トレーナー室の窓から、やわらかな午後の日差しが差し込んでいた。
静かな部屋の中で、紙をめくる音だけが規則正しく響く。
机に向かっているトレーナーは、山積みの書類とにらめっこしながら、時折ペンを走らせていた。
そのすぐそば。
応接用のソファに深く腰掛けたヒシミラクルは、のんびりと紙パックのいちごミルクを飲んでいる。
ちゅう、とストローを鳴らして一口。
満足そうに目を細めて、背もたれに体を預けた。
「はぁ〜……いちごミルクって、なんでこんなにえらいんでしょうねぇ……」
「飲み物に対する評価としてはかなり高いな」
「だって甘くて冷たくておいしいですよ? しかも、なんかこう……がんばらなくていい感じがしますし」
「飲み物に “がんばらなくていい感じ” を求めるのはミラ子くらいだと思う」
「え〜、みんな求めてると思いますけどぉ……」
ふにゃ、と笑って、またいちごミルクを吸う。
トレーナーは思わず小さく笑ってから、手元の書類を整理した。
やがて、トレーナーが書類の中から一枚を抜き取って、ふと声を上げた。
「ん?」
「どうしましたぁ?」
「学園広報からアンケートが来てるな」
「へぇ」
ミラ子の返事は、ジュースの甘さと同じくらい気の抜けたものだった。
「次の特集記事に載せるらしい。生徒のプロフィール紹介みたいなやつかな」
「ふーん。そういうの、ちゃんとやるんですねぇ」
「一応な。答えられそうなら付き合ってくれ」
「んー……まあ、いいですけどぉ」
ミラ子はソファに沈んだまま、片手をひらひらさせる。
その気のない仕草に、トレーナーは苦笑しつつアンケートを読み上げ始めた。
「じゃあ最初。好きな食べ物は?」
「焼きそばパン」
「即答だな」
「好きですもん」
トレーナーはさらさらと書き込んでいく。
「得意な教科は?」
「えー……家庭科?」
「疑問形で答えるな」
「だって、テストの点はそんなでもないですけど、お昼寝用クッション作るのは得意ですし」
「それは教科の評価じゃないな……まあ、家庭科っと」
ミラ子は満足そうにまたジュースを吸った。
「苦手なことは?」
「急ぐこと」
「知ってる」
「あと朝早いの」
「それも知ってる」
「あと、追い込みすぎること」
「……それは大事な情報だな」
トレーナーの声が少しだけ柔らかくなる。
ミラ子はそれに気づいて、ちらりと視線を上げた。
自分のことを、ちゃんと分かってくれている。
そう思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
「趣味は?」
「ぼーっとすること」
「それ、趣味って言うのか?」
「立派な趣味ですよぉ。奥が深いんですから」
「なるほどな。じゃあそのまま書いておくか」
「えっ、いいんですかぁ?」
少しだけ上体を起こしてみせるミラ子に、トレーナーは当然のようにうなずいた。
「ミラ子らしいだろ」
「……そですか」
なんでもない顔をして、またソファに戻る。
けれど耳がほんの少し熱い。
その後も質問は続いた。
休日の過ごし方、好きな季節、最近うれしかったこと――どれも無難で、答えるのに困ることはなかった。
「休日の過ごし方は?」
「寝る、食べる、たまにお散歩」
「理想的だな」
「でしょ?」
「好きな季節」
「春ですかねぇ。眠くて」
「理由が一貫してるな……」
「最近うれしかったこと」
「……」
その問いだけ、ミラ子は少し考えた。
差し入れに好きなジュースを買っておいてくれたこと。
つい先日のレース後、トレーナーが自分よりうれしそうに笑っていたこと。
頑張ったね、と頭を撫でてもらったこと。
思い出しただけで身震いしそうになり、ぶんぶんと頭を振る。
「ミラ子?」
「あ、えっと……購買の焼きそばパンがまだ売り切れてなかったこと、とか?」
「……何か違うこと考えてなかった?」
「ぜんぜん」
「本当?」
「ほんとですぅ」
