【アポロと狼】
〈一〉
フィギュアスケーターのトップ選手が出場する大会と言えば、グランプリシリーズとファイナル、全日本、ワールドが主要どころだ。ジュニア選手でもそれは変わらない。
しかし今回、狼嵜光が忙しいシーズンの合間を縫って出場したのは、そのどれにも当たらない国内の競技会だった。
光はノービス時代から全日本本選で優勝してきた実力者で、度胸も人一倍だ。今さら国内大会の経験値稼ぎは必要でないのに、コンディション次第では見送ってもいい大会に出場したのは、早い話がスポンサーへのお披露目だった。金があっても健康面や時間上の制約から国際大会の生観戦が難しい支援者へのサービス、あるいはその候補者にアピールする場として都内で開催される競技会に出ることにした。
普段はクラブの専用施設で練習しているが、今回の会場である常設リンクは都予選や連盟の合同練習に使われることが多いのでわりと馴染みがある。移動の負担もそれほどなく、光はコーチのライリー・フォックスとともに万全の状態で会場入りした。
「今回のピカるんの目標はブラッシュアップしたステップシークエンスでレベル四を取ることだね!」
「はい」
「上半身の振付も密度が濃いからペース配分を意識してね。最後までバテない全力、掴んでいこ」
「絶対ものにします」
光もライリーも、今さら金メダルなんて目標は掲げない。全日本でもない国内大会、優勝は必然だ。
それより今回は、シーズンの集大成である世界ジュニアに向けたプログラム調整に重きを置いていた。ジャンプもスピンもジュニア選手では一流の自負がある光だが、伸び代があることも自覚している。そしてもっとも成長の余地があるのはスケーティング、つまりステップだ。
一番特別視しているライバルがステップで常にレベル四を取る上に加点が付く子なので、光も意識せざるをえない。あの子に負けないくらい綺麗で、見ている人の心を躍らせるような滑りがしたい。あの子のスケーティングを磨いているコーチにも対抗心を抱いている。
ひそかな闘志を燃やしながら公式練習のためにリンクに向かう。するとどういう訳か、先ほど思い浮かべた人物の姿がリンクサイドにあった。結束いのりではない。彼女は今回の大会にアサインしていなかった。
均整の取れた長身、明るい髪色。日本人離れしたスタイルは自然と周囲から際立って、後ろ姿でもその人だと判別できた。
「あれ、司先生だ」
ライリーも気が付いた。明浦路司。光の特別な結束いのりのコーチで、元はアイスダンス選手でありながらたった数年で女子シングルのトップ選手を育てた男。
熱血で子供に甘くて、自分勝手に他人を振り回すのになぜか周囲からは信頼されたり尊重されたりしている。大した実績もなく、いのりの成長の足手まといになっているくせに。そんなふうに昔の光は思っていた。
今では彼がいのりの枷ではなく、光の元まで辿り着くためのブースターだと知っている。序列が低いように見えても影響力があるのは、司が人との繋がりに真心を尽くしているから。目に見えるスケートの実績がなくとも、周囲の信頼を裏切らず、自らも他者を尊重し、誰かのために我が身を削って一生懸命になれる人だから。
最初のコーチだった夜鷹純が失踪して、彼と再会しその交流を再開させるまでに、光はそんな司の献身に助けられてしまった。だからもうかつてのような、司への敵愾心はない。
しかし司への恩義、いってしまえばわずかな敬意が芽生えると、彼のなりふり構わない感激屋な性格や妙なところで抜けている迂闊さがもどかしくなってしまって、あまり友好的な態度は取れないままでいる。
ーーもっとしゃんとして。油断しないで。だらしないところ見せないでください。
いのりへの注目が高まるにつれて、コーチの司も人目に触れる機会が増える。しかし司はリンクサイドやキスクラで跳んで跳ねて大号泣するオーバーリアクションのイメージが強過ぎて、今では芸人枠として認知されている。本質はインテリ系のくせに。
スケート歴一年の生徒を全日本に、その翌年にはグランプリファイナルに送り出した指導力は一般に評価されない。少しでも点数や順位を稼ごうとする戦略家な一面も、結束いのりのスケーティングを育てた現役顔負けの技術力も。
ーー舐められないで。あなたは氷に乗れないような人たちに馬鹿にされていい人じゃないのに。
ライリーや慎一郎は司を侮りがたい実力派コーチとして意識している。あの夜鷹ですら一目置いているというのに、何も知らない人たちには道化のように笑われて。
それが周りを警戒させないための演技というなら光だって気にしない。そういうことならライリーだって同じだ。わざとおちゃらけることで親しみやすさを演出し、周囲が自身を崇拝しすぎないように対人関係をコントロールしている。しかし計算でキャラ作りしている彼女とは違って、司は無意識だった。それにライリーはパブリックイメージはちゃんと守っている。
光はだらしない大人が嫌いだ。自分の認めた人には立派でいてほしい。何より司に軽薄なイメージが付くと、それは彼の教え子でもあるいのりにも影響することだ。
よって光が司に向けるのは『いのりちゃんのコーチとしてもっとしっかりしてください』というつんとした態度で一貫していた。
今日の司はスーツ姿に青いダウンを羽織り、首からは関係者証を下げていた。どう見ても選手に帯同するコーチの格好だ。いのりの専属だと思っていたが、別の生徒を受け持ったのだろうか。
「ん、アイスダンスのカテゴリにルクス東山所属のカップルが出場してるから、その引率じゃないかな?」
「なるほど……」
ライリーがスマホで大会情報を調べてくれて、それらしい仮説を立ててくれる。女子シングルの前にアイスダンスの公式練習があった。光は少しほっとした。
コーチは複数の生徒を受け持っているのが当たり前で、いのりと司のような完全専属はどちらかといえば珍しい方だ。光が口を出せる問題では当然ないのだが、いのりの強さは司の全力が彼女だけに注がれていることも大きいと感じているので、内心では現状維持を望んでいた。
「ちょっと挨拶に」
リンクは製氷中で、ウォーミングアップをするとしても滑走までしばらく時間がある。光が視線で司の方を指し示すと、ライリーは面白がるように笑った。
「おっけー」
光はそろそろと司の背後に歩み寄った。心持ち足音を忍ばせて、獲物を追い詰めるように。ライリーもその後を気配を殺してついてくる。
司は光がスケートでも私生活でも長らく世話になってきた慎一郎と同じくらいの背丈だ。目の前まで近付くと、広くて大きな背中に懐かしさを覚えた。
後ろからちょんちょんと肩を叩き、振り向くだろう方向に人差し指を伸ばしておく。狙い通り光の指先は、意外と柔らかな司の頬にずむ、と刺さった。
「こんにちは、明浦路先生」
「……こんにちは、狼嵜選手」
「敵情視察ですか?」
「ううん、まあそうなんだけどはっきり言われると……」
ずむ。
「応援とでも? いのりちゃんならともかく、あなたからの応援なんて別になぁ」
ずむ、ずむ。
「うう、視察です、勉強させてもらいに来ましたぁ!」
司が頭を下げると光は悪戯っぽく微笑んだ。そんな光を見てライリーも笑う。
場の空気を良く読み、年長者には基本的に礼儀正しい光が司をからかっている。警戒心が強い光がこんなふうにじゃれつくなんて、司はすごい人だ。
「アイスダンスの引率で来てるんじゃないんですか?」
「そうだよ。でも情報収集の機会は逃せないからね。生徒たちには瞳先生とホテルに戻ってもらって、俺は残りました」
「お目当ては?」
「分かってるでしょう……あなたの演技です、狼嵜選手」
「ふふ……それなら存分に見ていってください」
女王の貫録というべきか、光はひどく挑戦的で小悪魔のような笑顔を司に向けていた。傍目からも仲良さげなその様子を、会場の端から注目している人影があった。
「……なんだあの男」
ずっと見守ってきたのに。少女のあんな顔を始めて見た。
警備員の制服を身に纏った男の表情は嫉妬で醜く歪んでいた。
◆
グループごとに行われる公式練習で滑走の順番が回ってくるまで、光は人通りの少ない廊下でアップしていた。
そこに警備のスタッフが近付いてきた。すぐそばで足を止められたので、何の用かと視線を向ける。
「どうしました?」
男はじっとりした眼差しで光を見下ろしていた。異様な雰囲気に呑まれて思わず固まってしまう。
「あの男はなに?」
「え?」
「光は俺のことが好きなのに浮気?」
何を言っているのだろう。理解が及ばない間にも、べったりと肩から二の腕を撫でられる。薄手のジャージ越しに伝わる体温に怖気が走った。
「ただでさえやらしい衣装でエロいポーズしてんだからさ、もっと気を付けないと勘違いさせるよ」
そう言っていきなり抱き付かれた。耳元に生温かい息が吹きかけられる。
「それとも嫉妬させたかったの? ひかる……」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。気持ち悪いのに、喉が引き攣って声が出ない。
腕を突っ張ろうとしても、震えて上手く力が入らなかった。そんな状態ではびくともしない。
「ちょっと貴方! 何やってるの、その子から離れて!」
少し離れた場所にいたライリーが光たちのやり取りに気付いて駆け寄ってくる。
びくりと男が動揺した隙に、光は満身の力を込めて男を突き飛ばした。拘束されていたのはほんの数秒だったけれど、拷問のような時間だった。
ついで結構な勢いでライリーのスマートフォンが飛んできて、男はとっさに身を躱した。
正しいと言ったらおかしいかもしれないが、投擲されるべき状況で投げられる機器を光は初めて見た。壁にぶつかる音で硬直していた足が動くようになる。
「光ちゃん!」
真剣なライリーの声に呼ばれるまま走った。
男の脇をすり抜けるとき、伸ばされた手が腕を掠めそうになった。悲鳴を上げたつもりだったが、喉で潰れた擦れ声が漏れるだけだった。
なんとか捕まらずにライリーの腕の中に飛び込む。激情した男がいきなり怒鳴り出した。
「邪魔するな!」
突然の絶叫でわずかに震えたものの、ライリーは一歩も引かなかった。光を抱き寄せて男を警戒する。
騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。
「ライリー先生! っ、狼嵜選手!」
その中には司もいた。状況が分からないまま駆けつけたが、ライリーが光を守るように抱き締めているので、二人を庇うように前に出る。
光の視界は青いダウンの大きな背中に埋められて、あの男が遮断された。
「この子に何をした」
「お前は……」
司の登場に男は一瞬怯んだものの、背後は廊下の突き当たりで逃げ場がない。後に引けず追い詰められた男がポケットから取り出したのは折り畳みナイフだった。
「どけ、刺すぞ!」
「やってみろよ」
場が騒然とする中で、男の恐喝より司の静かな一言の方がよほど迫力があった。そこからは電光石火の制圧劇だった。
司は男に構える隙を与えなかった。素早く踏み込んで距離を詰めるとともに、長い脚を頭より高く振り上げて一閃。睨み据えられてその気迫に男が意識を取られている隙に、死角から外回しの軌道で旋回された踵がほぼ垂直から男の手元を直撃した。
鋭い打撃に堪え兼ねて取り落としたナイフを、司の着地した足が蹴り飛ばして遠くに滑らせる。
司はさらに一歩踏み込んで男の胸倉を掴んだ。男が体勢を崩して踏ん張ったところに足払いが掛かる。スパンッと重心を刈り取られた男の体が宙に浮いた。踵落としから一連して鞭のようにしなやかな足捌きだった。
そのまま後ろにひっくり返って頭でも打てば大事故に繋がっただろうが、司は警備服の胸倉と奥襟を掴んだ腕をけして緩めなかった。後頭部を打たせるどころか、足の方が先に地に落ちるまで、完全に男の上体を仰向けに吊っていた。頭に血が昇って力任せに押し倒したのではなく、理性で制御した上で転ばせたのだ。
転倒の衝撃をほとんど殺してから、司は男の背中を着地させてのし掛かった。
「くそくそくそ! 離せ!」
「お前は警察に引き渡す。ライリー先生、後は任せてここから離れてください」
「ええ、ありがとう」
司に促され、ライリーは光を抱き寄せたまま背中を押す。大人たちが光を加害者から遠ざけようとするが、光は足が棒になったように動けなかった。
司の影になって男の顔は見えなかったが、ジタバタともがく脚が虫ケラみたいだった。虫より気持ち悪かった。その醜悪な声を光の耳は過敏に聞き取ってしまう。
「光が悪いんだ、光が! ずっと俺が守ってきたのに、お前みたいな男に媚を売りやがって、誰にでも脚ひら、ぐ、ヴッ」
「黙れ。あの子の耳が汚れる」
あまりにも低い声を誰が出しているのか、光は一瞬分からなくなった。襟元を締め上げられて、男の口も足もピタリと動きを止めた。
「二度と彼女に近付くな」
今にも喉笛を噛みちぎりそうな唸り声が廊下に響く。初めて聞く司の声だった。
ずっと守ってきたなんて妄言を吐いたこの男は、いつから光を見ていたのだろう。こんなヤツ知らない。勝手な思い込みと欲望を光に向けて、司に気圧されてあっさり大人しくなって。
