Novel26 days ago · 8.9k chars · 1 pages

本好きの下剋上 ローゼマインvsダークマイン

ニーネムックニーネムック

貴族院に、ローゼマインと瓜二つの少女が現れた。 自らを「本物の女神の化身」と名乗るダークマイン。彼女は、ライデンシャフトの槍を学生達に向ける。 力と恐怖を信じるダークマインに対し、打ちのめされても吹き飛ばされても、ローゼマインは前に進み続ける。 二人の化身。その決着の行方は――

「ローゼマイン様! 大変です!」

 廊下を駆け込んでくるレオノーレの声に、わたしは本から顔を上げた。寮の私室に差し込む朝の光が、羊皮紙の上で淡く揺れている。レオノーレの顔は青ざめていた。いつも落ち着いている彼女がここまで取り乱すとなると、よほどのことに違いない。今日は講義の準備をしながら図書館で借りてきた本を読もうとしていたのに、栞を挟む手が少しだけ乱れた。

「レオノーレ、何があったの」
「演習場で……その、ローゼマイン様によく似たお方が、他領の学生に向かって神の奇跡を披露されていると申しまして」
「……どういう意味か説明して」
「髪の色、瞳の色、背格好、まるでローゼマイン様の写し身のようだと。しかし、話し方も振る舞いも全く違うと皆が口々に」

 わたしは急いで栞を挟んでから立ち上がり、レオノーレを見た。

「案内してください」
「ローゼマイン様、護衛騎士も連れていかれますか」
「もちろん。コルネリウスも呼んでください」

 レオノーレが表情を引き締めて頷いた。わたしは部屋を出ながら、頭の中にレオノーレの言葉を繰り返した。

 わたしに似た誰かが、神の奇跡を披露している。

 似ている、とはどういうことだろう。偶然そう見えるだけなのか。それとも意図的に似せているのか。奇跡を披露しているとはどんな奇跡なのか。話し方も振る舞いも違うというのに、なぜそれほど人が集まっているのか。

 疑問は次々と湧いてくるのに、答えはひとつも出てこなかった。

 ……とにかく、自分の目で確かめなければ。

 フェルディナンドには後で報告しよう。今すぐ報告する時間はなかった。

「ローゼマイン様、くれぐれも軽率な行動は……」
「わかっているわ、レオノーレ」

 わかっている。でも、行かないわけにもいかない。

 駆け足で廊下を抜けていくうちに、すれ違う学生達の顔が気になった。誰もが小声で何かを話している。「演習場に」「ローゼマイン様に似た」「どちらが本物の化身なのか」という声が断片的に聞こえてくる。噂はすでに広まりつつあるようだ。放っておけば、貴族院全体に広がるのは時間の問題だった。

 演習場は貴族院の中でも外れに位置する広場で、普段は魔術の実地演習に使われる。けれど、今は季節外れの人だかりができていた。上級生も下級生も入り混じって、誰もが同じ方向を見つめている。どこからかざわめきが聞こえてくる。

 人垣をかき分けながら、わたしは緊張が高まっていくのを感じた。嫌な予感がする、とわたしは思いながら人垣をかき分けて前に出た瞬間、思わず足を止めた。

 広場の中央に、一人の少女が立っていた。夜空のような色の髪、月のような金色の瞳、細い肩と華奢な体躯。わたしだ、と思った次の瞬間、否、わたしではないと気づいた。

 顔の造りは驚くほど似ているが、その立ち姿からして何もかもが異なった。わたしが本を前にして思わず前のめりになるような姿勢をしているとすれば、彼女は彫像のように背筋を伸ばし、顎をわずかに上げ、この場の全てを見下ろすように立っている。その瞳に灯っているのは本への渇望ではなく、支配への渇望だった。

 どういうことだろう。あそこにいるのは確かにわたしではない。話し方も立ち姿も、まるで別人だ。なのになぜ、あんなにわたしと似ているのか。

 混乱しそうになる頭を押さえつけながら、わたしは周囲の学生達の顔を素早く見回した。驚きと混乱と、それから期待のような色が混じっている。真偽の判断を、誰もまだできていない。この状況を長引かせるわけにはいかなかった。

