二〇〇四年 八月。
真夏の空は、どこまでも白く眩しかった。
照り返すアスファルトの熱が靴底からじわじわと上がってくる。射撃場の外に立つ旗は、乾いた風にあおられて、ぱたぱたと硬い音を立てていた。遠くでは蝉に似た虫の声が鳴り、観客席の小さなざわめきと、スタッフが指示を出す声が混ざっている。
その日、地元の射撃大会には、大人も子どもも集まっていた。
参加者の多くは、何年も練習を積んできた者たちだった。肩幅の広い大人、慣れた様子で用具を点検する青年、保護者に見守られながら緊張した顔をしている子ども。照りつける太陽の下、誰もが自分の順番を待っていた。
その中で、ひときわ目を引く少年がいた。
金色の髪。
夏の日差しを受けて、それは本当に黄金色に見えた。前髪のひと房が額へ落ち、横や後ろへ流れた髪が風に揺れている。まだ十歳の少年にしては背が高く、すらりとしていた。顔立ちは幼さを残しているのに、切れ長の目つきだけが妙に鋭い。
アンバーの瞳は、周囲をほとんど見ていなかった。
観客の声も、他の参加者の視線も、夏の暑さも、自分に向けられる奇妙な好奇心も、すべて遠くにあるもののようだった。
スタンリー・スナイダーは、口の端にロリポップキャンディの白い棒を咥えたまま、手元の用具を淡々と確認していた。
十歳。
大会の参加者の中では、明らかに若すぎる。
けれど、射撃場のスタッフたちは、彼を子ども扱いして不用意に声をかけたりはしなかった。何度か練習に来ている姿を見ている者は知っていたからだ。
この少年は、子どもらしくはしゃがない。
勝ちたいと大声で言うこともない。
褒められても得意げに笑わない。
ただ、的を見る。
じっと、的を見る。
まるで、そこにしか世界がないかのように。
「次、スタンリー・スナイダー」
名前を呼ばれた瞬間、周囲のざわめきがほんの少し大きくなった。
「あの子か」
「まだ小学生くらいだろ?」
「本当に出るのか?」
そんな声が聞こえた。
スタンリーは、咥えていたロリポップを一度だけ舌で転がし、ゆっくりと立ち上がった。
緊張はなかった。
少なくとも、外からはそう見えた。
彼にとって、周囲の声はただの音だった。木々のそよぎや、ラジオから聞こえる音楽、遠くを走る車のエンジン音と同じ。自分の狙いに関係しないものなら、すべて切り捨てればいい。
少年は所定の位置に立つ。
係員の説明を聞く間も、その瞳はもう先を見ていた。
的。
距離。
風。
自分の呼吸。
肩のわずかな力み。
指先の感覚。
考えるというより、体が勝手に拾っていく。数字として計算しているわけではない。けれど、どこをどうすればいいかは分かる。見れば分かる。構えれば分かる。空気がどう動いているか、自分の体が今どれくらいぶれているか、全部が一本の線になって頭の奥へ落ちてくる。
誰かに教わったわけではない。
ただ、彼の中に最初からあった感覚だった。
合図が出て、観客席が静かになる。
スタンリーは、息を吸った。
吐く。
止める。
そして、撃つ。
乾いた音が響いた。
一発。
二発。
三発。
そのたびに、周囲の空気が変わっていく。
最初は、子どもがどれほどできるのか見物するような好奇の視線だった。けれど、数発を終える頃には、誰もが口を閉じていた。ざわめきは消え、射撃場に残ったのは、規則的な発射音と、風に揺れる旗の音だけだった。
スタンリーの表情は変わらない。
当たって喜ぶこともない。
的の中心に、穴が重なる。
狙って、撃つ。
それだけだった。
競技が終わった時、観客席から遅れて拍手が起こった。最初はまばらに、それから大きく。誰かが「すごい」と言った。別の誰かが「あの年で?」と呟いた。
スタンリーはロリポップの棒を咥え直し、銃口を安全な方向へ向けたまま、指示通りに動いた。係員が結果を確認し、大人たちは目を見開く。
結果は、誰の目にも明らかだった。
優勝。
最年少での優勝。
名前を呼ばれた時、会場の拍手は今日一番大きくなった。
