Novel1 years ago · 5.4w chars · 1 pages

ハナザキのジェンダー論

KEBOKEBO

※2026/5/26 若干加筆(プロローグ追加)しました 始まった大学生活!「ジェンダー学概論」を履修する学生たちは、担当教員のハナザキも開発に関わっている「異性シミュレーター」というVR装置を体験する。 ~Xあたりで何度かネタに上げたり上がったりしたものを料理してみたんですが、思いのほか長くなってしまいました。比較的ベタなパターンのやつです

プロローグ 新学期 ハナザキ アヤメ

(いい天気)
 やわらかく暖かい空気を感じながら、彼女は窓から下を見下ろした。
 キャンパスには、たくさんの新入生と在学生たちが行き交う。
 入学式が終わり、大学のキャンパスはサークル活動の勧誘や、新入生歓迎イベントのお誘いなどで賑やかだ。
「おねがいしまーす」
 桜吹雪の中、女子学生の声が響いている。ちらと目をやると、その顔に見覚えがあった。去年彼女の講義を受けていた学生だ。その元気に勧誘に励んでいる姿を遠目に見て、彼女は微笑む。
 彼女がこの研究室を引き継いでから、はや数年になる。その間、彼女の研究は少しづつ進み、ようやく実を結びつつある。
 ガイダンス期間が終われば、週に数コマの講義を行わなければならない。今年前期の講義のプログラムについては、ほぼ資料がまとまりつつある。今年は学生を退屈させないよう、集中力を保たせるよう、去年にも増して資料作りには工夫を凝らしていた。
(さて、片づけてしまおう)彼女は深呼吸をすると、デスクのPCに向き直った。

4月 ケイイチ

(まあ、単位取りやすいらしいし仕方ないったってなぁ)
 講師が説明するスライドをチラ見しながら、ケイイチはスマホを眺める。最初はそのスライドを見ながら話を聞いていたのだが、どうもいまいちその内容に興味を持てず、講師の話し方も相まって、眠くて仕方がないのだ。
 しかも、何かいい匂いがしてくる。講義の最初に、女性教員、若くは見えるが四十代ぐらいだろうか、ハナザキと名乗ったその女性教員が「こういうのでも気分がアガるんですよ」などと言いながら教壇に小さな花瓶ごと持ってきた花だ。彼には、その匂いがさらに眠気を誘っているように感じられた。
 この講義、「ジェンダー学概論」は今日が今年度最初の講義だった。工学系大学ということもあり、そこにいる学生のほとんどが男子だ。入学式後の新歓イベントで、先輩の女子学生が「単位を取りやすい」と言っていたので、彼はこの講義を履修することにしたのだった。
「そんなわけで、工学系、理系の大学の女子を増やそうということで女子枠ができたわけですが」ハナザキの声が響く。とはいっても、そもそも彼らくらいの年代は人口が少ないようで、あちこちの大学や学校が経営難というニュースが流れているのは彼も知っていた。そのニュースで識者が言っていたことを彼は覚えている。
「女子学生が増えるとそれと同時に志願者全体が増える」
 つまりは客寄せみたいなものだと彼は認識していた。
「ところで」ハナザキの話が続く。
「少子化が叫ばれて久しいわけですが、少子化改善の試みとして、一般男性の女性化転換が去年認可されたのは皆さん知ってますね?」
(ああ、そんな話あったなぁ)なんとなくニュースを思い出すケイイチ。数年前に、男性から女性への性転換についての画期的な発明があり、性同一性障害の当事者については診断書と本人の希望があれば、男性から女性への移行のみ転換治療が受けられるようにはなったのだが、前年の法改正により、人口減少対策の一環として特に診断のない男性についても本人の希望により女性化転換が認められることになった。これにより年齢上限はあるものの、未成年者については本人の希望のほかに適性検査などが必要となるが、十八歳以上の成人男性については本人の希望のみで女性化転換が可能となり、それに伴う適応支援のための公的補助金も支給されることになった。国としては、とりあえず「産む側の性」である女性の母数を増やそうという施策であるらしく、一部からの批判は根強いもののひとり親対策の施策なども盛り込まれていた。
 ふと、周りを見回すケイイチ。話をまともに聞いているのは、せいぜい三分の一ぐらいだろうか。別の地方からこの大学へ進学した彼には、まだ友達というほどの友達はできていなかった。
「ところで」スライドが変わる。なにやら医療機器のような機械の写真がそこには表示されていた。
「これこれ、この写真なんですけど、この、異性シミュレーターの開発には、ウチの研究室も噛んでまして」
 ケイイチはその「開発」という単語に魅かれてスライドの画像を凝視した。ハナザキの説明とともに写真の周りに文字が表示されていた。それによれば、どうやらそれは、いわゆるVR機械の一種で、異性としての生活を、いわゆる世間一般のVR空間よりもはるかにリアルに、短時間で体験することができる機械らしい。とはいえ、実世界で男性の女性化転換は実現されているものの、女性の男性化転換はまだ技術的に確立されていないため、現実的には女性体験マシーンとなっているようだ。
「女性化転換については補助目当て、つまり制度の悪用ですね。そういう方も一定数いらっしゃるようなのですけどね、そういう方で後から後悔していろいろと問題を起こしたりする場合も多いので、そういうまあ、一生のことですし、事故を少しでも防ぐために、実際に移行する前にできるだけリアルな女性体験をしてもらえるように開発したものです」
 説明によると、そのシミュレーターは、女性化転換の技術から簡易的な遺伝子解析に基づいてアバターが作成されるだけでなく、最先端のVR技術が組み込まれており現実なのかVR空間なのかわからなくなるレベルを目指したということである。
(面白そうだな)ケイイチは、アトラクションのような捉え方でそのシミュレーターに興味を感じた。実際、彼はネット上でのVRワールドに女性型のアバターを使って参加したこともある。そしてその話の中でハナザキはさらに、彼にとっては魅力的なことを言い出した。
「まあ、おかげさまでこの機械の導入が始まって、ウチの研究費も少しは潤ってるんですが」
 ハナザキの苦笑いのような顔に、学生たちがつられて笑う。ケイイチもフフ、と笑ってしまった。
「この機械、近隣にも導入しているところがあるので、よかったらまた検索してみてください。それと」
 そう言いながら、スライドを切り替えるハナザキ。今度は通達か、お知らせのような紙が表示される。
「少し宣伝なんですけど」彼女はさらに微笑みながら続ける。
「このスライドのとおり、まあ、開発元というところもあってですね、もし体験したいという人がいたら、駅前にあるTルームという施設なら、大学の学生証を見せると何回か無料体験できます。まあ、ウチの学生さんじゃない人でも、申請したら無料で体験できる制度もあるんですけど結構手続き煩雑なので・・・まあ、興味がある人は行ってみてください」
 キーンコーンカーンコーン、授業終了のチャイムが流れると、学生たちは自分の持ち物をもって教室を出て行く。ケイイチも多分に漏れず、教室を出た。

 今日の授業がすべて終わり、ケイイチは駅に向かって歩いていた。彼の部屋は大学の最寄り駅から三駅ほどのところにある。日は傾き少し暗くなりかけた道すがら、それが目に入った。
 コンクリートの外壁に曇りガラスの大きな窓がある建物。曇りガラスは中の明かりに照らされているのか、はたまた装飾なのか、まぶしくない程度に電球色に光っている。
 その、コンクリートの壁に、「T-Room」という、ワインレッドのロゴの装飾が取り付けられている。
(ここ、例の施設か)
 ケイイチは、朝の授業で言っていた施設だと認識した。その文字の上には「財団法人人口開発センター」と書いてある。
(VRて言ってたよなぁ)
 彼がなんとなく建物を見ながら足を止めると、エントランスのドアが開き、彼と同じような学生らしい男性が出てくる。男性は出ていくとそのまま駅のほうへ歩いて行った。
(なんか、楽しそうだったな)彼は、男性を見てそう思った。彼のほうは、まだ慣れない大学の授業を朝から夕方まで受けていたこともあり少し疲れていたが、男性のほうは、足取りが軽いように見えた。
 ドア越しに見えるエントランス内は、パンフレットなどを多数置いてある、言うならば旅行会社のカウンターのように見える。職員なのか、若い女性がパンフレットを、補充するのか整理するのかいじっている。と、不意に彼のほうを見る女性。彼女はケイイチの存在を認めたのか、微笑みながら軽く会釈する。彼も慌てて軽く頭を下げて挨拶した。女性は、そのままケイイチの様子を窺うように微笑んでいる。彼は、少々躊躇いながらエントランスをくぐった。

「体験の方ですか?」女性が微笑みながら話しかけてくる。
「いえ、まあ」小さく答えるケイイチ。が、女性は続けた。
「こちら基本予約制となっておりまして。初めての方ですね」
「ああ、はい」ケイイチは、今度は明確に答えた。
「えーと、ちょっとだけお待ちいただけますか?」
「え」ケイイチが答える間もなく、女性はインカムで誰かと話し始める。しばらくすると、話がついたのか、彼女はケイイチのほうに向きなおる。
「本日十九時からの最終枠ご案内可能です。事前準備とか含めまして時間かかりますので、こちらへどうぞ」
 彼女がついてくるように促す。
(ま、いいか、暇だし無料だし)ケイイチはそれに従った。

 彼が通された場所は二階のカウンセリングルームだった。
「A大の学生さんですね。でしたら特に費用等は発生しませんので」
 女性が学生証を確認して言う。
「初回こちらご入力頂いてますので、入力しましたら下の”次へ”を押していただいて、順番どおり入力お願いします」そう言って、女性はケイイチにタブレットを渡す。入力内容は、通常の連絡先や、生年月日などの身分照会のほか、最近の健康状態、軽いアンケートのようなものなどだった。
「あ、終わりました」入力を終えて、タブレットを返す。
「そうしましたら、こちらのキットを使っていただいて、口の中をこう、頬の内側をこするようにして」
「はあ」言われるままに、綿棒で口の中をこするケイイチ。その綿棒を、言われたとおり小さな袋に入れる。
「こちらで採取した粘膜からDNAを抽出して、それをもとにアバターを設定します。そうしましたら、しばらくここでお待ちくださいね」
 女性が部屋から出ていく。テーブルにはパンフレットが置かれていた。パンフレットはこの、異性シミュレーターについてと、政府の女性化転換政策の手続き方法や補助についてのもの、そしてこの施設のものだった。この施設では、シミュレーターによる体験のほか、実際の女性化転換の手続きも行っているらしい。
 彼を含めA大の学生については、大学側で手続きをしているため一人あたり四回までは費用が発生しないが、本来個人で被験する場合は、政府からの補助があるため実質無料とはいえ一回当たり数万円の費用が発生し、その補助が支給されるまでの手続きもかなり面倒ならしい。
 なお、シミュレーターのプログラムについてはステップが四つあり、初回の体験内容により次回以降体験できるステップが変わるらしい。
 そんなパンフレットをパラパラと眺めていると、女性が部屋に戻ってくる。
「そうしましたら準備しますのでこちらへどうぞ」
 ケイイチは、女性に従った。

(すげぇ、映画みたい)
 部屋の中央部にあるシミュレーターは、まるで大きなカプセル錠が台の上に置かれているような形をしていた。
「足元気を付けてくださいね」女性の説明に従って、ステップを上がりそのカプセルの中に横たわる。ケイイチは、指示されたとおりその銀色の、全身にぴちっと張り付くような全身スーツを着ていた。露出しているのは顔の部分だけで、額から上もそのスーツに覆われている形となっており、更衣室で着替えたときは少し面白く感じはしたが、その姿を女性にみられると、少し恥ずかしい気分になった。
 説明によれば、体をチャンバー(女性はそのカプセルのことを、チャンバーと言っていた)の中に固定したうえで、顔をすっぽりと覆うようなVRゴーグルが装着され、チャンバー全体を満たすように特殊な液体が注入される。チャンバー内を液体を通じて伝達される信号がそのスーツによって彼の体の感覚のように変換され、限りなく実際の感覚に近い体験ができるらしい。ただ一点の欠点は、呼吸等の問題で、顔を覆うゴーグル装置からの感覚が、ほかの部分に比較して少しリアル度が落ちるということだ。
 体は固定していないと顔の装置等が外れる可能性があり、そうするとチャンバーの中で溺れてしまう可能性があるということだった。
「ゴーグル装着しますね」
「はい」
 身体の固定が終わると、ケイイチの顔にゴーグルが装着される。一瞬視界が真っ暗になったが、すぐに全体が青くなった。説明のとおりであれば、プログラムの開始までこのままらしい。今日は初回ということで、約一時間で、就寝時間を除いた約十八時間分相当の体験をするとのことだ。
 そのスーツを通じて圧を感じる。例の液体が注入されているのだろうと思った。その感覚は、液体が満たされていくとともに薄くなり、やがて不思議なことに体の感覚がまったくなくなると、視界にプログラムスタートの文字が浮かび、不意に全身の感覚が戻り、次の瞬間青い画面ではない日常の光景がそこに現れる。そこにあったのは、どこかの部屋の景色だった。
「え?」思わず声を出すケイイチ。だが、その声は自分の聞き慣れたものではなかった。そして、身体も、自分の記憶とは違う感覚に思える。が、それは、決して心地の悪いものではなかった。
(これ、VR体験だよな?)
 そう思いながら、深呼吸をしてゆっくりと周りと自分の体を見回す。どうも服を着ている感触が今までの記憶とは違うが、どうやら、Tシャツに短パンというラフな格好でベッドに腰かけているようだ。部屋を見回すと、ドアの横に姿見が置いてある。恐る恐るその鏡に全身を写しだしてみると、そこにはラフな格好をした一人の女性が写し出されていた。顔は、どことなく見覚えのあるようなないような・・・
(これが、オレ、いや、あたしのアバター?)
 ケイイチは鏡の中の女性の姿を凝視した。なるほど、髪は短く多少整えられているが、触ってみるとそもそも記憶にある自分の髪の感触ではない。顔は、丸みを帯びてはいるものの確かに自分の顔だと思うに十分納得するものだ。そして、「オレ」を「あたし」と言い換えたのは、その「オレ」という表現にどこか違和感を感じたからだった。
(すげぇ、本物みたい)感覚の違いを確かめるように、彼、いや彼女は自分の体にゆっくりと触れていった。Tシャツの下には、一応下着をつけているようで、その締付具合をまた新鮮に感じる。
 ブブ、という音に不意に気付く。ベッドサイドのテーブルに置いてあるスマホが鳴っていた。いくつかのメッセージが”事務局”から入っている。
”ようこそ異性シミュレーターへ。わからないことがあったらこのデバイスを使って検索してください。また、解決しない場合には、こちらで体を操作することなども可能です”
 そう表示されたメッセージを見て、思わずふふ、と笑ってしますケイイチ。と、その声を自分で聞いてハッとする。
(今のが、自分の声!?)
 もう一回、ふふ、と声を出してみる。
(なんか、むっちゃくちゃ可愛いんですけど)
 ケイイチは、思わずニヤニヤしながら再び鏡のほうを見てみる。鏡の中の女性、すなわち自分が可愛らしい笑顔を見せている。
(マジオレ、いやあたし?)
 それからしばらく、ケイイチは体を動かして鏡の中と見比べ、どうやらそれが自分で間違いないようなのを確認した。
「やっべぇ、なんかかわいい」
 自分で言ってみると、その言い方がまた可愛らしく感じられ、また自分で反応したその自然な仕草がまた可愛らしく感じられる。まるでそれは、「かわいい」の無限ループのように思えた。
(女の子って、こんな毎日自分で可愛い可愛い思ってるのかな)と思ったところで、ケイイチは、それが男としての自分から見た感覚なのか、女としての自分から見た感覚なのかと、この姿を自分と認めてから初めて戸惑いを覚えた。そして今度は、恐る恐るTシャツをめくり、身体にゆっくりと触れてみる。
 手先から伝わってくる、記憶にあるよりも滑らかな感触と、記憶にあるのと同じような違うような、くすぐったいような心地よいような感触。 
「やばいやばいやばいやばい」ふと、それに没入しそうになる自分に気付くケイイチ。
(どう考えても見られてるでしょこれ)
 そう思いながらひと息つく。部屋を見回し、今度はクローゼットを開けてみる。そこに掛かっている何枚もの服。鏡の中の自分と見比べると、ケイイチはそれらを無性に着てみたくなった。
(着方って、男子と違うのかな?)
 例の端末で検索する。と、画面の下の方に「オート実行ボタン」というのがある。それをポチっと押すケイイチ。
(あ、なるほど)体が勝手に動き出す。今着ているTシャツと短パンを脱ぎ、下着姿になると、ケイイチの体はてきぱきと選んだ服に着替えていく。着替え終わった姿を鏡に映し、思わず目を瞠るケイイチ。
(なんか全然違う!)
 服を着替えるというたったそれだけの行為で、女性になったというのとはまた違う、違う自分に変身したような気分だ。男性としての自分ももちろんそうではあるのだが、自分の記憶よりも、その変化の度合いは遥かに大きい気がした。
(こりゃ、女子の買い物が長いのもわかるわ・・・もしかしてこれ、化粧とかも・・・)
 鏡の横のテーブルには、それらしきものが一式置かれている。ケイイチはさっきと同じように検索すると「オート実行ボタン」を押した。

