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レールガン

りすけりすけ

【エレメンタリースクール編】第6話 次回、ようやくスタンリー登場。

夏の名残を残した風が、住宅街の木々をまだ少しだけ青く揺らしていた。けれど、夕方になると日差しはやわらぎ、影は少しずつ長くなる。
ナマエがエレメンタリースクールから帰る頃には、向かいの家の窓ガラスに西日が反射して、淡い金色の四角がいくつも浮かんで見えた。

ゼノが大学へ通い始めてから、数ヶ月が経っていた。
初めのうち、学校にゼノがいないことは、ナマエにとって思っていた以上に大きな穴だった。教室の隅で本を開く姿。授業中に教師の言い間違いを淡々と訂正する声。カフェテリアの端の席で、ランチボックスを前にしながら、食べるより先に話し始めてしまう横顔。

そういうものが、昼間の時間からすっかり消えた。
けれど、ゼノがいなくなったわけではない。
放課後になれば、ナマエは家に帰り、鞄を置き、手を洗う。それからおむすびを握り、容器に詰める。時に卵焼きや、小さなおかずも一緒に入れて。

「ゼノ、お昼ご飯ちゃんと食べたかな」

ナマエの言葉に、母が小さく笑う。

「ナマエはゼノくんが心配で仕方ないのね」
「だって、ご飯はちゃんと食べなきゃだめでしょ?元気が出なくなるもん」
「そうね。その通りよ」

ナマエが答えると、母は頷いてからナマエの頭をそっと撫でた。

「じゃあ、ゼノのところに行ってくるね」
「ええ。気をつけていってらっしゃい」

ナマエは容器を入れた紙袋を胸に抱き、向かいのゼノの家へ向かう。チャイムを鳴らせば、ゼノの母が出てくることもあれば、玄関の奥から「ナマエなら上がっておいで」とゼノの声だけが返ってくることもある。
この日、玄関を開けてくれたのはゼノの母だった。

「あら、ナマエちゃん。今日も来てくれたのね」

「こんにちは。これ、もってきました」

ナマエが両手で紙袋を差し出すと、ゼノの母は嬉しそうに目を細めた。

「いつも本当にありがとう。助かるわ。ゼノ、今日はどうやら昼食をとってないみたいで」
「えっ!まったくもう……」

ナマエは眉を下げた。

「今、部屋にいるわ。今日は朝からずっと、何か大きな紙を広げたり、工具を出したりしているの。大学から帰ってきてからも、ほとんど部屋にこもりきりよ」
「大きな紙?」
「設計図みたいなものかしら。危ないものではないとは言っていたけれど……一応、ナマエちゃんからも休憩するように言ってあげて」
「わかりました」

ナマエはこくりと頷いた。
階段を上がるにつれて、ゼノの部屋から微かな物音が聞こえてきた。紙が擦れる音。金属の小さな部品が机の上で転がる音。工具箱の留め具が開閉する音。
いつもの音だった。
ゼノが何かに夢中になっている時の、部屋の音。
ナマエは扉の前で軽くノックした。

「ゼノ、入っていい?」
「構わないよ」

即座に返ってきた声は、いつもより少し早口だ。ナマエはそれだけで、ゼノがかなり集中しているのだと分かった。
扉を開けた瞬間、見慣れたゼノの部屋が、いつもより少しだけ違って見えた。
机の上が、とんでもないことになっている。
大きな紙が何枚も広げられている。そこには、真っ直ぐ伸びた長い筒のようなものや、箱型の土台、いくつもの線、丸い部品、数字、矢印が細かく描き込まれていた。机の端には、金属の小さな板や、太めのコードの束、何かの計器らしい部品が並んでいる。
ナマエは思わず足を止めた。

「……わあ」

声が漏れる。
ゼノは椅子に座り、紙の上に身を乗り出していた。まだ十歳の少年の体には少し大きく見える机いっぱいの設計図を前にしているのに、その黒い瞳は、少しも圧倒されていない。むしろ、机の上に広がる複雑な線を当然のように支配しているように見えた。
銀色の髪が、窓から入る西日に薄く照らされている。横顔はいつも通り落ち着いていたが、目だけが違った。

