愛というものは美しいものだと思っていた。
温かくて、柔らかくて、触れれば相手の傷まで癒えるようなもの。
夜明けの光みたいに澄んでいて、冬の日の暖炉みたいに穏やかで、相手の幸福を心から願えるもの。
誰かを愛するということは、その人を自由にすることだと思っていた。
その人が笑っていれば嬉しい。
その人が幸せなら、それでいい。
その隣に自分がいなくても、胸を痛めながら祝福できる。
愛とは、そういうもののはずだった。
少なくとも、○○はそう信じていた。
だから、自分がローエンに向けている感情を、どうしても愛とは呼べなかった。
あれは違う。
もっと薄汚いものだ。
ローエンが他の誰かと話しているのを見ると、胸の奥が泥のように重くなる。
彼が誰かに笑いかけると、心臓の裏側を爪で引っかかれるような気分になる。
任務で彼の隣に立てない日は、自分の未熟さを呪った。
ローエンの背中が遠いと感じるたび、追いつきたい、並びたい、見てほしい、置いていかないでほしい、と喉の奥で醜い願いが膨れ上がった。
それは温かくなかった。
優しくもなかった。
綺麗でもなかった。
相手の幸福を願うふりをして、その実、自分が彼の特別になりたかっただけ。
隣に並ぶ資格がほしくて、彼の視界に入りたくて、彼の声が自分の名前を呼ぶたびに、息ができなくなるほど嬉しくなって。
それでも平然とした顔をして、騎士団の同僚として隣に立つ。
○○は、そういう自分が嫌いだった。
ローエンとは、騎士団の同じ部隊だった。
同じ任務に出ることも多く、ローエンと同じく遠距離小隊でありながら前線で戦う彼と同じく前線で戦う自分は彼に背中を預けることもあった。
彼は飄々としていて、意地が悪くて、いつもこちらの内側を見透かすような目をしている。
戦場では頼りになった。
それがまた、嫌だった。
ローエンは強い。
ただ槍を振るうだけではない。
状況を見る目がある。相手の動きを読む勘がある。危険に踏み込む瞬間の迷いがない。
○○は、そんな彼の隣に立ちたかった。
守られたいのではない。
置いていかれたくなかった。
彼の背中を追うだけの存在ではなく、同じ速度で走り、同じ傷を負い、同じ戦場の空気を吸いたかった。
ローエンの隣にいたい。
その一念だけで、○○は強くなった。
剣を握る手が裂けても、魔物の爪が腕をかすめても、血の味が喉に上がっても、立ち上がった。
倒れている暇があるなら、もう一歩前に出る。
痛みを覚える暇があるなら、次の動きを読む。
ローエンに追いつきたい。
置いていかれたくない。
隣に並べる自分になりたい。
その願いは、祈りというにはあまりにも重く、愛というにはあまりにも汚かった。
だから、○○はそれを隠した。
誰にも知られないように。
ローエン本人には、絶対に悟られないように。
同僚として笑った。
平静な顔で任務報告をした。
「問題ありません」と言った。
「大丈夫です」と言った。
「任務に支障はありません」と言った。
その全部が嘘ではなかった。
ただ、一番肝心な部分だけを言わなかった。
本当は、あなたの隣にいたい。
あなたが誰かを見ているだけで嫌だ。
あなたに認められたい。
あなたの特別になりたい。
そんなもの、口が裂けても言えなかった。
だって、それは愛ではない。
愛なんかではない。
もっと醜くて、もっと情けなくて、もっと浅ましいものだ。
○○はそう思っていた。
その日も、任務帰りだった。
夕暮れの街は、どこか湿った風が吹いていた。
石畳には昼間の熱がまだ残っているのに、空の色だけが先に夜へ傾いている。
本部へ戻る道すがら、○○はローエンの少し後ろを歩いていた。
隣ではない。
隣に立つには、まだ足りない気がした。
任務自体は成功だった。
魔物の討伐数も想定内。負傷者もなし。報告書に書けば、特筆事項なし、の一言で済む程度の任務。
けれど○○の中には、ずっと小さな棘が刺さっていた。
戦闘中、ローエンが一度、別の騎士の援護に入った。
それだけだった。
本当に、それだけ。
彼は正しい判断をした。
仲間を助け、状況を整え、結果として全員を無事に帰還させた。
同僚として、感謝すべきだった。
それなのに、○○はその瞬間、ほんの少しだけ息が詰まった。
ローエンが自分以外の誰かの名前を呼んだ。
自分以外の誰かを助けに行った。
背中が、自分ではない誰かのために遠ざかった。
