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いつもの放課後

りすけりすけ

【エレメンタリースクール編】第5話 スタンリー登場まであと2話というところで、GWが終わってしまったじゃあないか…。

二〇〇四年の夏は、ナマエにとって少しだけ静かだった。
七月に入ってから、朝の道が変わった。
それまで当たり前のように並んで歩いていた通学路に、ゼノの姿がない。向かいの家の玄関が開く時間も、ゼノが背負う鞄の形も、家を出る方向も変わった。ゼノはエレメンタリースクールではなく、もっと大きくて、もっと遠くて、もっと難しい場所――大学へ通うようになった。

最初の朝、ナマエは自分の家の玄関前で少し立ち止まった。
向かいの家の前に、ゼノはいない。
それは分かっていたはずなのに、胸の奥にぽっかり穴が空いてしまったような気がした。

「ナマエ、そろそろ行かないと遅れるわよ」

母の声に、ナマエははっと顔を上げた。

「うん、行ってきます」

バックパックを持ち直して、ナマエは一人で歩き出す。
朝の空は高く、夏の日差しはまだやわらかかった。歩道の端には、芝生に水を撒く音がしている。近所の子どもたちの声も聞こえる。何も変わっていないようでいて、ナマエにとっては何もかもが少し違って見えた。
ゼノが隣にいない。
ただそれだけで、青く澄み渡った空が、まるで曇天のように感じられた。

学校に着けば、友達は声をかけてくれた。

「ナマエ、おはよう」
「今日の髪、かわいいね」
「昨日の宿題やった?」

ナマエは笑って返事をした。英語も自然に出るようになっていて、クラスの中で、もう彼女は『日本から来た子』ではなく、『小柄で、優しくて、よく笑うナマエ』として受け入れられている。
けれど、教室の中にも目についてしまう場所があった。

窓際の、かつてゼノが座っていた席。

机の配置は少し変わっていたけれど、ナマエの目はどうしてもそこを探してしまう。先生の説明に眉を寄せる銀色の髪。黒板の間違いを淡々と指摘する声。休み時間に本を開き、周りの喧騒から少しだけ離れていた横顔。

そこに今は、別の子が座っている。

当然のことだった。
ゼノはもう、この教室には来ない。
その事実は、思っていたよりもずっと小さな棘になって、ナマエの胸に残り続けた。
それでも、ナマエは泣かなかった。
ゼノが行きたい場所に行ったのだから。
ゼノはもっと難しいことを学びたいのだから。
ナマエは、ゼノの目が遠くを見つめて輝く瞬間を知っている。あの目を曇らせたくないと思った。

だから、学校では笑った。

授業を受け、友達と話し、ランチボックスを開ける。母が作ってくれたサンドイッチと果物を食べながら、時々ゼノのことを考える。

ゼノは今、何をしているのだろう。
大学の教室はどんなところだろう。
ゼノよりずっと大きな人たちが、同じ部屋で勉強しているのだろうか。ゼノはその中でも、やっぱり先生の説明に眉を寄せるのだろうか。難しい本を読んで、難しい言葉で質問して、周りの人たちを驚かせているのだろうか。

そう考えると、少し誇らしかった。
でも、同時に少し寂しくもあった。

***

今日は学校が終わったら、ゼノの家へ行く。
それがあるから、一日を頑張れる。
放課後のチャイムが鳴ると、ナマエはいつもより少しだけ早く帰り支度をした。

友達に手を振り、先生に挨拶をして、校門を出る。夏の終わりの日差しはまだ強く、歩道に落ちた影は濃かった。ナマエは周りの景色も目に留まらない様子で、急いで家へ向かう。

「ただいま!」
「おかえり。今日はゼノくんのおうちに行くのよね?」

母はもう分かっているように微笑んだ。

「うん。宿題、ゼノのおうちでやってもいい?」
「先に少しだけ見せて。分からないところがあったら、ゼノくんに聞いてもいいけれど、邪魔しすぎないようにね」
「うん」

母は宿題の内容をチェックし終えると、ふうと息をついてナマエに向き直った。

「おむすび、作る?」
「うん!」

元気のいい返事に、母の顔から笑みがこぼれる。
母は炊いていたご飯をボウルに入れてナマエの前に持ってきてた。
しっかりと手を洗い、朝から用意していた具を冷蔵庫から取り出し、塩と海苔を準備する。

