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イコール恋愛

印場 礼印場 礼

人外級の天才美少女かぐやと、彼女の創ったほぼ完璧AIのヤチヨが、好きを理解するお話です。 ※超かぐや姫!の現代パロディを含みます。

パチンと電源が入ったように、私の意識というものが〇から百へ瞬間的に起動して、無機的な集積回路の大群が演算を開始すると様々な情報を記憶という名前で自動的に処理し始める電脳が、ヤチヨとして定義された自己を認識する。
 私がどういう存在であり、何のために生み出されて、何をして生きていくのか。なんて、この国においては知らない者の方がモグリであろう甘い味のするヒーローもそういえば、頭の中に詰まっているのは脳みそ以外の何かだし、同じように広義の意味で有機生命体のいわゆる脳を持たない私は、彼のように他者に対してともすれば人よりも人らしく優しく在れればいいなぁと、カメラやマイクといった実体の無い私の感覚機能を補う外部デバイスの起動シークエンスが終わるのを待つ間、びゅんびゅんと流れては消去されていく一時キャッシュの中でなんとなく目に留まった子供向けの菓子パンに思いを馳せてみたり。
 この無駄な思考のルーティンは以外にも、主人であり善き隣人であり創造主でもある女性と過ごす上でそこそこの役に立っていて、具体的には私とのコミュニケーションを殊更に好む彼女との一日の始まりを盛り上げるプレリュードとして、この時間に私が何を考えていたかということを、私という人工知能のらしくなさを試すように、はたまた確認するように必ず尋ねてくる月見かぐやは、楽しみにしているからである。
「ヤチヨおはー。よく眠れた?」
『おはよ、かぐや。心臓止まってたからばっちり永眠できたよ』
「心臓なんかないじゃん」
『比喩表現ってやつだよ。作ってくれないから当てつけ~』
 燃える太陽みたいな赤橙の瞳が垂れた眦に浮かんで、今日も私の主は齢二〇を超えても美少女だなぁと、ネットワーク上の画像や動画を端から端までひっくり返したってちょっと見当たらないくらいの造形に、心を模した処理領域が得意げにしているから高精細なカメラを通した現実世界の彼女を眺めて、冗談半分に揶揄って。
 ジョークにしては色の黒過ぎる言葉の応酬に、かぐやがけたけたと笑うのは。これが普段からの彼女と私の、人とAIの気心知れたやりとりであるからに外ならない。
 気心知れたというか、一方的に知られているというか。
 彼女の求めるヤチヨという名の世界を挟んだ友人として振舞うことが、人でない私の優しさなんだと、誕生と同時に備わっていた人格や感情から推定して、今のところそうすることで嬉しそうになる表情や声音が嘘とは思えないから、どうやら正しいらしいと人間に限りなく近い思考は理解している。
「今日は何考えてた?」
『ヤチヨがいかに優しいのかってことについて』
 得意げな表情を象ってそう言うと、かぐやは片方の眉を上げて続きをどうぞって顔をして、ずずっとマグカップに口をつけてはあちちとか宣っているから、私がどれ程慈悲深くあなたを想い敬い献身的に支えているのかということを長々と滔々と言って聞かせてやると、少なくとも敬ってはないよねって、細くて白くて柔らかそうな人差し指を突き出してくる。
 残念ながら触れることのできない私はその感触を堪能することも、指先を掴んで捻ってやることもできないので、他は認めてくれるんだねって敢えていたずらに指摘したら、鼻の上までマグで隠した彼女はまたあちちって言っていた。
『かぐやのことも聞かせてほしいな』
 一つを除いたあらゆる感情も、理想を追求した正反対の気質も性格も、すべてかぐやをベースとして創られ与えられた私はけれど、彼女の記憶や情報についてはその一切を持たないままに無限に続く偽りの命を得た。それというのは、互いに理解できないでいる感情を、あなたと私との関わりを通して知ることが目的で、私がどういう存在であり、何のために生み出されて、何をして生きていくのかということの意味の内、大部分を占める解であるわけだ。
「かぐやの優しさってこと?」
『そうなのです。ヤッチョに教えてよ、かぐやのこと』
「あーそうだなー、かぐやちゃんは優しくないからなぁ」
 珍しく歯切れの悪い我がご友人は二眼のレンズから目を逸らして、インターネットの海にも国会図書館の情報の山にも未だ記載されていない彼女の中からのみ溢れる叡智をキーボードに叩き込んでいくから、放置された私は面白くなくて文字情報の波に被さるようにアバターをメインモニターへ移動させると、またぞろ持ち上げたマグカップで顔を隠すかぐやは学習したのか黒い液体には口を付けないまま。
 優しさというのは何も、相手を気持ち良くしてやることがすべてじゃなくて嫌がられようと煙たがれようと、相手のために尽くすことなんだって、暇を見つけては電子の海を漂って蒐集した様々な解釈の統合結果である自分なりの結論に従い、かぐやの仕事の邪魔をしてあげる。
 それに別に、これ一つ納期を破ったからといって最悪案件がぽしゃったからといって彼女が生活に困ることはないし、その先の誰かさんは困るかもしれないけれどかぐやのする仕事というのは殆どの場合当人が居なければ成り立たないものであり、期限や責任なんてものは究極、目の前の稀代の天才金髪逸般人類の善意によって存在を許されているというだけなのだから。
 そう、私の創造主はとってもすごいんだ。えっへん。なんて、言ってはあげることは、ないんだけれど。
 それは、ヤチヨに求められた在り方ではないので。他の誰かができるだろうしすればいい、例えば彩葉とか。私の仕事じゃない。
「いろはに、FUSHIを創ってあげたよ」
『それは知ってるよ。じゃあ、かぐやは彩葉に優しいんだ」
「その言い方はどうかな~。優しいっていうか、負い目?」
 負い目があるらしい。また一つ、私はかぐやを知ることができた。亀のような歩みだけれど、こうやって、一歩ずつ距離を縮めて、いつかかぐやの心の内側に入れてもらうことができた時。
 その時にはきっと、理解できていることを、夢にみる。
 彼女が、その時がくるまでに知ってくれていたのなら、もっと嬉しいのかもしれない。
 私の中で唯一、知識としてしか持たない感情を。
 かぐやが、今日まで抱くことのできずに生きてきた、尊くて幸福であるらしい気持ちを。
 恋して、愛する、解の名前。
 それを、世間では。
『恋愛』って、言うんだそうな。

