「二種の御茶をお持ち致しました」
片膝をつき首を垂れる姿に、軍服を身に纏った青年は「ああ」と頷いた。昼餉をとるための房へ向かうと向かう途中、「帝」と声をかけられた。午前の務めを終えた後に見慣れた銀髪ではなく深い茶の髪の相手が来るようになったのも、数ヶ月の時を経てようやく慣れた。
二種の茶。傍女として永く仕える露音は当然用意していたが、その他の女官では、目の前にいる珠女だけが用意をしていた。珠女より以前に傍女候補となった女官たちは一様によく冷えた茶だけをたっぷり用意した。それはそれで有難くもあったのだが、隣に暖かい茶があると、やはりひと息つける時間は良いと思える。
露音は己の日課を傍女候補には教えなかったようだ。教えずとも、真に帝の御身を想えばそのくらいは思い至るでしょう?……と、たおやかな微笑みのなかに勝気を潜ませ、茶を淹れることさえ試験とした。その意地悪とも思える試験に難なく通ったのが、この珠女だ。
傍女は読んで字のごとく傍に仕える者。傍に長く居れば、愛着が生まれることもある。愛着が続けば、やがて昼間の務めだけでなく寝所に侍るよう所望することも起こり得る。大半の女官たちは昼間の細々(こまごま)とした務めに邁進するより、いずれ起こり得ることに懸けて微笑むことに労を割いた。対して、この珠女は……
───かように微笑むだけで、すぐにでも寝所に招かれるだろうに。
顔を伏せて、より鮮明になった睫毛の長さに目を向けたと同時に浮かんだ邪念を慌てて振り払った。
幸いにも、珠女が平素と異なる帝の姿に気づく気配はない。軍役に関わることに汗を流した帝のためと、いつもの茶を差し出している。
その姿に近づく。他意はない。ただ、茶を受け取るだけ───汗を流したあとだから。
ぴたりと足が止まった。こちらに向かう気配が止んだのを感じたのだろう、珠女は顔を上げる。
「……帝?」
小首を傾げる。それはそうだろう。いつもであれば受け取られるはずの物が己の手の中に収まり、相手の手に渡る気配を見せないのだから。
「いや……そこの花差しの上に置いてくれぬか」
二人が並ぶ部屋には花瓶を置く小さな台があった。今も季節を彩る素朴な花が挿してあるが、お茶くらいは置ける場所は残っている。
「いかがされました。何か、障りが?」
心配が滲む声音。それは、こちらの身に何か起きたことの危惧か、己が失態したやもと思う不安か。前者だろうとほぼ断言できる程には、帝と傍女候補としての時間を過ごしている。
「いや、大事ない。ただ、務めを終えたばかりゆえ……」
「はい」
「汗がにおう」
凝視する視線を感じた。午前の務めの内容を思い返しているのか、己の言葉を咀嚼しているのか。……と。
笑い声が耳に届く。帝の眼前故か声そのものは控えめにしているが、心底楽しい言葉を受けた時のような笑いだった。ふだんは宮中の空気に慣れた者らしく隙のない姿ばかり見えるが、本性は何事にも楽しさを見つける質(たち)なのだろう。
屈託のなさを宿し弓なりとなった目をそのままに、珠女は言った。
「一途におつとめをされた、証左にごさいましょう」
息を呑んだ。頬へ一気に血がのぼるのを感じる。こちらの変化には反応を示さず、珠女はもとのように顔を伏せた。差し出された茶は、心なしか先程よりこちらに近づけられている気がする。
躊躇いながらも近づき受け取る。無事に帝のもとへ渡ったのを感じると、珠女は深く頭を下げ、数秒後顔を上げた。
「これは?」
茶と共に差し出されていたので受け取った包み。まだ芯に温もりが残っている。鼻先に僅かではあったが香ばしさを感じた。
「魚の肉を練ったものに御座います。火を通しておりますので、どうぞ御茶を召し上がる合間に」
時折珠女はお茶請けを用意することがあった。それは概ね季節の物で、先日は柿の干し菓だった。甘酸っぱく、心なしか疲れが楽になった気がした。
「ああ」
