金曜の夕方、退勤時間まであと一時間半。集中力も切れ、パソコンに向かって続けている作業の入力ミスも増えてきた。ちょっと気分転換に、飲み物でも買いに行こうかなと席を離れ、オフィスビルのエレベーターでロビー階まで降りる。何台か並ぶ自動販売機の前で、缶コーヒーにするかペットボトルの紅茶にするかを悩んで新発売のポップを見比べていると、小さな話し声が聞こえてきた。
『え……、またなん? そりゃしゃあないのはわかってるけど……』
辺りをちらりと見ると、植栽の向こうに同じ課の岡さんが一人で窓の外に身体を向けて立っていた。電話をしているのだろうか。
『うん……。ええよ、わかった。こっちも誘われとった飲み会あるから、行ってくるわ。……遅くはならんと思うし、こっちは気にせんで。……じゃ、仕事戻るから切るで』
聞き耳を立てるつもりは毛頭ないのに、心地のよい通る声がすぅーっと耳に入り、結局最後まで聞いてしまっていた。
そうだ! 飲み物を買いに来たんだった!
慌てて適当にボタンを押し、出てきた梅ソーダの缶を取り出した。
「夏目さん、お疲れ様です」
ついさっきまで後ろ姿を目の端にとらえていた岡さんに、背後から声をかけられてビクッとしたものの、なんとか平静を装って振り返る。
「あ、岡さん、お疲れ様です」
「あの、こないだ声かけてもらった今日の飲み会の幹事って夏目さんでしたよね? 急だけど今からでもいけますか?」
『行ってくる』と言ってた飲み会ってこれだったんだと気がつき、ドキッとする。誰かにドタキャンされて、こっちに来ることにしたってこと……? それって、彼女さん? 奥さん? そう言えば、岡さんって結婚してたんだったっけ?
岡さんがこの会社に入ってもう五年は経つというのに、プライベートで仲のいい会社の人はいないと思う。仕事もすごくできるし、一見優しくて穏やかで人当たりもよくて、誰でも好意を持ってしまうのに、プライベートには一切踏み込ませない雰囲気が時々ちらつく。そんなギャップがまたいいのよね~と遠巻きに狙っている女性は意外と多い。私もいいなと思っていたけど、他の子たちと同じで、全く近づける隙はなかった。
「え、もちろん大丈夫ですよ!! 岡さんなかなか飲み会参加されないから、みんな喜びます。……ご家族さん、大丈夫ですか?」
「あぁ、うちのも急に今日は遅くなるみたいだから、大丈夫です。一次会だけで帰らせてもらいますけど……」
うちの……? え? それって奥さんってことなのかな? 普通はそうだよね……。
「え? あ、岡さんってご結婚されてたんですね……」
急に出てきたもの凄くプライベートな内容の返事に思わず口に出てしまった。
「あ……。これは聞かなかったことにしてもらえます? 隠してるわけやないけど、あんまり言ってないんで……。すみません」
勝手にちょっとだけ落ち込んだけど、この会社でたぶん誰も知らない岡さんのことを知ってるという優越感の方が上回った。
「それはもちろん、黙ってます! はい! 場所はご存じですか?」
「ふふふ、ありがとうございます。……場所は、駅前の焼き鳥屋ですよね?」
「そうそう、そこです!」
「じゃ、六時にそこで」
ふっと軽い笑顔を残して、岡さんはその場を後にした。
***
「おかわり、何にします? 岡さんってお酒強いんですね!」
斜め前に座る岡さんに、ここぞとばかりに両隣を固めた女性陣が次々に酒を勧めていた。
「同じのでいいです。ありがとう」
ビールをグイグイ飲み、テーブルの上を彩る焼き鳥や刺身、サラダなど、スイスイと口に運んでいく姿から、目が離せない。
「これ美味いなぁ。全部食べてまうけどええの?」
顔色一つ変えず女性たちの質問をうまくかわしながら料理を楽しんでいる姿と、ほんの少しは酔いがあるのか、時々不意に漏れる関西弁とのギャップもたまらない。
でも、奥さんいるんだよね……。みんな知らないだろうけどっ!
心の中でそう何度も叫んだ。
そろそろ一次会のお開きの時間だ。幹事の私は会計をまとめて清算を済ませる。店の外に出ていく同僚たちを目で追っていると、向かいの岡さんの手元にある携帯の画面が何度も光るのに気がついた。着信? メール? 岡さんは気づいていないのかな。教えた方がいいのかなとちょっと迷う。しばらくしてまた光ったとき、振動音がほんの少しだけ聞こえてきた。
岡さん、わかってて気づかないふりしてるんだ。……奥さんよね? もしかして、ドタキャンされたから?
岡さんは隣に座っていた女性のしつこい二次会の誘いを断って、周りが外に出るのを待っているようだった。
また、携帯が光った。ちらっと手元を見る。
『悪い思うなら、迎えに来てや』
画面に向かってのひとりごとが、じっと見てしまっていた私にははっきりと聞き取れた。
顔を上げた岡さんが、私の方を見る。
「今日は急に参加させてもらって、ありがとうございます」
「え、あぁ、全然! またぜひ来てください、急でも飛び入りでもいいので」
「ふふふ。そうですね。また機会があれば」
じゃと会釈を残して岡さんは店を出ていき、そのすぐ後に私も店の人に挨拶をして出た。
店の暖簾をくぐると、店の前のガードレールにもたれて立っていたらしい背の高いスーツ姿の男性が目に飛び込んできた。こちらに近づいてくる。煙草を携帯灰皿でもみ消してポケットにしまいこみ、軽く手を挙げた。
「聡実くん」
え? 岡さんの知り合い?
「狂児さん……」
岡さんはすっとその男性の横に入り込んだ。男性は自然な手の動きで岡さんの腰のあたりに手を遣る。驚きとあまりにも綺麗な二人の佇まいに目を奪われた。
背の高い男性が、前触れもなくこちらに整った顔を向け、じろりと私を見る。……私は余計に動けなくなった。
……『うちの』って、もしかして……。絶対そうだ!
「あ、夏目さん、気を付けて帰ってくださいね。僕のことみんなに言わんでくれてありがとう」
横にいる男性の視線の先に気づいたのか、岡さんが私を見てそう言い、二人はまた視線を交わしだす。
「おつかれさん。……帰ろか?」
「……ふふふ。来てくれたんやな」
「そりゃ、来るよ」
「ここ、ようわかりましたね」
「聡実くんのことなら、な」
そんな会話を残し、二人はそのまま消えていった。
きっともう、岡さんが飲み会に来ることはない。
そして、私だけの岡さんとの秘密は、これからずっと守られる。