こんなちっぽけで卑劣な輩が、震えが止まらなくなるほど怖かった。それが悔しくて堪らない。
バタバタと別の警備員が数名走って来た。加害者と同じ制服の男性が近付いてきて、光の体がびくりと緊張する。ライリーは光の後頭部にそっと手を当てて肩の上に伏せさせた。
「警備です。拘束代わります」
「それより先に選手を安全なところまで誘導してください。コイツを視界に入れさせるのは精神的に悪影響なので」
司の声が彼のそれだと分かる程度まで戻る。それでもいつもよりかなり硬質だったが、指示する内容は光の知る通りの司だ。
「その役目はコーチさんにお願いします。あまり手荒なことをすると貴方が過剰防衛になってしまいますよ」
「怪我はさせてません。それにコイツをここで取り逃がして選手に被害が出るくらいなら警察に捕まる方がマシです。警備さんたちはコイツの同僚ですよね? 油断しませんか?」
「……仕事に私情は持ち込みません。同僚でも、同僚だからこそ手加減しません」
「……分かりました」
司は男を押さえ付けている体勢から警備員を振り向いて、その奥でライリーに抱き寄せられている光を見た。
光はライリーの肩に顔を伏せていたので知ることはなかったが、華奢な体躯を震わせる姿の痛ましさに司は顔を歪めた。
「……来い」
司は再び胸倉を掴み上げて男を立たせた。いくら司の体格が良いとはいえ、中肉中背の成人男性をあまりにも容易く持ち上げるのでライリーは目を丸くした。
「顔下げろ。周りを見るな」
襟首を掴んで力づくで下を向かせる。警備員は物言いたげだったが、司と周囲の大人たちが一様に険しい顔で現行犯を睨みつけるので心情を汲んで黙った。何よりも騒ぎを遠巻きにしている少女たちの不安げな表情が胸を突いた。
廊下の端側に男を寄せるようにして、その前後を警備員が、隣を司が固めて連行していった。
〈二〉
運営本部に報告が上がり、今後の対応が審議されたが、結果として大会は予定通り続行となった。
バックステージで起きた騒動は一瞬で方がつき、その場に居合わせた選手とコーチはごく少数。犯人はナイフを持ち出したもののすでに取り押さえられ、最初に迫られた光も犯人を取り押さえた司にも負傷はない。大会を中止あるいは延期するには多大な影響と費用がかかるが、そこまでするほどの深刻な事態にはならなかった、というのが本部の判断だ。
理性では仕方ない、妥当な判断だと理解していても、当事者のコーチとしては選手の精神的被害が軽んじられているようで腹立たしいというのがライリーの正直な気持ちだった。
しかしライリーはかつて選手でもあったので、彼女たちの立場から考えれば中止延期が最善とも言えなかった。誰もが相応の準備と覚悟を持って今日を迎えている。犯人が逃走したならともかく身柄を拘束できているなら、警備を強化しつつの実施をほとんどの選手は支持するだろう。
光も予定通りの出場を望んだ。しかし影響は計り知れなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
「謝らないで。光ちゃんは何も悪くないよ」
拘束した犯人を遠ざけて、光の最初の一声がそれだった。痴漢に襲われてひどく恐ろしい思いをしただろうに。
「棄権はしません」
光ははっきりと宣言した。しかし平気なふりをしても、ショックが後を引いているのは明白だった。
公式練習では始終精彩を欠く動きで、曲かけでも振付を流した。今回はステップの変更もあったから、ジャンプ以外は本番同様に取り組むと事前に決めていたのに。
「光ちゃん上がって」
「……すみません」
「ちょっと休憩しよう」
強張った瞳の奥が泣きそうになっていることくらいライリーにはお見通しだった。
光は初めての状況にパニックになり掛けていた。ライリーもそれに気付いていて、スターフォックスから出場する他の選手の引率はアシスタントコーチに任せて、光につきっきりになっている。
今まで光は夜鷹との練習より緊張する試合なんてなかった。曲かけで転倒したらコーチをやめるのが夜鷹の条件で、当時の光にとっては夜鷹に見放されることが一番怖いことだった。そのプレッシャーに耐える訓練を日常的にしていたから、試合前に体が動かなくなるなんて経験したことがなかったのだ。
会場はまだカテゴリごとの練習時間なので、女子シングル以外の選手や観客はそれほど多くない。ライリーは一般に開放されていない立入禁止エリアの廊下に光を連れ出した。廊下の奥にそれとなく警備員が立っているのが見えて、今の光の神経を逆撫でした。
「さっきの練習、集中できてなかったよね」
「……すみません」
「謝ってほしいんじゃないの。でも、無理に出場して万が一にも怪我してほしくない」
ライリーの言いたいことを察して、光は首を横に振った。欠場は嫌だ。
「嫌です。負けたくない」
「あなたの意志を尊重したいよ。でも光ちゃんは今すごくショックを受けている。心を休ませるのは負けじゃないよ」
「出来ます。ちゃんと出来ますから。さっきはちょっと動揺してただけで、振付もちゃんと覚えてます。大丈夫」
光は必死に言い募った。ライリーはずっと真剣な表情をしていて、彼女の美貌が際立つと圧を感じさせた。
「そこまで言うなら、光ちゃんは本当に大丈夫だって私が納得できる踊りを見せて」
「はい」
光は羽織っていたジャージをライリーに預けて、陸で踊り出す。けれど動きが硬いことは自分で分かっていた。
足を高く上げることが怖い。誰にでも脚を開いて、とあの男は言っていた。もうすぐ高校生になるのだから意味は分かる。
フィギュアスケートがそういう目で見られることがあるのは知っていた。特に女子選手はレオタードにスカートが付いたような、全身のラインが強調される衣装を纏う。柔軟性を表現するために開脚する振付も多い。
ボディファンデーションや厚手のタイツで見かけより露出は少ないし、あまり気にしないようにしていたけれど、劣情を直接ぶつけられると細かな震えが止まらなくなった。
及第点には程遠い、ぼろぼろの出来栄えだった。最後まで通せずに立ち尽くしかけたその時、光を呼ぶ声があった。
「狼嵜選手、ライリー先生」
警察の事情聴取に応じていた司だった。大会を棄権しないと決めたため、光への聴取はライリーが付き添いの元で後日としてもらった。その代わりに事件の当事者として、司が警察対応を引き受けてくれていた。
「司先生! 戻られたんですね」
「はい。今しがた」
「今回は本当にありがとうございました。事情聴取では何もなかったですか。難癖付けられたりしませんでしたか」
「平気ですよ。怪我はひとつもさせませんでしたから。よっぽど殴ってやりたかったですけど」
ライリーと司のやり取りを聞いて光もほっとした。
無事で良かった。助けてくれてありがとうございました。自分もそう言いたいのに声が出ない。
「狼嵜選手」
司は距離のある位置から光に向かって跪いた。
「そばに近付いてもいいですか。俺はあなたに絶対危害を加えません」
「は、い」
真摯な表情で見つめられて頷く。司は少し近付いてまた跪いた。
「あなたを傷付けるものは何も持っていないからね」
そう言って手のひらを見せてくる。ふかふかしてそうな肉付きの、大きな手だった。
「……手、触ってみてもいいですか」
「どうぞ」
司の手を握る。温かくて、安心した。カイロかスクイーズでも揉んでいるような気分だ。
あの男の手は、気持ち悪かった。触れられた体温や耳に掛かった息を思い出して、光はぶるりと身震いした。
司が心配そうに身を引こうとしたが、その手を掴んだまま引き止める。
「狼嵜選手……」
知り合って何年も経つが、司の呼び方は昔からずっと同じだ。あの男は馴れ馴れしく光を下の名前で呼び捨てしていた。
「……光って呼んでみてください。今だけで良いから。あの叫び声、耳に残ってるんです」
「光さん」
穏やかな男性の声で名前を呼ばれる。優しくて、あたたかい音。冷たく張り詰めていた気持ちが溶けそうになる。
「光さん、他にも俺に何かしてほしいことある?」
「……ぁ、」
「なんでもいいよ。何かさせてほしい」
何でも受け入れてくれそうな微笑みと声音に、甘えたい衝動が湧き上がる。
弱みを見せたくない。自立していたい。本当の光はちゃんとそう思っているのに。
でも今だけはどうしても苦しくて、我慢が難しい。上手く踊れなかった自分への不甲斐なさも拍車をかけていた。
それほど自分の心が弱っている。あんなヤツのせいで。そう思うと悔しさも湧いてきた。
「……気持ち悪かった」
「うん。気持ち悪かったね」
「あんな人に影響されたくない」
あんなヤツのせいで調子を崩すなんて自分が許せない。怯えたままでいたくない。
光は強くありたいのだ。誰よりも強く。
「上書きしたいので体貸してください」
「ひぇっ?」
ギラリと獲物に狙いを定めたような眼差しに睨みつけられて、司が震え上がった。一歩引きそうになる彼の手を、やはり光は離さない。
「か、体とは」
「アイツに抱きつかれた感覚消したいんです。ハグさせてください」
「ええ~~~〜」
「なんでもいいって言いました」
司は困り果てた視線をそばで見守っていたコーチに送った。ライリーも驚いていたが、司と光を見比べるとニコリと笑って親指を立てた。
「う、う~ん」
往生際悪く唸る司に、じり、と光が迫る。実力行使の気配を悟ったのか、とうとう司が白旗を上げた。
「わっ、分かった、分かりました! でも、俺と光さんだけだと絵面がマズすぎるので……ライリー先生も巻き込んでいいですか?」
非常事態だからと承諾してしまったが、司の価値観だと女子中学生をハグする親族でもない成人男性は、心にやましいことがなかったとしても黒寄りのグレーだ。
いのりでもハッピーリフト以外では滅多に抱き抱えないし、幼児の頃から面倒を見てきた羊すら最近では厳しいと感じているのに、光相手に単独で、というのはどうにも躊躇われた。複数人ならチームが円陣を組むような感覚で誤魔化せるか、という悪あがきだ。
ライリーは人差し指を頬に当てて首を傾げた。
「私も? 光ちゃん、いい?」
光はこくりと頷いた。上書きに使いたいのは柔らかくもいい匂いもしない男の体だが、ライリーが混ざっても別に嫌じゃない。
司が逃げる気を失くした様子に、光は彼の手を解放した。
「感覚を消したいんだよね?」
「はい」
「抱きつくのと抱きつかれるの、どっちが良い?」
「……後者で」
光のトラウマになりかけているのは抱きつかれる方だ。そう答えると司はダウンを脱いで光に着せ掛けた。
「あったか……」
ちょっと驚くほど熱かったので、思わず呟いてしまう。
「わは、いのりさんと同じこと言ってる。俺が着てたダウンって電気毛布らしいよ」
そう言いながらジャケットはライリーに羽織らせていた。シャツ姿は広い肩幅と鍛えられた胸筋に対比して細く引き締まった腰が強調される。見事な逆三角形のラインだ。
「嫌だと思ったらすぐに言ってね」
長い腕がおもむろに開かれて、ゆったりと背後に回される。その腕の動きに促されるまま、ちょこ、ちょこ、と脚を進めて、司の懐に身を寄せた。同じように抱き寄せられたライリーが正面にいる。
二人まとめてふんわりと包み込まれた。回り切るどころか交差した司の手が、光たちの肩に添えられる。もちろん怖気なんてしない。
(あたたかい……)
司はすごくぽかぽかしていた。手のひらだけじゃなく腕も胴も、ダウン越しでも触れたところから熱量が伝わる。
女性同士、子供同士のハグだとこうはならない。男の人の体って、筋肉ってすごい。
「圧迫感ない?」
「へいき……」
圧迫感と呼ぶには心地良すぎた。司は百八十後半の長身で、百六十そこそこの光とライリーでは頭ひとつ分違う。すっぽり懐に収められて、優しく抱き締められると安心感が凄まじかった。
それはライリーも同じかもしれない。光はまずライリーに抱かれ、さらに脇から覆い被さる形で司にハグされていたが、自分を抱き込むライリーの肩がふと柔らかくなった。感触が変わってようやく、彼女の体も強張っていたのだと気付いた。
いやらしさのない優しい手つきでぽんぽんと肩を叩かれると、逆立っていた毛並みを宥められている気分になった。
「知らない男にいきなり抱き付かれて怖かったね」
「……はい」
「ライリー先生がすぐ気付いてくれて良かった」
「はい」
「ううん、もっと近くにいれば良かった」
ぎゅ、とライリーからのハグに力がこもった。
「そしたら指一本だって触らせなかったのに。遅くなってごめんね」
「謝らないでください。ライリー先生すごかったです。スマホは無事でしたか?」
「てへ、液晶割れちゃった」
三人でくっついたまま、普通に会話しているのが何だか少し面白くなってくる。
「投げたんですか?」
「緊急事態だったのでつい」
「有効手段として投げつけられるスマホ、初めて見ました」
「ははっ」
無駄にぶん投げられて壊されてきた電子機器を思ってそう感想を述べると、夜鷹の悪癖を知っている司が声を出して笑った。その振動が触れている体から伝わる。
温かな胸に耳を擦り付けると、あの男の吐息の感触が遠のく気がした。
「ライリー先生が隙を作ってくれたから、私、逃げられました」
「そっか……怖かったのによく頑張ったね。二人とも偉い。すごく偉いよ……」