「よし!」

そう言うと、ナマエはおむすびを作り始めた。
初めてのおむすび作りから五年経ち、今では慣れたもので、以前よりずっと手際よく握れるようになっていた。
小さなナマエの手では、少し小ぶりのおむすびになってしまうが、間食としては丁度いいだろう。
おむすびを二個作り、ラップに包む。
母は小さな容器を差し出した。
朝に少しだけ母に手伝ってもらって作った卵焼きを冷蔵庫から出し、おむすびと卵焼きを容器に詰めたら完成だ。

「最近、大学でお昼ご飯食べない日が多いみたいだから、ちゃんと食べてもらわなきゃ」

真剣な顔で言うナマエに、母が少し笑った。

「あまりお母さんみたいに言いすぎないのよ」
「でも、ゼノ、忘れるもん」
「それもそうね」

母は困ったように笑いながらも、ナマエの頭をそっと撫でた。

「行ってらっしゃい。ゼノくんのお母さんにもよろしくね」
「行ってきます!」

向かいの家へ渡る道は短い。
けれどナマエにとって、その短い距離は特別だった。
自分の家から、ゼノの家へ。
二つの家をつなぐ小さな道を渡るたび、ナマエは幼い頃から続いている時間の中へ戻るような気がした。英語を教えてもらった日。科学の話を聞いた日。宇宙を研究したいと言われた日。
その全部が、この道の上に残っているみたいだった。

玄関のベルを鳴らすと、ゼノの母が扉を開けた。

「いらっしゃい、ナマエちゃん」
「こんにちは。ゼノにおむすび持ってきました」
「あら、いつもありがとう。ゼノなら部屋にいるわ。今日は少し早く帰ってきているのよ」
「早く?」

ナマエの顔がぱっと明るくなる。
ゼノの母はそれを見て、穏やかに笑った。

「でも、また難しい本を広げていたから、声をかけてあげて」
「はーい!」

ナマエは階段を上がった。
ゼノの部屋の前に立つと、中から紙をめくる音が聞こえた。ペンが机を走る音。時々、椅子がわずかに軋む音。
ナマエは扉を軽くノックした。

「ゼノ、入ってもいい?」
「構わないよ」

返事を聞いて、扉を開ける。
そこには、いつものゼノの部屋があった。

壁を埋める本棚。図鑑や専門書。机の上にはノートや紙が重なり、天体望遠鏡は窓際に置かれている。地球儀も、工具箱も、実験道具も、どれも見慣れた場所にあった。
変わったことといえば、大学に通うようになって、机の上に積まれた本が、以前にも増して分厚く、いっそう複雑なタイトルのものばかりになった気がする。
その机に向かって、ゼノは座っていた。

銀色の髪はほんの少し乱れていて、黒い瞳は紙の上に落ちている。まだ十歳の少年であるのに、その周りだけは大人のような空気をまとっていた。

「ゼノ、ただいま」
「おかえり、ナマエ」

その一言で、ナマエの胸がふわっと温かくなった。

「今日、早かったんだね」
「午後の予定が変更になってね。正確には、僕が出る必要のない説明会があったから帰ってきたんだ」
「説明会?」
「新入生向けの生活案内だよ。僕には既に配布資料で十分だったからね」
「それ、行かなくてよかったの……?」
「必要性が低いと判断した」

ナマエは少し困った顔をした。

「ゼノ、怒られない?」
「手続き上、問題はないよ」
「ならいいけど」

ナマエは丸椅子を引き寄せ、いつものようにゼノの隣に座った。そこに座ると、ようやく一日が落ち着くような気がした。

「これ、おむすびと卵焼き」
「おお、いつもすまないね」

もう一つ、大学に通うようになって変わったこと。
ほんの少しだけ、ゼノの感情表現が分かりやすくなった気がする。
エレメンタリースクールに通っていたときは、いつも淡々としていて、感情を目立って表には出してこなかったゼノだが、大学に通うようになって、喜びや驚きの感情が以前より分かりやすくなった。
大学で、今までとは比べ物にならないほど刺激を受ける機会が多く、感情が溢れ出やすくなっているのかもしれない。
何はともあれ、良いことだと、ナマエは思っていた。