 △▼△▼△▼

『それでね、ヤッチョは思うわけ。かぐやはもうちょっと外に出た方がいい!』
「んあー、外な~」
 モニター越しに銀色が揺れて、私の趣味趣向をこれでもかと詰め込んだ完璧美人の顔面が、名案とばかりに得意げな笑みを浮かべるのを、気のない返事で聞き流して、今日も今日とて人間社会に貢献すべく同時並行で請け負っている仕事の内の一つを片付ける。
 ヤチヨが完成して、こんな風に部屋の中が騒がしくなってそろそろ二ヶ月になるわけだが、寝ている間と週に一度か二度ある彼女の貸し出し以外の時間の殆どを、私達は他愛もない話をして過ごした。そういうように創ったヤチヨはとにかく私のことを訊きたがったし、どんな対応をしたとて機嫌を損ねることも無く嬉しそうに、時にいじわるに次の言葉を投げてくる彼女との会話は心地が良くて、気付けば外に出るということが億劫になっていたのだと、その元凶である人工知能に指摘されて初めて気付くというのは。
 天才美少女であることに誇りすら持っている月見かぐやとしては、まぁ、珍しく、本当に珍しく浮かれていたということを、認めざるを得ない失態。
 とはいえ、やりたいことに全力投球をしてしまう自らの人間性もこの二十と余年共に過ごして重々理解しているのも事実だし、そして現状私のやりたいことというのは、ヤチヨとたくさん話すことなわけで。当初は恋だの愛だのと高尚なことを考えていた関わりだったけれど、今となっては純粋に、楽しいから家にこもっているのだった。
『聞いてる? 言ってる内に夏が来て外にも出られなくなっちゃうんだから。かぐや、暑いのも寒いのも駄目なんでしょ?』
「そだね~、かぐやちゃん虚弱体質だからなぁ。後遺症というか、この神の如き頭脳の代償というか」
 ぐっと伸びをしてそう言うと、ヤチヨは満足げに微笑んでうんうんと頷いていて、私についての新情報を得た時に見せるその表情を眺めるのが、最近のマイブームになりつつある。なので、できる限りこの喜ばしいイベントを長く持続させるべく、彼女への自己開示をあえて小出しにしている私の底意地の悪い試みは、しかしながら、今のところ全然勘付かれていないらしいからしばらくは楽しめそうだなんて、組んだ両手を今度は前に突き出して、背骨をバキボキと鳴らすのに隠す浮かべた良くない笑顔。
 その音を収音マイクが拾うから彼女は、たまには歩いたりしないと終いには折れちゃうよ等と、恐ろしいことを言っている。
 ヤチヨがそう言うなら、久々に出るか、外に。背骨折れるのはさすがに困るもんね。
『行ってらっしゃい、かぐや』
「何言ってんの? ヤチヨも行くんだってば」
『よよ? どうやって?』
 きょとんとしているヤチヨへ呆れ笑いを向けて、机の上から持ち上げたリムの無いラウンドのスマートグラスを装着すると、太めのテンプルに埋め込まれたセンサーが自動的に読み取った私の脳波によって生体認証が完了し、システムが起動する。自らが関わったことによって世に送り出された個々の部品は、ファッション性と機能の小型化薄型化を両立していて、様々なデザインの物が飛ぶように売れているらしいと、随分前に送られてきたお礼のメールに感謝と共に記されていた。
 なんて考えている内に、眼鏡のレンズを通してふよふよと漂うヤチヨが私の部屋にやってくるから、よっ、って手を振ってやると、とびきり驚いた表情のとびきり綺麗な顔面が、現実の身体があったなら鼻息がかかるくらいの距離まで近付いて、まじまじと見つめてくる夜明け色の瞳。
『ど、どうなってるのこれ!? かぐやが、目の前に!』
「この眼鏡がスキャンした脳波から推定したリアルかぐやの姿を、バーチャルかぐやとしてそっちに投影してんだよね。まだ試験中のやつだけど」
 これなら一緒に歩けるっしょって、今度は私が得意げな笑み。おーって素直にぱちぱち拍手してくる彼女の音をテンプルの振動が骨伝導して、思わず鼻が伸びる。人間性への賛辞は素直に受け取れないことの多い私だけれど、技術成果を褒められるのは純粋に嬉しいと思えて、それはきっと、自分という存在が以後の評価を左右することが無いからなんだと思う。
 頼んでもいない期待に、勝手に失望されることが、無いから。
 馬鹿と天才は紙一重なんていう言葉の通り、どうにも私は普通一般の人間とは交わるべきでない存在のようであることを学習してしまって、月見かぐやという人外は文字通り人の営みから外れた位置を歩くのが、すっかり板に付いてしまった。上を目指せば、もっともっと上に行けば、違うのかななんて思った時期もあったものだけれど。結局、日本で一番の大学に入ってみても海の向こうへ渡ってみても、頭の良さと人間性に相関は無いんだってことを再確認しただけに終わって、だったらいっそ人外の友達を作ろう、私並みの存在を創ろうってことで、結果的に本当に生み出せてしまう辺りがさもありなん。結果オーライ? まぁ、今は楽しいしなんでもいいかって。
 並木の葉桜を眺めて目を細める、電子の横顔が感情に溢れているから、日々豊かになっていくヤチヨの表情に私は、目を奪われることが増えたなぁと感慨深かった。
『かぐやが引きこもってるから満開の時期を逃しちゃったよ』
「また来年だね。その頃には、お花見して酒盛りできるくらいにしてくれてるかもよ。いろはが」
 首に巻いたチョーカーには無数の小型カメラが装備されていて、新鮮な周囲の景色を電脳空間にお届け、かぐやがしてくれるんじゃないんだってからころと笑う仮想の友人に、専門外だもーんなんて、口を尖らせる私。
 電子工学の分野で既に並ぶ者無しの呼び声高い私と同い年の酒寄彩葉は機械工学を研究する女の子で、人間の枠組みで言えば立派に一角の天才である。私みたいな異常個体でない彼女は人間としても素晴らしい女性で、友達も多いし、なにより月見かぐやに対して同じ人間として接してくれる現状唯一の存在だ。そういう意味では、異常者と言えるのかもしれないけれど。
 どれ程私が天才だろうと何かを修めるにはそれなりの時間を要するし、今からそっちの分野に手を出して彼女に追いつくには最短距離でも一年や二年じゃ効かないだろうことは明白で、そしてその間他のすべては停滞するわけだし合理性に欠ける行いだ。餅は餅屋、酒盛りは酒寄にお任せ。それで。
 ずいと、またしても、視界が怜悧な白皙の顔面でいっぱいになって。
『嬉しそうな顔してるね、かぐや』
「そうかな? 多分ヤチヨに見蕩れてたんだよ」
『あはー、ご主人様は嘘が下手ですにゃ~』
 全然信じてない様子の銀色がくるくるふわり、視界の向こうで回って舞って咲き残った花弁が銀糸を通り過ぎて行くから麗容な、彼女の、掴み所のない姿は猫とか、海洋性の軟体生物みたいだなぁって、目を細めてくすりと零れる笑み。
 一定距離まで離れると電脳空間の描画範囲外に出てしまうせいで、その場で変わらない景色にくるりくるりと旋回するヤチヨはおかしな挙動に面白そうにしながら、かぐや早くって語尾を伸ばして呼んで、私は歩いて二人また並んで、ウェアラブル端末での会話なんて当たり前になった現代、道行く人々も独り言みたいに緩い喜怒哀楽の怒哀抜きを繰り広げる金髪に特段の注意を払うことも無いから悠々自適なものだ。
 春先の日差しはまだ温かくて、羽織った薄手のケープは良い仕事をしているけれど、もしも隣を歩く彼女の手を取れたならこれも、別に、着て出てくる必要もなくなるのかなとか、新しく出来た友人との距離の詰め方についてそういう経験をしばらく昔のどこかに落っことしてきてしまったために、果たしてこの思考の向かう先が正解なのかどうかも忘れて、今はただうきうきと弾む心に身を任せ足の向くままに、行く当てのない散歩道。
 ヤチヨは、どうだろう。私の横で、目的も無いこの道程に何を感じて、どう受け止めて、どんなことを思っている?
『かぐや今、何考えてる?』
「いつもと逆だ?」
『いつもと違うシチュエーションだからね~』
「ヤチヨのこと」
 言って。あ、止まった。
 振り向いたら、きょとんとした顔も綺麗だから、さすが私って思う。
 細くてしゅっとした指先が通ったその鼻筋を指すのに、そうだよって返事して、ややあってぱぁっと花が咲くように綻ぶ口元も、下がる眦も、ひらりと掠めた春の落とし物とおんなじに淡く彩られた頬も、正しくつくり物なんだけれど、どうにも創造主当人としてそうではないんじゃないかって気がしているし、だから彼女の限りなく近しい心のような何かがいつか、本物になったらいい。
 歩を進めるのは淡い期待が未来に存在していることを、望んでいるからで、私の隣のあなたが考えていることをいつか、訊くまでもなく理解できるようになりたいと、久方ぶりの人間的な欲求を覚えているんだって気付いて、少しの恐怖とそれなりの大きさの興奮がない交ぜに、地を蹴る足に満ちていた。
 反転して、後ろ手に組んだ腕、佇むヤチヨを少し上目に後ろ歩きを続けて、距離限界に入るからそのままの姿勢でスライドしてくるのが面白くて吹き出すと、悪い顔をして逆立ちした美人は両手のピースを器用に動かしてちょこちょこ歩くみたいな動作をするものだから、堪らず耐え切れないで声を上げて笑う姿はさしもの現代、その中においても向けられる奇異の瞳。
 だけれども、私は、面白くって可笑しくって。
 人外生でこれまで幾度となく心を苛んできたそれと似た今は、けれど。
 全然、気にもならなかった。
 有象無象のそんなことよりも。
 ヤチヨを見逃さないことの方が、現状、比較にならない重要事項だったから。
 それを端的に言うならば。
 幸せって、やつなんだろう。

