夕暮れの学園は、少しだけ世界の輪郭がやわらかくなる。
赤く染まった窓。廊下に伸びる長い影。
グラウンドから聞こえてくる掛け声も、昼間より遠くて、夕暮れの中に溶けていくようだった。
メジロドーベルは、文庫本を胸に抱えたまま、トレーナー室の前で立ち止まっていた。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
ノックをしようとして、手を引っ込める。もう一度上げて、また止まる。
――別に、用事なんて大したことじゃない。
今日のトレーニングメニューの確認とか、明日の予定とか、そういうのでいい。
そういうので、いいはずなのに。
「……なんで、こんなに緊張してるのよ……」
自分で自分に呆れて、ドーベルは唇を尖らせた。
恋愛小説なら、こういう場面で主人公はもっと潔い。
意を決して扉を開けるとか、震える声で名前を呼ぶとか、そういう“らしい”ことをする。
でも現実は、そんなにうまくいかない。
好きな人の前では、本のページをめくる指先みたいに、気持ちよく進めないのだ。
「……やっぱり、今日はいい」
小さくそうこぼして、踵を返しかけた、そのとき。
がちゃり、と背後でドアが開く音がした。
「……入らないのか?」
「ひゃっ!?」
背後から声がして、ドーベルは肩を跳ねさせた。
振り向けば、書類の束を抱えたトレーナーが、少しだけ目を丸くして立っていた。
「ト、トレーナー!?」
「悪い、驚かせた」
「び、びっくりするに決まってるでしょ……!」
頬が熱い。
絶対、今の変な声も聞かれた。
トレーナーは困ったように笑って、肩をすくめた。
「立ち話もなんだし、入るか?」
「……うん」
促されるまま部屋に入り、椅子に腰かける。
見慣れた机、見慣れた棚、見慣れた空気。
なのに、二人きりだと思うだけで、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
「それで、どうした?」
「え……っと、その……」
「相談か?」
「相談っていうか……確認、というか……」
しどろもどろになりながら、ドーベルは持ってきたノートを差し出した。
本当は口実だ。明日のメニューなんて、もうだいたい頭に入っている。
トレーナーはノートを受け取って、真面目な顔で目を通し始めた。
「うん、問題ないな。むしろよく整理できてる」
「そ、そう」
「自主トレの量だけ少し気になるけど。詰め込みすぎると、今の時期は逆効果だ」
「……わかってるわよ、そのくらい」
わかってる。
わかってるけど、走っていないと落ち着かない日がある。
勝ちたいから。
期待に応えたいから。
……それだけじゃなくて。
少しでも、隣に立って恥ずかしくない自分でいたいから。
「ドーベル?」
名前を呼ばれて、はっとする。
「な、なによ」
「今日は少し元気がないなと思って」
「別に。普通よ」
「そうか?」
そう言って、トレーナーはじっとこちらを見る。
その視線はやさしいくせに、妙に鋭い。ごまかしを見抜くのが上手いのだ、この人は。
ドーベルは視線を逸らして、窓の外を見た。
「……トレーナーってさ」
「うん?」
「誰にでも、そうやって優しいの?」
言ってから、しまったと思った。
あまりにも、拗ねた言い方だった。
トレーナーは少しだけ考えるように黙ってから、手を顎に当てた。
「どうだろうな。仕事だから、というのはある」
「……ふうん」
「でも、担当にはちゃんと向き合いたいと思ってるよ」
担当。
その言葉が、胸の奥にちくりと刺さる。
もちろん、わかっている。
自分は“担当ウマ娘”で、トレーナーは“トレーナー”だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、今は。
恋愛小説みたいに、特別な視線が交わされるわけじゃない。
意味ありげな沈黙が、すぐに答えになるわけでもない。
むしろこの人は、そういう曖昧さに流されない。
ちゃんと線を引く。誠実なくらい、きっちりと。
……だから好きになったのに。
だからこそ、苦しい。
「ドーベル」
また、名前を呼ばれる。
今度はさっきより少しだけ静かな声だった。
「何か、あったか?」
「……ない」
「本当に?」
「……っ」
そんなふうに聞かれたら、揺らぐ。
言いたくなる。
言ってしまいたくなる。
好きだって。
あなたのそういうところが、ずるいくらい好きだって。
でも、言えない。
もし困らせたら。
もし今の関係が壊れたら。
もし、やっぱり“担当として大事だ”なんて、やさしい言葉で返されたら。
それはきっと、どんな失恋よりも痛い。
「……トレーナーはさ」
絞り出すように、ドーベルは言った。
「わたしが……その、レースで勝ったら、嬉しい?」
「もちろん」
「じゃあ、わたしが頑張ってるの、ちゃんと見てる?」
「見てるよ」
即答だった。
迷いもなく、まっすぐに。
それだけで、泣きそうになる。
「……そっか」
「ドーベル?」
「じゃあ、それでいい」
笑えたかどうか、自信はなかった。
