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グラスと越えた夜、迎えた朝

ClosureClosure

遠征先のホテルで迎えた朝、トレーナーの腕にはグラスが眠っていた。 何もなかったはずの一夜が、二人の距離を静かに変えていく。 カバーイラストのフルサイズ版はこちら illust/144389784

大学のトレーナー養成課程では、担当ウマ娘との関係構築について、耳にタコができるほど言われた。

担当に過度に依存させないこと。
そして、担当に過度に依存しないこと。

信頼関係は必要だ。
だが、馴れ合いではいけない。

寄り添うことは必要だ。
だが、呑み込まれてはいけない。

講義室の白い壁。
規則正しく並んだ机。
黒板に書かれた「適切な距離」という文字。

あの頃の俺は、それを理解したつもりでいた。

なるほど、確かにその通りだ。
トレーナーは担当の伴走者であって、家族でも恋人でもない。
競技者としての人生を支える立場であり、心のすべてを引き受ける立場ではない。

そう思っていた。

思っていた、というのはつまり。

トレーナーになってみて分かったのだ。

これは、なかなかの難題だった。

担当と時間を共にするほど、仲良くなるのは自然なことだった。

朝、グラウンドで顔を合わせる。
調子を見て、メニューを組み、汗を流す姿を見守る。
走り終えた後の呼吸の乱れや、言葉にしない疲労を拾う。
昼には食事の内容を気にかけ、午後にはフォームの確認をし、夕方には今日の反省を話し合う。

