「え、別れたの」
「うん」
まだ焦げ目の少ない網の上で、乗せられたばかりの肉が早く食べてほしいと言わんばかりに色付いていく。その様子をトング片手に見守る。
「付き合ってどのくらいだったっけ」
本日肉一発目の牛タンから目が離せなかった。気が緩んだ瞬間に口内に溢れた涎が口の端から垂れそうになる。早く焼けてくれとウズウズする。
「……三ヶ月ちょい?」
魅力的な牛タンからは相変わらず目が離せなかった。気もそぞろに答える。そろそろひっくり返してもいい頃合いだ。トングを掴んだ手を伸ばすと、一回り以上大きな手に一瞬だけ覆われる。するりとトングを奪われた。
「仕方ない。今日は僕がご馳走してあげる」
一年生の頃から焼肉に行くときはいつも「自分の肉は自分で育てろ」というスタンスだった。先生も伏黒も釘崎も焼肉奉行をするタイプではない。となると他の人の肉の面倒を見ていると食いっぱぐれることになるのは必然だった。四人いてもトングは二本だけだから、トングの奪い合いになり、それから自分の肉は自分で育てろ、という暗黙のルールは破綻し肉の奪い合いになるまでがセットで、それがいつもの焼肉で、騒がしくて、楽しかった。
今日は五条先生と二人だけの焼肉だからトングの奪い合いになることはない。しかし今、二本のトングはどちらも五条先生の手元に渡っている。先生なりに慰めようとしてくれているのかと思い、笑ってしまった。俺はもうこの人に甘えてもいいことを知っていた。
「んへ、実は狙ってたー」
「調子いいなー」
先生に肉を焼いてもらうなんて、なんだか贅沢だった。肉が焼けるのを待つ間、汗をかいたコップに手を伸ばし、ストローを咥えてご機嫌に烏龍茶を啜る。
「お酒飲んでいいよ。帰りは僕が代わりに運転してあげる」
「俺まだ未成年なんすけど」
まだ十代かぁ、と先生はしみじみ言った。顔に似合わず年寄りくさい。
「三人の中で免許取ったのは今のところ悠仁だけだよね? なんで軽にしたの」
「猪野さんに相談したら初めては中古の安いやつでいいっしょって。すぐお釈迦にするかもしんねーし」
「その心配いる? 悠仁絶対運転上手いでしょ」
「あ、わかる? 帰り送ってくから見ててよ」
確信をもって言った先生にへへ、と鼻の下を人差し指で摩り、得意気に笑った。実はずっと先生を助手席に乗せてみたかったのだ。どんな反応をするか勝手に想像し、楽しみにしていた。下心はある。褒めもらえたら俺はめちゃくちゃ嬉しい。
「で? なんで別れたの?」
はい、焼けたよ、と言った先生に両手で皿を差し出す。礼を言いながら美味しそうに焼けた肉を受け取った。すかさず箸を持って口に入れ、米を掻き込む。空腹だったからか、咀嚼した肉と米が食道を通っていくのを強く感じる。
「ん〜〜〜〜まいッ!」
「いい食べっぷりだねぇ」
合いの手をくれたものの、先生は催促するように手に持ったトングをカンカンと鳴らした。そのトングで次にハラミを焼いてくれるらしい。網の上に乗ったハラミがじゅう、と音を立てた。
別れた理由。話をするのに特に躊躇う理由もなかった。なんとなく手持ち無沙汰だったので、コップの縁をなぞりながら口を開く。
端的に言えば呪術師の不規則な生活のせいだろう。彼女を任務で助けたのがきっかけだった。その経緯もあって呪術師の性質に理解を示してくれていたが、彼女が嫌になるくらい、何度も何度も約束を反故にした。他にも色々小さな不満はあったと思うが、彼女から聞いた一番の理由だった。
「やっぱり非術師と付き合うのは難しいよねぇ」
「先生も経験あんの?」
「いや、猪野」
「あー、前飲み行ったときも言ってたわ、猪野さん」
「飲みいってんじゃん」
「……アッ」
まずった、と思い弄っていたコップから顔を上げた。それからぎょっとした。
「え、流石に焼き過ぎじゃね?」
「あれ、本当だ」
肉が丸焦げになっている。先生はどこか気のない返事をした。トングで焦げた肉を自分の皿に移している。なんだか様子が変で首を傾げると、先生は俺の視線に気付いたのか次にカルビを網に乗せながら、なんでもないように言った。
「実はさー、僕ずっと悠仁のこと好きだったんだよね」
え、と喉から出た声は限りなく小さかった。先生を凝視しながら固まっている間に、先生はトングを箸に持ち替え、丸焦げの肉を掴む。
「ごめん、今めちゃくちゃ嬉しい」
あー、と空いた口に真っ黒な塊が入りそうになる寸前、ハッとして腰を浮かせる。
「ッ、待て待て待て待て!」
「え?」
「肉! 丸焦げ!」
「……ありゃ」
そう言った先生の口元が、見たことないくらい緩んでいるのに今、初めて、気付いた。目元も一緒に緩んでいる。俺は目を見開いて固まった。
先生は鼻歌混じりに肉を焼いていく。無駄に手際が良かった。皿にはあっという間に肉の山ができた。どこからどう見ても焼きすぎだった。
頭と心はフリーズしたまま、身体が勝手に箸と白米の乗った茶碗を手にとった。現実逃避をしているようだった。こんな時でも肉の誘惑は魅力的なのだ。
「自覚したときにはもう悠仁に彼女いたんだよね」
ご機嫌に肉を焼く先生は饒舌だった。
「良くないって分かってるんだけどさ、願わずにはいられないのよ。早く別れてくれないかなぁって思ってた。ごめんね」
皿にはどんどん肉が乗せられてくる。
「えー、どうしよ。うれしい」
先生は恍惚とした表情で肉を焼きながらペラペラと喋り続ける。
「頭ン中で彼女いる悠仁のことめっちゃ抱いてた」
ラジオを聴いているような感覚だった。耳を傾けながら肉と米を掻きこんだ。
「もう遠慮しなくていいんだ。やった〜」
ごくん、と嚥下した後、さすがにスルーできずに聞き返した。
「俺が抱かれる側?」
「そう。悠仁と恋人になれればなんでもいいけどさ。でもやっぱり抱きたいなー。悠仁も抱く側が良かったら喧嘩で決着付けよ」
「俺ぜってぇ勝てねえじゃん」
「ふふ、まず喧嘩してくれるの? 恋人になってくれる?」
カラン。金属製の箸が手から滑り落ちた。自由になった手で口元を覆った。サングラスからのぞいている青い瞳。真っ直ぐにこちらを見ていた。
「やっと届いた?」
声は踊るようだった。目を合わせていられず逸らす。汗がじんわりと滲むのはロースターのせいじゃないことは分かっていた。顔を逸らしたまま、目だけでチラリと先生を見遣る。
「…………マジ?」
「マジマジ」
「先生が、俺を? 信じらんね……」
「そう? もう分かってるんじゃない? 今も、ほら」
先生が示すように自身の頬を指でトントンと叩いた。
「顔真っ赤だよ」
「……言うなってぇ」
情けない声だった。途端に理解した脳と心は身体に誤作動を起こさせた。
信じられない、わけがない。俺が先生を信じないことなんて一生ない。先生の言葉が嘘でないことぐらい分かる。言葉だけじゃない。青い目だって声だって表情だって、目に映っているものが事実で、雄弁だ。先生を信じないことは俺に取っては最大に難しいことだった。
「俺、逃げた方がいい?」
「いいね。逃げられると燃えるタイプ」
「どうすりゃいいんだ……」
「僕と付き合うしかないだろ」
先生は穏やかに言った。
五条先生の先生ではないその表情は、俺の心臓をおかしくさせた。
「デートしよう」
朝の匂い。薄暗かった部屋に光が入り込む。開けたドアの向こう。空の淡い青とオレンジは境界線なく混じり合っていた。
「…………いまなんじ?」
「六時」
鶏がタイミングよく声高らかと挨拶をした。陽の光が真っ白な髪をキラキラと輝かせている。朝には眩しすぎる笑顔。思わず目を細めた。
───……
これからの人生、焼肉に行くたびにあの衝撃と感情の大混乱を思い出すのだろう。
どう解散したのかはうろ覚えだった。確か五条先生に急な任務が入ってお開きになった気がする。約束通り先生は焼肉をご馳走してくれた。甲斐甲斐しく肉を焼いてくれたのは俺を慰めるためではなく、先生がご機嫌だったから、ということは店を出る頃にはもう分かりきっていた。
先生は俺が彼女と別れるのを待っていたのだという。俺は先生が待つという選択肢を持っていることに驚いた。先生は待つより追いかけた方が早いと思っているタイプ。確信がある。それでも先生は待っていた。その事実は相手への最大の考慮であり、相手を慮ったものだと簡単に予想できる。だから待つ必要がなくなった途端にアクセル全開になるのだ。
その相手は俺で、アクセル全開だと実感したのは今日、今、この瞬間。
「悠仁寝起き良かったよね? なんでそんなにぐずってんの?」
高専を卒業後、寮を出て住み始めたこのアパートに先生は何度か遊びにきている。「玄関ちっさ。僕の半歩もない」と傍から聞けば失礼極まりないセリフを子供のように面白がって言っていたのを覚えている。なので先生が俺の家を知っていることについておかしな点はない。しかし。
「最近寝不足なんだよ。まだ寝てたい」
「悠仁が寝不足ぅ?」
出掛けるにしろ身支度がある。まだ朝冷えする外で待たせるわけにも行かず、一旦五条先生を部屋に上げた。俺は顔を洗うために洗面所へ向かう、ということはせず、再び布団に潜り込んでいた。先生は俺の寝不足発言を訝しみ、眉を顰めたがすぐに揶揄うように口角を上げた。
「焼肉から三日しか経ってないもんね。僕のこと考えすぎ?」
「うん」
暇さえあれば先生のことを考えていた。これからの先生との距離感が全く掴めなくなったのだ。五条悟先生。俺の先生。卒業した今でもずっと、先生は先生だ。
「俺ってもう先生のこと好きじゃね? 恋愛との境界線? っていうの? そういうのがあんなら分かんねーかも」
先生は一瞬ポカンとした。それから表情を変え、美しく微笑みながら言った。
「僕とキスとかセックス、できる?」
「それずぅっと考えてたんだけどさぁ、先生、俺より強ぇしなぁ……」
「ちょっと待って。どういう基準? 悠仁より強ければ誰でもいいの? それとも僕がレイプする前提? 悠仁って衛生観念だけじゃなくて貞操観念もやばいの? え、もしかしてもう誰かに抱かれてたりする? そいつ誰?」
「抱かれてねぇわ! 衛生観念もそこそこだし!」
「あぁ、そう、分かった。身体の関係から始めるのは出来れば避けたかったけど仕方ないね。僕としては悠仁とえっち出来るのはどんな状況であれ嬉しいし……。ヨシ! 今から試しにシてみよ! 大丈夫、僕は悠仁相手なら朝でも夜でも関係なく勃つから。任せな。忘れられないすんごいのシてやるよ」
「飛躍しすぎだろ……!」
慌てて後退りしようとすると、先生はあっさりと「冗談だよ」と言った。本当に冗談だったのか? 警戒を解けずに固まっていると、先生は打って変わって表情を緩めた。サングラスからのぞく青は柔らかく光る。
「手、貸して」
言われるがまま手を伸ばす。そのまま手首を掴まれる。引っ張られ、つんのめった。掛け布団が落ちる。手のひらは先生の左胸に置かれていた。
「君が僕を好きなことは疑ってない。でもほら」
押し付けるように掴んだ手に力が入る。服越しでも体温を感じた。先生の身体があたたかいことは学生のときから知っている。
「僕のここは君の言葉に敏感になってる。恋愛的な意味じゃないって分かってても好きって言われたら喜んじゃう。僕のことずっと考えて寝不足になっちゃうのは僕を喜ばせるだけだ」
手のひらに鼓動を感じた。当たり前のことなのに生きてる、と思った。温もりを感じる肌の下には血が通っていて、心臓は先生を動かしている。心臓は穏やかに、けれど軽い運動をしたあとのように強く脈打っている。
「……もしかして俺と手合わせしたときより動いてる?」
「最近はちょーっと心拍数上がるようになったかな」
「ちょっとかよ!」
先生が喉の奥で笑った。身体が小さく揺れる。触れた場所から心の機微まで伝わってくるようだった。
「境界線っていうよりグラデーションじゃない? 言葉に当てはめられない感情だって存在する。スイッチみたいに切り替わるようなものでもないでしょ」
「……そういうもん?」
先生は小さく笑みを浮かべ、目を伏せながら穏やかに言う。
「でも、そうだね。僕のここみたいに、悠仁が僕を好きになったらきっと君の身体が真っ先に教えてくれるよ」
先生の中に恋がある。未だにどこか遠い出来事のように感じる。けれど確かに無下限を通し、皮膚や筋肉、骨のもっと奥で、先生は俺への想いを、俺に触れさせている。心臓がトクトクと踊るように動いている。
「さ、そろそろ起きな。目覚めたでしょ」
先生は切り替えるように声色を変えて言った。そう言われると忘れていた眠気が戻ってきたような気がして、布団にまた戻りたくなった。
「うーん」
「手出していいなら出すけど」
「は?」
眼前で先生が微笑んだ。ずっと掴まれていた手首の内側を親指で撫でられる。ぞわりと肌が粟立った。
「そそる格好してる」
低く囁かれた声は朝に不相応だった。頭よりも先に身体が起き上がって後ろに飛び退いた。どんな格好で寝ていたか。見下ろしてTシャツにパンイチなのを確認する。危機感を覚えながら先生を見た。ニコニコと眩しい表情で笑っている。
「Tシャツからおっぱい見えてたよ。僕が紳士で理性的で良かったね」
「おっ……⁉︎ 胸筋だわ!」
「早く着替えな。そのお尻も早く仕舞って」
なんでケツ? と思ったがそういえばこの人俺のこと抱きたいと思ってるんだった、とハッとする。顔が引き攣りそうだったので隠すように戯けた。
「どこ見てんのよえっち!」
先生の顔から表情が抜け落ちた。
「マジで襲うぞ」
「スミマセンッシタ」
学生時代からしてきた軽口が通じないことに仄かな不調和を覚える。もう先生と大浴場に入ったり、海に遊びに行ったりできないのだろうか。想像するとなんだか少し寂しくなった。誤魔化すように急いで洗面所に逃げ込んだ。
───……
勝手知ったるや。先生は俺の身支度中に自分で冷蔵庫を開けてお茶を入れていた。テレビを点けて朝のニュースを見ている。先生のサイズに俺の部屋が合っていないのがいつも少し面白い。
「準備出来たー」
「今日晴れだって。デート日和だ」
「おおぅ……」
デート。反応に困る。先生は上機嫌にこちらを振り向いた。そして俺の表情を見ていたずらっ子のように笑う。困らせたいのだと分かって、ますます反応に困った。
「車出して。この間は悠仁の運転してる姿見れなかったから乗せてよ」
打って変わって、先生は挑発的な表情を浮かべながら言った。試すような言い方に胸が躍り出すのを感じる。
「運転、上手いんだろ?」
煽るように言われた。そんな言い方をされる気合いが入ってしまう。
「快適すぎて寝ちゃうかもよ!」
ほら、立って! と先生を立たせた。悠仁のこと待ってたんですけど〜、と先生はのんびり立ち上がる。その広い背中を押して玄関へと連れていく。
車の鍵を持って、玄関で靴を履きながら思う。
俺を好きだという先生も、教師として俺に接する先生もどちらも五条先生だ。区別する必要はない。先生の言うとおり、境界線なんて存在しないのだろう。目に映ったものが全てだ。どれも先生で、知らないのなら知っていけばいい。きっと先生も俺と一緒で探り探りのはずだ。この先どうなるかなんて今の俺にはわからない。それならば、今きちんと向き合って未来の俺のための材料になればいい。
アパートの階段を降りて三台分しか停められない駐車場へと向かう。派手な赤色をした愛車。中古で買ったときは特にこだわりなく決めたが、乗っていくにつれ愛着が沸いていくものだと知った。
太陽が昇って空気を輝かせていた。澄んだ匂い。スマートキーで車を解錠し、運転席に乗り込む。シートベルトを閉めてハンドルを握った。先生はまだ助手席に乗り込んでいなかった。車の外から声が飛んでくる。
「最後に乗せたのだれ?」
「ん? 助手席にってこと? 彼女かな」
あ、元ね。訂正する前に座席が最大限に後ろに下げられる。がこん。身を大きく屈めて乗り込んできた先生と目が合う。軽自動車は先生には小さすぎる。太陽の光がさした青に違和感を覚えた。先生は貼り付けたような笑みを浮かべている。
「さ、行こ」
「……どこ行くの?」
「ナビ入れるからあっち向いてて」
「俺が運転するのに行き先は内緒なんだ」
こういうのいいな、と思った。もうすでに楽しいと思う自分がいる。
ふと、先生と遊びに行って楽しくなかったことは一度もなかったな、と当然のことを思った。
高専からそう遠くないアパートなので、車を走らせても暫くのあいだは窓の外に自然の緑が広がっていた。森を抜けると視界が開け、光を強く感じた。そこからは景色が流れるように移ろっていく。
何気なしに紡いだ鼻歌に先生がハモってくる。笑って歌えなくなっていると、ナビが高速道路に入るよう指示してきた。
「コンビニとか行く?」
「大丈夫。向こう着いたらなんか食べよ」
「りょーかい」
寄り道せずに指示通りに車を走らせた。ガソリンも十分入っていたのでそのまま高速道路に入る。ウィンカーを出して本線に合流した。車が風を切る音が変わったとき、他愛のない会話に一区切りがついた。良いタイミングだったので駐車場から持ってきた、気になっていたことを尋ねる。
「先生さぁ、」
