月にうさぎは住んでいるのか。
住んでるならば、どんなうさぎなんだろう。
楽しげに毎夜祭りをしている?
忙しく餅をついている?
月から見えるうさぎは一羽だけれど、月のうさぎは何羽いるの?
子ども達の無垢な質問にうさぎのいない唇の三日月をさらに深めて、伏せていた紙芝居を上げてやった。
純情な子ども達の瞳と、夢物語と知っている大人の目が一つ。
瞳の奥に仕舞われた思いなんてつゆ知らず、月が運んできた夢物語の題名を読む。
─── 「《月からきたうさぎ》」
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「むかしむかし、ある満月の夜、月に住む金色のうさぎが地球の森に落ちてきました」
空よりも遥か向こうにある星々の海に浮かぶ金色の月から、一羽のうさぎが地球に向かって落下している。
祭りではしゃぎすぎた若いうさぎが足を踏み外して落ちている様は、まるで月のカケラが流れ星になったかのようだ。
星月夜の中、落ちた先は深い森。大きな年老いたブナの木が金色のうさぎを受け止める。
「『やれやれ、こんなことは千年も生きてきてはじめてだ。よしよし、心配しないで、ここでやすむがいい』」
家族も友達もいない見知らぬ土地。
大好きな故郷は空の遥か向こう。
己の短い手では到底届きそうにない。
ブナの木のほらあなで震える金のうさぎの何とも可哀想なことか。突然一人になる心細さと孤独感に覚えのある者は……この場に二名ほど。
渦巻く感情を表には出さずとも、思うところはあるに違いない。だって、自分はそのうちの一人だから。
金色のうさぎはあっという間に森の人気者になった。
月から見える地球の青く輝く美しさ、それゆえに宇宙で一番美しいと言われた森の動物達が自分達が住むこの地球を誇りに思った。
自分達が住むこの世界を外から見たことはないが、地球が青く美しいと言う彼女の目に偽りは見えない。地球を見たことはないが、それを伝えるその目は美しいと思う。
「けれど、目がたつにつれ、月のうさぎはさびしくなりました。月がでた夜は、3倍かなしくなりました。だって、あの月にもどることはもうできないのですから」
なんとなく空を見上げた。
見慣れた青に溶けるようにうっすら見える月。
明日は満月か、と思うだけで寂しさは湧き出てこない。月を故郷だと思わないからこそ平坦な気持ちでいられるだけ。当たり前だ。
「ある日、月のうさぎは、いずみのそばで森のうさぎと出会いました。
『やあ、ぼくは……』『知ってるわ。月から来たうさぎさんでしょう』。
ふたりは、出会ったときから気が合うのにびっくりしました」
ほのかに香り始めた恋の予感に、紙芝居を見ていた子ども達がワァッと小さく湧き上がる。うさぎの孤独か終わる兆しに希望を見たのかもしれない。
紙の中で金のうさぎと白いうさぎが互いに手を取り合っている姿を泉が映し出す光景は神秘的の一言であった。そして、どこか少しだけ羨ましさも生まれてきたのには目を背けておく。
─── 愛は悲しみを忘れさせました
その台詞と共に見せられた光景は幸せを具現化したものかもしれない。
体を弾ませる二匹のうさぎ。
コケモモの原っぱ。
リンドウの丘。
青い森と澄んだ空。
なにげない景色も全てキラキラ輝いている。
「ハゼの葉が色づいて秋がきたのを知らせた日、うさぎの夫婦に、父親とおなじ金色のあかちゃんが生まれました」
母の腕に抱かれている小さな金色のうさぎに、子ども達の可愛いコールが飛び交う。家族仲慎ましい光景に彼も彼も表情を緩ませ、紙の中で森の動物達に祝われている新たな命を目に焼き付けた。
紙が捲られ、場面は夜の森だ。
ブナの木の前で金のうさぎが何かを土に埋めている。その様子を母親が微笑ましく眺めていた。
金のうさぎが土に埋めていたブナの木の種が芽を出す頃には、きっと子どもも大きくなっていることだろう。