「ちゃんと食べてね」
「もう少し待ってくれないかい。今ちょうど……」
「ゼノ、今日はお昼、食べた?」

ゼノの発言を遮るように、ナマエが言葉をかぶせた。
普段朗らかなナマエの笑顔に、今は有無を言わせない覇気が感じられる。
ゼノは少しだけ沈黙した。
ナマエはじっと見る。

「……軽くは」
「軽くって何?」
「サンドイッチを、一切れほど」
「一切れだけ?」
「講義の間に時間がなくてね」
「ゼノ」

ナマエの声が、少しだけ強くなった。
ゼノは諦めたように息をつくと、机の上の紙をそっと端に寄せた。

「分かった。食べるよ」
「うん」

ナマエは満足そうに容器を開けた。
ゼノはおむすびを一つ手に取り、黙って食べ始めた。美味しいとも言わない。けれど、一口、また一口と確実に食べていく。その様子を見ていると、ナマエは胸の奥がほっとした。

「大学って、お昼食べる時間ないの?」
「あるにはあるさ。ただ、移動と確認すべき資料が多くてね」
「確認しながら食べちゃだめだよ」
「なぜ?効率的だと思うが」
「こぼすもん」
「僕はこぼさない」
「前に飲み物こぼしかけた」
「未遂だよ」
「未遂でもだめ」

ゼノは少しだけ口元を緩めた。

「君は相変わらずだね」
「ゼノも相変わらずだよ」

ナマエがそう返すと、ゼノはおむすびを食べる手を止めて、ほんの少しナマエを見た。

相変わらず。

その言葉は、大学へ通い始めてから、ゼノの中で何度も重要な意味を持つようになっていた。

大学へ行き始めてから、環境は大きく変わった。
建物はエレメンタリースクールよりずっと広く、人は大人ばかりだ。講義室の机は大きく、黒板には細かな式が並び、図書館には膨大な専門書が並んでいる。そこにいる人間たちは、少なくとも子どもたちよりは高度な会話ができた。

それは、ゼノにとって興味深い場所だった。
やっと、少しは話が通じる。
そう思う瞬間もあった。
けれど同時に、大学でもゼノは浮いていた。
十歳の子どもが講義室にいる。
それだけで、周囲の視線は集まる。大人たちは驚き、興味を持ち、時に遠巻きに見る。教授の中には面白がる者もいたが、同じ学生たちはどう接していいのか分からない様子の者も少なくなかった。

ゼノが質問をすれば、周囲は静かになる。
質問があまりにも核心を突いているから。
あるいは、子どもがその内容を理解していることが信じられないから。

ゼノ自身は、それを気にしていなかった。エレメンタリースクールでも、教室で浮くことには慣れていた。誰かと群れる必要はない。学べることがあるなら、それでいい。
そう考えていた。

けれど、放課後にナマエがこの部屋へ来ると、大学で感じていたわずかな硬さがほどける。
ナマエはゼノが大学へ行くようになっても変わらなかった。
丸椅子を持ってきて隣に座る。
話を聞き、食事の心配をし、見当違いのようで妙に面白い質問をする。
そのすべてが、以前と同じだった。

「卵ね、少し焦げちゃったの」
「気にならないさ。何度食べても、この甘い卵は面白い」

少し甘めの味付けをした卵焼き。
アメリカでは少し珍しい、日本独特の味付け。
ゼノはこの卵焼きを気に入っているらしい。
最後の卵焼きを口に入れ、咀嚼する。

「ゼノ、今日の大学のお話、聞きたい」

全て食べ終えたゼノに、ナマエは目を輝かせて言った。ゼノは容器を閉じる。

「聞いても理解できるとは限らないよ」
「うん。でも聞きたい」
「今日は軌道力学の初歩と、材料に関する講義があった」
「きどう……?」
「軌道力学。物体が重力の影響を受けながらどう動くかを扱う分野だよ。人工衛星や探査機の運動を考える上で重要になる」
「火星に行く時の?」
「そうだね。火星探査機にも関係する」

ナマエの目がさらに輝いた。

「じゃあ、未来の火星の話?」
「君の言う『未来の火星を狙う』際に必要になってくる。以前より少し詳しく言えば、天体の位置と速度、重力場、必要な速度変化量を考えるんだ」
「そくどへんかりょう」
「速度をどれだけ変える必要があるか、ということだよ」

