和田が東京の大学に進学した理由の一つに、中学時代の先輩が影響していた。
そして今こうして、早朝の蒲田駅に降り立つのも、その先輩が関わっている。
(……結構、人おるな)
自分が出てきたばかりの駅の出口には、これから出勤、もしくは登校する人々が途切れない程度で吸い込まれていく。その人の流れに逆らって駅前に足を踏みだせば、右手側にくたびれた印象のビルが見えた。そしてその入り口らしき場所には、和田もよく知るファミレスの看板がかかっている。
(あれかな……?)
こちらに上京した春先に一度、その先輩とは食事をした。その時にバイト先のことや、何時まで働いているかなどを聞いていたのだ。その時間よりはまだかなり早い。
(……もしも今日、バイトに入ってはったら……。そんで、ここにおったら。出てきた先輩と会えるやろか……)
そんなことをぼんやりと考えながら、あてもなく駅前を歩き始めた。朝のくせに日差しは強く、首筋にジワリと汗がにじむ。
そうして、アホのように30分近くただ無意味に駅前をうろつき、和田は再び駅前に戻ってきた。
時刻はようやく朝の6時45分。
どうして自分がここにいるのかを、一瞬見失う。人の流れがある中で立ち尽くす和田は、少しだけ目立っていた。
「兄ちゃん、大丈夫~?」
「……え」
聞き慣れたイントネーション。
だが、進学してからは耳にすることが激減した地元の音程に、和田は思わず体が跳ねる。
(でか……。なんや、この人)
見上げるほどではない。だが体の厚みなどのせいだろうか。
和田に声をかけてきた人物はこちらを圧倒してくる威圧感があった。
「俺の声、聞こえとる?」
「……っ、あ、はい。大丈夫です」
「そう。なんやぼうっとしとったから、熱中症か~って心配してもうたわ」
にぃっと笑いかけられたが、なぜか背筋が寒くなる。
「兄ちゃん、ここら辺の子?」
「……は? なんで……」
「やっぱり関西の子かぁ。イントネーションそっちやん。あっ、これ。関西弁がアカンとかいう話ちゃうで」
「は、はぁ……、えっと――」
そこで、どう呼び掛けていいか悩んで言葉に詰まる。目の前の胡散臭い人物は、おっさんというには若く見え。かといってお兄さんというには年を取っているように見えた。
なにより、この怪しげな人物に対して、親しげに「おじさん」も「お兄さん」も使いにくい。致し方なく、呼称は省いた。
「……こちらに住まれてるんですか?」
「俺は仕事で時々こっちに来るだけ。ずっと大阪ヨ」
男は、和田も良く知る地元の地名をあげた。
「あと、付き合ってる人とのデートでもちょこちょここっちに来んねん」
「そうなんですか……」
「今日もこれからデートやねんけど、まだ仕事終わってへんくてね」
なぜ自分は、見ず知らずの人物から、恋バナを聞かされているのだろう。
「……あの、それなら早くお仕事を済ませてしまったほうが、いいんじゃないでしょうか」
「あ~、ちゃうちゃう。俺が仕事終わってへんのやなくて、お付き合いしてる人がまだ仕事中やねん」
こんな朝まで?