差し込む一筋の月光に照らされる彼らの姿は今にも消えそうで、どこか物寂しく感じた。一筋の光の中で舞う光の粒が金のうさぎの体の一部のようで、そのままうさぎを空に連れて行きそうだ。
場面は突如一変した。
冷たい暗闇が一瞬で赤に変わる。次の光を掻き消すほどの赤の中で、金のうさぎがどこかから落ちている。近くには黄色の花が三本。その向こうでは太陽を背に人の影が三人。その手には火縄銃を持っている。
それだけで事態を飲み込めてしまう年である子ども達の息を呑む音がした。
「長い冬がおわるころ、春をまちかねたうさぎの夫婦が、タンポポをたべにでかけたとき、運悪く,かりゅうどにみつかってしまいました」
銃声を鼓膜が勝手に響き渡らせる。
鼻が硝煙の匂いを蘇らせる。
体が、勝手に引き金を引いた感覚を思い出させた。
「『やっ、金色のうさぎだ!』『これはめずらしい!うて!』。かりゅうどは月のうさぎを追い詰め、その心臓目掛けてドドーン!と撃ちました。月のうさぎはいっしゅん高く飛び跳ねて、崖から落ちていきました」
「「「「うさぎィィィィィ〜〜〜!!?」」」」
子ども達の悲鳴と共にまた紙が捲られる。
森のうさぎ、母うさぎが命からがら戻ってきては叫びながら子うさぎを抱きしめていた。
「『父さんが殺された!』と言われた子うさぎは目を丸くします。母うさぎは子うさぎを見て『このままではおまえも殺されてしまうわ』と言いました」
ブナの木も怒りに震える中、子うさぎの『父さんは、もう帰らないの?』という問いがとてつもなく胸に痛い。彼女の演技で声が震えているため、尚更心の臓が凍った感覚を覚えた。
人間というものは遠慮なく森に入ってくる生き物だ。彼らから子うさぎを守るために、ブナの木やカエデの木に宿る精霊達が子うさぎを月に返すための舟を作ろうと提案した。
「それでは、森の魔法をつかうとするか」
魔法という言葉に心がくすぐられる。それだけでワクワクしてしまう少年心がまだ残っていたことに驚きだ。だが、その魔法が使われようとしているのは子うさぎをこの世界から逃すため。それを思うと遣る瀬ない気持ちが胸の奥で揺れ、少年心も背を丸めて目立たなくなった。
「満月の夜、子うさぎはハナイカダの舟に乗せられました。子うさぎは泣き出し、森に残るといって、みんなを困らせました」
「そうだよね……みんなといたいよねぇ!!」
「自分だけ月に帰るの、ヤダよね!」
子ども達が完全に子うさぎに感情移入しているのを後ろから見つめ、そして彼女に視線を移した。
何を思っているのか。瞼の向こうの瞳は光り輝く満月、というより少し曇りがかった朧月かもしれない。
彼女から夜の匂いがした。側からしたら子うさぎを宥める母うさぎのように見えるのかもしれない。けれど、自分にとっては手の届かない月を無意識に恋焦がれる金のうさぎにも思えた。
「『満月の夜は、いつでも会えるわ。安全な月へ帰りなさい!』」
会える、のだろうか。あんな遠いのに。
自然と目が空の月を見上げる。何人かの子ども達もそうだ。
濃紺に呑まれそうな夕月夜を視界の端に、意識は紙芝居へと戻す。紙の中では子うさぎがハナイカダの舟に乗って風と共に空へと舞い上がっていた。
「金色のうさぎを乗せたハナイカダの舟も、月の光にすいよせられるように大空高くのぼっていったのです」
ハナイカダには植物の名前ともう一つ意味がある。散った桜が水面に浮いて流れていく様を筏に見立てた言葉を"花筏"という。
子うさぎが月に帰る場面がどこか儚げに水を流れる桜にも見えたのだ。今年咲いた花にはもう会えない。我が子を思う母の気持ちとはまるで違うが、物悲しさの種類は似ているかもしれない。
「月のうさぎの子どもは、こうして月に帰ることができましたが。カをつかいはたしたブナの木は、ねむるように死んでいきました」
朧月夜の空気を纏う彼女が微かに目に月光を取り戻した。
「しかし、うさぎの親子がにうめたブナの実がすぐそばで芽をふき、すくすくとのびはじめています」