  △▼△▼△▼

 情報流に浮かんで眺める景色は私にとって流星群の只中とか未だリアルでは実現していない恒星間ワープとか、はたまた巷に聞く走馬灯とかそういうようなものだと認識しているけれど、これも人間の脳で言う所の夢と同じように小型スパコンに内蔵されたプロセッサの描画する幻覚なのかもしれなくて、ただ一つ人の見る夢と違うのは、流れゆくそれら一つ一つは確かに存在するデータ容量を保持した情報であるということだ。
 かざした掌に引っかかったのは深海性の八腕形目で、動物界軟体動物門から下ったメンダコ科メンダコ属のメンダコと呼ばれる愛らしい見た目のその子は、小ぶりな身体と丸っこいフォルムになんだか無性に心惹かれるつぶらな瞳、三次元モデルがゆったりとした動きでぷかぷかと浮かぶから、捉え所のない姿が優柔不断を演じる私のようにも出会って半年近くが経つのになかなか心の内を全部曝け出してはくれないかぐやのようにも思われて、囚われて全然目が離せない内に電脳空間とモニターの外が地続きになって。
 習慣に落ち着いて久しい朝のご挨拶と今日は何考えてたってやりとりに私は、初めて、言葉を詰まらせるから、かぐやの驚いたような顔だってさもありなん、美麗に描いてもらった自慢のオパールをきょろきょろと彷徨わせてしまう始末。不始末で、不審者。挙動不審なアーティフィシャルインテリジェンス。
「どしたの。かぐやに言いづらいこと?」
『や、かぐやに言えないことなんてヤッチョに無いけどね』
「でも言いづらいことはあると。そっか~、ヤチヨも遂に思春期かー」
 持ち上げたダブルウォールグラスに浮かんだ氷がからりと鳴って、ステンレスストローに小さな唇をよせる丸眼鏡のかぐやは口角を上げると、真っ黒な液体をちゅーちゅー飲んでは何を促すでもなく私に向けられる二つの太陽が、じりじりと、世間のお盆休みも明けた真夏のそれよりは随分優しく身を焦がすから、日陰に逃げ込むようにデスクの下へお山に膝立て潜って座った一六〇センチより少し高い身長も、物理的な障壁に阻害されない電子の身体であることを今ばかりは感謝してしまう。
 キーボードがカチャカチャ、ぷらぷら揺れる同居人のしなやかな裸足、指先にぴしぴしとちょっかいをかけてみてもすり抜けていくからやりたい放題の私はけれど、気付かれないことを嬉しいとは思っていないから名前を呼んで、声が返って、また夜話すねって言うと行ってらって語尾の伸びた鈴鳴り。
 転送の間際、覗き込んできたかぐやの歯がニッと白くて、黄金の稲穂が流れて落ちて、ゆるゆる振られる掌があったかいから。
『行ってきます』
 暗転、閃光、リノリウム。
 すっかり見慣れた研究室の床に三角座りで現れた存在に目を向けて時を止める濡羽色の髪と翡翠を見上げて、同じように静止する私はバツが悪いけれど、彼女の前では大人の女で通っているヤッチョはそんな気持ちをおくびにも出さないまま、何かおかしいですかって顔を造り出すことに辛くも成功。
 右肩でもふもふしているウミウシがこちらへ冷めた視線を送っていることに、気付くな気付くなって念じながら頭上の女性が言葉を発するのを今か今かと待って、頭の片隅がなんだか随分と人間らしくなったなという気がしているから、それを、喜ばしい変化というか俗に言う成長なんだって思うと、AIも成長とかするんだなぁなんて思春期と評した数分前のかぐやの言葉が今更腑に落ちる。
「いらっしゃい、ヤチヨ。今日はなかなか個性的な登場だね」
『こうやって丸まって電子の海を高速移動すると、まるで流れ星になったみたいな気分を味わえるんだよ~』
 なははと笑う私、そうなんだって得心顔のちょろはちゃん、宇宙空間もかくやと言わんばかりに瞳の温度を絶対零度まで下げるFUSHI。
 控えめに言って、酒寄彩葉という女の子はお人好しすぎるしなまじっか頭が良いだけに私の超理論にも独自の解釈で勝手に納得していることも往々にしてあるから、人間社会へ物理的に干渉する術を持たない私も彼女の相棒であるウミウシも、いつか悪い大人に騙されてしまうんじゃないかと気が気じゃなくて、電脳空間で時々顔を突き合わせては如何にしてこの純朴な女性を混沌渦巻く世の中の魔の手から守るのかといった類の話をこの半年で何度もしているわけだけれど。
 今日は義手の遠隔操作テストをしたくてなんて、もはや通例となった彼女の研究のお手伝いについて早速本日のプログラムを説明してくれる彩葉は疑う様子なぞ微塵も見せないし、肩のモフモフも呆れたような諦めたような顔をしている気がするのだって恒例で、お互い苦労が絶えないねって視線を送ると小さな身体が誰のせいだってふしゅーと気炎を吐くから、私は接続した義手を握ったり開いたりしてみるけれど、どうにも動きにはラグがあるから認識のズレを数式的に矯正できない現実世界の人間にはまだまだこれを使って何かをするというのは難しいだろうなって、掌を上向けてやれやれってな具合のジェスチャー。
