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痛みは私のもの、愛はあなたのもの

七瀬七瀬

ローエン夢 恋人同士前提 恋人になっても、痛みだけは渡せない○○の話。いちゃいちゃさせたかった。 痛みも、怖さも、弱さも、何ひとつ明け渡そうとしない強がりなお前が好きだ。 たとえいつか、その仮面がほどけても。 立っていられない夜が来ても。 俺の前で、少しだけ息をすることを覚えても。 どんなお前でも、俺は欲しい。 痛みはお前のもの。 なら、いまだけは、愛だけ俺が貰ってやる。

痛みを消したいと思ったことがない。

もちろん、痛くない方が楽だ。
怖くない方がいい。
胸の奥でずっと疼いている苦しさなんて、ない方がきっと生きやすい。

それでも、それを誰かに取り上げられたいとは思わなかった。

この痛みがあったから、ここまで歩いてこられた。
弱さがあったから、強くなろうと思えた。
怖さがあったから、明るく笑うことを覚えた。

だから、渡したくなかった。

痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、胸の奥でずっと疼いている苦しさも、全部。

それは、○○がここまで歩いてきた証だった。
明るく笑うための燃料だった。
地面を踏みしめて、空に指を突き立てて、たとえ月まで届かなくても歩いてやると虚勢を張るための、たったひとつの熱だった。

どれだけ強くなっても、痛みは消えない。
どれだけ上手く笑えるようになっても。
たくさん任務をこなして、仲間に頼られて、誰かの背中を守れるようになっても。

怖いものは怖い。
苦しいものは苦しい。
胸の奥にある弱いところは、いつまでも柔らかいまま、何かの拍子に簡単に傷つく。

それを、○○は知っていた。
だから、消そうとは思わなかった。
消えないものを消そうとして、手を伸ばして、届かなくて、みっともなく泣くくらいなら、最初から抱えて歩けばいい。

痛いままでいい。
怖いままでいい。
苦しいままでいい。

その全部を燃料にして、明るく笑っていればいい。

何も痛くない顔で。
何も怖くない顔で。
誰よりも前向きで、誰よりも健気で、誰よりも扱いやすい隊員の顔をして。
そうやって立っていれば、少なくとも、膝を折らずに済む。

誰かに縋るのは、怖かった。
助けてほしいと思わないわけではない。
大丈夫だと抱きしめられたい夜がないわけでもない。
もう頑張らなくていいと、優しく言われたら、きっと泣いてしまう。
泣いたら、終わりだと思っていた。

張りつめていた糸が切れる。
踏ん張っていた足から力が抜ける。
まだ立てるはずの膝が、勝手に折れそうになる。

優しさは、刃よりずっと危ない。
怒号なら聞き流せる。
失望なら、次で取り返せばいい。
痛みなら、耐えればいい。

けれど、優しさだけは駄目だった。

触れられた場所から力が抜ける。
息の仕方を思い出してしまう。
甘えたくなる。
預けたくなる。
ここまで抱えて歩いてきた痛みまで、誰かの手に渡してしまいそうになる。

それだけは嫌だった。
弱い私を見ないで。
暴かないで。
可哀想なものみたいに扱わないで。
その痛みを下ろしていいのだと、優しい顔で言わないで。

見てほしいのは、地面を踏みしめて立っている私だ。

痛みを抱えたまま笑う私。
怖いまま前へ出る私。
虚勢でも、見栄でも、仮面でも、それを選んで立っている私。
それが○○の誇りだった。

「まだ……やれる……」

夕暮れの訓練場で、○○はひとり呟いた。
返事をする相手はいない。
見ている者もいない。
それでも声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。

任務は終わっていた。
報告も済ませた。
隊の仲間には、いつも通り笑って別れた。

お疲れさまでした。
明日もよろしくお願いします。
今日は助かりました。
どれも本心だった。

仲間のことは好きだったし、任務が無事に終わったことにも安堵していた。
けれど、胸の奥に小さな棘が残っていた。

今日の任務で、一瞬だけ判断が遅れた。
誰かを危険に晒したわけではない。
大きな失敗でもない。
たぶん、周りは気づいていない。

けれど、○○は覚えている。
あの一瞬。
息が詰まったこと。
足が止まりかけたこと。
怖いと思ったこと。

怖かった。
認めた瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。
怖くないわけがなかった。

戦いはいつだって怖い。
刃の音も、敵の気配も、仲間の息が乱れる瞬間も、判断ひとつで誰かを失うかもしれない重さも、全部怖い。
それでも、怖いからといって誰かに縋るくらいなら、一人で立っていたかった。
怖いまま、立っていたかった。
その方が、まだ自分でいられる気がした。