ぎゅ、と少しだけ強く抱き締められて、息は普通に出来るのに胸が苦しくなった。でも嫌な感じじゃない。それどころかもっとしてほしい。
司はすぐに腕の力を緩めて、元のやんわりと包み込むハグに戻ってしまった。これも悪くなかったが、光はさっきの方が良かった。もう少し強く抱き締めてほしい。すでに恥を晒しているのだから、我慢しても何の意味もない。
「あの、もっと」
「ん?」
「さっきみたいに、強めに」
「強いのがいいの? 苦しくない?」
「苦しくていいので」
「私も。強い人に守られてる気がして、安心します」
ほう、と溜め息混じりのライリーの言葉に、司が眉を寄せて目を細めた。その瞳に欲望の色など欠片もない。美女二人を腕の中に収めておいて、浮かんでいるのは労りと慈しみばかりだ。
痛みを堪えるように顔を歪めて、今度の司は先ほどよりもう少しだけ強く、ぎゅうっと抱き締めてくれた。
そわそわと落ち着かないような、背筋がうすら寒いような不快感が和らいでいく。ハグはストレス軽減の効果があるというが、それを実感した。
しがみつきたい衝動に駆られたが腕が上がらない。光は司のダウンを肩から掛けて、その上から抱き込まれていた。拘束されているけど怖くない。
今の光には、正面のライリーの腰に抱きつくのが精一杯だった。ライリーからも強く抱き締められる。衝動に任せて司に腕を回せなくてきっと良かった。
光は孤児だ。親に抱かれた記憶は残ってない。その代わり血が繋がっていなくても、たくさんの人が光を愛して、抱き締めてくれた。光を引き取ってくれた狼嵜家の女当主、エイヴァや汐恩、幼い頃の理凰。ライリーだってその一人だ。
しかし大人の男の人に抱き締められたことはなかった。幼い頃には夜鷹がリンクで抱き上げて滑ってくれて、鴗鳥が肩車をしてくれたことがある。どちらも大事な記憶だったが、抱擁とは少し違った。
二人とも光を気遣っていたのだと解っている。でもたまにリンクや大会で父親に甘える少女たちを見て思うことがあった。時折無性に心細くなることがあった。お父さんにだっこされるってどんな気持ちだろう。
光の身近な大人の男性といえば、夜鷹と鴗鳥だ。でも絶対にそんなこと頼めない。呆れられたり困らせたりしたくない。夜鷹には失望されたくない。鴗鳥には心配かけたくない。
感傷に浸るよりも練習しなければいけなかった。今の生活を壊したくなければ失敗は許されないから。自分の弱さをそう切り捨てて、これまではやってきた。
女の人にもらうハグだってあたたかい。柔らかくていい匂いがする。
でも、信頼できる大人の男性からもらうハグはまた別物だった。女性より大きな体、強い力に大事にされる頼もしさ。
(……お父さんに守られるって、こんな感じかな)
もちろん司は父にしては若すぎる。歳の離れた兄の方が相応しいだろうが、司の包容力が父性を思わせた。
司は光にとって良い子でいたい大人じゃない。わがままを言って困らせることなんて夜鷹や鴗鳥には出来ないけれど、司ならいいかと思える。
司は人を甘やかして堕落させるところがある。しかも頑固だ。光が司に折れて、甘えや弱さを見せてしまうのは不可抗力だ。
そう心の中で言い訳して、司の腕の心地よさに浸っていると、彼が小さくぼやいた。
「あー、くそ、アイツ、やっぱり殴ってやりたかったな……」
何やら物騒な呟きだったが、そうやって腹を立ててくれることは嬉しかった。光を害した存在に対して、司が怒っている。
「殴っちゃダメです。あなたが捕まっちゃう」
「だから我慢したんだよ」
「あなたに何かあったら、いのりちゃんにも迷惑かけちゃう……」
自分で言葉にしたことで、光はハッとした。大事ないのりの専属コーチを自分の揉め事に巻き込んだ。もしかしたら司は加害者になっていたかもしれないし、大怪我していた可能性だってある。男は刃物を持っていた。
やっとそういうことにも考えが及ぶようになって、光は落ち込みそうになった。自分のことで頭がいっぱいだった。あまりにも司が軽々と男をのしたので、危険性の認識が甘くなっていた。
「……巻き込んでごめんなさい」
「いいんだよ。むしろ巻き込んで」
深刻な心地で謝罪したのに、当の司が安請け合いするので光はムッとした。
「いのりちゃんのこと、ちゃんと考えてますか?」
「考えてるよ。でも自分の保身のために、女の子の窮地を見て見ぬふりするようなコーチはいのりさんにふさわしいと思う?」
そんなふうに言われてしまうと。
「……思いませんけど」
「いのりさんなら絶対によくやったって褒めてくれるよ。気にしないで」
「ふふ、司先生の踵落とし凄かったですね……格闘技されてるんですか?」
「いや全然。でもカンフー・ナルキッソスは何十回も見ましたね。武術の動きも研究しましたよ」
「なるほど、意外な副産物ですね。とても格好良かったです」
ライリーがそう褒め称えても、司は得意になるでもなくほろ苦く笑った。
「すぐに捕まえられて良かった……でも怪我がなければ無事というのは乱暴な話だよね。迷惑なんて気にしないでほしい。どうか光さんの感じた苦しみを押し殺さないで」
ぎゅう、と大事に抱え込まれる。宝物のように。
「俺たちのために抑え込まないで。素直な気持ちを教えてほしい。光さんの苦痛が和らぐなら俺たちはなんだってしたいよ。どうか頼ってほしい」
ライリーが光のこめかみに頬を寄せて、司の言葉に同意するように頷いていた。
損得なしに、ただ子供だという理由だけで、力を尽くして守られる。司の庇護を受ける度に後悔していることがある。
『子供を守る事が出来ない大人だって非難されるのが怖いだけのくせに』
ーーあんなこと言わなきゃ良かった。
いつか司に投げたひどい言葉。司は違ったのに。むしろどんなに非難されたって守ろうとしてくれる大人だったのに。
◆
言い訳するなら、当時の光はまだ子供だった。視野が狭くて、まだまだ見えていないものが沢山あったのだ。
光はノービスの最後の年、東京のスターフォックスFSCに移籍した。スターフォックスはヘッドコーチのライリーを慕い集まった新しいクラブだ。生徒も同年代ばかりで距離が近い。クラブメイトたちは光を過度に恐れることなく、レッスンの合間にも気さくに話しかけてくれた。
ジュニア期はスケートをやめるか続けていくかの選択を迫られる時期でもある。彼女たちの葛藤に光も触れることがあった。
「光ちゃんは引退後のキャリアってもう考えてる?」
「え?」
「私は将来海外で暮らしたいから仕事も外資系に就きたいのね。大学は行きたいところ決まってるんだけど、そうなると塾増やした方が良くて。でも練習も減らしたくないから、悩んでる」
「今も塾通ってるの?」
「うん、土日にね。光ちゃんは大学決まってる? どんな勉強してる? 光ちゃん頭いいから教えてほしい」
「……その頃もスケートに集中したいだろうから、スポーツ特待がある大学かな。勉強は基本的に授業と課題で何とかしてるけど、英語は小学生のとき習ってたよ」
「英語苦手ー! リスニングが無理!」
「あはは、でもリスニングならライリー先生がいるじゃない。英語でレッスンしてもらうのはどう?」
「スケートの単語は何となく分かっちゃうから意味なさそう……」
「確かに」
学業との両立、スケート以外の夢。みんなちゃんと考えていた。
スケーターをやめても人生は続いていく。当たり前のことだ。
光はまだスケートしか考えてなかった。オリンピックで金メダルを獲る。それだけが全てで、それ以降の生き方なんて考えてない。叶わなかったときのことなんて。
「目眩どう? 落ち着きそう?」
「大丈夫。光ちゃん、付き添ってくれてありがとう。もうレッスン戻って?」
「具合が急に悪くなったら怖いでしょ。もう少しいるよ」
「ありがとう……」
「外のダンススタジオに通うの、やっぱり大変なんじゃない?」
「運動量増えたし、まだ体が慣れてないみたい。スタミナつけなくちゃ」
「ちゃんと休めてる?」
「なるべく休んでるよ。移動も電車じゃなくてお父さんお母さんが車出してくれる。だから車でご飯も仮眠もできるんだ」
「そっか……でも大変じゃない?」
「自分でやりたいって言ったから。私フィギュアスケート好きだけど、ダンスにも興味があって、前から本格的に習いたかったんだ。結構筋がいいって褒めてもらえるの。もしかしたら私の適性はスケーターよりダンサー寄りかもね」
「コレオ上手だもんね」
「ほんと? 光ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいな。ライリー先生もね、やりたいことは何でもやってみろって背中を押してくれたよ。お母さんたちも、可能性はどこにあるか分からないから、好きなことなら頑張ってみなさいって、お仕事大変なのに協力してくれてるの」
「その通りだと思う」
「えへへ……スケート一筋にしようか迷ったけどね、ここで諦めたら後悔すると思ったの。スケートだけ頑張って、ダメだったら何も残らないなんて嫌だった。大好きなフィギュアスケートのこと、恨みたくないもん」
「……あなたなら両立できるよ」
「うん、頑張る。ありがとう光ちゃん」
可能性を潰さず選択肢を残すのは、『今』をやり尽くすためでもあった。スケートを選んだことを後悔しないために。それを保護者も懸命にサポートしていた。
逃げ道を用意しておくのは甘えじゃないか、という考えもほんの少しあった。普通の子たちがスケートに懸ける思いは結局その程度なのかと。
そんな気持ちも、考え直させる出来事があった。
スターフォックスはライリーの求心力が強力なクラブだが、それでもクラブを辞めていく子はちらほらいた。移籍ではなく競技自体を断念する形だ。
本人の意志なら仕方ない。しかし本人が望んでいても環境に許されず、泣く泣く辞める子もいた。
「光ちゃん」
今日で辞めるとレッスンの終わりに挨拶していたクラブメイトに引き止められた。思い詰めた、苦しそうな表情をしていたのですぐさま寄り添った。
「どうしたの」
「ごめんね。少しだけ、時間ある?」
無人のスタジオ室にこもって話を聞いた。彼女は兄姉の学費のために、金銭的な都合によってスケートを辞めると打ち明けてくれた。
「そんな……」
「でもね、仕方ないの。私だって将来は大学進学したいし、できれば留学もしたい。それなのにお兄ちゃんお姉ちゃんには我慢してほしいなんてズルいもん。ただでさえずっとスケートやらせてもらって、お母さんは私にかかりきりで、お父さんもいっぱい働いて……私にすごい実績があるならともかく、入賞はできても表彰台にも乗れないレベルだもん。これ以上犠牲になってほしいなんて言えない」
犠牲、という言葉にドキリとした。
「今までいっぱい助けてもらって、続けてこれただけで奇跡だった。今度は私が助けなくちゃって思った。だからフィギュアスケートはずっと大好きだけど、競技としてやるのは終わりにするんだ」
「……そっか。打ち明けてくれてありがとう」
「ううん。聞いてくれてありがとう……光ちゃんは私の憧れだったから、私が軽い気持ちでスケートをやめると思われたら嫌だなって、言い訳したくなっちゃった。軽蔑されたくなくて」
「っ、軽蔑なんて、しない。絶対」
「……光ちゃん、ありがとう。光ちゃんのスケートが、強くて綺麗で大好きなの……ずっと応援してるよ。オリンピックで金メダル獲ってね」
光は親こそいないけれど、養家から金に糸目をつけず、口出しもされない支援を受けている。自分はとても恵まれた環境にいるのだと改めて認識した。
ライリーは光の無意識の傲慢さを見抜いていた。クラブメイトが一人減った翌日、二人きりになった隙に問いかけられた。
「スケートのために何もかも捨てられなかった子は仲間じゃないと思う?」
「そんなわけない」
すぐさま否定した光に、ライリーは嬉しそうに頷いて見せた。
スケートのために積み重ねられた仲間たちの努力を知っている。優先するものが違うだけで優劣なんてない。自分の物差しで人を測ってはいけない。かつて司にも言われたことだった。
勝利のためには犠牲が必要だという教えを光は信じている。でも、何もかもを捧げることはできないことも本当は解っている。
光だって犠牲に出来なかったものはある。ライリーのクラブに移籍したのは自分の成長のためだったけれど、きっかけは慎一郎が過労で倒れたことだ。自分がいることで負担を掛けて、恩師をこれ以上すり減らすことが嫌だった。犠牲にしたくなかったから離れた。
光の存在は、かつての理凰も苦しめていた。理凰は、優しくて強かったから、光の犠牲にならないでいてくれた。でも、もしも理凰が折れてしまっていたら、光は慎一郎に、エイヴァに、汐恩に、顔向けできただろうか。
光に優しくしてくれたあの家を犠牲にしていたら、光は今ほど輝けただろうか。
青森での全日本ノービス大会を終えた夜、司に言ったことの全てが間違っているとは思わない。いのりはスケートに打ち込みたがっていた。どんな犠牲を払ってでも強くなりたい気持ちを、大人の価値観で押さえつけるな。光は子供の、選手の立場で訴えた。
光はいのりというライバルを失いたくなくて真剣だった。自分と同じ熱量でスケートにのめり込んでいる少女。光が誰より強くても諦めない子。泣いて悔しがって、どこまででも追いかけてくれる。