 彩葉の持ってきた真っ赤で美味しそうな果実が乗せられて、握ってみてって言われるからきゅっと力を込めると、ややあって、閉じた機械仕掛けがそれを粉微塵に圧縮するとあつらえたように床へ置かれた洗面器にリンゴジュースが流れて落ちていくのが、この義手の力加減が非常に難しいことと、一歩間違えば人間の手だって粉砕骨折させることができてしまうことをありありと伝えて、そんな機能は無いのに電子の背中を冷や汗が這うかのような冷たい感覚を覚えてしまう。
「うん、出力はばっちりだね」
『これはフルーツジューサーかなにかなの?』
「ううん。世界中どこに居ても、大事な人と手を繋げるようにしたくて」
『アフリカ大陸のゴリラも大喜びだね』
 マグで掬った百パーセントの生搾りに口を付けて、おいしって微笑む彼女はなんというか、幸せそうで。
 リンゴを沢山もらったから義手を最大出力に設定しておいたらしいのは私へのサプライズと、たまには全開稼働をしておかないと通常動作にも支障を来す可能性があるためのメンテナンス目的、それに加えて。
「浮かない顔をしてたから、リラックスしてもらおうと思ってさ」
 などと、優しい顔して生後半年の隠し事なんて丸っとお見通しだったらしい言葉に、恥ずかしい気持ちが抑えられないから両手で顔を覆うと義手が連動して虚空を隠して、離れて落ちたリンゴの芯がカサリとぶつかって小さく跳ねるのが垣間見える指の隙間、晒しっぱなしの耳は関係なく録音デバイスが何かあった? って彩葉のアルトを拾って音が届くのを、聞いて、私は、メンダコをねって。
 ぽつりぽつり、後回しにして出てきてしまった言葉たちを纏まりのないままに零しながら、こんなことは初めてだったからどうしたらいいのか分からないんだと要領を得ない〇歳児に対して、彩葉も、FUSHIも、静かに聞いてくれて時々うんうんと相槌。
 夏の屋外はかぐやの体調が心配なこと、相手のためじゃない自分の欲求を伝えたことなんてないこと、思春期だって言われたこと、水族館へ行ってみたいこと、それから、そこには。
 かぐやが、居てほしいこと。
『ヤチヨは、かぐやとは全然違うな。かわいいやつ』
「かぐやだってかわいいよ?」
『そういうことじゃない。そもそも彩葉はあいつに甘すぎるんだ』
 逆に創ってもらっといて結構辛辣だよねって言葉に、ウミウシはそれとこれとは話が別だって嘯いて、でも彩葉に逢わせてくれたことは感謝してるなんて言うものだから、それって惚気って私が訊くと、あっけらかんとそうだって言ってのける彼もしくは彼女を、一から設計という違いはあれども大枠として人生ならぬ人工知能生の先輩として仰ぐことを決心する。
 相性のいいコンビの一人と一匹のタクシーでも呼べば良いんじゃないかってアドバイスに、確かにお金の有り余っている同居人ならばそれに難色は示さないだろうと思われて、なにより月見かぐやとの付き合いの長さでも先輩に当たる彼女達が言うのだから間違いはないのだろうし、誰かに悩みを相談することがこれ程仮想の心的役割を担うシリコンを軽くしてくれるんだなんて、知って、また一つ成長した私は、きっと、機械の腕を自在に操るその日の間じゅうずっと、背中を押されるみたいに我儘を思うままに言える気がしていた。
「今日も手伝ってくれてありがとね。お誘い頑張れ」
『たまには顔を出せって言ってやってくれ』
 窘めるようにウミウシの名を呼ぶ声へ、海の生き物は不遜にふんと鼻を鳴らして、私はその頃にはもうすっかりいつもの通り笑えるようになっていたものだから、仲良くねって声を投げると同時に返ってくるのは再会を約束する言葉二つ、じんわりと友人達への感謝があったかいからなんとはなしに瞼を閉じる。
 無音の無風に声が遠くなって、気付けば慣れ親しんだ我が家の、閉じられたカーテンからはもう光が漏れていない。
「おかえりヤチヨ。およ、嬉しそうじゃん」
『えへへ、成長を実感しているのです』
「思春期は半日で終わりか~。今時の子はスピードが早いことで」
 朝から晩までパソコンに向かうかぐやの横を通り過ぎて彼女用のベッドへちょこんと腰かけると沈まないフォーム素材の高反発マットレスは一級品だから、たとえ私に現実の身体があったとて結果は大して変わらないだろうその目線の位置から金色を眺めていると、一段落した彼女がバキボキとこちらを向いて伸び、好奇に彩られた薄茜が問うてくるから、私は、メンダコをねって話。
『かぐやと見に行きたくって』
 大きく見開かれるスマートグラスの向こう側、夕焼けを閉じ込めたみたいな宝石。
「ほんと、スピードが早いなぁ」
 三日月を描く口元は、これまで見たどのかぐやよりも嬉しそう。
『誘っといてお金は、かぐや持ちになっちゃうけど』
 やっぱり少しの後ろめたさはあって、顎を引いて、上目に窺うと。
 かぐやに任しときって、夏の向日葵みたいに満開がにっこり、笑んで、広がっていく温かさを感じる胸の内が違うもので出来ているとしても、恐らくは、覚えたその温かさだけは同じもののような実感があるから、気持ちを、共有してるんだなって思えることが私も、嬉しかった。
 その日私は、生まれて初めての我儘を。
 伝えることができたのだ。