「おつかれさまでした」
「あ、あ、どうも」女性にゴーグルを外されて、現実に戻るケイイチ。すでにチャンバー内の液体は抜かれている。少し呆けた顔のまま、彼は体を起こした。部屋の中の時計は、二十時少し前だ。説明のとおり、一時間弱でほぼ一日分の体験だ。
「更衣室の横にシャワーありますので自由に使ってください」
 言われたとおりにケイイチはシャワーで体を流し、元の服に着替え、最初のカウンセリングルームに戻る。シャワーをしながら、自分の体のあちこちに触れてみたが、それは「体験」中の感触とは違う、記憶にあるとおりの感触に間違いなかった。それを確認すると、彼は「体験」中の感触の心地よさを思い出し、ひとり苦笑いをした。
 結局「体験」の中で、彼はそれから、クローゼットの中にある服を「オート実行」によりとっかえひっかえ着用し、最終的に気に入ったワンピースを着たうえで化粧をし、少し街を歩いてみた。そのワンピース姿がどう気に入ったのか、彼は少し考えていた。男性として見たアバターの姿が気に入ったのか、それとも・・・
 服選びと化粧に時間がかかったため、街を歩けた時間は少ししかなく、また食事もしてみたものの、勝手がわからないためよく知っているファストフード店を利用した。だが、全体的にその体験中、何とも言えない心地のよさがあったのを彼は自覚していた。
「はい、おつかれさまでした」最初から案内してくれた女性が、タブレットを持って対面に座る。
「いかがでしたか?」
「いえ、あ」なんとなく、照れくさそうな仕草で答えるケイイチ。
「嫌ではなかった感じですか?」
「え、ああ、そうですね」女性の質問に答える。
「えーと」女性がタブレットを操作し説明を始める。
「今回の体験でのスコアなんですけど、ケイイチさんはアバターとのシンクロ率については92パーセント、まあ、平均80パーぐらいなんですが、ここのスコアはとても高かったですね」
「高いと、どうなんです?」
「ああ」微笑む女性。
「ひととおり結果の説明してから、また説明します」そういうと、女性はスコアの説明を進めた。
「シンクロ率は92パーセント、それからシンクスコアが78点、スタイルスコアは80点、フィールスコアは84点、アクティビティスコアが77点で、総合的な適性スコアは82点でした。まあ、初回の体験としては、非常に高いスコアでしたし、こちらの適性スコア判定で80点以上出される方は、異性、つまりケイイチさんの場合は女性化ですが、適性としては向いていると言えますね」
「はあ」タブレットの結果表示を見ながらうなずくケイイチ。
「この、シンクスコアとアクティビティスコアはまあ、実際にどう考えてどう行動されるかなので、今回はオート結構利用されてたと思うんですけど、それでも高い方ですね」
「そうなんですか?」
「ええ」女性は続ける。
「まあ、想像つくとは思うんですけども、体験始められてすぐ、なんというか、性欲全開みたいな方とか、むしろそれ目的みたいな方も結構いらっしゃいますよ」苦笑いする女性。
「それはまあ、特殊というか、まあ、ケイイチさんの場合は比較的自然に過ごされてましたので、スコアも高得点だったのと、アバターのシンクロ率が高いというのはアバターを自分として受け入れられるかなので、そこでダメな方はもう、途中で中止する方もおられます」
「はあ」
「ちなみに」そこで女性は、封筒と、その中に入った何枚かの書類を取り出した。
「こちらの書類、皆さんに一応お渡しするんですが」
 その三枚ほどの書類は、それぞれ”異性化転換申請書””人口再生法15条に基づく同意書””個人番号情報変更申請書”とある。
「これは?」
「もし、ケイイチさんが女性化転換される場合に必要となる書類です」
「いえいえ」苦笑いするケイイチ。だが、その書類に興味をひかれたことも確かであった。
「ああ、体験された皆さんにお渡しする決まりになっているのであまり気にされなくても大丈夫なんですが」女性は微笑んで続ける。
「私からすれば、男性の皆さん羨ましいですよ」
「え?」
「今の技術では、男性から女性への転換については確立されていますけど、私たち女性から男性への転換はまだ不完全なんですね。なので、男性の皆さんがその気になれば女性になることができるんですよ」
「なるほど」ケイイチはうなずいた。確かに女性の言うとおり、現行の技術では生物学的に見れば男性から女性への転換が可能なだけだ。
「ですが」さらに続ける女性。
「例えば私がこのシミュレーターで男性体験をしたとして、高い適性があったとしても実際に完全、というか生殖まで可能な男性になることは不可能なんですね」
「そうですよね」
「実際、体験されてどうでした?さっき、嫌ではなかったと仰ってましたけど、女性としての自分」微笑む女性。
「う~ん」少し考えるケイイチ。
「まあ、まだ一日分体験しただけですしね」
「一日、あっという間でしたでしょ?」
 女性はうんうん、とうなずきながらそう言うと、タブレットを開く。
「ケイイチさんの場合、ステップ1のスコアをクリアされているので、ステップ2の体験を受けることができますよ」
「ステップ2?」
「そうです、ステップ1だとあっという間すぎてよくわからないという方も多いんですね。ステップ1は一日なんですが、ステップ2は七日間、一週間分の体験をして頂けるんです。プログラムの時間上、二枠分かかるんですが、どちらにしろ4回までは無料ですし、今なら・・・」
 タブレットを操作して、予約画面を確認する女性。
「ちょうど明後日の午前中に二枠取れますけど、予約入れておきましょうか」
「え、ああ」ケイイチは考えた。彼女の言うとおり、一日では本当にあっという間で何もわからなかったし、もう少しあの、今の自分とは違う「心地よい感触」を味わってみたい気もした。
「じゃあ、お願いします」
「わかりました。では、明後日の朝十時から二枠、お取りしておきますね」

 十日後・・・
「申請と書類の方は不備ないようなので、こちらへどうぞ」
 女性に連れられて、建物の奥の方へ向かうケイイチ。申請のほとんどはオンラインで行ったが、そのうち同意書の書類については、どうしても紙の書類に自署がいることになっているので持参した。個人番号情報変更申請の方は、転換後二週間以内に届け出ればよいことになっているが、すでにオンラインで手続きを行い、変更後の名前の欄には「コトミ」と打ち込んでいる。届け出が早ければ、個人カードなどの発行もその分早いのだ。
 最初の体験から二日後、ステップ2のプログラムを受けた彼は、ステップ1の後に女性に言われたように、女性への転換は自分に向いているような気がしているのを再認識した。その体験の中の自分自身が、とてもしっくりいく気がしたのだ。
 彼はよく考えるために一週間開けて、次のステップ3を予約したのだが、その一週間の間考えていたのは、自分が女性として生きることについてばかりだった。
 そして、ステップ3で一カ月相当、三十日間の体験から覚めた時、彼は確信していた。
(自分は女性である方が合っている)
 そしてその場で、女性化転換処置の予約を行い、今ここにいる。
 パンフレットによると、女性化転換の処置は、シミュレーターと似ている形の機械で行われることになっているが、転換そのものに、個人差はあるがおよそ48時間程度の時間がかかる。そしてそのあと、体の変化が落ち着くまで、転換の時間を含めて約一週間かかる。
 ステップ4を受けてみてからもよかったのだが、彼の中では、ステップ4を受けるまでもなく自分は女性である方がしっくりいくと感じていたし、今から処置を受ければ、その一週間の先のゴールデンウィーク中に女性としての生活に慣れることができ、明けから女性として学校に通うことができると考えたのだった。幸いまだ親しい友達もいない今なら、連休明けから新しい自分、女子学生として学校で過ごすことができるだろう。
「こちらです」女性に案内されるまま、彼は処置室へと足を踏み入れた。そして、処置室の扉が閉じられた。

5月 ユウヤ

「なんかさ、女子増えた気しねえ?」
「オレも思った。つかでもあれじゃね、暑くなってきたとか慣れてきたとかで単に目立つ格好してる子が増えただけじゃね」
 授業が始まる前、ユウヤは最近つるむようになったナオトとそんなことを話していた。
 連休が明けて、なんとなくではあるが女子が目立つようになった気がする。ナオトの言うようにそれは単に服装が薄くなったからかもしれなかったが、逆に言えば授業に来ない男子が何人かいるような気もしていた。
 連休が明けてから最初の「ジェンダー学概論」の講義だった。ユウヤは、すでにバイト中心の生活になったり、いわゆる五月病などで講義を受けなくなっている学生がいるのではないかと思っていた。友達とか仲間とか、そういう関係性ではないにしろ、四月にこの授業で顔を合わせていた数人が、すでにいなくなっている。その代わりというべきか、彼が思うに「真面目な」女子学生のほうが、いなくなった者たちに比べしっかりと授業に出てきているので女子が増えたように感じたのだろう。
(ていうか、毎回いい匂いだよなぁ。匂いが強いっちゃ強いけど)
 彼は思う。この「ジェンダー学概論」、彼らの間では「ハナザキのジェンダー学」と言われている授業のハナザキという女性講師は、毎回花瓶に入れた花を持ち込んで講義を行っている。その香りには、学生たちをリラックスさせ、授業に集中させる効果があるのだと彼女は説明していた。学生たちは、そのことについては「名前のまんまだな」などと言っていた。
 スクリーンに、グラフが映し出されている。
「このように、去年の四月に認可されてから約二千人の成人男性の方がですね、自ら希望されて女性に転換しています。月ごとにまあ、波があるんですが、まあこれは転換そのものに一週間程度かかるのと、その後の新生活に慣れるための期間として夏休みとか冬休み、あとは大型連休などですね、そういった、まとめて時間が取れる時に計画的に転換される方が多いようで、その辺を均していくと、一年間しかまだ統計取れていないのですが、若干の右肩上がりを示しているようです。また、このグラフには入っていないんですが、未成年の方の転換希望はもっと多くてですね、まだ正確な数は上がってきていないんですが、昨年度だけで三千から四千人ほどとなっているようです。これがですね」
 スライドが切り替わる。今度は円グラフだ。
「まあ、対象年齢層の男性に対して行った調査結果ですが、絶対に転換はしないという方は三割程度しかいないんですね。まあ、同じく三割程度がわからない、なんですが、残りの四割の方は、何らかの条件が合えば転換したい、転換してもいいという回答結果になっています」
「先生」学生の一人が手を挙げる。
「女性については調査してないんですか?」
「いい質問です。それをこれから説明しますね」ハナザキはそう答えるとさらにスライドを切り替えた。
「女性から男性の場合は、以前にも説明したようにまだ技術が確立されていないのですが、こちらの円グラフのようにですね、転換に対して前向きな回答と、転換したくないが真っ二つに割れている感じですね」
 ユウヤとナオトはそのグラフを眺める。
(まあ、確かになれないものになりたい言ってもなぁ)そんなことを思いながら話を聞いていると、さらにハナザキはスライドを切り替えた。
「で、ですね、自分の周囲の人が転換した場合にどう思いますか、というアンケートを実施したんですが」
 人口分布図のようなグラフが表示されている。
「まあ、高年齢の方には根強い否定感みたいなのがあるんですが、五十代以下では八割方が肯定的か気にしないという結果になっています。やはり去年政府が認めてから、転換についての認知度などが上がってきてるのではないかと考えています」
(そんなもんかなぁ)ユウヤは思う。とりあえず自分の知っている限りの範囲に転換者がいないので、よくイメージがわかない。
「まあ、今はまだ珍しいかもしれませんが近い将来、転換すること自体が普通に選択肢の一つとなって、女性に転換することが珍しいことではなくなる日が来るのではないかと私は思っています」

「なあ、男が女になるのが珍しくなくなるとかさ、どう思う?」
 ナオトに聞くユウヤ。彼らの視界を、数人の女子学生が横切っていく。女子学生の比率はこの大学では低いはずだが、授業の時に感じたのと同じように、どうもキャンパス内を歩いていても女子が目立つように感じる。
「そうねぇ、つかさ」答えるナオト
「それってあれだろ、その辺歩いてる女子がさ、例えばあの子が実は男だったとか、そういうやつだろ」
 ナオトが顎で指す先に、比較的背の高い女子学生が歩いている。
「普通に綺麗系だよな」ぼそっとユウヤが言う。
「まあ、かわいいは正義だよなぁ。いんじゃね、可愛かったらなんでも」ナオトが笑う。
「そいやさ、あれ、行ってみた?」そのナオトが、不意に笑いながらユウヤに聞いた。
「あれって、どれ?」聞き返すユウヤ。
「例のさ、異性シミュレーター」
「え、おまえ行ったの?」
「まあなぁ」ナオトは笑い続けながら答える。
「あれやべぇよ。体験中頭ん中までもろ女状態」
「マジで?」
「ああ、つかさ、シミュレーターだし、入る前は逆ナン?とかできんのかな、とか思ってたけど、いざ入ったらそんな気にすらならねぇよ。まあ、時間もそんなにないしな」
「時間とかあるの?」
「ああ、一回目は一日分だって。オレはそのなんだ、スコアがギリでクリアしてたらしいから、次行ったら一週間分体験できるって言ってたけど、一日とかだと服選んだり化粧するだけで終わる」
「なんだよそのスコアとか。て、一日中化粧してんの?」
「いやそうじゃなくてさ」だんだんと、その「体験」について熱く語り始めるナオト。
「化粧するだろ、でさ、なんか服と組み合わせてたら、もっとイケるんじゃね、とか思い始めるわけ」
「それで?」
「で、化粧の仕方とか、いろいろ試したり服とっかえひっかえしてるのがさ、なんかすげー楽しく感じるわけよ」
「ほうほう」
「で、納得する自分?てか、結構可愛いんだけど」ナオトが再び笑う。
「それが出来上がったころにはもう夜でさ、時間切れ」
「なにそれ!マジ一日中セルフ着せ替え人形じゃねぇか」
「そうだよ」今度は真顔で答えるナオト。
「あれやべぇ、て言ったのはさ」ナオトが続ける。
「あたし、これな、オレじゃなくてあたし、結構可愛いじゃんとか、普通に思えてくるんだよ・・・完全に頭の中女子モード?みたいになっててさ、今思い出しても確かにあのレベルだったら女子になっても悪くないなぁて思えてくるわ」
「うわぁ、マジで?」まじまじと、ナオトの顔を見るユウヤ。ナオトがその「可愛い女子」になった姿がイメージできない。
「そのさ、体験中の写真とかないの?」
「それはさすがにない、つか、AIの画像フィルターみたいなやつとかと同じ仕組みとは思うんだけど・・・ていうかさ、近いうちに二回目行ってみようとは思うんだよな」
「それ二回目行って写真撮って来いよ」ユウヤが笑う。
「できるんかな?聞いてみよう。つかユウヤも行って写真撮れるんなら撮ってみねぇ?」真面目な顔で返すナオト。