キラキラしている。

ナマエはその目を見て、胸の奥がふわりと温かくなった。
ゼノがこういう顔をする時、ナマエはいつも嬉しくなる。難しい言葉は分からない。設計図の線も、数字も、英語の専門用語も、ナマエにはほとんど読めない。それでも、ゼノが心から楽しいと思っていることだけは分かる。
だから、ナマエも楽しくなる。

「ゼノ、これ、何?」

ナマエは紙袋を机の端に置き、いつもの丸椅子を引き寄せた。
ゼノは視線を紙から外さず、当然のように答えた。

「電磁銃、レールガンの試作図だよ」
「……れーるがん?」

ナマエは首を傾げた。
その発音が少したどたどしかったせいか、ゼノの口元がほんの少しだけ持ち上がる。

「そう。火薬ではなく、電磁力で弾体を加速させる装置だ」
「火薬……じゃない?」
「普通の銃は、火薬の燃焼によって生じる高圧ガスで弾を押し出す。だがレールガンは、電流と磁場による力を利用して、導体をレールに沿って加速させるんだ」

ゼノの声が、少しずつ熱を帯びていく。
ナマエは丸椅子に座り、机の上の設計図を覗き込んだ。そこには、二本の長い線が平行に描かれている。その周りに、大きな箱や筒、ケーブルのようなものが繋がっていた。

「この二本の線が、レール?」
「正解だよ」

 ゼノはすぐに言った。
 ナマエはぱっと顔を上げる。

「当たった!」
「ああ。見た目から推測したにしては悪くないね」
「えへへ」

褒められると、ナマエは素直に嬉しくなった。けれど、次の瞬間にはまた設計図へ視線を戻す。

「じゃあ、この大きい箱は?」
「電源と制御部分だね。本来なら相応の設備が必要だが、これは低出力の試験機だ。大学の研究室で検証した理論を、自宅でも観察できる形に落とし込んでいる」
「ていしゅつりょく……」
「危険性を下げた、小さな実験用という意味だよ」
「そっか。じゃあ、すごく危ないわけじゃない?」
「扱い方を誤れば危険だ。だから、試射は外で行うよ。父にも話してある」

その言葉を聞いて、ナマエは少し安心した。
ゼノは何でも一人で進められる子だった。普通の大人よりもずっと頭が良く、普通の子どもが思いつきもしないことを当然のように考える。けれど、危ないことをわざと軽く見るわけではない。ゼノはいつだって、危険を危険として見ている。
それでも、ナマエは机の上の部品を見つめながら、ほんの少し眉を下げた。

「ゼノ、怪我しない?」

ゼノはようやく顔を上げた。
黒い瞳が、ナマエをまっすぐ見る。

「しないようにする」
「絶対?」
「絶対、という言葉を実験に使うのは好ましくないね。未知の要素は常に存在する」
「ゼノ」

ナマエが少しだけ強い声音を出すと、ゼノは小さく瞬きをした。

「……分かった。可能な限り安全に配慮する。防護具も使うし、距離も取る。君は試射の時、僕が指定した場所から動かないこと」
「うん。分かった」

ナマエは素直に頷いた。
それから、ふと思い出したように紙袋に視線をやる。

「その前に、これ」

ナマエは机の端に置いていた紙袋を引き寄せた。
ゼノの視線が、ほんの少しだけ紙袋へ向く。
中身は言わずもがなだ。

「今は―――」
「お昼食べてないって聞いたよ」
「あとできちんと―――」
「ゼノ」

ナマエがまっすぐ見つめる。
ゼノは数秒だけ黙った。それから、観念したように椅子の背にもたれる。

「全く……君には敵わない」
「だって、食べないと頭が働かなくなっちゃうよ」
「ふむ。糖分の供給が認知機能に影響することは否定できない」
「じゃあ食べよう?」

ナマエは容器を開けた。中には、小さめのおむすびが二つと、卵焼きが三切れ入っていた。ゼノはそれを見て、ほんの一瞬だけ口元を緩める。

「相変わらず用意がいいね、君は」
「ゼノのお母さんも心配してたよ。ちゃんと食べなきゃ」
「中々時間が取れなくてね」

ゼノは小さなおむすびにぱくりとかじりついた。

「おお、今日はサーモンが入っているね」
「ふふ、お米と鮭は相性抜群なんだよ」

かじったおむすびから顔を出した、ほぐされた焼き鮭。
鮭の塩味が、食欲をそそる。
なんだかんだで、ゼノはおむすびをぺろりと食べ終わり、箸に手を伸ばす。手先が器用であるからか、ゼノは箸の持ち方を習得するのも早かった。
今度はお気に入りの甘い卵焼きを口に運び、咀嚼する。
その間も視線はちらちらと設計図へ向いている。ナマエはその様子を見ながら、苦笑した。