「あぁ、ようやく来たわね」

 彼女はわたしの姿を確認すると、口の端を静かに持ち上げた。微笑、と呼ぶには冷たすぎる表情だった。

「偽物の女神の化身が」

 その一言に、周囲がざわめいた。

「……ご挨拶ね」

 わたしは努めて平静を保つ。

「あなたがわたくしの写し身などと言われているお方ですか? 名前を聞かせてもらえるかしら」
「ダークマイン。新しい女神の化身の名よ」

 短く、しかし確かな響きを持って、彼女は名乗った。

 周囲のざわめきが大きくなる。女神の化身が二人。どちらが本物か。そんな声が人垣の中から聞こえてくる。

 ……なるほど、これが目的ね。

 わたしへの不信を植え付けることだけが目的ではない。この場で何かを起こすつもりだ。わたしは周囲をさりげなく見回した。人垣の外側に、見慣れない顔が何人かいる。旧アーレンスバッハの藤色のマント。

 コルネリウスが小声でわたしの耳元に言った。

「ローゼマイン、周囲に配置された騎士を確認している」

 わかった、とわたしは小さく頷いた。

 ダークマインの名乗りが終わった直後、コルネリウスとレオノーレが同時に前に出た。

「ローゼマイン様から離れろ!」

 コルネリウスがシュタープを展開しながら叫ぶ。しかし、彼の声より早く、演習場を取り囲むように潜んでいた旧アーレンスバッハの騎士達が一斉に襲い掛かってきた。最初から仕込んでいたのだ。ダークマインを引き立て役にして、わたしをここへ引きずり出すために。

 騎士達がコルネリウスとレオノーレに向かって殺到する。

「っ、数が多い!」
「ゲッティルト!」

 コルネリウスが舌打ちをしながら応戦する。レオノーレも即座に盾を構えて横に並んだが、相手は数名ではない。演習場の四方から次々と騎士達が現れ、わたしとダークマインの間にいるコルネリウス達を押し込めようとしている。

「ローゼマイン様、下がってください!」

 レオノーレが叫ぶ。でも、下がる先には人垣がある。逃げ場がない。これも計画のうちだったのだろう。

「話し合いの時間は、もう終わり」

 ダークマインが静かに言った。コルネリウス達が阻まれているのを確認して、口元に薄い笑みを浮かべている。

「わたくしが本物の女神の化身であることを、今ここで証明してあげます」

 彼女が右手を高く掲げた瞬間、わたしは息をのんだ。

 ライデンシャフトの槍!?

 しかしその切っ先はわたしではなく、演習場を取り囲んでいた学生達へ向かって、槍は放たれた。

「コルネリウス!」
「駄目だ。間に合わない!」

 コルネリウスの悲鳴が聞こえた瞬間、わたしはすでに動いていた。考えるより先に体が動いていた。学生達とライデンシャフトの槍の間に飛び込み、両手を広げ、全力で魔力を解放する。

「守りを司る風の女神シュツェーリアよ 側に仕える眷属たる十二の女神よ 我の祈りを聞き届け 聖なる力を与え給え 害意持つものを近付けぬ 風の盾を 我が手に!」

 キンと響く風が渦巻いた。わたしの周囲から生まれた風が、巨大な盾となって広場を覆う。半球状のシュツェーリアの盾が、学生達とライデンシャフトの槍の間に立ちはだかった。

 轟音と衝撃がわたしの全身を貫いた。足が石畳を削り、後退する。歯を食いしばって踏みとどまる。腕が震えていて、槍の熱がシュツェーリアの盾を通じて伝わってきて、腕の内側が焼けるように熱い。それでも盾は割れなかった。ライデンシャフトの槍は盾に阻まれ、弾かれた。

 演習場に静寂が落ちた。

 わたしはゆっくりと息を吐いた。盾を張った直後から、両腕の感覚が少し遠い。魔力の消耗が思ったより大きかった。シュツェーリアの盾はあれだけの範囲を一度に覆えば、それなりの代償がある。

 後ろを振り返ると、学生達が呆然とわたしを見ていた。誰一人、傷ついていない。

 しばらくの間、誰も声を発しなかった。演習場全体が静止したように。それから、あちこちから息を吐く音が聞こえ始めた。誰かが「ローゼマイン様が助けてくれた」と囁き、それが波のように広がっていく。驚きと安堵が混じった声だった。

「ローゼマイン様……」

 レオノーレの声が、かすかに震えていた。騎士達の包囲を抜けようとして、まだ阻まれたままだ。コルネリウスも同様で、剣を構えながらわたしの方を振り返っている。その顔が、悔しさと安堵で複雑に歪んでいた。