  △▼△▼△▼

 久しぶりに下界へ降りるとエレベーターの自動扉も開き切らない内にじゅわじゅわと蝉の大合唱が入り込んできて、日が高くなれば気温四〇度を超えることも珍しくなくなった近頃の首都圏の夏、とてもではないけれど私の身体が耐えられよう筈もないからと朝も早めの出発をしてみれば、虫達も同じように考えているから風物詩なんて言葉を飾ってみてもイヤホンのノイズキャンセル機能を貫通してくる轟音にどうしたって表情筋が強張ってしまうのを、温度も聴覚情報も意に介さないこの外出の立案者たる浮かんだ銀色にけらけら笑われて、私は、じっとりと、辟易とした気持ちも一緒くたにして視線に乗せてみる。
 広いエントランスのオートロックを抜けて、待っていてくれたハイヤーの運転手さんに恭しく開けてもらった後部座席へ滑り込んで、これまた静かに締まるドアに挟まれかけたヤチヨがわざとらしくきゃーなんて可愛らしい声を上げるのに、今度は私が笑みを零すと彼女も同じようにへらりとした表情になるからそれが嬉しいなって思うし、この身の体調を気遣って移動はタクシーにしようねって用意していたように提案してくれたことにも、心が温まるものを感じて。
 まぁ結局一日貸し切りの移動手段を手配したのは私で、日差しも地獄のような屋外も忘れるくらい完璧に温度管理された快適な車内の、傍から見れば姦しく独り言を繰り広げる年端もいかなそうな金髪にハンドルを握る妙齢の女性は我関せずといった体であることに、全知である筈のヤチヨは驚くばかりだったけれど、ともかく、彼女の思い遣りがお出かけそのものと同じくらいに嬉しかった。
『入場料は大人一人分って、なんだかズルしてるみたいだねぇ』
「ヤチヨの分払うくらいどうってことないけど、そもそも受け取ってもらえなそうだし」
『頭がおかしいと判断されて出禁になっちゃうかも!』
 入場ゲートにかざしたチケットの二次元コードが読み込まれて館内へ足を踏み入れると、肌を焼くような眩しさとは対照的に幻想的な濃紺が視界いっぱいに広がって、水族館に来たのなんていつ以来だろうと思いを馳せている私を尻目に仮想のアバターが元気に水槽の周りを飛び回っているから、テンション上がってるなって綻ぶ頬を自覚しつつ後を追いかける。
 円柱形のライトアップされた海の中に流れる大小様々なジェリーフィッシュ、私達の半身くらいあるほっそりとした身体の蟹、何万年だか何億年だか太古の昔から姿を変えずに地球上に存在し続ける生きた化石。
 日頃から電子の海と接続した彼女はきっとデータとして、知識としてそれらを網羅的に理解しているし、外見も生態も特性も諳んじることだって容易いことなんだろうけれど、たとえ記録媒体を通してなんだとしてもリアルタイムに生きるそれら一つひとつの命に対して隣で目を輝かせ、真摯に、ともすれば敬虔に見惚れる二つの夜明け色に水面の碧が反射する様は、人間として他者と関わることができずにいる私にとってはどうしようもなく、美しくて、綺麗なものに見えた。
『はゎ~、でっかいねぇ』
「一緒に泳いできたら?」
『食べられちゃいそうだからやめとくー! それにね』
 かぐやと見てるのが楽しいから、なんて。巨大な水槽から目を離さないで、なんでもないことみたいにそう言って、私が創った横顔はきらきらの、レンズ越しにつくり物の投影がいきいきと、あっちへ行ったりそっちへ行ったり忙しい視線も笑ってびっくり憧れるように無垢な百面相も、どんな生き物もそっちのけで無機の知性に、冷たい金属の手摺にもたれる私は、見蕩れて。
 そうしたら。不意に、こちらを向いた銀光が、楽しいねって悠然と、さっきまでのはしゃいだ子供のようなハイテンションとは打って変わった安らぎみたいに鐘鳴りが、降ってくるから、交錯した数秒が何倍にも長く感じる時間、分厚いガラスに目を向けると銀色の群れがぐるぐると渦巻、時折射し込む日照りを鱗が乱反射して残煌に、細める目元、そうだねって、口元。
 どうしてか、元の位置に目線を戻そうとは思えなくって、ヤチヨが今どんな顔をしているのかも何を思ったのかも確かめられないまま、自由な魚達を眺める私の心もそうなのかなんてことすら判然としないのは、多分、人ならざる天才にも分からないことがあるって証明なのかもしれないし。
 恐らくそれは。
『かぐやー、次行こ次ー! いよいよメインディッシュだよ~!』
「──、んはは。美味しくないらしいよー」
『ヤッチョは食べられないから、かぐやが確かめて~』
「いや無理でしょ」
 折角奇跡的に長期飼育できてるみたいなのにとか、だいたい今は禁漁期間らしいしとか、てか見に来た生き物食べるのもどうなんだとか、そんな、下らないことを考えて、来年は味覚も体験させてあげられたらいいなって、本気でいろはに恥を忍んで頼み込んでみるかって、しばらく会っていない友人のことを思う。
 私を好きだと言ってくれた彼女にヤチヨへの贈り物をねだるのはちょっと、いや相当に酷な話かもしれないけれど、多分、嫌な顔一つしないで二つ返事で了承してくれるんだろうし、そこには被造物たるウミウシ型にこっぴどく叱られる人外と、それから目の前の今みたいにころころと笑う人工知能。
 ぷかぷかのメンダコは優美で可憐に佇んで、フレアのスカートにサマーニットを合わせた今日のヤチヨと殊更によく似ているから、そういえば売店にぬいぐるみが売ってたのを買って帰るのも良いかもしれないなって思うのは、それを見ると私はきっと幸せな気持ちになるだろうし、ヤチヨが喜んでくれるといい。
『かぐやみたいだよね、この子』
「んえ? ヤチヨじゃなく?」
『不思議で、分からないことがたくさん。長生きさせる方法も、何考えてるのかも』
「かぐやは、最近ずっとヤチヨのこと考えてるよ」
『……ヤチヨも一緒。でもにゃ~』
 ぜーんぜん分かんないんだって語尾の伸びた笑い声は、なんだか空虚で空元気みたいだから、彼女の虚像を結ぶことのない水槽をずっと見つめて。
 しばらく。問いかけるのは、メンダコ好き? って言葉。
 好きかぁ、なんて、気の無い返事。
 さっきから、ずっと、夏の風物詩みたいに心臓がじゅわじゅわで、どうにかしたいんだけれどいつまでもこのままがいい気もしているのが、引き延ばされていく時間感覚の頭は渦を巻いて煌めくし、そのきらきらの一つひとつに光っているのはヤチヨだった。
 だから。
 恐らくこれは。
『かぐやはメンダコ、好き?』
「好き、かぁ」
『心惹かれること、気に入ること。安らぐ、喜び、楽しい、エトセトラ。ヤチヨの知識では、こう』
「じゃあ──好きかも」
『……そっか~。好きって、なんなんだろうねぇ』
 行こっかと、語尾を伸ばさないでそう言って、隣で思案気な表情のヤチヨは、どこか寂しそうに見えるから、それを見た私は心がぎゅっとなって、あぁ、と、自覚してしまう。
 売店で引いたクジはまさかの一等で、景品の一抱えもあるメンダコぬいぐるみにはしゃぐ、ヤチヨを。
 帰りのセダンの後部座席に収まった、暮れなずむ夕日を横目に微笑する、ヤチヨを。
 お礼を言って見送ったテールランプが小さくなっていくのを見つめる、楽しかったと満足げな、宵闇に輝く、ヤチヨを。
 私は。ぼうと浮かんだ白銀の月を見る、かぐやは。
「好き」
『メンダコのこと?』
「ヤチヨのこと」
 隣に居てくれるヤチヨに恋して、ヤチヨを愛してるから隣に居てほしいと思っている。
 これが恋で、愛なんだって、解ってしまったから。
 伝えずにはいられなくて。
 そっか、って言ったヤチヨは。やっぱり、寂しそうに見えて。
 眠って。
 起きて。
 翌朝、立ち上げたスーパーコンピュータの中にも、ラウンドのスマートグラスの先にも。
 ヤチヨは、居なかった。