だからといって、光が口出しできることではなかったのだ。光はいのりの人生に対して、それこそ何の責任もないくせに。周囲の目が怖いから安全な道ばかり選んでるんだ、なんて選手に寄り添って同じ道を走ってる人に言うべきじゃなかった。
司はたとえ遠回りだとしても、いのりをなるべく危険の少ない道へ誘導しようとしている。いのりが少しでも取りこぼさないように。そして最後はオリンピックの舞台まで辿り着くために。それがいのりへの愛情ではなく、司の保身だなんて光が決め付けるのは、今思えば短絡的な思考だった。
ーー本人がどんなに望んでも、道が閉ざされてしまうことはある。
ーー子供の意志を尊重するために、選択の幅を広げようと、大人は大人なりに頑張ってくれている。
ーーただ一つの道を邁進できるよう整えることも、別の道を残しておくことも、どちらも間違いじゃなかった。
ーー犠牲は、必要だ。何も失わないでいようなんてムシがよすぎる。しかし何でも払えばいいというものではない。
いのりに犠牲を払わせて。スケートのために全部捧げさせて。乱暴な言葉だった。叶わなかったとき、いのりはどうなる。終わった後で、いのりは。
光の言っていたことの方がずっと自分勝手だった。いのりに勝ちを譲る気なんてこれっぽっちもないのに。
当時の光は司を舐めていたとは言え、彼の過去を馬鹿にするような発言をしたのも良くなかった。いのりを生ぬるい場所に置こうとするから、自分のこともきっと甘やかしてきたのだろうと、意気地なしと見下した。司のことを何も知らなかったくせに。
あのときは司が傷付いてもいいと思った。いくらいのりと理凰が懐いていても、自分には関係ない。こんな人には嫌われてもいいと。
自分の大切な人たちにとって、ますます大きな存在になるなんて想像してなかった。自分が、嫌われたくないと願うようになるなんて、思いもよらなかった。
非を認めたなら謝るべきだと光の良心は訴える。でも抵抗がある。
許されなかったらという一抹の不安。光の好きな人たちの大事な人に、お前だけは嫌いだと言われたら。胃の底が重くなるような憂鬱感がある。
でもこれが光の妄想でしかないことはわかっている。司は絶対そんなことを言わない。きっと笑って、必ず光を許してくれる。だから余計に謝りにくい。
光の謝罪は、自分が楽になりたいだけだ。未熟だった自分の暴言に対して償えるもの、司の許しに報いられるものが何もない。
いつか司のために、何かしてあげられることがあれば、と光は思った。なにか価値のあるものをこの人に差し出せたら、ようやくそのときに許しを乞える。
こういうことにこだわるのも子供っぽい感じがして本当に嫌だ。でもこれ以上司の優しさに甘えたくない。
「……守ってくれてありがとうございます」
まだ今は謝れないから、せめて感謝だけは。司は大したことじゃないと言いたげに、小さく首を振って笑った。
◆
ぎゅうっと最後にもう一度腕に力を込めてから、司は光たちを解放した。そして光の前に跪く。
「さっきの振付確認見てたよ。いつもみたいに動けてなかったね。原因は解る?」
ぐっと唇を噛みたくなるところを、耐える。光の苦痛を癒したいと願ってくれた人を信じたかった。口に出すのも厭わしいこの苦しみを癒してほしかった。
「……開脚するとき、思い出します。私のこと、やらしいって言ってた」
「っ、アイツ……」
光を見上げていた司が眉間に皺を寄せて、薄暗い目付きで床を睨んだ。膝の上に乗せられたこぶしが固く握りしめられる。
「もっと早く黙らせるべきだった。ごめん」
「あなたのせいじゃないです」
あの男はこの施設の警備員で、たびたびリンクに現れる光に以前から目を付けていた。そして今回光が司と気安く話していたことに嫉妬して、光に直接接触してきた。司の非はどこにもなかった。もちろん光も悪くない。一般常識としての光の挨拶を個人的な好意と曲解していたあの男が全て悪い。
「棄権はしたくない?」
「絶対しません」
ライリーに肩を抱かれながら、光はまっすぐに司を見据えた。顔を上げた司と目を合わせて、強く宣言する。
「私は、出場する全ての大会で金メダルを獲る」
「光さん、それは」
司はかつて光と夜鷹が交わしていたコーチの条件を知っている。師弟関係を解消した今となっては意味がなくなった。でもそんなことは関係なかった。
「私が、そうしたいの。あのひとを超えたい」
これは狼嵜光の譲れないプライドだ。夜鷹純にスケートを教えられて、かの人のスケートの全てを一身に注がれた。彼の血肉を喰らって育った獣としての誇りがある。
「光さん……」
「やめろって言わないで。絶対大丈夫って、私は負けないって言って」
いつもの司には願えないことだ。司は光のライバルであるいのりのコーチで、いのりの勝利を誰よりも心から祈っている。
でも今日の大会にはいのりは出場していない。だから今だけは司に光の味方をしてほしい。
「私が勝つと信じて。私を信じて」
じっと見つめていると、気遣わしげだった司の表情が次第に精悍なものへと変わっていく。きりりと引き締まり、でもどこか温かさを感じる、頼もしい面差しだった。
「狼嵜光は俺の尊敬する偉大なフィギュアスケーターです」
「っ、」
「あなたの美しさがわからないあんな奴になんて絶対負けない」
「はい……!」
芯の通った静かな声で、背筋がしゃんと伸びる心地がした。
「目が腐った男の言葉なんか信じないで。やらしくない。フィギュアスケートは全て美しくて尊いよ」
氷に乗れない人の言葉なんて信じなくていいと子供の頃から思っていた。今もその気持ちに大きな変化はないけれど、狼嵜の家など氷の外で光を支援してくれる人たちのことを思えばやはり極端な思想だろうか。
言い換えるなら、フィギュアスケートを愛している人の声だけ聴いていたい。この人のような。
「イメージを変えたい、です」
私の振付、踊って見せてくれませんか。
光は司にそう願っていた。以前いのりから聞いたことがあった。司は一度見た振付はほとんど再現できると。
司は思いがけないことを言われたというように目を瞬かせていたが、この状況では光の望みを断らなかった。
「……俺でよければ」
そう苦笑いしながら頷いて立ち上がった。
ダウンとジャケットはそれぞれ光とライリーに貸し与えたままだったので、司はシャツとスラックスというシンプルな衣装ですっと手足を伸ばした。長い四肢が踊るための姿勢を取るとそれだけで見栄えする。音源を求めることなく、司は踊り出した。
今シーズンの使用曲はすでにテンポから細かなアクセントまで全て体に染み込ませてある。頭の中で流れるそのメロディと、寸分の狂いもなく一致するコレオグラフィーに光は内心唸ったーー上手い。
光は一流のものばかり与えられてきているので目が肥えている。歴代コーチもさることながら、ロシアの国立バレエ団所属だった元ダンサーの振付師など、ずば抜けて踊りが巧みだ。その水準に慣れている光が違和感を覚えないレベルで踊れるなんて相当だった。
ぎこちなさのない自然な踊りを目で追っていると、体が振付を思い出してきた。ああそうだ、こういう風に踊るんだった。
そして思う。なんだ、ぜんぜんいやらしくない。司の踊りは綺麗だった。全身で表現される躍動感、人間の身体の美しさ。同時に踊る側だから解った。この振付は過酷だ。
手足を高く大きく操る動作は氷の上だと難易度が跳ね上がる。魅せる緩急を作るには指先までのコントロールが不可欠だ。そのために必要な筋力や柔軟性、スタミナ。困難なことをいとも容易くこなすために、光たちは何百何千という時間を練習に費やす。
フィギュアスケートの、特に女子の衣装やポーズは不躾な目で見られることがたびたびある。セクシーさを前面に出すような振付も。選手の容姿が人気に火を付けるようなアイドル化現象だって珍しくない。
それでもやはりフィギュアスケートの本質はスポーツで、芸術だ。下品な評価に怯んでいては身体表現を極めるなんて到底できない。そんな些事に意識を割くなんて無駄すぎる。
あんな目どころか性根まで腐った男の言葉に惑わされて、一瞬でも動揺した自分がますます悔しかった。馬鹿みたいだ。
レオニードが作って、ライリーが磨いてくれた振付。あのひとが光に残してくれたもの。司が思い出させてくれた。
こんなに綺麗な踊りを中途半端にする方がよほど恥ずかしい。次は意地でも完璧に踊り切ってみせる、と決意を新たにした。
それにしても、この人これで無名なのか。ラストのスピンコンビネーションを優雅なバレエターンにアレンジしている司を見て光は呆れた。
一体何故これが評価されなかった。アイスダンスはそんなに競争が厳しいのか。そもそもこの人は現役期間が異常に短かったはず。もっと選手を続けていれば。アイスダンスはシングルと違って、三十歳を過ぎても活躍している選手だって珍しくないのに。どうしてこの人は二十代前半で引退したの。
ぐるぐる考えて、結局光がわかっているのは司のことをほとんど知らないということだった。
……やっぱり馬鹿にしなければ良かった。若気の至りが憎い。
脳裏で再生されていた音楽のラストと司のフィニッシュポーズが同時に決まったとき、光は無意識のうちに険しい顔になっていた。
「お、お目汚し失礼しました……」
「は?」
おずおずと気後れしたような表情でお辞儀する司に光は声を吊り上げた。
「何言ってるんですか」
「だって、このプログラムの素晴らしさは俺の身体じゃ十分に再現できないから。柔軟性も表現の優美さもまるで足りないのに、本人の前で踊るなんてこれでも滅茶苦茶恥ずかしかったんだよ」
それはそうだ。この振付は天才振付師レオニード・ソロキンが今の光の魅力を最大限引き出せるように作っている。女子選手が踊る前提の構成なので司の嘆きは当然だけど、あれだけのものを見せられた後だと謙遜が過ぎる。
「だからね、本物を見せてくれますか?」
「ーーはい」
負けたくない。もうあの卑劣漢は光の眼中になかった。今はこの目の前の、明浦路司への対抗心で燃えている。
光はダウンコートを肩から外して傍らのライリーに預けた。司と入れ替わりで廊下の中央に立ってポーズを取る。
司の言う通りこの振付は狼嵜光のものだ。この世界の誰よりも光が一番美しく踊れなくてはならない。司には負けない。
最初から最後まで集中して、指先爪先にまで神経を張り巡らせて丁寧に踊って見せた。司とライリーが光の演技を見守っている。
司の視線を全身で感じる。司の意識が光の一挙手一投足に注がれている。類い希なる観察眼で見定められる緊張感は、夜鷹との曲かけ練習を思い出させた。
余計なことなど一切考える暇もなく、光は踊り切っていた。司は真顔で小さな溜息をついた。
「……綺麗だ」
思わず漏れたような感嘆が誇らしくて、光は会心の笑みを浮かべた。そんな光の笑顔を目の当たりにして、司とライリーも相好を崩した。
「ライリー先生、いかがでしたか」
「んー、ここまで見せられちゃったらね」
そわそわした司に評価を求められて、ライリーは顎に手を添えて腕を組んだ。ニッと挑戦的な瞳が光に笑いかける。
「本番でも同じように出来るかな?」
「はい!」
今回の目標はステップシークエンスでレベル四を取って金メダルを獲ることだ。司が見ている前で絶対失敗なんてしない。凍えていた体が熱を取り戻した。
〈三〉
当初の予定では、朝の公式練習が終わった後はスターフォックスの専用リンクに一度戻る予定でいた。車でも電車でも一時間ちょっとの距離にホームリンクがあるので、最終調整の場所に困らないのはクラブの強みだ。他の所属選手たちはアシスタントコーチの車で移動している。
しかし光たちは事件とその後の調整で時間が掛かってしまったため、会場近くのホテルで夕方までの時間を休息に当てることにした。夜の試合後から睡眠時間を長く確保するために元々宿泊予定だったのだ。
極度の緊張状態とそこからの緩和を経て、光の精神は消耗が激しかった。ベッドで休める状況になると抗い難い眠気が襲ってきた。
「ピカるんおねむ?」
「すみません……」
「いいよ。少しお昼寝しよ。すっきりしてからまたアップすればいいから」
「はい……」
ライリーに付き添われて光は取っていた個室に入った。地方遠征組で同じホテルに泊まるという司も、部屋の前まで送ってくれた。
「ゆっくり休んでね」
「……おやすみなさい」
大きな声でいつも騒いでいるような印象の司だが、「おやすみなさい」と返す声は穏やかで耳に馴染んだ。
楽な格好に着替える際に、借りていたダウンをドレッサーの椅子に掛ける。振付をおさらいした後に返そうとしたが、ジャケットを羽織り直した司に「今日はそのまま着てる?」と訊かれて、思わず頷いていた。
ジャージやその下の衣装を脱ぎ落とし、ナイトウェアを着てベッドに潜り込んだ。
とろとろと瞼を落としかけている光の様子を見て、ライリーも優しく囁いた。
「じゃあ後で起こしに来るからね、おやすみ光ちゃん」
「おやすみなさい……」
ぱたん、とライリーが退室して扉が閉まる音を聞いてから、光はシーツの中でナイトウェアを脱いで下着姿になった。