「見ながら食べるの、前にだめって言ったじゃない」
「この程度なら問題ないだろう?」
「こぼしたら設計図が汚れちゃうよ?」

その一言には効果があったらしい。ゼノは少しだけ眉を動かし、設計図を机の奥へずらした。
その様子に、ナマエは満足げに笑う。

食事をしながらも、ゼノの説明は続いた。
ただし、いつもより少しだけ言葉を選んでいた。ナマエにも分かるように、完全に分からなくならないぎりぎりのところで、簡単な単語を挟んでくれる。

「つまり、電気の力で、ここに置いた小さな金属を前に押し出すの?」
「大雑把に言えばそうだね」
「磁石みたいなもの?」
「近いな。だが単なる磁石とは違う。電流が流れると磁場が発生する。磁場の中を電流が流れる導体には力が働く。その力を利用するんだ」
「うーん……」

ナマエは少し考え込んだ。
そして、ふと顔を上げる。

「見えない手で押してるみたいな感じかな?」

ゼノの指が止まった。
黒い瞳が、設計図からナマエへ移る。

「……見えない手?」
「うん。手は見えないけど、ちゃんと押してる。昔ゼノが言ってた風と同じで、見えないけどそこにあるもの。カーテンが揺れるから、風がそこにあるって分かるでしょ?それと似てるのかなって」

ナマエは自信なさそうに言った。

「なるほど。一般向けの説明としては、悪くない比喩だ。電磁場を“見えない手”と表現するのは、直感的な理解には有効かもしれないね」
「ほんと?」
「ああ。正確ではないけれど、面白い」

ナマエはほっとしたように笑った。

「よかった。ゼノの話、難しいけど、ちょっと分かった気がした」

ゼノはその言葉に、すぐには返事をしなかった。
ナマエはごく普通の女の子だ。少なくとも、ゼノの扱う数式や理論を、同じ速度で理解することはできない。けれど、ナマエは理解できないからといって離れない。分からない言葉の中に、分かるものを探そうとする。目の前の難解なものを、自分の知っている生活の中へ引き寄せようとする。
それは時に、ゼノが予想しない角度から、物事を照らす。
研究室の大人たちは、ゼノの年齢を見て驚く。彼の答えの速さに驚く。けれど、驚きのあとに残るものは、たいてい距離だった。扱いづらさ。理解できなさ。幼いのに幼くないことへの困惑。

ナマエだけは違う。
彼女は、理解できなくても隣にいる。
それがゼノにとって、どれほど稀なことなのか。十歳のゼノは、まだそれをきれいな言葉で表す術を持たなかった。けれど、その価値だけは分かっていた。

「ナマエ」
「なあに?」
「今日の試射を見るかい?」

 ナマエの顔がぱっと明るくなった。

「見ていいの?」
「もちろん、指定した場所からだ。むやみに近づかない。僕が言うまで動かない。これは絶対だよ」
「うん!」
「それから、防護ゴーグルは必ずつける」
「うん」
「耳も塞ぐ必要があるかもしれない」
「分かった」
「あと――」
「ゼノ、ちゃんと全部守るよ。約束する」
「ならいい」

ナマエが両手で小さく拳を握って言うと、ゼノは少しだけ目を細めた。

***

夕方、ゼノの父が帰ってきてから、試射の準備が始まった。
場所はゼノ家の裏庭に近いガレージ横のスペースだった。周囲に人がいないことを確認し、厚い木板と土嚢のように土を詰めた箱を置いて、試射先を囲う。ゼノの父は、息子の説明を聞きながらも、何度も周囲を確認していた。