「もう一回」

武器を構える。
地面を踏む。
靴底の下で、乾いた地面がざり、と鳴る。
夜が近づいて、空気は少し冷えていた。
汗で湿った背中に風が触れて、体温だけが奪われていく。

踏み込む。
避ける。
振り返る。
構える。

見えない敵を想定する。
次に同じ状況になった時、迷わないために。
怖さが喉を塞ぐより早く、体が動くように。
失敗を忘れたくなかった。

怖かったことを、なかったことにしたくなかった。
足が止まりかけた自分を、見なかったふりで済ませたくなかった。

それは、綺麗な欠片ではない。
情けなくて、悔しくて、できることなら誰にも見せたくない。
けれど、それでも確かに自分の一部だった。
なら、捨てるのではなく、研げばいい。

次に同じ場所で立ち止まらないための刃に変えればいい。
痛みは消えない。
怖さも消えない。
なら、抱えたまま動けるようになるしかない。

ローエンは、そういう人だった。

若くして副隊長になった人。
強くて、頼れて、戦場で迷わない人。
勝つためなら手段を選ばず、必要なら自分が正面から突っ込むこともできる人。
それでいて、仲間の動きも、敵の癖も、戦況の変化も見落とさない人。

ローエンが怖くない人間だなんて、○○は思っていない。

痛みを知らない人だとも思わない。
傷つかない人だとも、苦しまない人だとも思わない。

たぶん、あの人にも痛みはある。
けれどローエンは、その痛みを理由に止まらない。
怖さを理由に退かない。
苦しさを誰かに預けて、立つことをやめたりしない。

そう見えた。
だから、憧れた。
あの人みたいになりたかった。
月みたいな人だと思う。

遠くて、明るくて、こちらがどれだけ手を伸ばしても簡単には届かない。
けれど、夜の中で顔を上げる理由になる。

どうせ一度きりの最後の人生なら、月でも目指そうか。
そんな馬鹿みたいなことを本気で思わせるくらい、ローエンは○○にとって眩しかった。

あの人みたいに強くなりたい。
誰かの前に立ちたい。
痛みも怖さも抱えたまま、それでも勝つために最善を選べる人間になりたい。

羨ましかった。

その強さが。
その余裕が。
誰かに頼られることを当然みたいに背負える背中が。
そして、羨ましいと思うたびに、胸の奥が熱くなる。

憧れだけではなかった。
認められたい。
見てほしい。
あの人の視界に入りたい。
あの人の隣に立てる自分でいたい。

それだけなら、まだ憧れで済んだ。
でも本当は、もっと別の欲があった。

触れたかった。
名前を呼びたかった。
好きだと言いたかった。
愛したかった。
けれど、そんなものは戦場に持ち込めない。
だから○○は、それも全部、胸の奥に押し込めた。

痛みと一緒に。
怖さと一緒に。
弱さと一緒に。

燃料にして、立つために。

「もう一回……」

息が切れる。
喉が痛い。
手のひらが熱い。

それでも、構え直した。
その時だった。

「いつまでやってんだ」

背後から声がした。
少し呆れたような声。
聞き間違えるはずがなかった。

○○は振り返る。
訓練場の入口に、ローエンが立っていた。

「ローエンさん」

声が明るくなる。
反射だった。
痛みも、怖さも、焦りも、全部笑顔の下に押し込めて、○○はいつもの顔を作る。

何も痛くない顔。
何も怖くない顔。
好きで好きでたまらない人の前で、それでもちゃんと立っている顔。

「迎えに来てみりゃ、これか」

ローエンはゆっくり近づいてくる。
革手袋の擦れる音が、夜の訓練場でやけに近く聞こえた。
その音を聞くだけで、背筋が伸びる。

警戒ではなく、期待だった。
緊張ではなく、嬉しさだった。
それが悔しくて、○○は余計に笑う。

「自主練です」

「見りゃわかる」

「もう少しだけ」

「駄目だ」

早かった。
あまりに迷いのない却下に、○○は言葉を詰まらせる。

「でも」

「でもじゃねぇ。任務後にその状態で詰めても、動きが雑になるだけだ」

「まだ動けます」

「動けるのと、まともに動けるのは違う」

ローエンは○○の前で足を止めた。
近い。
汗で冷えた体に、彼の体温だけが妙にはっきりわかる。
○○は笑顔を崩さないまま、武器を握る手に力を込めた。
ローエンの視線が、その手に落ちる。