それだけで、胸の奥に黒いものが滲んだ。
そんな自分が、心底嫌だった。騎士として最低だし失格だと思った。
「お前さ」
前を歩いていたローエンが、ふいに足を止めた。
○○も反射的に止まる。
「はい?」
声は平静だった。
よかった。
ちゃんと普通に聞こえた。
ローエンは振り返った。
夕暮れの光を背負った彼の表情は、いつもと変わらない。
少し笑っている。からかう前の顔だった。
○○は嫌な予感がした。
ローエンがこういう顔をするときは、大抵ろくなことを言わない。
「ほんと、俺のこと好きだよな」
世界が止まった。
○○は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
音としては聞こえた。
意味も理解した。
けれど、理解した瞬間、体の内側がすっと冷えていった。
好き。
ローエンが、そう言った。
よりによって、ローエン本人が。
そんな軽い声で。
自分のあの感情を指して。
好きだと。
愛だと。
そう認識した。
「…違います」
ローエンは、すぐには返事をしなかった。
ただ、○○を見る目をゆっくりと細める。
その仕草は、疑っているというより、もう答えを知っている人間のものだった。
○○が何を否定しようとしているのか。
何を隠そうとしているのか。
その奥に、どれほど必死で押し込めた感情があるのか。
彼は、それを最初から見えていたみたいな顔をしていた。
夕暮れの光が、ローエンの瞳の色を少し暗くする。
その目に映っている自分が、○○にはひどく惨めに思えた。
見ないでほしかった。
そんなふうに、覗き込まないでほしかった。
言葉で隠したものを、表情の裏から指先でなぞるように暴かれている気がした。
「違う?」
ローエンの声は、やけに平坦だった。
けれど、問いかけの形をしているだけで、そこに本当の疑問はなかった。
答えを求めているのではない。
○○がどんな言い訳をするのか、聞いてやろうとしているだけ。
「違います」
もう一度、○○は言った。
今度は少しだけ、声が震えた。
ローエンの口元が、わずかに動く。
笑った、というほどではない。
けれど、○○の否定が彼に届いていないことだけはわかった。
「へえ」
たった一音だった。
けれど、その短さがかえって残酷だった。
否定も、反論も、説明も、全部まとめて軽く受け流されたような気がした。
それがまた、○○の胸を締めつけた。
やめてほしかった。
そんなふうに笑わないでほしかった。
見透かさないでほしかった。
自分の中にある泥みたいなものを、簡単に名前で呼ばないでほしかった。
「じゃあ、何?」
ローエンが一歩近づく。
「任務中、俺が他の奴の援護に入ったとき、あんな顔してたのは」
○○の喉が詰まった。
見られていた。
知られていた。
隠せていると思っていたのは、自分だけだった。
「顔って、何ですか」
「面白い顔」
「してません」
「してた」
ローエンの声は甘くない。
けれど、意地が悪い。
逃げ道をひとつずつ塞いでいくような、静かな声色だった。
○○は唇を噛んだ。
「……違います」
「だから何が」
「好きとか、そういうのじゃありません」
「そういうのじゃない?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
何だろう。
○○にもわからなかった。
いや、わかっていた。
わかっているからこそ、言いたくなかった。
胸の奥に溜まった泥。
隣にいたいという欲。
置いていかれたくないという焦り。
他の誰にも取られたくないという浅ましさ。
自分を見てほしいという、子供じみた願い。
そんなものに、名前をつけたくなかった。
ローエンは言った。
好きだよな、と。
違う。
違うのだ。
それは、そんな綺麗な言葉で呼んでいいものではない。
「これは、愛じゃない」
気づけば、○○はそう呟いていた。
ローエンの表情がわずかに変わる。
「愛?」
その言葉を聞いただけで、○○の胸が痛んだ。
「愛なんかじゃないです」
声が震えた。
嫌だった。
嫌で嫌でたまらなかった。
自分が隠していたものを見られたことも。
それをローエンに指摘されたことも。
何より、彼がそれを「好き」だと認識したことが。
耐えられなかった。
「愛って、もっと綺麗なものでしょう」