怪訝に思いつつも、目の前の格安量販店しかり、和田の先輩のバイト先しかり、いくつも看板が見えるカラオケ屋しかり。
深夜から明け方まで営業している店はたくさんある。ただなんとなく、この男の交際相手は水商売などそちらの系統の女性なのではないかと思った。
サラリーマンの知り合いがいるわけではないが、どうにも一般的な勤め人の気配がしない男だったからだ。
そして改めてみると、男の年齢が読めないのはその整った容姿のせいだと気づいた。
彫りの深い顔。均整の取れた体躯。
目つきも、声の出し方も、なぜか人の目を引き付ける。
色男とはこういう人物のことを言うのだろうが、それにしてはどこかうすら寒い印象がぬぐえない。
和田が危機感をじわじわ高めている間にも、男はペラペラとしゃべり続けた。
「でも、あと少しで仕事が上がるし、楽しみやわ~。眠そ~な顔でやってきて、俺の前でもそもそ飯食う姿を見るんがめっちゃ好きやねん」
「な、るほど……?」
「あっ、ごめんなぁ。同じ大阪出身やと思うと話やすうて、ようけしゃべってもうてるな。ほら、こっちの人間ってこの距離感でしゃべると引くやん?」
「は、はあ……」
適当に相づちを打ちながら、和田はふと引っかかった。
自分は大阪出身だとこの男に告げただろうか。
関西弁だから、そう決めつけられたのだろうか。
「俺の付き合うてる人な、めっちゃ頑張り屋さんやねん。仕事もお勉強も、俺との恋にも一生懸命! そら俺も腹くくって頑張らなーってなるやん。わかる?」
「え、あ、はい。……はい?」
「ちょーっとていうか、実はめっちゃ年離れてんねん。せやし、これは俺が自制せななーって思っとったし、俺が適度に制止もかけられると思とってん。……いやー、とんだ思い上がりやったわ。これまでさんざん女転がし……んんっ、お付き合いしてきて、主導権握らせたように見せてほんまに俺が主導権握れんかったことないんやけど。ほんまあかんわ。あの子の瞬発力舐めてたわ。俺が考えうる予想超えてくんねん。ちゃんと友情と親愛でとどめとかな思てたのに、いやあーーーーーあかんかったわーーーー。まぁ、付き合う前から、LI〇Eで呼ばれただけで『明日行こかー』とか言ってもうてる時点で、俺も相当いかれててんけどネ!」
この人、こんだけしゃべって喉が渇かないのだろうか。
とんだ肺活量だな、と和田は思考を飛ばしながら思った。
自分はただ、懐かしい先輩にちょっと会いたくて、大学の1限目が始まる前に寄り道をしただけだった。
それなのにいまは正体不明の男に延々と絡まれ、惚気られている。
暑い。どこかで休みたい。
和田が現実逃避をしているうちに、時間は過ぎ去っていく。たぶん男の惚気も進んでいたが、途中からほとんど聞いていなかった。
そして時刻は朝の7時を回る。
和田の視界の端に、目当てのビルの階段を上ってくる人物の姿が見えた。
小さな頭。黒い頭髪。朝日を反射するメガネ。
いろんな意味で待ち焦がれた人。
「……おk「聡実くん!」
自分の声を遮り、男の声が響いた。
「え……?」
和田の戸惑いの声と、こちらを向いた聡実が眉を吊り上げるのは同時だった。
「なんで狂児と和田が一緒におんねん!」
駆け寄ってきた聡実は、胡散臭い男に向かって吠える。そして、はっとしたように和田を振り返った。
「和田、こいつに絡まれたんか? なんもされてないな?」
慌てた様子で安否確認をしてくる様子に、部長時代の彼を思い出す。こんな風によく構ってもらい、そしてよく助けてもらったのだ。
甘い疼きが胸を走り抜け――
「え~~~~! 俺がこんないたいけな学生さんになにする言うねん。しっつれいな話やな~」
腹に響く声が、和田の甘い何かを薙ぎ払った。
あの男は楽しそうに笑って、こともあろうに聡実の肩に腕を回す。それを容赦なく解かれて「ひど~」とぼやく男は、いったい何者なのか。
「一般……、そこらへんの大学生に、なにするとも思わへんけど……、普通にびっくりするやろ。どんな接点で和田がお前と関わるんや」
「ここでばったり♡」
「胡散臭いねん」
「ハハッ……!」
ギロリとひと睨みする聡実は、部長時代の穏やかな人物像からはかけ離れている。和田は戸惑わずにはいられなかった。
「えっと、あの……」
「まぁええ。……えっと、そんで和田はどうしたん?」
どうしたと問われたら、答えに窮する。
ただ自分は、自分は――?