「手、開け」

「大丈夫です」

「開け」

命令だった。
○○は観念して、手を開く。

手のひらは赤くなっていた。
ところどころ皮が擦れている。
大した怪我ではない。
痛みも、我慢できる程度だ。
ローエンはその手のひらを一瞥した。

「飯は」

「まだです」

「風呂は」

「まだです」

「寝る準備は」

「まだです」

「自主練してる場合か」

「……すみません」

「謝れとは言ってねぇ」

ローエンは、こちらの強がりなど最初から織り込み済みだという顔で、淡々と言った。

「強がるなら強がり切れ。途中でへばって、明日に響かせるな」

その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
無理するな、ではなかった。
頑張らなくていい、でもなかった。
弱いところを見せろ、とも言わなかった。

ローエンは、○○の仮面を剥がさない。
強がることを許してくれる。
その代わり、強がり方を間違えるなと言う。

痛みを奪わない。
弱さを暴かない。
怖さを可哀想なものにしない。
ただ、立ち方を間違えるなと言う。
だから、好きだった。

「……はい」

「返事が小せぇな」

「はい!」

いつもの声で返すと、ローエンは満足したように笑った。
その笑みに、胸の奥に押し込めたはずの愛が、また少しだけ溢れそうになる。

好き。
言いそうになって、飲み込んだ。

ここは訓練場だ。
まだ、外だ。
恋人になったからといって、どこででも甘えていいわけじゃない。
ここではちゃんと立っていたい。

ローエンに憧れる隊員として。
強くなりたい女として。
痛みを抱えたまま笑っていられる自分として。

「よろしい。飯食って、風呂入って、それから俺の部屋に来い」

心臓が跳ねた。
訓練場の冷えた空気の中で、そこだけ急に熱を持つ。

「……部屋、ですか」

「他にどこがある」

「いえ」

○○は武器を下ろした。
さっきまで動き続けていた体が、急に自分のものではないみたいにぎこちなくなる。
ローエンは気づいているのか、いないのか。
いや、たぶん気づいている。
そのうえで、何でもない顔をして背を向けた。

「遅くなるなよ」

「はい」

「あと」

ローエンは歩き出しかけた足を止め、肩越しに言った。

「今日はもう訓練場に戻るな」

「……はい」

「いい子だ」

それだけ言って、ローエンは歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、○○はその場に立っていた。

いい子。

たったそれだけの言葉で、胸の奥がいっぱいになる。
痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、苦しさも、誰にも渡さない。
けれど。
ローエンに向かうこの気持ちだけは、いつも手の中に収まりきらなかった。

湯を浴びて、食事を済ませて、髪を乾かして。
やるべきことを全部終えてから、○○はローエンの部屋へ向かった。

廊下は静かだった。
夜の石床は冷えていて、歩くたびに足音が小さく響く。

さっきまで訓練場にいた自分とは違う。
汗も、砂埃も、手のひらの熱も、もう表には残っていない。
いつものように整えた。
明るく笑える顔に戻した。
それでも、胸の奥だけは落ち着かなかった。

扉の前で立ち止まる。
一度だけ息を吸って、吐く。
それから扉を叩いた。

「入れ」

短い返事が、扉越しに届いた。
○○は扉を開けた。

部屋の中には、ランプの柔らかい灯りが落ちていた。
机の上には書類が積まれ、壁際には手入れされた武器が並んでいる。
窓は少しだけ開いていて、夜気が薄く流れ込んでいた。

ローエンは椅子に座っていた。
外してあった革手袋は、机の端に無造作に置かれている。
片手には書類。
もう片方の手は、椅子の肘掛けに軽く預けられていた。

「来たか」

「はい」

○○はいつものように笑った。
大丈夫な顔。
何も痛くない顔。
何も怖くない顔。

ローエンはそれを見て、少しだけ目を細める。
それから、読んでいた書類を机に置いた。

「立ってんな」

「え?」

「こっち来い」

そう言って、ローエンは椅子から立ち上がった。
部屋の奥へ歩いていき、寝台の端に腰を下ろす。
あまりに自然な動きだった。
まるで最初から、○○がここに来ることも、そこで立ち尽くすことも、全部わかっていたみたいに。

