痛みを消したいと思ったことがない。
もちろん、痛くない方が楽だ。
怖くない方がいい。
胸の奥でずっと疼いている苦しさなんて、ない方がきっと生きやすい。
それでも、それを誰かに取り上げられたいとは思わなかった。
この痛みがあったから、ここまで歩いてこられた。
弱さがあったから、強くなろうと思えた。
怖さがあったから、明るく笑うことを覚えた。
だから、渡したくなかった。
痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、胸の奥でずっと疼いている苦しさも、全部。
それは、○○がここまで歩いてきた証だった。
明るく笑うための燃料だった。
地面を踏みしめて、空に指を突き立てて、たとえ月まで届かなくても歩いてやると虚勢を張るための、たったひとつの熱だった。
どれだけ強くなっても、痛みは消えない。
どれだけ上手く笑えるようになっても。
たくさん任務をこなして、仲間に頼られて、誰かの背中を守れるようになっても。
怖いものは怖い。
苦しいものは苦しい。
胸の奥にある弱いところは、いつまでも柔らかいまま、何かの拍子に簡単に傷つく。
それを、○○は知っていた。
だから、消そうとは思わなかった。
消えないものを消そうとして、手を伸ばして、届かなくて、みっともなく泣くくらいなら、最初から抱えて歩けばいい。
痛いままでいい。
怖いままでいい。
苦しいままでいい。
その全部を燃料にして、明るく笑っていればいい。
何も痛くない顔で。
何も怖くない顔で。
誰よりも前向きで、誰よりも健気で、誰よりも扱いやすい隊員の顔をして。
そうやって立っていれば、少なくとも、膝を折らずに済む。
誰かに縋るのは、怖かった。
助けてほしいと思わないわけではない。
大丈夫だと抱きしめられたい夜がないわけでもない。
もう頑張らなくていいと、優しく言われたら、きっと泣いてしまう。
泣いたら、終わりだと思っていた。
張りつめていた糸が切れる。
踏ん張っていた足から力が抜ける。
まだ立てるはずの膝が、勝手に折れそうになる。
優しさは、刃よりずっと危ない。
怒号なら聞き流せる。
失望なら、次で取り返せばいい。
痛みなら、耐えればいい。
けれど、優しさだけは駄目だった。
触れられた場所から力が抜ける。
息の仕方を思い出してしまう。
甘えたくなる。
預けたくなる。
ここまで抱えて歩いてきた痛みまで、誰かの手に渡してしまいそうになる。
それだけは嫌だった。
弱い私を見ないで。
暴かないで。
可哀想なものみたいに扱わないで。
その痛みを下ろしていいのだと、優しい顔で言わないで。
見てほしいのは、地面を踏みしめて立っている私だ。
痛みを抱えたまま笑う私。
怖いまま前へ出る私。
虚勢でも、見栄でも、仮面でも、それを選んで立っている私。
それが○○の誇りだった。
「まだ……やれる……」
夕暮れの訓練場で、○○はひとり呟いた。
返事をする相手はいない。
見ている者もいない。
それでも声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。
任務は終わっていた。
報告も済ませた。
隊の仲間には、いつも通り笑って別れた。
お疲れさまでした。
明日もよろしくお願いします。
今日は助かりました。
どれも本心だった。
仲間のことは好きだったし、任務が無事に終わったことにも安堵していた。
けれど、胸の奥に小さな棘が残っていた。
今日の任務で、一瞬だけ判断が遅れた。
誰かを危険に晒したわけではない。
大きな失敗でもない。
たぶん、周りは気づいていない。
けれど、○○は覚えている。
あの一瞬。
息が詰まったこと。
足が止まりかけたこと。
怖いと思ったこと。
怖かった。
認めた瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。
怖くないわけがなかった。
戦いはいつだって怖い。
刃の音も、敵の気配も、仲間の息が乱れる瞬間も、判断ひとつで誰かを失うかもしれない重さも、全部怖い。
それでも、怖いからといって誰かに縋るくらいなら、一人で立っていたかった。
怖いまま、立っていたかった。
その方が、まだ自分でいられる気がした。
「もう一回」
武器を構える。
地面を踏む。