○○は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
頬が引きつる。
喉が詰まる。
息が浅くなる。
「もっと温かくて、優しくて、相手の幸せを願えるものでしょう。なのに、私のこれは違う」
ローエンは黙っている。
その沈黙が怖かった。
けれど、止まれなかった。
「ローエンが他の人を見るのが嫌で、他の人を助けるのを見るのも嫌で、隣に立てない自分が嫌で、置いていかれるのが怖くて、でもそんなこと思ってる自分が一番気持ち悪くて」
言葉がこぼれていく。
ずっと押し込めていたものが、ひび割れた隙間から滲み出すみたいに。
「こんなの、愛じゃない」
○○はローエンを見た。
見てしまった。
彼は、笑っていた。
それは、とてもとても愉快そうな笑みだった。
○○の血の気が引いた。
「……何で笑ってるんですか」
「いや」
ローエンは肩をすくめる。
「お前って本当に、馬鹿だなと思って」
胸の奥に、ひどく冷たいものが落ちた。
馬鹿。
そうか。
やっぱり、そう見えるのか。
醜い。
愚か。
浅ましい。
気持ち悪い。
自分でそう思っていたものを、ローエンにもそう見られている。
そう思った瞬間、○○は耐えられなくなった。
「失礼します」
それだけ言って、踵を返した。
ローエンは追ってこなかった。
それが余計に苦しかった。
追ってきてほしいわけではない。
来られても困る。
何を言われてもきっと傷つく。
けれど、追ってこないなら追ってこないで、やはり自分などその程度なのだと思ってしまう。
面倒くさい。
本当に、嫌になる。
○○は足早に歩いた。
胸が痛い。
喉が詰まる。
息が浅い。
ローエンにバレた。
あの薄汚い感情を。
愛なんかではないものを。
自分でも見たくなかったものを。
よりによって、彼本人に。
しかも彼は、それを「好き」だと言った。
違うのに。
違う。
あれは、好きなんて綺麗な言葉じゃない。
恋でもない。
愛でもない。
もっと醜いものだ。
もっと、捨ててしまうべきものだ。
だから○○は、捨てることにした。
恋心を取り出す秘薬があると知ったのは、偶然だった。
正確には、以前から噂だけは聞いたことがあった。
体の中にある恋情を結晶化し、外へ取り出す薬。飲めば、その人に向ける恋だけが形を得て、体から離れる。
冗談みたいな薬だった。
けれど、この世には冗談みたいなものが実在する。
○○は迷わなかった。
いや、迷わなかったと思いたかった。
小瓶に入った薬は、薄い青をしていた。
光にかざすと、底の方で淡く揺れる。
綺麗だった。
気味が悪いくらいに。
こんな綺麗な色をしたものが、自分の中のあの泥みたいな感情を取り出してくれるのだと思うと、少しだけ笑えた。
「これで、終わる」
○○は誰もいない部屋で呟いた。
終わらせられる。
ローエンを見ても、胸が痛まなくなる。
誰かと話している彼を見ても、黒いものが滲まなくなる。
隣に立てない自分を責めずに済む。
置いていかれることに怯えずに済む。
同僚に戻れる。
ただの同僚に。
正しい距離に。
○○は小瓶の栓を抜き、中身を飲み干した。
喉を落ちていく液体は、ひどく冷たかった。
次の瞬間、胸の奥が熱くなった。
熱い。
痛い。
まるで肋骨の内側を、内側から爪で引っかかれているようだった。
○○は胸を押さえた。
息が詰まる。
膝が震える。
視界が歪む。
何かが、体の奥から引き剥がされていく。
嫌だ、と思った。
終わらせたいと思って飲んだはずなのに。
いざ奪われる瞬間、体が拒んだ。
嫌だ。
取らないで。
それは汚いものだ。
捨てたいものだ。
愛ではないものだ。
なのに。
それでも。
○○は床に膝をついた。
喉の奥から、声にならない息が漏れる。
胸の中心が眩しく光った。
そして、小さな結晶がこぼれ落ちた。
それは、赤黒い色をしていた。
光に透かせば綺麗なのに、底の方に澱のようなものが沈んでいる。
宝石のようで、血の塊のようでもあった。
○○は震える手で、それを見つめた。
これが。
これが、自分の恋心。
あまりにも綺麗で、あまりにも醜かった。
○○は笑った。
笑うしかなかった。
「ほら、やっぱり」
綺麗なんかじゃない。
こんな色をしている。
こんなにも重い。
こんなにも濁っている。
やっぱり、愛なんかではなかった。
○○はその結晶を箱に入れ、鍵をかけた。
これで終わり。