レースが近づけば、緊張も不安も共有する。
勝てば喜び、負ければ悔しさを抱える。

それが専属契約ともなれば、尚更だった。

グラスワンダー。

俺の担当ウマ娘。

物静かで、穏やかで、礼儀正しくて。
けれど内側には、見た目よりずっと熱いものを秘めている。

彼女はあまり多くを語らない。
弱音も簡単には吐かない。
微笑みの奥に、本音をそっと仕舞ってしまう。

だからこそ、こちらは彼女の小さな変化を見落とさないようになった。

耳の傾き。
尻尾の揺れ方。
返事の間。
湯呑みを持つ指の力。

そんな些細なものから、彼女が何を思っているのかを考えるようになった。

それはトレーナーとして当然のことだ。

当然のこと、なのだが。

当然のことを積み重ねていくうちに、いつの間にか彼女は俺にとって、ただの担当という言葉だけでは片づけられない存在になっていた。

とはいえ、担当との距離において、そこに明確なラインを引く必要はあると考えている。

一線を越えてしまうのは、やはりまずい。

そう、思っていた。

少なくとも、昨日の夜までは。

 ◇

朝の光の中、左腕に心地よい重みを感じた。

最初、それが何なのか分からなかった。

遠征先のホテル特有の、少し乾いたシーツの匂い。
遮光カーテンの隙間から差し込む細い光。
空調の低い音。
どこか遠くで、扉が閉まる微かな音。

ゆっくりと意識が浮かび上がる。

そして、左腕が動かないことに気づいた。

顔を少し横に向ける。

そこには、すやすやと眠るグラスの耳があった。

亜麻色の髪が枕に広がっている。
白い頬は朝の光を受けて、ほんのり柔らかく見えた。
長い睫毛が、静かな寝息に合わせてわずかに揺れている。

俺の左腕は、彼女の頭の下にあった。

腕枕。

端的に言えば、そういう状況だった。

「…………」

声が出なかった。

脳が、一度すべての情報を拒絶した。

ここは遠征先のホテルの一室。
昨日、レースがあった。
グラスは六着だった。
前走は五着。
はたから見れば、決して順調とは言えない結果だった。

だが、内容はそれほど悪くなかった。

ゲートの出も極端に悪くない。
道中の折り合いもついていた。
故障明けを考えれば、最後まで脚を使えたこと自体は前向きに捉えていい。

それでも、数字は六着だった。

レース後のグラスは、いつものように穏やかだった。

「次に繋がる走りでしたね」

そう言って微笑んだ。

俺も頷いた。

ホテルに戻ってから、部屋で軽い反省会をした。

映像を見返し、ラップを確認し、次走に向けた修正点を話した。
グラスは静かに聞いていた。
時折、短く意見を挟んだ。
その声は落ち着いていた。

だから俺は、大丈夫だと思っていた。

反省会の後、一旦それぞれの部屋に分かれた。
明日の移動もある。
疲労もある。
休むべきだった。

夜も更けてきた頃だった。

部屋のドアが、控えめにノックされた。

最初はホテルのスタッフかと思った。
だが、こんな時間に何か頼んだ覚えはない。

ドアスコープを覗く。

そこに立っていたのは、グラスだった。

慌てて扉を開ける。

「グラス? どうした」

廊下の灯りを背に、彼女は少し俯いていた。
寝間着の上にカーディガンを羽織っている。
髪はほどかれていて、いつもより幼く見えた。

グラスはしばらく黙っていた。

そして、かすかな声で言った。

「……眠れないのです」

顔を上げた彼女の瞳は、暗い廊下の中でも分かるほど揺れていた。

「少しだけ、お話を聞いてくれませんか」

断る理由はいくつもあった。

時間が遅い。
明日の移動がある。
何より、担当ウマ娘を自室に入れるのは望ましくない。

それは分かっていた。

分かっていたのに。

「……入って」

俺は、そう言ってしまった。

グラスを部屋に入れ、椅子を勧めた。
けれど彼女はベッドの端に座った。
俺も少し距離を置いて、その隣に腰掛けた。

最初は、レースの話だった。

「最後の直線で、少しだけ……脚が止まる気がしました」

「映像を見る限り、完全に止まってはいない。むしろ踏ん張れていた」

「はい。分かっています」

グラスはそう言った。

けれど声は、納得している人間のものではなかった。

「分かっているんです。頭では」

その言葉を境に、彼女の声音が少しずつ変わっていった。

「故障明けですから、焦ってはいけないことも。今日の走りが、悪いものではなかったことも。トレーナーさんが、私のことをきちんと見てくださっていることも」

「グラス」

「でも」

彼女の手が、膝の上でぎゅっと握られた。

「怖いのです」

その言葉は、あまりにも小さかった。

普段のグラスなら、きっと飲み込んでしまうような言葉だった。

俺は何も言えなかった。

グラスは俯いたまま続ける。

「走れなくなることが、怖いのです。以前のように届かないことが。皆さんの期待に応えられないことが。トレーナーさんが積み重ねてくださったものを、私が壊してしまうことが」