ごまかすようにストローを噛む。
トレーナーは少し不思議そうにしながらも、深くは追及しなかった。
「ええと、最後の質問……なんだこれ。広報も変なこと聞くなぁ」
「?」
ミラ子が小首を傾げると、トレーナーは苦笑いを浮かべつつその質問を読み上げた。
「好きな男性のタイプは?」
「えっ?」
ストローを吸う音が変なところで止まった。
トレーナーは用紙を見たまま、何気ない調子で繰り返す。
「だから、好きな男性のタイプは?」
ミラ子は固まった。
好きな、男性の、タイプ。
その言葉が頭の中でやたら反響する。
好きな男性。タイプ。
そんなの──
思い浮かぶのは、目の前でアンケートを持っているトレーナーしかいなかった。
「……」
「ミラ子?」
「え、えーと……」
頭の中が急に熱を持つ。さっきまで平和に甘かったいちごミルクの味が、どこか遠くへ飛んでいった。
なんでよりにもよってこんな質問が最後なんだろう。
しかも、なんでトレーナーさんが読むんだろう。
ミラ子は視線を泳がせた。窓の外を見る。天井も見る。紙パックの側面に書いてある栄養成分表示まで見る。けれど、逃げ場はなかった。
「こ、答えないとダメですか?」
「まあ、空欄でもいいかもしれないけど。広報に載るなら、埋まってたほうが見栄えはいいかな」
「うぅ……」
見栄えのために乙女心を犠牲にするの、どうなんだろう。
でも、黙ったままなのも不自然だ。
かといって、嘘っぽい答えも思いつかない。
結果、ミラ子はおそるおそる口を開いた。
「……やさしい人、とか」
「うん」
トレーナーが素直に書く。
「ちゃんと、見ててくれる人」
「なるほど」
「困ってる時に、気づいてくれて……」
「うんうん」
「ちょっと世話焼きで……」
「へぇ」
「真面目で……でも、たまに抜けてて……」
「おお?」
「頑張ってる人には、ちゃんと頑張ってるって言ってくれて……」
書いている音が、少しゆっくりになった。
それでもミラ子は止まれなかった。いや、止まれないというより、もう自棄だった。
「一緒にいると落ち着いて、なんか……安心できて」
「……」
「わたしがだめだめなときにも、何も言わずに隣にいてくれて」
「……ミラ子」
「それで、その……笑うとちょっと、いい感じで……」
そこでようやく、自分が何を口走っているのかを自覚した。
はっとして顔を上げる。
トレーナーはペンを止めていた。アンケート用紙とミラ子を交互に見て、それからなんとも言えない表情になる。
「……なんか具体的だな?」
「~~~っ!」
一気に顔が熱くなる。耳まで熱い。絶対に赤い。これはもう終わりだ。おしまいだ。トレーナー室の床になりたい。
「そ、それは、その、一般論というか! わりとよくある感じの!」
「そうか?」
「そうです! たぶん!」
トレーナーはまだ少し不思議そうな顔をしている。
その鈍さが今はありがたいような、もどかしいような。
耐えきれなくなって、ミラ子は半ばやけくそ気味で声を上げた。
「じゃ、じゃあ!」
「ん?」
「トレーナーさんの好きな女性のタイプも教えてください!」
一瞬、今度はトレーナーの方が固まった。
「俺の?」
「そうです! 人に聞いたんですから、自分も答えるべきです!」
「いや、まあ、そうかもしれないけど……」
「さあ!」
「なんでそんな圧が強いんだよ」
ミラ子はじっと睨むように見つめた。
いや、睨むつもりはない。ただ、ここで引いたら自分だけ恥ずかしい思いをしたみたいで悔しい。
「本当に言わないとダメ?」
「ダメです!」
トレーナーが抵抗を試みるも、ミラ子はわざと口をへの字に曲げて譲らなかった。
「…………」
彼は少しだけ視線を泳がせて、咳払いをひとつした。
「そうだな……」
考え込むように視線を上げる。
その数秒が、妙に長く感じられた。
ミラ子はごくりと唾をのむ。いちごミルクを飲んでいたはずなのに、口の中はすっかり乾いていた。