 わたしはダークマインに向き直った。彼女は動いていなかった。槍を放った姿勢のまま、わたしを凝視していた。その表情に、初めて動揺の色が浮かんでいた。

「……なぜ」
「なぜって……学生達に何の関係があるの。あなたの相手はわたくしでしょう?」
「女神の化身に従えない者は、この世界に必要のない者よ」

 ダークマインは迷いなく言った。確信に満ちた、まっすぐな言葉だった。

「それが、わたくしの望みです」
「……あなた自身の望みなのね」
「えぇ、誰かに命じられたわけでもない。これはわたくしが選んだ道です」

 その言葉に、わたしは少しだけ驚いた。しかし同時に、理解した。彼女は嘘をついていない。ただ、その望みがわたしには到底受け入れられないだけだ。

「いいわ」

 わたしは一歩、前に出た。

「受けて立ちましょう。でも、他の人は関係ない。わたくしだけを相手にしなさい」

 ダークマインの次の一撃は、想像を超えていた。先ほどのシュツェーリアの盾で、わたしの両腕はすでに限界に近い。その状態で放たれた魔力攻撃は、わたしの防御を食い破って直撃した。

「……っ!」

 周囲から悲鳴が上がった。

「ローゼマイン様!」

 レオノーレの声が遠くに聞こえる。わたしは膝をつかないように踏ん張った。足が震えている。盾を張った代償が、じわじわと全身に広がってくる。これは純粋な魔力の差だ。彼女の力は、わたしが思っていたより遥かに大きい。

「さすが、女神の化身と呼ばれてきただけのことはある」

 ダークマインがゆっくりと近づいてくる。その声は静かだが、余裕がある。

「ですが、それだけです。あなたの奇跡は貴族を手懐けるためのもの。本当の力など持っていない」

 もう一度、魔力攻撃が放たれた。今度は避けた。ギリギリで横に跳んで、石畳に転がる。衣服が汚れるのは後回しだ。膝をついて、すぐに立ち上がろうとした瞬間、また攻撃が来た。今度は避けられなかった。

 魔力攻撃がわたしを直撃し、わたしは吹き飛んだ。背中から演習場の端の柵に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。

 背中が痛い。柵の角が背骨のあたりにまともに当たった。じんじんとした痺れが背中から腕先まで走る。視界がちかちかと明滅して、石畳の模様がぐるりと歪んで見えた。肺の中の空気が全部出ていってしまったようで、次の息が吸えない。

 落ち着け、と自分に言い聞かせながら深くゆっくりと息を吸い、ぎぎぎと痛む背中を無視して、わたしは現状を確認しようとした。

「……ローゼマイン様!」

 複数の声が聞こえた。レオノーレ、コルネリウスの声。皆が駆け寄ろうとしているのに、旧アーレンスバッハの騎士達が阻んでいる。

 やっぱり、最初から全部セットで計画していたのね。

 霞む視界の中で、わたしはそんなことを考えた。わたしを引きずり出して、衆目の前で打ち倒す。それがこの計画の目的だったのだ。計画通りだというなら次は何をするつもりだろう、ということだけが気になった。

「さようなら、偽物の女神の化身」

 ダークマインが目の前に立った。その顔を見上げながら、わたしは気がついた。彼女の左手が、衣服の内側で何かを握っている。

 小さな、けれど鈍く光るものだった。魔石だ。それも一つではない。複数の魔石が、彼女の掌の中で砕けながら光を失っていく。

 わたしは直感した。彼女の力は彼女自身のものではなく、誰かの魔力を魔石に蓄えて、それを使い捨てにしながら戦っている、継ぎ接ぎの力だということを。だから最初からあれほどの力を出せた。だから最初の攻撃から全力だった。魔石には限りがある。時間が経つほど不利になるから、一気に決めようとしていたのだ。

 ……つまり、長引けば長引くほど、わたしに有利になる。

 まだ、終わっていない。ゆっくりと、わたしは柵に手をついた。まだ痺れが残っている腕に力を込める。ガクガクと震えているが、それでも動いた。

「……ねぇ、あなたは本当にそれでいいの? 人を怯えさせて、恐怖で支配して。それが女神の化身のすることだと思っているの?」

 ダークマインは一拍も置かずに答えた。

「えぇ、人は力に従うものです。慈愛などという幻想で人は動かない。動かすのは、恐怖と圧倒的な力だけです。あなたはそれを知っていながら、知らないふりをしている」

 周囲が静まり返った。

「……わたくしが?」
「あなたは他者に愛されたいのでしょう? でも、愛される化身と従わせる化身、どちらが本物の神の力を持つか、お分かりになるかしら」

 その言葉は、的外れだった。わたしは別に女神の化身として崇められたい訳ではない。勝手にそう呼ばれているだけだ。けれど、それを彼女に説明したところで、理解されるとは思えなかった。だからこそ、別のことを言わなければならない。

