その夜は、満月だった。
夜空に浮かぶ月は、いつもよりずっと近く見えた。
手を伸ばせば指先が触れてしまいそうなほど大きく、冷たく、そして眩しい。
満月は人の心を狂わせる。
誰かがそう言っていたのを、アドマイヤベガはぼんやりと思い出していた。
普段なら胸の奥深くに沈めておける言葉も、今夜だけは銀色の光にすくい上げられてしまう。
隠していた想いが、静かな水面に浮かぶ泡のように、ひとつ、またひとつと息をしてしまう。
練習コースの脇に置かれたベンチ。
そこに、彼女と担当トレーナーは隣り合って座っていた。
昼間の熱気を失ったトラックは、夜露を含んで淡く光っている。
遠くの寮の窓明かりも、今はどこか別の世界のもののようだった。
アヤベは空を見上げる。
月のすぐ横に、ひときわ明るい星があった。
惑星か、一等星か。
それがどちらであるか、すぐには判断がつかなかった。
「綺麗だな」
トレーナーが言った。
その声は、夜気に溶けるように静かだった。
普段のような軽さも、冗談めいた響きもない。
「ええ」
アヤベは短く答える。
それきり、沈黙が落ちた。
ただの沈黙ではない。
息をすることさえためらうような、重く、深く、逃げ場のない沈黙だった。
トレーナーは横目でアヤベを見る。
彼女の横顔は月明かりに照らされて、いつもより白く、どこか儚く見えた。
やがて、アヤベが静かに口を開いた。
「……行ってしまうの?」
「ああ」
トレーナーは頷いた。
「どうしても?」
「もう決めたんだ」
風が吹いた。
アヤベの髪が、ほんの少し揺れる。
彼女は唇を結んだ。
理屈ならわかっている。
彼が気まぐれで離れるわけではないことも、彼自身が望んで行くわけではないことも。
彼には彼の仕事がある。担当トレーナーである前に、一人の大人として果たすべき役割がある。
そんなことは、わかっている。
わかっているからこそ、余計にたちが悪かった。
「私を置いていくの?」
その声は責めるようでいて、泣いているようでもあった。
アヤベは言ってしまってから、少しだけ後悔した。
子どもじみている。
重すぎる。
困らせるだけだ。
それでも、言葉は戻らない。
トレーナーは隣で小さく息を吐いた。
責めるようなため息ではなかった。困ったような、けれどどこか優しい吐息だった。
「……残念だけど、連れてはいけない」
その声は冗談めかしてもいなかった。
だからアヤベも、ふざけて返すことができなかった。
アヤベは膝の上で指を組んだ。
白い指先に、ぎゅっと力がこもる。
「私を忘れて欲しくないの」
声がまた、勝手にこぼれた。
トレーナーがこちらを見る気配がした。
アヤベは振り返らない。月を見ているふりをした。そうしていないと、自分でも何を言い出すかわからなかった。
「忘れないよ」
「本当に?」
「ああ」
「……本当に、本当?」
「本当に本当」
少しだけ、いつもの彼らしい声に戻った。
けれどアヤベの胸のざわめきは収まらない。
「……たまにでいいから連絡して」
「わかった」
「……できれば毎日がいい」
「了解」
「朝と夜」
「増えたな」
「朝は、その日の予定を聞きたいから。夜は、その日あったことを聞きたいから」
「業務報告みたいだ」
「違うわ」
アヤベはそこで、ようやく彼の方を見た。
「あなたの声を聞きたいだけ」
トレーナーは何か言いかけて、口を閉じた。
その反応に、アヤベは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
言い過ぎたかもしれない。
けれど、撤回する気にはなれなかった。
満月のせいだ。
そういうことにしておけばいい。
「電話もして」
「メッセージだけじゃ駄目か?」
「駄目」
即答だった。
「声が聞きたいから」
「……毎日は難しい日もあるかもしれないぞ」
「なら、難しくない日はして」
「まあ、それなら」
「寝る前がいいわ」
「時間指定まで入った」
「眠る前にあなたの声を聞いたら、少しは眠れる気がするから」
また沈黙。
トレーナーは額に手を当てた。
月明かりの下でもわかるほど、表情が複雑だった。
アヤベは真剣だった。
少なくとも、真剣な顔をしていた。
「手紙も欲しいわ」
「……手紙?」
「ええ」
「メッセージも電話もするのに?」
「形に残るものが欲しいの」
アヤベは視線を落とした。
「手書きの文字には暖かみがあるから。あなたがその時、私のことを考えて書いたものが残るでしょう?」
トレーナーは眉間を押さえた。
月は相変わらず美しく、星は相変わらず澄んでいた。
そして隣に座る担当ウマ娘は、相変わらず真剣そのものだった。
「アヤベ……」
「なに」
