春は深まる。庭は花々で虹の如く彩られ、陽光も風も穏やかさを増し、命の神 エーヴィリーベを退けた季節だとは思えない程に、生命が慶びの賛歌を捧げていた。
建物が隙間なく建ち並ぶ下町とは違い、貴族の邸には庭が有る。特に、上級貴族以上で通年貴族街に住まう者の邸は、広い庭の中に大きな建物が数棟点在していて、ローゼマインは慣れた今であっても「公園の中に住んでいるみたい」と感じる事がある。
下町では春の成人式も近付いていた土の日、フェルディナンドはローゼマインを庭の東屋へ誘った。既にラザファムが茶の席を設え、ローゼマインの為にとクッションもひざ掛けも用意され、その隣にフェルディナンドが座る様にと整えられていた。
緩やかに花の香が漂う中、ふわりと茶の香りが立ち上る。
「エックハルトを呼び戻そうと思う。」
言いながら、フェルディナンドは盗聴防止の魔術具を差し出した。ローゼマインが笑顔で受け取る。
「わたくしとしては心強いですが、大丈夫でしょうか?」
「安全とは言えぬ。だが、私に付き従うのでは無く、君に必要な時だけ呼び出せば良い。」
「それ、酷くありません?」
呆れ声が本音となった。
「酷くは無い。私から命じられるのがあれの利だ。」
「十分酷いと思います!」
何様ですか俺様ですかフェルディナンド様は、とぷひぷひ言い募るが、フェルディナンドは意に介さず、その怒るシュミルの毛並みを指で弄び始めた。
「今は私に会えない状態なのだ。十分な利だと思わないか?」
「そりゃ、会えたら嬉しいでしょうけど! フェルディナンド様、素材も道具も揃えられているのに、いざ久々に調合をと思ったら禁止されて嬉しいと思いますか?」
ふむと考える素振りを見せつつも、髪を弄ぶ指は止まらない。
「禁止の理由にも拠る。」
「理由!?」
「君との時間ならば構わぬ。」
ぽん、とローゼマインは赤面した。僅かに上がった口角を、フェルディナンドは即座に水平へと戻す。
「あれには以前に決めた裏の設定を教え、君がギルベルタ商会を訪れる際に護衛をさせる。」
空いた手でカップを持ち上げ、茶を一口。
「ユレーヴェの効果もあり、魔力を使っている君は、秋よりも成長している。潜む木箱を大きくしなければならないのだ。ユストクス一人では運びにくい。」
「え、わたくし、大きくなってます?」
「衣装を新調しなければならないくらいには。」
ローゼマインとの茶会、赤面した様、そして満面の咲き誇る笑顔を得て、フェルディナンドは満足した。
ユストクスに連絡と日程の調整をさせて数日後の夜、エックハルトは騎獣を使わず夜陰に紛れて邸に来た。
「フェルディナンド様っ!」
裏口から招き入れられ、応接室に入った途端、エックハルトはその場で跪き、震える声を抑えもせずに再会の挨拶を述べた。
「やり直し。無様を見せるな。」
冷たい声音が叱咤する。それはまだ貴族院の学生時代には毎日の様に聞いていた声だった。
騎士が感情を露わにするな。私の側近を名乗るのならば己を律せよ。無様な者など要らぬ。其方はそれでも騎士か。
見習いではあったが、護衛騎士としてフェルディナンドに認められていた日々が蘇り、少しでも動けば落涙しそうになる。顔だけは静止させ、潤む目で挨拶をやり直した。
だが、フェルディナンドは無言のまま、跪く男を見下ろしていた。
「フェルディナンド様。」
主の後ろから幼い声がして、エックハルトの肩はぴくりと動いた。
「すぐに済む。」
それへ応える主の声は少し柔らかい。目を見張るエックハルトを他所に、フェルディナンドは長椅子へと足を運んだ。そのまま、ひょいと慣れた動きで子供を抱き上げ、座って膝の上へと落ち着かせる。
「お茶が冷めてしまいますよ。」
「仕方ない。立て、エックハルト。」
命じられても、エックハルトは動けなかった。