表彰台に上がるスタンリーは、どこか面倒そうだった。渡されたトロフィーは、彼の腕には少し重い。金色のプレートに名前が刻まれている。それを見て、係員が笑顔で言った。
「すごいな、スタンリー。お父さんも喜ぶだろう」
その言葉に、スタンリーは一瞬だけ目を細めた。
「……どうだか」
「ん?」
「なんでもねえよ」
彼は短く返した。
スタンリーの家は父子家庭だった。
父一人、子一人。
その父は、今日、来ていなかった。
仕事だと言っていた。忙しいのだとも。そう言われることにはもう慣れていた。家にいても会話が多いわけではない。食卓に並ぶ皿が一つだけの日も、二人分あって片方が手つかずのまま冷める日も、もう珍しいことではなくなっていた。
親子仲が悪い、と一言で言えば簡単だった。
十歳のスタンリーにとってこの冷え切った親子関係は、もはや最初からそういう形で置かれている、まるで家具のようなものだった。
家には、静けさが多かった。
父の不在。
必要最低限の言葉。
だから、射撃場の音は嫌いではなかった。
発砲音は分かりやすい。的は逃げない。中心は中心のままだ。誰かの機嫌を読む必要もない。余計な会話もいらない。
ただ、狙えばいい。
ただ、当てればいい。
それはスタンリーにとって、ひどく明快な世界だった。
大会が終わった後、他の参加者たちは家族や友人と話していた。肩を叩かれている者、写真を撮られている者、悔しそうに親へ結果を報告する子ども。
スタンリーは、少し離れたベンチに座っていた。
膝の上にはトロフィーがある。
金属の表面に夏の光が反射している。ピカピカと眩しい。けれど、それを見せたい相手などいなかった。
もちろん、家に帰れば父に言うことはできる。
優勝した、と。
けれど父がどんな顔をするのか、スタンリーにはうまく想像できなかった。驚くかもしれない。褒めるかもしれない。あるいは、疲れた顔で「そうか」とだけ言うかもしれない。
どれでも同じだ。
そう思って、スタンリーはロリポップを噛み砕いた。
甘い味が口の中に広がる。
それは少しだけ、退屈な味だった。
その年の秋が過ぎ、冬が来て、年が変わった。
スタンリーの生活は、大きくは変わらなかった。
学校へ行く。
授業を受ける。
必要なら答える。
必要でなければ黙る。
また、彼の大人びた思考は、同世代の子供たちとの間にも、溝を作った。
周囲の子どもたちは、彼のことを扱いづらそうに見ている。顔立ちが整っているせいで話しかけてくる者はいたが、大抵は数回で離れていった。スタンリーの言葉は、年齢のわりに鋭すぎたのだ。愛想よく合わせる気もない。興味のない話に興味があるふりをする理由も分からなかった。
射撃場へ行く日だけが、少し違った。
そこでは、余計なものが削ぎ落とされる。
的と、自分と、弾道。
それだけになる。
スタンリーはそれを気に入っていた。
けれど、気に入っているからといって、誰かと分かち合いたいとは思わない。誰かに理解してほしいとも、特別思わなかった。
ひとりで十分だ。
少なくとも、その頃のスタンリーはそう思っていた。
***
二〇〇五年 四月。
ゼノは大学の研究室で一冊のノートを閉じた。
十一歳の少年が大学の研究室にいる光景は、未だに周囲の視線を集めていた。けれどゼノ本人は、それを気にしていない。年齢によって能力を測る視線にも、好奇と困惑が混じった反応にも、すでに慣れていた。
彼にとって重要なのは、目の前の問題だった。
レールガンの試作機は、改良を重ねていた。
初期の試射では動作こそ確認できたが、安定性には課題が多かった。接触不良。局所的な発熱。出力のばらつき。弾体の姿勢の乱れ。机の上に広げた設計図は、すでに何度も赤い線で修正されている。
自宅での低出力試験には限界がある。
大学の研究設備を使えば検証できることは増える。だが、ゼノが知りたいのは単に装置が動くかどうかだけではなかった。
精度。
狙った先へ、どの程度正確に到達するのか。
その確認には、発射機構だけでなく、射撃そのものを正しく扱える者が必要だった。