 一週間後。
「えと、なんて呼んだらいいの?ていうか、名前とかどうしてる?」
「そうね、考えてなかったけど・・・そのまんまだけどナオでいいわ。そっちは?」
「じゃあ、こっちもユウでいいかな」
 うふふ、と女性らしく手で口を押えて笑うナオ。
 ナオトが問い合わせたところ、写真を撮って現実世界で見ることはできるが、大学優待の中には入っておらず、結構なオプション価格だったので諦めたのだが、代わりに受付の女性が提案してきたのが、同じステップ同士であれば、プログラムを同時に行うことで、一部同期させることが可能であるということだった。つまりは、同時に同じステップを体験して、プログラム内でお互いのアバターに会うことができるということである。
 だが、ユウヤはいまだ未経験だったため、ユウヤがステップ1を体験したうえで改めて、スコアをクリアできれば改めて予約するということで、ユウヤはステップ1の体験を受けに行き、今ステップ2を体験している。二人のアバターは、同じ空間の中で喫茶店にいた。
「ていうか、あたしもそういうのにすればよかったかな」
「え?」ナオの言うことを聞いてユウが少し驚いた顔をする。
「クローゼットの中身ってみんな同じじゃないのかな。あたしのところそういうの入ってなかった」
「え、ああ」思わず相手と自分の服装を見比べるユウ。
 ユウは、白いサマードレスにカーディガンを羽織っている。ナオは、フリルのブラウスに、デニムのスカートを履いていた。
「いいなぁ、かわいい~」ナオのその言い方は、女子そのものだ。しかも全く違和感がない。
「ナオのも可愛いよ」ユウはそう返すが、実際のところ前回の体験で一番気に入った格好をしているのは確かだ。前回オート実行で行った化粧も、今回は自分でしてみた。意外とそれを面白がっていた自分がいるのも自覚している。
「ちなみにあたし聞いたんだけど」プログラムのせいなのか、思考を発言にするときに、自然に女性的な言葉遣いが出るユウ。こういうところ、よくできているなぁとユウは思う。
「担当のおねえさん、ステップ1のスコアって、よっぽどじゃなければクリアするって言ってたんだけど」
「そうなの?」
「だから、ナオ、ぎりぎりクリアって言ってたよね?何やったの?」
 少しにやけた顔をして聞くユウ。
「そんな、別に」恥ずかしそうな顔をするナオ。
「えー、なになに?」ユウはニヤニヤしながら肘でナオをつつく。
「いや、ほんとうにわからないんだって」ナオは首を傾げて答える。
「ただ」
「ただ?」ナオの顔を覗き込むユウ。
「ちょっと、買い物とかできるかは試してみた」
「あー、そっちか」
 担当の女性が例としてあげた中に、男性とはまた違う買い物依存のような傾向というのがあったのをユウは思い出した。
「ユウは?」
「え?」
「スコア普通にクリアしたんでしょ?どんな風に過ごしたの?」
「どんな風にって」逆に質問される。前回は一日分の体験ということで、そこまで意識していなかったが、なにげに化粧などでイメージが変わる自分のアバターを楽しみ、今の格好で外を少し散歩しただけだ。
「わかんない。普通?」ユウはそう答える。本当にわからない。
「普通ってどんなのなの?」さらに質問が返ってくる。
「えーと、まあ、あたしもナオと同じで服はとっかえひっかえ着た。でもどっちかっていうと化粧のが楽しかったかなぁ。それで少し散歩しただけ」
「へー、みんなそんななのかなぁ」うなずくナオ。
「ていうか」ナオが不意に話題を変えようとする。
「何?」
「なんかさ、女の子してるの、楽しい」
「え?」反射的に答えるユウ。しかし、ユウにもナオが言わんとしていることはわかった。
(確かに、なんか楽しいよなぁ・・・でも)
 それが、男性的な感覚で感じる非日常感なのか、女子でいることそのものが楽しいのか、ということをユウは考えていた。前回のこともそうである。鏡の中の自分は可愛いと思った。だがそれが、男としての自分が見て可愛い、言うならば好みの女の子なのか、それとも女としての自信を持った可愛いなのか、それはわからなかった。

 翌日・・・
「な、なんだよ」
「いや、うーん」ナオトがユウヤの顔をじっと見ている。
「よせよ、気持ち悪い」顔を背けるユウヤ。ナオトは朝学校に来てからずっとこんな感じだ。何を思ったのか、ユウキの顔をずっと見ている。
「なんていうかさ」不思議そうな顔をして、ナオトが言い始める。
「なに?」
「いやさ、あの、確かにユウだなぁと思って」
「ハァ?」
 ユウヤは、つまりナオトがユウヤを見てそのアバターのユウを思い出しているのだと解釈した。
「いやマジよせ。マジ気持ち悪い」半ば呆れた顔で言うユウヤ。しかし、ナオトの返答はさらにユウヤを困惑させた。
「いやさ、ユウも可愛かったけど、男でも女でも可愛いもんは可愛いよなぁ」
「おいちょっと待て」さすがに身体を引き、ナオトから離れるユウヤ。
「どうした?大丈夫か?」
「いや、まあ、おかしいっちゃおかしいとは思うんだけどさ」
 ナオトから思ったよりもまともな返答があって安心するユウヤ。
「自覚してんの?」
「自覚つかさ、なんだろ、男目線と女目線切り替えて見れるようになったっていうかさ」ナオトは、困惑しているのか楽しんでいるのかわからない顔をしている。
「ユウヤの、そのユウさ、男目線で今思い出しても普通に可愛かったわけよ」
「うん」ユウヤは複雑な気持ちだった。ユウはあくまでも自分をベースにしたアバターに過ぎない。だが、それを可愛いと言われて嬉しくないか、と言われるとそうでもない。
「で、女目線で見ても、ユウちゃん可愛かったし。で、今見て思うけど」
「ん?」
「いや、自分でもキモいと思うけどさ、ユウヤ見て、なんつかさ、たぶん女目線で見て、ふと油断してるとかな、ちょっと可愛いとか思ったりするんだよな」
 目をぱちくりとするユウヤ。しかし、ユウヤにもそれがなんとなくわかるような気がした。実際、彼自身、自分のアバターを見て可愛いと思ったことは否めない。
「なあ、転換とか、どう思う?」突然そう言いだすナオト。
「何、おまえそっち考えてんの?」
「いやいやいやいや」首を傾げながらナオトが答える。
「なんていうかさ、また男に戻れるんなら一定期間?転換してもいいかなぁとか思うんだけどさ、一回転換したら戻れないじゃん」
「まあ、普通にそうだろ」
 ユウヤは先日の「ジェンダー学概論」の授業を思い出していた。女性化転換の技術が確立され、法的にも認められるようになってから女性化した人々は多数いるが、転換するには至らずいわゆる女装を楽しむ男性は一定数いるようだ。
「ん」
「だったら、もう一回あそこ行ってみればよくね?VRだけど普通に戻ってこれるだろ男に」
「そうなんだけど、さ」提案に躊躇する風のナオト。
「何?」
「なんていうか、あの体験施設、実際転換処置もしてるわけじゃん」
「ああ、そう書いてあったつか、そもそもそういう施設だろ」
 ユウヤは、なんとなくナオトの言わんとしていることを理解した。
 本来体験施設は、異性を体験することによって相互の理解を深めるためであったり、女性化転換をするにあたり、実際に転換後に支障が起きないよう、将来自分が女性化してもやっていけるのか考えることができるようにするためのものである。中には遊び半分で体験する者もいるようだが、本来は決して楽しむためのアトラクションではない。
「でさ」続けるナオト。
「体験してみるとさ、もしかしたら、自分は女子に転換した方がいいのかな、とか、微妙に思ったりするわけよ」
「あー、なんかわかるわ」ユウヤにも心当たりがあった。体験プログラムを受けている、つまりVR空間にいる限り、自分が女性であることに対する違和感はほとんど感じられない。むしろ、プログラム終了後、男性に「戻った」時に感じる違和感のようなものの方が大きく感じるような気さえした。
「で、結局何が言いたいの?」
「いや、いや」躊躇いがちにナオトが言う。
「さっき言ってたみたいに、もう一回行ってみればいいんだけどさ、その、さ」
「何?」
「もう一回だけ、付き合ってくんね?」
「は?」
 ナオトは、バツの悪そうな顔をして手を合わせる。
「ごめん、もう一回だけ体験、付き合って」
「はあ」苦笑いするユウヤ。つまりナオトは一人で行くのが怖いようだ。
「なんで一人で行けないの」
「なんか、一人で行ったらまたモヤモヤしたまま帰ってくるだけな気がしてさ」
「で、結局、女になりたいの?」
「それは」口ごもるナオト。
「わかんない。だから、もう一回」
「たく、しょうがねぇなぁ。いつ行くの?」
「とりあえずさっき聞いてみたら、ステップ3は明日なら二人分同時に枠取れるって」
「なんだよ、もう聞いてるのかよ」再び苦笑いするユウヤ。

 そしてその翌日、ユウヤとナオトは前回と同じようにVR空間の中にいた。ステップ3は前回のステップ2が一週間分の体験だったのに対して、その四倍、約一か月間の体感時間となり、特殊な体験として、女性特有のもの、つまり生理期間についても体験ができる。
 体感時間が長時間になるので、ステップ3は3時間分の枠が必要となる。ちなみにその先にはステップ4体験の設定があり、それはほぼ丸一日の時間を使って、体感一年分の体験をすることができる。担当の女性によると、ステップ4より上については設定がないが、四回まで無料体験できるというのは、最大でステップ4まで体験することができるという意味だとということだった。そして、担当の女性はそれと同時に今までにステップ4を体験した人はいないということも言っていた。
「楽しそうだね」ユウが、ナオを見て微笑む。前回同様、VR空間内で時間軸を同期させてもらい、二人は同じ時間軸にいる。
「うん。楽しい」楽しさを隠さず満面の笑みを浮かべるナオ。二人はこの時間軸の中ですでに数日過ごしているが、ナオの言う「楽しい」は、ユウにも何となく理解できる気がした。今日はVR空間内の学校で一緒に講義を聞き、そのまま学内のカフェで「おしゃべり」をしていた。
「なんかさ」苦笑いをしながらユウが言う。
「よくまあ自分でもこんなにあれこれ話題が出てくると思うわ」
「ほんとだよね」ナオもうなずく。少なくとも現実空間でここまでペチャクチャと、他愛もない話を延々と続けた記憶はない。
「でもさ、講義がジェンダーとかウケる」
「ほんとだよね。しかもこの間の授業とほぼ同じじゃん」
 笑う二人。受けた講義はまるで録画を再生しているような「ジェンダー学概論」だった。教員が本人のアバターなのか、それともAIか何かで作られたキャラクターなのかはわからない。教員は彼らが現実空間で受けているハナザキとは似ても似つかない、いわゆる「イケメン」の男性教員だった。もちろん教壇に花を飾るでもなかった。
「ていうかさ、なにあれ」突如ナオが話題を変える。
「あれってどれ?」返すユウ。
「どれ早い!」笑いながら続けるナオ。
「男子かな?なんかあっちこっちで見られてる気がするんだけど」
「そりゃあナオちゃんさ、今日の服は派手すぎでしょ」
 半ばあきれ顔のユウ。ユウの、Tシャツにロングスカートという地味な格好に比べ、ナオは、派手なフリルのついた、まるで水着のようなミニスカートのワンピースを着ている。
「だって、せっかく女の子してるのに、かわいい服着なきゃ損でしょ」
「ま、ま、そうだけどね」半ば唖然としながら苦笑いするユウ。だが、ナオが言うのももっともな気はする。ユウ自身は、体験であることを頭に入れ、やはり学校へ行くのにはどんな格好をしていくべきなのかを調べながら服を選び、化粧もそれに合わせてきた。それでも時に視線を感じ、それは時に不快ではあったが、なぜかその中に心地よさを感じることがあることにも気づいていた。
 その点ナオは、とりあえずVR空間での体験を楽しむことを優先している。シーンにふさわしい服装を考えるよりも、自分がしたい格好をしている感じだ。
「なんかさ、もうね、男の人がみんな優しいのよ。あたしも普段女子にあんなデレデレしてるのかな」ニヤニヤしながらナオが続ける。
(そりゃそうでしょ)ユウは思う。ナオの行動は、どう見ても男子をチヤホヤさせるものであったし、その姿については前回の体験の時よりもかなり磨きをかけているというべきか、垢抜けたというべきか、単にアバターが可愛らしいわけではなく、自身をそういう風にコーディネートしてきている。前回の体験から一日しか経っていないにもかかわらず、ナオ、すなわちナオトは、女子としての自分の見せ方にかなり興味を持って自分なりに調べたりしてきたのだろう。
 そう思っている中で、ユウには少し戸惑うことがあった。
 ナオが男子にチヤホヤされるのを見るたびに、なにか不快感のようなものを感じている自分がそこにいた。それだけではない。ナオの、胸元を強調したような服装を見て、思わず自分と見比べてしまう。
(いいなぁ、大きくて、形も綺麗)
 ふと、そんなことを考えている自分に気付き、思わず首を振る。
(何をバカなことを・・これは、体験よ)
 そう思いながらも、ふと気づくと男性の視線がどう見てもナオにばかり集まっている。さらに一度そう意識すると、どんどんそれが目に付くようになって行く。
(あたしも目立つカッコしてくればよかったなぁ)
 そんなことを考えている自分に気付くたびに、自分が何を考えているのかわからなくなってくる。
「ねぇ」不意に、ナオが言った。
「なに?」
「これさ、夜遊びとかしてみれるのかな」
「は?」
「だから、夜遊び。飲み行ったりとか」
「さすがに二十歳未満はダメじゃない?」
「じゃ、バイトは?」
「バイトって・・・え?」
 ユウは、ナオが夜職のバイトをしてみたいと言っていると理解した。
「ちょっとナオ、何考えてるの?」
「これさ」おもむろにスマホを取り出すナオ。その画面には、有名な夜職の求人サイトそっくりなものが表示されている。思わずその求人サイトのCMの有名なフレーズをつぶやいてしまうユウ。が、すぐ彼女は我に返る。
「ちょっとまってよ、ヤバくない?ていうか、なんでこんなのまで体験の中で出てくるのよ」
「いやぁ、よくできてるなぁとはアタシも思うんだけどさ」
 ニヤニヤしながらそのサイトを開くナオ。
「ほらこれ、即日、手ぶら出勤OK」
「本気?ていうか正気か?」
「だって、男だったらできないやつじゃん」
「そりゃそうだけど・・・いや、あのさ、体験の中で稼いだって」
「そういうの知るための体験でしょ」動揺するユウの言葉に対して楽しそうにナオが言う。

