背後からの接触と正面からの接触で、リラックス効果に差が出るか確認したい」
ナマエはきょとんとした後、すぐに笑った。
「ゼノって本当に、何でも実験にしちゃうね」
ナマエは何のためらいもなく、椅子に座ったゼノを今度は正面から抱きしめた。
「どう?」
ナマエが尋ねる。
ゼノは真面目な顔で考え込んだ。
「なるほど。確かに効果がありそうだ」
「ほんと?」
「ああ。正面からの場合、視覚情報も加わる。相手の表情が見えることで安心感は増すかもしれない。ただし、僕の場合は研究の手が完全に止まるという欠点がある」
「え、そこ?」
「重要な点だよ」
ナマエが体を離すと、ゼノは腕を組んで少し考える仕草をした。
「結論として、僕の場合は後ろからハグされる方が合っているようだね」
「どうして?」
「研究の手を止めずにリラックス効果を得られる。実に効率的だ」
数秒の沈黙。
そしてナマエは吹き出した。
「なにそれ」
「実に合理的だろう?」
「ハグまで効率で考えるの、ゼノくらいだよ」
ナマエはおかしくてたまらないというように笑った。ゼノはその笑顔を見て、肩をすくめる。
「君が笑うなら、それもまた別の効果を得られそうだ」
「つまり、疲れは取れたってこと?」
「かなりね」
「ならよかった」
その答えに、ナマエは嬉しそうに頷いてから丸椅子に戻った。
ゼノもまた、少しだけ満足げにノートへ何かを書き込む。
「ハグ実験?」
「仮説と検証結果のメモだよ」
「え、ほんとに書いてるの?」
「勿論さ」
「ゼノ……」
ナマエは呆れながらも楽しそうだった。
ちょうどその時、階下から玄関の開く音がした。
ゼノの母が誰かと話している声が聞こえる。
「スタンだね」
しばらくして、階段を上がる足音が聞こえた。少し荒い。いつもより重い。
ノックもそこそこに、扉が開く。
「来たぜ」
スタンリーが顔を出した。
金髪が風に少し乱れている。口元にはいつものロリポップ。けれど目元に、わずかな疲れがあった。
ナマエがすぐに気づく。
「あれ、スタン、疲れてる?」
「あー、少しな」
ナマエは心配そうにスタンリーに近づく。
「何かあったの?」
「さっきまで、射撃場で雑用に付き合わされてたんよ」
「そうなんだ。大変だったね」
「まあな」
スタンリーは肩を回す。ソファへ向かいかけたが、その前に大きくため息をついた。
「はあ……」
そのため息に、ゼノの目が光る。
ナマエはまだ気づいていない。
けれどゼノは、先ほどのハグ実験の余韻をそのまま持っていた。
そして、目の前に疲れた被験者が現れた。
ゼノにとって、それはあまりにも都合のいい状況だった。
「ふむ」
ゼノは椅子から立ち上がった。
スタンリーが眉をひそめる。
「何」
ゼノは何も言わず、まっすぐスタンリーの前へ歩いていく。
「ゼノ?」
ナマエも首を傾げる。
次の瞬間、ゼノは正面からスタンリーを抱きしめた。
部屋の空気が一瞬で止まる。
スタンリーは完全に固まった。
目を細め、眉間に皺が寄る。顔全体が、これ以上ないほど「何やってんだコイツ」と語っていた。
「……ゼノ」
「何かな」
「あんた、何やってんよ?」
「ハグだよ」
「寝不足が祟って、ついにどっか壊れちまったか」
「おお、僕は至って真面目だがね」
「この状況を真面目だって思えんなら、あんた今すぐ頭の医者に行ったほうがいいぜ」
スタンリーの声は呆れを色濃く宿していた。
しかしゼノは平然としている。
「リラックスできるかい、スタン」
スタンリーはゼノに抱きしめられたまま、低い声で答えた。
「今んところ、リラックスどころか疑問と不信感が爆増してんよ」
ナマエは口元を押さえた。
「スタン……」
「何笑ってんよ、ナマエ」
「ご、ごめん。でも……」
ナマエは必死に笑いをこらえていた。
ゼノは数秒そのままスタンリーを抱きしめていたが、やがて体を離し、真剣な顔で腕を組んだ。
「ふむ。君には効果が薄いようだね」
「むしろ逆方向に全力疾走してんね」
「ナマエが試したところ、僕には一定の効果があったのだがね」
スタンリーの視線がナマエへ向く。
「……試した?」
「うん。ゼノが疲れてたから、ハグしてみたの」
「あんた何恥ずかしげもなく、当たり前のことみたく言ってんだ」
眉をひそめて呆れたように言うスタンリーに、ナマエは少し苦笑して返した。