「うん?」
「さっきのって嫉妬?」
沈黙。真っ直ぐ車を走らせればいいのに、反応が気になって左にウィンカーを出した。さりげなく車線変更するついでに先生の表情を盗み見る。先生は窓の外、そっぽを向いていた。
「……バレてるじゃん」
「ワハハ!」
「っつーかもう別れたじゃん。元、彼女って言えよ」
開き直ったのか、低い声で言われた。俺はまた笑ってしまう。
「訂正しようとしたら思いっきし座席下げんだもん。がこんて。訂正しそびれた」
やや乱暴な手つきで座席を後ろに下げ、態とらしく微笑む先生は正直、違和感しかなかった。先生のことを知らないことは多いけれど、察せるくらいには同じ時間を過ごしてきたつもりだ。
「もう僕以外乗せないでくれる?」
「伏黒とか釘崎とか猪野さんとか、結構人乗せんだけどなぁ。俺運転好きだし」
口に出してから先生が否定しにくい面子だなと思った。案の定、控えめな異議ありを伝えるための沈黙が落ちる。どんどん昇っていく太陽は先生の白い髪を陽の色に染めている。
「先生って好きな人相手だとそんな感じになるんだ」
「好きな人って、悠仁だからね。悠仁相手だからこうなってんの。分かってる?」
「……うん。さっきマジで俺のこと好きじゃんって思った」
先生の少しの苛立ちを孕んだ声に正直な気持ちを返した。今度はこちらがそっぽを向く番。右にウィンカーを出し、車線変更をするフリをして顔を背ける。むず痒くて、気まずい空気が流れる。マズったなと思った。揶揄ってもらった方が反応しやすいのに、こんな時に限って先生は口を噤んでいる。余計に恥ずかしくなって誤魔化すように窓を少し開けた。風が一気に入り込む。まだ朝の匂いを纏っていた。
「好きだよ」
風の音が車内に満ちた隙間を縫って声が届いた。ハンドルを持つ手が真っ先に反応し、車が大きく揺れる。
「ああぁあぶ、あぶな!」
「アッハッハ」
「今ぁ⁉︎」
「吹っかけてきたの悠仁でしょ。ていうか運転下手?」
「先生のせいでしょうがッ!」
教習所で初めて車に乗ったときのような正しい姿勢でハンドルを両手で握る。命を落とす心配はしていないが(乗っているのは俺と先生なので)集中しなければ愛車がお陀仏になる。
「ダッセー。なんでバレちゃうかな」
先生が言った。動揺した心を鎮めるために風の匂いを嗅いだ。冷たい空気が少しずつ気持ちを落ち着かせてくれる。
「……ダサいとかは思ってないけど先生、嫉妬なんてしなさそうと思ったから新鮮? だった」
「悠仁のこと好きになってからずっとしてるよ」
「ワァ」
さっきまでの不貞腐れていた先生は風に乗って出ていってしまったらしい。好意を開けっ広げにする先生から主導権を奪えそうもないので、運転に集中することにする。もう少し風を感じたくて窓を更に開けた。今更ながらこの話題は墓穴だったかもしれないと気付く。
「悠仁と付き合ってた子、呪わなかったのが奇跡だよ」
「先生の呪いはマジでシャレになんねーって」
「でも悠仁と別れてくれたからまぁ………………、よし」
「不服そ〜」
ケラケラと笑う。外から見れば俺たちは何も変わっていないのに、関係性は大きく変わろうとしていた。これまでの均衡を揺らすような不安定な一歩は座りが悪く、それでいて新鮮だ。
「先生のこと知れんの、俺嬉しいよ。嫉妬なんて特別じゃん」
先生が俺を好きにならなかったら、先生が嫉妬するなんて思いもしなかっただろう。先生の人間らしさに触れられるのは嬉しい。
「……ゆうじぃ」
「あ、これって良くない発言?」
「僕をメロメロにしてどうしたいんだオマエは」
「ごめん、そこまで考えてなかった」
「いいよ」
丁度トンネルに入った。穏やかに言った先生の声を風が攫うことはなかった。
「悠仁を好きな僕を知ってくれれば」
声が身体に入り込んでくる。ハンドルを強く握って、視線の先にある光を目指した。トンネルの中、篭るような音だけが響いていた。手にはじんわりと汗が滲んでいる。
「う、」
「ん? なに?」
「運転変わって……」
先生を知る。内側。この人の不可侵に触れる。許されている。その事実がどれだけのことかを思い知る。
「えー、なにその顔かわい。刺さるタイミング分かんねー」
強く握ったはずなのにまたハンドルがブレそうになる。このままじゃ事故を起こしかねない。
いろんな手段と選択肢を持っているはずの先生の真っ直ぐな好意は、的確に、容赦なく心臓を融かそうとする。
───……
呪霊の消失反応を、先生が気が付かないわけがない。間も無く帳が上がった。朝に降りた夜に、再び朝が戻る。先生は得意気な笑みを携えて俺を待っていた。
「一級相当を短時間で、それに約束通り服も汚さず祓えたね。ハンデにもならなかったな」
「デートってこれぇ?」
「デートは一旦中断しただけ。この後は急な任務が入らない限り本当にフリー。今からデート再開ハイ拍手!」
「っつーか先生に振られる任務じゃなくね? なんでこの難易度が先生に割り振られてんの?」
「怒るとこそこなんだ」
先生は愉快気に喉の奥で笑った。対照的に不満で顔を顰めている俺の頭に先生は大きな手を置いた。
「強くなったね、悠仁」
頭を撫でられる。表情筋はすぐに緩む。先生に褒められると、走り出したくなるくらい、嬉しい。
服を汚さずに呪霊を祓うこと。先生が俺に課した呪霊側へのハンデだった。卒業してからめっきり減った先生同伴の任務。久しぶりの見せ場だった。褒めてもらえたことが嬉しくてルンルンで車に乗り込んだが、ハンドルに手を伸ばした瞬間、先生は俺の袖口を指差しながら「残念、汚れてるね」と目敏く指摘した。全く気付いていなかった。笑顔で減点を下された。
再開したデートとして辿り着いたのはラーメン屋だった。時刻は十一時前。以前気になっているラーメン屋があると先生に溢していた店だった。オープン前である十一時少し前にはすでに列ができていたが、回転が早いのがラーメン屋のいいところだ。大して待つことなく席に通された。
「悠仁は遊びに誘うとしたら誰を誘う?」
威勢の良い店員に注文を通してすぐ、先生は肘をつき、手に顎を乗せて唐突に尋ねてきた。組まれた長い足が机の下で少しだけ触れた。
「……伏黒と釘崎?」
「じゃあ映画観にいくなら?」
「伏黒と釘崎かせんせー」
「一緒に鍋食べるなら?」
「ふはっ。なに質問攻め? ……んー、やっぱ地下室の思い出が強いから先生かなぁ。でも先輩たちも巻き込んでみんなでもしたい!」
「夜中に一緒にコンビニ行くなら?」
「ふしぐろー……、か狗巻先輩!」
「朝起きて一緒に走るとしたら?」
「伏黒を起こして玉犬出してもらう」
「怪我した時に報告するなら?」
「それは家入さん一択じゃね。でもその前に伊地知さんか」
「飲みに行くなら?」
「猪野さん」
「こら」
「もうバレてるからいーっしょ」
「相談するなら?」
「えー、いっぱい」
「頼れる大人は?」
「いっぱいいるって、もう知ってる」
「甘えるのは?」
「……え、えー?」
「いいからいいから」
「……………ちょ、ちょーそー」
俺の中の何かが素直になれず、視線を逸らしながら言った。脹相相手だといつもこうだ。体の内側を疾るむず痒さに居心地が悪くなる。表情筋が変な働きをしているのが自分でわかった。この場に脹相がいなくてよかったと思った。
「オマッシャシター!」
店員がどんぶりを両手に持ってきた。癖の強い店員がいるのがラーメン屋というところだ。豚骨スープの匂いにたちまち口角が緩む。割り箸を二膳とって先生に手渡そうとすると、先生は美形な顔をこれ以上ないくらい歪めていた。
「え、ごめん笑っていいやつ? すごい変な顔してるじゃん」
「不満なのー」
うぅ、と言葉に詰まった。視線が無意識に右往左往する。
「しょ、しょうがねーじゃん。もう兄貴としか思えねぇし……」
脹相が花を散らしながら駈けてくる映像が脳内で流れた。手で払うようにして霧散させる。先生はパキン、と小気味良い音を鳴らしながら箸を割った。
「じゃあさ」
「うん?」
「何かを教わるなら誰?」
「五条先生」
息をするように答える。得意気に。鼻からふんすと息が出た。先生はさっきまでのめちゃくちゃな表情から、いつもの嘘みたいな綺麗な顔で嬉しそうに笑った。欲しがっていたのがバレバレで、そういうところが可愛いと思う。
「まぁ、今はそれでよしとしてやるか」
「えぇ? この質問攻めなんだったの」
目を伏せながらラーメンに手をつけた先生に笑いを含ませながら尋ねる。どんぶりから立ち昇る湯気が早く食えと言わんばかりに揺らめく。先生の綺麗な箸の持ち方にいつもこっそり目を向けてしまう。
替え玉を二回して、餃子もお互い一皿ずつ食べて大変満足だった。相変わらず威勢の良い店員に見送られながら店を出ると、タイミングを見計らったようにスマホが鳴った。先生のスマホではない。
「世界は僕に優しくない!」
鳴ったのは俺のスマホで、任務も俺宛てだった。電話口の伊地知さんに外野から悪態を吐く先生を宥めながら、予定外の任務を了承し通話を切った。
「バックれようぜ」
「十五時までに戻れば良いらしいから下道で帰ろ」
「まだデートらしいデートもしてない」
本気で拗ねて立ち尽くす先生を助手席になんとか押し込める。シートベルトまで付けてやった。むっすりする先生の表情は三十を超えた成人男性とはとても思えず、こういう仕草や表情はいくつになっても変わらないのだろうと想像できて笑ってしまった。
「ドライブって十分デートっぽくね? 帰りに甘いもんでも買おうぜ」
「なんでそのムーヴできて僕の彼氏じゃないんだろ」
「さすがにはやいって展開が」
さらりと流して運転席に乗り込んだ。すると先生が身を乗り出してすぐ近くにいた。息がかかるほどの距離。心臓が大きく一回跳ねる。
「僕もシートベルトつけてあげる」
低い声。先生の匂いがした。身を固めて、されるがままになるしか選択肢がなかった。先生はやけに緩慢な動作でシートベルトを締めた。カチリとシートベルトが嵌まる音がする。眼前で先生が微笑む。
「び、」
「うん」
「びっくりした!」
「ドキドキした?」
「した!」
「正直でウケる」
先生のペースにまんまと乗せられてしまった。うぎぎと奥歯を噛みながらエンジンをかけた。ヨシ、と切り替えるようにハンドルを握る。いざ出発、とはいかなかった。先生がずっとこちらを見ていた。視線がうるさかった。
「……今度はなんすか」
やめておけば良いものの、つい反応してしまう。伏黒なんかはこの青を徹底的に無視をするので逆にすごいと感心した。
「悠仁が今ドキドキしてるのって僕に口説かれているこの状況に反応しているのであって僕のことが好きだから、ってことじゃないって分かってるんだけど」
「うっ」
「それでも平静を装おうと必死に取り繕ってるのグッとくるなぁって思って」
かわいいね、と青い瞳を溶かしながら先生は言った。はくはくと酸素を求める鯉のように口が開閉する。我慢していた照れ臭さが蓋を開ける。ぐっと羞恥心を飲み込んで噛み付いた。
「そういうの言わなくて良いから……!」
「悠仁には全部伝えたほうが効くでしょ」
「知らね〜!」
とは言ったものの、先生が言うことなので実際そうなのだろう。証明するようにどんどん顔が熱くなっていくのが分かる。的確で容赦がない。さすがは俺の先生である。
これ以上構っていたら心臓がもたない。態とむすっとした表情を作って車を発進させた。先生が愉快そうに喉の奥で笑った。
帰り道で買う予定だった甘いものはコンビニのアイスになった。高専へと向かっていくほど街から遠ざかるので仕方がなかった。先生はコンビニのアイスでも不満を言わなかった。
「僕だって夜中にコンビニ行くよ」
先生はキャンディ型のアイスを食べながら言った。ソーダ味。先生の色だと思った。
「何の話?」
「恵か棘って言ってた」
「……あ、あぁ〜! さっきの質問攻めのやつね。え、それがなに?」
「僕は朝だって強いし走るのだって嫌いじゃない。僕と朝走るの、楽しそうじゃない?」
「それはすんげぇ楽しそう」
声が弾んで口元も緩む。この人を追いかけるのはずっと楽しくて、胸が踊る。先生は息を吐くように小さく笑って続けた。
「悠仁が怪我した時は小さい傷くらいなら手当てできるし、僕なら任務の状況を聞いてアドバイスだってできる。お酒は飲めないけど飲みの場は好きだよ。みんなが僕を呼ばないだけ。僕がいたら盛り上がるに決まってるのにね。それから呪いのことなら僕に相談しとけば間違いない。そして僕は誰よりも頼れる大人だろ?」
先生は歌うように言った。車のハンドルを握りながら笑って耳を傾ける。
「僕は悠仁に甘えたいし甘えられたい。僕も甘えるんだから、甘え下手な悠仁も甘えやすいと思うんだよね。グッドルッキングガイは包容力もあります」
先生が食べかけのアイスキャンディを差し出してきたので、しゃくりと齧った。口内がひんやりして甘味が充満する。
「でも勘違いしないでね。僕は君から選択肢を奪いたいわけじゃないよ」
風が穏やかに先生の声を運ぶ。行きの道中とは違い、帰り道である下道は風と共にいろんな音が車内に入り込んでくる。
「悠仁が答えた相手になりたいんじゃない。甘えるのを僕にしろって言いたいわけじゃないんだよ。ただ、僕にも甘えて欲しいし、君が何かする時に思い浮かべる顔に、僕も入れて欲しい」
信号は赤になった。車はゆっくり停車する。先生がアイスをもう一度食べさせようとしてくれる。
「僕を恋しがってくれたら、幸せだなって思うよ」
アイスは形を変えていった。齧り付いたのではなかった。どんどん溶けていっていた。形をなくして垂れた液体が、先生の長く男らしい指を汚す。無下限は解かれていた。
「俺は、」
信号は青に変わった。車はいつまで経っても停まったまま。真っ直ぐな一本道を赤い車が塞いでいる。
「先生の幸せに俺がいるなら、幸せにしたいって思うよ。先生をそういう意味で好きじゃない、生徒の俺でも」
先生が大事で大切だ。俺たちの関係がどうなろうと変わらない。先生の幸せを今の俺が、先生を好きじゃない俺が願うだけでは届かないのだろうか。こんなにも俺は先生が好きなのに。
「分かってる」
先生は柔らかく笑った。車の外で風が大きく吹いた。葉擦れの音が車内をまわった。大きく伸びた木についた葉は、俺だけに影を落としていた。
「悠仁はつくづく僕を尊重してくれるね」
クラクションがけたたましく鳴った。いつの間にか後ろに黒のワンボックスカーがついていた。信号はとっくに青になっている。
「そういうところを好きになったんだよ」
同じ音の言葉。蓋を開けたら中身は違う言葉。
一緒の想いを返せないことが歯痒くて、なんだか泣きそうになった。
ドライブデートをしてからというものの、先生は信じられないくらい積極的になった。
スマホは度々先生からのメッセージを知らせた。しかしルーティンというわけではなかった。「次はいつ高専に寄る?」だとか「悠仁みたいな犬いた」とリードに繋がれた散歩中のでっかい犬の写真が送られたりだとか「見て。長くない?」と先生の顎から額の生え際までありそうなソフトクリームの写真が送られてきたりしていた。
まめなタイプではないのは知っていた。最初は先生の恋愛観に連絡の頻度という項目が存在するのか、と驚いていたが、今は違うと分かる。通知が来たとき、先生は俺を頭に思い浮かべている。そう確証をもって言えるほど、先生は俺への好意を隠すことをしなかった。
「ごめんね」
ドライブをしたあの日の帰り道。言葉の性質の違いに表情を歪めていた俺を先生が気付かないわけがなかった。
「知ってると思うけど、僕は自分勝手な男なんだ。僕の手にしたい未来までの過程で、悠仁が嫌な思いをすることがあるって分かってる。気まずかったり、困ったり、悩んだりね」
「……嫌な思いって、決めつけんなよ」
「ふふ、そうだね」
胸が締まるような感覚に襲われたのは事実だったが、嫌な思いと決めつけられたのはそれこそ嫌だった。
「それでも僕はやめてあげられない。やめるつもりもない。君のことが好きな僕のために」
先生は才能をたくさん持ち合わせていて、それでいて努力を惜しんでこなかった人だ。というよりも努力を努力だと思わず楽しめる人だということを知っていた。先生の俺への努力もそうであったのなら、俺は俺の思うままに動ける気がした。
先生はそれ以上なにも言わなかった。気まずくはなかった。高専についてから、先生は穏やかに笑って「任務、頑張ってね」と背中を押した。その手のひらの感触と先生の表情をよく覚えていた。俺はおう、と返事をした。
そして前を向いて、先生にとことん向き合うことに決めた。
───……
先生は俺を見つけると生徒だった時のように大きく名前を呼んで手を振った。呼び方は同じでも笑い方が違うということに早い段階で気付いた。
よくデートに行こうと誘われた。ドライブをした日のように突然家に来ることもあったし、事前に約束をすることもあった。約束の前後に任務があったとしても、先生は必ずサングラスでやってきた。目隠しをしていない先生の表情はとても分かりやすく、俺をよく戸惑わせた。