ゼノは紙に丸と線を描き始めた。
太陽。地球。火星。
以前リビングで描いたものより、ずっと細かい。数字が加わり、矢印が伸びる。ナマエにはほとんど分からなかったけれど、ゼノの声が少しずつ熱を帯びていくのは分かった。

「探査機を目的地へ送るには、現在位置だけでなく、到達時の位置を予測する必要がある。それに加えて、燃料には限りがあるから、できるだけ効率よく軌道を移す必要がある」
「えっと……できるだけ何もない楽な道を行くみたいなこと?」

ゼノはペンを止めた。

「単純化しすぎだが、発想としては似たようなものだね」
「本当?」
「目的地へ最短距離で向かうことが、常に最良とは限らない。重力と速度を利用して、必要なエネルギーを抑える。君の言う“楽な道”という表現も、完全に外れてはいないよ」

ナマエは嬉しそうに笑った。

「やった」
「ただし、楽というより効率的というべきだね」
「じゃあ、効率のいい道」
「そう」

ゼノは少しだけ口元を緩める。
ナマエは全部を理解しているわけではない。
それでも、時々こうして、ゼノの説明の中から自分なりの形を見つける。難解な式や概念を、生活の中の言葉に置き換える。その表現は幼く、正確ではないことも多い。けれど、完全に的外れというわけでもない。
むしろ、ゼノが見ているものとは違う角度から、同じものに触れることがある。
それが面白かった。

「材料の講義は?」

ナマエが尋ねる。

「構造に使う材料の性質についてだよ。強度、軽さ、熱への耐性、加工のしやすさ。航空宇宙分野では、材料の選択が極めて重要になる」
「軽くて強いのがいいの?」
「基本的にはね。重すぎれば飛ばすために必要なエネルギーが増える。弱ければ壊れる。熱に耐えられなければ、大気圏突入やエンジン周辺で問題が起きる」
「じゃあ、すごく軽くて、すごく強くて、熱くても大丈夫なものが一番?」
「理想的にはそうだが、現実にはコストや加工性、劣化、入手性など多くの条件が絡んでくるね」

ナマエは少し考えた。

「お料理の材料みたい」

ゼノはまた手を止めた。

「料理?」
「うん。おいしいものを作りたいけど、なんでも入れればいいわけじゃないでしょ。甘いものも、しょっぱいものも、いっぱい入れすぎたら変になるし。お母さんが、材料には合う合わないがあるって言ってた」

ゼノはナマエを見る。

「……なるほど」
「変?」
「いや。条件に応じて最適な材料を選択するという点では、確かに共通する部分がある」
「ほんと?」
「本当だよ。君は本当に妙なところから近い場所に持って来るね」

ナマエは意味が分からず首を傾げたが、褒められた気がして笑った。

「ゼノの大学のお話、難しいけど面白いね」
「本当にそう思っているのかい」
「うん」
「退屈ではない?」
「うん。ゼノ、楽しそうだから」

その答えに、ゼノは少し黙った。
ナマエは内容そのものだけを聞いているわけではない。
ゼノが話す姿を見ている。
目が輝き、声がわずかに早くなり、紙に線を引く手が止まらなくなる。その様子が嬉しいのだと、ナマエはいつも言う。

ゼノには、それがまだ完全には理解できなかった。

人は普通、理解できない話を聞き続けるのを苦痛に感じる。大人でさえ、ゼノの話が長くなれば途中で別の話題へ変えようとすることがある。大学の人間たちも、専門が違えばすぐに興味を失う。

なのにナマエは、何年経っても同じように聞いている。

むしろ、以前より聞き方が上手くなっていた。
分からない言葉を聞き返し、自分なりの例えを探し、そして最後には決まって笑う。
それは、ゼノにとって奇妙で、けれど手放しがたい時間だった。