ゼノ自身も装置の調整はできる。理論も理解している。だが、実際の狙い、姿勢、微細なブレ、発射の瞬間に関する経験は不足していた。
必要なのは、射撃手。
ただし、普通の射撃手ではない。
実験機の癖を観察し、わずかな変化を感じ取り、こちらの意図を理解できるだけの勘と冷静さを持った人物。
大学内でその話をした時、何人かの研究者は苦笑した。
「君はまた、ずいぶん特殊な条件を出すね」
「特殊ではありません。必要条件です」
ゼノは淡々と返した。
「射撃競技をしている学生なら心当たりはあるが……」
「学生でなくても構いません」
「いや、だが君の言う精度を出せる相手となると、なかなか――」
そこで、研究室にいた一人がふと思い出したように言った。
「そういえば、去年の地元大会で妙な子がいたな」
「妙な子?」
ゼノはすぐに反応した。
「ああ。確か当時まだ十歳くらいだったはずだ。最年少で優勝した子だよ。確か、スタンリー……スナイダーだったかな」
「そんな子供が?」
「そう。あの年で、大人顔負けの腕だったよ。噂で感覚が異常に鋭いとか何とか聞いたな」
ゼノの黒い瞳が、わずかに細くなった。
子ども。
最年少での優勝。
感覚が鋭い。
ゼノは、噂の中に含まれる異常値を見逃さなかった。
彼自身が、年齢と能力が必ずしも比例するわけではないことを誰よりも知っていたからだ。
「その射撃場はどこですか」
ゼノが尋ねると、相手は少し驚いたように瞬きをした。
「行くつもりかい?」
「確認する価値はあります」
即答だった。
***
その日の午後、ゼノは大学での予定を終えると、必要なノートだけを鞄に入れて研究室を出た。
キャンパスを歩く学生たち。その中を、十一歳の少年が小さな鞄を持って足早に歩いていく。
射撃場へ行く前に、ゼノは家へ一度戻った。
母に行き先を告げておく必要があったからだ。
「射撃場?」
ゼノの母は少し眉を上げた。
「危ないことをしに行くわけではないよ。見学と、人を探すだけさ」
「人を?」
「レールガン試作機の検証に協力できる射撃手がいるかもしれない」
母は数秒、息子を見つめた。
ゼノがこういう顔をしている時、止めても無駄だということを知っていた。もちろん、危険なら止める。けれど、彼は無謀と必要な危険を分けて考えられる子だった。
「お父さんには?」
「遅くはならないつもりだから、帰ってから話すさ」
「ナマエちゃんには?」
母の口から当然のように出てきたその名前に、ゼノは少しだけ考えた。
今日も学校が終われば、ナマエは来るだろう。
ナマエを待つか。一緒に連れていくか。
いや、相手がどんな人物なのかまだわからない以上、不用意に彼女を会わせるべきではない。
ナマエに会わせるのは、どんな人物なのか、自分の目で確認してそれからだ。
ゼノはひとつ息をついてから口を開いた。
「戻ってから話すよ」
「そう」
母は小さく笑った。
「なら、気をつけて行ってらっしゃい」
ゼノは頷き、家を出た。
射撃場は、住宅街から少し離れた場所にあった。広い敷地と低い建物、整えられた設備。受付で見学の手続きをし、目的を簡単に説明すると、係員は最初こそ十歳そこらの少年であるゼノを不思議そうに見たが、彼の落ち着いた態度に押されるように案内してくれた。
「今日は練習日だから、人はそれなりにいるよ。探している人の名前は?」
「スタンリー・スナイダー」
「ああ、スタンリーか」
係員の反応は早かった。
「いるよ。奥のレーンだ」
その即答だけで、ゼノは少し興味を強めた。
有名なのだろう。
少なくとも、この場所では。
案内された先で、ゼノは初めてスタンリーを見た。
金髪の少年は、レーンの近くに立っていた。
背は同年代にしては高い。子供とは思えないほど姿勢に無駄がなく、周囲の大人に混じっていても、変に萎縮していない。口元にはロリポップキャンディの棒。目つきは鋭く、退屈そうで、どこか近寄りがたい。
ゼノは、まずその立ち姿を観察した。