稽古を付けてもらいたいとお願いすると、先生は容赦なく俺をボコボコにした。俺たちの間にある気持ちが生徒の時とは違っても、先生は遠慮なんて一切しなかった。俺は変わらず先生に全力でぶつかれて、それが嬉しかった。
いろいろ考えて距離感を測りかねるくらいだったら先生を知ろうと思った。先生にも伝えてあった。だからデートを断ることも先生を避けることもしなかった。
「悠仁らしいね。困るな。ますます好きになる」
同じ想いは返せていないのに、先生は俺が向き合おうとするとここぞとばかりに口説いてきた。悪戯を好む青年のように笑いながら。とても心臓に悪かった。
先生に翻弄される日々が続いて早くも三ヶ月の月日が経っていた。そしてこの一ヶ月、先生と顔を合わせていない。
連絡は徐々に減っていった。高専に寄って伊地知さんを見つけた時に先生の様子を聞けば、彼は申し訳なさそうに忙殺されていると言った。伊地知さんのせいじゃないのに。
いよいよ連絡が途絶えても、先生は俺のこと好きじゃなくなったんだな、とは思わなかった。そのくらい先生の気持ちは俺の身体に沁み込んでいたし、俺は先生からの好意をよく覚えさせられていた。
それはそれとして、最強の先生をいつ休ませてあげられるんだと、自分の弱さに歯噛みした。先輩達に稽古を付けてもらったり任務を多く入れてもらった。強くなりたかった。先生はいつだって俺のずっと前にいる。
晴れた夜だった。任務が終わってから高専に寄って、それから麓の自宅まで走って帰りたくなるほどいい夜だった。補助監督から送っていきます、という申し出を断って高専を出て走り出した。空気が澄んでいて、見上げれば星と月が浮かんでいて、木漏れ日みたいに夜の道に光を落としていた。
アパートに着いた頃には息が少しだけ上がっていた。夜のひんやりした風が頬を撫でて気持ちが良かった。背負っていたスクエア型のリュックから鍵を取り出しながらアパートの階段を登る。もう日付を跨ぐ頃だったので、足音を立てないよう気をつけながら。そうして最上階である三階まで登りきる。自室の前。思わず足音が鳴る。
「っ、せ……⁉︎」
夜中だということを思い出してハッと口を噤む。この部屋までの短い距離を小走りで駆け寄った。先生はしゃがみこんでいてもでかい。長い足が昆虫のようだった。先生は緩慢な動きで顔を上げた。
「ランニング? というかもしかして高専寄ってた?」
「うん。家だと報告書書かねーからやってきた」
「あー、じゃあ僕も真っ直ぐ高専帰れば良かった」
よいしょ、と立ち上がった先生は相変わらずでかくて高いなと思った。見上げながら部屋の鍵を開ける。
「なんか食ってく? 食材あんまなかった気がするから男飯になるけど」
「顔見に来ただけだからいいよ」
「………うーん?」
「うん?」
「目隠し外してくれる?」
先生は考えるように黙り込んだあと、目隠しを下げた。がっつり隈をこさえているわけでもなく、顔色が悪いわけでもなかった。けれど疲弊は滲んでいた。
「疲れてんね」
どこかアンニュイな雰囲気は夜によく溶け込んでいた。珍しい空気感だった。
「うん、まぁ……」
ハッキリしない物言いだった。首を傾げると、先生は躊躇いがちに手を伸ばしてきた。
「というより、」
夜風で冷えた、けれど先生の体温のままで俺の頬に触れた。咄嗟に息を詰める。喉が変に鳴った。
「悠仁に会えない方がしんどかった」
この三ヶ月で多少は慣れてきたはずだった。少しは耐性もついて、上手くはないかもしれないが翻し方だって身についていたはずだった。けれどこの瞬間、心臓は今までにない音を立てていた。体温が一気に上がって、夜に浮かぶ青から目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
「ゆうじ」
先生の青は大きくなって、驚いたように俺の名前を呼んだ。弾かれたように顔ごと逸らした。触れられた左の頬がまだ熱かった。
「や、やっぱファミレスいかね? ちゃんとしたもん食った方がいいよ」
「ゆうじ」
「車出すわ。荷物置いてくるからちょっと待っ、」
「悠仁」
今度は躊躇なく、遠慮もなく、両頬を大きな手に覆われた。強制的に目を合わせられる。滲んでいたはずの疲労はいつの間にか姿を消していた。
「誤作動でもなんでもいい」
先生は挑戦的に、それでいて楽しそうに笑っていた。
「ちゃんと期待するよ」
直接本人に言うのは意地が悪い。けれど悪態を吐く余裕もなければ、嬉しそうな色をした青に文句をつける余裕もない。先生が今までの俺の反応とは違うことに気が付かないわけがなかった。
先生はふと笑って、それから俺の手を強く握った。そして走り出した。二人分の足音がうるさくアパートの階段を鳴らした。
「走って行こう。いい夜だから」
先生は俺の手を決して離さずぐんぐん進んでいった。そういえば走るのは嫌いじゃないと言っていたことを思い出す。だからって急で、突然で、俺の心臓はまだ五月蝿いのに。先生は俺のことなんてお構いなしだ。
先生は俺の手を引きながら走る。走って、走って、それからこっちを振り返った。先生は無邪気に、楽しそうに笑っていた。先生の青が夜にキラキラと瞬いていた。
俺はゆっくりと目を見開いた。それから付いていくだけのために動かしていた足に力を入れた。地面を蹴った。先生に並ぼうとすると、先生はもっとスピードを上げた。追いつけない。追いつけないことが嬉しかった。先生とならいくらでも走れそうだと思った。
いつの間にか俺たちははしゃぐように夜を駆けていた。
───……
走るのに夢中になって隣町のファミレスまで来ていた。先生は苺の沢山乗ったドデカいパフェを突きながら言った。
「さっき僕を家に上げなくて正解だったね。悠仁の生存本能ってガバガバなのかしっかりしてんのか分かんない」
この時間にこのパフェを食べているのを釘崎が見たらブチギレそうだなと思った。
先生は読み違いをしている。あそこで先生を家に入れて、先生に触れられたとして、俺はきちんと拒否が出来たのか、分からなくなっただけだった。
教室の扉を開けた。風がよく入り込んで、タッセルで止められていないカーテンは踊るように揺れていた。電気は付いてなくても、先生の立つ窓際から光が降り注いでいて、先生の影を作っていた。
「ちょっとぉ〜、そんな歩いてるか走ってるかも分からないスピードじゃ呪霊から逃げきれずに死ぬよ? さぁ足あげて! 腕振って! もっとスピード出して!」
下から「ごじょおせんせーのおにーッ‼︎」と憎しみを原動力に腹に力を入れているような、息も絶え絶えな声が聞こえてきた。
「受け持ちの子? 一年生?」
「そ。体力無いんだよねぇ。一年の時の憂太みたい」
近づいて同じようにグランドを見下ろしてみると、確かに見知った顔があった。一年生の一人がこちらに気付き「いたどりさぁーん!」と大きく手を振ってきた。笑って手を振り返した。
「なに? 仲良しなの? まぁたウチの子誑かしてんのオマエは」
「……俺らはもうせんせいの〝ウチの子〟じゃねーんだ」
「まッ! 可愛いこと言って!」
おりゃ! と先生にヘッドロックを掛けられる。そのままわしゃわしゃと掻き乱すように頭を撫でられた。ギャハギャハと笑い声を上げながら抜け出そうともがくも、なかなか抜け出せない。だんだんと笑っている場合ではなくっていき、躍起になる。
「ぐ、ちょおッ、締まってるからァ!」
「悠仁もまだまだだねぇ」
脇腹がガラ空きだったので擽ってみても筋肉の厚さが分かるだけでなにも効果がなかった。パッと先生が手を離す。ゼェハァと切れる息で見上げると、目隠しをしていない慈しむような眼がサングラスの隙間からのぞいていた。
「ずっとだよ。僕は君らの先生を辞められない」
教師ぶるの好きなんだよね、と先生は言った。教師ぶるも何も、先生は先生だ。俺たちの、俺の先生だ。
「で、どうしたの。なんか用事?」
先生は窓枠に寄りかかりながら言った。白い髪は風に揺れていて、青い瞳は穏やかに凪いでいた。
「や、用事はないんスけど、その、せんせいに、」
「うん?」
「先生に、会いに」
そう言葉にするのに緊張していたはずなのに、凪いでいた青い瞳が揺れるのを見て、俺は悪戯が成功したときのように笑ってしまう。先生は心底驚いているようだった。それすらも俺を喜ばせた。
「……え、もしかして僕フラれる?」
「違う違う!」
しばしの沈黙のあと、悲壮感を漂わせながら言った先生に慌てて訂正を入れると、先生は打って変わってニヤリと笑った。仕返しをされたのだとすぐに分かった。俺にフラれるなんて露程にも思っておらず、自信があるのだと思ったが、瞳の奥に少しの安堵を見つけた。
「だからと言って今答えが出る訳じゃねーんスけど……」
気持ちが固まっていない状態で会いに行くのは憚られた。期待させてしまうのは分かっていた。けれど立ち止まって待つだけはどうしても性に合わなかった。先生のことはあの焼肉の日からずっと考えてきた。感情が少しずつ変化していることにも気付いてる。今はその過程で、近い未来に確かな名前を付けるために先生に会いにきた。
「ズルくてごめん」
「ジッとしてられなかった? 悠仁らしいね。いいよ。君の中に僕がいるなによりの証拠だ」
先生は俺の胸中をまんまと当ててみせ、その上で肯定した。楽しげで嬉しそうでもあった。先生も俺の変化に気づいている。
「僕を振り回せるのは悠仁だけだね。僕はそれが嬉しいし、君の変化も反応も見れて楽しい」
「楽しいの? ずっと一方通行は辛いじゃん」
「はぁー? 僕と僕の愛を舐めないでくれますぅ? めちゃくちゃ楽しいですけど!」
「急にキレる……」
「本当に楽しいよ。僕は自分の気持ちに蓋をしなくていいし、それに、それを君に渡せば悠仁はこっちを向いてくれるしね」
俺に彼女がいた時のことを思い出しているのだと分かった。先生は俺が別れたと告げた瞬間に俺を好きだと言った。街中で前に付き合っていた子と二人で歩いている時にバッタリ会ったこともあった。その時から先生は俺のことが好きで、それを俺に伝えず隠しもっていた。間違いなく、俺のために。
「僕は君を好きになった僕を信じてる。何も疑ってない。悠仁のことも、僕のことも。相変わらず見る目があるなぁって褒めてすらやりたい」
「相変わらず?」
「僕の大切にしてきたものたちは今も変わらず大切だし、それを大切とした僕を、僕は嫌いじゃ無い。この目は飾りじゃねーんだぞって自信をもって言える」
誇らしげに笑った後、ま、親友は呪詛師になったし後悔もあるけど、それはそれ。と、先生はなんてことないように続けた。あっけらかんと言っている。今は先生の想いに対する基盤の話をしていて、出てきた言葉にここで勝手に悲観するのだけは違うと分かった。
「だからさ、悠仁は好きなようにしたらいいよ。僕のことは気にしなくていい。謝らなくていい。悠仁に何をされたって僕が諦めることなんてないし、きっと君をますます好きになるだけだ」
あ、でも僕のこと考えてね⁉︎ 考えるなってことじゃないよ⁉︎ と先生は慌てて付け足してきた。陽の光を取り込んだ青が忙しなく輝きを揺らしている。分かってると頷きながら笑った。
窓から入り込む風を感じながら目を伏せる。この人の自信を、一緒に大切にできればいいと思った。大切にしてきたものを、一緒に自信として持っていけたらいいと思った。
「触っていい?」
「え゛。な、なにを、どこに……?」
「手」
「……あぁ、手ね。ドーゾ」
差し出された右手を両手で受け取った。先生の不可侵はいとも簡単に俺を許した。大きい手だ。形を確かめるように触れる。白くて、長くて、大きくて、でも男らしい手。血が通っているあたたかさ。この手に撫でてもらえるのが学生のときから好きだった。いろんな人を救ってきた手だ。大事にしたいと思った。そして理解する。当たり前のように、輪郭に触れるように、ただ穏やかに。
「あったかいね」
「……悠仁が、触れてるからだろ」
先生が一歩、足を踏みだした。穏やかだったはずの心臓は、たったそれだけで心拍数を上げた。顔は上げられなかった。上を向いていた先生の手のひらはひっくり返され、そのまま俺の右手を覆うように掴んだ。そして少しの躊躇いをもって引っ張られる。抵抗すれば耐えられる力加減に、逆らえなかった。
踊るように舞っていたカーテンは風に煽られて、いつの間にか大きく広がっていた。俺たちをはしゃぎながら隠すようにはためいている。薄暗い教室で、先生の体温を感じた。
「僕も、ゆうじに触れたい」
低く掠れた声。聞こえてくる先生の鼓動は雄弁だった。
心臓は大きく脈打ちながら形を変えようと疼いている。
狭い四人がけの席は男だけで埋まると本当に窮屈だった。木で出来た椅子は座り心地が悪い。けれど居心地は良い。店員の声が飛び交って、客の笑い声が至る所から湧いている中で飲むのは気持ち良く酔えるから好きだった。
「俺は今日ソフドリで」
「なんで? 伏黒任務入ってないって言ってなかったっけ?」
「入ってないとは言ってねぇ。今ペンディングしてる。もしかしたら途中で抜けるかも」
「身動き取りづらいよね、そういうとき。あ、僕は生で」
「俺もー」
「虎杖君が飲むことには触れない方がいいんだよね?」
「ウス」
「スミマセーン! ハイボールと生二つと、伏黒は烏龍茶? ……あと烏龍茶一つくださーい!」
猪野さんは慣れた様子で注文を通す。乙骨先輩はまだ二十歳になっていない俺を気にかけてくれたのだろう。けれど実際、年確をされたのは二十歳を超えた乙骨先輩だけだった。俺は前髪を上げていれば百パーセント年確されないし、伏黒は十代が醸しだす雰囲気ではない。
「っつーかなんでこのメンツ?」
「猪野さんは勝手について来たんでしょ」
「伏黒おまっ……、年々俺に容赦なくなってねーか」
「俺乙骨先輩と飲んでみたかったんスよ」
「い、虎杖くん…!」
なぜか感動している乙骨先輩に、丁度来たジョッキをぶつける。それを皮切りに全員で乾杯した。ジョッキ自体もよく冷えていて泡がしっかり残っていた。一気に煽ると冷たい液体が食道を通っていくのがわかった。
「乙骨先輩って死ぬほどビール似合わないっすね」
「え⁉︎ そ、そうかな。結構好きなんだけど」
「猪野さん、そっちの唐揚げとってください」
「へいへい。あ、俺もエイヒレ食う。皿ちょうだい」
男四人だ。まず飲んで食べて腹を満たすのが先だった。それにこの小さなテーブルには全ての注文は乗り切らない。全て注文が揃う前にある程度皿を空にする必要がある。みんな直箸で好きなものを好きなように食べていく。唐揚げを頬張りながらサイコロステーキに手を伸ばしていると、木の机が細かく震えた。
「ふひふろ、ふあほ」
「ん。……すみません、少し外します」
はい伏黒、とスマホを耳に当て返事をしながら伏黒は席を立った。伏黒と向かい合わせに座っていた俺と乙骨先輩は口をもぐもぐと動かしながら意味もなく伏黒を視線で追った。
「そういえばさぁ、オマエ五条さんとどうなったの」
このテーブルの戦闘力ヤバいな、とサイコロステーキを咀嚼していると、猪野さんが骨付き肉を引きちぎりながら上目で尋ねてきた。
「や、まだ何もないっスけど、」
「おー」
「でも今度会ったら告る……、っす」
「お、おおおお⁉︎」
「虎杖くん……!」
二人の声のボリュームが大きくなった。恥ずかしくなって誤魔化すようにジョッキを煽る。けれど少ししか残ってなかったビールはすぐに飲み干してしまった。
「伏黒……のはまだ残ってるか。乙骨先輩はまた生でいいの? 違うの飲む?」
「生で!」
「ははっ、良い返事。恋バナ好きなんスか? ……すんませーん! 生二つとハイボールくださーい!」
店員さんに告げてからいよいよ二人の視線を正面から受け取る。そこそこ照れ臭く、逃げるように目を逸らした。
「告るって、オマエ告られた側だろ? 返事だろそりゃ」
「おんなじじゃないスか? でも心境的に告白するの方が近い感じすんだよなー」
「なにがきっかけでとか聞いていい?」
「えっ。あ、いや、全然答えるけど! うーん、そうだなぁ」
目を伏せて考える。脳裏に先生がいる。自然に、穏やかに好きだと自覚した。きっかけは先生で、全てだった。感情のグラデーションだと言った先生の言葉がぴったりと当て嵌ったように思う。
「俺、先生のこと元々マジですげー尊敬してたし、かっけーし、強ぇしデケーし大好きで、」
「小学生か」
「わかるよ!」
乙骨先輩が前のめりに同意してくれた。なー! と笑いながら返す。店員さんの威勢の良い声と一緒にビールとハイボールが届いた。猪野さんと乙骨先輩に手渡しながら続けた。
「先生の幸せはもちろん願ってたし、先生は幸せになるべきって思ってたけど、なんかさー、」
思い出す。先生に好きだと告げられてからの日々が頭の中を駆け巡る。スマホはよく鳴るようになった。先生は頑なにデートと言って譲らなかったが、何度も一緒に出掛けた。一緒に美味しいものを食べて、映画も観に行った。夜を走った。教室で抱きしめられた。先生の声で何度も名前を呼ばれた。声を、体温を、笑った顔を思い出す。無意識に頬が緩んだ。
