会議の開始は、ある日の午後のことだった。
俺は自宅のリビングの一角にある簡易デスクに陣取り、ノートパソコンの画面を開いていた。
リモートワーク歴はもう三年になる。
もちろん時折出社することもあるが、幸い場所を問わない職種だけに、自宅にデスクを構えるほどにはリモートワークをしている。
オンライン会議など、もはや日常だ。
今日の議題を確認し、資料に目を遣る。
俺は今年で勤続十五年、中間管理職だ。
大企業の中で昇進するのは並大抵ではないが、それなりにやってきた自負がある。
発言する場面も多く、発言の重みもそこそこある。
……そのはずだった。
定刻を前にぞくぞくと画面に映り込んでくる上司や同僚、部下たちの顔を確認しながら、俺はマグカップに手を伸ばした。
コーヒーを一口飲む。ついでにチャット欄を確認する。
そのうち時間になり、俺は司会進行として口上を述べ、今回の議題と会議のゴールについて話し始めた。
しかし直後、問題が起こった。
あろうことか、途中で画面がカクつく。
皆の顔がフリーズしたかと思うと次の瞬間、通信がぶつっと切れてしまったのだ。
今までにもこのようなことがなかったわけではない。
だから落ち着き払って、復旧を待つ。
接続が回復したのは、ほんの数秒後だった。
「……失礼、少し切れてしまったようで」
マイクに向かって言いながら、自分の声に一瞬、違和感を覚えた。
少し……高いような…?
まあ、気のせいだろう。
先程のトラブルで少しペースが崩れてしまっただけ、と自分を納得させた。
「すみません、音声が途切れていて聞こえませんでした」と、画面の向こうの同僚。
俺は文頭から繰り返そうとして、手元の資料に目を落とした。
ん…資料をめくろうとした手の指が、白く、細い……?
「……え」
爪が伸びている。薄いベージュのネイルが塗られている。
骨ばった関節も、指や腕を這う毛も、全くない。
つまりこれはどう見たって、「俺の手ではない」。
「どうか、しましたか」
画面の向こうから声がかかる。
「あ、いえ、何でも……」
答えながら、とにかく目を背けるように手を机の下に隠した。
とりあえず、今は会議だ。
俺は進行役なのだ。この場を取り仕切らなければならない。
十分ほど、何事もなく進んだ。
最初に感じた声の違和感や、手の変化以外は特に何も起きていない。
いつの間にかそんなことも忘れてしまうくらいになっていた頃、唐突にまた、画面がぶつっと切れた。
今度は少し長かった。五秒、十秒。
「……戻りました。失礼しました」
接続が回復した瞬間、画面の向こうの同僚たちが、一様に妙な顔をした。
「あ、えっと……」と誰かが言いかけて、止まる。
「どうかしましたか」
俺が言うと、古株社員が「いや、なんでも」と目を逸らした。
おかしい。
俺はノートパソコンの内側カメラのインジケータを確認する。ちゃんと点いている。映っているはずだ。
では、何が映っているのか。
今回の会議はそこそこ規模が大きく、参加者が多い。
なるべく多くの参加者を見渡すためにオフにしていた、俺自身のカメラ画面の表示を、オンにした。
「……は」
声が出なかった。
画面に映っているのは、到底俺とは似ても似つかない。
正直に言えば……「女」のように見えた。
俺の服を着て、肩に掛からないくらいに髪を伸ばした、二十歳前後の若い女性の顔。
かわいらしいというより、どちらかと言えばクールな顔立ちだが、年相応のあどけなさも備えている。
そして今の俺と同じく、驚きと困惑で表情を歪めている。
でも、どこをどう見たって、俺の顔ではない。
それなのに、表示画面のタブにはしっかりと、俺の名前が表示されている。
そんな奇妙で理解しがたい状況。
きっとどこかで間違って、アバターが表示されて加工が加わってしまったのだろう。
俺は赤面しつつも、そう考えることにして意識を何とか切り替えようとした。
ただ、無意識に顎に触れた手の感触からは、ざらついたヒゲの剃り跡はなぜか感じ取れない。
代わりに、さらさらとした毛のようなものを首筋に感じてしまうことに、とてつもない戦慄も感じた。
「では、先程の件ですが」と、画面から声がかかる。
「……はい」
答えた声が、完全に女の声に聞こえた。