「わたしね」

 柵に手をついて、ゆっくりと立ち上がりながら、わたしは言った。膝が笑っている。背中の痺れがまだ残っている。それでも、声だけはしっかりと出した。ここで倒れるわけにはいかない。

「本が好きなの。それは知っているでしょう。でも本が好きな理由って、綺麗な言葉が書いてあるからじゃないの」
「どうでもいい話だわ」
「そうかしら」

 わたしはどうにか真っ直ぐに立った。足が石畳をしっかりと踏みしめる感覚を確かめながら、ダークマインを見た。

「本の中には、恐怖で支配した者の話がたくさん書いてある。圧倒的な力で人を従わせた者の話が。でもね、そういう話はたいてい同じ結末で終わるの」
「……何が言いたいのかしら」
「恐怖は人の心に根を張らない、ってこと」

 わたしはまっすぐにダークマインを見た。

「力で黙らせることはできる。でも黙った人間は、力が弱まった瞬間に牙を向ける。歴史がそれを証明している。書いてあるのよ、何百冊もの本に」
「だったら力を持ち続ければいい」
「永遠に持ち続けられると思っているの? あなたは今この瞬間も、自分の力じゃなく魔石の力を使い続けているわ。それが継続する力だというなら、魔石が尽きた瞬間に全部終わる。他者から借りた力は、借り続けている間しか保たない」

 ダークマインの表情が、一瞬だけ固まった。

「あなたは今、焦っているでしょう。なぜなら、魔石には限りがあるから。だからわたしを最初から全力で仕留めようとした。でもわたしはまだここにいる」

 今度はわたしも踏み出した。逃げなかった。後退しなかった。魔力攻撃を真正面から受けながら、それでも前に進んだ。衝撃が走り、足が止まりそうになり、背中の傷が悲鳴を上げる。それでも踏み出した。足が石畳を踏みしめる。一歩、また一歩。

「なぜ……なぜ、わたくしに向かってくるの」

 ダークマインの声に、初めて動揺が混じった。

「逃げれば、あなただけは助かるのに」
「逃げたら、伝わらないでしょう。わたしの言葉が」

 わたしはダークマインの、ほぼ目の前まで来た。彼女は一歩後ずさった。おそらく無意識だっただろう。その足が、半歩だけ後ろに下がったのを、わたしは見逃さなかった。そしてその瞬間、彼女の左手の中で、最後の魔石が、音もなく砕けた。

 それまで圧倒的だったダークマインの魔力が、ほんの一瞬、たしかに揺らいだ。まるで炎が風に煽られたように。彼女の体が、わずかによろめき、右足が半歩後ろに下がった。

「……っ」

 気づいていた、とわたしは思った。あなたの力が、あなた自身のものじゃないことを。他者から集めた魔力を魔石に蓄えて、それを使い捨てにしながら戦っていたことを。だから最初から全力で仕掛けてきた。時間が経つほど不利になるから。でもその魔石が、今尽きた。

「諦めない。あなたがどれだけ強くても、どれだけ力でわたしを打ちのめしても、わたしは諦めない。なぜなら、わたしには言葉がある。力で黙らせようとするものに対して、言葉は最後まで戦えるから」
「……黙りなさい」

 ダークマインの声に、初めて焦りの色が滲んだ。

「あなたが恐怖で支配した人は、あなたのことを語り継がない。恐ろしかった、と本には残るかもしれない。でも誰も、あなたの言葉を覚えない。あなたが何を望んでいたか、何を信じていたか、誰も知ろうとしない」
「黙れ!」

 魔力が放たれた。しかし、先ほどまでとは比べものにならない。揺らいだ炎のように、その輪郭が乱れていた。わたしは横に半歩ずれただけで躱した。

 ダークマインが、初めて動揺した顔を見せた。

 周囲の学生達も気づいている。さっきまで全力で後退していた学生達が、足を止めて演習場を見つめていた。何かが変わった、と感じているのだろう。

「そして、その力は最初からあなた自身のものじゃなかった」
「……何のことかしら」
「魔石よ。他者の魔力を蓄えた魔石を、ずっと使い続けていた。わたしの魔力量に対抗できていたのは、それが理由でしょう。他者から借り集めた、継ぎ接ぎの力で。あなたが信じていた力は、最初から嘘だった」
「うるさいッ!」

 彼女自身の魔力が、爆発するように解放された。演習場全体が揺れ、学生達が悲鳴を上げて後退する。けれど、わたしは動じなかった。今度こそ、全力で受け止める。

「守りを司る風の女神シュツェーリアよ 側に仕える眷属たる十二の女神よ 我の祈りを聞き届け 聖なる力を与え給え 害意持つものを打ち返す 風の盾を 我が手に」

 シュツェーリアの盾が展開した。先ほどよりずっと薄い。けれど凝縮された分だけ、鋭く硬い。残った魔力を全て注ぎ込んだ盾だった。全力だった。これ以上は出せない。ダークマインの最後の魔力が、盾にぶつかった。