「俺が幸せにしたいって思ったらもう、好きとしか考えられなくなった」
僕を恋しがってくれたら幸せだと言った先生を思い出す。あの時の心情と今の心情はあまりに変わっていた。俺は俺の全てで先生を幸せにしたかった。花が咲いたみたいに晴れやかだった。恋しいと思うだけで満足してもらっちゃ困る。もらった分、いやそれ以上をこれから返す。そして渡し続けたいと、今は思う。
「うぉ、え、なに!」
顔を上げると頬を僅かに赤くした猪野さんと、やたら真剣な表情をした乙骨先輩がいた。
「いや、なんかこっちが照れる……」
「ちょ、なんでやめてくんね⁉︎ なんか急に恥ずかしくなってきたんだけど!」
「虎杖くん」
「あ、ハイ! ……なんで乙骨先輩はそんなマジ顔なの?」
「五条先生をよろしくお願いします」
「………え、乙骨先輩酔ってる?」
「その人ワクだぞ」
恭しく頭を下げる乙骨先輩に、頭にはてなマークが浮かべていると伏黒が戻ってきた。通りがかった店員さんにウーロンハイを頼んでいる。
「任務無くなった?」
「おう。延期になった」
「じゃあ改めて乾杯しようぜ」
「飲みもん今頼んだばっかだよな? そんじゃ今のうちにトイレ行ってくるわ、俺」
俺は無事に戻ってくるかな、と思った。猪野さんは高確率でおじさん集団やら若いお姉ちゃんたちの集団に気に入られて帰ってこなくなるときがある。
「猪野さん暫く帰って来なかったら俺らで仕切り直そ」
「あ、じゃあその席にリカちゃん呼ぶ?」
「エここで⁉︎ なんで⁉︎ ねぇマジでこの人ワク⁉︎」
「乙骨先輩……?」
「あ、ほらぁ! 唯一手放しで尊敬できる先輩が変なこと言うから伏黒ショック受けてんじゃん!」
「そんなこと思ってくれてたの? 光栄だなぁ。あ、伏黒くんのウーロンハイ来たよ。ぬるくなっちゃうし早く飲んじゃお。虎杖くんもまだ飲むでしょ? それなくなったら頼もっか」
「……もしかして今日俺ら潰されんの?」
ニコニコとご機嫌な乙骨先輩はなんだか少し怖かった。これが特級。戸惑いながらも乙骨先輩に勧められるままに猪野さん不在の中、改めて乾杯をする。
「嬉しいんだよ。僕は五条先生の幸せってどこにあるか分からなかったから。だからせめて先生の負担を減らせればって思ってきたけど、それすらもまだまだ遠い」
乙骨先輩はジョッキを両手で包むように持った。手の体温でぬるくなるのも構わず、親指で流れる水滴を撫でるように拭っている。
「五条先生が虎杖くんのこと好きだって話してくれたとき、本当に良かったって思ったんだ。先生には僕たちがいるけど、もっと踏み込める人がいた方が絶対にいいって思ってたから。……ごめんね、僕は五条先生を応援してたんだ」
「……特級二人ってヤバくね?」
「あ、応援はしてたけど協力はしてないよ! 話聞かせてもらったくらい。おかげで虎杖くんのことちょっと詳しくなっちゃった。五条先生って本当に虎杖くんのことが好きなんだなぁって何度も思ったよ」
へらりと笑う乙骨先輩に顔が熱くなっていくのが分かる。「なんで特別なのに隠さなきゃいけないの」と、五条先生が気持ちを開けっ広げにしてたことは知っていた。けれどこうやって実際に間接的に聞くと、より伝わるものがある。暴れ出したくなるのを堪えるように頭を抱えた。でも少しも落ち着かない。自覚した途端、俺は先生のことが好きで仕方がなかった。
「……やばい」
「どうしたの?」
「早く会いたい」
わぁ! と乙骨先輩がはしゃぐような声を上げた。うっかり漏れ出た声にリアクションをされると死ぬほど居心地が悪かったが、それよりも会いたい気持ちの方が勝った。頭を抱えた視界の隙間から、永遠と枝豆を食っている伏黒の指が見える。ハッとして顔を上げた。
「あ、そうだ伏黒」
「なんだ」
「俺、五条先生に告るわ」
そういえばさっき席を外していたなと思い出した。伏黒は枝豆を食べる手を止めることなく言った。
「そうか。まぁ、いいんじゃないか」
あの人、暫くうるさそうだな、と言った仏頂面の向こうに少しの穏やかさをみる。みんな、形は違うが先生を大事にしている。みんなの大切な人をこれから幸せにしようというんだから責任重大だ。絶対に先生を、みんなを後悔させるつもりはなかった。
「あんだ兄ちゃん、あんたプロポーズすんのか!」
「うぉ⁉︎」
右横のテーブルから腕が伸びてきたと思ったらそのまま肩を組まれる。肩を組んできたおっちゃんの呼気からはアルコールの匂いがした。狭い居酒屋だ。あってないような細い通路は塞がれた。
「プロポーズじゃねぇけど告白すんの! 応援して!」
こういうノリは嫌いじゃなかった。ビールジョッキを手に取り、おっちゃんのジョッキにぶつけてから一口煽った。おっちゃんも喉を鳴らしながらジョッキを傾ける。乙骨先輩は苦笑いをこぼしており、伏黒は我関せずの表情で枝豆を食べている。おっちゃん達は三人で来ているらしく、そのうちの一人が申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げてきた。笑って問題ないことを伝える。
「漢気があっていいじゃねぇか! いつ告白するんだ!」
「次会った時! でも最近すんげぇ忙しいっぽくてさぁ、全然会えないんだよ」
「あ、だから最近毎日高専に顔出してるんだ。補助監督さんが言ってたよ」
「そうっす。会えないかなーって思って。なんかさぁ! 会えないとめっちゃ不安なんだけど! あの人モテるじゃん⁉︎ 俺の知らん間に違う人のとこ行ってたらどうしよ……!」
「モテる……? 誰のこと言ってんだ虎杖」
「兄ちゃん、しっかり恋してんなぁ!」
バンバンと笑いながら肩を叩かれる。なかなかに痛かった。前に一度、連絡が途絶えたことがあったが、その時は先生は変わらず俺が好きなんだろうと当然のように思っていた。そのくらい、たくさん与えられていた。それが今はどうだ。先生のことは信じているのに、不安な気持ちが拭えない。不安で、心配で仕方がない。おっちゃんの言う通りこれは正真正銘、恋だった。
「こんなに会えないならあのとき言ってれば良かったなぁ」
「どの時だ⁉︎」
「声デカ! 前にさぁ、良い感じの雰囲気になったときがあったんだけど、」
「うんうん!」
「やめろ、そういう話は聞きたくない」
「そんときは言わなかったんだよなぁ」
「おまッ、そりゃ相手の子可哀想だろうが!」
「だよなぁ。俺もそう思う」
まだ覚悟が決まってなかった。流されているようじゃダメだと言い訳をした。実際はただの意気地なしだ。でももう同じ轍を踏むつもりはない。
「だから次会った時は走って伝えに行く」
俺は走ることができる。ついでに声もデカい。世界に響き渡るように伝えてもいいかもしれない。
「足速ぇの、俺」
笑って言うと、肩口から鼻を啜る音が聞こえてきた。おっちゃんがチワワみたいに潤んだ目をしながら震えていた。ギョッとする。助けを求めるように逆側を向くと、乙骨先輩も同じような表情をしていた。伏黒は相変わらずしらーっとした顔で枝豆を食べ続けており、猪野さんはまだ戻ってきていない。
「相手の子、こんなに想われて幸せだなぁ……!」
おっちゃんが涙声で言う。俺は笑って訂正した。
「俺が幸せにしてもらったの。だからこれからは俺の番」
とうとう声を上げて泣き出してしまった。笑いながら連れの人に「この人泣き上戸っすか?」と尋ねると苦笑しながら頷かれる。伏黒が徐にスマホを掲げた。
「なに?」
「五条先生に送る」
「ははッ、じゃあ先輩も入ろ」
控えめなピースをした乙骨先輩に、おっちゃんと肩を組んでいる俺に誰かが後ろからのし掛かった。パシャリとシャッター音がする。丁度戻ってきた猪野さんもギリギリ映り込んだらしい。
「伏黒も撮ろうよぉ」
「俺はいい」
「あ、こっちから写真撮ってる彼込みで撮ってます」
隣のおじさんが控えめに挙手をしながら言った。ファインプレーですぎて、アルコールが連れてくる陽気さも相まっておっちゃんと俺は両手を叩いて笑った。伏黒も目を伏せながら笑っている。遅かったですね、と言った乙骨先輩に「知らんオネェの人に絡まれて抜け出せなかった」と猪野さんは疲れをみせながら言った。
「猪野さんソッチの人にモテんだ」
「いや、あの集団殆どオマエ狙いだぞ」
「おれぇ⁉︎」
「あー……、虎杖くん良い身体してるもんね」
「オマエのこと紹介しろってめっちゃしつこかったんだからな! 意地でも連絡先教えなかった俺に感謝しろよ!」
「五条さんに殺されたくなかっただけでしょ」
「うん!」
「あ、じゃあ僕もお手洗い行ってきます」
「俺は全ッ然モテなかったんですけど? いやいいけどぉ! マジで別にいいけどね⁉︎ 女の子が好きだから俺はぁ!」
「猪野さん」
「なに⁉︎」
「あれマズくないですか」
伏黒の視線の先。猪野さんが絡まれたオネェ集団に乙骨先輩も絡まれていた。服が掴まれて伸びている。すぅ、と背中に冷や汗が流れる。
「やばい、俺だけがモテなかっただけで乙骨狙いと伏黒狙いもいたんだよリカが怒るぞ……!」
「俺たち狙われてるんですよね? 待ってます」
「猪野さん止めてきて!」
「オマエらさぁ……! もっと先輩を敬えよ!」
集団の中の一人が乙骨先輩の服を掴んで離さない。このままでは本当に先輩の純愛相手が怒ってしまう。「あぁもうッ!」と猪野さんは駆け出して行った。その後ろ姿を見送って、伏黒と目を合わせた瞬間、二人して吹き出すように笑った。
みんな笑っている。声が溢れてる。
先生の守ってきた世界は、こんなにも素晴らしくて、あたたかい。
「あれ、今日も来てたんだ」
医務室で五条先生の受け持ちの子を手当てしていると、ガラガラと引き戸が開かれた。相変わらず隈は色濃く残っていて、激務なことを知らせている。
「すんません、勝手に入ったし勝手に消毒液とか使っちゃった」
「いいよ。ここは閉鎖的なところではないからね。……うん、このくらいなら私の治療は必要ないな。虎杖の手当ても良い。元気ならもう行っていいよ」
ペコリと頭を下げてから、先生の受け持ちの子は駆けるように医務室を出て行った。その後ろ姿に「もう油断すんなよー」と声を掛ける。元気な返事が廊下に響き渡った。
「なんだ、稽古を付けてやっていたわけじゃないのか」
「うん。たまたま鉢合わせただけ。任務中に考えことしちゃったんだって」
「危ないなぁ」
家入さんはケトルで湯を沸かし、コーヒーを淹れてくれた。砂糖いる? と聞かれて首を振った。雑談に付き合ってくれるらしい。
「五条先生ってマジで忙しいんだね。もう二ヶ月も会えてない」
「ハハッ、あいつに会いたがる人間は貴重だな。連絡、取り合ってないのか?」
「取ってたけど毎日高専来てることは言ってない。ほら、先生サプライズ好きじゃん? するのは下手くそだけど」
「取ってた?」
「今回の任務特殊なんだってー。ずっと帳下ろしたまま殆ど山に篭りっぱなし。おかげで連絡とれなくなっちゃった」
呪霊の発生条件に儀式的なものが含まれるらしい。呪力量もかなり必要だそうだ。まごうことなき特級案件。乙骨先輩が派遣される案もあったらしいが、呪力の質が禍々しすぎるせいで呪霊が出現しない可能性を危惧され、五条先生がアサインされた。呪霊は山祇に近いものらしい。乙骨先輩も篭りっぱなしの五条先生のカバーでかなり忙しくしているようだった。
「先生なら早めに切り上げてくるんじゃないかって思ってできるだけ高専寄ってるけど、今回はそういうんじゃなさそうだしなぁ」
「君、毎日来すぎて訝しがられてるだろ。噂がこっちまで聞こえてきたよ」
「噂?」
「君が五条に片想いしてるってね」
目を見開いたあと、思わず吹き出してしまった。学生はそういうものを見分けるなにか特殊なセンサーでも付いているのだろうか。少ししか年が違わないのに年寄りくさいことを思った。
「実際は逆なのにな」
「まぁ今は似たようなもんっしょ」
「もうすっかりじゃないか。あんな奴のどこが良いんだか」
「全部ー」
うげぇ、と顔を顰めた家入さんに大きく笑った。俺はこの人と話すのが大好きだった。最近はめっきり世話にならなくなったから、この穏やかな時間が心地いい。
暖かな昼下がりだった。開けた窓の外から葉擦れの音がする。入り込んだ木漏れ日が影を揺らす。
「あのさー、」
「なに」
「五条先生のこと、俺がもらっていい?」
幸せにする。そう言うと、家入さんはゆっくりと目を見開いた。
先生のずっとそばにいた人。先生の学生の頃と、それからをよく知る人。先生との付き合いが俺より遥かに長い人。先生を大切にしている人に、俺は認めてもらいたかった。認めてもらえなくても進む方向は変わらない。でも認めてもらえたら、もっと速く走れる気がした。
窓から入り込んだ柔らかい風が彼女の髪を靡かせる。それから見開いていた目を伏せ、赤を引いた唇に綺麗な弧を描いた。
「泣かせたら承知しないよ」
ザッと風が吹いて、木漏れ日は大きく揺れた。胸が軽やかに跳ねる。先生を大切にする人は穏やかに笑っている。嬉しさに身体が喜ぶ。俺は笑った。
「酒奢ったら許してくれる?」
「よし、いいだろう」
「ハハッ」
安くね? と笑っていると、外から足音が聞こえてきた。間も無くガラガラと音を立てて医務室のドアが開いた。
「あ、良かった。今日もいらっしゃってるんじゃないかと思ってました」
「伊地知さん」
どうやら探されていたらしい。伊地知さんはホッと一息つくように胸を撫で下ろした。お疲れ様です、と軽く頭を下げられ、伊地知さんこそお疲れ様ですとこちらも頭を下げた。
「どうしたの?」
「実は先ほど、一時的に帳の外に出た五条さんから早めに切り上げられそうと連絡が入りまして」
椅子がガタリと鳴った。慌てて立ち上がったせいでひっくり返りそうになったのを既のところで回避する。家入さんと伊地知さんに小さく笑われて恥ずかしくなった。
「そこで提案なんですが、」
「なになに!」
駆け寄って伊地知さんの持つタブレットを覗き込んだ。小窓が複数開いており、一つは先生が派遣されている任務の概要だと理解した。
「長期任務だったので五条さんは自分で帳を下ろし補助監督も帰らせてます。交通インフラも整っていない山奥のため、迎えも不要とのことです。早くこちらに戻りたいのかまっすぐ帰ると言っているので、新幹線のチケット等、手配を進めようとは思っているのですが、さすがに帰路の途中にでも休んで頂きたく……」
「俺、迎えに行けばいい⁉︎」
「途中にホテルを取りますので、行って休息を勧めて下さると助かります」
明らかに俺への優しさだった。俺が毎日、性懲りも無く高専に来るから伊地知さんが気を遣ってくれたのだ。優しさに触れ、じんわりと涙が滲むような気がした。我慢できず、そのまま勢いよく伊地知さんに飛びつく。
「い、伊地知さ〜ん!」
俺に抱きつかれた伊地知さんは後ろにひっくり返りそうな勢いだったので慌てて抱き留めた。メガネをずり下げて、目を見開きながら心臓を抑えている伊地知さんに笑いながらごめんごめん、と謝った。
「今から行けばいい? 地下室にお泊まりセット置いてあるからすぐに行ける!」
「はい、助かります。車は補助監督の使用している車をお使いください。鍵はこちらに。それと、」
「なになに⁉︎」
「大変申し訳ないのですが、道中一件呪霊を……」
「任せて。今の俺、無敵だから」
態とらしくキリッとした表情を作ると、伊地知さんは眉を下げて笑った。さっき覗き込んだタブレットの中に開いてあったもう一つの小窓が、俺の任務の概要なのだろう。
「ありがとう、伊地知さん。戻ってきたら働くからいっぱい任務入れて」
「いや、それは五条さんがなんて言うか……」
「きっとうるさいぞ」
「そうかな」
もう一度お礼を言って、二人に手を振りながら駆け足で医務室を出る。まずは地下室に行って荷物を取って、それからすぐに向かおう。
足音がよく響いた。誰もいない廊下を少し走ったところでスピードを落とし、足を止めた。少しだけ立ち止まったあと、踵を返し来た道を戻った。もう一度医務室のドアをくぐる。
「どうした? 忘れ物か?」
二人はこちらに視線を寄越した。ぐっと息を飲んで、口を開く。
「お、応援してくんね⁉︎」
急に緊張してきた! 騒ぐと家入さんは声を上げて豪快に笑った。それからヒールの音を響かせながら近寄ってくる。くるりと身体をひっくり返される。バシンと背中を叩かれた。
「はやく行ってこい」
「ッす! ほら、伊地知さんもやって!」
「えぇ⁉︎ 私もですか⁉︎」
控えめな衝撃に伊地知さんらしさを感じて笑ってしまった。
いってきます、と叫ぶように言って今度こそ走り出した。
新幹線を乗り継いで、ローカル線に揺られる。東京から離れていくほどに景色に緑が増えた。代わりにすれ違う人がどんどん減っていく。空気が澄んでいて、呪霊が少なそうだなと思った。
現地に着き、任務を済ませた。五条先生に会えると浮き足立っていたので、道中に任務があったのは気が引き締まって却って良かった。任務のあとは伊地知さんが手配してくれたこじんまりとした、それでいてよく洗練された旅館に一泊した。出迎えてくれた中居さんはとても良くしてくれて、帳場のそばで話しかけてきた老夫婦の宿泊客も朗らかで良い人たちだった。いつか先生や、伏黒と釘崎で来たいな、と雰囲気のある天井を見上げた。