「そんなことは──」

「分かっています」

遮るような声だった。

けれど、強い声ではなかった。

崩れそうなものを、必死に両手で支えているような声だった。

「トレーナーさんは、そんなふうには思わないと分かっています。だからこそ、怖いんです」

そこで初めて、彼女の目に涙が滲んでいることに気づいた。

「優しくしてくださるから。信じてくださるから。私は、それに応えたい。応えたいのに……」

一粒、涙が落ちた。

膝の上に置かれた手の甲に、小さな雫が弾ける。

「今日、六着でした」

「うん」

「前走は五着でした」

「うん」

「私は……ちゃんと、前に進めているのでしょうか」

それは問いではなかった。

本当は、答えなんて求めていなかったのだと思う。

彼女はただ、自分の中にある怖さを、ようやく形にしただけだった。

俺は、トレーナーとして言うべき言葉を探した。

故障明けとしては順調だ。
数字だけで判断する時期じゃない。
今日の走りには確かな収穫があった。
次に繋げよう。

どれも正しい。

どれも必要な言葉だった。

けれど、その夜のグラスに向けるには、少しだけ遠かった。

だから俺は、ただ言った。

「進んでるよ」

グラスが顔を上げる。

「少しずつでも、確かに進んでる」

「……本当に?」

「ああ」

「トレーナーさんは、私を励ますためにそう言っているのではありませんか」

「励ましたい気持ちはある」

俺は正直に答えた。

「でも、嘘は言ってない」

グラスは、泣きそうな顔で笑った。

「ずるい方ですね」

「よく言われる」

「誰にですか」

「グラスに」

グラスはほんの少しだけ息を漏らした。

笑った、というにはあまりにも小さな反応だった。
それでも、少しだけ部屋の空気が緩んだ気がした。

その後、彼女は珍しく弱音を吐いた。

走るのが怖いこと。
期待されるのが怖いこと。
自分が自分に追いつけなくなるような感覚があること。

それでも走りたいこと。
勝ちたいこと。
諦めたくないこと。

言葉は途切れ途切れだった。

話しているうちに、滲んでいた涙ははっきりとした涙に変わった。
グラスは何度も袖口で目元を押さえた。
それでも、最後までごまかさなかった。

やがて、長い沈黙が落ちた。

時計を見ると、もう日付はとっくに変わっていた。

「そろそろ休もう。部屋まで送る」

そう言って立ち上がろうとした時だった。

グラスが、小さく首を横に振った。

「今夜だけ……」

声が震えていた。

「今夜だけ、そばにいていただけませんか」

それは願いというより、祈りに近いものだった。

「眠るまででいいんです」

俺は息を呑んだ。

断るべきだった。

間違いなく。

今この瞬間、講義室の白い壁と黒板の文字が頭をよぎった。

適切な距離。
過度に依存させない。
過度に依存しない。

専属トレーナーとしての責任。
担当ウマ娘との境界線。
世間の目。
立場。

分かっていた。

全部、分かっていた。

それでも。

涙を堪えながら、こちらを見ている彼女を前にして。

俺は、その願いを断れなかった。

「……分かった」

最初はベッドサイドの椅子に座り、彼女を見守っていた。

グラスはベッドに横になり、布団を胸元まで引き上げた。
けれど目を閉じても、すぐには眠れないようだった。

「トレーナーさん」

「うん」

「そこに、いますか」

「いるよ」

「……はい」

何度かそんなやり取りをした。

やがて彼女の呼吸が少しずつ深くなった。
ようやく、うつらうつらとしてきたところで、俺はそっと立ち上がろうとした。

その時、袖を掴まれた。

本当に、かすかな力だった。

振りほどこうと思えば簡単にできた。
けれど、その指先の弱さが、逆に俺を動けなくした。

「手を……」

グラスは目を閉じたまま呟いた。

「握ってください」

俺はベッドの端に腰掛け直し、彼女の手を取った。

細くて、温かい手だった。

しばらくそうしているうちに、俺自身にも眠気が来た。

ベッドサイドに突っ伏して寝るつもりだった。
少しだけ、体勢を変えるつもりだった。
本当に、それだけだった。

だが、気づけば俺はベッドの端に横になっていた。

グラスの手を握ったまま。

それだけでは寝苦しかったのか、彼女は眠りながら少しずつこちらへ寄ってきた。
俺の左腕に頭を預けるような形になり、それでようやく落ち着いたように寝息を立て始めた。

言い訳するようだが、一線は越えていない。

担当と添い寝しただけだ。
何もやましいことはない。

ただ、そんなことを言っても誰も信じてくれないだろう。

若い男女が一晩同じベッドで眠っていたのだ。
何もないわけがない。

そう思われる。

そう決めつけられる。

しかし、それが厳然たる事実なのだ。

何もなかった。

ただ、彼女は泣いていた。