「……まず、一緒にいて無理しないでいられる人かな」
どくん、と胸が鳴る。
「気を張りすぎなくていいっていうか、自然体でいられる相手」
「……ふぅん」
なるべく平然を装って返事をする。たぶん失敗している。
「あと、のんびりしてるように見えて、ちゃんと芯がある人」
「……」
「頑張る時はちゃんと頑張るし、自分のペースを持ってる人がいい」
ミラ子は瞬きも忘れて、トレーナーを見つめた。
「それから……一緒にいると、こっちまで肩の力が抜けるような」
「……」
「守ってあげたいと思っているのに、その実、いつの間にかこっちが救われてる、みたいな?」
「…………」
「甘いジュースをおいしそうに飲んでるのを見ると、こっちまで幸せな気分になる人、とか?」
「そ、それっ」
思わず声が漏れた。
トレーナーは少しだけ笑った。少し照れくさそうに、でもまっすぐに。
「……なんか具体的ですね?」
「そうか?」
「そうですよ」
はぐらかすようでいて、目は少しもそらされていない。
ずるい。そういうところがずるい。
こっちはさっきから心臓がうるさいのに、そんな穏やかな顔をされると余計に困る。
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外の風の音。遠くの掛け声。時計の針の音。
その全部がやけにはっきり聞こえる。
ミラ子はそっと視線を落として、紙パックを指先でへこませた。
「……それって、そういうことなんですか?」
声に出した瞬間、自分で耳まで熱くなる。
聞いたのは自分なのに、返事を聞くのが怖い。
トレーナーは少しだけ黙ってから、困ったように笑った。
「……否定はできない、かな」
どくん、と胸が跳ねる。
「なんか、ふわふわしてますね?」
「ミラ子だって、さっき十分ふわふわしてただろ?」
「う……」
顔を上げきれないまま、紙パックを指先でさらにへこませる。
もう中身はほとんど残っていないのに、逃げるみたいにストローへ口をつけた。
このまま黙っていたら、さすがに心臓がもたなかった。
「それで、そのアンケート」
「ああ……これは」
「どうするんです?」
トレーナーは書類を見下ろし、少し考えてからペンを取る。
そして「好きな男性のタイプ」の欄に書かれていた具体的すぎる内容を、少しだけ言い換えた。
『一緒にいて安心できる人』
「……無難ですねぇ」
「広報向けだからな」
「ほんとはもっといっぱいあるのに」
「それは……今度ちゃんと聞かせて欲しい」
ミラ子は息をのんだ。
それは未来に繋がる約束だった。
「……忘れないでくださいよ?」
「忘れない」
トレーナーがそう言って笑う。
その声音が思ったよりやさしくて、また胸の奥が落ち着かなくなる。
ソファの背にもたれて、ミラ子は照れ隠しにジュースを吸う。
もう中身はほぼ残っていなくて、ずず、と間の抜けた音がした。
その音に、二人そろって笑ってしまう。
いつもと同じトレーナー室。
同じ午後。
同じようにのんびりした時間。
だけど、たぶん今日から少しだけ景色がかわる。
ミラ子は空になったジュースパックを見つめながら、すぐそばにいる人へ視線を向けた。
机に向かう横顔はいつもと同じはずなのに、なんだか少しだけ特別に見える。
「……トレーナーさん」
「ん?」
「書類終わったら、ちょっとお散歩しませんか?」
「いいけど、珍しいな」
「今日はなんとなく、です」
本当は、隣を歩きたかっただけ。
でもそれを今ぜんぶ言うのは、まだちょっと照れるから。
トレーナーはやわらかく笑ってうなずいた。
「わかった。すぐ終わらせる」
「急がなくていいですよぉ」
ミラ子も笑う。
「こういうのは、のんびりでいいですから」
春の光が、静かな部屋にやさしく差し込んでいた。























良いですなぁ