大学のトレーナー養成課程では、担当ウマ娘との関係構築について、耳にタコができるほど言われた。
担当に過度に依存させないこと。
そして、担当に過度に依存しないこと。
信頼関係は必要だ。
だが、馴れ合いではいけない。
寄り添うことは必要だ。
だが、呑み込まれてはいけない。
講義室の白い壁。
規則正しく並んだ机。
黒板に書かれた「適切な距離」という文字。
あの頃の俺は、それを理解したつもりでいた。
なるほど、確かにその通りだ。
トレーナーは担当の伴走者であって、家族でも恋人でもない。
競技者としての人生を支える立場であり、心のすべてを引き受ける立場ではない。
そう思っていた。
思っていた、というのはつまり。
トレーナーになってみて分かったのだ。
これは、なかなかの難題だった。
担当と時間を共にするほど、仲良くなるのは自然なことだった。
朝、グラウンドで顔を合わせる。
調子を見て、メニューを組み、汗を流す姿を見守る。
走り終えた後の呼吸の乱れや、言葉にしない疲労を拾う。
昼には食事の内容を気にかけ、午後にはフォームの確認をし、夕方には今日の反省を話し合う。
レースが近づけば、緊張も不安も共有する。
勝てば喜び、負ければ悔しさを抱える。
それが専属契約ともなれば、尚更だった。
グラスワンダー。
俺の担当ウマ娘。
物静かで、穏やかで、礼儀正しくて。
けれど内側には、見た目よりずっと熱いものを秘めている。
彼女はあまり多くを語らない。
弱音も簡単には吐かない。
微笑みの奥に、本音をそっと仕舞ってしまう。
だからこそ、こちらは彼女の小さな変化を見落とさないようになった。
耳の傾き。
尻尾の揺れ方。
返事の間。
湯呑みを持つ指の力。
そんな些細なものから、彼女が何を思っているのかを考えるようになった。
それはトレーナーとして当然のことだ。
当然のこと、なのだが。
当然のことを積み重ねていくうちに、いつの間にか彼女は俺にとって、ただの担当という言葉だけでは片づけられない存在になっていた。
とはいえ、担当との距離において、そこに明確なラインを引く必要はあると考えている。
一線を越えてしまうのは、やはりまずい。
そう、思っていた。
少なくとも、昨日の夜までは。
◇
朝の光の中、左腕に心地よい重みを感じた。
最初、それが何なのか分からなかった。
遠征先のホテル特有の、少し乾いたシーツの匂い。
遮光カーテンの隙間から差し込む細い光。
空調の低い音。
どこか遠くで、扉が閉まる微かな音。
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
そして、左腕が動かないことに気づいた。
顔を少し横に向ける。
そこには、すやすやと眠るグラスの耳があった。
亜麻色の髪が枕に広がっている。
白い頬は朝の光を受けて、ほんのり柔らかく見えた。
長い睫毛が、静かな寝息に合わせてわずかに揺れている。
俺の左腕は、彼女の頭の下にあった。
腕枕。
端的に言えば、そういう状況だった。
「…………」
声が出なかった。
脳が、一度すべての情報を拒絶した。
ここは遠征先のホテルの一室。
昨日、レースがあった。
グラスは六着だった。
前走は五着。
はたから見れば、決して順調とは言えない結果だった。
だが、内容はそれほど悪くなかった。
ゲートの出も極端に悪くない。
道中の折り合いもついていた。
故障明けを考えれば、最後まで脚を使えたこと自体は前向きに捉えていい。
それでも、数字は六着だった。
レース後のグラスは、いつものように穏やかだった。
「次に繋がる走りでしたね」
そう言って微笑んだ。
俺も頷いた。
ホテルに戻ってから、部屋で軽い反省会をした。
映像を見返し、ラップを確認し、次走に向けた修正点を話した。
グラスは静かに聞いていた。
時折、短く意見を挟んだ。
その声は落ち着いていた。
だから俺は、大丈夫だと思っていた。
反省会の後、一旦それぞれの部屋に分かれた。
明日の移動もある。
疲労もある。
休むべきだった。
夜も更けてきた頃だった。