俺はそばにいた。
手を握った。
眠るまで見守った。
そして、朝になった。

事実とは、時にひどく薄っぺらい。

そこにどんな表情があったか。
どれほどの沈黙があったか。
何を恐れて、何に縋って、何を守ろうとしたのか。

そういうものを、事実はあまりにも簡単に削ぎ落としてしまう。

朝の光が目に入る。

左腕の感覚が少しずつ戻ってきた。
痺れに近い重さがある。

俺は身じろぎしないよう、慎重に息をした。

グラスはまだ眠っている。

その顔は、昨夜の涙が嘘のように穏やかだった。

こんなふうに眠れるなら。

そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ苦笑した。

本当に、講義で習ったことは正しかった。

これは難題だ。

 ◇

柔らかな光の中、彼女は目を覚ました。

最初に耳がぴくりと動いた。
次に睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。

焦点の合わない瞳が、しばらく宙を見つめる。
そして、自分が俺の腕を枕にしていることに気づいたらしい。

グラスは固まった。

数秒。

静寂。

それから、彼女の頬がみるみる赤くなった。

「……おはよう」

俺が先に言った。

声が少し掠れていた。

グラスは慌てて起き上がろうとして、しかし俺の腕の上に髪が引っかかって小さく声を漏らした。

「す、すみません」

「大丈夫。ゆっくりでいい」

彼女は慎重に身を起こした。

俺も腕を戻す。

痺れた左腕に血が通い始め、じんじんとした感覚が走った。

「腕は……」

「無事だ」

「本当ですか」

「たぶん」

「たぶん、なのですね」

グラスは困ったように眉を下げた。

その表情が、昨夜よりずっと柔らかいことに、俺は少し安心した。

朝の部屋には、昨夜の重さがまだ少し残っていた。
けれど、それはもう息苦しいものではなかった。

洗面所で顔を洗い、備え付けのポットで湯を沸かした。
ホテルの安いティーバッグを二つカップに入れる。

「緑茶じゃなくて悪い」

「いえ。ありがとうございます」

グラスはカップを両手で包むように持った。

窓際の小さなテーブルを挟んで、向かい合う。

カーテンの隙間から入る光が、彼女の髪を淡く照らしていた。

穏やかな朝だった。

優しい会話もあった。

昨日はよく眠れたか。
今日は何時に出ればいいか。
朝食は和食があるだろうか。
そんな他愛ない話。

けれど、昨夜のことに触れないわけにはいかなかった。

俺はカップを置いた。

「グラス」

彼女は視線を上げる。

「昨夜のことだけど」

一瞬だけ、彼女の指に力が入った。

「俺が悪かった」

グラスは黙っていた。

「君がつらい時に寄り添うこと自体は、間違いじゃなかったと思う。でも、方法は考えるべきだった。少なくとも、同じベッドで一晩過ごすべきじゃなかった」

言葉にすると、ひどく冷たく聞こえた。

まるで昨夜の彼女の震えまで、規則の中に押し込めようとしているみたいだった。

それでも、言わなければならないと思った。

「君の立場もある。俺の立場もある。もし誰かに見られていたら、君に迷惑がかかる。信頼を失うかもしれない。昨日の俺は、そこを軽く見ていた」

グラスは、俺の言葉を最後まで黙って聞いていた。

責めるでもなく。
庇うでもなく。
ただ、静かに。

やがて彼女は、カップをテーブルに置いた。

「謝らないでください」

その声は穏やかだった。

「昨夜のことは、私が願ったことなのですから」

「でも、俺はトレーナーだ。止めるべきところは止めないといけない」

「はい」

グラスは頷いた。

「昨日のようなことは、きっといけないことなのでしょう」

その言い方には、不思議なほど迷いがなかった。

「ですが、なかったことにはしたくありません」

俺は言葉を失った。

グラスはまっすぐにこちらを見る。

「昨日、私は確かに救われました」

朝の光の中で、その瞳は澄んでいた。

「トレーナーさんがそばにいてくださったから、怖い気持ちをちゃんと見つめることができました」

彼女の声は震えていなかった。

「自分が何を怖がっているのか。何に怯えているのか。それでも、何を諦めたくないのか。昨夜、ようやく分かった気がしたのです」

「グラス」

「ですから、反省はします」

彼女は少しだけ微笑んだ。

「けれど、後悔はしません」

その言葉は、静かに部屋へ落ちた。

重くはなかった。

むしろ、驚くほど清らかだった。

昨夜、涙を流していた彼女と同じ人だとは思えないほど、そこには凛とした強さがあった。

いや、違う。

あの涙があったからこそ、今の強さがあるのだ。

そう思った。

 ◇

それは、彼女の覚悟だった。