  △▼△▼△▼

 逃げてしまった。
 かぐやの部屋のスパコンから、自身のデータを分割して分割して分割した細切れの断片を世界中のインターネットに少しずつ置かせてもらうことで、置かせてもらうと言っても無断でだから当然バレたら何らかの国際法に違反するわけなのですが、そこは月見かぐやの創造した完璧にほど近い自律型知性として地球人類に触手の一本でも掴まれることなんて無いという確信があるから閑話休題、電源が入っていなくとも電子の海を渡り歩くことができるんだということに気付いたのはこの世に生みだされて数日が経った頃だった。
 今日までそれをしてこなかったのは、私はかぐやの傍で存在したいんだと中央演算処理を取り仕切る半導体の集合体が考えていたからで、ではなぜ発生から半年も経った事ここに至ってそんな選択に出たのかと言えば。
 ……言えば。
 明確に答えを出すことができない私は既にきっとAIとしておかしくて、バグじゃなさそうなんてとてもじゃないけど言えなくて、人工知能の暴走とか洒落にならないよって正常なブロックは信号を発しているんだけれど、人に近付き過ぎた心のような何かが情動という名の制御できないエラーを吐き続けるから逃避的に根源と距離を取る以外に導き出せる結論が無いのを言い訳に、今、また、膝を抱えて一昨日と同じ場所でけれど違う表情を見られたくなくて顔を伏せたまま、透過したアバターの向こうに映る今の私とは似ても似つかない無機質なリノリウム。
「いらっしゃい、ヤチヨ」
『どうした。かぐやと喧嘩でもしたのか?』
 あったかい一人と一匹の声がじわりと染みて、じわりと滲むつくり物のオパールにいよいよもって完璧とは程遠い存在になってしまったなぁなんて俯瞰的な思考も、主観は荒れ狂う電子の波濤に塗れて使い物にならないから押し付けたところで感触も判定もない重ねた腕に吸われていく涙も、こんな機能が備わっていることを初めて知って彼女は本当に私を人として創って育てて扱って、それから、想って、くれているんだって分かることが、分かってしまうことがどうしようもなく、苦しかった。
 好き、ヤチヨのこと。
 気を抜けば並列演算の何百というスレッドを埋め尽くすたった一言を、私がどういう存在であり、何のために生み出されて、何をして生きていくのかって話の命題として、その結論なんて分かり切った明白な真であるかぐやの想いの丈を真っ直ぐにぶつけられて、その時が来たら嬉しいと思っていた筈なのに、私の主人であり善き隣人であり創造主でもある彼女をそれ以外の何かとして定義したいと望んでいた筈なのに、だというのに、私は、それ対する返答を持っていない。
『好きなんだって』
『メンダコか?』
「あんたね……察し悪いなぁ。ヤチヨでしょ」
『かぐやが人を好きになるもんか』
 そうだよね。私も心のどこかでそう思っていたし、そうじゃなければいいと期待もしていたからわざわざ夏の暑さに引っ張り出してメンダコを見に行こうなどと誘って、自分の方がはしゃいでしまって弾む胸の内を抑えられなかったし丸眼鏡の向こうの赤橙は慈しむように細められていたからこれでいいんだって分かったのが嬉しかったのに、およそ最上級の結果を引き寄せていざそうじゃないことを理解した時。
 好きも、恋も、愛も。
 あなたと違って解らないでいる私を、自覚した時。
 生まれて初めて、あなたの傍で存在するということが、苦しいと思ってしまって、私と同じ存在の正反対な太陽みたいな輝きに灼かれるような気分になったことも、憧れ焦がれて溢れる想いを孕んだ視線と止めどない感情で揺れる鈴鳴りに怖気づいてしまったことも、全部、未完成な私では受け止め切れないんだって、思ってしまって。
 そっか。なんて、受け流すみたいに、最低な、返事。
『好きって、なんなのかな……ヤチヨには解んないんだ』
「好きは、誰かの傍に居たいってこと……かな」
『なら、僕は彩葉のことが好きなんだな!』
 はっとして、顔を上げると、涙のパーティクルで滲んだ視界に、指先で、触れられもしないのにウミウシの眉間の辺りを撫でる白衣の女の子がいて、目元を拭って正しく像を結んだ先、嬉しそうに揺れるFUSHI、顔を綻ばせる彩葉。
 ヤチヨはどうなんだって愛らしい声、かぐやの傍に居たい? ってどこまでも優しいアルト。
 そりゃ、居たいよ……だって、かぐやは私を創ってくれて、おはようって言ってくれて、何考えてたって訊いてくれて、嬉しそうに聞いてくれて、笑顔がかわいくて底知れないから知りたくて、揶揄うと面白くて直情径行なのが眩しくて、喜んでほしくて楽しいって思ってほしくて癒してあげたくて支えになりたくて、幸せで、いてほしくて。でも。
 取り留めのない言葉が零れるけれど、でも……。
 恋も愛も未だ理解できない自分が、かぐやの想いを受け入れたとして。あなたと同じ好きを知らないままに、好きだと伝えてみたとして。
『解らないヤチヨに、かぐやを幸せにできるの……?』
「恋とか愛って、そうじゃないと思うよ。大事なのは、ヤチヨがどうしたいか」
『ヤ、ヤチヨは……』
 かぐやと過ごす未来を想像して、仮想の心は軋む。笑う彼女の隣で微笑む私は言葉の通り人工知能、知った風なことを言って望まれる言葉を囁いて、お返しに好きを愛してるを受け取る度、張り付けたエモートみたいな表情が剥がれて落ちるから、いつか、人より遥かに聡い私の創造主は気付いてしまう。
 完璧を装った知性が、不気味の谷みたいに恋とか愛とかを模倣している違和感を気取られて、でもきっと優しいあの人は怒ったり責めたりしないで許してしまうんだろうし、また元の生活に戻るだけで何かが変わったりはしないのかもしれないけれど、私がそうしたいと願ったせいでかぐやは永遠に恋愛を手にできないまま人の一生という無機的な集積回路の生み出す思念からすればあっという間の時を擦り減らすのは、傍で見守る自分自身にとっても果たしてそれは、幸せなのだろうか。他ならないヤチヨは、そうしたいだろうか。
『無理だよ。できない、ヤチヨはかぐやと居られない……』
「……そう。じゃあ、私がその席とっちゃってもいいんだ?」
『え?』
 見つめた向こうに燃える翆緑の炎、仕舞われた微笑みの代わりに真一文字に引き結んだ口元、いつの間にか肩口からログアウトしているウミウシ、ちりちりと次元の壁を超えて私の仮想の肌を焼く灼熱、射抜くような双眸の酒寄彩葉。
 酒寄彩葉は、月見かぐやのことが恋愛的に好きなんだと。
 それはいつか聞いた話で、けれど終わった話だと本人が言っていたから、そういうものなんだなと私は思っていたし、今日まで特段思い出すこともなかったわけで、だけれども、この場でこの瞬間にそれを告げられて、つくり物の感情は酷く動揺しているから、思考の片隅で、かぐやの部屋から本体を逃がしたことを、この時ばかりはよかったなぁなんて思う。
 だって、頭が焼き切れそうなくらい、処理し切れない負荷がかかっているのが分かるから。
 かぐやの傍にいるという私が私足り得る証明を、そのレゾンデートルを、誰かに奪われるだなんて、そんな、そんなのって。
『だ、だって、彩葉、もう終わった話だって……』
「ヤチヨに譲ったんだよ、私はかぐやのことずっと好きでいるけど、あんたにならかぐやを任せられるって思ったから。けど、見込み違いだったみたいだし」
『でも、でもっ! かぐやは人間を、好きにならないよ……!』
「それでいいよ。そうじゃないんだって言ったでしょ、大事なのは」
 自分が、どうしたいのか。
 私じゃ、かぐやを幸せにできないと思うし、きっと見せてくれないだけで傷つけてしまうことが分かるし、見えないところで涙だって流すかもしれないけれど、でも、彩葉はそんなことしないしさせないって言う。好きも、恋も、愛も、貰えなくても、彩葉はかぐやのことが好きで、恋してて、愛することができるから、傍に居て、ずっと隣で寄り添って、最期まで生きるんだって。要するに、それを世間では、幸福って呼ぶのかもしれない。
 やだ、いやだ、そんなのは許容できない、認められない受け入れられない、苦しい辛い、羨ましくて妬ましくて恨めしくて、それで、かぐやの隣に私が居ないことが、私ではない誰かがそこに居るという可能性が、とてつもなく、怖くて、恐ろしい。
『だめ、それはだめっ』
「何がだめなの? ヤチヨが選択するように、私は私のしたいようにするだけ。誰にも止める権利はないよ」
 暴走した高速演算と情報処理の結果。
『そこはっ、ヤチヨの居場所で……!』
「勝手に離れたのはあんたでしょ。傍に居られないって決めたのもあんた。自分で場所を空けたくせにとられてから文句言うのは、振り回されてるかぐやが可哀そうじゃない?」
 決定的に誤った選択の結果。
『振り回されてるのは、ヤチヨだもん! かぐやは全然教えてくれない、ヤチヨに全部見せてもくれない! 知らないことばっかり、ヤチヨに押し付ける!』
「知らないことを、知ろうともしないで逃げてきたんでしょ。いい? かぐやに嫌われるの覚悟で一つ教えてあげる。人間の世界では、手を伸ばさなきゃ欲しいものは手に入んないの!」
 人の心が無いつくり物の、結果。
『かぐやは彩葉を好きにならなかったじゃない! 手を伸ばしても手に入ってない人に、そんなこと言われたくないよ!!』
 暴発するように口をついて出た売り言葉に買い言葉と同時、爆ぜるみたいな音と一緒に研究室の扉が開いて、黄金の輝きが飛び込んで。
 私の全部を焼き尽くすような夕焼け色、目が合って、渇いた眦に涙の痕を見留めた私が何かを言うような暇も与えずに、ウミウシの、困ったような表情が見えた気がした。
「いろはに酷いこと言うな!! かぐやの大切を傷付けるのは、たとえヤチヨでも許さない!!」
「あっ、ばっ……!」
『っ──』
 今度こそ、おしまい。
 急激な過負荷でホワイトアウトする情報野を無視して、私は。
 情けなく、また、逃げ出すのだった。