会議を乗り切るしかない。
自身の表示画面から目を引き剥がし、カメラに向き直る。
発言しなければならない場面だ。俺は口を開いた。
「来期の目標については、現状の進捗を踏まえると……」
意識してしまうと、どう考えても声が高い。聞き慣れない声だ。
しかし、会議の場で取り乱すわけにはいかない。
俺は続けた。
ところが、二の句を継ぐ暇もなく、同僚が割り込んできた。
「あの、……というか、えっと、今日インターンの方も参加されてるんでしたっけ」
「……は?」
「いや、失礼、画面に映っているのがちょっと……」
画面の向こうの参加者全員が、なんだか困惑したような微妙な顔をしている。
「……あの、失礼ですが」と声が続く。「その、お召し物も……」
「は?」
言われて初めて、俺は自分の上半身に目を落とした。
そこにあったのは、見慣れない黒色の生地だった。
きっちりとした黒色のジャケット。
中央には、ブラウスの白い襟。
胸元のボタンが、女性物特有の向きで留まっている。
その胸は突き出すように柔らかく膨らみ、その向こう側を見えにくくしていた。
「……なんだ、これ」
思わず、立ち上がろうとした。
その瞬間、異変が起きた。
椅子から腰を浮かせた途端、急に下半身に、強烈な締め付けを感じた。
ぞっとした感覚とともに目を遣ると、そこにはなんと、スカートがあった。
これまで履いたことも、これから履くこともないはずの衣服を、あろうことか着衣して見下ろしている光景。
膝上あたりまでぴったりと脚を包み込む、ジャケットと同色のタイトスカート。
ぴんと張った布地は横方向にシワが寄り、スカートから覗く膝には脚をキレイに魅せるストッキングを纏わせていた。
当然、混乱した俺は体勢を崩す。
そして普段のスラックスとは全く違う可動域の狭さに対応できず、俺はそのまま椅子ごと横に傾き、床に転げ落ちた。
「っわ……!」
画面の向こうから「大丈夫ですか!?」という声が複数上がる。
「……だ、大丈夫です」
床から這い上がりながら答えた。
声が高い。スカートがまとわりつく。
姿勢を立て直すために地面についた膝は、いつの間にか内股に。
椅子を掴み、起こそうとしたら、ジャケットの袖が長くてやりづらい。
ガタガタと音を立てつつ、それでもどうにか椅子に座り直す。
完全に座る前に一度少し尻を浮かせ、後ろから前へと撫でつけるようにしてスカートの裾を整える。
ジャケットのシワを引いて直し、その手で自然と、乱れた前髪を払う。
その仕草が女のそれであることに、払ってから気づいてしまった。
「……失礼しました」
画面の中では、複数の同僚が困惑した顔を向けている。
「あの」と若手が、どこか遠慮がちに言う。「インターンの方、でいらっしゃいますよね」
「違います」
「でも、どう見たって……」
沈黙。
机の上に視線を落とすと、見慣れない名刺入れがある。
手に取ると、中の名刺は当然、俺のものではない。
その下にあった資料には、インターン生の初オンライン会議体験会、との文字。
「……知らない」
そんな設定、知らない。
しかし今の俺の外見は、どう見てもその名刺の持ち主を主張していた。
黒のレディーススーツ。白いブラウス。
それを内側から膨らませる一見慎ましやかな、それでいてシルエットを描く確かな胸。
ストッキングに包まれた太めの脚は、さっきのタイトスカートの中に収まっている。
「……いつ、こんな」
さっきまで、いつも通りのシャツとスラックスを着ていたはずだ。
しかしこの服は、最初からずっとこれを着ていたような馴染み方をしている。
今着せられたとは思えない。
なぜなら、会議の緊張感と混乱の一部始終で汗ばんだ身体が、今纏っている衣服をじっとりと内側から湿らせていたからだった。
「えっと」と、画面の向こうから声が掛かった。
今度は、俺が長年かわいがってきた部下の声だった。
入社五年目の、真面目な男だ。
「……あの、大変言いにくいんですが」
「なんだ」
「その、この会議はですね、インターンの方にご参加いただく内容ではなくて……」
「俺はインターンじゃない」
「……はあ」
呆れるような声。
「申し訳ないんですが」と部下は続ける。「おそらく他の会議なので一度退出していただいて、インターン担当の者に連絡を……」