靴底の下で、乾いた地面がざり、と鳴る。
夜が近づいて、空気は少し冷えていた。
汗で湿った背中に風が触れて、体温だけが奪われていく。
踏み込む。
避ける。
振り返る。
構える。
見えない敵を想定する。
次に同じ状況になった時、迷わないために。
怖さが喉を塞ぐより早く、体が動くように。
失敗を忘れたくなかった。
怖かったことを、なかったことにしたくなかった。
足が止まりかけた自分を、見なかったふりで済ませたくなかった。
それは、綺麗な欠片ではない。
情けなくて、悔しくて、できることなら誰にも見せたくない。
けれど、それでも確かに自分の一部だった。
なら、捨てるのではなく、研げばいい。
次に同じ場所で立ち止まらないための刃に変えればいい。
痛みは消えない。
怖さも消えない。
なら、抱えたまま動けるようになるしかない。
ローエンは、そういう人だった。
若くして副隊長になった人。
強くて、頼れて、戦場で迷わない人。
勝つためなら手段を選ばず、必要なら自分が正面から突っ込むこともできる人。
それでいて、仲間の動きも、敵の癖も、戦況の変化も見落とさない人。
ローエンが怖くない人間だなんて、○○は思っていない。
痛みを知らない人だとも思わない。
傷つかない人だとも、苦しまない人だとも思わない。
たぶん、あの人にも痛みはある。
けれどローエンは、その痛みを理由に止まらない。
怖さを理由に退かない。
苦しさを誰かに預けて、立つことをやめたりしない。
そう見えた。
だから、憧れた。
あの人みたいになりたかった。
月みたいな人だと思う。
遠くて、明るくて、こちらがどれだけ手を伸ばしても簡単には届かない。
けれど、夜の中で顔を上げる理由になる。
どうせ一度きりの最後の人生なら、月でも目指そうか。
そんな馬鹿みたいなことを本気で思わせるくらい、ローエンは○○にとって眩しかった。
あの人みたいに強くなりたい。
誰かの前に立ちたい。
痛みも怖さも抱えたまま、それでも勝つために最善を選べる人間になりたい。
羨ましかった。
その強さが。
その余裕が。
誰かに頼られることを当然みたいに背負える背中が。
そして、羨ましいと思うたびに、胸の奥が熱くなる。
憧れだけではなかった。
認められたい。
見てほしい。
あの人の視界に入りたい。
あの人の隣に立てる自分でいたい。
それだけなら、まだ憧れで済んだ。
でも本当は、もっと別の欲があった。
触れたかった。
名前を呼びたかった。
好きだと言いたかった。
愛したかった。
けれど、そんなものは戦場に持ち込めない。
だから○○は、それも全部、胸の奥に押し込めた。
痛みと一緒に。
怖さと一緒に。
弱さと一緒に。
燃料にして、立つために。
「もう一回……」
息が切れる。
喉が痛い。
手のひらが熱い。
それでも、構え直した。
その時だった。
「いつまでやってんだ」
背後から声がした。
少し呆れたような声。
聞き間違えるはずがなかった。
○○は振り返る。
訓練場の入口に、ローエンが立っていた。
「ローエンさん」
声が明るくなる。
反射だった。
痛みも、怖さも、焦りも、全部笑顔の下に押し込めて、○○はいつもの顔を作る。
何も痛くない顔。
何も怖くない顔。
好きで好きでたまらない人の前で、それでもちゃんと立っている顔。
「迎えに来てみりゃ、これか」
ローエンはゆっくり近づいてくる。
革手袋の擦れる音が、夜の訓練場でやけに近く聞こえた。
その音を聞くだけで、背筋が伸びる。
警戒ではなく、期待だった。
緊張ではなく、嬉しさだった。
それが悔しくて、○○は余計に笑う。
「自主練です」
「見りゃわかる」
「もう少しだけ」
「駄目だ」
早かった。
あまりに迷いのない却下に、○○は言葉を詰まらせる。
「でも」
「でもじゃねぇ。任務後にその状態で詰めても、動きが雑になるだけだ」
「まだ動けます」
「動けるのと、まともに動けるのは違う」
ローエンは○○の前で足を止めた。
近い。
汗で冷えた体に、彼の体温だけが妙にはっきりわかる。
○○は笑顔を崩さないまま、武器を握る手に力を込めた。
ローエンの視線が、その手に落ちる。
「手、開け」
「大丈夫です」
「開け」
命令だった。
○○は観念して、手を開く。
手のひらは赤くなっていた。
ところどころ皮が擦れている。