部屋のドアが、控えめにノックされた。
最初はホテルのスタッフかと思った。
だが、こんな時間に何か頼んだ覚えはない。
ドアスコープを覗く。
そこに立っていたのは、グラスだった。
慌てて扉を開ける。
「グラス? どうした」
廊下の灯りを背に、彼女は少し俯いていた。
寝間着の上にカーディガンを羽織っている。
髪はほどかれていて、いつもより幼く見えた。
グラスはしばらく黙っていた。
そして、かすかな声で言った。
「……眠れないのです」
顔を上げた彼女の瞳は、暗い廊下の中でも分かるほど揺れていた。
「少しだけ、お話を聞いてくれませんか」
断る理由はいくつもあった。
時間が遅い。
明日の移動がある。
何より、担当ウマ娘を自室に入れるのは望ましくない。
それは分かっていた。
分かっていたのに。
「……入って」
俺は、そう言ってしまった。
グラスを部屋に入れ、椅子を勧めた。
けれど彼女はベッドの端に座った。
俺も少し距離を置いて、その隣に腰掛けた。
最初は、レースの話だった。
「最後の直線で、少しだけ……脚が止まる気がしました」
「映像を見る限り、完全に止まってはいない。むしろ踏ん張れていた」
「はい。分かっています」
グラスはそう言った。
けれど声は、納得している人間のものではなかった。
「分かっているんです。頭では」
その言葉を境に、彼女の声音が少しずつ変わっていった。
「故障明けですから、焦ってはいけないことも。今日の走りが、悪いものではなかったことも。トレーナーさんが、私のことをきちんと見てくださっていることも」
「グラス」
「でも」
彼女の手が、膝の上でぎゅっと握られた。
「怖いのです」
その言葉は、あまりにも小さかった。
普段のグラスなら、きっと飲み込んでしまうような言葉だった。
俺は何も言えなかった。
グラスは俯いたまま続ける。
「走れなくなることが、怖いのです。以前のように届かないことが。皆さんの期待に応えられないことが。トレーナーさんが積み重ねてくださったものを、私が壊してしまうことが」
「そんなことは──」
「分かっています」
遮るような声だった。
けれど、強い声ではなかった。
崩れそうなものを、必死に両手で支えているような声だった。
「トレーナーさんは、そんなふうには思わないと分かっています。だからこそ、怖いんです」
そこで初めて、彼女の目に涙が滲んでいることに気づいた。
「優しくしてくださるから。信じてくださるから。私は、それに応えたい。応えたいのに……」
一粒、涙が落ちた。
膝の上に置かれた手の甲に、小さな雫が弾ける。
「今日、六着でした」
「うん」
「前走は五着でした」
「うん」
「私は……ちゃんと、前に進めているのでしょうか」
それは問いではなかった。
本当は、答えなんて求めていなかったのだと思う。
彼女はただ、自分の中にある怖さを、ようやく形にしただけだった。
俺は、トレーナーとして言うべき言葉を探した。
故障明けとしては順調だ。
数字だけで判断する時期じゃない。
今日の走りには確かな収穫があった。
次に繋げよう。
どれも正しい。
どれも必要な言葉だった。
けれど、その夜のグラスに向けるには、少しだけ遠かった。
だから俺は、ただ言った。
「進んでるよ」
グラスが顔を上げる。
「少しずつでも、確かに進んでる」
「……本当に?」
「ああ」
「トレーナーさんは、私を励ますためにそう言っているのではありませんか」
「励ましたい気持ちはある」
俺は正直に答えた。
「でも、嘘は言ってない」
グラスは、泣きそうな顔で笑った。
「ずるい方ですね」
「よく言われる」
「誰にですか」
「グラスに」
グラスはほんの少しだけ息を漏らした。
笑った、というにはあまりにも小さな反応だった。
それでも、少しだけ部屋の空気が緩んだ気がした。
その後、彼女は珍しく弱音を吐いた。
走るのが怖いこと。
期待されるのが怖いこと。
自分が自分に追いつけなくなるような感覚があること。
それでも走りたいこと。
勝ちたいこと。
諦めたくないこと。