目が覚めると朝日はまだ昇っていなかった。俺の特技はどんなに浮かれていても楽しみでもしっかり熟睡できることだった。まだ暗い中、チェックアウトを済ませていざ出発というところで、中居さんに声を掛けられる。朝食のもてなしが出来ずに申し訳ないと言って、おにぎりを四つも持たせてくれた。こちらの都合なので謝る必要はないと必死に首を振った。おにぎりはまだあたたかくて、伝播するように胸がじんわりした。
笑ってお礼を言って旅館を出る。現地の窓に用意してもらった車でただただ真っ直ぐな一本道を走った。静寂が朝によく響いていた。
しばらく走っていると、空がだんだんと白み始めた。窓を開ける。朝特有の匂いを纏った空気が車内に充満した。澄んでひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んだ。晴れやかで、清々しい朝だった。
朝の空はすぐに表情を変える。青と陽のオレンジが空で混じりあっていた。
ひたすらに、真っ直ぐに、道を進んでいく。
「でっけー帳……」
先生の任務地である山の麓まで辿り着くと、そこには山全体を覆う大きな帳が下りていた。遠くからでも大きいとは思っていたが、見上げるとその大きさがよく分かる。帳のてっぺんは見えず、オレンジがかった水色の空にはまだ沈みたがらない白い月だけが浮かんでいた。
助手席に置いていた中居さんから貰ったおにぎりに手を伸ばす。先生はきっと腹に蟲を入れているだろうが、もしかしたら食べるかもしれないと思い、二つだけ食べた。
車の外に出る。靴紐を結び直した。大きく深呼吸する。それから軽くストレッチをして、身体を暖めた。後部座席からリュックサックを取って背負う。あとは帳が上がるのを待つだけだ。
溶けるように帳が上がるのをただジッと待った。胸のうちは騒ついているようで、けれど凪いでいた。
そして、朝に下りていた夜は唐突に終わりを告げた。
走り出した。先生の濃い残穢がそこら中に舞っていて気配が探りづらかった。小枝を踏む音と風を切る音、小鳥の囀り、葉擦れの音が聞こえてくる。やっと会える。そう思うと俺は、全く我慢が出来なかった。走りながら、大きく息を吸う。先生を叫ぶために。
「せんせぇー‼︎」
こだまする。気配を感じ取りながら、足場を探しながら、飛んで跳ねて、朝日が入り込む森の中を駆け抜ける。ダメだった。俺はどうしようもなく興奮していて、楽しくて、ウキウキして仕方がなかった。
「走ってくから待っててー‼︎」
鳥がバタバタと音を立てて飛び立っていった。上にいけば行くほど、先生の残穢は濃くなっていて余計に気配が分かりづらい。ひらすら上にいく。先生は俺が頂上を目指すことを見抜いて、てっぺんに居てくれるかもしれない。いや、もしかしたら隠れんぼのように逆に気配を隠して、山の麓に先に戻っている可能性もある。五条先生は俺の先生だから。
想像してただひたすらに走った。はやく会いたい一心で。
小川があった。陽の光が降り注いでいて、流れる水がキラキラと輝いていた。熊の爪痕を見つけた。かまわず走り続けた。傾斜がどんどん急になっていった。息が上がるのが楽しかった。それでも足は止まらなかった。スニーカーは土まみれになっていく。
ただひたすらに走る。走って、走って、走っていると、先生の気配を突然近くに感じた。あっと思った時には横から衝撃を感じた。避けられなかった。突進されるように、恋しくて仕方のなかった体温に抱き締められていた。
「イ、イノシシ……!」
「ッ、なんでいんの⁉︎」
何故だか、先生の呼吸は乱れていた。二人で目を合わせながら肩で息をしている。珍しい姿だった。こんな必死な先生を俺は見たことがなかった。
「もしかして走って来たの?」
「悠仁が走ってくるなら僕も走って迎えに行ってやろうと思って! ずっと籠ってたから慌てて上の湖で身体洗って替えの服に着替えたんだよ僕臭くない? 大丈夫だよね? なんでいんだよマジで会いたかった疲れたこんな任務二度とごめんだもおおおお」
「ふは、ほんとだ! 髪濡れてる」
先生は俺の肩に額をぐりぐりと押し付けた。俺は俺のために走って、息を切らした先生を好きだと思った。両手で頬を包んで顔を上げさせる。真っ白な髪は濡れていて、朝の光が白を銀色にみせ美しく輝かせいていた。丸い形の良い額に張り付いている髪を払った。
あぁ、と笑ってしまう。先生がしきりに俺に好きだと伝えてくれた理由がようやく分かった。会ってしまうと自分でも制御できないほど気持ちが溢れてくるからだ。
「……悠仁?」
先生は俺の変化に目敏い。六眼を惜しみなく使って俺を見ている。それは今、この瞬間も。愛しさを持ってきた俺への淡い違和感を、先生は簡単に見つけた。もう胸の内に留めておくことはできなかった。
「会えない間、先生が恋しかったよ」
空を閉じ込めたような色をした瞳。大きく見開かれ、朝の光が惜しみなく降り注いだ。虹彩が白んで、美しく煌めく瞬間を見る。俺の声が届いた証のように、瞬く。溢さぬように全て明け渡す。
「遅くなってごめん。先生が好き。俺の恋人になって!」
やや間が空いたあと、先生の形のいい眉がグッと堪えるように眉間に寄った。先生は隠すように俯いてしまう。俺は浮かれすぎていたことを思い出す。それから先生と会えなかったときに襲われていた不安を思い出す。心地よく早鐘を打っていた心臓が途端に嫌な音を立てた。ガキ丸出しすぎただろうか。もっと真剣な表情でキリッと格好つけて言った方が良かったかもしれない。
恐る恐る名前を呼んだ。五条先生。先生はゆっくりと顔を上げた。
「ゆうじ」
その声に、全てが籠っていた。動けなくなった。心臓が一瞬、止まったのかと思った。青い瞳は濡れたような色を纏っていた。先生の青を、唇が重なる瞬間まで見ていた。
「ずっと待ってた」
喉が締まった。なぜだか泣きたくなった。先生は心底嬉しそうに美しく微笑んだ。
この光景を、景色を、先生の声を、薄い膜に覆われる青の色を、幸せそうに笑う先生を、少しも忘れたくないと思った。一つも欠けずに、最後まで持っていきたいと思った。
俺は俺の全てを以て先生を抱きしめる。強く。混じり気なく、全部伝わるように。
「待たせてごめん」
「いいよ。君が僕を好きって言ってくれるなら、なんだって良い」
昇った朝日は俺たちをやさしく包んだ。
淡い空気の中、光は確かにここに降り注いでいる。
「君を好きになって本当に良かった」
体温が触れ合ったところから混じり合っていく。
心臓の融点はここにある。
先生は後部座席のドアを荒々しく開けた後、俵のように抱き抱えていた俺を丁寧に押し倒し、それから勢いよく俺の口を塞いだ。口を開いて必死に食らいつこうと舌を追いかけるが、歯列をなぞり、上顎をくすぐってくる舌にすぐに骨抜きになった。口の端からは飲み込みきれない涎が垂れる。縋るように先生の服を掴むと、先生はより深く身体を沈めてきた。呼吸が儘ならず、酸素を求めながら気持ち良さに喘ぐ声が車内に響いていた。酸欠でどんどんボーっとしてくる。先生は気付いたのか、漸く口を離してくれた。口の周りを長い舌が舐め取る先生のその色っぽい仕草に、ふわふわした脳みそは見惚れていた。
先生はある程度俺の呼吸が整った頃を見計らい、もう一度こちらに倒れ込んできた。肩口に顔を埋め、首筋を舐められる。反射的に身体が跳ねる。肌が粟立つ。心臓が危険信号を鳴らすみたいに激しく動いた。
「ま、って、待ってせんせ、ッ!」
腹から外気が入り込んだと思ったら、脇腹を大きな熱い手が撫でた。逃れるように無意識に身体を捩るも、先生に押さえつけられているため叶わない。だんだんと呼吸が熱くなっていく。先生の手が俺の腹を這っている。脳みそが湧きそうだった。逃げるように体を捻っても抜け出せないので、ならばと必死に先生にしがみついて快楽を逃そうとする。先生の濃い匂いが強烈に感じて逆効果だった。もう身体は先生から離れたがらなくなっていた。
荒い呼吸を繰り返していると、先生の手が胸まで伸びてきた。下から覆うように手が這う。ぞわりとして脊髄が身体に電気信号を送る。理性を掻き集めて身体を思いっきり起こそうと背中を浮かせた瞬間、乳首を摘まれた。身体は後部座席へ逆戻りするどころか、快楽をしっかり拾いびくりと跳ねた。
「……ねぇ」
「……。」
「なに今の反応」
「…………。」
両腕をバッテンにし顔を必死に隠す。先生は俺の腕を剥ごうと力いっぱい退かそうとしてくる。敵うわけがなかった。必死の抵抗虚しく、自分でもわかるくらい赤くなった顔が先生に晒された。
「乳首なんて普通最初は感じないもんでしょ。なんで」
「ぁ、っ! ……今触んのやめてくんね⁉︎」
「もしかしてあの子に開発された?」
「いッ」
今度は思いっきり捻られた。乳首が取れるかと思った。さすがに痛さが勝った。先生は能面のような顔で俺を見下ろしていた。痛みで頭が多少冷えた。先生の頬に触れ、そのまま身体をお越し、合わせるだけのキスをする。先生はやや目を見開いたあと、拗ねるように視線を逸らした。その頬は赤く染まっている。喜んでいるのだとバレバレだった。やけに幼く見える仕草に愛おしさが溢れる。もう一度、今度は態とらしく音を立ててキスをした。青い眼にギロリと睨まれる。
「誤魔化すなよ」
「誤魔化してねーよ」
「手慣れてる。むかつく」
「はは、そんな言い方すること今まででなかったのに。やっぱ我慢してくれてたんだ。恋人ってすげぇ」
「……嫌?」
「だいすき。いっぱい見たい」
こめかみにキスを落とす。先生は俺の上に倒れ込んで肩口にぐりぐりと額を擦り付けてきた。髪に手を通して撫でる。ここ暫くまともな生活を出来てなかったであろうに、まだ濡れている髪は簡単に俺の指を受け入れる。先生を撫でる機会なんて今までなかった。また一つこの人を知った。
「……なんで悠仁に彼女が出来る前に好きって言わなかったんだろ」
「彼女いた俺は嫌?」
「どんな悠仁も大好きに決まってんだろ」
俺にのしかかる大きな人を思いっきり抱きしめる。先生は嬉しいのか、肩をぎゅっと窄めて抱き締められようと身体を縮めてきた。愛おしくて笑ってしまった。まだここは車の中だ。触れ合うには狭すぎる。
「伊地知さんがさ、帰り道にホテルとってくれてるからそろそろ行こうぜ。先生と俺は明日の夜まで休み。伊地知さんにお礼言わなきゃ」
「……一緒の部屋?」
「別々に取ってくれてたけど、勝手に電話して一緒にしてもらっちゃった」
先生は顔を上げてむちゅ、とキスをしてくる。下から掬うように。先生は手慣れていると言ったが、全然手慣れていない。不意打ちをくらうと心臓が痛いくらいに激しく動く。先生は悪戯を好む青年のように笑った。この甘酸っぱいむず痒さをどう処理したらいいのか分からず、変な顔になる。先生は面白がって雨のように触れるだけのキスを落とした。
「僕が断ることは考えてなかった?」
「……考えてなかったわけじゃねーけど、先生が急に俺のこと嫌いになるとは思えないくらい好きって言ってもらったし、そんときはなんか事情があんだろうなって考えてたから、」
「……から?」
「もし断られたらホテルでめっちゃ頑張ろって思ってた」
急に青い瞳の色が変わったのが分かった。面白くて笑ってしまったが、もしかして笑っている場合ではないのでは、と考えをすぐに改める。目がギラギラしている。いよいよ視線を合わせられなくなり首ごと逸らしたが、先生は追ってくるように顔を近付けてきた。大きな綺麗な瞳に真顔で迫られると怖い。
「……頑張るってなにを?」
「……なにって、ナニだろ」
そう言うと、先生の口はゆっくりと開いていき、それから固まってしまった。文字通りぽかん。思わず吹き出す。笑わないなんて無理だった。俺は笑いながら全て白状した。
「先生、一番最初に俺のこと抱きたいって言ってたし、成功するにしろフラれるにしろ慣らしといた方が良いっしょ! って思って」
最初から宣言されていたからか、先生を抱きたいとは思わなかった。好きだと自覚してから会えない時間も続いたし、俺はまだ十代で健全で性欲もしっかりあるので、なんとなくでしか知らなかった男同士のセックスの仕方をきちんと調べ、時間があるなら有効活用するか! と安易に後ろに手を出し自己開発に勤しんでいた。
「先生気にしてたけど、さっきのは反応は自己開発の延長線で得た副産物というか副次的作用というか」
笑っていたはずなのに、だんだんと居た堪れなくなってきた。言い訳がましく、聞かれてもいないのにペラペラと喋る。おかしいとは思っているのだ、自分でも。こんなに開発が進むなんて思ってもみなかった。
「いや、朝一に押しかけてきたときもおっぱい見えてるよ〜って言ってたしおっぱい好きなんかなぁって思いながらイジってたら結構、その、」
尋問するような視線は止まない。誤魔化すようにへらりと笑って見せた。
「は、捗っちゃった」
先生はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと起き上がった。片手で顔を覆いながら大きく肺を膨らませ、ながーくほそーい息を吐いた。
「どういう感情?」
顔を覆った指の隙間からぎろりと睨まれる。適当にへらりと笑っておいた。先生は呆れたように再びため息を吐いた。
「……後ろも?」
「え?」
「ケツの穴ももう気持ち良いのかって聞いてんだよ」
「ふっ、バッチシだぜ!」
「悠仁のバカヤロウ! 僕こそ育てる楽しみを一番知ってるってなんで分からないんだよ! こちとらもう何回も頭ン中で泣きながら初々しい反応する悠仁抱いてるんですけど! 僕の楽しみを奪うな!」
「泣かされる予定だったんだ、俺」
「もう無理……。もう悠仁は童貞じゃないからちんこの良さは知ってたとしても後ろの良さは僕が教えてあげたかったのに……」
「じゃあ今日はセックスしない?」
「する。それはそれとして自己開発してるのエロすぎんだろ。しかも僕のために。僕をどうしたいんだオマエは。ぜってー抱く」
「っ、いやいや待ってここではしねーよ! ちょ、揉むなって! ホテル着くまで待って!」
再びのしかかってきた先生の肩をぐいぐいと押し返す。不満を全く隠す気がない表情。こんな顔も見せてくれるんだと嬉しくなって口の端にキスをし、そのまま抱き付いた。愛おしくてたまらなかった。どう考えても幸せなので先生を抱きしめながらゆらゆらと揺れる。暫くそうしていると先生は肩口でまたもや大きなため息を吐いた。
「ホテル着いたら覚悟しとけよ」
「先生もな。さ、行こうぜ」
ぽんぽんと背中を叩いて促すと、先生は最後にぎゅうっと力強く俺を抱き締め、ゆっくりと離れて行った。困った。こっちが名残惜しくなる。けれどいつまでもここには居られない。二人で前の座席に移動して、シートベルトを締める。
「疲れてるっしょ。寝てていいよ」
「ちんこがイライラして眠れない」
そう言っていたのに、しばらく車を走らせていると横から小さな寝息が聞こえてきた。信号なんてないし、一時停止すらもない。ただ真っ直ぐな道だけがある。先生の寝顔が見たいと思ったのに、車は走り続けるしかない。
でもこの人はもう俺の隣で眠ってくれるのだ。安心しきったように、穏やかに。寝顔を見る機会なんてきっとこれからいくらでもある。
大切にしよう。この人を。幸せだって何度も言い合って、疲れ切るまで笑い合って、お互いに安心を求めて眠る日を、特別ではなく日常にしてしまうくらいに。
───……
ホテルについても先生は起きなかった。無理に起こすつもりもなかったので、先生を背負ってホテルへと入っていった。チェックインの手続き中に先生が肩口で小さく笑ったので、やっぱり寝たフリだったらしい。先生を背負うくらいどうってことない。
部屋に入って先生をベッドに寝かせる。青い瞳は姿を見せていたが、まだ眠そうだった。
「まだ寝てていいよ」
「……手、貸して」
掠れた声。言われた通りに手を差し出すと、先生の大きな手に掴まれ、そのまま目元まで誘導される。目を覆うようにして手のひらを乗せた。暫くすると、重なっていた先生の手から力が抜け、ぽとりとシーツに沈んだ。
シャワーを浴びて、先生の隣に横になった。体温を感じる距離に安心して瞼が下がっていった。眠りにつくのは容易かった。
夢の中で先生が頭を撫でてくれていた。それから先生はどこかに行こうとしたのか撫でるのをやめてしまった。嫌だと言うと、先生はもう一度手を伸ばしてくれた。離れて行こうとした手を捕まえた。抱き抱えるようにしてもう一度眠った。
「……ねてた」
「そりゃもうぐっすりと。暫く手離してもらえなかったよ」
「……夢じゃなかったかぁ」
目が覚めた頃には外はもう真っ暗になっていた。いつの間にか先生もバスローブに着替えている。シャワーを浴びたのだろう。
「んは、つんつるてんだ」
「僕のサイズってないんだよねぇ」
のほほんと言って、先生は俺に覆い被さった。影が落ちてもう一つの夜ができる。
「もう待たなくていい?」