「来い」

その一言で、胸の奥が揺れた。
命令みたいで、許可みたいな声だった。
○○はすぐには動けなかった。

一歩近づく。
もう一歩近づく。
寝台の前で足を止める。
座っているローエンの方が少し低い位置にいるのに、なぜか逃げ場を塞がれているような気がした。

ローエンは逃げなかった。
拒まなかった。
ただ、そこにいてくれた。
それだけで、喉の奥が熱くなる。

「……好きって言ってもいいですか」

ローエンの片眉が上がる。

「聞くのか」

「聞きます」

「今さらだろ」

ローエンはしばらく○○を見ていた。
仮面の下を見透かしているくせに、剥がそうとはしない目だった。
やがて、短く息を吐く。

「好きにしろ」

許可だった。
その瞬間、○○の中で何かがほどけた。
でも、飛びつくことはできなかった。

ゆっくり近づいて、そっと手を伸ばす。
指先がローエンの服に触れる。

洗いざらしの布の匂いと、肌に残った湯の気配。
それから、ほんの少しだけ薬草のような匂いがした。

それだけで、胸がいっぱいになる。

「……好きです」

こぼれた声は、自分でも驚くほど甘かった。
ローエンは何も言わない。
だから○○は、もう少しだけ近づく。

「好き」

両手で服を掴む。

「ローエンさん、好きです」

身を屈めるようにして、額をローエンの肩口へ預ける。

「ずっと、ずっと好きです」

「……ずっと?」

呆れたような声が近くで聞こえる。
けれど、ローエンの手は○○を押し返さなかった。

「はい。ずっとです」

「随分でかく出たな」

「だって、止まらないんです」

言ってから、○○は恥ずかしくなって少しだけ俯いた。
好きだと言えば、少しは楽になると思っていた。
けれど違った。
口にすればするほど、胸の奥にあるものは形を変えて溢れてくる。

減らない。
薄まらない。
触れるほど、近づくほど、もっと好きになる。

「好きが、止まらないんです」

ローエンがくつくつと笑った。
からかうようで、けれどどこか満足そうな声だった。

「……ほんと、お前は」

「はい」

「俺のこと好きだな」

その言い方が、ひどく意地悪だった。
わかりきっているくせに。
自分がどんな目で見られているのか、どんな声で名前を呼ばれているのか、全部わかっているくせに。
それでもあえて言わせようとする。
○○はローエンの肩口に頬を寄せたまま、小さく頷いた。

「好きです」

「知ってる」

「もっと知ってください」

その返事に、ローエンの腕がわずかに動いた。
腰を抱く力が、ほんの少しだけ強くなる。
拒むためではなく、逃がさないための力だった。

「言うようになったじゃねぇか」

「ローエンさんが、言っていいって言ったから」

「好きにしろとは言ったが、そんな顔まで見せていいのか」

○○は顔を上げた。
ローエンを見つめる目は、とろりと甘く緩んでいた。

外で笑っている時の、綺麗に整えた顔ではない。
強がりでも、健気さでも、扱いやすい隊員の顔でもない。
ただ、好きな人を愛したくてたまらない顔だった。

ローエンはその顔を見て、少しだけ目を細める。

「……悪くねぇな」

「何がですか」

「その顔」

○○は一瞬で頬を熱くした。

「見ないでください」

「無理だな。見せてんのはお前だろ」

「……好きだからです」

「そうかよ」

ローエンのその笑い方があまりに余裕で、あまりに近くて、○○は胸の奥がまたいっぱいになる。

痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、胸の奥でずっと疼いている苦しさも、誰にも渡さない。
ローエンにも渡さない。
差し出さない。
預けない。
可哀想なものみたいに扱わせない。

でも、ローエンはきっと知っている。
○○が明るく笑う時、ほんの少しだけ息を詰めること。
大丈夫ですと答える声が、時々明るすぎること。
痛くないふりをする時ほど、笑顔が綺麗に作れてしまうこと。

知っているくせに、暴かない。
弱さを差し出せとは言わない。
痛みを預けろとも言わない。
優しい言葉で○○の膝を折ろうともしない。

奪わないでいてくれる。
だから、好きだった。

「ローエンさん」

「なんだ」

「キスしてもいいですか」

ローエンは少しだけ目を細めた。

「それも聞くのか」

「聞きます」

「さっきから律儀だな」

「……嫌だったら、困るので」

「嫌ならここまで近づけねぇよ」

返事は、吐息が触れそうな距離で聞こえた。
それでも○○は、ローエンの服を掴んだまま、じっと彼を見上げていた。

許可がほしい。
拒まれないとわかっていても、欲しかった。
触れていいと、好きだと言っていいと、愛していいと、ローエンの口から聞きたかった。
ローエンは呆れたように息を吐く。