薄着の方が快適に眠れる。もっと子供の頃は寝るときにもぞもぞするのが気になって、裸で寝ては理凰に怒られていた。ライリーが起こしに来る前にアラームで起きよう。
「…………」
それから少し考えて、光は一度ベッドから起き上がると青いダウンを手に取った。再びシーツの間に体を滑り込ませて、その上からダウンを被る。
体の熱が逃されずにこもって、あっという間に暖かくなったベッドの中で意識が溶けていく。
悪夢の気配が忍び寄ってくるより早く、光はぐっすり寝入っていた。心地よい午睡だった。
光の部屋の外では、司が扉横の壁に背を預けてライリーが出てくるのを待っていた。
「光さんの様子は」
「すぐに寝つけそうでした。きっと大丈夫」
ひそやかな会話を交わしながら廊下を戻り、二人はエレベーターホールで向き合った。
「司先生にご相談があります」
「はい」
光について部屋に入る際、ライリーはじっと意味深な視線を司に寄越した。光のことでまだ何か話があるのだろうと察して、司は待機していたのだ。
「今夜の試合、ついてきてもらえませんか」
「俺がですか」
「はい。クラブも違うのに無理なお願いは承知しています。でもアイスダンスの日程は明日からでしたよね」
試合前も所属選手のケアに努めないといけないのは解っていますが、とライリーは強く訴えてきた。
「光ちゃんは気丈にメンタルを持ち直してくれましたけれど、相当の無理をしているはずです。いざというときに守ってくれる、身近な男性がいる方が心強いはずなので、どうか今夜だけでも」
ライリーの嘆願を受けて、司の気持ちはほとんど決まっていた。もうきっと光は大丈夫だけど、放っておけるかは別の話なのだ。
氷のように冷たかった光の細い指を思い出す。あんなに凍えて、緊張して。でも絶対に負けないと奮い立った、気高い少女の力になりたかった。ガタイのいい男はそばに立っているだけで盾になると司も知っている。
「瞳先生と引率の生徒に相談させてください。あといのりさんにも。今回の事情と、念のために警護を固める手伝いがしたいことを説明します。それで全員の了承が取れれば」
幸いなことに連絡はそれぞれすぐについた。通話で瞳と生徒、いのりからも承諾を得て司は頷いた。
「俺でよければ」
「ありがとうございます……!」
ライリーは深く頭を下げてきた。
「お時間をいただく代わり、お礼は充分にさせていただきます。司先生にもルクス東山にも」
司は反射的に断りかけて、ライリーの毅然とした表情に口を噤んだ。
ライリーは光のコーチとして、クラブの最高責任者として司に臨んでいる。この申し出を断ることは、選手を守るために相応の対価を払う姿勢を否定することになる。
「……それではこちらのお願いも聞いていただけませんか」
「何なりと」
即答だった。司は感嘆の溜息を吐いた。ライリーの潔さにも、そうさせる光にも。
彼女が差し出すものが大きければ大きいほど、それは光の価値になる。あの才能を守るためなら何を払っても惜しくないとライリーは告げている。
それなら司も遠慮はするべきでない。ライリーがその気なら、司にも望むところがある。
「ライリー先生のクラブは都内に専用リンクをお持ちですね」
「ええ」
「今夜と明日、うちの生徒の調整に使わせていただきたいです。全面を使った曲かけがしたいんです。一枠が難しければ三十分でも」
「!」
ライリーは目を丸くした。都内近郊にはいくつかリンクがあるが、大会期間中に地元でないクラブが貸切を確保することは容易ではない。
司が望む対価は、今大会でルクス東山から出場するアイスダンスカップルの調整場所だった。金銭どころか、自分のためでなく生徒のための願いごと。司はいつだって子供の利になることを優先している大人だった。
「……やっぱり好き」
「え?」
「フフッ! 承知しました。ご案内できる時間を確認しますね!」
「え、はい、よろしくお願いします!」
ニコニコ笑顔で快諾がもらえたことに気を取られて、司は意味がよく解らなかったライリーの呟きをそのまま有耶無耶にした。
試合時間が近付き、夕方には再びホテルから会場へと移動することになった。そんな光たちと司はエントランスホールで再会した。
ロビーの片隅に立っていた司は光とライリーに気付くと、にこっと笑って歩み寄ってくる。
「光さん、ライリー先生」
光が彼を呼ぶ前に、司が朗らかに光たちを呼んだ。いつものように『狼嵜選手』ではなく、いのりや理凰を呼ぶのと同じように。
明浦路先生。そう呼びかけて、光は開いた唇を一度結んだ。
別にわざと距離を作ろうとして苗字で呼んでいた訳ではない。他所のクラブの先生だし、慎一郎や理凰が当初そう呼んでいたから、特に意識せずそれに合わせていただけだ。
でもこの業界では、どちらかといえば下の名前で呼び合うのが一般的だ。コーチも選手も関係なく、それなりに人となりを知っているような相手ならなおさら。
『司先生』と呼んだら、彼はどんな顔をするだろう。そんな想像をしながら、光はいまだ呼べないままでいる。
「……どうかしました? 誰かと待ち合わせですか?」
「光さんたちを待っていたんだ」
「?」
司と話しながら、光は周囲の注目を感じた。自分やライリーも人目を集める容姿なのだが、司の長身も日本だとかなり目立つ。しかもスーツ姿は昼間と同じだが、今は髪を上げていた。
きちんと身なりを整えて、姿勢良くびしっと立っていると……うん。
「今日と明日、ライリー先生のリンクをルクスの生徒が使わせてもらえることになってね。そのお礼に今夜はライリー先生のお手伝いをすることになったんだ」
「……私なら平気ですよ」
このタイミングでの司の同行。ライリーの手伝いは名目で、自分のための条件だと光は悟った。
「ピカるんが嫌なら外すけど、出来れば連れて行きたいな〜。普段は同じ女子シングルに出るから無理だけど、一度司先生を侍らせてみたかったんだよね!」
きゃぴ、と笑うライリーに司が頬を引き攣らせた。
「冗談ですよね?」
「ウフフフフ~」
このテンションのライリーは光も苦手だ。冗談とは解っていても、光の真面目さではこのノリについていけない。それは司も同じようだった。ライリーのペースで転がされないように、念のためぼそっと助言しておく。
「油断してると頭から丸呑みにされますよ」
「肝に銘じるよ……」
締まらないやり取りで肩の力が抜けた。今回もおそらくライリーは計算で司は素だ。
「ま、まあそういう訳で……今夜はあなたに同行させてください」
こほん、と司は咳払いで仕切り直し、光の目の前に跪いた。この仕草が天然なのだから、ある意味恐ろしい。
「本当に大丈夫ですよ」
「あなたがどうしても嫌でなければ、どうか今夜だけ。お願いします」
真摯な瞳に見上げられる。あくまで乞う立場を崩さない司に、光はこくりと頷いた。
ちゃらけたやり取りはロビーでの一幕だけで、移動のタクシーに乗るときから大人たちの様子は一変した。
ライリーはいつも抑えているカリスマコーチのオーラを全面に出して、どうでもいい有象無象は自分たちに近付けない。そして司は案の定ライリーではなく光に侍っていた。車の乗降から細やかにエスコートしてくれた上に、会場では常に光の傍らに控えて周囲を警戒していた。すごくちゃんとした大人の男性に見えて変な気分だった。
取材のときは下がって、戻れば光を外部の視線から隠すように立つ。さりげなくガードされていることが伝わってくる。凛々しい表情で堂々と振る舞っているので、周囲も司を邪魔者にできない。もしかしたら本職のボディガードだと思われているかもしれなかった。
会場では高峰匠も合流した。ウォーミングアップしているところに現れた姿に光は目を丸くした。
「匠先生? どうしてここに」
「ステップの振付見直しただろう。その確認だ」
そんなこと言って、当初は現地入りする予定じゃなかった。ライリーか司が呼び出したに違いなかった。
光が匠と復習する様子を並んで見守りながら、司はライリーと小声で会話していた。
「スターフォックスに男性スタッフはいますか?」
「匠先生のように関わってくださる方はいますが、常任はいないですね」
「差し出がましいですが、信頼の置ける方に出来るだけ帯同してもらうことをお勧めします。そばにいるだけでもある程度不審者の抑止になるので」
フィギュアスケートは元より女子供が多い業界だ。女性コーチの方が基本的に指導がきめ細やかだったりコミュニケーション能力も高かったりして人気だが、防犯対策となれば男性コーチの存在がやはり大きくなる。
「光さんを始めとして所属選手の活躍が増えるにつれて、今回のようなことがまた起きるかもしれません。あってはならないことなのですが、対策は必要だとライリー先生なら分かってらっしゃると思います。クラブに直接関わってもらうことが難しいなら、ひとまずは警護だけでも」
「はい。出来るだけ早急に対応します」
ライリーが朗らかに応じると、司は決まり悪そうに目を伏せた。
「本当に差し出がましくてすみません。俺なんかより、ライリー先生の方が生徒やクラブのことをずっと考えてるのに。どうか気を悪くされないでください」
「とんでもない。なんで司先生を悪く思うんですか。子供たちのことを心配してくださってのお言葉だと解っています。私は嬉しいです」
にこやかな表情に嘘はなかった。ライリーがとても生徒思いなコーチであることを司は知っている。完璧な笑顔の下では、今回の光の件で心を痛めているだろうことも察していた。
「……ライリー先生のことも心配してますよ」
「あら」
「なんでも出来てしまうしっかりした方だと承知してます。でも抱え込まないでくださいね。スターフォックスには優秀な方が揃っているんですから、頼ってくださらないと周りは寂しいと思います、よ?」
これも余計な口出しだろうかと、最後には迷いながら司はライリーを気遣った。五輪金メダリストで、有名クラブの創立者かつヘッドコーチで、元選手としてもコーチとしてもライリーの足元にも及ばない司が彼女の心配をするなんて烏滸がましいかもしれない。
けれど年若い女性は気苦労も多いだろうし、ライリーが一人で全て背負えるほど選手たちへの責任は軽くない。彼女の周囲には彼女の力になりたい人が集まっているのだから、全員が協力して選手たちを守っていけることが理想だ。
要領が良くて甘え上手な人でもあるから本当に大きなお世話かもしれない。でも今日のことで、ライリーはきっと自分に腹を立てている気がした。どうして守れなかったと。
次こそはとすでに切り替えて、あれこれ対策を練っているようなタイプだが、憤りの感情は残っているはずだ。自分を追い詰めてほしくなくて、周りから抱えるな頼れとよく注意される自分の反省も踏まえて、司はそう言葉を掛けていた。
光に違和感がないか観察していると、とん、と軽く肩をぶつけられて「ありがとうございます」とライリーが囁いた。
「信頼できる男性コーチ、スカウトしちゃおうかな〜」
「んん?」
「司先生なら大歓迎ですよ?」
「ううん、それはちょっと……」
ちょっかいを上手くかわせずたじたじになってしまう司をからかうように、ライリーはころころ笑った。
そんな二人のやり取りを少し後ろから眺めていたスターフォックスのアシスタントコーチ陣は複雑だった。彼女たちはライリー・フォックスの現役時代のファン、そして信奉者だ。
今回の件では、身を挺して光とライリーを庇ってくれた司に感謝している。クラブ外のコーチでありながらライリーのことも理解してくれていて、いつぞやの海外遠征でライリーを土下座させかけた罪ほろぼしの足しにはなっただろう。
ほんの少し司を見直した訳だが、ライリーと良い雰囲気になるには百年早い。からかって遊んでいると分かるから止めはしないが、ライリーは司がどうやらお気に入りだ。
ちょっと背が高くて、スタイルが良くて、顔もまあまあで、清潔感があって、笑顔が朗らかで、子供思いで、親切で誠実だからって、調子に乗るなよ……と背後から念を込めた眼差しで睨み、不穏な気配で司をビクッと震わせていた。
本番のショートプログラムで光は見事な演技を披露し、二位以下に歴然とした差を付けて首位に立った。
「光さん、偉い……!」
今日の今日で動揺が忘れられる訳もない。それでも完璧に演じ切った女王のプライドに敬意の念が湧き上がり、司はぶわっと号泣した。
隣に立つ高峰が呆れている。選手の送り出しや出迎えに混ざるのは図々しいだろうと、司は六分間練習が終わった後から光たちと少し距離を置いていた。高峰はそんな司と並んで、リンクサイドの端から共に光の演技を見守っていた。
キスクラから引き上げてきた光も、司の泣きっぷりに呆れていた。
「もっと体裁を気にした方がいいですよ」
「あんなに素晴らしい演技の後では無理だよ……でも今のセリフ、理凰さんに似てた」
「理凰にも注意されてるんですか」
光に自覚はなかったが、仕方ない人、と涙の止まらない司に苦笑するところまで、司に初めて心を許したときの理凰と似ていた。
他の選手に付き添うライリーに代わり、背の高いおっさん二人が光のクールダウンについていく。司はまだ目頭を押さえていた。
「うう、偉すぎる……」
「大の男がいつまでも泣くな。筋肉より涙腺を鍛えた方が良いんじゃないか?」
「鍛えたところで、尊いの面積拡大が止まらないので追いつきませんっ」