「それはもう、遠距離恋愛のそれなんだよ」
「……そう」
「そう、じゃなくて」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「問題があるの?」
「いや、問題っていうか……」
トレーナーは言葉を探すように夜空を見上げた。
月の横の星は、変わらず強い光を放っている。
しばらくして、彼は諦めたように肩を落とした。
「一週間の出張だぜ?」
沈黙。
今度の沈黙は、さっきまでのものとは少し違っていた。
アヤベはゆっくりと瞬きをした。
それから、何事もなかったかのように視線を月へ戻す。
「知っているわ」
「知っててそれなのか」
「一週間は長いもの」
「まあ、短くはないけど」
「七日よ」
「うん」
「百六十八時間」
「急に具体的だな」
「一万八十分」
「やめろ。重みが増す」
「六十万四千八百秒」
「秒で数えるな」
アヤベは少しだけ頬を膨らませた。
ほんの少し。
本人はきっと不満の表情のつもりなのだろうが、月明かりの下ではただただ可愛らしく見えてしまう。
「……あなたは平気なの?」
「平気ってわけじゃないさ」
トレーナーは苦笑した。
「俺だって、アヤベの練習を直接見られないのは気になるし、体調も心配だし、ちゃんと眠れてるかも気になる」
「なら」
アヤベがすぐにこちらを見る。
「毎日電話して」
「そこに戻るのか」
「戻るわ。大事なことだから」
「わかったよ。できるだけ毎日連絡する。電話もする」
「手紙は?」
「……出張先から一通は出す」
「三通」
「一週間で?」
「少ない?」
「多いな」
「では二通」
「交渉が早いな」
アヤベはそこでようやく、ほんのわずかに笑った。
月の光より淡く、星の瞬きより控えめな笑みだった。
トレーナーはその表情を見て、降参したように息を吐く。
「わかった。二通。毎日メッセージ。電話はできる日は必ず」
「約束?」
「ああ、約束」
アヤベは彼の小指を見つめた。
トレーナーは一瞬きょとんとして、それから察したように自分の小指を差し出す。
「指切りか?」
「……念のためよ」
「信用ないなぁ」
「信用しているから、形にするの」
彼女の小指が、そっと絡む。
冷たく細い指だった。
けれどその奥には、いつもの彼女からは想像しづらいほどまっすぐな熱があった。
「破ったら?」
アヤベが問う。
「え?」
「約束を破ったら」
「……帰ってきたら、好きなだけ練習メニューの相談に乗る」
「それはいつもしているわ」
「じゃあ、ふわふわの毛布を買ってくる」
アヤベの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……質によるわ」
「急に審査が厳しい」
「肌触りは大事だもの」
「はいはい。最高品質を探してくる」
「約束ね」
「はいはい」
指が離れる。
満月は変わらず二人を照らしていた。
人の心を狂わせるという銀色の光は、たしかに今夜、アヤベの胸に秘めた言葉をいくつもこぼさせた。
けれどトレーナーは思う。
狂わされたのは、きっと彼女だけではない。
一週間離れるだけで、こんなにも名残惜しくなる。
こんなにも、隣にいる時間が惜しくなる。
そんな自分もまた、月に少しばかり惑わされているのかもしれない。
「アヤベ」
「なに」
「帰ってきたら、またここで月を見よう」
アヤベは少しだけ目を伏せた。
「……満月じゃなくても?」
「満月じゃなくても」
「星が見えなくても?」
「曇ってても」
「雨でも?」
「屋根のあるところでな」
アヤベは今度こそ、小さく笑った。
「なら、待っているわ」
「うん」
「ちゃんと帰ってきて」
「もちろん」
「お土産も忘れないで」
「毛布?」
「それと、あなたの無事」
「重いなぁ」
「軽いよりいいでしょう」
「まあな」
二人はまた、同じ月を見上げた。
月の隣の明るい星が、静かに瞬いている。
その正体は、やはりトレーナーにはわからなかった。
けれど今夜のアヤベが、少しだけ寂しがりで。
少しだけわがままで。
そして思っていたよりずっと、自分のことを待ってくれている。
それだけは、はっきりとわかった。
「……毎日よ」
「わかってる」
「朝と夜」
「善処します」
「電話」
「します」
「手紙」
「二通」
「毛布」
「買います」
「忘れたら」
「怖いから忘れません」
アヤベは満足そうに頷いた。
満月は、人の心を狂わせる。
けれどその狂気がこんなにも愛おしいものなら、
たまには月に惑わされる夜があってもいい。
トレーナーはそう思いながら、出張用の荷造りに、便箋と封筒を買い足すことを心に決めた。






