「好きにしろ」

その言葉を待っていた。
○○は背伸びをして、自分から口づけた。
最初は触れるだけだった。
そっと唇を重ねて、すぐに離れる。
けれど、離れた瞬間に足りないと思った。

「好き」

もう一度、触れる。

「ローエンさん、好き」

また重ねる。

「好きです」

何度も。
何度も。

言葉の合間に、キスを落とす。
キスの合間に、好きと囁く。

ローエンは拒まなかった。
腰に回した腕で○○を支えたまま、好きなだけさせている。

受け止められている。
許されている。
そう思うほど、○○の胸の奥から愛が溢れて止まらなくなった。

「好き」
「大好き」
「ローエンさん、好き」
「……好きです」

「わかった。わかったから」

「まだです」

「何が」

「まだ、言い足りないです」

ローエンが、喉の奥で小さく笑った。
その笑い声が唇に触れるほど近くて、○○はまた胸が熱くなる。

もう一度キスをしようと顔を寄せた時、ローエンがほんの少しだけ口を開いた。
誘われたのだと、遅れて気づいた。
心臓が跳ねる。

○○は一瞬だけ固まった。
けれどローエンは何も言わない。
ただ、逃げずにそこにいて、○○がどうするのかを待っている。

触れていい。
踏み込んでいい。

それでも主導権は、こちらにあるようで、きっと最初からローエンの手の中にある。
○○はおずおずと、もう一度唇を重ねた。
薄く開いた隙間に、たどたどしく舌を差し入れる。

「んっ……」

自分の声に驚いた。
恥ずかしくて離れかける。
けれど、ローエンの手が腰に添えられ、逃げる前に引き留められた。

強くはない。
けれど、逃がさない力だった。
○○は目を伏せたまま、もう一度舌を伸ばす。

どうすればいいのかわからない。
それでも、もっと触れたかった。
もっと好きだと伝えたかった。

「ん……っ」

唇の奥で、吐息が震える。
ローエンは動かない。
いや、動かないふりをしているだけだった。

○○が迷えば、逃げ道を塞ぐように腰を支える。
深くなりすぎる前に、ほんの少し角度を変える。
息が苦しくなる頃には、わずかに唇を緩める。

全部、ローエンが許している。
○○が自分からしているのに、ローエンに導かれている。
そのことが、どうしようもなく甘かった。

「ローエンさん……」

唇が離れた隙間で名前を呼ぶと、ローエンの目が細くなる。

「何だ」

「好きです」

「知ってる」

「もっと、したいです」

言ってから、顔が熱くなった。
けれど、撤回はしなかった。
したくなかった。
ローエンは一瞬だけ黙る。
それから、意地悪く笑った。

「愛し方は遠慮ねぇな、本当に」

「……だめですか」

「誰が駄目って言った」

その返事だけで、また胸がいっぱいになる。
○○はローエンの首元に腕を回し、もう一度キスをした。
今度は少しだけ深く。
それでもやっぱり不器用で、たどたどしくて、途中で息が乱れる。

「んっ……ん……」

好き。
好き。
好き。

言葉にできない分まで、唇で伝えたかった。
ローエンはそれを受けている。

逃げずに、拒まずに、むしろ○○が溺れすぎないぎりぎりのところで支えている。
愛を渡しているのは○○なのに、受け取り方を決めているのはローエンだった。
それが悔しいくらい心地よくて、○○はまた彼にすり寄る。

「好きです」

「まだ言うのか」

「言います」

「だろうな」

ローエンは、少しだけ楽しそうに笑った。
その顔がずるかった。
自分がどれだけ愛されているのかを知っていて、それを拒む気もなく、ただ当然のように受け取っている顔だった。

「そんな顔して見上げてくる奴を、今さら止められるかよ」

「……どんな顔ですか」

「俺のことが大好きって顔」

○○は息を詰めた。
否定したかった。
けれどできなかった。
その通りだったから。

「……嫌ですか」

「嫌なら、こんなことさせねぇよ」

ローエンは答える代わりに、軽く唇を触れさせた。
それだけで、○○の目元がとろりと緩む。

「好き」

返事の代わりにそう囁いて、もう一度キスをした。
今度はもう、最初ほど迷わなかった。
ローエンが開けてくれた隙間に、たどたどしく入り込む。
触れて、探って、すぐにわからなくなって、またローエンの呼吸に導かれる。