「お前何言ってんの?」
高峰のツッコミに光も内心同意していた。尊いの面積拡大ってなに。
「でもその無駄に付けた筋肉が、今回は役立った訳だな。犯人はちゃんと半殺しにしたか?」
「先生こそ何言ってるんですか?」
今度は司に同意だ。本当に何を言ってるのか。
「シメるだろ。俺は瞳を同じ目に遭わせる奴がいたら半どころか全殺しにする」
「こわ……ヤクザじゃん……」
悪口というには真っ当すぎる司のぼやきだったが、高峰からはぺしっと叩かれていた。随分と気安い雰囲気だ。
高峰と司はかつて師弟関係にあった。スケーティング特化の技術コーチとはいえ、司は光の兄弟子と呼べなくもないのだ。
高峰といる司は、普段子供たちに接しているときより若干態度が砕けているように見えた。力関係を探りたくなってしまうのは光の習い癖のようなものだ。
「……音楽聴きながらストレッチしても良いですか?」
「もちろんどうぞ」
選手に開放された調整スペースで光がヨガマットを敷きながら確認すると、司も高峰も頷いた。光はリュックから取り出したイヤホンを装着して、しかし音楽は流さないままストレッチを始めた。
光には聞こえていないと思っている状況で、この師弟がどんな話をするのか気になった。何も話さないかもしれないけれど、それならそれで別に構わない。
二人は光から少し離れた場所に立って、周囲を見渡したり光の様子を眺めたりしていたが、ふいに高峰が司に話しかけた。
「……光に随分目をかけてるんだな」
「え?」
いきなり自分のことを話題に持ち出されて光はドキリとした。態度には出さない。不自然に固まれば二人を警戒させてしまうだろう。
「お前の教え子にとっては敵だろう?」
「ライバルとして意識してますけど、別に敵じゃないですよ。いのりさんも俺も、彼女のスケートのファンです」
「……そうか」
そう。光といのりは、ライバルだけど敵じゃない。仲間だ。
光だっていのりのスケートが好きだ。観てるとワクワクする。本当に楽しそうに滑るから、スケートが大好きなんだと伝わってくる。
「俺は光を見ているとお前を思い出すよ」
高峰は光に視線を向けながら、どこか遠くを見ていた。
「光は物覚えが良い。目も良い。異常なくらい。お前と同じだ。お前に時間と金さえあれば、こういう特別な選手になっただろうって思わされるよ……」
「そんな……」
オリンピアンで引退後はコーチとして数多くの選手を育ててきた高峰匠から見ても、明浦路司は特別な才能を持っていた。
時間と金。光にあって司にないもの。それらは光が自分の力で手に入れたものではない。狼嵜の女当主が幼少期の光にフィギュアスケートを習わせようとして、夜鷹と引き合わせてくれたから光はスケートを始められた。光が引き取られた狼嵜家は裕福で、光にかける資金を惜しまなかった。
司は恵まれなかった自分の境遇を恨んでいるだろうか。恵まれた光を妬んでいるだろうか。彼の反応が気になった。
しかし司は光の想像に反し、意外なことを言われて戸惑っているような顔つきになった。
「そんな、時間と金とやる気があれば大抵の子は上達するのでは?」
「…………確かに?」
確かに。司の指摘はシンプルだが真理だった。
「物覚えとか目の良さとか、そんなことが特別だとは思いません。彼女の凄いところはそこじゃないです。光さんは、ううん、狼嵜光選手は、出場した全ての大会で金メダルを獲ってきている。必要な場面で必ず力を発揮してきた。どんなときも必ず。その胆力、その境地に至るまで積み重ねてきたものが凄いんです」
司の言葉には次第に熱がこもっていった。光は前屈の姿勢で顔を隠した。そんなふうに思っていてくれたなんて。
「時間やお金があれば誰でも出来ることじゃない。狼嵜選手は比類ない素晴らしいスケーターです」
「……そうだな」
「その強さでいのりさんのことも救ってくれた。俺は彼女を尊敬しているし、とても感謝しているんです。失意のいのりさんを、希望の光で照らしてくれたから……」
いのりが初めて出場した全日本ジュニア。光が初めて誰かのために、夜鷹純のスケートではなく狼嵜光のスケートを滑った日。フィギュアスケーターである狼嵜光が本当に生まれたのはあの日だと思っている。
あのときから光は自分自身で考えて道を選ぶことの難しさを知った。己を高みに連れていけるのは己自身だけ。しかしたくさんの人たちに守られて助けられていることを実感している。
「だから俺が力になれることがあるなら何だってしたいんです。いのりさんと狼嵜選手がオリンピックで戦うこと……彼女たちの最高の演技をオリンピックの舞台で観ることが、今の俺の夢です」
ーー司のために光が出来ること。それが何か、わかった。
光はストレッチを終わらせて、わざと「よいしょ」と声を出しながら上体を起こした。司たちの視線が光に戻ってくる。
その場に座り込んだまま、イヤホンを外して司をじっと見上げる。司は光のそば近くに寄ってきた。
「どうかしたの、狼嵜選手、あ、光さん」
「どっちでもいいです。狼嵜でも、光でも。どちらも私なので」
司は基本的にいのりと理凰以外の選手を名字で呼ぶ。馴れ馴れしくならないように距離感を気を付けている現れだ。下の名前で呼ぶのは、理凰は慎一郎と区別するためかもしれないが、他より彼と親しい存在だけだ。
彼に『光』と呼ばれるのは悪くなかった。でも司から『狼嵜選手』と呼ばれると気が引き締まる。光は司の親愛より尊敬が欲しいのだと気付いた。
光はずっと『明浦路先生』と呼び続けている。理凰や慎一郎が彼と親しくなって、呼び方を下の名前に変えても一人だけ。
どうしても名前で呼びたくない気持ちは今やない。もう今は司のことを認めてない訳じゃない。でも。だからこそ。
「手を」
そう言って光が手を伸ばすと、司は手のひらを上にして差し出した。光はその大きな手を両手で掴んだ。祈るように。
「明浦路先生」
膝をついて光を見つめる司の姿に、かつて光を導いてくれたあのひとの影が重なった。
「……必ずいのりちゃんを私のところまでつれてきて」
光を独りにしない女の子。彼女がいれば光はどれだけ強くなってもいい。世界最高の舞台で、オリンピックで戦いたい。
司がいのりをつれてきてくれたら、光が辿り着けば。光といのり、そして司の、三人の夢が叶う。
光はそこに夜鷹もつれていくつもりでいる。そして光といのりが戦って証明するのだ。自分たちに与えられたフィギュアスケートの素晴らしさを。
「必ずつれてきて……!」
「いくよ」
唐突な光の懇願にも、司は狼狽えなかった。光の本気に、本気で応えてくれる。司の声も、表情も、瞳も、真剣だった。
「いのりさんは絶対あなたのところまで辿り着く。そしてあなたに勝つよ」
ふ、と唇が綻んでしまう。挑まれることが嬉しい。諦められないことが嬉しい。光は爛々と目を輝かせて笑った。
「私が勝ちます」
全力で戦い抜いて、愛するいのりから勝ち獲る金メダルが欲しい。だから負ける気は微塵もない。けれど追い詰められて躍る心を否定できなかった。
「でも証明してみせて」
「はい」
極限の勝負がしたい。そのためには結束いのりに明浦路司は不可欠だ。光の人生をかけた夢にはこの人が必要だ。
「狼嵜選手」
光がそう認めた人は、ふいに表情を和らげた。
「俺からもあなたの手を握ってもいいかな」
「?」
今さらそんなことを聞いてくる司に光は小首を傾げた。
「少しでも嫌だったら断って。絶対無理強いしない」
「気にしすぎです」
光がまだ手を握られることも厭うくらい司を嫌っていると誤解されているなら不本意だった。
「別に、手くらい構いませんよ……あなたなら」
「……信じてくれて、ありがとう」
司は目を細めると、司の手に触れていた光の手をそっと包み返して、額に押し戴いた。
「ーーあなたは素晴らしい人だ」
静かで落ち着いた司の声が沁み込んでいく。厳かな響きだった。
「誰にもあなたの美しさは汚されない。あなたの輝きを曇らせるなんてできない」
司の言葉に身が引き締まる。そうあらねばと心が震える。
「……今日はよく頑張ったね」
でも司の瞳は溢れんばかりの涙を湛えて、揺れていて。威厳がちっとも長続きしない人だった。でも彼らしかった。
司の涙脆さがちょっぴり伝染して、光は少しだけ目を潤ませながら「当然です」と胸を張ってみせた。
◆
大会初日の日程が全て終了し、光たちは宿泊先のホテルに戻った。高峰とは会場前で別れたが、司は同じタクシーに乗った。帰りも部屋まで送ってくれるつもりのようだ。
しかし車がホテルに到着すると、司は降車する光に手を貸しながら「この後少しだけ時間をもらえないかな」と申し出てきた。
「ちょっと部屋に寄ってほしいんだ」
「いいですよ」
光は特に気にせず快諾した。同じホテルの別の階に立ち寄ることくらい大した労力ではない。いのりから何か預かりものでもあるのだろうか思いつくと、少し楽しみになった。
エレベーターに司と光、ライリーの三人が乗り込むと、司は意外にも高層階のボタンを押した。
都心のハイランクほどではないが、それなりの規模のホテルなので部屋のグレードはある。一般的に階が上になるほど、広くて設備の良い部屋になるはずだ。司が高層階に泊っているとしたら、同行してるルクスの生徒、アイスダンスの男子選手と同室なのだろうか。それならば一日司を借りていたことについてきちんとお礼を言わなければ。女子選手にも高峰瞳コーチにも改めて挨拶したい。
内心そう意気込んで、光は心持ち姿勢を正して司に案内された部屋へと入った。
そこで待っていたのは夜鷹純だった。この黒づくめの美しい男性を、光が見間違うはずがない。
一瞬幻かと思った。今日はいろんなことがあって、精神が充実した状態で終えられたが疲労もしていた。弱った光の本心が、拠り所を求めて見せた幻覚の可能性も、ゼロじゃなかった。
しかし何度瞬きしても消えない。揺れる空気、床に落ちる影。どうやらこの夜鷹は、実体を持ってここに存在しているようだった。
「コーチ……」
「光」
まだ夜鷹は光の正式なコーチに戻っていない。けれど光は気を抜くといつも彼を『コーチ』と呼んでしまう。
だって夜鷹は光のコーチだ。狼嵜光にフィギュアスケートを教えてくれた、光だけのコーチだった。それはこの先何年、何十年の時が経とうと、永遠に変わらない事実だ。
「試合観てたよ」
ドキン、と光の心臓が跳ねる。今夜のショートプログラムはミスをしなかった。まだ伸び代はあるにせよ、現時点では上出来だと思える演技をしたつもりだったが、夜鷹は何と言うだろう。
「……頑張ったね」
光は息を呑んだ。うんと子供だったノービスの頃だって、こんなふうに褒められたことはなかった。
まじまじと見返した夜鷹は無表情だ。しかしその瞳はほんの少しだけ細められている。まるで光を心配するかのように、あるいは労わるようにーーそうか、夜鷹は、光に何が遭ったのか、知っているのか。
ほとんど表情を動かさない夜鷹が軽く目を見張った。
「っ、ひっく、ひぅ、」
光の両目から涙がぼろぼろ零れていた。知らない男に触られて怖かったときも、ライリーたちに守られて安心したときも、司に認められて嬉しかったときも、かろうじて泣かないでいられたのに。ずっと我慢していたのに。
「ひっ、ひっく、うぅ……っ」
光の窮地を知って、夜鷹は来てくれた。来てくれた。
喜びと安堵と、無意識に抑え込んでいた苦痛やストレスがぐちゃぐちゃになって膨らんで、胸がいっぱいになる。光の内側に収めておけなくて、涙と嗚咽になってあふれ出す。こぶしで何度も目を拭うが、どうしても堪え切れない。
何とか泣き止もうと苦心する光を夜鷹はいたわしげに見つめていたが、ふいに少女の後ろでぱたぱたと動くものに気付いた。
光の背後では、司とライリーが半泣きになりながら空中で腕を交差させる動きを繰り返していた。『抱き締めろ』のジェスチャーだ。夜鷹は半眼になって、光に視線を戻した。
「…………」
光は夜鷹も見知っている司の青いダウンを羽織って、もこもこに着膨れしていた。これなら年頃の少女を抱き寄せても、体に直接触れはしないと思うが、夜鷹は念を入れた。
自身の着ていた黒のロングコートを脱いで、泣きじゃくる少女の頭上から被せる。そうしてから光の頭に手を置いて、彼女の額を胸に付けさせた。
「!」
もう片方の手は背中に回して、とん、とん、と揃えた指を小さく上下させる。控えめだけど優しい仕草がとどめになって、ますます光を泣かせた。
「うぅ、うううっ、うぁあぁぁ……」
光は夜鷹の胸にしがみついて、わっと声を上げて泣いた。やっと泣けた、とひとつの影になった師弟を見て司も涙を滲ませた。
光がうんと無理をして、自分を気丈に奮い立たせていることなど、みんな解っていた。だから頑張っている少女のために、それぞれ出来る限りのことをした。
ライリーが横浜にいる高峰匠を呼び出しているのを見て、司は夜鷹に連絡した。夜型の彼が起き出す夕方に何度も着信を入れて、やっと繋がった開口一番にどうか今すぐ来てくれと頼んだ。
寝起きの声は不機嫌だったが、夜鷹は文句の一つも言わずに名古屋から東京行きの新幹線に乗って来てくれた。光のために。
「ひっく……っ……」