先生は俺の頬に手を添え、柔らかく言った。もう全て明け渡すつもりでいるのに、先生はわざわざ許しを必要とした。触れられたところからゆっくりと体温が上がっていく。
返事の代わり。身体を起こし、先生に飛びつくように抱き寄せてキスをした。眼前で青い瞳が瞠られる。それから青は細まり、触れ合った唇が弧を描いたのを感じた。
───暗転。
───……
自己開発は自己開発なだけであると散々分からせられた。先生から与えられる快楽は経験したことがないもので、俺はしっかりきちんと泣かされた。身体がどんどんおかしくなり、心がついていかなかった。怖いくらい気持ちが良かった。
「おはよう」
「……おあよ」
「ふふ、声ガサガサだね」
目を開けると青い瞳がすぐそこにあった。先生は先に起きていた。頬を吸うように口付けをされる。カーテンの隙間から漏れ出る光が先生に降り注ぎ、白い髪を銀色に輝かせていた。
なんだか目が合わせられなかった。シーツに潜るようにして先生に抱き付く。鎖骨に付けたいくつもの歯形と目があった。自分に噛み癖があるなんて昨日初めて知った。羞恥心に駆られるも、それよりこの白い肌に残った跡に満足感を覚えてしまう。唇を寄せてあぐあぐと甘噛みする。
「なぁに。もっかいシてもいいの」
「……恥ずかしくて死にそうだから、やめとく」
先生はもぉ〜、と怒ったフリをしながら俺をぎゅむぎゅむと抱きしめた。俺もお返しにガジガジと肩を噛む。昨日付けた歯形の跡を探しては舐めた。そうしてると先生は「マジデ、ガマンデキナイ、ヤメロ」と低い声でカタコトで言った。
我慢できなくなったのは俺の方だった。男同士だから身支度は早い。チェックアウトギリギリまで抱き合っていた。
一度寝ればある程度は回復するのが俺の身体だが、流石についさっきまで腰をガンガン揺らされ、何度も達したせいで気怠さが残っていた。チェックアウトを済ませ車の運転席へ乗り込もうとすると「悠仁はこっち」と助手席のドアを開けられた。
「運転ぐらいできるよ。先生の方が疲れてんのに」
「ここで悠仁に運転させたら僕が鬼畜みたいじゃん。疲れてるどころか元気いっぱいだよ。わかる? この肌艶の良さ」
運転席まで回ってきた先生は不埒な手つきで俺の腰を撫でながら毛穴ひとつない肌を近付けてきた。肌艶がいいのは元からだろ! と頭の中のイマジナリー釘崎がキレながら褒める。まだ感覚が残っているのか触れられるだけで過剰に身体が反応してしまった。それを分かっていて先生は意地の悪いことをするのだ。ジト目で睨んでいると先生は俺の背後にまわり、助手席側へと背中を押して歩かせた。
「僕も彼氏っぽいことしたいの」
彼氏二日目。浮かれながら言われると断れなかった。お言葉に甘えて助手席に乗った。先生が運転席の椅子をめいっぱい下げたのを見て複雑な気持ちになる。俺の成長期はまだ終わっていない。いつか先生を追い越してやる。
久々に運転するなぁ〜、と言った先生に一抹の不安を覚える。しかしやっぱり先生だ。なんの心配もいらないくらい、車は滑らかに走る。先生が運転しているところを見るのは初めてだった。風に靡く白い髪も堂に入った運転捌きも格好良かった。隣でスマホのカメラを向けると、先生はキメ顔でこちらを向いた。笑いながら何枚も写真を撮る。前を見ずに運転できるのも凄かった。危ないからやめてほしい。
古びた駅に着き、現地の窓の方に車を預けた。二時間に一本しかない電車を二人で手を繋ぎながらのんびり待った。穏やかな時間だった。しばらく待ってからやって来た電車には乗客が殆ど乗っていなかった。乗り込んだ車両には俺たちだけだった。こんなに席が開いていてガランとしているのに、先生は態とぴったりくっついて座ってきた。「邪魔くせぇ〜」と笑うと本気で怒られた。そんな怒ることないだろ。
長い道中は全く苦ではなかった。行きと同じように新幹線を乗り継いで高専へと向かう。乗り換え駅でのんびり駅弁を選びすぎて、発車時間ギリギリに二人で新幹線に駆け込んだ。先生の長い足が階段を三段飛ばしするのを見ながら後ろから追いかけた。
新幹線に乗り込み、弁当を食べてひと息つくと睡魔が襲ってきた。うつらうつらとしていると、先生は俺の頭をそっと引き寄せて、肩にもたれさせてくれた。
「朝から無理させちゃったし、着くまで寝てな」
態々口にしなくていいからと反抗する前に、瞼は完全に閉じて開かなくなってしまった。
新幹線で熟睡させてもらったおかげで、高専の最寄駅に着いた頃にはすっかり元気になっていた。駅のロータリーを抜けたところに、高専所有の黒い車を見つけ駆け寄った。
「伊地知さ〜ん! 迎えあざす!」
「いえ。こちらこそありがとうございました。五条さんもお疲れ様です」
「お疲れ」
「伊地知さん、見て見て!」
後部座席に乗り込んですぐに五条先生の手を掴み、恋人繋ぎにして自慢するように掲げた。バックミラー越しに伊地知さんがこちらを見ているのが分かる。伊地知さんは声を弾ませて「おめでとうございます!」と言ってくれた。突然手を掴まれた先生は驚いていた。
「伊地知さんが任務調整して応援してくれたおかげっす。ありがと!」
「いえ、そんなことは……。虎杖くんが五条さんを迎えに行ってくださってこちらも助かりました」
「なんで僕じゃなくて悠仁のこと応援すんの?」
先生はきょとんとしながら言った。口振りから先生が俺のことが好きだということは伊地知さんも知っていたのだろうと推測する。
「先生に好きって言ってくるから応援して〜! って喝入れてもらった。家入さんにも!」
「はぁ? なにそれ! 硝子なんてすこっしも僕に肩入れしてくれなかったじゃん!」
「それは五条さんが家入さんの都合お構いなしで医務室に通い詰めるから……」
「あ? 伊地知あとでマジビンタ」
「マジでやめな?」
穏やかに笑いながら泣かせたら承知しないと背中を押してくれた家入さんを、先生には内緒にしておこうと思った。伝えたら家入さんに怒られそうだ。あの人が、あんな優しい表情をする人が先生を想っていないはずがない。
筵山麓に着いた頃には絵の具を落としたようなオレンジ色が空に広がっていた。高専への階段を登り切り、正面入り口へ向かう途中、五条先生の教え子たちがグラウンドで組み手をしていた。気付いた一人が「せんせー久しぶりー! お疲れ様でーす!」と声を上げた。先生もそれに応える。
「いたどりさーん!」
組み手をしていたうちの一人の女子生徒が明らかにソワソワした様子で声を張り上げた。遠くで大きく手で丸を作り、目を見開いて顔で訴えてくる。何を言いたいのかすぐに分かった。俺は大きく笑って、同じように手で丸を作った。
「きゃー‼︎」
甲高い声が響き渡った。その場にいた全員が興奮したようにはしゃいでいる。「あの五条悟を⁉︎」「虎杖さんやるぅ!」「おめでとうございまーす!」と口々に叫んだ。先生はまたもやついていけない様子でポカンとしている。
「え、なに? この反応」
「俺ここ最近ほぼ毎日高専寄ってたんだよ。先生に会いたくて。そんでみんなに今日先生いるー? って聞いてまわってたら察しのいい子が〝もしかして五条先生にホの字なんですか〟って聞いてきたからうん、って言ったらめっちゃ応援してくれて、はは、すげぇ元気」
「……うん?」
「そしたらいつの間にか高専中に広まってた。ごめん、内緒にしといた方が良かった?」
内緒にしておくという発想が全くなかったことに今更になって気付いた。マズかっただろうか。伺うように先生を見上げると、先生は顔を隠すように手で覆いながら小刻みに震えていた。え、と固まる。慌てて覗き込もうとすると思いっきり腕を引かれた。ぎゃー! と悲鳴にも似た叫び声が上がる。
「僕らが祝福されて嬉しくないわけないだろ!」
先生は骨が軋むほど俺を強く抱きしめながら笑った。それは恋人にするものというより、ただ喜びを分かち合うためのものだった。俺も嬉しくなって、笑って強く抱きしめ返す。
「言っとくけど!」
先生はグラウンドに向かって誇らしそうに、そして自慢するように叫んだ。
「先に好きになったの僕だから‼︎」
さっきよりも更に大きな悲鳴が上がる。「ごじょせんにまともな感性が……⁉︎」「虎杖さん本当にいいのー⁉︎」「脅されてない⁉︎」と温度をガラリと変えた声に先生は「君たちグラウンド三十周追加ね!」と楽しそうに言った。すかさず飛んできたブーイングから逃げるように、先生は俺の手を引いて走り出す。
先生が世界から愛されている。その事実は俺をどこまででも走らせる。
この人を幸せにするために、心臓を動かして走り続ける。
負の感情の扱いはこの世界の誰よりも長けている自信があった。その証明が五条悟という存在だった。
だから悠仁に彼女が出来たと聞いた時も、悠仁が彼女を連れて歩いているのを見たときも僕は誰も、なにも呪わなかった。ただこの嫉妬心で恋を自覚するなんてことがなくて本当に良かったと思った。悠仁を好きだという感情に言葉が追いついたあの瞬間の高揚と興奮をよく覚えている。ただ純粋に悠仁が好きだと想った輝きは僕にとっては必要なものだった。嫉妬心で塗り潰すには惜しいと思うほどに。
と、思ったことも事実だが殆ど強がりだった。恋を自覚して浮かれて、どうやって悠仁を振り向かせようだかとか、デートに誘うためにスケジュール調整しなきゃな(伊地知が)とか、触れたらどういう反応をするんだろうとか、悠仁とセックスしてぇなとか、告白のシチュエーションだとかをウキウキワクワクしながら考えていた、たった数日の間に悠仁に彼女が出来ていた。そんなことあるか? ふざけんなよ。まだ走り出してもないんだぞこっちは。僕の方が絶対好きなのに! 頭の中のイマジナリー悠仁に他人の気持ちを勝手に推し量るなと怒られた。こんなにも解像度が高いのに、悠仁は僕の恋人ではないどころか、悠仁の恋人になる権利すらも僕には与えられていなかった。
僕はそれを失恋とすることはなかった。悠仁に彼女ができたからって諦めるわけがない。しょぼしょぼの爺さんになってはじめて悠仁が僕のものになったとしても、僕はきっと世界一喜ぶ。いくつになってもずっと好きなんだろうと自然に、穏やかに思えるほどに好きだった。それはそれ。早く僕と恋人になろうよ、悠仁。
初めての彼女に浮かれる悠仁は大変可愛かった。悠仁が恋人をぞんざいに扱うわけがない。カップルらしく連絡を取り合って、デートに行く。その先は想像したくないので考えないようにしていたが、彼女の話をする悠仁は僕の知らない表情をたくさんしていた。なんでその顔が僕に向けられたものじゃないんだろうと何度も思った。僕相手だったらもっと可愛い顔するんじゃない? と現実逃避をした。僕がずるいと、他人を羨ましいと思うのはレアなんだぞ、悠仁。頭の中で語りかけても虚空が返事をするだけだった。
どんなに嫉妬をして羨んでうっかり世界を呪ってしまいそうになっても、悠仁が幸せそうに笑っているのをみると壊したくないな、と思った。悠仁が彼女と別れればいいと願って考えた僕のための手段と選択肢は、悠仁にとっては残酷で下劣で最低最悪を煮詰めたようなラインナップ各種で、いっそ清々しいほどだった。息をするように易々と最低な想像をする自分に半笑いになる。たくさんの選択肢をひとつひとつ選んで想像したその先で、悠仁が幸せに笑っていることはなかった。ひとつも。今の悠仁の笑顔を取り上げて僕が幸せになることはない。答えは最初から出ていた。選択肢は浮かんだだけで、手に取ることはなかった。
だから悠仁が彼女と別れたと耳にしたとき、居ても立っても居られなかった。頭の中で安っぽいパチンコのチャンス音が爆音で流れた。もっと優雅で壮大なやつにしろよ。見てろよマジで。
悠仁には悪いが、僕はもう止まれなかった。僕に好きだとか可愛いだとか言われる度に悠仁が気まずそうにしたり恥ずかしそうにしたり本気で困っていたりしても、やめてあげられなかった。悠仁がそういう意味で僕をなんとも思っていない。そう実感したときに湧き出た怒りに近い虚しさすらも僕は楽しんでいた。僕って恋愛向いてるんじゃない? どう考えたって相手が悠仁だからだ。
悠仁に好きだと伝えるほど、僕は悠仁を好きになっていったし、同時に乾いていった。知れば知るほど欲しくなった。悠仁に彼女がいたときに秘めていた恋心はままごとだったのかと思うほど、僕は正しく恋をしていた。不安だってあったし悲しくなることだってあった。この僕がだ。感情の処理の仕方がよく分からない。新鮮だった。未知を既知にする感覚はいつだって僕を走らせる。悠仁は本当に僕をどうしたいんだ。早く僕を貰ってもらわないと困る。世界が平和になっちゃうよ。
悠仁が好きだと言ってくれるのを何度も想像した。触れた時の体温を想像した。抱きしめたときの形も、キスをしたときの唇の感触も、僕を呼ぶ声も、僕に見せる笑顔も、僕だけに見せる恥じらいも、僕に抱かれる悠仁も、僕を見る悠仁の瞳も全部想像した。僕にとっては全て幸福だった。
「そういうのは妄想っていうんだ。キショ」
硝子が顔を顰めて言ったのを覚えてる。バカだな。恋ってそういうもんだろ。え、知らない? こんなに素晴らしいものを知らないなんて残念だね。そう言うとノータイムで酒瓶を振り下ろしてきた。流石にちょっとびっくりした。そんなに羨ましがるなよ。
全て、死角なく想像していたつもりだった。悠仁が僕の気持ちに応えてくれたときの想像だってもちろんしてあった。嬉しすぎてどっかの山を吹っ飛ばしたくなるのを堪えて、格好よく抱き締めて愛を囁くシチュエーションだって余すことなく想像していた。
それなのになんの役にも立たなかった。
「遅くなってごめん。先生が好き。俺の恋人になって!」
感情は言葉になる前に溢れた。僕の想像していたものを悠仁は全て飛び越えてやってくる。思えばいつもそうだった。この虎杖悠仁という子は。
こんなに苦しいなんて思わなかった。苦しくなるくらい喜びに打ちひしがれるなんて思っていなかった。嬉しいと泣きたくなるなんて、僕は知らなかった。
「君を好きになって本当に良かった」
この幸福は、悠仁が教えてくれなければ知らないままだった。
───……
念願叶って悠仁と恋人になった世界は、大変に美しく、それはそれはもう素晴らしいものだった。呪霊にだって呪詛師にだって隕石にだって天変地異にだって滅ぼさせるわけにはいかない。なぜなら僕と悠仁が恋人の世界なので。
僕と悠仁が恋人同士になったという事実は瞬く間に広がった。悠仁が僕に会いに来る前、高専の生徒の間では虎杖悠仁は五条悟に恋をしていて、告白するチャンスを狙っている、という噂が流れていたらしい。事実は違えど結果は同じものになった。悠仁は生徒どころか補助監督、たまにしか高専に寄らない術師にまで祝われていた。悠仁の人望が伺える。僕はその度に「僕が先に好きになったの!」と必ず言ってまわった。悠仁が照れくさそうにするのが可愛かったから。
悠仁の自己開発のおかげで僕らは難なくセックスをした。悠仁の身体の変化を楽しむ予定だった僕は難、あれよ! と激しく思ったが自己開発を勤しんでいた悠仁のエロさに死ぬほど興奮したので一旦はヨシとした。
悠仁は一回目も、次の日のホテルで朝から誘ってきたときも当然のように僕に抱かれた。僕を喜ばせる天才だった。少し日が経って、今日は待ち遠しかった三回目。僕は任務を終わらせてすぐに悠仁の家に向かって、インターホンを押す。大変だ。あと三秒で出てきてくれないとドアノブ壊しちゃうかも。
「おかえり〜!」
三秒まであと〇・四五秒のところでガチャリとドアが開かれた。僕は悠仁を思いっきり抱き締めるつもりで、部屋に入るのと同時に腕を引いて胸に閉じ込めてしまう予定だった。けれどあろうことか、悠仁は僕がなにもせずとも胸に飛び込んできた。闘牛のような勢いで。
「た、ただいま」
あまりの愛おしさに吃ってしまう。僕の半歩分しかない玄関はすぐに悠仁を抱き締めることができるんだと初めて知った。狭いって素晴らしい。
恋人になって初めてゆっくり出来る時間だった。世界は恋人になった僕らに容赦がなかったので、呪霊は湧き続け、お互い任務に駆られる日々が続いていた。恋人らしいスキンシップが出来るのも悠仁を抱いた日以来だった。噛み締めるように背中を丸めて抱き込む。悠仁の匂いを肺いっぱいに吸う。先にシャワーを浴びていたらしい。悠仁の家のボディーソープの匂いがする。貰ったと言って使っていた固形石鹸はついに無くなったようだ。ぐりぐりと額を悠仁の肩口に擦りつける。
「くすぐったいって」
「しあわせ」
「ハハ、安くね?」
そんなことないだろ。僕が君を抱き締めたいと初めて思った日からどれだけの時間が経ったと思ってるんだ。これは長い時間を掛けて分からせてやらないと。手始めにキスでもかましてやるか、と抱き締めていた力を弱めると、悠仁に先手を取られた。目一杯背伸びをしてキスをしてきた悠仁に目がテンになる。
「牛丼作った!」
早く食おうぜ〜、と言って悠仁は玄関からすぐの台所に立つ。悠仁の彼氏初心者の僕はしばらく動けなかった。彼氏力、高いどころか強くない?