「ん……っ、ん」

喉の奥で声が揺れる。
恥ずかしい。
けれど、止めたくない。

好きだった。
好きで、好きで、どうしようもなかった。

痛みは渡さない。
弱さも渡さない。
怖さも、苦しさも、胸の奥で疼くものも、全部自分のものだ。

けれど、この愛だけは違う。
ローエンに触れるたび、溢れてしまう。
渡したくなる。
受け取ってほしくなる。

何度目かのキスのあと、○○は息を乱しながらローエンを見上げた。

「ローエンさん」

「今度は何だ」

「愛してます」

ローエンの呼吸が、一瞬だけ止まった。
それが嬉しくて、○○はまた頬をすり寄せる。

「愛してます」
「好きです」
「ローエンさんが、好き」
「いっぱい、好き」

ローエンは黙って聞いていた。
茶化さなかった。
逃げなかった。

ただ、その甘く蕩けた目をじっと見ていた。
○○が渡そうとしているものを、ひとつも落とさず受け取るみたいに。
やがて、ローエンの指が○○の顎に触れた。

「○○」

名前を呼ばれて、○○は素直に顔を上げる。

「はい」

「舌、出せ」

一瞬、言葉の意味がわからなかった。
遅れて理解した瞬間、顔が熱くなる。
けれど、ローエンの目が逸らさせてくれなかった。

命令みたいで。
許可みたいで。
それ以上に、全部を受け取ってやると言われているみたいだった。

○○は少しだけ迷って、それからおずおずと舌を出した。

「……っ」

次の瞬間、ローエンがそれを口で捕まえた。

じゅ、と吸われる。

ただそれだけで、腰から力が抜けそうになった。

「んっ……!」

声が跳ねる。
指先がローエンの服を掴む。
逃げたいのか、もっと近づきたいのか、自分でもわからなかった。

ローエンは逃がさない。
舌先を吸って、離して、また軽く噛むように触れる。
たどたどしく差し出された愛を、今度はローエンの方から奪うみたいに受け取っていく。
○○の膝が揺れた。

「ろーえん、さん……」

名前は最後まで言えなかった。
ローエンが深く口づけてきたから。
今度は、さっきまでとは違った。

○○が探る必要はなかった。
迷う暇もなかった。
ローエンの舌が入り込んできて、さっき自分がした拙いキスをなぞるように、けれど比べものにならないほど深く絡め取っていく。

「んっ、ん……!」

息が乱れる。
背中が震える。
足元が頼りなくなる。

それでもローエンの腕が支えていた。

逃がさない。
崩れさせない。
けれど立っていられないほどに甘くする。

そんな力だった。
○○は必死に応えようとした。
けれど、さっきまで自分から渡していたはずの愛が、今度はローエンに引き出されていく。

好き。
好き。
好き。

言葉にならない。
唇の奥で、吐息だけが甘く震える。
ようやく離された時、○○はローエンの胸元に額を押しつけるしかできなかった。

膝に力が入らない。
息が整わない。
目の奥が熱くて、世界が少し滲んでいる。

「支えてなきゃ、そのまま崩れそうだな」

胸元に額を押しつけたまま、その声を聞いた。
近すぎて、逃げ場がなかった。
○○は答えようとして、息だけが漏れた。

「……っ、力、入らないです」

その返事に、ローエンが喉の奥で笑った。

「だろうな」

悔しいのに、嬉しかった。
好きだと渡したものを、ちゃんと受け取られた。
それどころか、返されて、深くされて、立っていられないほどに満たされた。
○○はローエンの服を掴んだまま、かすれた声で囁いた。

「好き……」

ローエンの腕が、もう一度しっかりと背中を抱く。

「知ってる」

耳元で返されて、○○の肩が小さく震えた。

「まだ好きって言えるなら、もう少し貰ってやる」

その言葉に、胸の奥がまた甘く疼いた。
痛みは消えない。
弱さも、怖さも、苦しさも、きっと明日になればまた胸の奥で疼くだろう。

それでいい。
それは私のものだから。
それでも、愛だけはこの人に渡したかった。

暴かないまま、奪わないまま、痛いままの自分を愛してくれるこの人が、どうしようもなく愛おしかった。

— End —

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Sakuria
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