ユストクスに急かされ、幼女を抱く主の前に座らされ、それでも騎士は瞬き以外には何も出来なかった。
見た事も無い幼子。紺の艶やかな髪に主よりも濃い金の瞳。顔立ちは整い、所作は既に完成されている、幼い女児。
それを、あろう事か、自分の主が膝に載せている。エックハルトは混乱の中で、思考を見失っていた。
「フェルディナンド様、これではご挨拶が出来ないではありませんか。」
しかも平然と不平を口にしているが、窘めるでも無く、放り出すでも無く。
「別に良い。」
「良くはありません。」
「良い。」
「もう。」
何がどうして自分がこの場面を見ているのか、この子供は何なのか、問うて良いのか悪いのか。ユストクスに助けを求める視線を送れば、にやついて居るだけだった。
エックハルトは成人してまだ一年、所作は貴族らしく整って居るが、元々が武に偏った性格と思考を持つ若者だ。カルステッドを父に持つ三人の兄弟のうち、最も祖父ボニファティウスの血が色濃いと評される。こんな時はどうしたら良いのかまるで解らなかった。
「エックハルト。」
「はっ。」
慣れと反射だけで返事をした。
「ローゼマインだ。私の知己から託された子で、訳あって私が庇護している。」
「はっ。」
高位貴族の子である事、平民の手を介してエーレンフェストへ着いた事、下町のギルベルタ商会が一時的に匿った事などを説明する間も、フェルディナンドの手は、幼女を支え茶碗を渡しほんの少し乱れた髪を整えと、世話を焼き続ける。
エックハルトの困惑は更に深まった。
「私の立場は依然として複雑だ。ローゼマインの存在が知られた場合は誰が何をするか、其方には自明の理であろう。」
誰が、何を。その言葉で脳裏に現れた、金髪と緑の目を持つ貴婦人の姿が、エックハルトの戸惑いも混乱も吹き飛ばした。
「は。」
この女児は主が大事にするものだ、失わせてはならないものだ、と、エックハルトは判断する。
「近々、密かにローゼマインをギルベルタ商会へと行かせる。」
「は。」
「ユストクスと共にローゼマインを護れ。」
「は。確と拝命致しました!」
エックハルトは主にローゼマインとの挨拶を請い、許された。
「ローゼマイン様、水の女神 フリュートレーネの清らかなる流れに導かれし良き出会いに、祝福を祈ることをお許しください。」
素早く長椅子から立ったエックハルトが、跪いて初対面の挨拶を述べる。
「え、わたくしからご挨拶をすべきなのでは?」
慌てた声でローゼマインは問いかけるが、満足気な「当然だ」の一言で済まされた。
「フェルディナンド様よりお護りせよとのご命令を受けました以上、ローゼマイン様は私より上位のお方で御座います。」
面を下げ目だけを主とその被庇護者に向け、大柄な騎士はすっきりした声で言いまた目を伏せた。
「君は確かに洗礼前だが、護衛騎士が対象者より自らを上とする訳が無い。挨拶を受けなさい。」
「そうなのですね。解りました。降ろして下さいませ。」
「このままで良い。」
「わたくしが落ち着きません。礼には礼を以て返す事が正しいと思いませんか。」
神官に堕とされたとは言え領主候補生の身分であったフェルディナンドに物申す様は、確かに上位貴族の血統だと感じられ、他領の領主一族か、もしや王族の出ではあるまいか、とエックハルトは気を引き締めた。
身動きする気配があり、許しますとの一言があって伏せていた顔を上げれば、目の前に幼女、その後ろにはフェルディナンドが立っていた。
しっかりとした躾を受けて来たと見え、まだ幼い身は背をのばし、きちりと立っている。その姿はどこかエックハルトの母親を思い起こさせた。
「水の女神 フリュートレーネよ、新たなる出会いに祝福を。」
エックハルトの指輪から赤い光がほわりと浮かび、ローゼマインに届く。