大した怪我ではない。
痛みも、我慢できる程度だ。
ローエンはその手のひらを一瞥した。
「飯は」
「まだです」
「風呂は」
「まだです」
「寝る準備は」
「まだです」
「自主練してる場合か」
「……すみません」
「謝れとは言ってねぇ」
ローエンは、こちらの強がりなど最初から織り込み済みだという顔で、淡々と言った。
「強がるなら強がり切れ。途中でへばって、明日に響かせるな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
無理するな、ではなかった。
頑張らなくていい、でもなかった。
弱いところを見せろ、とも言わなかった。
ローエンは、○○の仮面を剥がさない。
強がることを許してくれる。
その代わり、強がり方を間違えるなと言う。
痛みを奪わない。
弱さを暴かない。
怖さを可哀想なものにしない。
ただ、立ち方を間違えるなと言う。
だから、好きだった。
「……はい」
「返事が小せぇな」
「はい!」
いつもの声で返すと、ローエンは満足したように笑った。
その笑みに、胸の奥に押し込めたはずの愛が、また少しだけ溢れそうになる。
好き。
言いそうになって、飲み込んだ。
ここは訓練場だ。
まだ、外だ。
恋人になったからといって、どこででも甘えていいわけじゃない。
ここではちゃんと立っていたい。
ローエンに憧れる隊員として。
強くなりたい女として。
痛みを抱えたまま笑っていられる自分として。
「よろしい。飯食って、風呂入って、それから俺の部屋に来い」
心臓が跳ねた。
訓練場の冷えた空気の中で、そこだけ急に熱を持つ。
「……部屋、ですか」
「他にどこがある」
「いえ」
○○は武器を下ろした。
さっきまで動き続けていた体が、急に自分のものではないみたいにぎこちなくなる。
ローエンは気づいているのか、いないのか。
いや、たぶん気づいている。
そのうえで、何でもない顔をして背を向けた。
「遅くなるなよ」
「はい」
「あと」
ローエンは歩き出しかけた足を止め、肩越しに言った。
「今日はもう訓練場に戻るな」
「……はい」
「いい子だ」
それだけ言って、ローエンは歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、○○はその場に立っていた。
いい子。
たったそれだけの言葉で、胸の奥がいっぱいになる。
痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、苦しさも、誰にも渡さない。
けれど。
ローエンに向かうこの気持ちだけは、いつも手の中に収まりきらなかった。
湯を浴びて、食事を済ませて、髪を乾かして。
やるべきことを全部終えてから、○○はローエンの部屋へ向かった。
廊下は静かだった。
夜の石床は冷えていて、歩くたびに足音が小さく響く。
さっきまで訓練場にいた自分とは違う。
汗も、砂埃も、手のひらの熱も、もう表には残っていない。
いつものように整えた。
明るく笑える顔に戻した。
それでも、胸の奥だけは落ち着かなかった。
扉の前で立ち止まる。
一度だけ息を吸って、吐く。
それから扉を叩いた。
「入れ」
短い返事が、扉越しに届いた。
○○は扉を開けた。
部屋の中には、ランプの柔らかい灯りが落ちていた。
机の上には書類が積まれ、壁際には手入れされた武器が並んでいる。
窓は少しだけ開いていて、夜気が薄く流れ込んでいた。
ローエンは椅子に座っていた。
外してあった革手袋は、机の端に無造作に置かれている。
片手には書類。
もう片方の手は、椅子の肘掛けに軽く預けられていた。
「来たか」
「はい」
○○はいつものように笑った。
大丈夫な顔。
何も痛くない顔。
何も怖くない顔。
ローエンはそれを見て、少しだけ目を細める。
それから、読んでいた書類を机に置いた。
「立ってんな」
「え?」
「こっち来い」
そう言って、ローエンは椅子から立ち上がった。
部屋の奥へ歩いていき、寝台の端に腰を下ろす。
あまりに自然な動きだった。
まるで最初から、○○がここに来ることも、そこで立ち尽くすことも、全部わかっていたみたいに。
「来い」
その一言で、胸の奥が揺れた。
命令みたいで、許可みたいな声だった。
○○はすぐには動けなかった。
一歩近づく。