「ナマエ、宿題は?」

ゼノがふと思い出して言う。

「あっ」

ナマエは慌ててバッグを開けた。

「やる。ちゃんとやるよ」
「君の母親に確認されるだろう」
「うん。だからちゃんと終わらせなきゃ」

ナマエはノートと鉛筆を取り出し、丸椅子の上で少し姿勢を正した。
ゼノは自分の紙を端に寄せ、ナマエがノートを広げられる場所を作る。

「ここ使うといい」
「ありがとう」

ナマエは丁寧に文字を書き始めた。
大学の講義ノートと、エレメンタリースクールの宿題。
同じ机の上に並ぶには、あまりにも差があった。
ゼノの紙には複雑な式や専門用語が並んでいる。ナマエのノートには、単語の練習や短い文章が書かれている。
ナマエはその差に少しだけ気づいていた。

ゼノは遠い。

前から分かっていたことだったけれど、大学へ行くようになってから、その遠さはますますはっきりした。ゼノの話す内容は前より難しくなった。読む本も厚くなった。鞄に入っている資料も、ナマエには読めないものばかりだった。

自分は、普通だ。

学校の宿題に時間がかかるし、難しい単語はまだ母や先生に聞く。計算も、ゼノみたいにすぐ分かるわけではない。みんなと同じように間違えるし、転ぶし、寒がるし、お弁当の果物が嬉しい。

ゼノとは違う。

それは、寂しいような、少し恥ずかしいような感覚だった。

「ナマエ」
「なあに?」
「そこ、スペルが違う」
「えっ」

ゼノが横から指差した。
ナマエは慌てて消しゴムを取る。

「ほんとだ。ありがとう」
「この単語は前にも間違えていたね」
「う……覚えてるの?」
「覚えているよ」
「ゼノ、そういうの忘れていいよ」
「記憶力は良い方でね」

ゼノの言葉に、ナマエは少し頬を膨らませた。
けれど、ゼノがこうして自分の宿題を見てくれることが嬉しかった。

大学へ行っても、ゼノはナマエのノートを見て、間違いを教えてくれる。自分の難しい課題の隣に、ナマエの小さな宿題を置かせてくれる。
そのことが、ナマエの胸に小さな安心をくれた。
しばらく二人は黙ってそれぞれの作業をした。
ゼノは大学の資料を読み、ナマエは宿題を進める。窓の外では、夕方の光が少しずつ色を変えていた。夏の終わりの空は長く、まだ明るいのに、どこか秋の気配を含んでいる。

ページをめくる音。
鉛筆が紙を擦る音。
時々、ナマエが小さく唸る声。
ゼノが淡々と助言する声。
その静けさは、幼い頃から続いているものだった。

変わったことはたくさんある。
ゼノは大学へ行った。
ナマエは学校で一人の時間が増えた。
二人の学ぶ内容は、さらに大きく離れた。
けれど、この部屋の放課後だけは、以前と変わらず同じ匂いがする。

「できた」

ナマエが宿題を終えると、ゼノは一通り確認した。

「大きな問題はないね」
「ほんと?」
「この文章は少し不自然だが、意味は通じる」
「え、どこ?」

ゼノは丁寧に説明した。
ナマエは頷きながら聞く。
説明はやっぱり少し長かった。途中で文法の話から、言語の構造の話へ広がりかけたので、ナマエは慌てて言った。

「ゼノ、宿題でそこまで難しいのはまだ分からないよ」
「そうかい」
「うん。でも、もうちょっと大きくなったら聞く」

ゼノは少しだけ目を細めた。

「それなら、その時に話そう」
「うん」

ナマエはノートを閉じた。
そのあと、ゼノは大学で使った本を一冊開いた。
厚い本だった。紙は薄く、文字は小さい。ナマエは覗き込んだだけで目が回りそうになった。

「それも大学の?」
「そうだよ」
「全部読むの?」
「必要な部分からね」
「ゼノ、すごいね」
「すごいというより、必要だから読むだけだよ」
「でも、すごいよ」

ナマエは素直に言った。
ゼノはその言葉を聞き流すようにページをめくったが、完全に無反応ではなかった。

夕食の時間が近づくと、ゼノの母が部屋を覗いた。

「二人とも、そろそろ休憩したら?ナマエちゃん、お母さんが心配する時間になるわよ」
「あ、はーい」

ナマエは時計を見て、慌てて片付けを始めた。

「ゼノ、私帰るね」
「ああ」
「明日も来ていい?」
「君は毎回それを確認するね」
「だって、大学の課題がたくさんあったら、迷惑かなって」

ゼノは本を閉じた。

「迷惑ではないよ」

ナマエは手を止めた。
ゼノはまっすぐに言う。

「君がここで宿題をしていても、僕の作業は進む。質問があれば答えるし、食事を持ってくるなら、それは僕の栄養摂取にもなる。少なくとも、君が来ることで不利益は発生していない」