重心の置き方。
肩の力の入れ方。
視線の向け方。
手元の扱い。
動作に余分なものがない。
次に、射撃を見た。
合図の後、スタンリーは構えた。ほんの短い間、空気が止まったように見えた。呼吸。視線。指先。すべてが一点へ集まっていく。
撃つ。
的に穴が開く。
撃つ。
また、中心に近い位置。
撃つ。
ずれが少ない。
ゼノは目を細めた。
単に当てているのではない。
修正が速い。
一発ごとの結果を、ほとんど瞬時に次へ反映している。風や姿勢の変化を、計算式として頭の中に並べている様子はない。体が分かっている。感覚で弾道を処理している。
これは、得難い。
ゼノはそう判断した。
スタンリーが練習を終え、係員と短く言葉を交わしたあと、休憩用のベンチへ向かった。ゼノは迷わず歩き出した。
「スタンリー・スナイダー」
名前を呼ばれ、スタンリーは振り返った。
アンバーの瞳がゼノを捉える。
「……誰だよ、あんた」
声には警戒があった。だが、怯えはない。
ゼノはそれを好ましく思った。
「ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド」
「長え名前」
「よく言われるよ」
ゼノは気にした様子もなく答えた。
スタンリーはロリポップを口の中で転がしながら、目の前の少年を上から下まで眺めた。自分と同じくらいの年齢に見える。だが、着ている服も、持っている鞄も、話し方も、立ち居振る舞いが周囲の子どもとは違っていた。
落ち着きすぎている。
大人ぶっているというより、本当に大人相手と同じ調子で話している。
「で、そのゼノなんとかが俺に何の用だよ」
「君の射撃を見た」
「へえ」
「優れているね」
ゼノが淡々と言うと、スタンリーは眉を動かした。
「褒めに来たんなら他当たりな。そういうの興味ねえんよ」
「単なる賞賛ではないさ。僕は今、試作段階の装置の検証に協力できる射撃手を探している」
「試作段階?」
「レールガンだよ」
スタンリーの目が、ほんの少しだけ変わった。
「……レールガン?」
「火薬ではなく、電磁力によって弾体を加速する装置だ。現在は低出力の試験機だが、改良の余地がある。精度検証に、君のような射撃手が必要だ」
ゼノの説明は、十歳そこらの子どもに向けるには明らかに難しかった。
けれどスタンリーは、途中で遮らなかった。
ロリポップの棒を咥えたまま、黙ってゼノを見ている。理解している部分と、まだ判断を保留している部分がある目だった。
ゼノはその反応を見て、内心でさらに評価を改める。
普通なら、この時点で飽きるか、笑うか、戸惑う。
スタンリーは違う。
分からない言葉を前にしても、逃げない。相手を馬鹿にする前に、情報として受け取っている。
「あんた、何歳よ?」
「十一歳」
「同い年かよ」
「おお、そうかい」
「同じ歳で、大学の研究みたいな話してんのな」
「実際、大学で学んでいる」
即答するゼノに、スタンリーは驚いたように瞬きしてから一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ口角を上げた。笑ったというより、面白がった顔だ。
「ふうん。変なやつ」
「君も十分にね」
「は?」
「十一歳でその射撃精度は普通ではないよ」
ゼノは当然のように言った。
スタンリーは少し目を細めた。
「あんた、喧嘩売ってんの?」
「事実を述べているだけだよ。普通ではないことは、必ずしも悪い意味ではない」
「……」
スタンリーは返事をしなかった。
普通ではない。
その言葉は、彼にとって聞き慣れたものだった。大人たちが驚いた顔で言う。子どもたちが距離を取る時に使う。時には褒め言葉の形をしていても、その奥には扱いにくさが混じっている。
けれど、目の前の少年の声には、それがなかった。
ただの観察結果。
むしろ、好奇心に近い。
スタンリーは少しだけ、興味を持った。
「で、俺が協力したら何があんの」
「面白いものが見られるよ」