 結局・・・
「楽しかったぁ」
「いや、わたしは無理。もう無理」
 笑顔のナオに対し、疲れ切った顔をしているユウ。ナオが、サイトに掲載されていた店に連絡をし、二人は「体験入店」をした。店側の対応はユウが思っていたよりも優しく、客もユウが勝手にイメージしていたような「ヤバそうなおじさん」は、来店する客の中にはいたものの彼女たちが付くことはなく、二人は数時間でそれなりのバイト料を手にして帰り道についていた。
「この名刺とかさ、どういう設定なんだろうね」客に貰った名刺を楽しそうに見せるナオ。VR空間で出会った人々が、実在の人物なのか完全にAIのキャラクターなのか、彼女たちにはわからない。少なくとも、大学の講師は設定は実在の人物に似ているが違う人物だった。
「また行きたいな、ていうか、アタシ入っちゃおうかな」
 ナオにとっては「体験入店」はかなり楽しかったようだった。店で借りたきらびやかなドレスを着て、ユウから見れば、どちらが客なのかわからないような接客に思えたが、やることはきちんとしていたのか、マネージャーや他のホステスにも可愛がられていたようだ。思えば、ナオ、いやナオトは元々社交的な性格で、バーベキューなどに行っても気が利く盛り上げ役な感じはあった。
 それに対してユウの方は、ナオのように客とスムーズに話すこともできず、慣れないことで表情もこわばり、ただ気疲れしただけに終わったように感じていた。自分が接客したわけではないが、その疲れた顔は店に来ていた「おじさん」たちと、大して変わらないのではないかとも彼女は思っていた。
 ナオと別れ部屋に帰る途中、何か違和感を感じるユウ。なんとなく視線のようなものを感じて、足早に歩く。今度はどうやら、視線だけでなく足音が付いてきた。
(え、これって・・・・)
 言い知れぬ恐怖を感じるユウ。今の自分が「オンナ」であることを思い出す。そうでなくても気味が悪いのに加え、その気味悪さ以上の悪い想像が頭に浮かんでくる。
(これは体験!これはVR!)自分に言い聞かせながら早足で歩く。行く手に店舗の明かりが見えると、彼女は思わずそのコンビニに駆け込んだ。
 下を向いて手を膝につき大きく息をすると、エントランスの音楽が鳴る。
「いらっしゃいませ」という落ち着いた男性の声に頭を上げると、その主は、穏やかな笑顔の、三十代ぐらいの男性だった。と、その男性の表情が険しくなり、視線が彼女の後ろ、ウィンドウを通した店の外に向く。
 思わずその視線の方向へ振り向くユウ。一瞬そこを歩いていたその男と目が合う。男は一瞬ニヤリ、と、イヤらしい笑みを浮かべるとそのまま店の前を通り過ぎて行った。
「大丈夫ですか?」落ち着いた声に振り向くと、男性がレジの中から心配そうに彼女の方を見ている。
「あ、大丈夫です」反射的に答えるユウ。レジの男性の方に向き直ると、険しい表情から穏やかな表情に戻った男性がいた。深呼吸しながら、男性に頭を下げるユウ。
 苦笑い気味に微笑む男性。
「少し時間おいてから出られた方がいいですよ」表情を崩さず男性はそう言う。その落ち着いた声のトーンが、ユウの胸に滲みた。買い物かごを持ち、店の中をうろうろする。時折雑誌のコーナー越しに外を見るが、さっきの男はいないようだった。そして、なぜか外の男とは同じくらいレジの男性が気になる。レジの男性は、何かレジの裏で作業をしていた。
 ユウがレジに向かうと、男性がそれを察してレジに戻る。その姿が、どこか数年前に流行った刑事ものに出ていた人気俳優に似ているなと思った。
「袋どうされますか?」ユウがレジにかごを置くと、男性が微笑みながらそう尋ねる。その笑顔にしばし見とれるユウ。
「あ、お願いします」
「それでは袋代いただきますね」
 ピッ、ピッ、とバーコードをスキャンし、てきぱきと商品を袋に入れる男性。なぜか、その手の動きがユウにはなぜかとても美しいもののように思えた。
「〇円です。お会計そちらにお願いします」
「あ、はい」なんとなく名残惜しいような感覚を覚えながら、レジ横の機械にお金を入れるユウ。レシートが発行されると、そのタイミングで男性が声をかける。
「ありがとうございました。お気を付けて」
 微笑んだままの男性に、ユウはちょこん、と頭を下げるとコンビニを出た。

「ステップ4いった人いないって言ってたよね」
「おまえ行きたいの?生理とか結構辛くなかった?」
 帰り道、名残惜し気に言うナオトにそう返すユウヤ。終了後のカウンセリングによれば、ナオトよりもむしろユウヤの方が「適性」が高かったようで、ユウヤの担当をしていた女性は彼に対しかなり熱心に転換を勧めていた。一方ナオトの担当の方は、「転換しても問題なくやっていけるレベルですね」という結果のみの説明に終わったようで、特に勧められるなどはなかったようだ。
「そりゃ辛かったけどさ、まあ、五日間としても、残りの二十日以上はほとんど楽しいわけじゃん。単純に五分の四として、パチンコで信頼度80パー考えてみ、普通に激アツじゃん」
「そうだけど、そこか?」ユウヤが苦笑いする。
「でもなあ、さすがに一年分体験ていうのは長いよなぁ」よほど楽しかったのか、ステップ4体験に行くことを前提にしているようなナオト。ステップ4は、彼の言うとおり一年分の時間を丸一日かけて体験する設定だ。だが、ユウヤもさすがに体験だけで一年分は長いと思っていた。
「あれじゃね、そんなに行きたきゃ自分で金払えば好きな時にもう一回ステップ3やらせてもらえるんじゃねの?」
「そうだけどさ、結構高いし」ナオトがため息をつく。それだけではない。最初に説明があったように、施設は異性体験による相互理解や適性確認のためのものであり、施設そのものについても公的な感じが強い。楽しむためのアトラクションではないということはかなり強調されていた。そのことは彼も重々承知している。
「ていうか、一年間が体験とかもなぁ。うーん」ぼそりとつぶやくナオト。
 二人が歩く先に、コンビニが見えた。ユウヤはふと、コンビニが
「オレちょっとコンビニ寄ってくわ」
「ああ、じゃあオレ帰るわ」
 ユウヤはそこでナオトと別れコンビニに入った。
「いらっしゃいませ」来客を知らせる音楽とともに聞こえた声に一瞬どきっとするユウヤ。思わず声の方を振り返ると、年配の男性店員が、ユウヤの方も見るわけでもなく何か作業をしている。
(わけないか。え?)と、体験の中で会った男性がいることを期待している自分に気付く。
(おいおいおいおいちょっと待て)深呼吸をするユウヤ。店員は、レジに並んだ若い女性に不愛想に接客していた。
(そうだよなぁ)その様子を見てなんとなく納得したような気持になる。
(そんなイケメンの兄さんとか、映画じゃあるまいし)そんなことを思いながら、自分も会計に並ぶ。さっきの若い女性と同じように不愛想に金額を告げられ、機械で会計を済ませると、ユウヤは店を出た。
(いやあ、ああいう風にはなりたくないなぁ)そんなことを思いながら彼は家に帰った。

「このように」ハナザキが喋っている。教壇には今日も彼女が持参した花が置かれていた。
 なんとなく、先日よりもさらに女子の比率が増えているように感じる。ナオトは今日は休みのようだ。先日一緒に異性体験に行ってから、ナオトとは会っていなかった。
「このような、中高年の男性に対しての差別というよりバッシングに近いものもあって」
 ハナザキの話は進む。
(だよなぁ、オレでもおっさんムカつくとか思うときあるしなぁ)
 ユウヤは、先日の不愛想なコンビニ店員を思い出していた。
(オレも歳とったらああいう風になるんかなぁ)
 そんなことを思いながら周りをなんとなく眺める。やはり男子よりも女子の比率が高くなっているのは確かなようだ。それよりも気になったのは、知らない顔の女子が意外と多いことだった。
 さすがにこの講義を取っている学生全員を把握しているわけではないが、講義が始まった当初から考えて、見慣れた顔もいれば、最初はいなかったと思う女子が結構いるように思った。今日はいつもつるんでいるナオトがいない分、余計にそんな気がする。
「これからは、男子の皆さんにとっては将来女性に転換して生きていくことも選択肢の一つとして考えることができる時代になっていきますね。ではまた来週」
 授業が終わり、ハナザキが退出する。
(選択肢の一つか・・・)
 ハナザキが言ったそんな言葉をぼんやりと反芻しながらゆっくりと立ち上がるユウヤの肩を誰かがポンと叩く。振り返ると、やはり見覚えのない女子が、面白そうな顔をして立っていた。彼女が斜め後ろに座っていたのは認識していたが、「見慣れない顔の女子」の一人としか認識していなかった。だが、その表情からして間違えて彼の肩を叩いたりしたわけではなさそうだった。
「はい?」それだけ言って彼女の顔を見るユウヤ。と、彼はその顔が誰か思い出した。
「え?ええ?」驚いてユウヤはまず自分の体を見回す。
「そんな、VRじゃないってば」彼女が笑う。
「うそ!マジで?」もう一度まじまじと彼女の顔を見るユウヤ。
「まあねぇ。しちゃったよ転換」ナオは笑いながら答える。
「ていうか、アバターとほとんど変わらない格好になると思わなかったよ。よくできてるわあの機械。てか、もっと早く気づいてよ」
 笑いながら話し続けるナオ。VRの中ではすぐに返す言葉が浮かんできてそのまま楽しいおしゃべりに突入したように思うのだが、今ここでユウヤにはすぐに返す言葉が浮かんでこない。
「何緊張してんの?」ナオはまだ笑っている。
「いや緊張ていうかさ、なんだろ」ユウヤは返答に困った。
「それ、あれよ」急に真顔になるナオ。
「あれ?」
「アタシも、体験から戻ったらなんかうまく話せないとかあったし、男子と女子の差なんだと思う」
「あー」ユウヤはそれはわかったような気がした。体験から日常に戻った後、違和感というべきか、なかなか「元の自分」に戻れない感覚がある。それが、ナオの言うような「男子と女子の差」なのかどうかはわからない。
「ていうかさ」なんとなく、ユウヤはナオの全身を見回した。ナオはVRの時と同じように、割と派手目の格好をしていた。
「ああ、これね」うふふ、と笑うナオ。
「転換したらさ、生活用品そろえるための支援ポイントが出てさ」
 それはユウヤも知っている。パンフレットにもそう書いてあった。
「なんか買い物行ったらどれも可愛くてさ」
 楽しそうに話すナオを見て苦笑いするユウヤ。
「やっぱ、普通に買い物依存の傾向じゃね」
「え、まあ、まあね」今度はユウヤの指摘にナオが苦笑いする。
「でも、楽しい」
「え?」聞き返すユウヤ。
「楽しいよ、女の子。アタシよかったわ、転換して」
「はぁ」ナオの言葉に、ユウヤはしばし呆然とする。とはいえ、ナオの言うところの「楽しい」は、一緒に「女性体験」を受けた彼にも理解することができた。
「ちなみにさ」ナオが続ける。
「聞いた話なんだけど、結構転換する子、多いらしいよ」
「え?」
 そのナオの言葉に、ユウヤはなにかモヤモヤと感じていたものが晴れたような気がした。
「それって」
「うん、アタシもだけど、希望っていうかさ、なんとなくそんな願望持ってて、シミュレーターしてみたらその方がしっくりいくっていうか、そんな感じの子、意外と多いみたい。アタシはすぐ空きがあったからよかったけど、なんかこれからの時期、夏までに転換したいとか、そういう子増えて待ちが出るんじゃないか、て施設の人が言ってた」
「じゃあ」ユウヤが言いかけるのを、ナオが遮る。
「そうそうそうそう。ジェンダー学取ってる子とか、結構転換してるって」
 あっさりと核心を付くナオ。ジェンダー学の講義で最初からいなかったように思えた女子たちは、おそらく女子に転換した男子たちだったのだ。
「転換とか、思ったよりも別に特別なことじゃない感じだわ。今は女になることしかできないけどさ、そのうち男になることとかできるようになったら、女子から男になる子とかも結構多いんじゃない、ていうか、本来自分が向いてる方になれるようになると思うんだよね」
 楽しそうに語るナオを改めて見るユウヤ。彼女は、本当に心から女になったことを喜んでいるようだ。
 しかしユウヤは、それも理解できるような気がした。
(体験の時のスコア、こっちの方が高かったやん)
 そんなことを思いながら、ナオが話し続けるのを聞く。体験の時は、そのトークを返して盛り上がれたのだが、なぜか同じような「お喋り」にならない。
「ユウヤさ」不意に、その話のトーンが変わる。
「男子でもカワイイけどさ、ユウも可愛かったよねぇ」
「はぁ?」
「ユウヤはどうなの?女になる気ないの?」
「え、え」ナオのストレートな問いに戸惑うユウヤ。
「スコア高かったって言ってたじゃん。向いてないわけないでしょ」
「え、ああ」まともに答えられないが、ナオの言うことはいちいちユウヤの心に刺さる。
 正直なところ、女性体験は楽しかったし、特に違和感を感じるところもなかった。むしろ体験後の違和感がないと言ったら嘘になる。彼にとっても、今現在の言葉が出てこないこともまさにそれだった。そして何より、目の前のナオも可愛いと思うが、鏡の中にいたユウの方が、彼にとってはもっと可愛いと思えた。
「それにさ」
 そしてそんなユウヤの思っていることを見透かすかのようにナオが決定的な言葉を放った。
「せっかくユウちゃん可愛かったのに、このまま歳取ったら、ユウヤも汚いオッサンになるとかさ」
「うーん」天を仰ぐように上を見るユウヤ。それこそが、彼が最も気にしていることだったかもしれない。体験の中で出会った年配男性は確かに格好良かったが、それは体験の中の理想的な登場人物に過ぎず、現実に出会った同じような立場の年配男性は、彼にとっては不快な感じがした。そして彼が将来的に理想的に年をとれる可能性が高いかどうかはわからず、ある意味ではそのような不快な存在に自分がなるということには恐怖感すらあった。しかし、女性になるという「選択肢」をとれば、不快な存在になる可能性はほぼゼロであるように彼には思える。
 ユウヤの脳裏に、女性体験の楽しかった記憶が、まるで溢れるように浮かんでくる。そのどれもが、男子でいる限りは体験できないことであり、そして転換することは、それが日常になるということだった。
「ちなみにさ、転換そのものってどんな感じ?」
「まあ、準備とか微妙に違ったけど、自分的には体験と同じっていうか、体験から戻ってきたら世界が体験の中に変わってるみたいな感じかなぁ」
「え、どういうこと?」
 いつの間にか、ユウヤは転換処置についてのナオの話を一生懸命聞いていた。

「よかったね、すぐ受けられて」
「うん。それより、あとで先週の分ノート貸して」
「あ、それ、ノートもだけど、ハナザキに処置受けてました、て言ったら資料貰えるし出席扱いになるって」
 並んで座るユウとナオ、ではなく、ユイとナナミ。名前などの戸籍変更は、個人番号情報変更申請を転換処置後二週間以内に届け出ればよいことになっている。
 ユウヤ改めユイは幸い、申請して翌々日に転換処置に入ることができた。処置そのものは個人差があるものの四十八時間から七十二時間程度かかり、その後の体力の回復や諸手続きなどで一週間は施設で過ごさねばならないため、彼、いや彼女は今日久しぶりに大学に出てきたのだ。
「ワタシがいない間に、また女子増えたね」
「いや、アンタもでしょ」
 笑いあう二人。ハナザキが教室に入ってきて、今日は一輪挿しを教壇に置いた。
「おはようございます」
 ジェンダー学概論の講義が始まった。