「昨日テレビで、ハグにはリラックス効果があるってやってて」
「で、ゼノにやったわけ」
「うん」
「……へえ」
スタンリーの声が妙に低くなった。
ゼノはそれを興味深そうに観察していた。
「スタン。君の反応は実に面白いね」
「うるせえな」
「条件を変えれば結果が変わる可能性がある」
「興味ねえよ」
「いや、これも一種の実験だ。協力してほしい」
「お断りだね」
ゼノは全く聞いていない様子で、自分がさっきまで座っていた椅子を指した。
「そこに座るといい」
「何でよ?」
「感覚を研ぎ澄ませるためだよ。被験者には安定した姿勢が必要だ」
「被験者っつったな今」
「気のせいさ」
「絶対言っただろ」
「スタン、この研究において、君の協力は必要不可欠なんだ」
「その顔で言われると、ろくでもねえ予感しかしねえんよ」
ナマエは二人のやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
「スタン、ちょっとだけやってみたら?」
「ナマエまで何言ってんの」
「疲れてるんでしょ?もしかしたら、ゼノが少しは楽にしてくれるかもしれないよ?」
何の疑いもなく、ただスタンリーの身を案じるナマエ。
スタンリーは言葉に詰まった。
ナマエにそう言われると、強く断りづらい。
ゼノは勿論、その隙を逃さない。
「では決まりだね」
「決まってねえ」
「椅子へ」
「ホント話聞かねえな、あんた」
文句を言いながらも、スタンリーは結局ゼノの椅子に腰を下ろした。なんだかんだ座ってしまうあたり、彼はゼノにもナマエにも甘い。勿論、本人は認めないだろうが。
スタンリーは背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。
「で、次は何すんよ」
「まず目を閉じてくれ」
「何で」
「感覚を研ぎ澄ませるためだ。視覚情報を遮断することで、触覚、嗅覚、聴覚への集中が増す」
「怪しすぎんだろ」
「リラックス効果の検証だ。危険はないよ」
スタンリーは盛大にため息をついた。
これ以上のやり取りを不毛に感じたのか、諦めたように目を閉じた。
「これでいいか」
「おお、いいとも」
ゼノの声は正面から聞こえた。
ナマエは丸椅子の横に立っている。
スタンリーは目を閉じたまま、少しだけ肩の力を抜いた。
ばかばかしいと思う。ゼノの妙な実験に付き合わされているだけだ。ナマエも居る状況で、あまり大げさに嫌がるのも大人げないので、しぶしぶ付き合っているだけだ。
スタンリーが目を閉じたのを確認してから、ゼノが動いた。
ゼノはナマエに向かって、人差し指を立てて唇に当てて『シー』というポーズをとって見せる。
それから、その人差し指を今度はそっとスタンリーの方へ向ける。
ナマエはぱちぱちと瞬きをした。
そして、意味を理解する。
静かに、気づかれぬよう、スタンリーにハグせよ。
ゼノからの、無言のミッション指示だ。
ナマエは特に疑問は持たなかった。
さっきゼノにもしたのだ。疲れにハグが効くなら、スタンリーにもしてあげた方がいい。そういう、非常に素直な結論だった。
スタンリーも目を閉じている。驚かせすぎないよう、そっとやれば大丈夫だろう。
そう判断して、ナマエは足音を忍ばせて椅子の背面へ回った。
ゼノは表面上は真面目な顔をしているが、内心楽しくて仕方がない。
ナマエはスタンリーの背後に立ち、そっと両腕を伸ばす。
そして、最初にゼノへしたのと同じように、スタンリーを後ろからふわりと抱きしめた。
スタンリーは目を閉じたまま、少し眉を寄せる。
「何、結局さっきの続きかよ」
「そうだね」
ゼノが答える。
「何か感じるものはあるかい?」
「何かって……」
スタンリーはそこで、ふと違和感を覚えた。
ゼノの声が、正面から聞こえる。
耳元ではない。
では、今、自分を後ろから抱きしめているのは誰だ。
一瞬で、全身の感覚が研ぎ澄まされた。
肩に回された腕は細い。
触れる体温は柔らかい。
そして、鼻先をかすめる石鹸の香り。
ゼノの匂いではない。
清潔で、柔らかくて、どこか甘い。
これは―――。
心臓が、跳ねた。
冗談ではなく、跳ねた。
自分の胸の中だけではなく、部屋中に響いたのではないかと思うほどに、大きな音を立てた気がした。