「ゼノ、本当に威力は抑えてあるんだな?」
「もちろん。弾体もごく小さい。目的は威力ではなく、加速の観察だよ」
「それでも、危険があるなら今日はやめるからな」
「危険はゼロではないよ。だからこそ、距離と遮蔽を取るのさ」

父と話すゼノの声は落ち着いていた。
子どもの声なのに、説明だけを聞いていると大人の研究者のようだった。けれど、台の上に置かれた試作機の横に立つ姿は、やはりまだ小さい。

ナマエは防護ゴーグルをつけ、ゼノの母に手を引かれて、少し離れた場所に立っていた。
試作機は、設計図で見たものよりもずっと存在感がる。
長い箱型の胴体。横から繋がる太いケーブル。小さな計器。まだ完成品というより、金属の部品を組み合わせた試作品という感じだったが、ナマエにはそれが十分にすごいものに見えた。
何より、ゼノがそれを見ている顔が違った。
目元が、明るい。
不敵というより、純粋に楽しくて仕方がない顔だった。

ナマエはその顔を見て、胸がいっぱいになる。
ゼノは本当に、こういうものが好きなのだ。
知らないものを知ること。頭の中で考えたものを、現実の形にすること。紙の上にあった線が、机の上の部品になり、やがて目の前で動くこと。
ナマエには、それがまるで魔法のように見えた。
けれどゼノにとって、それは魔法ではない。科学だ。

「ナマエ」

ゼノが振り返る。

「そこから動かないこと」
「うん。ここにいる」
「怖ければ、母さんの後ろに下がるといい」
「大丈夫」

 ナマエは少し緊張しながらも、はっきり答えた。

「見てるね」

ゼノは一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を上げる。

「ああ。よく見ているといい」

準備はゆっくり進んだ。
ゼノは計器を確認し、ケーブルの接続を見直し、小さな金属片の位置を調整する。父は離れた位置で、必要があればすぐ止められるように見ている。ゼノの母はナマエの肩にそっと手を置いていた。

「本当にすごいわね」

ゼノの母が小声で言った。

「はい」

ナマエは頷いて返す。

「ゼノ、すごいです」

けれど、その声には誇らしさだけでなく、少しの心配も混じっていた。

ゼノが合図をした。

「テストを開始する。三、二、一――」

短い音がした。
破裂音というより、空気を弾いたような硬い音だった。次の瞬間、土を詰めた箱の表面が小さく弾け、乾いた砂がぱらぱらと落ちる。
ナマエは息を呑んだ。

「……動いた」

思わず呟く。
ゼノはすぐに計器を覗き込み、記録用のノートに何かを書き込んだ。

「初速は想定より低い。接触抵抗が大きいね。だが加速自体は確認できた」

その声は静かだったが、確かに弾んでいた。
ナマエには数字の意味は分からない。接触抵抗も、初速も、うまく想像できない。けれど、ゼノが嬉しそうだということは分かった。

「成功?」

ナマエが尋ねると、ゼノは顔を上げた。

「部分的にはね」
「部分的?」
「完全な成功じゃあない。改善点は多いよ。だが、理論通りの挙動は確認できた」
「じゃあ、すごいね!」

ナマエはぱっと笑った。
その笑顔に、ゼノは少しだけ目を伏せた。

「……そうだね。悪くない」

ゼノの父も、緊張を解くように息を吐いた。

「一回目は問題無しだな」
「もう一度、条件を変えて試すよ」
「一度点検してからにしなさい」
「もちろんさ」

ゼノは素直に頷いた。

その後、二度目の試射のために、ゼノは装置の一部を調整した。ナマエは少し離れたまま、それをじっと見つめている。ゼノが工具を持つ指先は迷いがない。小さな部品を外し、確認し、また取り付ける。とても十歳の子どもの手元とは思えないほど正確だった。

けれど、その横顔には、どこか子どもらしい夢中さもあった。

ナマエはその両方を見るのが好きだった。
すごく頭がよくて、知らないことをたくさん知っていて、大人みたいに話すゼノ。でも、好きなものの前では目が輝いて、少し早口になって、ご飯を忘れてしまうゼノ。
どちらもナマエにとっては大切なゼノだ。