「金じゃねえのかよ」
「必要なら謝礼について大人と相談する。ただ、君が退屈を嫌うなら、こちらの方が価値があると思うがね」
スタンリーは、今度こそわずかに笑った。
「あんた、変な勧誘すんね」
「君にとって魅惑的な話をしたつもりだよ」
「はっ、どこが」
スタンリーはベンチに置いていた用具を片付けながら、ゼノを横目で見た。
「レールガン、本当に動くのか?」
「動く。すでに低出力での加速は確認している」
「でも、まだ使い物にはなんねえ」
「その通り。だから君が必要だ」
迷いのない言葉だった。
スタンリーは手を止める。
必要。
その単語が、妙に耳に残った。
誰かに褒められることはある。すごいと言われることもある。けれど、必要だと言われることは少なかった。しかも、年齢関係なく、ただ技術だけを見て。
スタンリーはゼノを見た。
黒い瞳の少年は、まっすぐこちらを見返している。媚びる様子もない。子どもらしい遠慮もない。自分の欲しいものが何か分かっていて、それを取りに来た目だった。
「……場所は?」
「僕の家と、必要に応じて大学の研究室。実験の許可や安全管理は大人を通す」
「あんたの家?」
「装置を置いているからね」
「……家にレールガン置いてんのかよ」
「試作機さ」
「いや、おかしいだろ」
スタンリーは呆れたように言ったが、声に拒絶はなかった。
ゼノは鞄から小さな紙を取り出し、連絡先を書いた。
「興味があるなら、ここへ連絡するといい。保護者の同意も必要だ」
「親の同意がいんの?」
「安全上当然だよ」
スタンリーは紙を受け取った。
そこには、ゼノの名前と住所、連絡先がきちんと書かれていた。子どもの字にしては整いすぎていて、妙に読みやすい。
「ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド、ね」
スタンリーは名前を読み上げ、少し顔をしかめた。
「やっぱ長えな」
「スタンリー・スナイダーは呼びやすくていいね」
「嫌味かよ」
「ただの比較さ」
ゼノは平然と言った。
スタンリーは数秒、ゼノを睨むように見たあと、ふっと視線を逸らした。
「ま、考えとく」
「期待しているよ」
「期待されんの嫌いなんだけど」
「そうかい。しかし君の腕は期待するに値する」
「……ほんっと変なやつだね、あんた」
スタンリーはそう言って、用具を肩にかけた。
そのまま去っていく背中を、ゼノは静かに見送った。
黄金色の髪が、射撃場の照明を受けて光っている。
足取りは軽くない。けれど、迷いもない。周囲に溶け込もうとしない背中だった。ひとりでいることに慣れた者の背中。自分の能力が周囲と少し違うことを、面倒だと感じながらも受け入れている背中。
ゼノは、その背中に既視感を覚えた。
自分とは違う。
けれど、少し似ている。
普通の輪の中に収まりきらない者特有の、尖った静けさ。
そして何より、あの驚異的な精度。
レールガンの検証には、やはり彼が必要だ。
ゼノはそう結論づけた。
***
翌日。エレメンタリースクールから帰ったナマエは、いつものように家で手を洗い、母から紙袋を受け取った。
「クッキーを焼いたから、ゼノくんと食べるといいわ」
「うん」
「昨日はゼノくん、出かけていたんでしょう?」
「うん。私が行った時、まだ帰ってなかった」
ナマエは少し寂しそうに言ったが、すぐに笑った。
「でも、帰ってから電話くれたよ。用事があったんだって」
「そう。今日はいるといいわね」
「うん!」
ナマエは紙袋を抱え、向かいのゼノの家へ向かった。
玄関を開けてくれたゼノの母は、いつものように笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい、ナマエちゃん。ゼノなら部屋よ。昨日から少し機嫌がいいみたい」
「機嫌がいい?」
「ええ。本人はいつも通りのつもりでしょうけど」
ゼノの母は楽しそうに言った。
ナマエは首を傾げながら二階へ上がった。
扉をノックする。
