Novel29 days ago · 3.9k chars · 1 pages

満月の夜に少しだけ素直になるアヤベさん

ClosureClosure

満月に照らされた夜、アヤベはいつもより少しだけ素直になる。 言葉にできなかった寂しさが、そっと二人の距離を近づける。

その夜は、満月だった。

夜空に浮かぶ月は、いつもよりずっと近く見えた。
手を伸ばせば指先が触れてしまいそうなほど大きく、冷たく、そして眩しい。

満月は人の心を狂わせる。

誰かがそう言っていたのを、アドマイヤベガはぼんやりと思い出していた。
普段なら胸の奥深くに沈めておける言葉も、今夜だけは銀色の光にすくい上げられてしまう。
隠していた想いが、静かな水面に浮かぶ泡のように、ひとつ、またひとつと息をしてしまう。

練習コースの脇に置かれたベンチ。
そこに、彼女と担当トレーナーは隣り合って座っていた。

昼間の熱気を失ったトラックは、夜露を含んで淡く光っている。
遠くの寮の窓明かりも、今はどこか別の世界のもののようだった。

アヤベは空を見上げる。

月のすぐ横に、ひときわ明るい星があった。
惑星か、一等星か。
それがどちらであるか、すぐには判断がつかなかった。

「綺麗だな」

トレーナーが言った。
その声は、夜気に溶けるように静かだった。
普段のような軽さも、冗談めいた響きもない。

「ええ」

アヤベは短く答える。

それきり、沈黙が落ちた。
ただの沈黙ではない。
息をすることさえためらうような、重く、深く、逃げ場のない沈黙だった。

トレーナーは横目でアヤベを見る。
彼女の横顔は月明かりに照らされて、いつもより白く、どこか儚く見えた。

やがて、アヤベが静かに口を開いた。

「……行ってしまうの?」

「ああ」

トレーナーは頷いた。

「どうしても?」

「もう決めたんだ」

風が吹いた。
アヤベの髪が、ほんの少し揺れる。

彼女は唇を結んだ。

理屈ならわかっている。
彼が気まぐれで離れるわけではないことも、彼自身が望んで行くわけではないことも。
彼には彼の仕事がある。担当トレーナーである前に、一人の大人として果たすべき役割がある。

そんなことは、わかっている。
わかっているからこそ、余計にたちが悪かった。

「私を置いていくの?」

その声は責めるようでいて、泣いているようでもあった。

アヤベは言ってしまってから、少しだけ後悔した。

子どもじみている。
重すぎる。
困らせるだけだ。

それでも、言葉は戻らない。

トレーナーは隣で小さく息を吐いた。
責めるようなため息ではなかった。困ったような、けれどどこか優しい吐息だった。

「……残念だけど、連れてはいけない」

その声は冗談めかしてもいなかった。
だからアヤベも、ふざけて返すことができなかった。

アヤベは膝の上で指を組んだ。
白い指先に、ぎゅっと力がこもる。

「私を忘れて欲しくないの」

声がまた、勝手にこぼれた。

トレーナーがこちらを見る気配がした。
アヤベは振り返らない。月を見ているふりをした。そうしていないと、自分でも何を言い出すかわからなかった。

「忘れないよ」

「本当に?」

「ああ」

「……本当に、本当?」

「本当に本当」

少しだけ、いつもの彼らしい声に戻った。
けれどアヤベの胸のざわめきは収まらない。

「……たまにでいいから連絡して」

「わかった」

「……できれば毎日がいい」

「了解」

「朝と夜」

「増えたな」

「朝は、その日の予定を聞きたいから。夜は、その日あったことを聞きたいから」

「業務報告みたいだ」

「違うわ」

アヤベはそこで、ようやく彼の方を見た。

「あなたの声を聞きたいだけ」

トレーナーは何か言いかけて、口を閉じた。

その反応に、アヤベは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
言い過ぎたかもしれない。
けれど、撤回する気にはなれなかった。