「カルステッドの息子、エックハルトと申します。以後、よろしくお願い致します。」
「ローゼマインと申します。こちらこそよろしくお願い致します、エックハルト様。」
「どうか、エックハルト、と。私はこれよりローゼマイン様の護衛を致しますので。」
少し困った顔で、幼子はフェルディナンドを見上げた。
「その通りだ。敬称は要らぬ。」
「解りました。では、エックハルト、お茶が冷めますから席に着いて下さい。」
「いえ、お言葉ですが私は護衛騎士です。」
言うや否や、エックハルトはそれまで主が座っていた長椅子の後ろに移動した。
「駄目です。わたくしはとても虚弱なので、その説明をしなければなりません。エックハルト、席に着きなさい。」
「は!」
僅か五歳の発した命令に、成人の騎士は諾々と従った。
そして、やはりフェルディナンドの膝上に落ち着いたローゼマイン自身の口から、現状を説明された。
「では、ローゼマイン様は三階から降りる体力も有せず、また、ユレーヴェでの治療も必要な身でいらっしゃるのですね。」
「それにフェルディナンド様が過保護過ぎるのです。わたくし、フェルディナンド様の前では自分の足で歩く事も出来ないのですよ。」
「は?」
「すぅぐに抱っこして運ぶのです!」
ぷくんと頬を膨らませる。下の弟が幼い頃に時々見せた表情だが、煩いとも小憎らしいとも感じず、こんな所は年相応なのだな、と微笑ましくさえある。
「わたくし、手荷物扱いなのです! もう!」
「はぁ。」
首を傾げる騎士には目もくれずにフェルディナンドが涼しい顔でソーサーごとローゼマインのカップを持ち上げて近づければ、ローゼマインも躊躇いなくカップだけ持って一口飲み、カップを戻す。
これは確かに過保護が過ぎるとエックハルトも思うが。
「フェルディナンド様のなさる事に間違いは無いと私は思います。」
と、にこり。
「しかしローゼマイン様は現状に少なからず不満を感じておいでなのですね。」
「当然です。わたくし、このままでは洗礼式でもお披露目でも、抱っこで運ばれそうではありませんか。」
抱っこで洗礼式とお披露目、それも主の判断ならばと言いかけ、思い直したエックハルトは母親仕込みの笑顔を作る。
「それだけでは無く、もしもの際に自分の足で逃げられなければ簡単に捕まります。わたくしは足手まといになる気はありません。」
「それをお護りするのが私の任務なのですが。」
「エックハルト、護られる側にも体力は必要なのです。わたくしの虚弱さを侮ってはいけません。」
ぴっと小さな手が人差し指を立てた。
「どうにか二階まで降りる体力しか有りません。しかしそれは、読書の時間を削ってまで体力作りに回し、やっとそこまで出来る様になったのですよ!」
得意気に言うが、エックハルトにはその状態が理解出来なかった。体力作りをしてやっと二階に降りる事が出来た、等は有り得ない、自分がこの年齢の時には二階から庭まで走り出て、そのまま庭を駆け巡り、それから木剣を振り回した筈だと。
「体力作りはどの様な事をなさっているのでしょうか。庭での走り込みですか?」
「軽く体操をしてから三階を歩いています。息が切れるまで。」
「三階だけですか? 飽きませんか?」
フェルディナンドの邸は、成人した領主候補生が住まうに相応しい広さがある。それでもぐるぐると歩くだけではすぐに飽きるだろうと思ったが、ローゼマインは飽きるより先に息が切れる、と答えた。
「は?」
「まだ往復した事が無いので。」
「は?」
「ですから、わたくし、三階の廊下を往復出来た試しが無いのです!」
フェルディナンドはローゼマインに空の魔石を握らせた。
興奮と魔力が魔石に移され、同時に疲労と睡魔を呼んだ様子を見て、フェルディナンドはヴィルマの腕にローゼマインを預けた。