「ゼノ、来たよ」
「入っておいで」
返ってきた声は、やはり少しだけ明るかった。
ナマエが部屋へ入ると、ゼノは机に向かっていた。机の上にはレールガンの設計図と、数枚のメモが広がっている。以前よりも赤い書き込みが増え、図面の端には新しい部品の形がいくつも描かれていた。
ナマエはいつもの丸椅子を引き寄せる。
「ゼノ、昨日どこに行ってたの?」
「射撃場だよ」
「しゃげきじょう?」
「射撃の練習や競技を行う場所だ」
「どうしてそんなところに?」
ナマエは目を丸くした。
ゼノは鉛筆を置き、椅子の背にもたれた。
「面白い人物を見つけた」
「面白い人?」
「ああ。スタンリー・スナイダーという少年だ。僕たちと同い年だが、射撃の腕が非常に優れている」
「十一歳で?」
「そうだよ。去年、地元の射撃大会で最年少優勝している。実際に見たが、噂以上だった」
ゼノの目が、また少し輝いた。
ナマエはその表情を見て、自然と身を乗り出した。
「どんな子?」
「金色の髪で、背が高い。態度は少し悪いが、観察力と集中力がある。射撃時の修正も速い。弾道を数式で処理しているというより、感覚的に把握しているように見えたね」
「えっと……つまり、すごい子?」
「かなりね」
ゼノは即答した。
ナマエはぱちぱちと瞬きをした。
ゼノが誰かをここまではっきり「すごい」と言うのは珍しかった。正確には、ゼノは「優れている」「興味深い」「有用だ」といった言い方をする。けれど今の声には、純粋な好奇心が混じっていた。
ナマエは少し嬉しくなった。
ゼノが新しい何かを見つけた時の顔は、やっぱり好きだった。
「その子に会いに行ったの?」
「そうだよ。前にも少し話しただろう?レールガン試作機の精度検証には、優秀な射撃手が必要だ。彼は条件に合う可能性が高い」
「お話した?」
「少しね」
「どんな話?」
「協力しないか、と」
「してくれそう?」
「考えると言っていたよ」
「そっか」
ナマエは机の上の設計図を見る。
レールガン。
ゼノが作っているもの。
最初に試射を見た時、硬い音がして、小さな金属が前へ飛んだ。火花が出て、二人で煤だらけにもなった。あの時のゼノの目は、今でもよく覚えている。
その後も何度か試射を繰り返し、改良を重ねていくゼノを隣で見てきた。
そのレールガンに、今度は別の誰かが関わるのかもしれない。
ナマエは胸の奥に、不思議な感覚を覚えた。
寂しい、とは少し違う。
けれど、自分の知らない場所でゼノが誰かを見つけ、その人を「必要だ」と思っていることに、少しだけそわそわした。
ナマエは普通の女の子だ。
レールガンの理屈も分からない。射撃もできない。ゼノの大学の話にも、半分以上ついていけないことがある。
それでも、ゼノの隣にいることだけはやめなかった。今までずっと自分の場所だった。
そこに、知らない誰かが来る。
ナマエは自分でもよく分からない気持ちを、膝の上でそっと握りしめた。
ゼノは、それに気づいた。
「ナマエ」
「なあに?」
「君も近いうちに会うことになるよ」
ナマエは顔を上げた。
「私も?」
「当然だ。彼が協力するなら、僕の家に来ることになる。君はいつもここにいるだろう」
「……いていいの?」
思わず出た問いに、ゼノは少し眉を動かした。
「なぜ駄目だと思うんだい?」
「だって、私は射撃とか、レールガンのこととか、何もできないから」
声が小さくなる。
「その子はゼノの役に立てるんでしょう?私は、いつも見てるだけだし……」
ゼノはしばらく黙っていた。
机の上には設計図がある。複雑な線。数字。弾道のメモ。レールの改良案。どれもナマエには難しいものばかりだ。
けれど、ゼノにとってナマエの価値は、そこにはなかった。
「ナマエ」
ゼノの声は静かだった。
「君は見ているだけではないよ」
「え?」
「僕が食事を忘れれば持ってくる。疲れていれば僕より先に気づく。失敗しても帰らない。理解できない話でも最後まで聞く。時々、僕が考えつかない方向から妙な比喩を出す」