「二回目を行うよ」

ゼノが言った。
ナマエはこくりと頷き、ゴーグルの奥で目を凝らす。

「三、二、一――」

今度は、さっきより少し大きな音がした。
直後、装置の後方で小さく火花が散った。

「あっ」

ナマエが声を上げるより早く、ゼノの父が前に出た。

「ゼノ、離れなさい!」

ゼノもすぐに手を引いた。小さな白い煙が、装置の横からふわりと上がる。火が燃え広がるようなものではなかったが、焦げたような匂いが空気に混じった。
ナマエの胸がぎゅっと縮む。

「ゼノ!」

思わず一歩踏み出しかけたナマエを、ゼノの母がそっと止めた。

「ナマエちゃん、だめよ。まだ近づかないで」

ナマエははっとして足を止めた。
約束した。ゼノが言うまで動かない、と。

怖かった。すぐに駆け寄りたかった。けれど、ここで動いたらゼノが困る。ゼノとの約束を破ってしまう。
ナマエは小さな手を握りしめ、その場に踏みとどまった。

ゼノの父が慎重に装置を確認し、電源を切る。ゼノは少し離れた場所から、煙の出た部分をじっと見ていた。顔色は変わっていない。けれど、いつもの落ち着きの中に、わずかな悔しさが混じっているように見えた。

「過熱か?」

父が尋ねる。

「おそらく接触不良による局所的な発熱だね。予想より電流の逃げ道が悪かった」
「今日はここまでにしなさい」
「……そうだね」

ゼノは少しだけ間を置いてから頷いた。
その声を聞いて、ナマエはやっと息を吐いた。

「もう、近づいてもいい?」

ゼノに聞くと、ゼノの父が先に頷いた。

「電源は落としたから、大丈夫だよ」

ナマエは小走りになりそうな足を必死に抑え、ゼノのそばへ向かった。

「ゼノ、怪我してない?」
「していないよ」
「本当?」
「本当だ。君は心配性だね」
「だって、火花が出たから」

ナマエの声は少し震えていた。
ゼノはそこで初めて、ナマエの顔をきちんと見た。ゴーグルの奥の黒い瞳が、不安そうに揺れている。心の底から、ゼノが怪我をしていないかを心配している目だった。

ゼノは何かを言おうとして、やめた。
代わりに、自分の袖を軽く見下ろす。
白っぽいシャツの袖口に、煤がついていた。頬にもほんの少し黒い汚れが付いている。
ナマエはそれに気づき、目を丸くした。

「ゼノ、顔、黒くなってる」
「顔?」
「ここ」

ナマエは自分の頬を指差した。
ゼノは指先で自分の頬に触れる。指に黒い煤がついた。

「……なるほど」

その反応があまりにも冷静だったので、ナマエはつい笑ってしまった。

「なんでそんなに落ち着いてるの?」
「煤が付着しただけだからね。問題はない」
「でも、黒いよ」
「洗えば落ちるさ」

ゼノが淡々と言う。
その時、ナマエの足元で、焦げた小さな破片が風に吹かれて転がった。ナマエはそれを避けようとして一歩下がったが、まだ庭の土が少し湿っていたせいで、足を滑らせた。

「わっ」

転ぶほどではなかった。けれど、咄嗟にバランスを取ろうとして、ナマエはゼノの腕にしがみついた。その拍子に、ゼノの袖口についた煤が、ナマエの頬にぺたりとついた。

二人は同時に固まった。
ゼノの頬に煤。
ナマエの頬にも煤。

ゼノの母が、少し離れたところで堪えきれずに笑った。

「あらあら、二人とも、お揃いじゃない」

ナマエは自分の頬を触り、指についた黒を見て、ぽかんとした。
それから、ゼノの顔を見た。
ゼノもナマエの顔を見ている。

数秒の沈黙。

先に笑ったのはナマエだった。

「ふふっ……ゼノも私も、真っ黒」

ゼノは一瞬だけ不服そうに目を細めた。

「君のは僕の袖に触れたからだろう」
「だって滑ったんだもん」
「君は日頃から足元にも注意を払うべきだ」
「はい、ゼノ先生」

ふふふと笑うナマエに、ゼノの口元も少しだけ緩んでいた。

試射はそこで終了になった。
装置は父とゼノが安全を確認したあと、ガレージの奥へ運ばれた。焦げた部分は後で修理と検証を行うことになったが、ゼノは不思議と落ち込んでいなかった。
いや、悔しさはあるのだろう。
思い通りにいかなかったこと。改善点が見つかったこと。予想外のトラブルが起きたこと。それらを、ゼノはきっと頭の中で何度も反芻している。
けれど同時に、嬉しそうでもあった。