言葉は途切れ途切れだった。
話しているうちに、滲んでいた涙ははっきりとした涙に変わった。
グラスは何度も袖口で目元を押さえた。
それでも、最後までごまかさなかった。
やがて、長い沈黙が落ちた。
時計を見ると、もう日付はとっくに変わっていた。
「そろそろ休もう。部屋まで送る」
そう言って立ち上がろうとした時だった。
グラスが、小さく首を横に振った。
「今夜だけ……」
声が震えていた。
「今夜だけ、そばにいていただけませんか」
それは願いというより、祈りに近いものだった。
「眠るまででいいんです」
俺は息を呑んだ。
断るべきだった。
間違いなく。
今この瞬間、講義室の白い壁と黒板の文字が頭をよぎった。
適切な距離。
過度に依存させない。
過度に依存しない。
専属トレーナーとしての責任。
担当ウマ娘との境界線。
世間の目。
立場。
分かっていた。
全部、分かっていた。
それでも。
涙を堪えながら、こちらを見ている彼女を前にして。
俺は、その願いを断れなかった。
「……分かった」
最初はベッドサイドの椅子に座り、彼女を見守っていた。
グラスはベッドに横になり、布団を胸元まで引き上げた。
けれど目を閉じても、すぐには眠れないようだった。
「トレーナーさん」
「うん」
「そこに、いますか」
「いるよ」
「……はい」
何度かそんなやり取りをした。
やがて彼女の呼吸が少しずつ深くなった。
ようやく、うつらうつらとしてきたところで、俺はそっと立ち上がろうとした。
その時、袖を掴まれた。
本当に、かすかな力だった。
振りほどこうと思えば簡単にできた。
けれど、その指先の弱さが、逆に俺を動けなくした。
「手を……」
グラスは目を閉じたまま呟いた。
「握ってください」
俺はベッドの端に腰掛け直し、彼女の手を取った。
細くて、温かい手だった。
しばらくそうしているうちに、俺自身にも眠気が来た。
ベッドサイドに突っ伏して寝るつもりだった。
少しだけ、体勢を変えるつもりだった。
本当に、それだけだった。
だが、気づけば俺はベッドの端に横になっていた。
グラスの手を握ったまま。
それだけでは寝苦しかったのか、彼女は眠りながら少しずつこちらへ寄ってきた。
俺の左腕に頭を預けるような形になり、それでようやく落ち着いたように寝息を立て始めた。
言い訳するようだが、一線は越えていない。
担当と添い寝しただけだ。
何もやましいことはない。
ただ、そんなことを言っても誰も信じてくれないだろう。
若い男女が一晩同じベッドで眠っていたのだ。
何もないわけがない。
そう思われる。
そう決めつけられる。
しかし、それが厳然たる事実なのだ。
何もなかった。
ただ、彼女は泣いていた。
俺はそばにいた。
手を握った。
眠るまで見守った。
そして、朝になった。
事実とは、時にひどく薄っぺらい。
そこにどんな表情があったか。
どれほどの沈黙があったか。
何を恐れて、何に縋って、何を守ろうとしたのか。
そういうものを、事実はあまりにも簡単に削ぎ落としてしまう。
朝の光が目に入る。
左腕の感覚が少しずつ戻ってきた。
痺れに近い重さがある。
俺は身じろぎしないよう、慎重に息をした。
グラスはまだ眠っている。
その顔は、昨夜の涙が嘘のように穏やかだった。
こんなふうに眠れるなら。
そんなことを思ってしまった自分に、少しだけ苦笑した。
本当に、講義で習ったことは正しかった。
これは難題だ。
◇
柔らかな光の中、彼女は目を覚ました。
最初に耳がぴくりと動いた。
次に睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
焦点の合わない瞳が、しばらく宙を見つめる。
そして、自分が俺の腕を枕にしていることに気づいたらしい。
グラスは固まった。
数秒。
静寂。
それから、彼女の頬がみるみる赤くなった。
「……おはよう」
俺が先に言った。
声が少し掠れていた。
グラスは慌てて起き上がろうとして、しかし俺の腕の上に髪が引っかかって小さく声を漏らした。