6月 アキト

「ねえ」
 絡みつく女。ベッドの上でアキトは、少しめんどくさそうにそんな女を抱き寄せる。
「もう一回しよ」彼女は上目遣いでアキトの顔を見ると、チュッとほほにキスをした。しかしアキトはその彼女を放し、ベッドサイドに座る。
「ていうかさ、おまえこの前まで男だったじゃん」
「もう、またそういうこと言う」
 胸元を隠しながらふくれた顔をするカナミ。彼女は、アキトの言うとおり、ほんのひと月前までは男子だった。
「それはそうだけど、アキトだって右手さんよりは気持ちイイでしょぉ。別に金よこせとか言わないし」
 ぶっ、と吹き出すアキト。
「にしてもおまえちょっと何、そら元から変態だったけどなんつの、後天性淫乱ヤリ魔オンナかよ」
 今度はカナコが吹く。
「なにその、後天性淫乱ヤリ魔オンナって」
「そのまんまじゃん、つかむしろ先天性か」半ば呆れた顔で言うアキト。
 アキトとカナタ、つまり今のカナミは、地方の同じ高校から一緒にこの大学に入った。高校の時からの親友、というわけではないが、たまたま学部も同じだったこともあり、新しい環境での同郷の仲間というのは何分心強く、大学に上がってからはいろいろとつるむことが多かった。
 しかし本人が理解しているかどうかはともかく、アキトにしてみれば、カナタはある意味地元では有名な人物だった。まるで人気の若手アイドル俳優のように整った容姿を持っていた彼には、同級生や学内にとどまらず言い寄る若い女性が絶えなかったが、それに辟易するわけでもなく、一部では「ホスト」というあだ名をつけられるぐらい、誰に対してもそれなりに相手をしては一方的に捨てるというようなことを悪びれずに繰り返しており、金を貢がせたなどの話だけは聞いたことがないものの、彼はまさに女性関係のトラブルのデパートのような男だった。
 地元を離れてこの大学に来たのも、トラブルが起こりすぎて居辛くなったのではないかなどと噂されていた。実際のところどうなのかはアキトは聞いたこともなく、知る由もない。そのことについてカナタから聞いたのは
「だって来たのは向こうからだし、拒む理由もないし」
「いいじゃん、別に金とったりしてないし」
という二言だけであった。そして、ここの大学に入ってからも、彼が女性にモテていたのは確かだった。
 が、そのカナタが、何を思ったのか女性に転換した。彼、いや彼女が言うには、「男の生活に飽きた」らしい。
「先天性か後天性か知らないけど、ぶっちゃけ女のエッチてさ、マジ男んときより全然気持ちイイから」
「あのさ、もう少し、女らしいなんつの、恥じらいみたいのってないの?」
 呆れ顔のままアキトが言う。カナミは女性に転換して以来、「女の一人暮らし物騒だし」などと言い、なぜかアキトの部屋に居着いている。女性に転換したカナミは、やはり整った顔をしており、アキトにしてみれば大変な美人なのだが、元は男だったということと、その彼女の「過去」を知っていることが、彼の理性を押しとどめるストッパーのようなものになっていた。
「あのさじゃねーよ。お金も取らないでこんな美女がしてあげるって言ってるんだよぉ。傷つくわぁ」
 上目づかいで微笑みながらアキトを見るカナミ。そのままその細い腕でアキトに絡みつく。
「仕方ないなぁ」そのまま倒れこむ二人。

「つかさ、ほんと女子だらけになったな」
 ぼそ、とつぶやくアキト。教室の中は六割くらいが女子だっただろうか。最初、四月にこの「ジェンダー学概論」の講義が始まった時は、この教室にいる学生のほとんどが男子だったように記憶している。アキトも最初は状況が呑み込めていなかった。しかし、日を追うごとに女子の割合が増えているように見えるのが、実際に男子の人数が減って女子の人数そのものが増えているということだと気付いたのは、カナタがカナミに転換したことからだった。彼、いや彼女のように、女子に転換した男子が、この教室内におそらく何人もいるのだ。
 横にはそのカナミが座っている。カナミは今日はほぼスッピンで、服装もTシャツにデニムというラフな格好をしていたが、それでも男性であった時と同様、その整った顔立ちに加え、そのスレンダーでモデルのような体形をした彼女のルックスは人目を引くには充分であった。
(そんなに女子っていいのかな)と思いながら、横目でカナミを見るアキト。彼女は一生懸命スライドを見て、教員のハナザキの説明を聞いている。そのハナザキは、いまや男性が女性に転換することは珍しいことでもなく、これからは一般化、といよりも「選択肢の一つ」になるのではないかということを先日の講義で言っていた。アキト自身はそもそもあまり気にしていなかったのだが、最近のこの教室内の状況を見ていると、街行く女性の中にも「元」男性が少なからずいるようにも思え、そうすると、ハナザキの言う「選択肢の一つ」というのもあながちおかしくないのではないかと思えてくる。少なくともカナミは「女性になった自分の生活」を十分以上に堪能しているように思えた。
「ところで」そうハナザキが言うとともにスライドが変わる。
「これは最新の資料ですが、女性に転換した男性に行ったアンケートの結果です」
 いくつかのグラフがスライドに表示されている。
「結果からみると、転換後の生活について満足、やや満足という人が約八割を占めています。このうち転換することについて不安があったという方が七割程度で、転換前に不安があった人でも、多くの方が転換後には満足した生活を送れていることを示しています」
 ハナザキがスライドを切り替えた。
「ところで、また宣伝になるんですけど」
 学生たちが笑う。その笑い声の多くが、女子らしいウフフ、という感じの笑い声だ。
「以前も紹介しましたが、転換された方の中でこの異性シミュレーターを利用された方に限ってはこのとおり」
 手元のポインターで、グラフの一つを指し示すハナザキ。その円グラフは、ほとんどが一つの色で占められている。
「異性体験したうえで、自身の適性やイメージ的なものを確認されてから転換された方については、ほとんどの方が転換後の生活に満足されているというアンケート結果が出ています。おそらく適性のない方はこの時点で転換しない選択を取られていると思うので、当然と言えば当然なんですが、今後この機械の普及が進んでいくにつれて、補助金の不正受給なども減っていくではないかと考えられています」

「おまえその、異性シミュレーターって行った?」
 講義が終わった後、アキトはカナミに聞いていた。
「うん。行ったよ」
「どうだった?」
「どうだったって、うーん」首を傾げるカナミ。
「なに勿体ぶってんの?」
「いやさ」真顔になってカナミが言う。
「説明するの難しいていうかさ、まあ、面白かったっちゃ、面白かったけど」
「面白いって、どんなんだよ」苦笑いするアキト。
「そうねぇ、リアルだよ」真顔のまま続けるカナミ。
「体験した時は男子だったから、なんていうか、面白いていうか新鮮な感じ?で面白かったけど、今となっては逆に、当たり前のこと過ぎて、ていうか、まあ、それぐらいリアルではあるよ」
「ふーん」カナミの、ある意味普段の彼女とは違う真面目な説明を聞いて、アキトは深くうなずく。
「アキト行ってみればいいじゃん」
「は?」カナミの一言に、アキトは不意を突かれるようになった。
「まあたぶん、あれ一回行っとくとたぶん、試験でミスっても単位通してくれそうな気がする」
「そっちかよ」笑うアキト。
「ちなみにおまえ適性高かったのか?」
「うん」普通に答えるカナミ。
「何点だったかな、スコアがトータルで86点かなんかで、適性としては非常に高いって言われたかな」
「へぇ」半ば予想していたような、していなかったような、不思議な感覚になるアキト。確かにその整った顔かたちは女子になっても美形であろうというのは、男の時のイメージからも想像できたというのはある。しかし一部では「女性の敵」ぐらいの扱いをされていた男である。「女子の気持ちを思い知れ」というような、罰ゲーム的なことで転換「させられた」というようなことを想像することはできこそすれ、自分から転換したということには、どうもいまだに違和感がある。だが実際、女性としてのカナミに違和感があるかと言えば、そういうわけでもない。
「で、何?適性高いから転換しようと思ったとか?」
「そんな簡単な話じゃないよ」今度はカナミが苦笑いする。
「正直、一回の体験だけだと物足りないというか、なんだかよくわからないうちに終わっちゃってさ、ステップ2て言うんだけど、体感時間一週間分のやつがあるわけ。まあ、アタシの場合はそれでもステップ3まで体験してみて決めたけどね」
「ステップ3?」
「ああ、3まで行くと一か月分の体感時間で、あれ、生理とかもあるわけよ」
 カナミのあけすけな物言いに、アキトは少々面食らったが、カナミがそのまま続けるのを聞いた。
「そういうの体験してもさ、なんていうか、女が寄ってくる心理が解ったっていうか、むしろアタシはこっちなんだろうなぁと思ってさ」
「はぁ」アキトはわかったようなわからないような顔をした。女性、いや、カナミ以外とそういう付き合い方をしたことがないアキトとしては、違う世界の話のようだ。
「まあ、そんなこんなで、女になった方がいいかなって思えたっていうか、とりあえず女性の敵からは解放されたわ」
「はぁ」
「アキトもさ」カナミが続ける。
「え?」
「一回体験してみるといんじゃね、シミュレータ。できればステップ2まで」
「なんで二回?」
「だから言っただろぉ、話ちゃんと聞けよ」少しイラついたような顔をするカナミ。
「ステップ1は絶対何したらいいかわからないうちに終わるし、まあ、スコアクリアしないと2は受けられないけど、あれたぶんそうそうなんかやらかさない限りはクリアするから」
「そうなの?」
「だから、人の話しちゃんと聞いてろよ!」
 男のような激しい言葉でも、女性としてのカナミの口調で言われると、思わず可愛らしいようにアキトは思った。

 二日後・・・・
「どうだった?」
「まあ、うーん」首を傾げながら答えるアキト。
「T-Room」という、ワインレッドのロゴの装飾が取り付けられたコンクリートの外壁に曇りガラスの大きな窓がある建物。曇りガラスは中の明かりに照らされているのか、はたまた装飾なのか、まぶしくない程度に電球色に光っている。その向かいのカフェで、カナミは待っていた。
 カナミの勧めで、アキトはその「異性シミュレーター」を体験してきたのだった。
 自分も飲み物を持って、カナミの隣に座るアキト。
「どうだった?スコアは?」
「ちょ、ちょっと待って」興味津々なカナミの質問を抑えて、アキトはふう、とため息をつく。
「とりあえず、疲れた」
「えー、面白くなかったの?」カナミの問いがとても能天気に聞こえる。とりあえず、1回目の異性体験は終えたが、アキトはなにか疲労感と、物足りない気持ちが入り混じったような、自分でもよくわからない気分になっていた。
「スコアねぇ、いくつ言ったかな、84点だったかな」
「ほうほう、で、女の子になってみた感想は?」
「感想、って、そうねぇ」
 少し考えるアキト。
「よくわからないっていうかさ、なんての、体験中?はすごく自然な感じじゃん。しかも楽しいし」
「うんうん」カナミがうなずく。その表情がなぜかいつものふざけた表情に比べて柔らかく見えた。
「終わってみると、何だったんだろうて感じっていうかさ、変な違和感じゃない、何ていうんだろう」
 頭をひねるアキト。
「何だったんだろうって、何とも思わなかった?もっとそのままでいたかったとかさ、戻ってよかったとかさ」
 問いかけるカナミ。アキトはそれにうなずくと、続けた。
「そうだね・・・物足りない感はあったかな。ていうか、むしろ終わった後の方が違和感ていうか」
「うんうん」
「体験中の方が心地よかった感じ?しっくりいくっていうか」
「ほほう、何気にまだ戻ってこない感じじゃない?」
 カナミの言葉に、アキトはゆっくりとうなずく。
「そう、そんな感じ。ていうかさ」
 アキトは続ける。カナミの問いかけは、やはり経験者ならではなのかとも彼には感じられた。
「終わった後のカウンセリング?でさ、やたら適性高いです、女性化向いてますよ、て勧めるのがちょっとうぜえ」
 ここへきて苦笑いをするアキト。
「で?」一緒に笑いながらカナミが聞く。
「速攻転換することにしたとか?」
「なわけないじゃん」苦笑いのまま、アキトが答える。
「えー、でもさ」返すカナミ。
「ん?」
「向いてるって言われたんでしょ。アタシの時なんてとりあえず適性は非常に高いですが、ステップ2体験してみませんか、だよ」
「なんで?」
「わかんない。でも細かいスコアとかシンクロ率とかあるみたいだし、総合スコアの他でいろいろあるんじゃない」
 なるほど、とうなずくアキト。
「で?どうするの、ステップ2」
「え、ちょっと待てよ、回し者かよ」再びアキトが苦笑いをする。
「いやさ、その、体験するんなら戻ってこない感覚抜けないうちにステップ2体験した方がいいと思うんだよね」真面目な顔でカナミが言う。
「なんで?」
「アタシさ、1と2の間、ちょっと開いたのよ」続けるカナミ。
「ほうほう」
「なにげ、ステップ1は割と早くっていうか、最初の方で無料って聞いたじゃん。その時すぐ行ってみたんだよね」
「へええ」アキトにしてみれば、それは初耳だった。
「まあ、面白かったしその、物足りない感?はあったんだけど、その時は、ま、いいかで済ましたのよ。ていうか女になる気なかったし」
「え?」少し驚くアキト。彼のイメージと話の流れが違う。アキトにしてみれば、カナミは「男の生活に飽きた」というぐらいだったので、それこそある意味興味本位の果てに「ノリ」で転換したのではないかというぐらいのイメージだったのだ。
「で、まあ」カナミが続ける。
「ちょっと知り合った子としたわけよ」
「う、うん」またもや苦笑いを浮かべるアキト。カナミ、いやカナタにとって、女の子は寄ってくるものなのだ。
「そしたらさ、なんか違うっていうか、いつもより相手の子っていうか、女の子そのものに興味がわくんだな、これが」
「どゆこと?」アキトが聞き返す。女性経験がないわけではないが、ほぼ無いに等しい彼にとってはすでに異次元の話だ。
「いや、何ていうか、反応とか・・・その時は男だったからさ、いわゆる何、女の快楽ってわからないじゃない」
「そら、そうだけどさ」苦笑いが止まらないアキト。
「それでさ、ステップ1じゃ全然そんなところまで行きつかなかったけど、2ならそれがわかるのかな、とか思って2を体験してみたんだけど、なんつかさ、その、女の感覚?思い出すまで時間かかったっていうか、自分の中が女になる?戻る?まで時間もったいなかったっていうかさ・・・まあ、今思えばどちらにしろ制限かなんかかかってて行かれないんだろうとは思うけど、2じゃそこまで行きつけなくて」
「そこまでって、エチ?」
「そう、て、言わすなよ」今度はカナミが苦笑いしながら男口調で言う。
「でね」さらにカナミは続ける。
「ステップ3は間髪入れずに受けてみたのよ。そしたらなんていうかさ、気が付いたらそこまでしたくないっていうか、その、体験の登場人物?ぐらいの相手だと全然する気にならないわけ。でも」
「でも?」
「する気にならなくても、寄っていく気持ちが分かったっていうかさ、なんだろ、よくわからないけど自分の求めていた感覚的なものがあったていうか、パズルが解けたっていうか・・・ああ、アタシこうなりたかったんだ、みたいな」