満月のせいだ。

そういうことにしておけばいい。

「電話もして」

「メッセージだけじゃ駄目か?」

「駄目」

即答だった。

「声が聞きたいから」

「……毎日は難しい日もあるかもしれないぞ」

「なら、難しくない日はして」

「まあ、それなら」

「寝る前がいいわ」

「時間指定まで入った」

「眠る前にあなたの声を聞いたら、少しは眠れる気がするから」

また沈黙。

トレーナーは額に手を当てた。
月明かりの下でもわかるほど、表情が複雑だった。

アヤベは真剣だった。
少なくとも、真剣な顔をしていた。

「手紙も欲しいわ」

「……手紙?」

「ええ」

「メッセージも電話もするのに?」

「形に残るものが欲しいの」

アヤベは視線を落とした。

「手書きの文字には暖かみがあるから。あなたがその時、私のことを考えて書いたものが残るでしょう?」

トレーナーは眉間を押さえた。
月は相変わらず美しく、星は相変わらず澄んでいた。
そして隣に座る担当ウマ娘は、相変わらず真剣そのものだった。

「アヤベ……」

「なに」

「それはもう、遠距離恋愛のそれなんだよ」

「……そう」

「そう、じゃなくて」

彼女は少しだけ首を傾げた。

「問題があるの?」

「いや、問題っていうか……」

トレーナーは言葉を探すように夜空を見上げた。
月の横の星は、変わらず強い光を放っている。

しばらくして、彼は諦めたように肩を落とした。

「一週間の出張だぜ?」

沈黙。

今度の沈黙は、さっきまでのものとは少し違っていた。

アヤベはゆっくりと瞬きをした。
それから、何事もなかったかのように視線を月へ戻す。

「知っているわ」

「知っててそれなのか」

「一週間は長いもの」

「まあ、短くはないけど」

「七日よ」

「うん」

「百六十八時間」

「急に具体的だな」

「一万八十分」

「やめろ。重みが増す」

「六十万四千八百秒」

「秒で数えるな」

アヤベは少しだけ頬を膨らませた。
ほんの少し。
本人はきっと不満の表情のつもりなのだろうが、月明かりの下ではただただ可愛らしく見えてしまう。

「……あなたは平気なの?」

「平気ってわけじゃないさ」

トレーナーは苦笑した。

「俺だって、アヤベの練習を直接見られないのは気になるし、体調も心配だし、ちゃんと眠れてるかも気になる」

「なら」

アヤベがすぐにこちらを見る。

「毎日電話して」

「そこに戻るのか」

「戻るわ。大事なことだから」

「わかったよ。できるだけ毎日連絡する。電話もする」

「手紙は?」

「……出張先から一通は出す」

「三通」

「一週間で?」

「少ない?」

「多いな」

「では二通」

「交渉が早いな」

アヤベはそこでようやく、ほんのわずかに笑った。
月の光より淡く、星の瞬きより控えめな笑みだった。

トレーナーはその表情を見て、降参したように息を吐く。

「わかった。二通。毎日メッセージ。電話はできる日は必ず」

「約束?」

「ああ、約束」

アヤベは彼の小指を見つめた。

トレーナーは一瞬きょとんとして、それから察したように自分の小指を差し出す。

「指切りか?」

「……念のためよ」

「信用ないなぁ」

「信用しているから、形にするの」

彼女の小指が、そっと絡む。
冷たく細い指だった。
けれどその奥には、いつもの彼女からは想像しづらいほどまっすぐな熱があった。

「破ったら?」

アヤベが問う。

「え?」

「約束を破ったら」

「……帰ってきたら、好きなだけ練習メニューの相談に乗る」

「それはいつもしているわ」

「じゃあ、ふわふわの毛布を買ってくる」

アヤベの目が、ほんの少しだけ揺れた。

「……質によるわ」

「急に審査が厳しい」

「肌触りは大事だもの」

「はいはい。最高品質を探してくる」

「約束ね」

「はいはい」

指が離れる。

満月は変わらず二人を照らしていた。
人の心を狂わせるという銀色の光は、たしかに今夜、アヤベの胸に秘めた言葉をいくつもこぼさせた。

けれどトレーナーは思う。

狂わされたのは、きっと彼女だけではない。

一週間離れるだけで、こんなにも名残惜しくなる。
こんなにも、隣にいる時間が惜しくなる。
そんな自分もまた、月に少しばかり惑わされているのかもしれない。

「アヤベ」

「なに」

「帰ってきたら、またここで月を見よう」

アヤベは少しだけ目を伏せた。

「……満月じゃなくても?」

「満月じゃなくても」

「星が見えなくても?」

「曇ってても」

「雨でも?」

「屋根のあるところでな」

アヤベは今度こそ、小さく笑った。

「なら、待っているわ」

「うん」

「ちゃんと帰ってきて」

「もちろん」

「お土産も忘れないで」

「毛布?」

「それと、あなたの無事」

「重いなぁ」

「軽いよりいいでしょう」

「まあな」

二人はまた、同じ月を見上げた。

月の隣の明るい星が、静かに瞬いている。
その正体は、やはりトレーナーにはわからなかった。

けれど今夜のアヤベが、少しだけ寂しがりで。
少しだけわがままで。
そして思っていたよりずっと、自分のことを待ってくれている。

それだけは、はっきりとわかった。

「……毎日よ」

「わかってる」

「朝と夜」

「善処します」

「電話」

「します」

「手紙」

「二通」

「毛布」

「買います」

「忘れたら」

「怖いから忘れません」

アヤベは満足そうに頷いた。

満月は、人の心を狂わせる。

けれどその狂気がこんなにも愛おしいものなら、
たまには月に惑わされる夜があってもいい。

トレーナーはそう思いながら、出張用の荷造りに、便箋と封筒を買い足すことを心に決めた。

— End —

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Sakuria
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