光の泣き声はそう長く続かなかった。最初に感情を爆発させた後は次第に落ち着いて、今は小さく啜り泣いている。恨み辛みを涙と一緒に流し出して、きっとすっきりするはずだ。思いっきり泣くこと、信頼する人にハグしてもらうこと、どちらもストレスを和らげて心身を癒す効果がある。
光が涙を拭って顔を上げると、ライリーは自らのハンカチを夜鷹に差し出した。夜鷹は腕を伸ばしてそれを受け取り、光の濡れた頬に当てる。
「けほ、すみません……」
「別に」
言葉少なく無愛想な夜鷹の反応だが、表面上に現れないだけで夜鷹が彼なりに光を可愛がっていることはここにいる全員が知っている。
ぐしゃぐしゃになった顔を拭いたり鼻をかんだりして、最低限の体裁を取り繕ってから光は改めて夜鷹に向き直った。
「来てくださって、ありがとうございます」
「……うん」
小さく頷く夜鷹に、光は涙の跡を残したまま愛らしく笑いかけた。しかし夜鷹の「この後慎一郎くんも来るから」という一言にぎょっとした。
「えっ!」
「レッスンの予定があったから一緒には来られなかった。もうすぐ東京に着くらしい」
「慎一郎先生まで呼んだんですか!?」
「君に関する情報は共有することになっている。黙っていたら僕が恨まれる」
光と夜鷹の会話を聞きながら、ライリーと司は視線を交わした。司先生の仕込みですか。いいえ全く。目の動きと小さな首振りだけで意思疎通する。
夜鷹が自分の判断で呼んだのだ。慎一郎に負担を掛けると解っていて。そして慎一郎も、きっと迷うことなく駆け付けることを選んだ。光のために。
「慎一郎先生、忙しいのに……」
「うん。でも今日顔見たいって。慎一郎くんに会ったらすぐに眠れるように、寝支度は早めに済ませて。明日も試合だろう」
明日は君の試合を観てから帰るから、と夜鷹に告げられて、光はうるうると目の表面に涙の膜を張った。観てくれるんだ。二人とも。
夜鷹がすんとした表情で光の背後の大人たちを見る。勘のいい二人には、光がまた泣きそうになっているから助けを求めているのだと真意が読み取れた。
夜鷹が困るのはどうでも良いが、これ以上光が泣いて目を腫らしてしまうのはかわいそうだったので、ライリーはそっと光の肩を抱いて宥めた。
「もう泣かないんだよ、光ちゃん」
「ぐす、っ、はい」
「泣かなくていいの。もう怖いことは起きないから」
「っ、はい……っ」
安心して、心強いから余計に泣けてしまう。光の涙は、彼女の力になりたくて奔走した大人たちをも安堵させた。優しい表情で光を慰めるライリーも目が潤んでいた。
光がどうにか涙を堪えながら司の方を見ると、彼も目の周りを真っ赤にして泣くのを我慢していた。感激屋の司がよく堪えている。人のために心を砕いて、こんなふうに泣きそうになって。
そんな司が少し可愛く思えて、光は愛嬌のある彼の顔をじっと見つめた。すると司は何を思ったのか、光を安心させるようにあたたかく笑いかけた。
「もう大丈夫だよ」
男の人なのにまるで母親みたいな、全てを包み込むような微笑みだった。どうしたらそんなに優しく笑えるんだろう。
「明日はみんながついてるから。みんなであなたを守るからね」
「っ、」
涙が込み上げてきて、きゅっと唇を引き結ぶ。泣き続けるよりも、光を守ってくれる人たちに笑顔を返したかった。
「負ける気がしないなぁ……っ」
まなじりから一筋の涙をこぼしながら、光は笑ってみせた。
すると司がびっくりするような勢いで泣き出した。あまりの泣きように夜鷹は呆れていた。ライリーは吹き出した。光は泣きながら笑った。
ああ、本当に大丈夫だ。とくとくと胸が鼓動を打つたびに、勇気が光の全身へと巡っていく。胸が熱かった。
◆
翌日、フリースケーティングの最終滑走を光は待っていた。
リンクサイドにはライリーと高峰がいる。夜鷹と慎一郎の姿はないが、観客席で観ていると言ってくれた。騒ぎにならないといいけれど。光は肩から黒いロングコートを外した。
今夜の光は夜鷹が貸してくれた上着を羽織っていた。かすかな香水と煙草の残り香がする大事なそれをライリーに預けていく。
その頃の観客席では、鴗鳥慎一郎の隣に夜鷹純らしき人物が座っていると一部がざわついていた。しかしサングラスを掛けている上に青のダウンコートで着膨れしていては、体型どころか性別も判らない。
「よだじゅんって青着る……?」「本人にしては若すぎ……?」とそっくりさん疑惑を持たれていた。
司はこの会場にいない。明日に控えたアイスダンスのフリーダンスのために、リズムダンスの試合が終わってすぐにスターフォックスのリンクに移動していった。
その合間、ライリーの元へと挨拶に来た際に一瞬だけ光にも顔を見せていった。突き合わせた司のこぶしは大きかった。彼はまだ戦っている。自分も負けない。
光の心は熱く燃えながら、同時に静かに凪いでいた。まるでこの銀盤のように。
名前を呼ばれたら飛び出す合図だ。光は解き放たれた獣のように氷上を駆けていく。
ーー負ける気が、しない。
〈おまけ〉
司が東京出張で三日ほど留守にする間、いのりは大須リンクで自主練に勤しんでいた。
元は瞳が受け持っているアイスダンスの生徒が、東京開催の競技会に出場することになった。司は瞳との模範演技やスケーティング強化でカップルの指導をアシストしており、大会にはぜひ司にも同行してほしいと、生徒側からお呼びが掛かったのだ。
司は女子シングル選手であるいのりのコーチだが、自らが活動していたアイスダンスへの思い入れも当然浅くない。同行の打診があったときは泣きそうになっていた。だからいのりは自分のレッスンのことは気にせずに行ってきてくれと背中を押した。
ジュニア上がりたての年のように、司が何ヶ月も不在にするならルクス東山三人目のコーチである鴨川洸平に代理指導をお願いするところだが、短期間ならいのり一人でもなんとかなる。基礎練や振付の滑り込みをしていれば数日なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。
いのりは司のアイスダンス仕込みのスケートが大好きなので、アイスダンスを愛する司を応援したかった。大会で充実した時間を過ごしているといいな、なんて思いながら初日の自主練に取り組んでいた。
しかしその出張先で、いのりのライバルである狼嵜光が痴漢に遭い、司が一日ボディガードをすることになるなんて、当然想像していなかった。
狼嵜光がショートプログラムをノーミスで首位発進して、司からも何事もなく身辺警護の手伝いが終わった、明日からは予定通り引率コーチとして頑張ってくる、と報告があった翌日。大須には鴗鳥理凰の姿があった。
「理凰くん! どうしたの? 邦和リンクお休み?」
「いや、休みじゃないけど、今日はこっちで練習する」
「クラブレッスンない日だから総太くん多分来ないよ」
理凰は女子選手と比べて数少ない男子選手への仲間意識が強い。ルクス東山に所属している犬飼総太と友達だから、司が不在のときに大須リンクまで来るなら総太と会うのが目的だと思った。
「ん、まあ今日はいいよ。いのりに用があったから」
「え?」
「光のこと聞いた? 司先生も大会に行ってるんだろ」
どうやら理凰は東京にいる光と司を心配して、事情を知っているいのりと情報交換するために大須リンクを訪れたらしかった。
出逢った当初はいのりに意地悪だったけれど、今では優しい理凰のことを知っている。大切な人への思いやりが細やかな彼らしい、といのりは微笑んだ。
一般滑走に混じって基礎のスケーティングを練習する合間に、少しずつ話をした。
「知らない警備員が勝手に片思いして、いきなり襲ってきたって。怖かっただろうな」
「うん……」
「オマエ抜けてそうだから、気をつけろよ」
「理凰くんもね。女の子も男の子も関係ないってうちの先生たちは言ってるよ」
「わかってるよ……」
フィギュアスケートでは光の名前は有名人で、誰に聞きつけられて噂されるか分からない。だからリンクではなんとなく人物を濁した会話になって、それが暗号のようで少し楽しかった。
「でもすごかった……そんなことがあったのにノーミスだもん」
「先生がついていてくれたおかげだって。離れたところにいたのに騒ぎを聞きつけて、すぐに犯人を捕まえてくれたって。さすが俺の先生……!」
「私んだよ!」
でもいのりと理凰がこんな言い合いをしている時点で、その対象は司だと言っているようなものだった。
リンクの一般営業が終わった後、理凰がいのりを自宅まで送ってくれることになった。歩いて十五分くらいの近さだし、まだ早い時間だから心配いらないと伝えても、頑として引き下がらない。光のことが相当ショックだったらしい。
押し問答していると理凰の帰る時間が遅くなってしまう。いのりは仕方なく送ってもらうことにした。
帰り道でいのりたちの会話を聞くのは通りすがりの人だけになる。暗号みたいに隠されていた二人の名前が元に戻った。
「司先生の帰りいつ?」
「明日の夜帰ってきて、明後日のレッスンからはまたいつも通りだって」
「リズムダンスの試合はもう終わってるかな。光のボディガードしてくれてたのは昨日だけで、今日は引率なんだろ?」
「そう言ってたよ」
「……複雑じゃない?」
問いかけの意味が解らなくて、いのりは隣を歩く理凰の横顔を見た。いつの間にか随分視線を上にしないと目が見えないほど身長差が出来ていた。
「別のクラブの先生にサポート入ってもらうのってかなり珍しいから。司先生にとっても、やっぱり光は特別なのかな……」
理凰の碧い眼は少し寂しそうだった。大好きな人たちなのに、二人が仲良くしていると複雑になってしまう気持ちはいのりにも理解できる。でも心配はいらなかった。
「私の司先生なら困ってる人は誰でも助けるよ。今回助けた子が光ちゃんじゃなくても、司先生なら同じようにしたと思う。光ちゃんを贔屓してるとか、そういうふうには思わない。だからあんまり気にしてないよ」
そういのりが伝えると、「確かに司先生なら」と理凰は納得した。
「それにもし光ちゃんが他の子より司先生にとって特別だとしたら、それは光ちゃんが私の特別だからだよ。司先生の一番は私だもの」
あまりにも自信に満ちていて妙な迫力を感じさせるいのりの言葉に、理凰は何も言えなくなった。いつものように司の一番の生徒は自分だ、と競えるような雰囲気ではない。
理凰の頭の中で『正妻マウント』という単語がチラついた。
翌々日のレッスンから司が帰ってきた。いのりは学校が終わるとすぐ大須リンクへ移動して、四日ぶりに司と再会した。
「司先生! おかえりなさい、お疲れさまでした!」
「ただいま! いのりさんも自主練お疲れさま、今日からまたよろしくね!」
「はいっ、頑張ります!」
ムキムキ、コムキ、と腕を曲げてお互いに元気さをアピールする。顔を見合わせてえへへ、と笑った。
「それとね、これお土産」
そう言って司がこっそりと渡してきたのは、両手に乗るくらいのサイズの紙袋だった。クラブの先生と生徒の間で贈り物は禁止されているのに。
司がプレゼントしてくれたのは防犯ブザーだった。
「もういのりさんが持っているのは知ってるけど、いつでも身に付けてほしくて。学校の鞄とスケートバッグには付いてるよね? 他にもサブバックとかあったら使って」
「はい、ありがとうございますっ」
「いのりさんはもうすっかりお姉さんになって、俺のことが煩わしくなるときもあると思うけど、大会や遠征のときはなるべくどこへでも連れて行ってね。女性が良ければ瞳先生でも美蜂先生でもいいから。どうか一人にならないでね」
司から熱心に見つめられて、いのりはにこにこご機嫌に笑み崩れた。
「はい!」
ほらやっぱり。司は離れている間もいのりのことを心配していて、いのりを一番大事にしてくれるのだ。
司の口から光の無事を改めて聞いて、すごく気落ちしているような状況ではないと確認できると、彼女の負担にならない程度の労りのメッセージを送りたいといのりは考えた。
休憩時間に司からもアドバイスを貰いながら文面を考えて、トークアプリから思い切って送信してみると、リンクの一般営業が終わる頃には光からの返信があった。
今日はクラブレッスンの日だったので、貸切まで空き時間がある。いのりは休憩室に移動して、さらにメッセージを送った。
すぐに既読がついて返事が来る。リアルタイムで光がアプリを確認しているのだ。
二、三回メッセージを往復させて、文字を打つのがもどかしく思えてきたタイミングで光の方から着信があった。いのりはすぐに応答した。
「光ちゃん!」
『いのりちゃん!』
休憩室に集まっていたクラブメイトたちの注目を浴びて、いのりは隅のテーブルに移動して声を潜めた。
「光ちゃん。メッセージでも送ったけど、大会優勝おめでとう!」
『いのりちゃん、ありがとう』
「それから大変だったね。怪我がなくて良かった」
『うん。心配してくれてありがとう』
なるべく小声で話していると、休憩室のドアの向こう側を通り過ぎようとする司と目があった。手を振ってスマホを指差して見せると、いのりのジェスチャーで何かがあったと察してくれた司が休憩室に入ってくる。
「大会の配信見たよ。大変なことがあったのにショートもフリーもすごく綺麗だった。ショートのステップ、凄かった」