雲の切れ間から覗かせる月白に目が離せない。こちらの視線に気づいた彼女が唇を三日月に変えた。ああ、彼女は2つ、月を持っているのだ。
「その日からずっと、なきとおした母うさぎの目は、いちだんと赤くなりました。満月の夜は、なかまを代表してオオカミが月にほえるのも、すっかり習慣になってしまいました。……そしていまも、月のうさぎは地球をなつかしんで、手をふっているのです」
─── おしまい
最後のページに描かれた芽を出したブナの木の絵で、うさぎの物語は終わった。
気づけばもう辺りは真っ暗だ。鬼ババ軒に来たのは授業終了後の午後だが、こんなにも長居してしまった。それほどうさぎの話にのめり込んでいた証拠だ。
「ほら、ちょうど月のうさぎも起きてきた頃だ。今度はあんたらが寝る番だよ」
「うさぎは?月に帰った後どうなったの?」
「知らね。元気に生きてんじゃね?」
「ほーらやっぱりそこは投げやりじゃん!この鬼ババーー!!」
「「「「鬼ババーーーー!!!」」」」
「んっだとガキンチョ共!!」
いつも通り彼女が目くじらを立てれば笑って走り回るは組の子ども達。その様子を見守りながらも長屋に帰るよう促した。
「お前達、そろそろ帰ろうか。風呂に入って、ご飯食べて、予習復習して寝るんだぞ」
「「「「「予習復習???」」」」」」
何それ今初めて聞きました、みたいな目を寄越してくる生徒達にお決まりのズッコケを披露する。
「今日の授業でやっただろう!火遁の術とか!」
「おれの苗字?」
「それは団蔵の加藤!」
「家を識別するための……」
「それは家紋!」
「温度を上げる……」
「それは加温!温めるな!」
「火遁の術とは敵の注意を逸らすために火を放ったりすることだよ」
「庄左ヱ門〜〜〜〜!!」
さすがはは組の学級委員長、You are 希望。
一方、鬼ババと呼ばれていた彼女の答えはこうだった。
「えっ、口から火を吹く術じゃないの?」
「できるわけないだろう!奇術師じゃないんだから!」
「じゃあ水遁の術も口から水吹くんじゃない感じ?」
「当たり前だ!あと何でもかんでも口から出そうとするんじゃない!……ああ、胃が」
「ほら、あんたらがへんちょこりんな答え出すから土井センの胃が悲鳴上げてんぞ」
「今のどう考えてもお姉さんのせいでしょ」
「鬼ババ忍術・神経性胃痛」
「あんたら人に罪をなすりつけるんじゃない。それだと胃痛の原因が全部私になるでしょーが」
あーだこーだ言っているがここにいる全員が原因であることをそろそろ理解してほしい。
本格的に月が光を取り戻してきたので生徒達に帰宅の促しを再度かけた。
「「「「おやすみなさいお姉さーーん!」」」」
「はーいおやすみ。また明日」
は組達が元気に闇に消え、ここに残るは大人2人となった。
月光を飾る彼女の横顔を盗み見してみる。子ども達が消えていった闇の先をじっと見るその顔は一体何を考えているのか。
たまに見せる知らない顔にもやっとするこの胸の違和感は何なのか。
「そんじゃ、土井センも早く休みなよ。また胃痛が激しくなるぞー」
誰のせいだ、誰の。
「ええ、おやすみなさい」
胃痛だけじゃない、微かに胸の奥も痛む。
ああ、その知らない横顔で一体何を考えているのか、全てこちらに伝わってくればいいのに。
月のうさぎの話をしてから翌日、この日は朝から授業資料の依頼が一斉に来て仕事三昧の一日だった。
依頼人の松千代先生は恥ずかしがり屋にて資料ができても中々見つからないし、安藤先生はギャグが寒くて長いし、シャド先は湿度高いしで久々に慌ただしい日だった気がする。
気づけば日は暮れていて、己の長屋に帰る途中で土井センと鉢合わせた。
「あれ、土井センどこかにお出掛け?」
「ああ。少し所用ができてな」
「そ。こんな時間からご苦労様。気をつけていってらっしゃい」
「……いってきます」
柔らかく微笑む土井センはいつもと何ら変わりないのに、今日はどこか違和感を覚えた。どんな違和感かと問われれば答えなんぞないが、嫌な予感といえばいいのか胸に引っかかる感覚がよぎった。