「待て、俺はお前の上司だ」
「……あの」と部下がおそるおそる言う。「だって、もう別の回線で繋がれてますよね、ほら」
「は?」
「右上の画面に、お顔が映ってますが……」
俺は画面の隅に目をやった。
そこには、確かに俺の顔があった。
十五年分の疲れを蓄えた、四十代に差し掛かろうとした男性の顔が。
しかしそれは俺ではない。別の端末から繋いでいる誰かだ。
でも、では今俺が見ているこの身体は、俺は、一体誰なのか。
そしてあの俺は、一体……
世界から、急に色が失われていくような脱力感。
「なのでその、画面からは一度退出していただければと……」
丁寧だが、有無を言わさない口調だった。
手塩にかけて育てた部下が、今の俺を丁重に追い出そうとしている。
「お前、俺のことがわからないのか…!」
「申し訳ありません」
「名前を呼んでみろ」
「……インターン生の方のお名前は、存じ上げていなくて」
画面の中の全員が、気まずそうに視線を逸らしていた。
「……」
俺は何も言えなかった。
「では、よろしくお願いいたします」
部下の声は、穏やかで、しかし揺るぎなかった。
「……ちょっと固く対応しすぎたかな」「ごめんね、……切って、もらえるかな?」
どうしたらここから挽回できるかと必死に頭を悩ませていた俺は、最後のその言葉でプツンと心が折れた。
部下から、遥か年下の学生扱い。
それも、異性に見せる気遣いをどこかに滲ませたような。
俺は、思わず会議の退出ボタンを押した。
混乱とパニックと恥辱が相まって、……押さざるを、得なかった。
***
部屋は今までの狂気が嘘のように静かになり、一人残されたデスク。
会議を始める前からいたはずの日常空間。
なのに、今の自分自身が、非日常を押し付けてくる。
スカートに締め付けられる、肉付きの良い太もも。
ジャケットの袖口から覗く白い手が、ありえない現実を克明に主張している。
「……戻れ」
俺は、藁にもすがる思いで、再接続のボタンを押していた。半ば白昼夢に囚われたようなものだった。
繋がりそうで、……切れた。
何度繰り返しても、もう会議には繋がらず。
そして自分自身の表示画面に映る顔は変わらない。
若い女の顔が、そこにある。
「……戻れ。戻れ、戻れ、戻れ」
接続。切断。接続。切断。接続。切断。接続。切断。
何度繰り返しただろう。一心不乱にそれをしていた。
しかし、その繰り返しの中で、俺はふと気づいた。気づいてしまった。
何かが、おかしい。
頭の中が、おかしい。
最初に気づいたのは、妻の顔を思い出そうとしたときだった。
いつも通り思い浮かべようとして、輪郭がぼやける感じがした。
「最近、結婚記念日に行ったレストラン」を思い出そうとして、店の名前が出てこない。
「……なんだ、どこだった…?」
それだけならよくあることだ。しかし続けて、子どもの顔を思い出そうとした。
思い出せない。
「……え」
「……顔が、顔が出てこない、なんで」
慌てて、記憶をたどる。
朝、共働きの妻と、学校に向かう子どもを、玄関先で見送ったはずだ。今朝のことだ。
しかし、「今朝見送った」という事実の記憶はあるのに、そこにどんな顔の、誰がいたのかが、ない。なくなっている。
「……待て。待ってくれ」
スマホを取り出す。写真フォルダを開く。
家族の写真を探す。
ない。
ないはずがない。何百枚とあったはずだ。
しかしスクロールしても、スクロールしても、家族が映った写真が一枚も出てこない。
「……どこに行った」
連絡アプリを開く。妻の名前を探す。子供の名前を探す。家族のグループを探す。
ない。
「……ない、はずがない」
でも、ない。
頭の中で必死に記憶を掘り起こす。
妻と出会ったのは、入社三年目のことだった。
運命的な出会いだと思った。
そのはずだ。そのはずなのに、その記憶の場面に、相手の顔がない。
「顔が、思い出せない」
代わりに、おぞましいことに、知らない記憶が入ってくる。
大学の同性の友人と過ごした記憶。
カフェのテーブルの向こうには、かわいい系の小柄な女性がスプーンを口に運んでいる。
テニスサークルの練習合宿。
大浴場の更衣室で、汗ばんだ練習着を脱ぎ、それを丁寧にロッカーへと仕舞う自分。