 鏡を見て照れ笑いするアキト。
「ほら、表情硬い」そのアキトを見て、微笑みながら言うカナミ。
「でも思ったとおりだわ。そのままで全然似合うし」
「うーん、まあ、ああ」アキトはどう返していいかわからない、というよりも、戸惑いの方が大きかった。
 鏡の中にいたのは、ごくごく普通の若い女に見えたが、体験の中にいた「自分」とはやはりどこか違う。
「まあ、さすがに体験の中とは違うでしょ」
「う、うん」アキトの思いを見透かしたかのようなカナミの言葉にうなずくアキト。
 体験から部屋に戻ると、カナミはなにやらニヤニヤしながら何かを始め、アキトに「先にシャワーしてきて」と言った。アキトがシャワーをして浴室から出てくると、カナミは彼に「これ着てみて」と彼女の服を渡した。
「え?」
「いいから。あ、その前に」いたずらっぽい笑い顔をしながら、カナミが差し出したのは、女性ものの下着だった。
「はぁ?ちょっとま・・・」
「着け方わかる?」と、彼女は有無を言わさずに彼の肩に紐を通し、ブラジャーを着けさせる。
「ちょ、ま」何も言えずに、なすがままに女性下着を着けさせられるアキト。
(あー、これ体験の時やった気がするけど・・・)
 違和感とも違う、慣れないような覚えているような感触が彼の感覚を刺激する。体験の中では、もっと彼、いや彼女にぴたりと合った形、サイズのものを着けていたことを思い出す。と、そう思っている間にカナミがショーツを履くように促す。アキトは、体験の中でしたようにショーツに脚を通した。これもまた、やはり覚えているような、慣れないような感覚だ。そしてその感覚が彼を刺激する。
「さすがにサイズ合わないよね・・・て、なに勃ってるの?」
「あ」思わず自分の股間を見るアキト。そこにあるものが大きくなっている。体験の中では無かったものだ。アキトは赤面しながら、そこを誤魔化すようにさっきカナミに渡された服を慌てて着る。それは特にガーリーなものでもなくユニセックスなデザインの服ではあったが、造りがレディースもののため、どこか着心地に違和感を感じた。
「着たら、そこ座って」
 戸惑ったままカナミの勢いに抵抗することもできず、アキトはそこで椅子に座らされた。そして、そのままカナミは道具を取り出すとアキトのメイクを始めた。
「動かないで」先刻からの勢いのまま、カナミはてきぱきとアキトの顔を作っていく。カナミの有無を言わさぬ命令に、アキトは目を閉じ、じっとそれに耐えていた。とはいえ・・・
(ああ、これやったよな)
 カナミの手が動く感触を顔に感じながら、彼はそんなことを感じ始めていた。体験の中で「オート実行」とはいえ、自分の手で彼女いや彼はそれをした記憶があった。そんなことを考えていた彼が気付かないうちに、大きくなっていた股間もいつの間にか落ち着いていたようだった。
 カナミはどこから持ち出したのか、ウィッグまでもアキトに装着させると、目を開くように言った。そして彼は今、半ば呆然と鏡の中の自分の姿を見て、照れ笑いをするしかなかった。
「まあ、体験の中の方が、さすがに可愛かったわ」
「あたりまえだろぉ」ようやくといった感じで出たアキトの言葉にカナミは苦笑いする。
「もし転換したら、その可愛い顔になるはずだよ。アタシそうだったし・・・ていうかさ」
「なに?」アキトは、少し状況に慣れてきたのか、無意識に体験の中と同じようなふるまい方をしようとしていた。
「その、体験の中のアキト、見てみたかったなあ」
「ええ?」力が抜けたように笑うアキト。気が付くと、無意識に女子的なふるまい方をしようとしている自分に気付き、また笑ってしまう。
「なんていうかさ」カナミが再び語り始めた。
「女子になってみてさ、なんだろ、女の子が言うカワイイ?がだんだんわかるようになってきた気がしてさ」
「ん、で?」
「アキト見てたら、なんかカワイイなって。ただ、それがだんだん何ていうの、アキトが女子になったら、もっとカワイイんじゃないかなって」
「はあ?オレそういう何?ペットみたいな対象?」
 「女装」姿のまま言うアキト。
「そのカッコでオレとか言わないのぉ、ていうか、ペットとかじゃなくて」カナミの顔が近づいてくる。その目が、いつものカナミとは違うのをアキトは感じ取った。
「ちょ、え」座ったままあとずさるアキト。カナミの目は、まるで獲物を捉えるオスのような、そう、まるでオトコに戻ったかのような・・・
「かわいい」カナミは、奪うようにアキトに唇を重ねると、そのまま「彼」を押し倒した。

 翌日。
「予約取れた?」
「うん」
「ちょっと、いつまでボケてんの」
 笑いながら、カナミがポンっとアキトの肩を叩く。そのアキトは、呆けた顔をしていた。
 彼の頭の中では、まだ昨夜の出来事が反芻されていた。
(オレは、オトコだよなぁ)
 昨夜、女装のままカナミに押し倒された。普段カナミとそういった行為がないわけではなく、むしろカナミはアキトが「淫乱ヤリ魔オンナ」などと揶揄するぐらい、そういうことが好きである。だが、昨夜のカナミは普段のカナミではなかった。
 普段アキトが「主導権」を握っているとか、そういうわけではないが、昨夜の行為は完全にカナミに主導権を握られ、いいように弄ばれた感すらある。だが、女装していたことによってなのか、アキトは無意識にシミュレーター同様、自分が思う「女らしい」振る舞いになってしまっていた。
 今でも昨夜の余韻が残っているような気がする。それは、普段の達し方ではなく、言うならば彼は何度もカナミに「イかされた」感覚だ。そんな経験は今までになく、だが、嫌悪感もなく、むしろ何か切なさのようなものがまだ募っている感覚もあり、そして、時折それが不意に思い出されては身震いしていた。
 それが、単なる自分が知らない「受け身の快楽」なのか、それともシミュレーターの感覚から繋がる「女性の快楽」なのか、彼には分らない。その、言うならば混乱しているアキトに、カナミはシミュレーターのステップ2を受けることを勧め、彼は勧められるままに予約をした。
 予約は今日の大学の授業が終わった後だ。だが、今の彼は大学へ行く気力よりも完全に呆けた状況だった。そんな、言うならば腑抜けたアキトをカナミは笑いながら促し、二人は大学にいる。
 結局講義は全部出たものの、出席を取っただけのような状態で、講義の内容は一つも頭に入ってこなかった。そして、駅へ向かう途中の、「T-Room」という、ワインレッドのロゴの装飾のあるそのビルの前に、二人は来た。
「じゃあ、また待ってるから」カナミが、向かいのカフェを親指で指す。
「うん」少しボケた感じの返事をして、アキトは建物の中に入っていった。

 スーツを通じて圧を感じる。前回同様、液体が注入されているのだろうと思った。その感覚は、液体が満たされていくとともに薄くなり、やがて体の感覚がまったくなくなると、視界にプログラムスタートの文字が浮かび、全身の感覚、自分であり自分でないような、女性としての自分の感覚が戻ってくる。そこは、前回同様「彼女の部屋」だった。
 プログラム内の時間は午前七時、今日は、大学へ行くことになっているようだ。
 案内をしてくれる女性から説明はあったし、前回もそうだったが、この、その日の予定やプログラム内の知り合い、そして大学や近所の景色や地理は、例の「オート実行」のようにあたかも自分が覚えているかのような感覚を受けるようセッティングされている。大学までは電車で四駅、徒歩移動なども入れて約三十分の道のりだった。
 彼女は布団から這い出すと、いそいそと準備を始めた。なんとなく前回よりすんなりと自分のしていく格好が決まる。ステップ1から間があかないからなのか、違和感のようなものは全く感じられない。
 だが、彼女が一つだけ思ったことがあった。鏡に映る自分が、やはり昨夜女装しカナミに化粧を施された姿よりも間違いなく可愛いように思える。それを自覚すると、彼女は自然と笑顔になった。
(そうそう、この顔だよねぇ)
 昨夜から感じていた戸惑いのようなものが、溶けていくような気がする。この姿で試してみたいことが込み上げてくるのを感じて、彼女はひとりクスクスと笑う。その姿を鏡で見て、またクスクスと笑う。まるで、それは、まるで自分の笑顔に恋をしてしまったようだった。

「どうだった?」
「そうね、まあ、うふふ」
「やめてえ、その顔でうふふとか気持ち悪い」
「そうかな、そだよねえ」
 そんなやり取りをしながら、部屋に戻ってくるアキトとカナミ。
 アキトは帰ってくるなり洗面所で自分の顔を見返す。
「いやあ、男だよなぁ」
「何言ってんの?その気になっちゃった?」
「いや、その、うーん」考える仕草のアキト。前回同様スコアが高かったらしく、案内の女性には女性化転換を強く勧められた。が、即決は避けた。
「いやさ、まんざらでもないって言うかさ、悪くないとは思うけど、やっぱり後で戻りたいって言っても戻れないわけじゃん」
「それアタシに言う?」笑いながら答えるカナミ。
「まあ、そうだよね。生まれつき女の人、ある意味かわいそうだと思うよ。まあ、将来的にはわからないけど、現段階ではさ、生まれた時点でそのまま女性でいるっていう選択肢しかないわけじゃん」
「うんうん」カナミがうなずく。
「まあ、そういう意味では選択肢があるっていうのは嬉しいけど、その権利を使うかどうかはまた別だしね」
 アキトはフォルダに入れた書類を見ながら言う。その三枚ほどの書類は、それぞれ”異性化転換申請書””人口再生法15条に基づく同意書””個人番号情報変更申請書”と書かれていた。
 それぞれ異性化、現段階では男性から女性に転換することしかできないため実質女性化だが、その処置を受けるための申請書と、不可逆的な処置であるため処置後に異議を申し立てないという同意書、そして、転換後に提出する、性別変更に伴う名前や個人番号の変更などの事務的な処理を行うための申請書だ。そのうち”同意書”についてはオンライン申請をしても、自署欄にサインしたものが必ず必要になるらしい。
「まあさ、手続き自体はそんなに大変じゃないからさ」カナミが言う。そんなカナミをアキトが遮った。
「ていうかさ、あれ貸して」
「へ?」
「あれよあれ、化粧道具」
「はぁ?」呆気にとられるカナミ。
「ちょっと自分でしてみるし」
「え、待って?どういうこと?」
「いやさ」半分真顔でアキトが答える。
「女性化は戻れないけど、女装だったらとりあえず戻れるじゃん。まあ、実際の女性化ほど可愛くないにしてもさ」
「そら、そうだけど」
「でさ、言ってなかったけどステップ3が来週しか空いてなかったんだよね。だからその間に女性体験じゃなくて女装体験」
「はぁ?意味わかんない」カナミは目をぱちくりさせた。
「まあ、女性化するかはステップ3受けてみてから決めようと思うの。で、その間、ある程度女装とかしてみようかなって。ていうか、女装って、男じゃないとできないんだよ?知ってた?」
「え、あ・・・とりあえず、その格好でその言葉遣いやめてよ」
 カナミはそう言うと、一度深呼吸をして続けた。
「ていうかさ、必要なら付き合ってあげるから買い物行こう。まあでも、服はあれ、もし転換したら一瞬でサイズ合わなくなると思うけど」

「まあ現状は、まだ基礎研究の段階で壁に当たってるみたいなんですね。一方で女性化については、以前からお話ししているようにほぼ確立というか、被転換者の方も増えてきてだいぶ社会的にも認知されてきた感ではあります。すでに男性の方はそうなっていますが、近い将来、誰もが持って生まれた染色体ではなくて、遺伝子というか、適性や自分の意志によって性別を選択できる時代にはなるのかなと思っています」
 ハナザキが喋っている。「ジェンダー学概論」の講義が行われている教室。講義を受けている学生の六割から七割方が女子学生だ。講義が回を追うごとに女子の比率が増えていることにも彼は気づいていた。アキトは、そのほとんどが元は男子だったのだろうと思っている。そして、そういう彼も、今は女性らしい格好、つまり女装をしていた。隣にはその、元は男子だった女子のカナミが座っている。
(でもまあ、やっぱリアル女子にはかなわないなぁ)
 周りを見回してアキトはそう思う。この数日、体験中にしたことを思い出し、またあきれ顔のカナミに聞きながら、自分ではだいぶ女装の腕を上げたと思っている。だが、やはりそれは女装であり、女性ではない。
 そして前日、ステップ3の女性体験をしてきたアキトは、ほぼ女性に転換する意思を固めていた。女装を楽しむとはいえ、VR空間の自分の姿を見るとどうしても比べてしまう。そして、彼はその、VR空間の自分になりたいと思った。
 手続きそのものは、施設のスケジュールが決まらないとできない。体験はそうでもないが、転換処置については希望者が多くなっていて、待ちが出ているようである。一応キャンセル待ちをかけたうえで、すでにオンライン用の下書きは作ってある。あとは、同意書の自書だけだった。
「お!」思わず口に出る。横からシー!と睨むカナミをよそに、彼はスマホを操作し続けた。施設から、転換処置の枠にキャンセルが出た旨のメールが来ていた。キャンセルが出たのは、明日だった。
「ちょっと急すぎるかな」小さな声で呟きながら、同意書の紙を取り出して、もう一度読み返す。転換が不可逆であることと、転換は自ら望んで行うことであり、後で異議を申し立てないことなどが書かれている。
 メール内のリンク先で処置の予約をしても、後でもう一回確認の電話をしなければならない旨を確認したうえで、彼はスマホでキャンセル枠の予約操作をした。そして彼はその書類に署名した。

7月 コウセイ

(絶対ヤバい。絶対何かが起こっている)
 コウセイは、そんなことを考えながら講義を聞いていた。
 「ジェンダー学概論」は、コウセイの学科コースであれば、後期にまた別の講義を取るためにはこの単位を取っていることが必要なシステムになっているようで、この単位を落とすわけにはいかなかった。
 そんなわけで、コウセイは4月からこの講義に毎回欠かさず出席していたのだが、5月あたりから、奇妙なことが起こり始めた。
 そもそも工科系の大学であることもあり、最初のころの講義では男子学生ばかりだったように思う。それが回を追うごとに段々と女子の比率が高くなり、試験直前の今、7月に至っては、おそらく8割方が女子学生だった。
 どうやらその講義を受けていた男子学生自身が女性に転換していると気付いた、というより知ったのは、彼の仲間内の一人が女子に転換したことからだった。入学時に仲良くなった仲間のうち、この講義を彼とともに受けている二人は、一人は5月ごろ、もう一人は6月ごろに女性に転換した。
 もっとも、講義の中でも教員が事あるごとに言っているように、男性から女性への転換は技術的に確立され、法整備も進んでいる。なので本来特に驚くべきことではなく、またこの講義の内容から考えて、それに興味を持つ学生が受講するのは当然の流れとも思える。
 しかし、自分の身近に転換者が出る、というのはやはり何とも言えない不思議な気分でもあった。
 転換した二人は、彼を含めた仲間たちとは以前とあまり変わらぬ付き合いをしているが、どうもコウセイは最近何かプレッシャーのようなものを感じるようになってきていた。その二人だけというわけではなく、この講義を聞いていると、受講生が女性化転換することはごく普通、いやむしろ当然であるかのようにすら思えてくる。教室内には講義が回を追うごとに女子が増え、男子はだんだんと隅に追いやられているような感じでもあり、また、女性化転換者が増えるにつれ、どこか取り残されているような、疎外感のようなものを感じるのだった。
 不意に、ああ、というような声が教室内に広がる。教員がスクリーンに何かの書類のスライドを映していた。
「見覚えがある人も多いんじゃないかと思うんですが」教員のハナザキはそれについて説明を始めた。
「異性、今は男性から女性にしかできませんが、その異性に転換するときにはこの三枚の書類が必要になります」
 ハナザキが”異性化転換申請書””人口再生法15条に基づく同意書””個人番号情報変更申請書”の三種類について説明する。一枚目と三枚目はオンラインでも申請できるが、二枚目の「同意書」については自署のサインが必要ならしい。
(て、結局後で後悔しても責任は取らないってことだろ)コウセイは思った。その「同意書」には、つまりは転換で生じたいかなることにも異議を申し立てないという意味合いのことが書いてある。性別が変わったことにより不具合が起きても、政府としては責任を取らないということだ。
「あとは試験ということになりますが、試験はまあ、テーマについての小論文的なものになります。質問などあれば今のうちにしておいてくださいね」
 ハナザキが言う。
「先生、テーマは何ですか」女性学生の一人が質問する。その声に反応してか、教室内にうふふ、という笑いが広がる。その声はほぼ女声だ。
「テーマはですね、当日まで内緒ですが、この講義の範囲の中から出しますから、みなさんよく勉強しておいてくださいね」
 えー、というような声が広がる。ハナザキは比較的気さくな感じの講師だったので、このような反応をしても笑顔のままだ。
「では、終わります。みなさん試験頑張ってくださいね」