動いた。

ほんの小さな金属片が、紙の上の理論通りに前へ進んだ。
その一瞬を、ナマエも見ていた。
家に入ると、ゼノの母が二人に濡れたタオルを渡してくれた。

「まずは顔を拭きなさい。夕食までに、その煤を落とさないとね」
「はーい」

ナマエは素直にタオルを受け取り、頬を拭いた。ゼノも隣で、自分の頬を拭っている。
リビングの鏡を覗くと、ナマエの頬にはまだ少し黒い跡が残っていた。ゼノの方も、完全には落ちていない。

「まだ残ってる」

ナマエが言うと、ゼノは鏡越しに自分の顔を確認した。

「実験の成果だと思えばいい」
「そうなの?」
「少なくとも、退屈な一日ではなかった証拠だ」

ナマエはその言葉を聞いて、少し笑った。

「うん。退屈じゃなかった。すごかった」
「二回目は失敗したがね」
「でも、一回目は動いたんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ、すごいよ」

ナマエは迷いなく言った。
ゼノはタオルを手にしたまま、少し黙った。
窓の外では、夕方の光が庭を薄い橙色に染めている。さっきまで試射をしていた場所には、片付けられた跡だけが残っていた。けれどナマエの中には、あの硬い音と、土の表面が小さく弾けた瞬間が、鮮やかに残っている。

ゼノが作ったものが、動いた。
それをこの目で見た。
ただそれだけで、ナマエは胸がいっぱいだった。

「ゼノって、本当に何でも作れるんだね」

ぽつりと、ナマエが言った。
ゼノはすぐに否定した。

「何でもではないよ。作れないものの方が多い」
「でも、ゼノは作ろうとするでしょう?」
「当然さ。作れない理由を知れば、作るための条件が分かる」
「それがすごいんだよ」

ナマエはゼノを見る。
黒い瞳は穏やかで、けれどまっすぐだった。

「私だったら、難しそうって思ったら、きっと止まっちゃう。でもゼノは、難しくても考えて、紙に描いて、部品を集めて、本当に作ってみるでしょう? だから、すごい」

ゼノは、その言葉をどう扱えばいいのか少し分からなかった。
大学では、評価は結果に付随する。正しい答え。速い計算。精密な理論。優秀であることは認められるが、それは多くの場合、距離と一緒にやってくる。

けれどナマエの「すごい」は、少し違う。

失敗しても、煤だらけになっても、ナマエはゼノの試みそのものを見ている。
それが、ゼノには不思議だった。
そして、悪くなかった。

「ナマエ」
「なあに?」
「次は、もっと安定して動くようにするよ」
「うん」
「それから、測定方法も改善する。今回のデータでは不足が多いからね」
「うん」
「接触部分の材質も見直す必要がある。熱の逃がし方もだ」
「うん」
「加速の効率を上げるには――」
「ゼノ」

ナマエが途中で呼んだ。
ゼノは説明を止める。

「次も、楽しみだね」

嬉しそうにふにゃりと笑うナマエ。
ゼノは数秒だけ黙った。
そして、珍しく小さく笑った。

「そうだね」

その瞳は、まだキラキラした輝きを残したままだった。

***

その夜、ナマエはゼノの家で夕食を食べてから帰ることになった。ゼノの母がナマエの家に電話を入れると、ナマエの母は笑って「じゃあ、お願いしてもいいかしら」と言ったらしい。両家にとって、それは特別珍しいことでもない。

食卓では、ゼノの父が今日の試射について、危なかった点と良かった点を落ち着いて話した。ゼノはそれを真剣に聞き、時折反論し、時折素直に頷く。
ナマエはその隣で、温かい食事を口に運びながら、時々ゼノの横顔を見た。