言葉少なに頷けば、珠女の笑みが深くなる。しっかりと塗られた濃い桃色を基調とした紅の周りを、肌理の細かな肌が彩る。近くで見れば見る程、肌の美しさが分かる。年齢がどうのという輩の声は望まずとも耳に入る。そうした者たちは、この事実を知っているのだろうか。知っているから却って嘲笑ってみせるのか。己が手にできないものが疎ましくて。まして、それを鼻にかけずよく動く。女官には珍しく寝所に興味を示さないことも面白くないのかもしれない。
また首を振りたい衝動に駆られた。何を考えている。こんな……余分なことを。
小さな会釈を残し、場を去った。宮中では、帝と顔を合わせた時は帝が去るまでその場に留まらなければならない。身勝手に用は済んだと判断し官人の側から去るのは不敬とされている。
僅かな休みをとるための房に着くと、まずは冷たい茶を一口含んだ。よく冷えている。薄めに淹れてあり、喉をよく通る。次に温かい茶を少し飲んだ。こちらは冷たい茶と比べ濃く淹れてある。その違いに、贅沢を覚えるから不思議だ。小さく息を吐いて、弁当箱に手を伸ばした。
中には、円く切られた魚の練り物が入っていた。ところどころにある焦げ目が目をひく。ひとつ手に取って口に運んだ。
「……旨い」
魚の旨味が口に広がる。そこに火を通した場合独特の香ばしさが重なる。腹の調子を気にせず魚介を楽しめるのは有難い。
───驚きましたわ。一番に、「帝は夕べ、何を召し上がられたのでしょうか」と訊くのだもの。
いつぞやの露音の声が蘇る。何の気なしに……本当に何の気なしにだったかは、数々の修羅場をくぐり抜けた女官のことゆえ定かではないが、とにかくごく自然な具合で言ったのだ。
膳が台無しになったと頭を下げられた時は特段何も思わなかった。労をかけて用意したろうに、とだけ浮かんだ。その膳の中身が生海鮮だと知った時には安堵した。その後、膳を台無しにして、謹慎を言い渡された女官の名を聞いた時には息を呑んだ。───まさか。だが、同じ名が、二人といるはずはない。
声を失うだけの己をよそに、露音の動きは早かった。翌日は一日姿が見当たらず、翌々日に顔をみたと思ったら、伝えられた言葉が先ほどのものだ。
頭司を黙らせるだけの権力も侍従を言い含めるだけの立場もない女官が、帝と呼ばれる者の膳を損なう。それも過失でなく故意に。膳頭の話だと、いきなり手をかけ、海鮮がたっぷり置かれた膳を躊躇いなくひっくり返したらしい。
「……恐ろしかったろうに」
下手をすれば死罪だ。先帝の好物である生海鮮は、その子である姉や己も大の好物だと思われている。そこに瑕疵を生じさせたとなれば、命をもって償うことを迫られても否とは言えない。
それなのに、珠女が開口一番帝の影とも呼べる者に尋ねたのは、自身の処遇ではなくこちらの身のことだった。
温かい茶を口に運んだ。じんわりと体の奥が温まる。合間にと渡された練り物の焦げ目は端正で、何度も箸で転がしたのだろうと見て取れる。
───真に帝の御身を想えばそのくらいは思い至るでしょう?
ふいに心臓が跳ねる。魚介の練り物には既に火が通っている。にもかかわらず、再度焦げ目がつくまで火にかけた、その手間。
証左にございましょう、と微笑む姿を思い浮かべた。すぐ近くに笑った顔があることに、ようやく慣れてきた。現実として馴染むようになった。
汗がにおうことが務めを果たした証左なら、敢えて火を通す手間の証左は?そして、それを思っているこの時間の証左は……。
もうひと口、練り物を口に運んだ。既に冷めているはずのそれは、なぜか喜士彦の裡(うち)をあたためた。
Novel3 months ago · 3.1k chars · 1 pages
宮中の徒花ー証左
ウキハ◆18歳以上推奨 作品◆ 『宮中の徒花』の続きです。帝視点の話です。
— End —
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