「なぁなぁ! 和田くんって、聡実くんの中学の時の合唱部の後輩やんな~?」
男の声が、和田の思考を再び断ち切った。
「それ和田から聞いたん?」
「さっきね」
しれっと答える男を、驚愕して見つめた。言うまでもないが和田はそんな話をしていない。その和田の動きは聡実に素早く見とがめられた。彼は再び男を睨みつける。
「わざとらしく、そういうのせんとください。和田が怖がるやろ」
「…………だってぇ」
「ええ年したおっさんが拗ねるな!」
あいからわず通る、良い声だ。こんな時のなのに、そんなことを思ってしまう。
そして、この正体不明の怪しい男は、叱られた子供のように声を上げた。
「やってさあ! おかしいやん! 和田くんの大学って市ヶ谷やで! なんでこんな朝から狙い撃ちみたいに蒲田におんねん! しかも聡実くんのバイトの終わる時間にやでっ!」
指さされて、一気に顔に血が上る。
おい、おっさん! なにを岡先輩の前で赤裸々に暴露してくれてんねん! そんなん言うたら、俺が岡先輩に会うために蒲田に来たんがバレバレやん! 言われて自覚したけど、こんなんストーカーみたいでキモいヤツや……。アカン、マジでこれキモい……絶対に岡先輩に引かれる!
たくさんの思いが渦巻くが言葉にならない。ただ池の鯉のようにパクパクと口を開いては、閉じるを繰り返した。
そして、ようやく口にできたのは、思っていることとはかけ離れた内容だった。
「……ていうか、なんで俺の大学が市ヶ谷にあるって……知ってるんですか、この人……」
純粋に怖い。
聡実と和田の関係も知られていた。
いったい何なんのだ、この男は。
そう言えば、さっきこの男は何のためにここにいると言っていた?
確か付き合ってる人を――
「狂児、おまえ……!」
「ちゃうて、聡実くん。単なるブラック企業秘密ヨ~」
「黙れ、このゴミ虫野郎!」
岡先輩の渾身の蹴りが男の脛に炸裂する。だがそれは「いたー」という、まったく痛そうではない声を男に上げさせるに終わった。
そして和田の身辺を知る男の正体はわからないまま、この件は濁された……。
***
聡実からなんやかんや話しかけられたが、和田はそれに生返事しかできなかった。
そして帰路に就くという二人を見送ってしまうと、いったい何のために蒲田まで来たのかと我にかえって呆然とする。しかし、彼らの背中が視界から消えるのを見た瞬間、和田は再び衝動で動いた。
細い道に入って行った二人なら、すぐに追いつくだろう。そして何の覚悟もせずに動いたツケはしっかり払う羽目になった。
和田は、路地裏で男に抱きしめられる聡実を見てしまうこととなる。救いは、聡実が背中を向けていたことか。
「狂児、嫉妬したん?」
聞いたことのない、甘えのにじむあの人の声に息をのんだ。
「するよ……。やって若者のパッション、怖いもん」
「僕が好きなんは、お前や」
「俺も聡実くんを愛してるよ」
「……うっさい」
「このまま聡実くんの部屋に帰ろ。お邪魔させてや。ひと眠りする前にシャワー浴びたいねん」
「勝手に入って待ってたらええて言うたやろ」
そこまで聞いて、和田は後ずさってそのまま駅に向かって駆けだした。
これは失恋ではない。そういうのではないはずだ。
でも、あのころ自分にとって特別だった人は、永遠に自分の特別にはなってくれない現実をはっきりと突き付けられた。
そして、ずっと和田を見たまま甘い言葉をささやいていたあの男……!
したり顔で笑う憎々しい顔!
和田の心に生まれかけていた、レモン味の甘酸っぱい何かしらの感情は、得体のしれないおっさんに笑って握りつぶされたのだった。
岡先輩へ。あなたは男の趣味が悪いと思います。
そして、おっさんは死ね。
(おしまい)
