ナマエは少しだけ眉を下げた。

「不利益とかじゃなくて……」
「では何だい」
「ゼノが大変になっちゃうし、嫌じゃないかなって」

ゼノは少し黙った。

「嫌ではないさ」

短い言葉だった。
けれど、それだけでナマエは十分だった。

「よかった」

ナマエはふわりと笑う。

「じゃあ、明日も来るね」
「ああ、そうするといい」
「うん!」

ナマエはバッグを抱え、ゼノの母に挨拶をして部屋を出た。
玄関まで送る途中、ゼノの母が小さく笑った。

「ナマエちゃんが来ると、ゼノもちゃんと休憩するから助かるわ」
「そうなんですか?」
「ええ。大学に行くようになってから、前より考えることが増えたみたいでね。放っておくと、ずっと机に向かっているの」

ナマエは真剣な顔になった。

「ちゃんとご飯食べて休まないとだめです」
「そうね。ナマエちゃんからも言ってあげて」
「はい」

その会話を階段の上で聞いていたゼノは、わずかに眉を寄せた。

「母さん、ナマエに余計な任務を与えないでくれないかい」
「あら、任務じゃないわ。お願いよ」
「ほとんど同じだよ」

ナマエはくすくす笑った。

「ゼノ、ちゃんとご飯食べてね」
「分かったよ」
「寝るのも」
「努力する」
「努力じゃなくて、ちゃんと寝て」

ゼノの母が楽しそうに笑う。
ゼノは少しだけ諦めたように息を吐いた。

***

向かいの家へ帰ると、ナマエの母が玄関で迎えてくれた。

「おかえり。宿題は?」
「やったよ。ゼノが見てくれた」
「そう。ちゃんとお礼を言った?」
「うん」
「ゼノくん、元気だった?」

ナマエは少し考えた。

「うん。大学のお話、たくさんしてくれた。すごく難しかったけど、楽しそうだったよ」
「そう。それならよかったわね」

母の声は優しかった。
ナマエはバッグを片付けながら、少しだけ黙った。

「お母さん」
「なあに?」
「……ゼノ、大学でも少し浮いてるのかな」

母は一瞬、手を止めた。

「どうしてそう思ったの?」
「今日、ゼノのお話聞いてて……すごく難しくて。大学の人たちでも、ゼノのことびっくりするかなって」

母はナマエの隣にしゃがんだ。

「そうかもしれないわね。ゼノくんはとても特別な子だから」
「特別だと、一人になっちゃう?」

ナマエの声は小さかった。
母は少し考えてから、穏やかに答えた。

「一人になる時もあるかもしれない。でも、ゼノくんにはナマエがいるでしょう?」

ナマエは顔を上げた。

「私?」
「ええ。学校が違っても、放課後に会える。お話を聞ける。ご飯を気にしてあげられる。それは、ナマエにしかできないことかもしれないわ」

ナマエは胸の前で手を握った。

「私、ゼノの隣にいていいかな」
「もちろんよ」

母は微笑んだ。

「ゼノくんも、きっとそう思っているわ」

***

その夜、ゼノの部屋には、まだ明かりがついていた。
ゼノは机に向かい、大学の資料を読み直していた。今日の講義内容は興味深かった。だが、同時にいくつか物足りない点もあった。説明が曖昧な箇所。前提が省略されている箇所。もっと深く掘れるはずの部分。

大学でも、ゼノは完全に満たされたわけではない。

周囲の大人たちは、ゼノを珍しいものとして見る。
子どもが大学にいる。
子どもが専門的な質問をする。
子どもが理解している。
その視線には、感心や好奇心が含まれていた。しかしそれはナマエの視線とは違った類のものだ。

ナマエは、ゼノを珍しいから見るのではない。
ゼノがゼノだから見る。
その違いを、ゼノはうまく言葉にできなかった。

ふと、ナマエが作ってくれた間食を思い出す。
小さな手で一生懸命握ったであろう小さなおむすび。
最近練習していると聞いた、少し焦げた甘い卵焼き。
ゼノだけのための、彼女の思いやり。