「……」
スタンリーの喉が、ごくりと動く。
背中にある温度。
肩にかかる細い腕。
顔のすぐ近くにある気配。
目を閉じているせいで、余計に全部がはっきりする。
だめだ。
これは、よくない。
何がよくないのかは分からないが、とにかくよくない。
恐る恐る、スタンリーは目を開けた。
すぐ真横あった大きな黒い瞳と目が合った。
それは覗き込むようにしてこちらを見ている。
「あ、目開けちゃった」
ナマエが事もなげに言った。
その声が、近い。
近すぎる。
スタンリーは数秒、完全に停止した。
そして無言のまま、ナマエの腕をそっとほどいた。乱暴にはしない。
しかし、その動きは驚くほど速かった。まるで戦場で危険物を察知した兵士のような速さだ。
もっとも、今の彼にとっての危険物とは、目の前の少女の無邪気なハグである。
スタンリーは椅子から立ち上がり、いつもの定位置であるソファへ向かう。
ドサッ、と腰を下ろした。
そのまま右手で顔を覆い、思いきり下を向いてしまう。
そして深く。
本当に深く。
「はあぁぁぁ……」
部屋中の空気を全部吐き出すようなため息をついた。
ナマエは不思議そうに首を傾げる。
「スタン?大丈夫?」
「……大丈夫じゃねえけど、大丈夫」
「え、どっち?」
「聞くな」
耳が赤い。
ゼノはそれを見て、非常に興味深そうに目を細めた。
「なるほど」
「何がなるほどだよ」
「ハグも相手によって、その効果の期待値が大きく左右されるということだね」
「効果?あったの?」
ナマエが首を傾げる。
ゼノは満足げだった。
「僕が正面から行った時、スタンはリラックスどころか警戒値を上昇させた。しかしナマエが背後から行った場合、彼の疲労感は一瞬で吹き飛んだように見える」
「吹き飛んでねえ。むしろ別の何かが全速力で体当たりしてきてんよ」
「おお、それもまた興味深いね」
「ゼノ……あんた楽しんでんだろ」
スタンリーは顔を覆ったまま、ソファに沈んでいる。
ナマエはまだ状況をよく分かっていない。
「でも、疲れが飛んだならよかったね」
「よくねえ」
「ハグ、嫌だった?」
その問いに、スタンリーは一瞬で顔を上げた。
「嫌とかじゃねえよ」
声がやや強い。
ナマエがぱちりと瞬きをする。
スタンリーは自分の声の大きさに気づき、すぐに視線を逸らした。
「……急だったかんね」
「そっか。びっくりさせちゃってごめんね」
「謝んなくていい」
「うん?」
「……別に、怒ってるわけじゃないかんね」
ナマエは少しだけ笑った。
「じゃあ、今度は先に言うね」
「いや、今度って何よ」
間髪入れないスタンリーのつっこみに、ゼノがすかさず口を挟む。
「継続的なデータ取得は精度の向上に必要だよ」
「精度上げてどうすんよ。そもそも、俺を実験台にすんな」
「君の反応は非常に分かりやすいからね。数値が取りやすい」
「勘弁してくれ」とばかりに呆れた表情を浮かべるスタンリー。
ナマエは二人のやり取りを聞きながら、楽しそうに笑っていた。
「スタン、顔赤いよ」
「寒いんよ」
「部屋あったかいよ?」
「んじゃ暑いんよ」
「え、どっち?」
「聞くなっつってんだろ」
ゼノは机に戻り、ノートへ何かを書き始める。
スタンリーはその動きを見逃さなかった。
「おい待ちな、何書いてんよ」
「実験結果だよ」
「消しな」
「貴重な記録だ」
「消しな、今すぐに」
「安心したまえ。個人名は伏せよう」
ナマエはついに声を出して笑った。
ゼノも楽しそうに口元を緩めている。
スタンリーだけが、ソファで顔を覆いながら、ひどく疲れたように天井を仰いだ。
だが、その疲れは、家に来た時のものとは違っていた。
父の用事に付き合わされた疲れでも、先日の上級生の件のような苛立ちでもない。
もっと厄介で、落ち着かなくて、胸の奥が妙に騒がしいもの。
ナマエの腕の感触が、まだ肩のあたりに残っている気がする。
石鹸の香りも。
真横にあった黒い瞳も。
「目開けちゃった」と平然と言った声も。
彼女は何も気にしていない。
本当に、何も。
それがまた、スタンリーを妙に追い詰める。
なぜ自分だけが、こんなに理不尽に動揺しなければならないのか。
「ゼノ」
スタンリーが顔を覆ったまま低く呼ぶ。
「何だい」
「あとで覚えてな」
「おお。怖いね、スタン」
まったく怖がっていない声だ。