煤はもうほとんど落ちている。けれど、髪の端に少しだけ黒い粉が残っていた。

ナマエはそれを見つけて、小さく笑った。

「ゼノ、まだちょっと黒いよ」
「どこだい」
「髪のところ」

ナマエが指差すと、ゼノは自分で払おうとした。けれど場所が少しずれている。

「そこじゃないよ。こっち」

ナマエは身を乗り出し、小さな手でゼノの髪についた煤をそっと払った。
ゼノは動かない。
ただ、されるがままになっていた。

「取れた」
「そうかい」
「うん」

ナマエが満足げに笑うと、ゼノはスープの器に視線を落とした。

「ありがとう」

その声は小さかったが、ナマエにはちゃんと届いていた。

「どういたしまして」

ふわりと微笑むナマエに、ゼノも少しだけ口の端を上げた。

***

食後、ナマエは帰る前にもう一度ゼノの部屋へ寄った。
机の上には、試射前と同じように設計図が広がっている。けれど、そこには新しい書き込みが増えていた。赤い線。小さな丸。矢印。今日の失敗が、もう次の形へと変わり始めている。
ナマエは丸椅子に座り、設計図を見つめた。

「今日のことも、ここに書くの?」
「もちろん。失敗は重要なデータだからね」
「そっか」
「一度で完全に動く必要はないんだ。むしろ、問題が見つかった方が改善点がはっきりする」

ゼノは鉛筆を走らせながら言った。
その横顔には、やはり悔しさよりも楽しさがあった。
ナマエはそれを見て、静かに思う。
ゼノは、失敗しても前を見ている。
だから、すごい。

「今回は完全な初期段階で、必要最低限に簡略化した状態だったが、もう少し段階を進めたら、射撃手が必要になってくるかもしれない」
「しゃげきしゅ」
「レールガンを撃つ射手さ」
「ゼノが撃つんじゃないの?」
「今は良いが、後々精度の観察も必要になってくるからね。そうなったら、僕では役不足だ」

ゼノにできないことを、できる人なんているんだろうか。

そんなことを考えながら、ナマエは少しだけ首を傾けた。
ゼノは設計図を見つめたまま、やはり鉛筆で何かを書き込んでいる。
瞳に光を宿したまま一生懸命な様子のゼノに、ナマエは笑みをこぼす。

「ゼノ」
「何だい」
「また試す時、見てもいい?」

ゼノの手が止まった。

「君が安全な位置にいると約束できるならね」
「約束する」
「なら、見ているといい」
「うん」

ナマエは嬉しそうに笑った。
ゼノは再び設計図へ視線を戻す。鉛筆の先が、紙の上を滑る。ナマエはその隣で、頬杖をつきながら見守った。

***

やがて、窓の外がすっかり暗くなった。
ナマエの母が迎えに来る時間になり、階下からゼノの母の声がする。

「ナマエちゃん、お母さんが来たわよ」
「はーい」

ナマエは丸椅子から降りた。

「じゃあね、ゼノ。また明日」
「ああ」

 ゼノは設計図から顔を上げた。

「ナマエ」
「なあに?」
「今日、君が見ていてくれてよかった」

ナマエは目を丸くした。
ゼノはすぐに視線を逸らし、設計図へ戻る。

「観察者は多い方がいい。君は反応が素直だから、現象の外面的な印象を知るには有用だ」
「……それ、褒めてる?」
「さあね」

ゼノの口元には、ほんの少しだけ笑みがあった。
ナマエはその表情を見て、ふわりと笑う。

「じゃあ、また見るね。私、ゼノの作るもの、これからももっと見たい」
「ああ。好きにするといい」

いつもの言葉だった。
けれど、ナマエにはそれが「ここにいていい」と聞こえた。

扉を閉める前に、ナマエはもう一度机の上を見た。レールガンの設計図。書き足された赤い線。煤のついた工具。

今日、ゼノの頭の中にあったものが、ほんの少しだけ現実になった。
それを一緒に見ることができた。
ナマエは胸の奥にその温かさを抱えたまま、階段を下りていった。

部屋に残ったゼノは、しばらく扉の方を見ていた。
それから、机に向き直る。
設計図の端に、小さく書き込む。

―――観察者ナマエ。反応、良好。

その文字を見て、ゼノは自分でも気づかないほど微かに笑った。

— End —

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