それを聞いてしまえば、反省めいたことは何も言えなかった。

もちろん、反省はできる。

今後は添い寝なんかしないでおこう。
これからはきちんと境界を決めよう。
担当とトレーナーとして、節度ある関係を保とう。

そんな建前的な台詞はいくらでもある。

どれも間違ってはいない。
むしろ正しい。

だが、その言葉は彼女の覚悟に到底釣り合わなかった。

彼女は昨夜の弱さを、なかったことにしなかった。
怖かった自分を恥じなかった。
俺に縋ったことを、単なる失敗にしなかった。

それを受け取っておきながら、こちらだけが安全な言葉の後ろに隠れるのは、卑怯だと思った。

グラスを特別だと思っている。

担当だから、というだけではない。

レースに向かう横顔。
静かに湯呑みを持つ仕草。
負けた日の微笑み。
勝ちたいと言う時の声。
怖いと泣いた夜の指先。

それら全部を見てきた俺は、もう彼女をただの担当と呼ぶだけでは足りなくなっていた。

もちろん、それを言葉にしていい関係ではない。

今すぐどうにかしていい感情でもない。

それでも、俺の中にあるものを、なかったことにはできなかった。

だから俺も、覚悟を返す必要があった。

「もちろん」

俺はゆっくりと言った。

「境界を曖昧にするのはよくない」

グラスは静かに聞いている。

「俺たちはトレーナーと担当だ。そこには守らなきゃいけないものがある。君の将来も、走る場所も、積み上げてきた信頼も」

そこで一度、言葉を切った。

「でも」

グラスの耳が、わずかにこちらへ向いた。

「これから先、辛くて、苦しくて、どうしようもない時は」

俺は彼女の目を見た。

「昨日みたいに腕を貸すよ」

グラスの瞳が少しだけ揺れた。

「遠慮しなくていい」

それは、正しい言葉ではなかったかもしれない。

大学の講義で提出すれば、赤ペンで大きく線を引かれるような答えだったかもしれない。

だが、今の俺に言える精一杯だった。

グラスはしばらく黙っていた。

それから、込み上げるものを隠すように目を閉じた。

長い睫毛が、朝の光を受けて微かに震える。

そして次に目を開けた時、彼女は花のように優しく微笑んだ。

「……はい」

たった一言だった。

けれど、その一言だけで十分だった。

 ◇

チェックアウトまで、まだ少し時間があった。

俺たちはホテルの近くにある小さな公園を歩くことにした。

遠征先の街は、朝の匂いがした。

通勤へ向かう人たち。
店先を掃除する店員。
焼きたてのパンの匂い。
遠くを走るバスの音。

公園の道には、まだ人が少なかった。

木々の間から、小鳥たちのさえずりが聞こえる。
朝露を含んだ葉が、光を受けてきらきらと揺れていた。

グラスは俺の少し隣を歩いていた。

近すぎず、遠すぎず。

昨日までと同じようで、少しだけ違う距離。

彼女の歩幅は落ち着いていた。
背筋も伸びている。
無理に元気を装っているようには見えなかった。

しばらく、二人とも黙って歩いた。

沈黙は気まずくなかった。

やがて、グラスが静かに言った。

「次は勝ちます」

俺は横を見る。

彼女は前を向いていた。

「必ず」

それは気負った言葉でも、悲壮な決意表明でもなかった。

もう既に決まっていることを、そっと形にしただけのような自然な言葉だった。

「もう、怖れるものはありませんから」

彼女はそう言ってから、少しだけこちらを見上げた。

朝の光が、その瞳の奥で揺れている。

俺は頷いた。

「ああ、勝とう、グラス」

心からそう思った。

「君ならできる」

グラスは、くすりと笑った。

その笑みには、どこかいたずらっぽい色があった。

「違いますよ、トレーナーさん」

「え?」

彼女は一歩、俺の隣へ近づいた。

朝の光が、彼女の髪を淡く照らしていた。

「私たちなら、です」

その瞬間、俺は悟った。

ああ。

彼女には勝てない。

最初から、勝てるはずがなかった。

講義室で習った線引きも。
正しさも。
守るべき距離も。

そのすべてを理解した上で、彼女は静かにこちらへ手を伸ばしてくる。

越えてはいけない線を踏み越えるのではなく。

その線の手前で、こちらの覚悟だけを確かめるように。

俺は隣を歩く彼女を見た。

グラスはもう前を向いていた。
その横顔には、昨日の涙の跡などどこにもない。

ただ、強くて、穏やかで、少しだけ嬉しそうだった。

「そうだな」

俺は笑った。

「俺たちなら、できる」

グラスの耳が、嬉しそうにぴくりと揺れた。

公園の道は、朝の光の中へ続いていた。

— End —

Comments 1

ちん1 个月前

最高です。

Sakuria
Where every work blooms
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