ここでただ通り過ぎたらいけない気がして、振り返って土井センを呼ぼうかと考えた直後に向こうから呼び止められる。
「……土井セン?」
「あっ、いや……特に用はなかったんだが、何となく呼んでしまった。すまん」
「別にいいけどね。……気をつけて。きり丸に心配かけないよう早く帰ってくること」
「ハハ、肝に銘じておこう。あなたにも依頼したい仕事がまだあるからな」
「ヘイヘイ、予約枠空けて待っててやるよ」
いつもはこんなやりとりなんてしないが、今日は珍しく二人してらしくない会話をしている。多分向こうも同じことを考えているだろうが、それを指摘するほど野暮ではない。
「じゃあ、そろそろ行ってこよう」
「ん、いってらっしゃい」
互いに手を振った後、同時に行く先へと方向を変える。視界ギリギリまで目を合わせていたのもたった数秒。向こうが視界から消えた瞬間、またしても胸に嫌な予感が湧き上がった。最後にもう一回だけ、と振り返ったがもうそこに土井センはいなかった。
空を見上げれば、待ちきれなかったのか月がもう存在を主張している。その壁面に浮かんでいるうさぎがニタリと笑っている気がしていやに不気味だ。
「あんなうさぎが落ちてきたらたまったもんじゃないよな」
睨んでくるうさぎを睨み返して、再び足を進め、朝から戻らなかった長屋へと帰宅した。
この日から、土井センは帰ってこなかった──
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土井センが帰ってこなくてどれくらいだろうか。
あれからそれとなくダンおじとかに詳細を聞いてみても出張としか言われず、それ以上は教えてくれなかった。とはいえ、向こうも先生とはいえ忍者である。たかが一般人で学園の居候に教えるわけもないかと自身に納得させ、言われた通りの仕事をこなす毎日に戻りかけていた。
一つ、日常に変化があったといえばだ。
「失礼しまーす。これ、今日の範囲の資料。お間違いない?雑渡先生」
本来ならこの教壇に立つことはないであろう人物に紙の束を差し渡す。隣の若造が「おい気安いぞ!」と憤っているが、いつも通りにスルーを決め込む。
「ああ、ありがとう。相変わらずわかりやすくて助かるよ」
いつもは人にイラストを強請るイタ客も今日はきっちり先生をしていた。そのせいか、見ないふりをしていたが、背後ではは組の生徒達が散々扱かれたようでグッタリと疲弊している。
土井センが出張から帰ってこない代わりに何故か雑渡さんが授業をするという、何とも珍しい試みだ。他の先生達ではなく雑渡さんという忍術学園の者ではない人に任せる辺り、何かあるのかもしれない。だが、それを知る由もないし、何より居候の怪しい女に教えるわけもないのだ。
「じゃ、あんたら授業頑張りなよー」
「えーー!お姉さん行っちゃうんですかぁ!?」
「一緒に授業受けましょうよ!」
「残念ながらこの後も仕事あるんですー」
「鬼ババーー!!」
「今鬼ババ関係ねぇだろうが!!」
子ども達の縋るような声をそれとなく受け流し、雑渡さんとモロ出しに一言挨拶して校舎を出た。
やっぱり、何か空気が違う気がする。数日前に仙蔵が土井センの似顔絵が欲しいと言いにきたのも何かの理由があるからか。
6枚ほしいと言われて流石に理由を問うたところ、一年生の頃あの子達の担任が土井センだったようで、慕っていた恩師が出張で寂しいから少しでも寂しさを減らせるように欲しいと言われた。ちなみに文次郎がそう言ったらしい。絶対嘘だ。文次郎が言うわけないし、だからといって6枚もいらないだろ。
「もしかして、行方不明……なんて」
そしたら雑渡さんが教師をしてるのも、似顔絵依頼をしてきた仙蔵の意図も辻褄が合う。最近、見知った六年生の顔を見ないこともそうだ。ダンおじでさえ姿を見せない。
土井センの実力は知らないが、あの若さで先生をやってるくらいだ。ヘボな訳がなかろう。嫌な予感を首を振って追い出した。