もう一歩近づく。
寝台の前で足を止める。
座っているローエンの方が少し低い位置にいるのに、なぜか逃げ場を塞がれているような気がした。
ローエンは逃げなかった。
拒まなかった。
ただ、そこにいてくれた。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
「……好きって言ってもいいですか」
ローエンの片眉が上がる。
「聞くのか」
「聞きます」
「今さらだろ」
ローエンはしばらく○○を見ていた。
仮面の下を見透かしているくせに、剥がそうとはしない目だった。
やがて、短く息を吐く。
「好きにしろ」
許可だった。
その瞬間、○○の中で何かがほどけた。
でも、飛びつくことはできなかった。
ゆっくり近づいて、そっと手を伸ばす。
指先がローエンの服に触れる。
洗いざらしの布の匂いと、肌に残った湯の気配。
それから、ほんの少しだけ薬草のような匂いがした。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「……好きです」
こぼれた声は、自分でも驚くほど甘かった。
ローエンは何も言わない。
だから○○は、もう少しだけ近づく。
「好き」
両手で服を掴む。
「ローエンさん、好きです」
身を屈めるようにして、額をローエンの肩口へ預ける。
「ずっと、ずっと好きです」
「……ずっと?」
呆れたような声が近くで聞こえる。
けれど、ローエンの手は○○を押し返さなかった。
「はい。ずっとです」
「随分でかく出たな」
「だって、止まらないんです」
言ってから、○○は恥ずかしくなって少しだけ俯いた。
好きだと言えば、少しは楽になると思っていた。
けれど違った。
口にすればするほど、胸の奥にあるものは形を変えて溢れてくる。
減らない。
薄まらない。
触れるほど、近づくほど、もっと好きになる。
「好きが、止まらないんです」
ローエンがくつくつと笑った。
からかうようで、けれどどこか満足そうな声だった。
「……ほんと、お前は」
「はい」
「俺のこと好きだな」
その言い方が、ひどく意地悪だった。
わかりきっているくせに。
自分がどんな目で見られているのか、どんな声で名前を呼ばれているのか、全部わかっているくせに。
それでもあえて言わせようとする。
○○はローエンの肩口に頬を寄せたまま、小さく頷いた。
「好きです」
「知ってる」
「もっと知ってください」
その返事に、ローエンの腕がわずかに動いた。
腰を抱く力が、ほんの少しだけ強くなる。
拒むためではなく、逃がさないための力だった。
「言うようになったじゃねぇか」
「ローエンさんが、言っていいって言ったから」
「好きにしろとは言ったが、そんな顔まで見せていいのか」
○○は顔を上げた。
ローエンを見つめる目は、とろりと甘く緩んでいた。
外で笑っている時の、綺麗に整えた顔ではない。
強がりでも、健気さでも、扱いやすい隊員の顔でもない。
ただ、好きな人を愛したくてたまらない顔だった。
ローエンはその顔を見て、少しだけ目を細める。
「……悪くねぇな」
「何がですか」
「その顔」
○○は一瞬で頬を熱くした。
「見ないでください」
「無理だな。見せてんのはお前だろ」
「……好きだからです」
「そうかよ」
ローエンのその笑い方があまりに余裕で、あまりに近くて、○○は胸の奥がまたいっぱいになる。
痛みは、自分のものだ。
弱さも、怖さも、胸の奥でずっと疼いている苦しさも、誰にも渡さない。
ローエンにも渡さない。
差し出さない。
預けない。
可哀想なものみたいに扱わせない。
でも、ローエンはきっと知っている。
○○が明るく笑う時、ほんの少しだけ息を詰めること。
大丈夫ですと答える声が、時々明るすぎること。
痛くないふりをする時ほど、笑顔が綺麗に作れてしまうこと。
知っているくせに、暴かない。
弱さを差し出せとは言わない。
痛みを預けろとも言わない。
優しい言葉で○○の膝を折ろうともしない。
奪わないでいてくれる。
だから、好きだった。
「ローエンさん」
「なんだ」
「キスしてもいいですか」
ローエンは少しだけ目を細めた。
「それも聞くのか」
「聞きます」
「さっきから律儀だな」
「……嫌だったら、困るので」
「嫌ならここまで近づけねぇよ」