悠仁の作ってくれた牛丼は言わずもがな美味しかった。紅生姜を添えてくれたことに愛を感じ「愛されてるなぁ、僕」と言ったら本気でなんのことか分からないというように首を傾げられた。そんな仕草も可愛いかった。
「俺も先生の手料理食べてみたい」
悠仁はなぜか照れくさそうに言った。誤魔化すみたいに牛丼を掻きこんだのを正面から眺める。改めて思う。僕は悠仁からのお願いに弱い。きっと最弱だろう。いや、あの九相図の長兄と良い勝負だろうか。悠仁は他人に求めることが極端にすくないから、悠仁からのお願いはなおさら特別なことで、特別にされているということだった。
「じゃあ僕はタリアテッレ・アッラ・ボスカイオーラ作ってあげる」
「え? な、なに?」
「タリアテッレ・アッラ・ボスカイオーラ」
「良い声なの笑っちゃうしちゃんと聞いても分からん」
「おかわりある?」
「教えてくんねーの⁉︎」
おかわりをするためにどんぶりを持って立ち上がったついでに悠仁の頭を撫でる。髪が少し湿っていた。ドライヤーが甘い。次は僕が乾かしてあげよう。
腹も膨れたのでシャワーを浴びた。悠仁の家のお風呂は僕には狭すぎて身体の至るところをぶつけてしまう。がこんがこん音が鳴るから付き合う前に悠仁の家に泊まった時は心配された。風呂の方を。先生無下限あんじゃん、と僕の心配は特にしていなかった。
居間に戻ると布団の上で悠仁がスマホをみながらうつ伏せで寝そべっていた。上からのし掛かる。うぇ、とカエルが潰れたような声がした。スマホの画面には「いたりあ・あら・ぼこすぞおら みたいなやつ 料理」と検索窓に文字が打ち込んであった。そんな物騒な料理名じゃなかっただろ。
「ぅわ、つめた! 先生髪びしょびしょじゃん!」
「早く悠仁とイチャイチャしたくて……」
「いや濡れすぎだろ。カビるって!」
「僕はカビないよ」
「濡れた布団と畳だよ!」
悠仁は易々と僕の下から抜け出し、洗面所へ向かった。戻ってきた悠仁の手にはタオルとドライヤーが握られている。落ちているように置かれた電源タップにコンセントを挿した。僕はなにも言われずとも悠仁に背中を向ける。
「先生って五条家で髪も拭いてもらってたの?」
「さすがに自分でやってたわ。甘えてんの!」
「それなら気合い入れるか!」
小さかった頃は当然のようにやってもらっていたことは内緒にしておこう。悠仁はタオルで髪を包んでわしゃわしゃと豪快に髪を拭いた。髪を拭いてもらったことはあったが、僕がこんな風に扱われるのは初めてだった。笑いながらされるがままになる。頭をグラグラ揺らされたあと、ドライヤーの音に包まれた。荒々しかったタオルドライとは打って変わって、髪を梳くように丁寧な手付きだった。
「さらさらだけど、ちょっとゴワついてるね。やっぱ先生用のシャンプーとかトリートメント必要かなー」
「いらなーい。悠仁とおんなじ匂いの方がうれしい」
「先生もそういうの思うんだ」
カチッと電源を切る音がする。僕は振り返って膝立ちになった悠仁を見上げる。伸び上がって下から掬うようなキスをした。
「おかしい?」
「……俺もおんなじこと思ってたから、うれしい」
「…………おや、こんなちょうど良いところに布団が」
そう言いながら悠仁をひっくり返す。悠仁は声をあげて笑いながら抵抗なくごろんと転がった。上からジッと悠仁を見下ろす。悠仁は僕が見つめていることに気付くと、浮かべていた笑みを仕舞い込んで視線を右往左往させ、とうとう顔ごと逸らした。横目で僕をチラリと見上げる。こんなに可愛い顔を悠仁は腕で覆ってしまった。
「なんで。隠さないでよ」
「……や、なんか、」
「うん」
「はずい」
腕の隙間からのぞく肌と耳が真っ赤に染まっている。美味しそうだなと思った。身体を沈めて耳の縁を舐める。僕の下で身体が小さく跳ねた。耳の窪みの形を確かめるように舌を這わせると、悠仁が小さく喘ぐ。
「この間は夢中でセックスしたもんね、僕たち」
恥じらっている暇なんて与えなかった。僕が全部欲しがったから。
「それに今日は悠仁の家だしね」
悠仁はハッとしたように腕の中から顔を出した。僕はにっこりと微笑む。悠仁は怒ったような表情を作った。びっくりした。信じられないくらい可愛い。
「……態と言ったろ」
「僕がいないときも僕のこと思い出してほしくて」
この部屋でたくさんイチャイチャしてセックスをしよう。僕がいないときに寂しがってほしい。僕を呼んでくれるようになったらもっと嬉しい。
「無理かも」
「え」
固まる。何が無理だ。今からしようとしているセックスのこと? それとも急に別れたくなった? なんで? 最悪の想像がものすごい勢いで頭を駆け巡る。悠仁の言葉に過敏になっている自覚はあった。仕方ない、好きなんだから。一瞬で噴き出した嫌な汗が不快に背筋を流れる。
「あのさ」
「うん」
「ぜってぇ会いたくなるから一緒に住も」
「うん」
悠仁の瞳がまんまるになるのを見る。大きくなった琥珀に同じように目を見開いている自分が映っていた。しばらくの間沈黙が流れる。耐えきれくなった悠仁が吹き出すように笑いだす。僕は相変わらず動けない。
「ふはっ、即答したのに驚いてる……!」
「……いや、だって……ぇ?」
「もしかして勢いでうんって言っちゃった? イヤ?」
「嫌なわけないだろ!」
食い気味に言った僕に悠仁はとうとう声を上げて笑う。このやろう。悠仁がきっと予想してた通りにまんまと返事をしてしまった。悠仁はいそいそと僕の下から這い出て、あたたかい手で僕の手を握った。
「考えてたんだけどさ、俺たちの生活ってたぶんこれからすれ違ってばっかだろ。だったらもう一緒に暮らそうよ」
悠仁は改めて言った。緊張しているようだった。僕の手をにぎにぎすることで誤魔化そうとしているのがわかった。僕は呆然としていた。流れる沈黙に不安になったのか、悠仁は伺うように上目で僕を見上げた。
「俺変なこと言ってる?」
僕は戸惑っていた。あまりの悠仁の最高彼氏っぷりに。僕の想像を裕に飛び越えてくる子だって知っていたはずなのに、嬉しさがバグを起こして僕を戸惑わせていた。
だんまりを決め込む僕に、悠仁はとうとうそっぽを向いてしまった。
「前に付き合ってた子には言ってねーし……」
「……あ?」
「先生と付き合うって、こういうことじゃねーの」
悠仁は拗ねたように言った。元カノの話に一瞬神経が逆立ってしまったが、すぐに心臓が痛いくらい収縮した。愛おしさが僕を跳ね起こす。感情が爆発して悠仁に飛び掛かる。
「大正解に決まってんだろッ!」
布団がちょうど良いところにあって本当に良かった。しかしピンクベージュの頭は布団から飛び出ていたようでごちんという鈍い音と共に悠仁は「いでっ!」と声を上げた。
悠仁はきっと前に付き合っていた彼女のことを持ち出すつもりはなかったのだろう。僕が元カノの話が地雷なことは薄々気付いているだろうし、何より誰かを引き合いに出すようなことはしない子だ。僕が理解できていなかったから。
悠仁は僕相手だから飛び越えてきてくれたのだ。言われるまで気が付かなかった。悠仁の彼氏失格である。僕たちは恋人同士である前に、僕と悠仁なのだ。悠仁は僕よりもそのことを正しく理解していた。五条悟と虎杖悠仁が付き合うということは、悠仁は僕相手に全力でぶつかれて、僕はそれを難なく受け止められるということだ。逆も然り。僕が全力でぶつかっても、悠仁は全く問題ないだろう。受け止めてくれるだろうし、難しくてもめげずに何度でも立ち上がれる子だ。
僕らの関係は今までの延長線の上で成り立っている。
「ゆうじ」
「うん」
「僕も悠仁と一緒に住みたいって、君に恋した瞬間から思ってた」
あんなに妄想しておいて、彼氏バージョンの悠仁の解像度が低かったことをこの短時間で思い知った。悠仁が彼氏って最高だ。悠仁が僕に押し潰されながら肩口で「いひひ」と笑う。この子、ちゃんと僕のこと好きじゃん。知ってたけど。嬉しすぎる。
「今日みたいに僕が帰ってきたらハグしてほしい。どんな勢いでもいいよ」
「うん。先生じゃなかったらやってねーよ」
「だいすき」
「ぅえ⁉︎ お、おれも、だいすき」
散々僕から言われ続けているのに、悠仁は恥ずかしそうにする。僕は同じ想いが返ってくる幸せを改めて噛み締める。悠仁が飽きるくらい好きだと言おう。僕が伝えたいから。悠仁が思いっきり抱き締めてくれる。僕も思いっきり抱き締め返す。それから頭が出ていた悠仁をずるずると布団の上に戻す。
「引っ越すまであと何回この部屋でえっちできるかな」
腰を押し付けて薄いTシャツの裾をゆっくり捲る。悠仁の腹筋がぴくりと跳ねた。悠仁はやっぱり恥ずかしいようで、頬を赤く染め、視線をそっぽに向けた。愛おしかったのでその頬に唇を寄せる。
「ここって壁薄いよね?」
「隣の人のくしゃみ聞こえる」
「え、うっす。ベニヤ板でできてんの?」
「高専の寮もそんな感じじゃん」
そういえば、と思い返す。学生時代、隣室から破壊光線みたいなくしゃみが聞こえてきていたのを思い出した。傑のくしゃみは腹から声が出ていてうるさかった。その後に何事もなかったかのような澄ました顔をすることによって無かったことにできると思っていることが余計に腹立たしかった。
「……確かに。そうだった」
「先生もゲトーさん? から絶対怒られたことあるでしょ」
「失礼な。うるさかったのは傑。僕は品行方正な学生だったからね」
「ハハ、ぜってー嘘じゃん」
無邪気に笑う悠仁が愛おしくてキスをする。悠仁に好きなだけキスができる権利があるなんて最高だ。
「お隣さんに聞こえちゃいそうになったら僕がちゅーして塞いであげるね」
そう言うとゲシ、と軽く下から軽い膝蹴りを食らう。態と怒った表情を作る。悠仁が悪戯っ子のように笑う。食らいつくようなキスをした。笑い声ごと食べてしまう。一瞬、唇を離した隙にペロリと口の端を舐められた。悠仁は僕のやる気スイッチを見つける天才だ。もう止まれないのは悠仁も一緒だった。
───……
カーテンから漏れ出た陽の光は、ピンクベージュの髪を柔らかく輝かせていた。壁が薄いおかげで鳥の囀りがよく聞こえる。
昨日の悠仁も最高に可愛かった。必死に声を抑えようとして僕にたくさんキスを強請った。僕はその度にうっかり腰の動きを速めてしまい、悠仁を何度も酸欠にさせた。
悠仁が起きたら怒られるかな、と畳に寝そべりながら寝顔を見る。狭い布団で大の男二人が寝るのは無理があった。一緒に住む部屋では大きなベッドにしよう。いやでも、昨夜のように布団を奪い合うのも楽しいかもしれない。布団も買って、たまにリビングで寝るのがいいな。そうしよう。
豪快に口を開けながら寝る悠仁を見ながら僕らの幸せについて考えていると、悠仁の腹がギュルギュルと鳴った。むにゃむにゃと口を動かしている。悠仁を起こさないように小さく笑った。愛おしい頬にそっとキスをして台所へ向かった。
後ろからドン、とぶつかるように抱きつかれた。朝なのに勢いがよくて笑ってしまう。なにも身につけずに落ちるように寝てしまった悠仁に僕の服を着せていたおかげで、今の僕は上半身に何も纏っていなかった。悠仁の髪が直接肌に触れて擽ったい。
「おはよう。朝ごはんチャーハンね」
冷蔵庫の中の食材からチャーハンが最適解だと導き出していた。今度はスーパーに寄ってから悠仁の部屋を訪れよう。僕らが一緒に住むまでの間だけ。期間限定だ。そう思うと全てが特別に思えてくる。悠仁からは返事の代わりにぐりぐりと額を押し付けられる。大変だ。ご機嫌な鼻歌がやめられない。僕は後ろに可愛いひっつき虫を携えながらご機嫌に朝食の準備を進める。
「せんせぇ」
まだ眠そうな舌ったらずな声。なぁに、と返事をする。
「あとでもっかいシよ」
こいつしっかり起きてんな。目がギンと血走ったのが自分でも分かる。舌ったらずな訳じゃなく甘えているのだ。勢いよく首だけで振り返ると悠仁が僕の背中に埋まりながら耳を真っ赤にしていた。あとでじゃない。スるだろ。今すぐに。
コンロの火をすぐに止めた。慌てたせいで連打してしまったらしくまた点火してしまう。くそ、邪魔するなよ。僕と悠仁の最高の朝だぞ。
悠仁は朝もしっかり性欲があるタイプ。さすがに二回も朝にお誘いされれば間違い無い。悠仁の気が変わらないように腹にまわった手に自分の手を重ねてにぎにぎと握り込みながら考える。悠仁のことはいくらでも抱ける気がするが、ここにきて歳の差にびびっていた。今はまだ枯れる心配は少しも無いが、いつか悠仁を満足させられなくなる日が来るのかもしれないと思うとゾッとする。飽きられないよう内緒でこっそり鍛えようと決める。
朝食の準備は全て終えてからだ。チャーハンがベチョベチョになっても良い。振り返って悠仁を抱き抱える。洗い物もあとで。
「急げ急げ!」
態とらしく、慌てたように声を上げながらドタドタと足音を立てる。悠仁は楽しそうに笑った。僕も同じように笑う。
本当に、最高の朝だ。
「じゃあね、僕の我が家……。もう二度と帰ってこないよ」
「毎日来るだろ! ほら、時間ないんだからはやくはやく!」
「はーい!」
くるりと身を翻して悠仁の車に向かう。そう、僕は浮かれている。さっきのは僕と悠仁が華々しい同居生活を始めるにあたっての演出だ。
悠仁の言った通り、どうせ殆ど毎日通うのだ。職員寮の中の自室もそのままにしてある。高専は僕の居場所のまま、僕の帰る家ではなくなる。
二人揃って不動産屋に行ける日がまぁなかなか無く、僕たちは暇さえあればスマホで物件を調べ、互いに情報を送りあっていた。実家から寮に入った時点で俺って寝れれば結構どこでもいいのかも、と思っていたので特にこだわりはなかったが、悠仁は「この部屋に俺と先生は狭くね?」「俺も家賃払うんだから高すぎるのはちょっと……」「このキッチン、先生にはちょっと低そうかなぁ」と真剣に考えていた。悠仁が元々住んでいた部屋だって十分狭いし、家賃も僕が払ったっていいし、キッチンだって僕からすれば世界の殆どが僕のサイズに合っていないので僕はなんでも良かったが、悠仁が「俺一人ならどこでもいいけどさ、先生と住むんだし」と僕と一緒に暮らす、という前提を大切にしてくれていることが嬉しかった。
結果、悠仁が元々住んでいたアパートの近くのマンションに決めた。ルートはもともと引いてあるのが使えるし(悠仁の家にすぐ行きたくて実は引いていた)築年数はまぁ浅いとは言えないが、中はリノベーションがされていて新築のように綺麗だった。それに家賃が破格。事故物件である。案の定呪霊が棲みついていたので内見のときにしっかり祓い、二人笑顔で「ここにしまーす!」と不動産屋に振り返りながら言った。僕は悠仁のこういうちゃっかりしたところが好きだ。
電子レンジは悠仁の家にあったのを持っていく。冷蔵庫は新しいのを買った。留守にすることが多いと思うが、家にいるときはたくさんご飯が食べられるように。洗濯機も大きいのを買った。呪術師は職業柄、洗濯物を溜めがちだ。テレビは良いものを買おうと奮発した。僕と悠仁は映画が好きだから。のんびりソファーに座りながら映画を観る僕らを想像し、二人で決めた。
家の寸法から家具のサイズと配置を想像するのが悠仁はあまり得意ではないようだった。というか漠然と数字が苦手。疲れていたこともあったと思うが、インテリアサイトを見ながら「つまり何メートル……?」と呟いたのを聞いて、家具は基本的に僕が決めることにした。一緒に出掛けて決められたら良かったが、いかんせん予定が合わない。一つ一つ丁寧に決めていたら入居日が先延ばしになる。天秤にかけ、僕らは早く一緒に暮らし始めることを優先し、効率を重視した。
家具の中でも特にベッドは何がなんでも妥協するつもりはなかった。ベッドだけは僕に任せて欲しいと最初から悠仁にせがんでいた。僕らが激しく乗っても壊れないほど丈夫で、更に寝心地が良く、大の男二人が寝転がっても問題ない大きさである必要があった。当然オーダーメイドで作らせた。悠仁には内緒だ。
慌ただしく引越しの準備を済ませ、今日が入居日だった。午前中は家電と家具の搬入を済ませた。僕の荷物もあらかた悠仁の車に積んだし、これから街に繰り出して細かいものの買い出しだ。
「悠仁」
「ん?」
「隈できてるね。僕が運転するから悠仁は寝てな」
頬に手を添え、親指で目の下をなぞる。悠仁がくすぐったそうに目を細めた。今日の丸一日のオフを作るために僕も悠仁も奔走した。僕は慣れているし睡眠も短くて問題ない体質だが、悠仁は体力はあっても睡眠はしっかりとらないとなかなかにしんどそうに見える。
「すぐ着いちゃうけど少しは寝れるでしょ」
「だいじょーぶ、って言おうとしたんだけどぉ……」
「うん?」
悠仁は僕の空いている左手を掴んできた。それから自分の頭に誘導する。
「先生に触られたら一気に眠くなってきた……」
「ふ、もう寝にいってんじゃん」
仰せのままにピンクベージュの髪を撫でる。光栄だなぁ、と言いながら殊更優しく撫でていると「うっ……抗えぬ……」とむにゃむにゃ言いながら悠仁の瞼がどんどん下がっていった。抗うつもりなんてないくせに、何を言ってるんだか。僕は笑いながら悠仁の手を引いて助手席まで誘導し座らせる。髪をひと撫でし、啄むようにキスをしてからドアを閉めた。運転席にまわったその一瞬で、悠仁は口を開けて寝ていた。早すぎんだろ。可愛かったので身を乗り出し、頬にキスをしてから車を発進させた。
起こすのが忍びなくなるくらい、悠仁は隣ですやすやとよく眠っていた。試しに口に指を突っ込んでみたら思いっきり噛まれた。おもしろ。歯型を残したまま、悠仁を揺すり起こす。
「悠仁、着いたよ」
「っ、んぇ、」
「はは、ビクってなった」