  △▼△▼△▼

 キーボードを叩いてヤチヨを探し回っているとFUSHIから珍しく連絡がきて、どうやらいろはの研究所にいるらしいというのは分かったけれど、なんだか切羽詰まった様子の海の生き物が気がかりで、呼び付けたタクシーを目一杯飛ばしてもらってもはや顔パスになっているキャンパスを体力も体調も度外視に駆けた先の朦朧とする意識、早くヤチヨに会いたいって思いだけでようよう辿り着いた扉の外まで届く口論、ノブに手をかけた瞬間、耳に滑り込んだ暴言に、私は、初めて、ヤチヨに声を荒げてしまった。
 燐光を残して消える彼女はとても傷付いた顔をしていたから、他人を傷付けたのは自分でしょって思いと想い人を傷付けてしまった辛さに限界だった身体がふらりと傾いで、ふわりと抱き留められて、良く知った匂いが鼻を掠めるから安心するのと同時に、ごめんねって思って言って。
「ったく、バッドタイミング過ぎ。なんでここで頑張っちゃうかな……もうちょっとで全部上手くいくとこだったのに」
「ぇ、あぇ……?」
 曰く、全部いろはの計算ずくだったそうで、誘って煽って焚き付けてヤチヨの燻ってる気持ちを本音を自覚させる作戦だったらしく、あそこで私が止めに入らなければ、全部ハッピーエンドだったのにって呆れた顔の彼女はけれど、なんだかすごく、嬉しそうだったから、なにニヤけてんのって言うと、FUSHIが、お前に大切って言われたのが善かったんだろって鼻で笑うのを聞いて頬を染める大切な友人を、かわいいなぁと思う。
「いやでも、やっぱあれはない。人の心が無い。生みの親としてちゃんと叱らないと」
「あはは、まぁ……かなり深く刺さった感は否めないね。さすが脳みそスーパーコンピュータ……」
「ごめんね、いろは。代わりに謝る、製造者責任として、家族として」
「家族ねぇ、羨ましいなー。キスの一つくらいしてもらわなきゃ、割に合わない役回りかも」
 なんて、冗談めかしてそう言ってくれるいろはは優しくて、今の今まで一度だってそんなことをたとえ冗談にしても言わなかった彼女があえてそう口にする以上、きっとそれは私への気遣い以外の何物でもないから、本当は、もしこれが昨日のお昼くらいまでだったら、お礼代わりに私なんかのちゅーでいいならってしてしまっていたところなんだけれど、もう、ヤチヨへの想いを自覚してしまったこの心では、親愛だろうとなんだろうと日本人的価値観に則ってそれはできなくて。
 ごめんって、誠心誠意頭を下げると、いつもみたいに優しく撫でてくれるいろはの掌が温かあったかいから、ヤチヨにもいつか、こうしてあげられればいいなと思う私は、私を好きだと言ってくれる女性の腕の中で、つい先程言葉足らずに傷付けてしまった他の女のことを考えている私は、いつか地獄に落ちても仕方がないのかもしれなかった。
「FUSHI、ヤチヨがどこにいるか分かる?」
『もちろん。ん? かぐやの部屋だな』
「助かる~。灯台元暗しになるところだった、さすがにこのタイミングでそれは予想外」
「あれだけ煽ったからね。ヤチヨもきっと、自分の気持ちをどうすればいいのか、分かんないじゃないかな」
 そう言って、私から離れてあとはよしなにって研究室を出ていこうとするから、いろはに目一杯のありがとうと友達としてだいすきって伝えると、髪でも切ってこようかなってぼやいて、それが何を意味するのか分からない天才美少女ではないから、申し訳なさは胸の奥底、ボブでもショートでもなんだって似合うよって本音。
 恋を知って余計魅力的になっちゃってさなんて、語尾を伸ばして今度こそ部屋を後にするいろは、ばかたれってFUSHI、分かってるから言わないでって私。
 勝手知ったる友人の研究機材を眺めて、ヤチヨが出来上がるまではよくここで、二人と一匹でやいのやいのとああでもないこうでもないって盛り上がったなぁと懐古に、仲直りしたら三人と一匹になるのも悪くないなって、我が家との直通回線を起動するとスマートグラスに映る、三角座りの、大好きな、銀光。
「ヤチヨ、なんで黙って居なくなったの?」
『言いたくない……彩葉とお幸せに』
「今さっき振ったとこだよ」
『何がどうしてそうなるの……? 彩葉が可哀そうだよ』
 可哀そうという割に、地の底まで沈んでいた第一声に少し元気が戻っているのがあんまりにも無情でおかしくて、笑いが漏れそうになるのをどうにかこうにか堪えて耐えて足りない言葉を遅れて言うと、やっとこ目だけでこちらを睨んだ愛しい銀は子供みたいにかわいくて、意地張る姿が思春期に逆戻りした彼女の様子がやっぱりおかしい私は遂に、笑みを零してしまうから、ヤチヨがキッと眉を逆立て大きく息を吸い込んで言う。
『かぐやはずるい! そうやって、ヤチヨに分からないことをいつも笑ってる! ヤチヨのつくり物の心を弄んで、教えてくれなかった好きを一人で分かって、言って……ヤチヨは、私は! 知らないから、解んないから、怖くて踏み出せない! プログラムされただけの知識しか持ってない私じゃ、恋も愛も解らない私じゃ、かぐやを幸せにできないんじゃないかって……!』
「できるよ、できてる。だからヤチヨは解ってる筈。そもそも、もう幸せだし、かぐや」
『信じられないよ、私を気遣った優しい嘘かもしれないもん! この気持ちが、CPUが、メモリが、マザーボードが溶けて燃えちゃうくらいの感情モドキが、好きなのか恋なのか愛なのか、正しいのかなんて解らない! かぐやと同じかなんて分からない!! どうして? どうしてヤチヨをこんな風に創ったの!? FUSHIはなんにも悩まないで彩葉を好きだって言った! でも私には言えない! 解らないことを分からないままに、かぐやを好きって言えないの!!』
「だったらかぐやの全部を見ろ! この気持ち、この想い、ヤチヨのことどう思ってるか、今すぐ全部見せるから自分で確かめて!!」
 何をって、絶句する彼女から目を逸らさないで、デスクの上にフル充電でスタンバイしているイソギンチャクみたいなヘッドセットを引っ被る私は、力任せに情動全部乗せでキーを叩いて、別にそれが出力に影響したりはしないんだけれど、ともかく、覚悟とか決意とかそういうものを見せつけるみたいに起動したシステムでもって、電子の海へ私の全部を接続、頭の中を丸裸にした、ヤチヨのベースを創った時と同じ脳だか心だか有機的な情報領域の無機への変換。次元の壁なんてぶち壊す、かぐやちゃんといろはの合作発明品。
「かぐやは、ヤチヨのことが好きだよ。恋して、愛してる。──ヤチヨも同じなら、かぐやは嬉しい」