「あのさ」コウセイが切り出す。彼の向かいには、一緒に「ジェンダー学概論」の講義を受けていたアケミとユメノがいる。昼休みに入り、彼らは学食に陣取っていた。
「二人さ、そもそもなんで転換したの?もともとそのケあった?」
「そうねぇ」顎に親指を当てて考えるのはアケミだ。
「まあ正直、大学入るまで考えたこともなかったけど」
「うんうん、あたしも」同意するユメナ。
「でもあれよ、シミュレーター」今度はユメノの方が続ける。
「シミュレーター?あれ?ハナザキがいつも言ってたやつ?」
 確認するコウセイ。異性シミュレーター、という、教員のハナザキが、自身も開発に関わった機械があり、個々の大学の学生は無料で体験できるということを何回も宣伝と言って講義の中で紹介していたが、彼はあまり興味を持てなかった。
「そうそう、無料だし面白そうだから行ってみたんだけどさ、目から鱗よね」
「わかるそれ!」アケミが手を合わせて激しく同意、といった風だ。
「へえ、どんな?」
「なんていうか、リアルっていうか」顔を見合わせながら、体験済みであるらしい女子二人が説明する。
「そうそう、最初は興味本位っていうか、男女の違いを感じるっていうか。でも、あたしの場合はなんていうの、腑に落ちた?ていうかさ」
「うんうん、なんだろ」アケミに続いてユメノ。
「わたしの場合はなんていうか、すごく楽だったんだよね、女子」
「楽?ってどういうこと?」コウセイが聞き返す。
「なんだろ、アケちゃんのそれ、腑に落ちる、じゃないけど、なんだろ、ちっちゃい時から男なんだから泣くなとか、やたら我慢させられること多かったじゃない」」
「わかるわかる」同調するアケミ。
「女子だと、なんていうかまあ、女の子らしくみたいのはあるけど、我慢てよりポジティブな感じ?より可愛くとか」
「まあ、男子でもあるけどさ、どっちにしろなに、授業でも言ってたジェンダーバイアスだっけ?ああいいのに我慢しながら生きてくのは男でも女でも同じだし」
「そうそう、わたし的にはなんていうか、男でも女でも、まあ女の子と付き合ったことはあるけど、それほどこだわりなかったし」
「え、マジ?ユメっち彼女いたの?」
「まあ、いたっちゃいたけど、すぐ別れたし。て、アケちゃんいなかったの?好きな女子とか」アケミのツッコミに返すユメノ。
「まあいたけど、別に付き合ってたとかないし。まあただ女って、自分が男の時には宇宙人みたいなもんだったけど、シミュレーターしてみたのと自分でなってみてさ、それほど変わらないっていうか、なんだろ、自分生きてくんだったら女でもいいな、みたいなさ」
「うんうん、わたしは」アケミの話にユメノが入る。
「まあぶっちゃけ、彼女とした時さ、向こうの方が気持ちよさそうだったのずっとなんていうか不公平ていうか、そんな風に思ったけど、あれ、シミュレーターしてみてさ、まあ苦しいんだろうとは思うけど、自分の方が子供産んでみたいなぁ、とかは思った」
「はあ」半ば呆気にとられるコウセイ。
「ちょっとマジユメっち飛躍しすぎ」アケミが笑う。
「でも行きつくところ結局そういうことじゃない?男のままだったら何やったって子供産むはできないけど、女になったら子供産むっていう選択肢はできるわけよ」ユメノは、真顔でそう言った。
「コウセイ君もさ、まあ、シミュレーター一回してみるといいと思うよ。わたしも転換するとか思ってなかったけど、意外と向き不向きみたいの出るみたいだから」
「うんうん。まあさ、あたしもユメっちも女の子になっちゃったし、コウセイ君も、別にこだわりとかなかったら女の子になってもいいんじゃない」悪戯っぽい笑みを浮かべて言うアケミ。
「ちょっとよせよ」コウセイは苦笑いを浮かべた。

 十日後・・・
 試験は終わったが、その試験期間が終わった翌日、コウセイは学校に向かっていた。
 ジェンダー学概論について、受講生全員にメールがあり、試験の成績と、その成績が悪かったものについては課題を出すということで、成績不良者についてはその課題の説明のため試験期間最終日の翌日に集められたのだった。アケミとユメノは特に問題なかったようで、彼はひとりで学校に向かっていた。
 教室に入ると、数人が既に席に着いていた。見る限りは男子ばかりだ。
(なんか、こういうの久々だな)
 少人数とはいえ、4月当初のように男子ばかりの教室というのにホッとする一方、このところの女子ばかりの教室の景色が見慣れていたせいか、彼は同時に違和感のようなものも感じていた。
「さて」説明を始めるハナザキ。
「みなさん、異性シミュレーターの方の体験はされましたか?まだ一回も行っていない方どのくらいいます?」
 コウセイが数えてみたところ、彼自身を含めて八人ほどがそこにいたのだが、手を挙げたのは彼を含めて六人ほどだった。
「手を挙げてない人は・・・君は、ああ、ステップ1、君も?」
 ハナザキが手を挙げていない学生に確認をする。シミュレーターにも何か段階のようなものがあるようで、行ったことのある学生も最初のステップだけしか行っていないようだった。
「はい、わかりました。課題の方はですね、異性シミュレーターを、最低ステップ2まで体験して頂いて、その体験レポートを書いて提出してもらいます。ただ、朝その施設の方に確認したんですけども・・・今混んでいるようで、締め切りをですね」
「先生」
 ハナザキが言いかけたところで、先刻ステップ1までを体験したという学生が質問する。
「自分、以前ステップ1受けたんですけど、スコアギリギリて言われて、まあ自分はステップ2受けられるとして、もしステップ1のスコアクリアできなかったらどうなるんですか」
「ああ」苦笑いするハナザキ。
「まあ、よほどのことをしない限りはクリアできると思うんですが、まあ、あまり突飛なことすると機械に負担がかかってスコアが下がるみたいなので、体験中は常識的な行動を心掛けるようにしてください」
 クスクス、という笑いが広がる。
(あいつ一体何やったんだろう)コウセイがそう思う間もなく、ハナザキが続きを説明し始める。
「まあ、お二人ほど、ステップ1体験済みの方がいらっしゃったので、えーと、未体験の方は一回1受けてもらってから2をしてもらうから・・・ちょっと待ってくださいね」
 ハナザキがノートPCにケーブルを繋ぐと、教室の画面に「体験施設」のスケジュール表が映し出される。
「今週は今日と、明日明後日までですかね、そこでステップ1が六枠、あとは来週ですね。ステップ2の方は今週まだ空きがあるみたいですね。でもあれか、ステップ1が埋まっているということは、続けて2が埋まってく可能性も」
 半分独り言のようにハナザキが説明する。どうやら、八人のうち六人は今週ステップ2まで可能だが、残りの二人は来週になるらしい。
「あー、来週になると成績確定の最終締切が来週末なので、えーと、そうですね、レポートの締切をステップ2体験の三日後にします。基本的にメールでの提出とします」
 えぇー、とざわめく学生たち。
「まあ、そんなわけで、今から先に予約を取ってしまいますか。どうしましょうかね、じゃあ、各々希望を言って頂いて、重なったらジャンケンにしましょうか」
 笑う学生たち。
(なんだよ、ジャンケンとかないわ)そう思いつつコウセイはスケジュールを見る。
 先に当然のようにステップ1を体験済みの二人が、当日翌日でステップ2の枠を押さえた。結局コウセイは週末にステップ1の枠を押さえ、ステップ2については週明けに仮押さえとなった。

 2日後・・・
 コウセイはレポートの下準備をするため図書館に来た。
 閲覧スペースのところで、本を広げながらPCでレポートを作成している学生がいる。コウセイはその顔に見覚えがあった。先日ハナザキに呼び出された中にいて、すでにステップ1を終えていた状況の学生、確かヨコヤマと言ったか、だ。先日の記憶では昨日ステップ2体験をしているはずなので、すでに提出用のレポートを作成しているのであろうと思えた。
「うっす」
「ああ」コウセイが声をかけると、ヨコヤマが顔を上げた。向こうも知らない顔ではないのでちょん、と頭を下げて挨拶する。
「もうステップ2終わったんでしたっけ?」
「そっす、今レポート作成中」
 ヨコヤマがPCの液晶を指して言う。
「三日とか、結構厳しくないすか?」
「まあでも、だいたい書くことまとまったっていうか」
「早!」
 思わず笑うコウセイ。つられてか、ヨコヤマも笑う。
「そんなことより」ヨコヤマが続ける。
「ステップ3予約しちゃったから、まあ、ステップ3受けた後に最後まとめるか、時間無いから今のうちにまとめちゃうかって感じすかね」
「は?」
「いや、なんてか」ヨコヤマが、少し恥ずかし気に笑みを浮かべながら話す。
「ステップ2受けてみて、なんつか、自分も意外と女子向いてるんじゃないかなと思えてきて」
「はぁ?」コウセイは返答がすぐに浮かばない。
「もともとステップ1の時点で適性は悪くない、て言われてたし、なんつか、レポート書くのにいろいろ書きだしてはみたんすけど」
「みたけど?」コウセイは、なんとなくヨコヤマが何を言い出すのか予想できた。
「女子化して、困ることは特に何もないていうか、なんかメリットばかりに思えてきたんすよ。実際まあ、VRとはいえ体験してみるとオトコよりも女の子として生きているのが楽しいていうか、まあ、生理?とかわからない部分あるからステップ3は体験してみようとは思うんすけどね、女性化転換、意外に悪くないかも、て思って」
 ある意味予想を裏切らない話ではあったが、逆に予想のとおり過ぎか、コウセイは少なからず驚いていた。
 確かにそういう講義ではあった。ハナザキは事あるごとに女性化転換はもはや珍しくないことと言っていた。シミュレーターは女性が男性体験をすることもできるが、完全な男性化転換が実現していない以上、実質女性体験をするためのものになっている。
 また、彼の仲間だったユメノやアケミも、大学へ入るまで、さらに言えばこの講義を受けるまでは自分が女子化転換することなど考えもしなかったと言っていたし、彼自身も興味すらなかった。彼らをはじめ、女性化転換した者たちは皆、適性が高かった、自分でも向いていると思ったとは言っているものの、そもそも講義を受けている大半の学生が皆適性が高いというのは、偶然だろうか?
 部屋に戻り、そんなことを考えながら彼はPCに向かって異性シミュレーターではなく、女性化転換について検索をかけていた。性同一性障害の診断を必要としない、一般男性の女性化転換を可能にする法改正について強力に推進したのは、時の人口減少対策担当大臣であったノグチユリエという議員だった。彼女が喋っているニュースを、彼も見た覚えがある。人口減少対策は待ったなしの状況であり、そのためにはある程度強力な施策も必要というようなことを言っていたと記憶している。
(強力な施策って、どういうことだろう)

 彼はさらに掘り下げて検索をかけることにした。現行の少子化対策法は、診断なしの一般男性についても「本人の希望」にて転換をすることが可能とすることを柱とし、それについての支援などをまとめたものである。しかし、検索に引っかかったものの中に、彼の興味を引くものがあった。
 それは、あるネットニュースの記事だった。人口減少対策法案の審議が行われたのは去年のことだったが、その二年ほど前の記事だ。
”あなたの「性」が狙われている!政府が目論む少子化対策法案の真実!”
 見出しにそう書かれた記事を読むコウセイ。
 記事によれば、N議員、つまり件のノグチ議員ではないかと解釈できるが、そのN議員を中心としたワーキンググループで議論されている内容として、まずは技術が確立されつつある男性から女性への転換を、性同一障害など性的マイノリティへの治療のみならず少子化対策に生かせないかということから始まり、そのためにまず一般男性が女性に転換することを法的に認めそのための支援などの法整備を進めることなどが書かれていた。
(ここまでは、実際に法案成立したやつだよな)
 コウセイはさらに記事の続きを読み進めていく。
(陰謀論系かな・・・でもなぁ)
 その先に書かれていたのは、にわかには信じがたい内容だが、それなりに彼の思っていることに対する答え合わせ的なものにも思えるものだった。
 記事に書かれていたのは、N議員をはじめとした一部の議員たちは、出産可能な女性の人口を増やすことが人口減少対策につながると考え、出産可能年齢の男性について、国の定めた判定基準で女性化が適当と判定された男性を本人の意思にかかわらず女性化させるといったことや、行く行くはもっと低年齢のころ、つまり義務教育のうちから適性のある男子を女子に転換させるようなことを考えており、そのために、一定数の男性には自発的な女性化を促すような教育を行ったり、義務教育の中にも女性化は国民の新たな権利であり義務であると教えるカリキュラムを導入するといったことが検討されているといったことだった。
 そして記事は、いずれそのような施策が実施されれば、人権を無視した強制性転換が行われ、出産を強制される生殖管理社会が訪れるのではないか、という言い回しで結ばれている。
(強制性転換か・・・・)
 再びコウセイは思う。記事の後半にあった「自発的に女性化を促すような教育」というのは、そのまま「ジェンダー学概論」の講義なのではないだろうか?
 さらに検索を続けるコウセイ。検索に引っかかったのは、とある匿名掲示板の一つのスレッドだった。
”【♂リアル♀】異性シミュレーターヤバい【VR!?】”
(ヤバい?)
 タイトルに目を引かれたコウセイはそのスレッドを開いた。
”体験したけどヤバい!女って楽しくね?”
”女って普通に毎日リアルSM生活なんだな”
”だがそれがいい”
”マジ男戻りたくなくなるわ。ステップ3の予約ポチる”
”あれってどうなの?セクロスも体験できちゃったりする?”
”寸止め感半端ネェ。ヤりたきゃ女になれってかよ”
”でもマジ女なってもいいと思えるわ。ハマりすぎ注意”
”もう全員女に転換しちまおうぜ。オレもなるし”
 そんな書き込みがある一方で、彼の目を引いた書き込みがあった。
”おまいら何洗脳されてんだよ。あれは男を女にさせるための洗脳マシーンだぞ”
”洗脳でも何でもいい!今日まで異性化体験をしてきたみんなを、希望を信じた転換少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するレスなんて、壊してみせる、変えてみせる。これが私の祈り、私の願い。”
”↑ボクと契約して、転換少女になってよw”
(洗脳!?)
 何となく、その言葉がコウセイに響いた。言われてみれば確かに、彼の仲間たちをはじめ、当初は興味すらなかったにもかかわらず、今は女性に転換している学生は少なくともあの講義を受けている中には多くいた。適性はともかく、最終的には自分の意志で転換している。おそらくそのほとんどいや全員が異性シミュレーターを体験していることは想像に難くなかった。
(一定数の男性には自発的な女性化を促すような教育を行ったり)
 先刻読んだ記事の中の一文を思い出す。講義からはじまって、さらにその異性シミュレーターを体験することが、教育どころかその洗脳なのだとしたら・・・
(もしかして、みんなそんな気なかったのに、講義とシミュレーターで女性化したくなるように洗脳されて)
 自分自身を振り返る。ハナザキは女性化転換は珍しいことでも特別なことでもないと再三言っていた。周囲が女性化転換をしたこともあり、彼もそれが特別なことではないという認識になりつつあった。が、果たして本当にそうだろうか?
 今は希望者だけの体験とは言っているものの、記事にあったように子供のころに全員がこれを受けたら、相当な数の男子が女子に転換希望、いや男子を女子に転換させることもできるのではないだろうか。
 気付けば窓の外が薄明るい。すでに夜明け近い時間だった。シミュレーター体験を受ける順番は、もう夕方に迫っていた。
(どうしたもんかな)
 とりあえず彼は少し横になることにした。