「す、すみません」
「大丈夫。ゆっくりでいい」
彼女は慎重に身を起こした。
俺も腕を戻す。
痺れた左腕に血が通い始め、じんじんとした感覚が走った。
「腕は……」
「無事だ」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
グラスは困ったように眉を下げた。
その表情が、昨夜よりずっと柔らかいことに、俺は少し安心した。
朝の部屋には、昨夜の重さがまだ少し残っていた。
けれど、それはもう息苦しいものではなかった。
洗面所で顔を洗い、備え付けのポットで湯を沸かした。
ホテルの安いティーバッグを二つカップに入れる。
「緑茶じゃなくて悪い」
「いえ。ありがとうございます」
グラスはカップを両手で包むように持った。
窓際の小さなテーブルを挟んで、向かい合う。
カーテンの隙間から入る光が、彼女の髪を淡く照らしていた。
穏やかな朝だった。
優しい会話もあった。
昨日はよく眠れたか。
今日は何時に出ればいいか。
朝食は和食があるだろうか。
そんな他愛ない話。
けれど、昨夜のことに触れないわけにはいかなかった。
俺はカップを置いた。
「グラス」
彼女は視線を上げる。
「昨夜のことだけど」
一瞬だけ、彼女の指に力が入った。
「俺が悪かった」
グラスは黙っていた。
「君がつらい時に寄り添うこと自体は、間違いじゃなかったと思う。でも、方法は考えるべきだった。少なくとも、同じベッドで一晩過ごすべきじゃなかった」
言葉にすると、ひどく冷たく聞こえた。
まるで昨夜の彼女の震えまで、規則の中に押し込めようとしているみたいだった。
それでも、言わなければならないと思った。
「君の立場もある。俺の立場もある。もし誰かに見られていたら、君に迷惑がかかる。信頼を失うかもしれない。昨日の俺は、そこを軽く見ていた」
グラスは、俺の言葉を最後まで黙って聞いていた。
責めるでもなく。
庇うでもなく。
ただ、静かに。
やがて彼女は、カップをテーブルに置いた。
「謝らないでください」
その声は穏やかだった。
「昨夜のことは、私が願ったことなのですから」
「でも、俺はトレーナーだ。止めるべきところは止めないといけない」
「はい」
グラスは頷いた。
「昨日のようなことは、きっといけないことなのでしょう」
その言い方には、不思議なほど迷いがなかった。
「ですが、なかったことにはしたくありません」
俺は言葉を失った。
グラスはまっすぐにこちらを見る。
「昨日、私は確かに救われました」
朝の光の中で、その瞳は澄んでいた。
「トレーナーさんがそばにいてくださったから、怖い気持ちをちゃんと見つめることができました」
彼女の声は震えていなかった。
「自分が何を怖がっているのか。何に怯えているのか。それでも、何を諦めたくないのか。昨夜、ようやく分かった気がしたのです」
「グラス」
「ですから、反省はします」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「けれど、後悔はしません」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
重くはなかった。
むしろ、驚くほど清らかだった。
昨夜、涙を流していた彼女と同じ人だとは思えないほど、そこには凛とした強さがあった。
いや、違う。
あの涙があったからこそ、今の強さがあるのだ。
そう思った。
◇
それは、彼女の覚悟だった。
それを聞いてしまえば、反省めいたことは何も言えなかった。
もちろん、反省はできる。
今後は添い寝なんかしないでおこう。
これからはきちんと境界を決めよう。
担当とトレーナーとして、節度ある関係を保とう。
そんな建前的な台詞はいくらでもある。
どれも間違ってはいない。
むしろ正しい。
だが、その言葉は彼女の覚悟に到底釣り合わなかった。
彼女は昨夜の弱さを、なかったことにしなかった。
怖かった自分を恥じなかった。
俺に縋ったことを、単なる失敗にしなかった。