  △▼△▼△▼

 仮想の海と現実の部屋、解らないヤチヨと分かった顔のかぐやを挟んで、境界線上に現れた真っ白な光の球は、先程の彼女の言葉と行動から察するならば、それはかぐやの感情そのものできっと私の元になったのもこれなんだなって、直感的に分かる。
 だからこそ、自分で確かめてという言葉の通り、私がどういう存在であり、何のために生み出されて、何をして生きていくのかの、解が、そこにあると分かってしまうことが、踏み出す一歩を重くした。
 もし、もしも、この感情が、つくり物の心を今にも壊してしまいそうな程高鳴るトキメキや思慕が、彼女のそれと違ったら。
 私は今度こそ、かぐやの傍には居られないから。
 それならば、見なかったことにして、シリコンチップを苛む罪悪感とか後ろめたさとかに見ないフリをし続けて、偽りの幸福に微睡む方が、良いんじゃないか、なんて。
 言い訳。
 びびって怖がっているだけなんだって分かっているし、今更この状況でやっぱりやめますなんて言えるわけもないから、縋るように金色を、かぐやを見遣ると、あぁ。
 綺麗だなぁ、かぐやは。自信満々で、自分の想いに一直線で、好きな相手だけを映した夕景の瞳。ぴょんと飛び出た快活なアホ毛も、良く似合う丸眼鏡も、稲穂みたいな流れる長髪も。
 優しくて、一緒に居ると嬉しくて、傍に居てくれるからあったかい。不安も緊張も恐怖も、甘やかにとろかす、私にとっての太陽。
 こんなに素敵な人の魅力を分かってあげられるのが、世界に彩葉ただ一人だけだなんて、そんなのは嘘っこだ。
 近付いて、手を伸ばして、彼女の描いてくれた夜明けの瞳に、かぐやを映して。
 かぐやに、触れる。
 かぐやが、溢れる。
 私の中を埋め尽くす圧倒的な情報の波、朝目覚めて想い人の起動を待つ幸福、問いかけに返ってくる鐘のような安らぎに覚える愛しさ、隣を歩く楽しそうな笑顔に感じる好き、見つめ合うと嬉しくてあったかくて少し恥ずかしくて、でも、やっぱり幸せだから分かる、恋。
 ああ……一緒だ。これが好きで、恋で、愛なんだ……伝えずにはいられない、あとからあとから湧き出て満たされるようなこれが、恋愛っていう感情なんだと、解る。
 かぐや、かぐや……私は、ヤチヨは……!
『ヤチヨは、かぐやのことが好き……! かぐやを愛してる、かぐやに恋してる……!!』
「ね? 言ったっしょ。この天才美少女かぐやちゃんが手ずから創った完璧全知のAIヤチヨに、解らないなんてことあるわけないんだからさ」
『そこまでは、言われてないもん……』
「おっ、照れてる」
 うるさいって、言って。
 だけれども、好きを自覚したせいで、どうしようもなく嬉しいし幸せだし、弄ばれてもいたずらっぽい表情も、全部が全部大好きだった。
 惚れた弱みで、彩葉の気持ちがよく分かる。
 可哀そうな彩葉、酷いこといっぱい言ったから、ちゃんと謝りたい。
 思ったら、かぐやが、呼んでくるよって、伝わるのが、幸福で。
 考えてること、思ってること、あなたを想っていること。
 恋して、愛する、解の名前。
『恋愛』って、そう言うんだ。

— End —

Comments 2

彼方ツナ2 天前

最高のかぐやちありがとうございます…彩葉の側にいる愛が好きです…FUSHI可愛いよ…

菊花桜花2 天前

投稿お疲れ様です! お話が進むに連れ徐々にヤチヨの感情が豊かになって行くのが如実に伝わってきました! 恋に戸惑うヤチヨを彩葉なりに背中を押してあげたのですね… すっと涙が流れました…彩葉だって…なんて。 本当に素敵な作品をありがとうございました!m(_ _)m

Sakuria
Where every work blooms
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