ナマエは丸椅子に戻り、まだ笑いながら言う。
「でも、ハグって本当に効果あるんだね」
「ふむ。そのようだね」
ゼノが真面目に頷く。
「少なくとも、スタンには劇的な効果があったようだ」
「劇薬の間違いだろ」
「毒は使い方次第で薬にもなり得る」
「屁理屈言ってんじゃねえよ……」
ゼノは満足気にノートを閉じた。
今日の思わぬ実験の結果は、十分すぎるほど得られた。
ナマエは相変わらず無自覚で、スタンリーは相変わらず自分の感情が分からないでいる。けれど、彼の反応はあまりにも雄弁だった。
ゼノはまだ、それを本人に告げない。
今はまだ、観察の段階だ。
それに、この三人の空気を、急いで変える必要もない。
ナマエがゼノの隣で笑い、スタンリーがソファで顔を覆い、ゼノが机で満足げに実験結果をまとめる。
いつもの部屋が、今日は少しだけ騒がしい。
そしてその騒がしさは、ゼノにとっても、スタンリーにとっても、ナマエにとっても、ひどく心地よいものだった。
「ゼノ」
「なんだい、ナマエ」
「今度疲れてたら、また後ろからハグしてあげるね」
「おお、それは助かる。研究効率とリラックス効果を両立できるね」
「スタンも疲れてたら言ってね」
「お断りだね」
「遠慮しなくていいよ?」
「遠慮じゃねえよ。自己防衛だ」
「自己防衛?なんで?」
ナマエが不思議そうに首を傾げる。
ゼノは珍しく肩を震わせて笑いをこらえていた。
スタンリーはそれを見て、ますます恨めしげに睨む。
「センセ、笑ってんじゃねえよ。何とかしな」
「いや、実に有意義な休日じゃあないか」
「俺にとってはこれっぽっちも有意義じゃねえんよ」
「おや、そうかい?君の感情反応に関するデータは飛躍的に増えたがね」
「それ、俺に何の得があんの」
「将来、自分を理解する助けになるかもしれない」
「今すぐ理解したいのは、なんで俺が休日にこんな目に遭ってんのかってことだけどな」
「二人とも、ほんとに仲良しだね」
「ナマエ、あんたは今すぐ目の医者に行きな」
部屋の中に、また笑い声が響く。
部屋の空気が、また少しだけ柔らかくなった。
ゼノは穏やかに目を細めると、満足げにノートの隅へ追加で小さく書き込んだ。
―――ハグ効果、相手依存性あり。スタンリーにおいて顕著。
「あ、ゼノ、今また何か書いたでしょ」
ナマエが覗き込もうとする。
「気のせいさ」
「おい先生、見せな」
「おお、スタン。科学には秘匿すべきデータもある」
「いや、むしろ個人情報だろ。燃やせ、今すぐ」
「紙資源の無駄遣とは、エレガントじゃあないね」
「日頃から書いては握り潰すをくり返すあんたに言われたかないね」
「二人とも、ケンカしないの」
ナマエの一言で、二人は同時に黙った。
ゼノは肩をすくめ、スタンリーは舌打ちをする。
その絶妙な息の合い方に、ナマエはまた笑ってしまう。
ゼノは涼しい顔でクッキーを一枚つまんだ。
「ナマエ、クッキーをもう一枚もらっても?」
「もちろん。スタンも食べる?」
「食う」
ナマエが皿を差し出すと、スタンリーは一枚取った。口に入れると、甘い味が広がる。
さっきまで跳ねていた心臓は、まだ少し速い。
けれど、ライアンの件で胸の奥に残っていた冷たいものは、この賑やかさの中で少しずつ薄れていくようだった。
いつもの三人。
守りたいと思った時間が、ここにはある。
スタンリーはソファに沈みながら、視線だけでナマエを見る。
ナマエは自分が何をしたのか、まるで分かっていない顔でクッキーを食べている。さっき自分を後ろから抱きしめたことも、スタンリーの心臓をどうしようもなく跳ねさせたことも、たぶん明日には何気ない日常の記憶になってしまうのだろう。
本当に、危なっかしい。
そして、ずるい。
スタンリーは小さく息を吐いた。
ゼノはその視線を見逃さなかったが、何も言わなかった。
ただ、心の中で静かに結論を一つ保留する。
スタンリーがナマエに向ける感情の正体を。
それを言うのはまだ早い。
今はただ、この騒がしくて温かい部屋を眺めていればいい。
二月の冷たい風が、窓の外で小さく鳴っていた。
冬の休日の午後。
ゼノの部屋には、クッキーの甘い匂いと、少年少女の賑やかな声が満ちている。
そこは、ひどくあたたかな場所だった。
