そう思った。
だが、終わりはしなかった。
翌日の任務で、○○は初めて自分の異変に気づいた。
剣が重い。
足が遅い。
判断が遅れる。
ほんの一瞬、反応が遅れただけで、魔物の爪が肩を掠めた。
以前の自分なら避けられたはずだった。
踏み込めたはずだった。
もう一歩、前に出られたはずだった。
なのに、体が動かない。
怖い。
そう思った。
戦場で、初めて。
いや、怖さ自体はずっとあった。
それでも今までは、その怖さの奥にもっと強いものがあった。
ローエンの隣に立ちたい。
置いていかれたくない。
追いつきたい。
そのためなら、痛みも恐怖も踏み越えられた。
けれど今は、それがない。
体の内側から、火が消えていた。
○○は後退した。
その一歩が、何よりも屈辱だった。
任務は辛うじて終わった。
だが、○○は自分が明らかに弱くなっていることを理解していた。
剣の腕が落ちたわけではない。
技術を忘れたわけでもない。
ただ、踏み込めない。
立ち上がれない。
前へ出る理由が、抜け落ちていた。
宿舎へ戻った○○は、部屋の扉を閉めた瞬間、その場に崩れ落ちた。
息ができなかった。
胸が苦しい。
喉が狭い。
空気を吸っているはずなのに、肺に入ってこない。
「っ、は……」
床に手をつく。
指先が震えている。
違う。
あんなもののせいで強くなっていたわけじゃない。
そんなはずがない。
ローエンの隣にいたいなんて、そんな醜い感情が、自分を支えていたはずがない。
あんなものは愛ではない。
あんなものは綺麗じゃない。
あんなものは、捨てるべきものだった。
なのに。
捨てた途端、弱くなった。
ローエンの隣に立ちたいという願いが、どれほど自分を動かしていたのか、証明されてしまった。
嫌だった。
そんなこと、知りたくなかった。
自分の強さが、努力だけでできていなかったなんて。
騎士としての誇りだけではなかったなんて。
正義でも使命感でもなく、ローエンへの執着で前に進んでいたなんて。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ‼
○○は胸を押さえて、浅く息を吸った。
入ってこない。
苦しい。
視界が滲む。
床が揺れているように見える。
「っ、は、ぁ……や、だ……」
情けない声が漏れた。
誰にも聞かれたくなかった。
こんなところを見られたくなかった。
恋を捨てたら弱くなりました、なんて。
ローエンの隣にいたいという薄汚い願いが、自分の強さでした、なんて。
惨めすぎる。
笑えない。
いや、笑うしかない。
けれど呼吸がうまくできなくて、笑うことすらできなかった。
そのときだった。
扉が開いた。
鍵をかけたはずだった。
○○は顔を上げる。
涙でぼやけた視界の向こうに、ローエンが立っていた。
「……ロー、エン」
声が掠れた。
どうして。
なぜ、ここに。
そして、なぜ。
彼の手の中に、あの結晶がある。
赤黒く、澱んで、それでも光を受けると泣きたくなるほど綺麗に輝く、○○の恋の結晶。
ローエンはそれを指先で弄んでいた。
宝石でも眺めるように、あるいは、ようやく手に入れた証拠品を確かめるように。
その口元には、笑みが浮かんでいた。
けれどそれは、柔らかいものではなかった。
愉快そうで、満足そうで、ひどく底意地が悪い。
○○が隠して、捨てて、なかったことにしようとしたものを、こうして自分の手の中に収めていることが、心底嬉しくてたまらない。
そんな笑い方だった。
目だけは、少しも笑っていなかった。
ただ、逃げ場をなくした獲物を見下ろすように、静かに細められている。
○○の血の気が引いた。
「返して」
声が震えた。
「それ、私のです」
「知ってる」
ローエンは笑う。
「だから持ってきた」
「返して」
「嫌だ」
即答だった。
○○は息を呑む。
ローエンはゆっくりと近づいてくる。
○○は後ずさろうとした。
けれど、過呼吸で力の入らない体は思うように動かない。
情けない。
逃げることすらできない。
「飲んだんだろ。恋を取り出す秘薬」
ローエンの声は、ひどく軽かった。
まるで天気の話でもしているみたいに、何でもないことのように言う。
けれど、その軽さの奥にあるものは、少しも軽くなかった。
低く沈んだ怒り。
見つけた、という確信。
逃がさない、という決定。