「歯痒い……」
自分がこの学園の者ではないと明確に突きつけられた気分だ。
実際そうだし、それは自分でもわかっている。それでも、何も知らされない疎外感が誰でもない誰かに手を伸ばしている。それを砕いて粉々にしたいが、できないでいることが本心だと言っていた。
ふとは組の子達を思い出す。無邪気にくるくる表情を変えていたことから、もしかしたら今の学園の状況を知らないのかもしれない。土井センと同居しているきり丸も同様だった。
きっと学園側が心配させぬよう配慮しているのかもしれない。それならば、こちらも知らないふりをしておいた方がいいだろう。
「………よし、残りの仕事を片付けちゃお」
鏡に布をかけて見えないようにするかの如く、本心を心の奥底に沈め隠した。
「渡した土井センの似顔絵、半分ほどふざけまくって描いてたやつだけどちゃんと役に立ったかな」
イマジナリー土井半子のWANTED、どうか役に立ってますように。
土井センが帰ってこないまま数週間が経過した。
食堂のおばちゃんとのお茶の帰り道、正門を通ったところで帰ってきたきり丸と鉢合わせた。今日はバイトだと聞いていたが、その浮かない顔から失敗でもしたのか。
「きり丸……?」
「……え、あ……お姉さん」
「うん。おかえり。どうしたの、らしくない顔してさ。バイト失敗でもした?」
小さな肩がピクリと動く。これは図星かとも思ったが、きり丸の顔に微かな悲痛の色が混じっていた。道中何か酷いことでもされたのかと視線を合わせて問おうとしたところで、向こうが遠慮がちに服の裾を握ってきた。
「なぁ、お姉さん………」
「んー?」
「あの、さ……」
言おうかどうか迷いがあるのだろう。口を開閉させては渋るきり丸を黙って見守る。やがて、唇を引き結んだきり丸がこちらを見上げた。
「土井先生は……金色のうさぎにならないよな」
「金色のうさぎ……?」
一瞬ピンと来なかったが、すぐにあの話のことだと理解した。
月から来た金色のうさぎ。地球のうさぎと結ばれて、家族を作って……そして、人間に殺された可哀想なうさぎ。
こんなに土井センが帰ってこないのは初めてなのだろう。不安に不安が積み重なって押しつぶされそうなのかもしれない。きつく服を握って俯くきり丸の頭を優しく抱え込んでやった。
「大丈夫。あの土井センだよ?そのうち『いやぁ参った。こんなにかかると思わなかった』とか言って帰ってくるに決まってるって。それにさ、私よりきり丸の方が土井センの実力知ってるでしょ?土井センのこと、あんたがちゃんと信じてあげな」
「………」
「土井センは金色のうさぎにはならないよ。絶対にね」
背中に回された細い腕が微かに力を込めた。それは一瞬ですぐに離される。距離を少し開けたきり丸の表情は少しだけ緊張が和らいでいた。
「そう、だよな……。ありがとう、お姉さん」
手を振って忍たま長屋に帰っていくきり丸を見送った後、思い詰めるきり丸の顔を思い出しながら自身も長屋へと足を進めた。
「ほーら、やっぱり行くと思った」
数日後。門の前で待ち伏せすれば待っていた相手であるきり丸が目を丸くしながら驚く。
「お、お姉さん?何で……」
「あーんな顔してたらまだ何かあると思うに決まってるでしょ。大人を舐めるんじゃない。理由は聞かないけど、そんな思い詰めたあんたを一人にはできません」
「でも……」
きり丸がこちらを頭の先からつま先まで視線を動かす。そう、きり丸が戸惑っているのはこちらが完全に外出する格好をしているためだ。忍たまの同行がない限り外出はダメだと知っているきり丸の驚く理由はよくわかる。
「おれと一緒に行くってこと?」
「そ。ちなみに外出届はちゃーんと出してきました。ほれ、学園長の許可もあんぞ」
雑渡さんに扱かれて魂が抜けているモロ出しにきり丸が外出許可を出していたのを見て、こっそり日にちを把握しておいたのだ。