「妙な……」
「褒めている」
「本当?」
「本当だよ」
ゼノは淡々と言った。
「射撃手には射撃手の役割がある。君には君の役割がある。それらは同じではないんだ。比較するものでもない」
ナマエは、ゼノを見つめた。
「私の、役割……」
「少なくとも、君が僕の隣にいることを勝手にやめられると、僕は困る」
その言葉は、何気なく落とされた。
けれど、ナマエの胸にはまっすぐ届いた。
困る。
ゼノがそう言った。
自分が隣にいないと、困ると。
ナマエの黒い瞳が、ゆっくりと明るくなる。
「……じゃあ、いる」
「そうしてくれると助かる」
ナマエは笑った。
不安が全部消えたわけではない。ゼノの世界は、これからもどんどん広がっていくのだろう。大学、研究、レールガン、宇宙。
ナマエの知らないものが、これからも増えていく。
けれど、ゼノは「ここにいていい」と言った。
なら、ナマエはいる。
丸椅子を引き寄せて、ゼノの隣に。
「ねえ、ゼノ」
「何だい」
「そのスタンリーって子、仲良くなれるかな」
ゼノは少し考えた。
「仲良く、という表現が適切かは分からないね」
「そうなの?」
「彼はあまり他人に興味を持つタイプには見えなかった。態度も良くはない」
「そっか……」
「だが、面白い」
ゼノは設計図へ視線を落とす。
「おそらく、彼は退屈している」
「退屈?」
「自分の能力を使う先を、まだ見つけきれていないように見えた」
ナマエには、それが少し難しかった。
けれど、ゼノが何を感じているのかは、なんとなく分かった。
ゼノも、学校で浮いていた。
周囲に理解されにくかった。
ナマエはその隣にいたけれど、ゼノの頭の中を全部理解できるわけではない。もしかすると、ゼノはその少年の中に、自分と少し似たものを見たのかもしれない。
「じゃあ、レールガン、見たらびっくりするかな」
「するだろうね」
「ゼノが作ったんだもんね」
「まだ完成には遠いよ」
ゼノはそう言いながらも、少しだけ口元を上げていた。
ナマエはその顔を見て、嬉しくなる。
新しい誰かが来るかもしれない。
ゼノの研究が、少しずつ広がっていくかもしれない。
それは少し怖くて、少し楽しみだった。
「会えるの、楽しみだな」
ナマエが言うと、ゼノはふっと目を細めた。
「君は誰に対しても警戒心が薄いね」
「だめ?」
「場合によるね。今回は僕が先に見ている。危険な人物ではないと思うよ」
「じゃあ大丈夫だね」
「その判断は少し早い」
「ゼノがすごいって認めた人だもん。大丈夫」
ゼノは呆れたように息を吐いた。
「君の僕への信頼は、時々過剰だ」
「かじょう?」
「多すぎるという意味だよ」
「でも、ゼノだもん」
ナマエは当たり前のように笑った。
ゼノは返事をしなかった。
ただ、鉛筆を持ち直し、設計図の上に新しい線を引く。
その横顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
しばらくして、ナマエはクッキーの入った紙袋を開けた。
「ゼノ、食べよ」
「今は設計を―――」
「ゼノ」
「……一枚だけ」
「三枚」
「二枚」
「じゃあ二枚ね」
ナマエは満足そうに笑い、ティッシュを敷いてからクッキーを二枚、ゼノの前に置いた。
ゼノはそれを見て、ほんの少し肩をすくめる。
「交渉が上手くなってきたね」
「ゼノのおかげ?」
「僕はそんなことを教えた覚えはないよ」
二人の間に、いつもの放課後の空気が戻ってくる。
分からないなりに耳を傾けるナマエ。
話しながら、時々目を輝かせるゼノ。
けれど今日の部屋には、まだ見ぬ少年の気配が少しだけ混じっていた。
ゼノとナマエの世界が、また少し変わろうとしている。
窓の外では、春のぬるい風が、庭の木の枝を揺らしていた。
机の上で、ゼノの鉛筆が紙の上を走る。
その隣で、ナマエはクッキーを一枚かじりながら、まだ見ぬ黄金色の少年のことを、ぼんやりと想像した。

