居酒屋での飲み会。
酒の強さを競う若気の至り。テーブルの下の掘りごたつの中で、タイツに包まれた足を組み替えていた。
そして、たまたま授業で知り合った、同い年の男性と二人きりで過ごした記憶。
「……誰だ、これは」
知らない男の顔が、頭の中に浮かぶ。
優しそうな顔だ。笑うと目が細くなる。
そいつと並んで歩いた記憶がある。
そいつに名前を呼ばれた記憶がある。
その名前は、おれの名前ではない。ないはずなのに。
「……やめて……くれ」
でも、記憶は続く。
花火を一緒に見た。誕生日を祝ってもらった。
「好きだ」と言われた記憶が、鮮明にある。
「……やめ、て……!」
声に出した。若い女の声で。
しかしその記憶は止まらない。
それどころか、その記憶に触れるたびに、胸の奥がじわりと温かくなる感じがする。
幸福感だった。
「……違う」
でも、温かい。
「……違う、違う、お、おれにはちゃんと妻がいて、子どもがいて、さっきまで、仕事だって」
妻の顔を思い出そうとする。
出てこない。
子どもの顔を思い出そうとする。
出てこない。
仕事の内容を思い出そうとする。
出てこない。
代わりにあの男の顔が浮かぶ。
温かくなる。
「……違う!」
叫んでも、温かくなる。
再接続を試みる手が、もう震えていた。
接続ボタンを押す。
カメラのプレビュー画面が開く。
そこに映る自分の顔は、まだ若い女のままだ。
「おれは男…だ…」
声に出してみる。
若い女の声が返ってくる。
「おわ、たしは、家族が…いる」
妻の顔が出てこない。子どもの顔が出てこない。
代わりに、あの男の笑顔が浮かぶ。
温かくなる。
「……やめてよ……うぅ」
そしてまた、接続が切れた。
記憶から逃れようと、周囲を見回す。
そうしたらそこは、一軒家の広々としたリビングの一角ではなかった。
そこはもう、どう見ても女子大生の住むワンルームの一室。
近くの壁に掛かっているのは、替えの紺のリクルートスーツ。
クリーニング袋がかかったまま、ハンガーに吊るされている。
机の端には大学のテキスト。
エントリーシートの控え。
来週の面接や、プライベートの日程が書かれた手帳。
「……わたしの部屋、こんな部屋じゃ、なかった」
でも、どんな部屋だったかを思い出そうとすると、うまくいかない。
代わりにもう、この部屋の記憶が出てくる。
この机で勉強してきた記憶。この部屋で就活の準備をしてきた記憶。
「……わたしは、わたしじゃ…ない…」
でももう、証明する手段が何もないことには、薄々気づかされていた。
それをただ、認めたくなかったのだ。
私はずっと、再接続を試みていた。
繋ぐたびに若い女の顔が映り、切るたびに頭の中が、記憶が少しずつ変わっていく感じがした。
元に戻れるかもしれないという希望が、繋ぐたびに薄くなっていく。それが、実感としてわかってしまう。
妻の記憶がない。子どもの記憶がない。仕事の記憶がない。
もう正直、全く思い出せない。
前世の記憶のような、遠い違和感。
ただそこにあるのは、社会人で、一家の大黒柱だった男であった、はずだった、という今や形のない残滓。
それよりももう心を満たすのは、あの男の記憶。
ずっとずっと温かく、幸福感が押し寄せてくる。
「……もう、やめ……私、あっ、いつからわ、私って…うぅ……」
そうして、時計の針が三周はしただろう。
もう、私の指がマウスをクリックすることは、なくなっていた。
***
日が沈み、夜の帳が下りる頃。
ただそこには、本来リラックス空間である自宅の一室で、対照的に窮屈なレディーススーツに身を包む人物。
その人物は今、失われた記憶と引き換えに、存在しなかったはずの記憶に包まれている。
曖昧な過去の人生を羨みながら、幸せな涙を流している。
しかし、終わり良ければすべて良し。
当人がいくら過去に追い縋ろうとも、今が幸せならばそれで良い。
つまりもうそこには、惨めで、幸せな一人の女子大生がいるだけ。
画面の暗くなったノートパソコンは、ただひたすらに、彼女をいつまでも、いつまでも見つめ続けていた。






















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