学園長に『きり丸が土井センの家を掃除しに行くらしくて、一人じゃ大変そうなので手伝ってきます』と素直に言ったら少し考え込まれたが許可をくれた。
「いや、おれは別に平気だから……」
「今日は珍しく仕事がないんだわ。それゆえに暇である。一緒に行かせて」
「でも……」
強情だな、まったく。仕方ない、こうなったら最後の手段である。
「きり丸………手伝ってあ・げ・る♡」
………よし、刺さった。
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「あっっっっらぁ…あらあらあらあらあらあら」
きり丸と手を繋ぎながら土井センの家に向かえば、出迎えたのは見た目からしてパワフルそうなおばちゃんであった。きり丸と手を繋いでいる女を見ては目を丸くし、やがてその黒い目を黒曜石の如く煌めかせる。
「やっっだ半助の奴、そうなら早く言ってくれればいいのに!」
「えー、どなたか存じませんが貴女が今考えていることが何もかも違うことを理解してください」
「半助ったら!嫁をとったのなら何で教えてくれないのよ!」
「嫁違います。あのちょっと、説明するんでこっちの話を……」
「よかったわねきり丸!保護者がもう一人増えて!見た感じ親子に見えるわよ!」
「おばはんいい加減にして。老人性難聴にはまだ早いでしょ」
「そうですよ、隣のおばちゃん。今はおれが保護者です」
「そうだけどそこじゃないよねきり丸くん!」
勘弁してくれよ。聞いてないよ、こんな漫画みたいに近所の井戸端会議が好きそうかつ余計なお節介をかきそうなおばちゃんがいるなんて。
隣のおばはんの好奇の目を何とか掻い潜り、初めて土井センの家にお邪魔した。タソコミの時に空間破りで覗いたことはあるが、こうして家に上がるのは初めてである。
「休みの日はここで二人で過ごしてるの?」
「そうっすよ。先生ったら家賃は払い忘れるし、ご近所付き合いは悪いしで大変なんすよ」
「アハハ!ここじゃきり丸が土井センを尻に敷いてるんだね」
なんとなくわかる気がした。部屋は散らかってないし、無駄なものがない。きっときり丸のドケチによってできた生活で、その中でこの二人が笑いながら過ごしているのだということを家が教えてくれる。
二人の大切な家の掃除を進めていれば、隣のおばはんが連れてきたのかこの長屋の大家さんまで顔を出してきた。
「ほぉ、半助の嫁、とな?」
「違いまーす。同僚みたいなもんでーす」
「よかったな半助。正直このまま独り身を貫くのかと……」
「どいつもこいつも老人性難聴には早すぎると思うんだけど」
「どうせならもう嫁入りすればいいんじゃないっすか?お似合いっすよ」
「私は家庭的な人がいいの。そんなんだったら私はきり丸に嫁ぐね」
「うぇっ!?」
揶揄いのボールをカーブをつけて打ち返せば、案の定きり丸は顔を真っ赤にさせる。大人を揶揄うなんてあと数年は早いっての。
顔の熱がおさまらないきり丸と掃除を終わらせ、おばはんと大家さんの喧しい呼び名をスルーしながらその日は終了した。
そしてまたある日、きり丸と出掛けていたときのことだった。
「待ってきり丸!鴨がやっすいよ!これ今日の夕飯にしよ!」
「えー……贅沢を覚えたら後戻りできないって言ったじゃないっすか。やっぱりここは……」
「バッタ入り雑炊とかほざいたら鼻フック風車の刑に処すかんな」
「ア、アハハハハ〜……そんなわけないじゃないっすかぁ」
「きり丸くーん、可愛いお目目が空中をスイミングしてますわよ。大丈夫、払うのは私だから。この前のタソコミでイタ客と姫からの報酬がどっさり来たのよ」
ドケチの精神がまだ渋ってるらしく、ボソボソと文句を言ってるのが聞こえるがスルーだスルー。バッタ食うくらいなら財布が少し寒くなる方がマシである。こっちにだって譲れないものはあるのだ。
お店の人に鴨を一つと伝えたところで、きり丸が視界の端から姿を消した。慌てて目で追いかければ、びっくりするくらいのスピードで向こうの道を走ってるではないか。
「ちょっときり丸!?」