それらが薄い笑みの下に折り畳まれて、声の底に沈んでいる。
○○が自分の恋を捨てたことを、彼は責めているのかもしれない。
あるいは、捨てられると思っていたこと自体を、愚かだと嗤っているのかもしれない。
どちらにせよ、その声にはもう、○○の言い分を聞くための余白などなかった。
「……関係、ない」
そう返すだけで、喉がひどく痛んだ。
「あるだろ」
「ない」
「弱くなってた」
○○は肩を震わせた。
ローエンは見ていた。
全部。
自分が任務で踏み込めなかったことも。
動けなくなっていたことも。
恋を取り出したせいで弱くなったことも。
全部、見られていた。
「違う」
○○は首を横に振った。
「違わない」
「違う」
「お前、俺の隣に立ちたくて強くなってたんだな」
その言葉が、胸を刺した。
やめて。
言わないで。
それを言葉にしないで。
○○は唇を震わせる。
「そんなの、愛じゃない」
「まだ言うか」
ローエンは笑った。
声を立てて笑ったわけではない。
肩を揺らしたわけでもない。
ただ、口元がほんの少しだけ緩んだ。
それだけだった。
けれど○○には、その笑みがひどく恐ろしかった。
呆れているようで、楽しんでいるようで、どこか満たされている。
まるで、逃げ回る小さな獣が、自分から罠の中へ戻ってきたのを見届けたような顔だった。
そこに憐れみはなかった。
怒りも、ほんの少ししかない。
それよりも濃く滲んでいたのは、愉悦に近い何かだった。
○○がどれだけ必死に否定しても。
それは愛ではないと、自分の中の感情を汚いものとして切り捨てようとしても。
ローエンにはもう、全部見えている。
隠していた執着も。
隣に立ちたいという願いも。
置いていかれたくないという恐怖も。
自分を見てほしいという浅ましい祈りも。
その全部を見た上で、彼は笑っていた。
愚かだと。
痛々しいと。
そして、どうしようもなく可愛いと。
○○の胸の奥が冷えていく。
自分が一番嫌っているものを、ローエンは嫌悪していない。
軽蔑もしていない。
むしろ、喜んでいる。
その事実が、何よりも怖かった。
「愛って、もっと綺麗なものなんです」
○○は必死に言った。
息が苦しい。
声が震える。
それでも言わずにはいられなかった。
「相手の幸せを願えて、優しくて、温かくて、見返りなんて求めなくて、相手を縛らないで、汚くなくて」
「へえ」
「私のこれは違う。ローエンに見てほしいとか、隣にいたいとか、他の人を見ないでほしいとか、そんなの、ただの執着で」
「うん」
「こんなの、愛じゃない」
ローエンは、○○の前にしゃがみ込んだ。
距離が近くなる。
○○は逃げようとした。
ローエンの手が、逃がさないように顎を掴む。
「お前って本当に可愛いよな♡」
その声は甘かった。
けれど、優しくはなかった。
○○の背筋が凍る。
「な、にを」
「何って」
ローエンは手の中の結晶を見せた。
「返してやるんだよ」
○○の目が見開かれる。
「いらない…」
「いるだろ」
「いらない…!」
叫んだ瞬間、呼吸が崩れた。
胸が苦しい。
喉がひゅっと鳴る。
涙がこぼれる。
ローエンは笑みを消さなかった。
ただ、○○の口元へ、赤黒い結晶を近づける。
「や、だ」
○○は首を振る。
「やだ、ローエン、それは、」
「お前のだろ」
「違う」
「違わない」
「愛じゃない」
「愛だよ」
その言葉に、○○の瞳が揺れた。
ローエンは言い切った。
迷いなく。
ためらいなく。
○○があれほど嫌悪したものを、汚いと捨てようとしたものを、何でもないことのように。
「俺の隣にいたくて、俺に置いていかれたくなくて、俺を見て、俺に見られたくて、それで強くなったんだろ」
「やめて」
「それのどこが愛じゃないんだよ」
「やめて」
「綺麗じゃなきゃ愛じゃないって、誰が決めた?」
○○は何も言えなかった。
ローエンの指が、唇に触れる。
「俺は好きだぜ」
○○の息が止まる。
「そういうお前」
嫌だ。
聞きたくない。
そんな言葉で許さないでほしい。
そんな声で認めないでほしい。
自分が一番嫌っているものを、彼に愛だと言われたくない。
けれど、ローエンは止まらない。
「ドロドロしてて、重くて、俺の隣に立ちたいって必死で、捨てたら弱くなるくらい俺でいっぱいだったお前」
○○の目から涙が落ちた。
「ほんと、可愛い」
「やめ、」
言葉は続かなかった。