『本当? いのりちゃんに褒めてもらえるの嬉しい。ショートの出来は、明浦路先生が周りを警戒してくれたから、安心できたのが大きいと思う。いのりちゃんの先生を借りてごめんね。巻き込んでごめんね』
近くに寄ってきた司は、会話の内容からいのりの通話相手が光だと察したらしい。「狼嵜選手と話してるの?」と小声で確認されたのでこくりと頷く。
司が手招きするのでそれについて行くと、普段は先生たちが打ち合わせに使っている小部屋にいのりを通してくれた。
「ううん、謝らないで。司先生は困ってる人を放っておけないひとで、そういう司先生が私は好きだから。むしろ、さすが私の司先生って思ってる!」
個室になったのをいいことにいのりが声を大にしてそう主張すると、当の司は驚いた後で「いのりさん……」と目を潤ませた。
いのりたちが入室する前から小部屋で事務作業をしていた瞳が何事かと尋ねるように首を傾げるので、いのりはスマホをテーブルに置いて通話をスピーカーにした。
『ふふっ、明浦路先生の言った通りなんだね』
「司先生がなんて?」
『いのりちゃんはね、絶対明浦路先生を肯定してくれるから、迷惑かけたなんて気にしないでって』
「そうだよ!」
『気持ちが通じ合ってるんだね』
光にもいのりと司の絆を認めてもらえて、いのりは嬉しかった。しかし頭の良い光は、あれこれと思い悩んでしまうようだった。
『でも明浦路先生に犯人を取り押さえてもらって、一歩間違えれば傷害罪で逆に訴えられることだってあったかもしれない』
「そうなっても私には司先生だけだし、もし周りから悪く言われることがあっても絶対離れない。司先生を傷付けるような人がいたら、私が司先生を連れて逃げるよ」
何があってもいのりは司から離れる気はない。二人でオリンピックを目指すと約束した。
強い決意を伝えると、目の前の司も、電波の先の光も言葉を失っていた。
『そういうことならいつでもうちに来てくださいね〜』
突然スマホから光以外の声が聞こえていのりはびっくりした。『ライリー先生!』と名前を呼んだ光の声も驚いている。
「光ちゃんも今レッスンの休憩中だったの?」
『うん。いのりちゃんも?』
「同じだよ。隣に司先生いるよ」
『ちょうど良かった! 二人の会話に割り込んでごめんね、司先生に一言伝えさせて!』
スピーカーにしてとお願いされたが、すでに音声モードは切り替わっている。どうも、先日は、いえいえといった挨拶を司と交わした後で、ライリーの声はひどく真剣なものに変わった。
『もしも今回のトラブルが原因でクラブや司先生に迷惑がかかることがあれば、すぐに教えてください』
冗談めいた雰囲気なんてどこにもなく、大会や合宿で見かけるいつもにこやかなライリーのイメージとは違っていた。
いのりはけして司の手を離す気はないけれど、問題など起こらないと楽観してはいけないかもしれない。そのときどうするか考えておかないといけないかもしれない。そんなふうに思わせる声だった。
『練習が難しくなるようなら東京に来てください。場所も費用も融通します。光ちゃんを守ってくださったので』
『ライリー先生……』
光が呆然とした様子でライリーを呼ぶ声が聞こえた。
「ーーお気遣いありがとうございます」
そこへ新たに割って入る声があった。いのりと司のそばで、光たちとの会話を聞いていた瞳だ。
「こちらも突然すみません。ルクス東山の高峰瞳です。そばでお話を伺っていました」
『瞳先生! 先日は大変お世話になりました〜』
「こちらこそ。それで司先生のことなんですけど、まずは私が全力で二人を守りますから。私の力が及ばなかったその時だけ頼りにさせてください」
瞳はスマホの向こう側にいるライリーに話しかけながら、その視線を司といのりに注いでいた。
「瞳先生……」
司が目をうりゅうりゅさせて感激している。いのりも瞳の格好良さに痺れた。そうこうしているうちに休憩時間が残り少なくなって、いのりと光の通話は終わった。
「お弁当まだだよね? 食べておいで」と促されて小部屋を出ようとしたところで、いのりの背後から瞳と司のやり取りが聞こえてきた。
「わかったわね。私を真っ先に頼るのよ」
「う」
「返事」
「はぁい」
ドアを潜るときに振り返れば、瞳のこぶしに胸を叩かれて困ったように司が笑っていた。どこか甘えた、年下の男の子みたいな返事だった。
たしか司には上にも下にも兄弟がいて、お兄ちゃんでもあるが弟でもあるのだ。そして瞳は司より少しだけお姉さんだったはず。
いのりは休憩室に向かってリンクサイドを小走りに移動しながら、自分も司に頼りにされたいと思った。司のことで光やライリーに負けるつもりはこれっぽっちもないが、瞳にはまだ敵わないかもしれなかった。
〈あとがき〉
今回の話を書く上での気持ちなど、思うところを書き残しておきたくなったので追記します。
毎度のことながら思想強めの感想なので、なんでも読める方向けです。基本的に司先生贔屓です。
光ちゃんと司先生の関係といえば全日本ノービス大会後の雨の夜が非常に印象的だと思います。
あのシーンで私は、光ちゃんの「まだ捧げられる犠牲があったのに手放す勇気がなかった」と意気地なし扱いされたことよりも「子供を守れない大人だって非難されるのが怖いだけのくせに」って見くびられたことの方が引っ掛かっていました。
前者は光ちゃんが司先生の過去を知らないから仕方ないかもしれないけど、後者は司先生が深夜バイトしてたりいのりさんが台落ちして雨の中落ち込んでる姿とか見てるわけじゃないですか。それはないよ~!って思ってしまいます。(原作最新話で明らかになった司先生の過去により前者の重みも惨いことになりました。)
司先生はそんな大人じゃないんだよ、誰に何も言われなくても子供を守るよ、我が身を削ることを犠牲と思わず捧げてしまう人なんだよ…って苦しくなってしまって。
だって司先生の献身は、今後の原作で転機が起こりそうだとしても、それにしたって異常ですよ。それが保身のために子供を引き止める偽善者だと見下されたのが辛い。司先生はいのりさんをめいっぱい尊重しているから。
たくさんの挫折と苦痛を味わってきて、でも心を腐らせずに、自分と同じ思いをさせないって子供に尽くせる司先生が正直眩しすぎます。どうしたらそんなに優しいままでいられるの…
いつか光ちゃんが原作でも見直してくれるといいなと思いつつ、二次創作では欲望に忠実に、さっさと評価を改めてもらったのが今回の話です。
作中の大会はチャレンジャーシリーズあたりを意識しましたが、現実にはジュニアカテゴリがほとんどなく…やっぱりシニア中心なんですよね。ましてやジュニアのアイスダンスがある大会なんて…だから大会関係は全て捏造です。
公式練習を他のカテゴリのコーチが見学できるのか、受付後もホテルに戻れるか、近場にホームリンクがあればぎりぎりまで調整するのもありなのか、この辺りも不明でしたので全部妄想です。ふんわり読み流してください。
光ちゃんはシニアになってから活動しやすいようにジュニア時代に好感度稼ぎしてるという設定を作っています。主要大会以外にも出場して顔出しと客寄せをしてる。スポンサーへのアピールも兼ねつつ連盟の心証を良くしていると。
夜鷹さんには出来なかっただろう根回しが出来る要領の良い子、世渡り上手なイメージです。
実際は経験値とか度胸づけが必要ないなら、ランキングポイントに関係ない大会には極力出場せず消耗を押さえるのがトップ選手なのかな、という偏見があるのですが実際はどうなんでしょう…ここもふんわり読み流してください。
光ちゃんもライリー先生も司先生への恋愛感情はないつもりです。二人ともハイスペックだけど生まれ育ちから愛着障害あってもおかしくないな~と思っていて、今回は高ストレスの反動から年上男性(父性)にハグ(庇護)を求めただけです。こんなにあからさまに甘えないタイプだと思うので自分の中でも若干の解釈違いを起こしているのですが、妄想だからね…!
ノービス時代の光ちゃんが犠牲にしてきたものって何だろうとたびたび考えます。
親とは物心つく前に死別して家族と縁がないとなると犠牲にしたという感覚ではないはず。狼嵜家にいても13巻プロフの内容だと当主からの情はあったとしても温かい家庭とは縁遠いはず。
それならスケートに打ち込むことで失ったものより得たものの方が大きいのではと思えてしまいます。人生を賭けられるほどの目標とか、預けられた鴗鳥家との絆とか。光ちゃんの払ってる犠牲ってなんだ。わりと好き勝手できてるような。
でも才能を比較されて理凰くんを傷付けてしまったことや、自分は鴗鳥家の異物であるという意識が光ちゃんを苛んでいて。
スケートばかりで学校に馴染めないけど、クラブでも異才が浮いてしまって仲間から距離を置かれている。自分には属するコミュニティがない、居場所がないと思っていて。
それでもスケートを優先することがノービス時代の光ちゃんなりの犠牲だったのかな…と落としどころにしています。
寄る辺がないというのは光ちゃんにとってすごく辛いことなのでしょう。鴗鳥家を出て上京するときに号泣していたし、誰かと繋がるために心の弱さを大事にしてしまうという一面もあるらしいので、本当は人に囲まれていたい子なのかも。でも誰より強くありたい。難儀な子です。
ジュニア編の光ちゃんの方が払っている犠牲が分かりやすいです。強くなるために温かい鴗鳥家から巣立って、自分を隠してくれてた夜鷹純の真似をやめて、ずっと導かれていたコーチを手放して…それでも誰より眩しく輝いてみせると宣言した13巻の光ちゃんが格好良くて本当に大好きです。
そして光ちゃんのことを考えていると、理凰くんはつくづく良い子すぎるな。
理凰くんは鬱屈していたスランプ期、きっと自分でもスケートを諦めたくない気持ちはあっただろうけど、自分が辞めたときに慎一郎先生がどう思うか、光ちゃんがどう思うか、無意識でも考えていたと思うんです。父親と光ちゃんのために辞めずにしがみ付いていた部分がきっとある。良い子だ…
雨の夜の光ちゃんは頭の良い女の子らしい高慢さが上手く描かれていると思ってます。頭でっかちで、利口だけど想像力と経験が足りない。その未熟さが子供の可愛げでもある。
女の子って小学校高学年にもなると、人によってはかなりしっかりしている。自分がしっかりしているという自負がある。自分の価値観に沿わないものをああすればいいのに、こうすればいいのにと評価して、どうしてやらないんだろうと不満に思う。場合によっては口に出す。
やらないんじゃなくて出来ない状況であるとか、目に見えない部分の様々な兼ね合いがあって最適解ではないとか、そういう想像力が足りない。それは経験から補われるもので、相手への配慮とか尊重につながっていくんだと思います。
現実だと調子に乗って生意気な口をきいていると親とか年長の親族にお灸を据えられて、余計なことは言わずに黙っていよう…という学びを得るのですが、光ちゃんはそういう人たちの前ではけして出しゃばらないので矯正される機会がない状態で司先生と衝突してしまったわけですね。
賢くて察しがいいから、余計に自分の中で思い込んでしまいがちなのかもしれません。夜鷹さんがコーチをやめるときも、君と僕は別の人間、どうして何もかもを禁じていると思い込んでいるの、と指摘されてましたし。
でも頭のいい子なので自身の人生の中で、他者との交流によって気付いていけるはずです。自分の視点だけで物事を決めつけたらいけないって。そうなってほしいという願望を今回の話に込めました。
相手は自分と違う人間で、思い通りにはならないもので、たとえ気に入らないところがあっても相手を否定するような言い方はいけない。そして自分にも至らないところはある、他者に学ぼう、尊重しようって境地に至れると、謙虚で成長し続けられる人になれるのではないかと思います。光ちゃんはきっとそうなってくれると信じています。
そういう女の子がバチバチに気が強くて、金メダルしか眼中になくて、勝負のときは獣のように笑うのがめちゃくちゃ格好いい…
しかし司先生を思うと本当に不憫です…光ちゃんはいつでも選択の余地があって、大人の顔色を窺っていたけれど夜鷹さんに指摘されたことで自分の心を見つめ直して、自らの意志で夜鷹純とフィギュアスケートを選べたんですよね。鴗鳥家を離れることも、スターフォックスへの移籍も、いのりちゃんのために滑ることも、夜鷹純のスケートを手放すことも、自分で選んだ。
司先生の選択の余地のなさとは雲泥の差で泣きたくなります。時間がない。金がない。同好会しかない。同好会にもいられないからスケートやめるしかない。やめ切れなくてしがみついてたけど選手になりたいならアイスダンスしかない。選手を続けるにはたった一度の全日本で台乗りするしかない。失敗したら恩人が亡くなってしまって挽回を見てもらうことは永遠にできない…選べる道が!なさすぎる!ないないづくし!司先生が一体何をしたというんですか…!
夜鷹さんや光ちゃんが運命に愛されているのは分かりますが、司先生にももう少し手加減してあげてください……
ここまで読んでくださりありがとうございました!





