 バチバチと火花が散り、盾がビリビリと震える。わたしは歯を食いしばって足を踏ん張った。石畳が削れる感触があり、背中の痺れが再び走り、腕が悲鳴を上げている。しかし、盾は割れなかった。そして衝撃が逆流した。

 ダークマインが悲鳴も上げずに吹き飛ばされ、演習場の石畳の上に倒れ込んだ。彼女の全身から力が抜けていくのが、遠目にも分かった。砕けた魔石の欠片が、彼女の周囲に静かに散らばった。演習場が水を打ったように静まり返る中、わたしはゆっくりと息を吐いた。腕が動かない。魔力がほぼ空だ。足も震えている。

 その静寂を、ダークマインの叫び声が引き裂いた。

「ああぁぁぁ! か、顔が! わたくしの顔がぁ……!」

 倒れたまま、彼女は両手で自分の顔を覆った。慌てた様子で魔術具を確認しようとしているのだろう。しかし、魔力を使い果たした今、それを維持するだけの力は残っていない。衝撃の余波が顔に纏わせていた魔術具を壊したのだ。

 夜空のような髪が、くすんだ黄色に変わり、金色の瞳が、濁った緑色に変わった。アーレンスバッハの暗さを持ちながら、しかし折れてはいない顔。それがダークマインの、本当の素顔だった。

 周囲の学生達がざわめいた。その顔は、わたしとは全く似ていなかった。

 「ローゼマイン様には似ても似つかない」という声が、あちこちから聞こえてきた。今日この場で目撃したことは、この学生達の記憶に深く刻まれるだろう。

 わたしはゆっくりとダークマインに近づいた。その顔を、静かに見下ろした。

「それが、あなたの正体ですか」

 ダークマインは何も言わなかった。ただその瞳に、初めて、何か言葉にならないものが揺れた。

 騎士団がダークマインと旧アーレンスバッハの騎士達を連行していくのを見届けてから、フェルディナンドがわたしの隣に立った。

 いつから来ていたのか。あるいは最初から見ていたのか。フェルディナンドの表情からは読み取れない。無表情なのに、その沈黙がいつもより重かった。

「フェルディナンド様、わざわざ貴族院まで来てくれたのですか?」
「君がまた無茶をするだろう、と思ってな」
「結果的には上手くいったでしょう」
「魔力をほぼ使い果たしておいて、よく言う」

 フェルディナンドは静かだが、その声の奥にわずかな安堵が混じっていた。わたしはそれを聞きながら、こっそり彼に寄りかかった。実のところ、足がかなり限界に近い。立っているだけで精一杯だった。

「……君の楽観は時々心臓に悪い」

 フェルディナンドはため息をついた。長い、深い、諦めと呆れが混じったため息だった。

「あの少女の背後は調べる。旧アーレンスバッハの残党が絡んでいる可能性が高い」
「お願いします。フェルディナンド様」

 フェルディナンドはわたしを一瞥してから、静かに言った。

「君は今日のところは休みなさい。魔力が空に近い」

 わたしは口を閉じた。足が震えているのは隠しようがない。今日のところは素直に従うことにした。

 わたしは演習場の出口に向かいながら、もう一度だけ振り返った。広場には誰もいなかった。けれど石畳には、あの戦いの痕跡が残っていた。焼け焦げた跡、削れた石、飛び散った砂。そしてダークマインが倒れた場所に、砕けた魔石の欠片が、まるで彼女の継ぎ接ぎの力の残骸のように、静かに散らばっていた。

 今日ここで起きたことを、演習場にいた全員が覚えているだろう。ライデンシャフトの槍を学生達に向けた少女と、シュツェーリアの盾で守ったわたしと、魔石が尽きて倒れた偽りの化身と。その光景はきっと語り継がれて、いつか誰かが文字に残すかもしれない。

 文字に残れば、いつか本になる。どんな奇跡より強く、どんな剣より遠くまで届くのが言葉の力であり、それがわたしの信じる戦い方だった。

— End —

Comments 5

みゆきち23 天前

貴族院内の出来事。アーレン残党でもアレキにお咎めがいかないですか?

T
tk26 天前
Sticker
ひまじんホーム26 天前

タイトルギャグかと思ったら、めっちゃアツいバトルで別の意味で笑ってしまった。

Sakuria
Where every work blooms
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