少しでも目を逸らしたら見失う気がして、店の人に謝りながら鴨を戻してその後を追いかける。
今は太陽が真上にあって明るいが、奥に進めば進むほど緑が濃くなっていく。
日が差し込まない雑木林の中を湿った枯葉を踏みしめながら足を止めずに進んだ。風が葉を揺らして音を奏でるが、ここではそれも不協和音に思える。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだような、御伽噺に出てくる森はきっとこんなふうに霧が深いのかもしれない。
「ここどこよ……」
きり丸は完全に見失ってしまった。何かに取り憑かれたように走り去っていく後ろ姿を思い出し、一つ深呼吸をしてまた足を動かす。
この時代に来てからインドアが増したので体力がとことん落ちているのを実感する。久々にこんなに走ったし、喉の奥は血の味がするし、明日は間違いなく筋肉痛だし。
それでも、きり丸を放って帰るなんて言葉は頭の中に存在しなかった。
「ひゃっ、うおゎっ……!?」
突然爆発音が響いた。
ここからそう遠くはない場所で聞こえてきた大きすぎる音に、反射で体を縮こませる。
いつの間にか森は竹林に変わっていた。さっきよりも視界が良くなってはいるが、肝心の爆発音の原因はわからず終い。とはいえ、その原因にばったり出くわすのもごめんである。さっさときり丸を見つけておさらばするのが一番だ。
あの爆発音のど真ん中にきり丸がいないことを願いながら歩みを進めれば、屋敷を囲んでいるような塀が見えてきた。
目についた竹に隠れられるわけもないが隠れる素振りをして向こう側の様子を伺う。塀をなぞっていけば中への入り口であろう門が見えた。
「グ、グラサンかけた忍者だと……?」
忍ぶという言葉が似合わないほど、グラサンに光を反射させている忍者らしき男に言葉を失う。侵入者が来ないように見張っているように見えるが、自分のグラサンの輝きを誰もいない空中に向かって自慢しているあたりヤバい奴なのはわかった。
アイツに聞くか?あんな頭悪そうな奴に?いや、ここはちゃちゃっと聞いて早くその場を去ればいいだけだ。
虫を触るくらいに勇気を振り絞って一歩踏み出す。
「あ、あの〜〜……ちょっとお聞きしたいことがあるんですけどぉ……」
「んむっ?何だって?この磨き抜かれたサングラスの美しさの秘訣を聞きたいって?」
「おばあちゃんの豆知識みたいなことを聞きたいんじゃなくてですね。あの、この辺で10歳くらいの子どもを見ませんでしたか?」
「10歳くらいの子どもみたいな純粋な美しいサングラス?見てないなぁ。そんなものがあるなら是非お目にかかりたい」
「あるわけねぇだろそんなグラサン。子どもを!見ませんでしたか!」
「子どもに興味はないね」
聞く相手間違えた。グラサンにしか目がないこの野郎に何で忍者が務まるんだろう。
焦りと苛立ちで思わずグラサン野郎の胸ぐらを掴んで般若を思い浮かべながら凄んでみせた。
「子どもはどこだっつってんだよ。そのグラサンごと目ん玉潰されたくなかったらさっさと答えろや」
「ひっひぃ〜〜〜!て、天鬼殿〜〜〜〜!お助けを〜〜〜!!」
「天気?空と運に助け求めてんじゃねぇぞ。いいから子どもはどこか言え」
何故か天に助けを乞い始めたグラサン野郎の胸ぐらをさらに高く上げたところで、背後から体を丸ごと凍らされるほどの空気が集中してきた。
「何をしている」
わかる、ただの一般人でもわかる。これは殺気だ。ダイレクトに浴びた殺気に呼吸をすることも忘れ、体中の筋肉を硬直させた。
「っっいっ……!!?」
首筋にチリッとした痛みが走る。紙で指を切った時よりも深く、薄皮を超え、血管ギリギリまで侵入してきたものに背中を汗がつたったのを感じた。
後ろから生えた刀にゾッとし、ゆっくりと手の力を抜けばグラサン野郎が情けない声を上げながら視界から消えた。
背後で「中に戻っていろ」という冷淡な声とそれに従うグラサン野郎の会話が繰り広げられており、足音が一つ遠くの方に消えた。