先に運転席から降りて、助手席のドアを開けてやる。この場所に着いてから今日が土曜日だということに気付いた。呪術師は不定期な休日のせいで曜日感覚が狂いやすい。土曜日のショッピングモールの駐車場は常に奪い合いだ。この僕でも空きを見つけることはなかなか難しい。駐車場所を探しぐるぐるしていたら屋上まで来てしまった。風が入り込んでピンクベージュの髪を揺らした。悠仁は緩慢な動作でシートベルトを外し、それから自分の頬を両手で叩いた。
「ッシ、起きた! 運転ありがと!」
「どういたしまして」
車から出てきた悠仁は僕の手を取った。当然のように指を絡められる。
「デートめっちゃ久々じゃね?」
これまた当然のように言われて、僕はハッとする。わなわなと震えた。繋いだ手を持ち上げてまじまじと見る。もう一度ハッとした。
「デートじゃん! しかも初デートじゃん!」
「初ぅ? 先生、付き合う前から出掛けるたびにデートって言ってたじゃん」
「あれもデートだけど恋人になってからは初じゃん!」
「ハハ、えー? てかデートのつもりですんげー楽しみにしてたの、もしかして俺だけ?」
意地の悪い言い方をする悠仁。何度も悠仁とデートをするシミュレーションをしていたのに、引越しの準備に追われすぎていて折角のデートを買い出しというつまらない単語に当てはめていたことに、初めて気付く。
「悠仁との初デートで着ていくつもりで買った服、着てきてない」
「……ん⁉︎」
「行こうとしてたレストランだって予約してないし、デートプランだって考えてたのに……」
「……マジ?」
悠仁が自身の口元を覆いながら見上げてくる。心無しか震えている。なんだよ、文句あんのか。僕は落ち込みつつも不貞腐れるという器用なことをしながら繋がれた悠仁の手をにぎにぎする。すると悠仁が急にその場にしゃがみこんだ。一緒にしゃがめと言うように手を引かれる。僕は首を傾げながらその通りにした。駐車場の片隅で大の男二人が座り込んでるのは側から見れば異様だろう。
「せんせーってさ、」
「……なんだよ」
「めっちゃ可愛いね」
むちゅ、とキスをされた。目を白黒させてると、悠仁は眉を下げて幸せそうに笑った。
「俺相手にそんなこと考えてくれてたんだ。うれしー」
もう一度、啄むようにキスをされる。周りから隠れるようにこっそりと。途端に顔全体が熱くなっていくのを感じた。なぜ馬鹿正直に本人に喋ってしまったのか。しかも悠仁は喜んでるし。目を合わせていられなくなって視線を逸らした。悠仁は余計に嬉しそうにえへえへと笑った。
「顔真っ赤ぁ」
「……うるさいなぁ。こっちはもう千三百五十三回分のデート考えてんだよ。言っとくけど、全部付き合ってもらうからな」
「すげーあるじゃん。全部やろうぜ!」
ダメだ。どうしたって敵わない。でも悠仁が嬉しそうならいいか、と易々と引き下がってしまう。惚れた弱みってやつだ。
「先生が考えてくれた初デートは今度やるとしさ、初デートが同棲の買い出しってのも結構いいじゃん」
よいしょ、と悠仁は立ち上がりながら言った。僕が不貞腐れたまましゃがみ込んでいると、悠仁は僕を引っ張り上げようと足に力を入れた。僕は態と抵抗した。「ぅおも⁉︎」と悠仁は声を上げる。
「なんか全部すっ飛ばして、めっちゃ生きてるって感じする。俺らっぽくね?」
なんつってー、と笑う悠仁に、僕は全てどうでも良くなった。僕の妄想の悠仁を、現実の悠仁は毎回簡単に飛び越えてくる。過去の僕へ。悠仁への解像度、最低だぞ。見ろ、これが本当のカレシ・ユウジ・イタドリだ。初デートで馬鹿みたいな気合いを入れなくても、悠仁は楽しそうにしてくれるし、それを見た僕は幸せな気持ちになる。
僕を立たせようと奮闘している悠仁の手を下から掴んだ。立ち上がると勘違いして油断した一瞬の隙に、思いっきり引っ張る。悠仁が僕に倒れ込んでくる。しっかり受け止めて、僕からもキスをした。
「悠仁もたくさん僕とのデートプラン考えてね。全部やるまで僕ら死ねないよ」
「……うす」
今度は悠仁が顔を真っ赤にする番だった。不意打ちに弱いのはもう知っている。
───……
ついさっきまでラブラブだった筈なのに、今僕は大きな虎のぬいぐるみを片手に一人でカスタムしまくったフラッペを啜っていた。しかも席が空いてないせいでカフェの前でポツンと立っている。
「悠仁のばぁか」
初デートとは言いながらも、今日はしっかりと目的がある。僕らのこれからの生活に必要なものを買いにきたのだ。僕は悠仁との初デートが楽しすぎて寄り道をしまくった。ゲーセンに行ったらデカい悠仁みたいな虎のぬいぐるみがあったから取れるまで粘った。甘いものが食べたくなったからクレープ屋に並んだ。悠仁に似合いそうな服があったので悠仁を試着室に突っ込んだ。悠仁は最初は付き合ってくれていたが、時間が足りないことに気付き、「すぐ戻ってくるから休んでて!」と僕を置いて、すたこらさっさとどこかへ行ってしまった。確かにそんな暇ないっていっぱい言われたけどさ、連れてけよ。寂しいだろ。初デートで浮かれてるんだよバカ。
ただただ暇でぼーっと通行人達を眺める。みんなチラチラとこちらを見ていた。ほら、こんなグッドルッキングガイが一人でいるせいでみんな僕のこと見てくるよ、早く迎えに来てよ、とストローを吸いながら胸の中でごちる。
多くの視線が降り注ぐ中に、少しだけ違う種類のものを感じた。知り合いか? とそちらを向いて、すぐに後悔した。僅かに目を瞠る。悠仁と同い年くらいの女の子。確かに視線が重なった。あぁ、今悠仁に戻ってきて欲しくないな。そう思っても、僕の呪力感知は超優秀なので、こちらに向かってきている悠仁にすぐに気付く。悠仁はもうすぐ側まで来ているのに、僕は悠仁のもとに歩きだした。悠仁が少し離れたところから僕に手を振る。
「お待たせ!」
「うん、行こ」
「さっきさぁ、そこの店の……、」
悠仁が僕の後ろに視線を遣る。悠仁も気付いたのだ。こっちを、悠仁を見る視線に。優しいこの子が無視をするわけがない。
今すぐ帰りたかった。
───……
僕たちの部屋はとてもじゃないが生活できるような状態ではなかった。ダンボールがあちらこちらにあり、買ってきた荷物はそのまま投げ出され、カーテンはまだ付けられておらず外から丸見えだ。ひどい惨状の中で、悠仁は新品のソファに座る僕の上に乗りながら僕を抱きしめていた。僕は悠仁の胸に顔を埋めて動かなかった。
「なぁそろそろ夕飯食べない? 聞こえる? この腹の音。腹減ったーって泣いてる」
「……僕より食欲のほうが大事なんだ」
「めんどくせぇ〜〜〜」
ムカついたので抱きしめる力を思いっきり強めた。「いでででで!」と悠仁が声を上げる。胸のイライラが治らない。
僕らに視線を寄越していたのは悠仁の元彼女だった。前に一度、二人のデート中に偶然会ったことがあった。思い出すと気分が落ちるから顔も呪力も忘れようとしたのが仇になった。ちゃんと覚えておけば良かったと後悔した。そしたら悠仁と鉢合わせにさせなかったのに。悠仁と恋人になれたことが嬉しくてすっかり彼女の存在を忘れていた。
悠仁と彼女は二つ三つ言葉を交わしてすぐに解散した。僕はその様子をじっと見ていた。悠仁は僕の元に戻ってきたときに苦笑いを浮かべ、すぐに手を繋いで「俺の恋人は先生だよ」と言った。普段の僕なら喜んでキスをしていただろう。でも僕の気分は全く晴れなかった。デートは中止になった。幸いなことは悠仁が必要なものを一通り揃えてくれていたことだろう。
「………と……し……てたの」
「え?」
「……あの子と何話してたの!」
「っくりしたぁ。急に元気」
元気なわけないだろ。僕はまた悠仁を締め上げる。けれど今度の悠仁は声を上げることなく僕を抱きしめ返しながら言った。
「普通に久しぶりーって。マジで先生が心配するようなことなかったよ。挨拶しただけ」
「もう一言くらい交わしてただろ」
「すげぇ、そんなこともわかんの?」
「……。」
「マジで変なことないって。学校の先生とお出かけ? って聞かれたから今は先生で恋人ーって話ししただけ。向こうは友達と来てたんだって」
僕はゆっくりと顔を上げる。悠仁は僕をめんどくせ〜と言ったくせに少しの苛立ちも見せない表情で僕の頭を優しく撫でている。
元恋人に、誤魔化さずに僕を恋人と紹介してくれたことに安心してしまう。喜んでしまう。まんまと溜飲が下がる。僕を不安にさせない悠仁がますます好きになった。そして自己嫌悪に陥る。僕はもう一度悠仁を抱き寄せ、胸に顔を埋めた。
「ゆうじ」
「なに?」
「めんどくさくても、嫌いにならないで」
少しの沈黙のあと、悠仁は声を上げて笑った。それからぎゅう、と僕を抱きしめた。
「先生がそれだけ俺のこと好きってことだろ。そんなん、もっと好きになるばっかだよ」
悠仁はなんてことないように言った。ぐぅ、と喉の奥が変になった。悠仁が旋毛にキスを落としてくるのがわかった。僕は顔を上げる。
「口にして」
すぐに唇が重なった。誘うように口を開けると、悠仁はおずおずと舌をいれてくる。僕が舌をいれることが多かったから、まだ慣れていないぎこちなさが愛おしかった。歯列をなぞって、裏顎を舐めて、舌先に触れて、しゃぶる。キスの仕方が僕が悠仁にするのと全く同じやり方で、また僕の機嫌が直っていく。まだ部屋として機能していない空間にくちゅくちゅと水音が響く。服の裾から手を入れた。悠仁の身体が跳ねる。上へと手を進めていこうとすると、腕を掴まれ阻止される。
「飯が先! そのあと荷解き! それ終わったらエッチ!」
肩で息をしながら悠仁は勢いよく言った。エッチしてくれるんだ、と僕の機嫌ポイントが上がる。あんなに嫉妬していたことが嘘のように、僕は悠仁の手によってまんまと機嫌を直されていた。けれどまだイチャつき足りない。態と不安気な表情を作って、離れていった悠仁の腰を引き寄せる。
「もうちょっと」
うぐ、っと悠仁は堪えるようなくしゃくしゃな顔をしたあと、すぐに抱きしめてくれる。僕は悠仁に顔が見えないのをいいことに、貼り付けた不安げな表情を仕舞ってご機嫌に胸に顔を摩りつけた。梳くように髪を撫でられる。気持ちが良くて抱き締める力を強めると、悠仁は小さく笑いながら言った。
「先生って結構素直だよね」
そうか? と思って顔を上げる。悠仁は機嫌がいいのか、歌うように言った。
「前も思ったけど、先生の嫉妬って結構わかりやすいし。あと先生に口説かれてるときとか、めっちゃストレートに好きって言ってくるからマジで心臓もたねーって何回も思った」
「そりゃ相手が悠仁だから。正攻法の方が効くでしょオマエは」
しかし言われてみて振り返ると、確かにそうかもな、と納得する点があった。嫉妬については一旦置いておくとして、狙ったものを回りくどくじわじわと追い詰めるのは好きじゃない。急がば回れなんて言葉は僕の辞書にはない。僕も悠仁と一緒でホームランを狙う男だ。まぁ好きじゃないというだけで、手段は知っている。
「呪詛師相手とかに仕掛けるときは逆に───」
「は?」
え、と思ったときには上に乗っていた重みが消えていた。悠仁がソファの上から飛び降りようとするのを横目に捉える。出遅れたがギリギリ悠仁のズボンを掴む。悠仁は半ケツになるのもお構いなしで玄関へと逃げようとする。こんなときに便利なのが僕の術式。完璧な呪力操作で悠仁を引き寄せる。べたんと床に落ちた悠仁を仰向けにひっくり返し、馬乗りになった。
「ゆうじぃ」
悠仁は腕で顔を隠している。真っ赤な頬と首筋と耳が全然隠れていない。僕はニコニコでその腕を引き剥がそうとする。
「うぅ、はなせ!」
「ぜってーやだ」
悠仁が本気でジタバタと暴れる。僕は嬉しくてたまらないので絶対に逃してやらない。なかなかの力で抵抗される。しかし僕にはまだまだ敵わない悠仁は無理やり腕を剥がされ、僕に真っ赤な顔を晒した。目が少しだけ潤んでいて、照れ隠しのために怒ったフリをしている。僕の機嫌は最高潮になる。
「なーんで逃げたの」
「うぅう」
「先生が当ててあげよっか」
そう甘い声で言う。悠仁は羞恥心が一周したのか勢いよく言った。
「嫉妬した‼︎」
「あっはっは!」
悠仁の嫉妬心はこんなに甘いのか。僕は馬乗りをやめて悠仁を抱き上げる。悠仁の腕は僕の首に、足はがしりと腰に回った。悠仁が逃げ出したソファに座り直す。今度は僕が悠仁をよしよしする番だった。
「確かにこれは嬉しいね。それだけ僕のこと好きってことだもんね? 悠仁が言ったんだもんね?」
「めちゃくちゃ好きに決まってんだろ!」
「うんうん! よしよし!」
ぽんぽんと背中を撫でると悠仁はううう、と唸りながら僕の肩口にぐりぐりと額を摩りつけた。大変だ。僕の口角は上がったまま下がらなくなってしまった。
悠仁を抱っこしながら「もうそんな仕事は受けないよ。悠仁にしか好きって言わない」と言うと悠仁はぎゅうっと僕を強く抱きしめた。そしてしおしおの声で僕を呼ぶ。
「せんせぇ」
「ん?」
「めんどくせぇって言ってごめん……」
なんだ。そんなこと気にしてたの。僕は笑いながら問いかける。
「めんどくせぇ僕も好き?」
「好き」
「僕は悠仁の全部好き」
そう言うと悠仁は俺も全部好きだし……、となぜか張り合ってきた。
僕らはお互いに愛おしさが募ったと感じたので、空腹も荷解きも一旦忘れるのはどうかと悠仁に目で訴える。悠仁はまだ僅かに赤い顔のまま、首を傾げつつもキスをしてくれた。僕の彼氏は最高だぜ全く……と思い悠仁を抱き上げると「飯が先! そのあと荷解き! それ終わったらエッチ!」と再び叫ばれる。なんだよ、紛らわしいな。仕方ないので僕は暴れる悠仁を抱き上げたまま、寝室へと向かい、そのまま閉じ込めてしまうことにした。
オマエらは騒ぎにしなきゃ死ぬ呪いにでも掛かってるのか、と硝子に言われた。なんのこと? と尋ねれば西の空き教室に行けと言われる。大人しく言われた通りに向かう。
「あ、せんせー」
「あれ、悠仁も来てたんだ」
ドアを開けるとそこには昨日喧嘩をして速攻で仲直りをした悠仁がいた。僕たちの記念すべき初めての些細な喧嘩だった。
荷解きをサボって悠仁を抱いたことを案の定、本人に怒られた。「途中からノリノリだったじゃん……」と言ったのが追い討ちになったらしい。悠仁は寝る前に「腹減って寝れねぇ」と拗ねながら、僕が水を取りに行った一瞬で寝た。
僕は早起きしてキッチン周りの荷解きをし、近くの二十四時間スーパーに駆け込んで、腹ペコであろう悠仁のために朝ごはんをたくさん作った。僕らは夜ご飯も食べずにセックスをしたから、手っ取り早くカロリーが取れる肉が良いだろうと、朝から生姜焼きを作った。炊飯器が何故か見当たらなかったので、米はパックご飯になった。チンして茶碗によそおうとしたが、昨日買った茶碗はまだ買い物袋から出していないことに気付き、パックのまま新品のテーブルに置いた。寝室から出てきた悠仁は「肉!」と元気に叫んだ。お詫びも兼ねていたのに、自分が不貞寝をしたことを覚えていないようだった。あ、仲直りらしい仲直りしてないな、と今気付く。まぁでも僕と悠仁は最高の朝を迎えたというのは事実だ。
別々に家を出たのに結局高専で会うことになった。これからこういうことも増えるだろう。職場が一緒というのは最高だ。
「なぁに、この大荷物」
「全部俺ら宛てだって。ほら、これとか熨斗ついてる。これも」
「引越し祝い?」
硝子の言っていた意味がわかった。教室の机は中央でくっつけられていて、その上に僕らの引越し祝いと思われるものが山のように置かれている。中には生徒からのものもあった。「お幸せに!」と書かれた付箋が缶ジュースに貼り付いている。
「ただの引越しでこんな貰うことある? なんか結婚する勢いじゃね?」
「それはまたいつかね」
「え⁉︎ あ、ハイ! てかできんの? 俺ら」
悠仁は照れ笑いを浮かべる。できるだろ、僕らなら。法律なんて僕が変えてやる。
僕は目を凝らすまでもなく一つの箱を手に取った。
「うーん、これ隠す気ないのかな」
「やっぱり? こっちのお菓子も毒入り」
「え、食べたの?」
「いや、匂いと勘」
僕は手に取った呪具入りの箱と、悠仁が中途半端に開けたチョコの菓子箱を術式で圧縮した。ただの引越し祝いの中に明らかな殺意の籠った呪いがたくさん混じっている。
五条悟と虎杖悠仁だ。僕らの関係を疎ましく思うやつも、命を狙う輩も悲しいかな、ごまんといる。僕ら二人が浮かれてぽっくり行くことを望み薄で仕掛けてきたのだろう。馬鹿なやつらだ。二人力を合わせると戦闘力が百万倍になることを想定できていないらしい。
「あ、見て! 冥さんからも来てる!」
「え、怖いな。あの人に借り作りたくないんだよなぁ」
悠仁に手渡される。丁寧に熨斗が付いていて余計に恐ろしい。箱を開けずに中身はなにかと持ち上げたり目を凝らしていると、悠仁が僕の肩に手を乗せ、背伸びをしながら頬にキスをしてきた。僕は突然のことに一瞬固まる。それからキスされた場所を保護するように手で包んだ。僕の彼氏の可愛さに震えながら悠仁を見ると、悠仁は勝ち気に笑っていた。
「こういうの送ってきた人たちが呆れるくらい、俺らめちゃくちゃ幸せになろう」
───そう悠仁が言った瞬間、不意に喉が痛いほど締まった。
琥珀の瞳は楽し気に、未来に期待をもって輝いている。
僕がこの子に恋をした全てを見た気がした。全てがここにあると思った。
その笑顔が、瞳が、君だけの強さが、僕は眩しかった。ずっと眩しくて、ずっと恋しかった。
「見せつけてやろうぜ、俺らの愛ってやつ」
悠仁は笑う。
僕はただ、僕が信じたものを信じ続けて、愛せばいいと、君が証明してくれる。




