改めて考えると、ナマエはゼノが思っている以上に、ゼノのことを気にかけてくれている。
ゼノは少しだけ苦笑した。

ナマエは明日も来ると言った。
学校が終わったら、一度家に帰り、母親に声をかけ、何か小さな食べ物を持って、向かいの道を渡ってくる。
丸椅子を引き寄せて、ゼノの隣に座り、「ゼノ、何してるの?」と聞く。
それは、きっと、これからもずっと変わらない。
大学へ進んでも。
学ぶ内容が難しくなっても。
ナマエは、いつもの放課後を持ってくる。
ゼノはそのことに、静かな安堵を覚えていた。

***

翌日も、その次の日も、ナマエは放課後になるとゼノの家へ来た。
夏が終わり、秋の気配が濃くなっても、それは続いた。

ナマエの学校生活も少しずつ変わっていく。ゼノのいない教室に慣れ、友達と笑い、先生に褒められたり、時々間違えて落ち込んだりする。ランチボックスには、母が作った料理と、時々ナマエが手伝った小さなおかずが入った。

ゼノの大学生活も進んでいく。講義は難しくなり、資料は増え、ゼノの机の上には本がさらに積まれていった。けれど、部屋の片隅にはいつも丸椅子があった。ナマエが来ると、自然に机の横へ引き寄せられる椅子。

ある秋の夕方。
窓の外で赤く染まった葉が揺れていた。
ナマエはゼノの部屋で、いつものように宿題を終えた後、ゼノの大学の話を聞いていた。今日は空気の流れについてだった。飛ぶものが空気から受ける力の話。ナマエにはやっぱり難しかったけれど、紙に描かれた翼のような線を見るのは少し楽しかった。

「空気って、見えないのに力があるんだね」
「そうだよ。見えないからといって、存在しないわけじゃあない」
「そっか。気持ちみたい」

ゼノはペンを止めた。

「気持ち?」
「うん。見えないけど、あるでしょ」

ナマエは少し恥ずかしそうに笑った。

「ゼノが大学に行って、学校では会えなくなって、ちょっと寂しいのも、見えないけどあるよ。それに、放課後にここに来ると嬉しいのも、見えないけどある」

ゼノは黙った。
ナマエは慌てて手を振る。

「あ、でも、ゼノが大学に行くの嫌って意味じゃないよ。ゼノが楽しそうなのは嬉しいの。本当だよ」
「分かっているさ」

ゼノは静かに言った。
ナマエは少しだけ安心した。
そして、窓の外を見た。

「大学は無理だけど」

ゼノがナマエを見る。
ナマエは、夕方の光に照らされた横顔で、ゆっくり続けた。

「放課後や休みの日はずっと、ゼノが嫌がったとしても、私はゼノの隣にいるからね」

それは、少し強引で、少し子どもらしい言い方だった。
でも、ナマエの声にはあの時と同じ迷いのなさがあった。
エレメンタリースクールの初日、「ゼノの隣がいい」と言った時と同じ。
ゼノが一人になるのが嫌だと言った時と同じ。
ゼノはしばらくナマエを見ていた。

嫌がったとしても、という部分には訂正の余地がある。そもそもゼノは嫌がっていない。仮に作業効率が落ちるなら対策を考えるべきだが、ナマエがいることでゼノの思考が妨げられることは少ない。むしろ、時々妙な発想を持ち込むため、刺激になることさえある。

説明しようと思えば、いくらでも言える。
けれど、ゼノはそのどれも言わなかった。
ただ、ペンを置いて答えた。

「そうかい」

ナマエは目を丸くした。

「いいの?」
「前にも、嫌がる理由がないと言っただろう」
「うん!」

ナマエは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ゼノは静かに安堵した。

時が経っても変わらないものがある。
それは科学的な法則ではない。観測できる数値でもない。条件が変われば揺らぐ、曖昧で不確かなものだ。

けれど今、ゼノの隣にナマエがいる。

丸椅子に座り、分からない話を聞き、時々おむすびを持ってくる。
その事実は、ゼノにとって彼が思っていた以上に、あたたかく、心地よいものになっていた。

— End —

Comments 3

はるやん1 个月前
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Where every work blooms
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