返事は、吐息が触れそうな距離で聞こえた。
それでも○○は、ローエンの服を掴んだまま、じっと彼を見上げていた。
許可がほしい。
拒まれないとわかっていても、欲しかった。
触れていいと、好きだと言っていいと、愛していいと、ローエンの口から聞きたかった。
ローエンは呆れたように息を吐く。
「好きにしろ」
その言葉を待っていた。
○○は背伸びをして、自分から口づけた。
最初は触れるだけだった。
そっと唇を重ねて、すぐに離れる。
けれど、離れた瞬間に足りないと思った。
「好き」
もう一度、触れる。
「ローエンさん、好き」
また重ねる。
「好きです」
何度も。
何度も。
言葉の合間に、キスを落とす。
キスの合間に、好きと囁く。
ローエンは拒まなかった。
腰に回した腕で○○を支えたまま、好きなだけさせている。
受け止められている。
許されている。
そう思うほど、○○の胸の奥から愛が溢れて止まらなくなった。
「好き」
「大好き」
「ローエンさん、好き」
「……好きです」
「わかった。わかったから」
「まだです」
「何が」
「まだ、言い足りないです」
ローエンが、喉の奥で小さく笑った。
その笑い声が唇に触れるほど近くて、○○はまた胸が熱くなる。
もう一度キスをしようと顔を寄せた時、ローエンがほんの少しだけ口を開いた。
誘われたのだと、遅れて気づいた。
心臓が跳ねる。
○○は一瞬だけ固まった。
けれどローエンは何も言わない。
ただ、逃げずにそこにいて、○○がどうするのかを待っている。
触れていい。
踏み込んでいい。
それでも主導権は、こちらにあるようで、きっと最初からローエンの手の中にある。
○○はおずおずと、もう一度唇を重ねた。
薄く開いた隙間に、たどたどしく舌を差し入れる。
「んっ……」
自分の声に驚いた。
恥ずかしくて離れかける。
けれど、ローエンの手が腰に添えられ、逃げる前に引き留められた。
強くはない。
けれど、逃がさない力だった。
○○は目を伏せたまま、もう一度舌を伸ばす。
どうすればいいのかわからない。
それでも、もっと触れたかった。
もっと好きだと伝えたかった。
「ん……っ」
唇の奥で、吐息が震える。
ローエンは動かない。
いや、動かないふりをしているだけだった。
○○が迷えば、逃げ道を塞ぐように腰を支える。
深くなりすぎる前に、ほんの少し角度を変える。
息が苦しくなる頃には、わずかに唇を緩める。
全部、ローエンが許している。
○○が自分からしているのに、ローエンに導かれている。
そのことが、どうしようもなく甘かった。
「ローエンさん……」
唇が離れた隙間で名前を呼ぶと、ローエンの目が細くなる。
「何だ」
「好きです」
「知ってる」
「もっと、したいです」
言ってから、顔が熱くなった。
けれど、撤回はしなかった。
したくなかった。
ローエンは一瞬だけ黙る。
それから、意地悪く笑った。
「愛し方は遠慮ねぇな、本当に」
「……だめですか」
「誰が駄目って言った」
その返事だけで、また胸がいっぱいになる。
○○はローエンの首元に腕を回し、もう一度キスをした。
今度は少しだけ深く。
それでもやっぱり不器用で、たどたどしくて、途中で息が乱れる。
「んっ……ん……」
好き。
好き。
好き。
言葉にできない分まで、唇で伝えたかった。
ローエンはそれを受けている。
逃げずに、拒まずに、むしろ○○が溺れすぎないぎりぎりのところで支えている。
愛を渡しているのは○○なのに、受け取り方を決めているのはローエンだった。
それが悔しいくらい心地よくて、○○はまた彼にすり寄る。
「好きです」
「まだ言うのか」
「言います」
「だろうな」
ローエンは、少しだけ楽しそうに笑った。
その顔がずるかった。
自分がどれだけ愛されているのかを知っていて、それを拒む気もなく、ただ当然のように受け取っている顔だった。
「そんな顔して見上げてくる奴を、今さら止められるかよ」
「……どんな顔ですか」
「俺のことが大好きって顔」
○○は息を詰めた。
否定したかった。
けれどできなかった。
その通りだったから。
「……嫌ですか」
「嫌なら、こんなことさせねぇよ」
ローエンは答える代わりに、軽く唇を触れさせた。
それだけで、○○の目元がとろりと緩む。
「好き」
返事の代わりにそう囁いて、もう一度キスをした。