ローエンが結晶を○○の口に押し込んだ。
硬い感触が舌に触れる。
○○は反射的に吐き出そうとした。
だが、ローエンの手が口を塞いだ。
もう片方の手が鼻を塞ぐ。
息ができない。
○○は目を見開き、ローエンの腕を掴んだ。
嫌だ。
戻したくない。
こんなもの、もう体に入れたくない。
あの醜い感情を、もう一度自分の中に戻したくない。
けれど、呼吸が苦しい。
喉が反射的に動く。
飲み込んでしまう。
結晶が喉を通った瞬間、胸の奥で火が弾けた。
熱い。
痛い。
失くしたはずのものが、無理やり元の場所へ押し戻される。
胸の奥に泥が戻ってくる。
執着が戻ってくる。
ローエンの隣にいたいという願いが、置いていかれたくないという恐怖が、彼に見てほしいという浅ましさが、全部、全部、体の中へ帰ってくる。
○○は涙をこぼした。
苦しい。
苦しいのに、体の奥が満たされていく。
最悪だった。
こんなにも嫌なのに、戻ってきたことに安堵している自分がいる。
それが何よりも嫌だった。
ローエンの手が離れる。
○○は激しく咳き込んだ。
涙で視界が滲む。
喉が痛い。
胸が熱い。
息が苦しい。
「っ、は……ろ、えん……」
抗議しようとした声は、最後まで形にならなかった。
ローエンが、今度は唇で塞いだからだ。
先ほどとは違う。
いや、違わない。
優しいようで、逃げ道がない。
甘いようで、息ができない。
慰めるようで、完全に支配している。
熱烈な口付けだった。
戻したばかりの恋を、上からさらに押さえつけるみたいに。
もう二度と取り出させないと言うみたいに。
○○は泣いた。
声にならない涙が、頬を伝って落ちていく。
ローエンはそれを見ても、離れなかった。
むしろ、嬉しそうに目を細めた。
○○の恋が戻ってくる。
隠して、否定して、汚いと捨てようとしたものが、また彼女の中で息をし始める。
ローエンはそれを知っている。
知ったうえで、笑っている。
愚かだと。
可愛いと。
逃がさないと。
○○は、ようやく理解した。
自分が思い描いていた愛は、きっとどこかにある。
温かくて、優しくて、澄んでいて、相手を自由にする愛。
たぶん、それは本当に美しいものなのだろう。
けれど、今ここにあるものは違う。
もっと重い。
もっと熱い。
もっと苦しい。
もっと醜い。
祈りではなく、執着。
祝福ではなく、欲。
自由ではなく、手放したくないという願い。
それでもローエンは、それを愛だと言った。
そして、それを喜んだ。
嫌だ。
嫌で嫌でたまらない。
けれど、戻ってきた恋はもう、胸の奥で熱を持っている。
ローエンの隣にいたい。
ローエンに置いていかれたくない。
ローエンに見てほしい。
その願いが、再び○○を満たしていく。
口付けがようやく離れたとき、○○はぼろぼろ泣いていた。
息も整わない。
体も震えている。
喉の奥には、飲み込まされた結晶の熱がまだ残っている。
ローエンはそんな○○を見下ろしていた。
その表情には、満足があった。
憐れみではない。
罪悪感でもない。
失くしたものを持ち主へ返してやった、というような顔。
あるいは、自分のものがようやく正しい場所へ戻ったのを見届けたような顔。
口元だけが、ゆっくりと弧を描く。
甘く、穏やかで、だからこそひどく恐ろしいな笑みだった。
○○が泣いていることすら、彼にとっては痛ましいものではないらしい。
むしろ、その涙ごと愛おしんでいる。
捨てようとして、逃げようとして、それでも結局自分の恋に飲み込まれて泣いている○○を、心底愚かで可愛いものとして見ている。
その目が、そう言っていた。
まるで、宝物を取り戻したみたいに。
「ほら」
彼は、親指で○○の涙を拭った。
「やっぱりその方がいい」
○○は何も言えなかった。
愛は温かくて美しいものだと思っていた。
けれどローエンは、○○の薄汚い執着を拾い上げて、可愛いと言った。
捨てたはずの恋を持ってきて、無理やり飲み込ませて、泣いている○○に口付けた。
それが愛なのかは、まだわからない。
わかりたくもない。
ただ、ローエンは笑っている。
○○の中に戻った恋を、ひどく満足そうに見つめながら。
「もう捨てるなよ」
その声は甘かった。
けれど、許しではなかった。
祈りでも、願いでもない。
それは、もう二度と逃がさないと決めた人間の声だった。