それを受け取っておきながら、こちらだけが安全な言葉の後ろに隠れるのは、卑怯だと思った。
グラスを特別だと思っている。
担当だから、というだけではない。
レースに向かう横顔。
静かに湯呑みを持つ仕草。
負けた日の微笑み。
勝ちたいと言う時の声。
怖いと泣いた夜の指先。
それら全部を見てきた俺は、もう彼女をただの担当と呼ぶだけでは足りなくなっていた。
もちろん、それを言葉にしていい関係ではない。
今すぐどうにかしていい感情でもない。
それでも、俺の中にあるものを、なかったことにはできなかった。
だから俺も、覚悟を返す必要があった。
「もちろん」
俺はゆっくりと言った。
「境界を曖昧にするのはよくない」
グラスは静かに聞いている。
「俺たちはトレーナーと担当だ。そこには守らなきゃいけないものがある。君の将来も、走る場所も、積み上げてきた信頼も」
そこで一度、言葉を切った。
「でも」
グラスの耳が、わずかにこちらへ向いた。
「これから先、辛くて、苦しくて、どうしようもない時は」
俺は彼女の目を見た。
「昨日みたいに腕を貸すよ」
グラスの瞳が少しだけ揺れた。
「遠慮しなくていい」
それは、正しい言葉ではなかったかもしれない。
大学の講義で提出すれば、赤ペンで大きく線を引かれるような答えだったかもしれない。
だが、今の俺に言える精一杯だった。
グラスはしばらく黙っていた。
それから、込み上げるものを隠すように目を閉じた。
長い睫毛が、朝の光を受けて微かに震える。
そして次に目を開けた時、彼女は花のように優しく微笑んだ。
「……はい」
たった一言だった。
けれど、その一言だけで十分だった。
◇
チェックアウトまで、まだ少し時間があった。
俺たちはホテルの近くにある小さな公園を歩くことにした。
遠征先の街は、朝の匂いがした。
通勤へ向かう人たち。
店先を掃除する店員。
焼きたてのパンの匂い。
遠くを走るバスの音。
公園の道には、まだ人が少なかった。
木々の間から、小鳥たちのさえずりが聞こえる。
朝露を含んだ葉が、光を受けてきらきらと揺れていた。
グラスは俺の少し隣を歩いていた。
近すぎず、遠すぎず。
昨日までと同じようで、少しだけ違う距離。
彼女の歩幅は落ち着いていた。
背筋も伸びている。
無理に元気を装っているようには見えなかった。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
沈黙は気まずくなかった。
やがて、グラスが静かに言った。
「次は勝ちます」
俺は横を見る。
彼女は前を向いていた。
「必ず」
それは気負った言葉でも、悲壮な決意表明でもなかった。
もう既に決まっていることを、そっと形にしただけのような自然な言葉だった。
「もう、怖れるものはありませんから」
彼女はそう言ってから、少しだけこちらを見上げた。
朝の光が、その瞳の奥で揺れている。
俺は頷いた。
「ああ、勝とう、グラス」
心からそう思った。
「君ならできる」
グラスは、くすりと笑った。
その笑みには、どこかいたずらっぽい色があった。
「違いますよ、トレーナーさん」
「え?」
彼女は一歩、俺の隣へ近づいた。
朝の光が、彼女の髪を淡く照らしていた。
「私たちなら、です」
その瞬間、俺は悟った。
ああ。
彼女には勝てない。
最初から、勝てるはずがなかった。
講義室で習った線引きも。
正しさも。
守るべき距離も。
そのすべてを理解した上で、彼女は静かにこちらへ手を伸ばしてくる。
越えてはいけない線を踏み越えるのではなく。
その線の手前で、こちらの覚悟だけを確かめるように。
俺は隣を歩く彼女を見た。
グラスはもう前を向いていた。
その横顔には、昨日の涙の跡などどこにもない。
ただ、強くて、穏やかで、少しだけ嬉しそうだった。
「そうだな」
俺は笑った。
「俺たちなら、できる」
グラスの耳が、嬉しそうにぴくりと揺れた。
公園の道は、朝の光の中へ続いていた。























最高です。