今度はもう、最初ほど迷わなかった。
ローエンが開けてくれた隙間に、たどたどしく入り込む。
触れて、探って、すぐにわからなくなって、またローエンの呼吸に導かれる。
「ん……っ、ん」
喉の奥で声が揺れる。
恥ずかしい。
けれど、止めたくない。
好きだった。
好きで、好きで、どうしようもなかった。
痛みは渡さない。
弱さも渡さない。
怖さも、苦しさも、胸の奥で疼くものも、全部自分のものだ。
けれど、この愛だけは違う。
ローエンに触れるたび、溢れてしまう。
渡したくなる。
受け取ってほしくなる。
何度目かのキスのあと、○○は息を乱しながらローエンを見上げた。
「ローエンさん」
「今度は何だ」
「愛してます」
ローエンの呼吸が、一瞬だけ止まった。
それが嬉しくて、○○はまた頬をすり寄せる。
「愛してます」
「好きです」
「ローエンさんが、好き」
「いっぱい、好き」
ローエンは黙って聞いていた。
茶化さなかった。
逃げなかった。
ただ、その甘く蕩けた目をじっと見ていた。
○○が渡そうとしているものを、ひとつも落とさず受け取るみたいに。
やがて、ローエンの指が○○の顎に触れた。
「○○」
名前を呼ばれて、○○は素直に顔を上げる。
「はい」
「舌、出せ」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
遅れて理解した瞬間、顔が熱くなる。
けれど、ローエンの目が逸らさせてくれなかった。
命令みたいで。
許可みたいで。
それ以上に、全部を受け取ってやると言われているみたいだった。
○○は少しだけ迷って、それからおずおずと舌を出した。
「……っ」
次の瞬間、ローエンがそれを口で捕まえた。
じゅ、と吸われる。
ただそれだけで、腰から力が抜けそうになった。
「んっ……!」
声が跳ねる。
指先がローエンの服を掴む。
逃げたいのか、もっと近づきたいのか、自分でもわからなかった。
ローエンは逃がさない。
舌先を吸って、離して、また軽く噛むように触れる。
たどたどしく差し出された愛を、今度はローエンの方から奪うみたいに受け取っていく。
○○の膝が揺れた。
「ろーえん、さん……」
名前は最後まで言えなかった。
ローエンが深く口づけてきたから。
今度は、さっきまでとは違った。
○○が探る必要はなかった。
迷う暇もなかった。
ローエンの舌が入り込んできて、さっき自分がした拙いキスをなぞるように、けれど比べものにならないほど深く絡め取っていく。
「んっ、ん……!」
息が乱れる。
背中が震える。
足元が頼りなくなる。
それでもローエンの腕が支えていた。
逃がさない。
崩れさせない。
けれど立っていられないほどに甘くする。
そんな力だった。
○○は必死に応えようとした。
けれど、さっきまで自分から渡していたはずの愛が、今度はローエンに引き出されていく。
好き。
好き。
好き。
言葉にならない。
唇の奥で、吐息だけが甘く震える。
ようやく離された時、○○はローエンの胸元に額を押しつけるしかできなかった。
膝に力が入らない。
息が整わない。
目の奥が熱くて、世界が少し滲んでいる。
「支えてなきゃ、そのまま崩れそうだな」
胸元に額を押しつけたまま、その声を聞いた。
近すぎて、逃げ場がなかった。
○○は答えようとして、息だけが漏れた。
「……っ、力、入らないです」
その返事に、ローエンが喉の奥で笑った。
「だろうな」
悔しいのに、嬉しかった。
好きだと渡したものを、ちゃんと受け取られた。
それどころか、返されて、深くされて、立っていられないほどに満たされた。
○○はローエンの服を掴んだまま、かすれた声で囁いた。
「好き……」
ローエンの腕が、もう一度しっかりと背中を抱く。
「知ってる」
耳元で返されて、○○の肩が小さく震えた。
「まだ好きって言えるなら、もう少し貰ってやる」
その言葉に、胸の奥がまた甘く疼いた。
痛みは消えない。
弱さも、怖さも、苦しさも、きっと明日になればまた胸の奥で疼くだろう。
それでいい。
それは私のものだから。
それでも、愛だけはこの人に渡したかった。
暴かないまま、奪わないまま、痛いままの自分を愛してくれるこの人が、どうしようもなく愛おしかった。