 コンコン・・・
「どうぞ」ハナザキの声で返事が聞こえた。
「失礼します」そろりとドアを開けて、ハナザキがいる研究室に入るコウセイ。退官した教授の研究を引き継いでいるため、彼女はその研究室を使っているらしい。
 研究室には、他に助手らしい女性が何人かおり、それぞれPCに向かって何か作業をしていた。
「ああ、概論の学生さんね」彼の方を見て微笑むハナザキ。彼女はコウセイを、部屋をパーテーションで区切った応接セットの方へ促す。
「あの」
「質問かな?それとも単位の相談?」
「まあ、その」先にそう言われ、何とも言いづらそうな顔をしてコウセイは切り出す。
「シミュレーターの体験なんですけど、どうしても受けないとダメですか」
「そうですねぇ・・・」微笑んだまま、少し困ったような顔をして彼の顔を見るハナザキ。
「試験の後の課題ですからねぇ、貴方だけ受けないでというのは不公平ですしねぇ・・・何か理由が?」
「理由というか、ちょっとこんなのが気になって」コウセイは、持参したタブレットの画面を見せる。画面に表示されているのは、昨夜検索した記事や、掲示板などだ。
「ほうほう、ちょっと借りていいですか」
 ハナザキはコウセイからタブレットを借り手に取ると、画面に見入る。
「カノちゃん、ちょっとコーヒー二つ入れて。冷たいやつ」
「はーい」
 ハナザキの声に反応して、パーテーションの向こうから若い女性の返事が聞こえる。程なくその、カノ、とおぼしき女性がストローを刺したアイスコーヒーを二つ、トレイに乗せて運んできた。彼女は、おそらく専用なのであろう派手な花柄のマグカップをハナザキの方へ置き、ガラスのトールグラスをコウセイの方に置く。そしてコウセイの方にはさらに、ミルクとガムシロップの入った小さなかごを置いた。
「先生はミルクとか」
「ええ、もうカノちゃんが入れてくれてるから」言いながらハナザキはカップを手に取りストローをくわえてしコーヒーを飲む。そしてあぁーと息を漏らしてカップをテーブルに置き。コウセイにも飲むように勧めた。
「生き返るわ。暑かったでしょ」
「え、ああ、いただきます」控えめにグラスを取りストローから一口飲むコウセイ。彼がグラスを置くと、ハナザキはタブレットをテーブルに置いて彼の方に戻した。
「見ましたけど、どう気になりました?」微笑みながらハナザキが聞く。
「いやその・・・」答え始めるコウセイ。
「先生の講義って・・・なんていうか、周りの学生が何人も転換して・・・その、シミュレーター行くと、みんな転換するのかな、みたいな」
「ほうほう」微笑んだまま、彼の顔を見つめるハナザキ。コウセイはまるで蛇に睨まれたような、何か、言葉がうまく出てこないのを感じていた。外が暑かったからか、それとも緊張のせいなのか、ドクン、ドクンと自分の心臓の音が聞こえるようだ。そして、だんだん頭がくらくらしてきた。
「その・・・ネットにあった、みたいに・・・洗脳、とか・・・」
「ふふふ、洗脳か。不安になった?」
 ハナザキの問いに、かくん、と肯くコウセイ。うまく口が動かせない。
「じゃあ、洗脳されてみる?」
「え?」意外な言葉に、なんとか顔を上げハナザキの顔を見る。彼女は相変わらず微笑んだままだ。
「正直、ここまでうまくいくようになるにはまだ二、三年かかるかと思ってたんだけど。女の子になるの、不安?」
 いつの間にか、さっきのカノともう一人、女性が応接セットの脇に立っているのがわかる。しかし、コウセイは腰があげられない。視界がぼやけて、ぐるぐる回るようだ。
「講義ちゃんと聞いてた子たちは洗脳どころかもう女の子になってるじゃない。ここにもシミュレーターの機械あるから、体験して最後まで洗脳されちゃいなさい」
 ぼやけた視界が暗くなっていく。
「目が覚めたら、君も女の子になるのよ」
 消えていく意識の中で、ぼんやりとそんな声が聞こえたような気がした。

 明るく、柔らかい陽射しを浴びて目が覚めた。
 試験期間がおわり、数日ぶりにゆっくりと眠った気がする。今日は何も予定が入っていなかった。一日何をして過ごすか・・・
 「彼女」はそんなことを考えながらまだ布団にくるまっていた。いっそのこと、このまま半日ぐらいごろごろしていようかとも思う。明日からはバイトが入っているし、見たいドラマや映画も溜まっていた。とりあえず手を伸ばしてスマホを確認する。友達からのメッセージは何も入っていないようだ。
 この一年、長いようで短かった。春に大学に入り、初めての一人暮らしをはじめて、そこからは大学、バイトと、なんだかんだと忙しかった。最初に入るタイミングを逸してしまった感はあるが、なにかサークルでもやればよかったかなとも思うが、「彼女」はこの一年間に概ね満足していた。
 友達、特に男友達も何人かできたが、付き合うような関係になる相手はできなかった。しかし特に焦って彼氏を作ることもないとも思う。バイト先にも大学にも、身近なところにそこまで魅力的な相手はいないし、今はこの生活を楽しみたい。
 ふと、何か大事なことを忘れているような気がした。一度気になるとどうしても気になる。スマホをぐりぐりといろいろ見るが、それが何だったのか一向に思い出せない。それは、いったい何だったのか?ベッドの上で体を起こして座りなおしたその時だった。
 一瞬、すべてが止まった。無意識にだが、微かに聞こえていた音が消えていた。そして、身体が動かない。視線すら変えられない。そして、視界が暗転した。

 不意に、身体に感覚が戻ってくる。顔から何かが外されると、徐々に視界が戻ってきた。
(あれ・・・)
「おつかれさまでした」女性が微笑んでいる。その顔には見覚えがあった。確か、カノといった気がする。彼はゆっくりと体を起こした。身に着けている銀色の全身スーツが、まだところどころ湿っている。
「あの」彼が言いかけると、すぐにカノが反応した。
「ああ、更衣室はそっちです。元の服に着替えたらまた戻ってきてください」
 カノが、部屋の向こう側にあるドアを指し示す。彼はまだ少し呆けた感じのまま、更衣室に入った。
 銀色のスーツを脱いで、軽い違和感を覚える。どうも見慣れた体ではなく、そこにおいてある服も、自分のものであるのはわかっているはずだが、なぜかそれについて違和感を感じる。
(あれ・・・調子狂う)
 自分が男性なのは認識しているが、その男性の体になぜか違和感を感じる。更衣室の中にある姿見を見て、それは違和感というより嫌悪感に近いものだと彼は感じた。
 そんな状況に少し混乱しながら、彼は服を着ていく。肌触りがいいとは言えない、しかしたぶん自分のものに間違いない下着を身に着け、トップスとボトムスにそれぞれ腕と脚を通す。服そのものの着心地が悪いわけではないが、着心地そのものをどこか違うように感じながら、彼はカノに言われたとおりさっきの部屋に戻った。
 カノに促されて席に座る。
「どうでした?」微笑んだまま聞くカノ。
「え、ああ、まあ」答えに詰まるコウセイ。まだ今の状況をいまいち飲み込めない。
「あの、僕」
「ああ」カノがうふふ、とかすかに笑う。
「割とよくあるので気にしないでください。たぶんまだ完全に感覚とかが戻ってこないんだと思うんですけど、異性体験の後って、あまりにも体験の中と現実が違いすぎて、現実の方に戻ってくるのに時間かかったりするんですよ。特にシンクロ率高いと」
「シンクロ率?」
「ああ」タブレットを開くカノ。
「シミュレーターの中の、ご自身のデータを基に作られたアバターとのシンクロ率ですね」
「はあ」コウセイは、まだ少し混乱したまま彼女の説明を聞いていた。どうやら彼は、異性シミュレーター体験をしていたらしい。確かにそんな予定の時があった気がする。が、体感的に一年前のことになるため、記憶を辿るのが追い付かない。そんな呆けたままの彼に対して、カノはタブレットの画面を見せて説明を続けた。画面には何個かのグラフとその「アバター」が表示されている。アバターの姿を見てどこか安堵感を覚える自分を発見して、コウセイは戸惑った。
「今回のシンクロ率は98パーセント、かなりというか、過去最高レベルですね。それからシンクスコアが88点、スタイルスコアは82点、フィールスコアは89点、アクティビティスコアが87点で、総合的な適性スコアは92点でした。こちらの適性スコア判定で80点以上出される方は、異性、つまりコウセイさんの場合は女性化ですが、適性としては向いているどころか、正直言ってもう女性になった方がいいレベルて言ってもおかしくないですよ」
「え、ああ」カノの説明がいちいち心地よく感じる。どうやらさっきまでは「体験」だったようだが、たぶん彼はそれが体験だと忘れてしまうほど女性として暮らすことは楽しく、そしてしっくりいくものだったのだと理解した。今説明のあったスコアと、「女性になった方がいいレベル」という、カノの言葉のその言葉を嬉しく思うことがそれを裏付けているように感じた。そして彼は確信した。授業で聞いたとおり、いまや女性化転換は珍しいことではないし、男性の中にも相当数女性として生きる方が向いている者がいるに違いない。その中の一人が、自分なのだ。そして自分は、今からでも女性として生きるべきなのだ。
「あの」
 コウセイの言葉に、カノがうん?と顔を見る。
「転換て」
「ああ」カノが、三枚の紙を取り出す。
「もしそういう気持ちになったら、この書類を記入するか、まあ、同意書以外はオンライン申請もやってますけど、これで手続きしたうえで、この辺だと、駅前のT-Roomという施設で」
「あの、ペンありますか」
「え」
 うふふ、と笑いながらコウセイにペンを渡すカノ。彼はペンを取るが早いか、書類に必要事項を記入し始めた。
「ああ、一回転換したら二度と戻れないのでよく考えて」
「いえ、もう決めました。僕、わたし、女性になります。なりたいんです」
 そう言いながら、記入を進めるコウセイ。二枚の書類を書き終え、最後に、同意書のチェック欄にチェックを入れ、彼はしっかりと自署のサインを書き込んだ。
「今ネットで見てみましたけど、ちょうど明日から転換処置の方、ひと枠だけ空きがあるみたいですけど」カノがタブレットを操作しながら言う。
「それ、予約取れますか?」
「本当にいいんですか?」微笑みを崩さぬまま、コウセイにもう一度確認するカノ。
「はい」しっかりと、コウセイは返事をした。
「じゃあ」タブレットを操作するカノ。
「明日の、午前11時、予約取れました。一週間ぐらい施設内で過ごすことになるので、必要なものなどはこのURLから確認してもらって、明日直接施設の受付の方へ行ってくださいね」
「はい」満面の笑みで嬉しそうに返事をするコウセイ。

エピローグ 10月 ハナザキ アヤメ

「これが」会議室の大型液晶画面に映した画像を説明するハナザキ。
「私が受け持った、今回の実験講義の、本年度最初の授業の様子です」
 そこには、男子学生がほとんどを占める教室の様子が表示されていた。
「そして」ハナザキが画面を切り替える。
「こちらが、この九月から始まった後期の授業の様子です」
 先刻表示された教室の様子と同じアングルで写された写真が表示される。そこに男子学生は一人もいなかった。
「この、後期の授業は前期の授業の単位を取らないと取れないシステムになっていますので、ここに写っている女子学生は、ほぼ前期の写真に写っていた男子学生の今の姿です」
 そう言って、ハナザキは二つの写真を並べて同時に表示させる。
「ほうほう」うなずく年配の女性。スーツに議員バッジをつけている。
「データとしては、百パーセントの成功率ですか」
「そうです。ここまでうまくいくとは、自分でも驚きました。しかしまだサンプル数的には少し少ないと思いますし、また今年の学生がたまたま実際に適性が高かったのかなどもまだ解析中ですので引き続き」
「そうですね」ハナザキの説明にうなずく女性議員。
「なお、システムとしては4ステップになっておりまして、ステップ1についてはデータ収集と設定になりまして、ステップ2の一週間体験で転換を決めた被験者が約三割、例外を除いて残りの七割はステップ3の一カ月体験で転換を決めています」
「ほうほう、例外とは?」
「実は、疑問を持つ学生がおりまして、その学生には、少々手荒かとは思いましたが強制的に最初からステップ4の一年間体験をしてもらいました」
 それを聞いて女性議員が苦笑いする。
「そこはもう少し機密を保ってくださいね」
「申し訳ございません」ハナザキが頭を下げる。
「続けてください」
「はい。その、ステップ4を受けた学生は体験が終了すると即転換を申請しています」
「つまり、最初からステップ4を行えば話が早いと?」
「いえ、この場合はやむを得ず行ったものですので、その、体験内の設定などを行うオペレーターの負担が大きく、まだ改善の余地が」
「そうですか」
「とはいえ」続けるハナザキ。
「昨年の実験よりも、体験内で被験者に送り込むメッセージについては今年ぐらいの案配がちょうどよいような感じではないかと」
「どのようなメッセージを?」
「単純に、体験中は常時微弱ではありますが快楽信号を送っています。これにより、被験者はVR空間内にいる間はとても心地よさを感じ、現実世界に戻るとなにか物足りなさのようなものを感じることになるかと思います」
「ほうほう、それだけですか?」
「いえ」ハナザキが微笑む。
「そのほかにも、彼らがそうと気づかぬレベルで、視覚情報に女になりたい、女は楽しい、男は苦しいなどの単純な文字メッセージを送り込んでいます。とはいえ」
「とはいえ?」面白そうな顔で聞いていた女性議員が表情を変える。
「これをシステムとして運用するには、講義の時間も必要でして、講義のスライド内にも同じようなメッセージを入れたり、また今回はこの」
 画像を切り替えるハナザキ。教壇の上に置かれた花瓶の写真が表示される。
「この、花なんですが、この香りの中に被暗示性を高める成分が含まれています。効果のほどは今検証中ですが、講義内で学生に体験への興味を持たせたり、女性化転換への心理的抵抗や恐怖心を取り去ることなどの足しになるのではないかと」
「なるほど」うなずく女性議員。彼女は納得したように大きくうなずくと質問をした。
「ところで、ハナザキさんの他にこの、講義の方をできる方は?」
「今、研究室で二人ほどトレーニング中です。彼女たちがモノになるようであれば、さらに増やせるとは思うのですが、現状私の下では二人見るのが精いっぱいで」
「そうですか・・・」女性は深くうなずくと口を開いた。
「少子化対策はすでに待ったなしのところまで来ています。今の法律でようやく希望者の女性化が可能になりましたが、そこまでの希望者は募れていません」
「はい」真剣な顔で返事をするハナザキ。
「できればこのシミュレーターを若年層に受けさせて、早い段階で女性化人口が増えるように促す方向に持っていきたいと考えています。彼女たちにはもちろん子供を産んでもらわなければなりませんが、早くから女性になって生きることが出産可能性を高めることにつながると私は考えています」
 女性議員は熱く語る。
「できれば中学生ぐらいまでに一定数、いや全体の六割から七割を女性にさせて将来の母親として育成できるようにしたい。そのためには制度の確立も必要ですが、女性化転換はあくまでも自発的な意思によってなされるものでなければなりません。そのためにはこれが必要なのです。引き続きお願いしますね」
「はい。努力します」
 ハナザキが深々と頭を下げる。女性議員は退出した。
「中学生か・・・」ひとりつぶやくハナザキ。彼女のファイルにある、もう一つ書きかけのメモ。それは、「異性について相互理解するための異性体験学習」のプランだった。

おわり

— End —

Comments 0

No comments yet
Sakuria
Where every work blooms
Click anywhere to skip