「シュラートラウムの祝福と共に、皆様にも良き眠りが訪れます様に。」
とろんと降りかけた瞼で言い残し、ローゼマインが応接室から去ると、室内には男ばかりが四人で気を使う相手も居ない。フェルディナンドの気配が変わった。
真冬の吹雪を想起させる峻厳さ。張り巡らせた氷壁は硬く尖る。
「フェルディナンド様、ローゼマイン様の子供用魔術具は。」
問わねばと思った事を質す時だとエックハルトは切り出した。
「無い。」
「は。」
フェルディナンドが握らせた魔石は、上級貴族でも染める為にはかなりの魔力を必要とする大きさだった。エックハルトは、小さな手には余る大きさの魔石が、それこそ見る間に淡い黄色に変わる様を間近で見た。
「あの大きさをいとも簡単に染めてしまわれました。もしや御家門は。」
「問うな。」
「は。」
フェルディナンドが無いと言えば無いのだし、問うなと言われれば問うべき事では無い。エックハルトにとってそれが真実であった。何故無いのか、何故訊くべきでは無いのか、それはフェルディナンドが判断し、伝える必要があれば言うだろう、必要が無ければ伝えずに結論だけを知れば良いのだと思うからだ。
「ローゼマイン様の護衛に就くにあたり、気を付けるべき事は有りますか。」
「全てだ。」
「は?」
「髪一筋たりとも損なわせるな。魔力暴走は勿論として、発熱や食欲減退、本への興味の喪失、自分以外の流血や暴力的な行動、全てがあの子を傷つける。それらから護れ。」
肉体的な損傷は解る。それは護衛騎士であれば当然避ける。子供用魔術具が無い以上は魔力暴走を危険視するのも解る。だが、発熱や食欲減退までは良いとしても、本への興味喪失は? 自分以外の流血? 暴力的行動とはどこからを指すのか? エックハルトにはそれらを計る条件がまるで解らない。
「先程、読書の時間を削ってまで、と言った通り、ローゼマインは本を好む。暇があれば本に溺れる。そうで無い場合、何らかの不安を抱えていると思われる。」
つまり自分が素振りをしない様なものかとエックハルトは思う。
「例え自分を襲った者でも、血が流れる事を厭う。恐怖する、の方が近いだろう。耳を塞ぎ目を閉じよと言え。その場が片付くまでだ。」
見るからに文官だからな、と納得した。
「故に、それを想起させる暴力的な言動も厭い、怯える。緊急時以外の大声もそうだ。」
あぁ、と脇から少々力の抜けた声がした。
「それであの時、ボニファティウス様の大きな声でお泣きになったのですね。」
ユストクスに事の次第を説明されたエックハルトの端正な顔は怒気に歪む。
「抑えろ、エックハルト。」
「は。ですが許せません。」
フェルディナンドが庇護する幼女が、アウブから辱めを受けたと聞いたのだ。フェルディナンドに心酔するエックハルトに許せる訳は無い。
「許さずとも良い。ローゼマイン自らが罰を与えている。」
「は?」
外出も憚られる洗礼前の子が大人、それも領主を罰する方法など、エックハルトには思い付かない。
「其方、近頃拡がっている噂を知らぬか。」
「噂など、私には無用の物。」
エックハルトは胸を張り、ユストクスとラザファムは溜息を吐いた。
「騎士と言えども情報は要だと教えたであろう。」
フェルディナンドも眉根を寄せる。
「忘れてはおりませんが、噂までは。」
大体に於いて積極的に情報を収集する役目はユストクスが担っている。騎士同士の会話から何か拾えば報告するが、元からそうした事には向いていない。
「明日からは噂に意識を向けよ。其方が必要な時はまた連絡する。帰れ。」
「では、御前失礼致します。」
エックハルトは邸を後にし、騎士が住む騎士寮へと帰って行った。やはり夜陰に紛れ、徒歩で。


