でも、これ以上ここにいたら、本当に何かこぼしてしまいそうだった。
視線を落とし、ドーベルは腰を浮かしかける。
そのとき。
「それでいい、って顔じゃないな」
やわらかい声に、ドーベルの動きが止まる。
顔を上げると、トレーナーの真剣な瞳がこちらを見つめていた。
「……なによ」
「無理に話さなくていい。でも、一人で抱え込むな」
「抱え込んでなんか」
「抱え込むタイプだろ、お前は」
図星だった。
悔しくて、少しだけ睨む。
トレーナーは苦笑して、机の引き出しを開けた。
中から小さな包みを取り出して、ドーベルに差し出す。
「これ、今日の差し入れでもらったやつ。甘いもの、好きだろ」
「……子ども扱い?」
「慰めようとしてる」
「余計なお世話」
「そうかもな」
そう言うくせに、引っ込めない。
ドーベルはしばらく迷ってから、そっと受け取った。
包みの中身は、小さな焼き菓子だった。
可愛らしい花の形をしている。
「……こういうの、反則」
「何が?」
「なんでもない」
ふと、包みを留めていた店のシールが目に入る。
学園の近くにある、小さな洋菓子店のものだった。
以前、ドーベルが“ここの焼き菓子、かわいいのよね”と何気なく口にしたことがある店だ。
「……これ」
「ん?」
「ほんとに、もらいもの?」
「……さあな」
顔を上げると、トレーナーはわずかに視線を逸らした。
こんなの、好きになるに決まってるじゃない。
そう思って、また胸が苦しくなる。
トレーナーは少しだけ姿勢を崩して、穏やかに言った。
「ドーベル」
「……なに」
「お前が頑張ってるのは、ちゃんと見てる」
「さっき聞いた」
「レースだけじゃない」
少しだけ語気の強まった言葉に、ドーベルは小さく息をのむ。
「不器用なところも、意地っ張りなところも、でも本当は誰より真面目なところも。そういうの、ちゃんと知ってるつもりだ」
「……っ」
「だから、焦らなくていい」
その言葉は、まるで見透かしているみたいだった。
言えない気持ちも、届かないかもしれない不安も、全部。
「今、答えを急がなくてもいいだろ」
どくん、と心臓が鳴る。
「……それ、どういう意味」
「どういう意味だと思う?」
珍しく、少しだけ意地悪な返しだった。
ドーベルは思わず顔を上げる。
トレーナーは笑っていた。
いつもの穏やかな笑み。でも、その奥に、ほんの少しだけ照れた色が混じっている気がした。
「ずるい」
「お互い様だろ」
「わたしはずるくない」
「この部屋の前で十分くらい悩んでたのに?」
「見てたの!?」
「たまたま窓に映ってた」
最悪、と言いながら、ドーベルは顔を覆った。
恥ずかしい。消えたい。
でも――
「……じゃあ、放っておけばよかったじゃない」
「それはできないな」
「どうして」
「担当だから」
一瞬、胸が冷えかけて。
次の言葉で、また熱を取り戻す。
「……それだけじゃ、たぶんないし」
静かな声だった。
断言ではない。けれど、ごまかしでもない。
曖昧な優しさで期待を持たせたりもしない。
ちゃんと考えて、ちゃんと向き合おうとする。
ああ、本当に。
そういうところが、好きなのだ。
ドーベルはそっと、包みを握りしめた。
「……待たせる気?」
「かもしれない」
「ひどい」
「でも、待ってくれると助かる」
「……勝手ね」
「うん」
素直に頷かれて、毒気が抜ける。
しばらく沈黙が落ちた。
気まずくはない。むしろ、くすぐったい。
夕暮れの光が部屋を満たして、世界を少しだけやさしく見せていた。
ドーベルは小さく息を吐いて、焼き菓子の包みを見つめる。
「……じゃあ」
「うん?」
「その代わり、ちゃんと見ててよ」
「もちろん」
「レースも、それ以外も」
「了解」
その返事が、あんまり自然で。
ドーベルはとうとう、少しだけ笑ってしまった。
「なによ、その顔」
「いや。やっと笑ったなって」
「……うるさい」
でも、嫌じゃない。
たぶん今日、恋は成就していない。
はっきり“好き”と言えたわけでもないし、“付き合おう”なんて言葉もない。
それでも。
ページをめくる前の、栞を挟んだみたいな時間だと思えばいい。
終わっていないからこそ、大事にできる一頁もある。
「トレーナー」
「ん?」
「……ありがと」
「どういたしまして」
そのやり取りが、妙にあたたかくて。
ドーベルは胸の奥に残っていた切なさが、少しだけやわらぐのを感じた。
今はまだ、隣に立つための途中。
でも、きっと悪くない。
トレーナー室を出る前、ドーベルは振り返って言った。
「次のレース、絶対勝つから」
「ああ」
「そしたら……また、話くらいは聞いて」
「いくらでも」
その答えに、今度こそちゃんと笑えた。
「約束だからね」
「約束だ」
扉を閉めて、廊下を歩く。
さっきまであんなに重かった足取りが、少しだけ軽い。
手の中の小さな焼き菓子は、まだ食べていないのに、もう甘かった。
夕暮れの窓に映る自分の顔は、少し赤くて。
でも、ほんの少しだけ ―― 幸せそうだった。






