「女、何もするな。そのままこっちを向け」
命が脅かされそうだってのに内心舌打ちする自分に天晴れである。アドレナリン効果のお陰なのかもしれない。仕方ない、事情も聞かず女相手に刃物を突きつけたノットジェントルマンの顔を拝んでやるか。
どんな顔をして振り向いてやろうかと考えつつも結局無表情へと辿り着き、冷め切った目で前を向いて…………見開いた。
「ど、土井セン…………?」
息を呑んだ。刃物を突きつけてくる人物は見覚えのありすぎる顔だった。
一ヵ月姿を見せず、音沙汰もなかった男が今、目の前で闇を背負って立っている。土井センの顔をした男は「土井……?」と漏らしては眉を顰めた。
「女、貴様、忍術学園の者か」
「何、言ってんの、土井セン……。どんだけ心配したと思ってんのよ!きり丸だってあんたのことずっと待ってたんだよ!?」
「きり丸………?誰だそいつは」
言いたいことは山程あったはずなのに、純粋に放り出されたその言葉が火となって煙のように消えていった。
「う、そ、でしょ……きり丸だよ?あんたの大事な生徒でしょ?」
「土井といい、きり丸といい、先程の鼠共も同じことを言っていた。やはりお前、忍術学園の者か」
再び刃が肌に食い込む。同じ傷口にピッタリ食い込んだ刃がジクジクと痛みを生じさせる。首を何かが伝う感触がしたから、これはきっと血が流れているに違いない。アドレナリンで今は痛くないが、後からきっと遅れて襲ってくるだろう。
「私はっ……」
きり丸のことを知らないなら当然自分のことも知らないはず。
答えようにも、なんて答えていいかわからず言葉を切った。
そう、だって、自分は忍術学園の人間じゃない。ただの居候で、捕虜で、部外者だ。こんなところで見ないふりしていた疎外感が顔を覗かせてきた。
「私は………」
歳も近くて、それなりに仲良いと思っていた相手にも忘れられて。
こんなに敵意を向けられて。
何より、土井センがきり丸を忘れていたことの方がずっとショックだった。忍術学園の人間ならもっと何か言えたはずなのに、出せる言葉が限られていて悔しさが募る。
「私はっ……忍術学園の人間じゃないよ」
身は置いている。それだけだ。信用は最初からされていないに決まっている。だって、出自もわからない怪しさ満点の女だもの。
土井センだって、そうでしょ?
「ただの、あんたと顔見知りの普通の女だよ」
視界が歪む。自分で言った言葉に勝手に傷ついて。
涙の向こうで揺らぐのは優しく微笑む自分の知ってる彼だけど、その揺らぎが地面へ零れ落ちれば、そこにいたのは自分の知らない彼。
「………」
感情のない目に動きはない。けれど、肌に食い込んでいた刀が離れ、白装束が隣を通り過ぎていく。
「泣いている女を斬る趣味はない。関係がないのならさっさと去ね」
脅威ではないとわかったのか、土井センの顔をした男は一瞬で姿を消した。
そこに残されたのは糸が切れた玉の首飾りのように涙をボロボロ地面に落としている女だけ。
土井センの記憶がない悲しさと、自分の不安定な立ち位置が情けなく、悔しさと虚しさで頭がいっぱいだ。
「きり丸に、なんて言おう………」
真正面から見たあの顔は、流れが止まった川底のように冷たく、そしてどこか空っぽに見えた。その真意をきっとこの先も彼は教えてくれない。
生きてはいた。けれど、何もかも忘れている。こんなの………
「金色のうさぎと同じじゃんか………」
先程のグラサン野郎はてんきと呼んでいた。ということは、ここでは土井半助と名乗っていないのだろう。
あの人の中に土井半助はいない。
もう、帰ってこない。
かりゅうどに狩られた月のうさぎのように。
「土井センのバカちんが………」
重い足で来た道を戻る。
少し歩いて、足を速めて、やがてスピードを上げた。
走る体が曼珠沙華が作る道を通り抜けていく。サワサワと揺れる赤い花が嘲笑っているようで耳を塞ぎたくなるが、今はどうしてもきり丸を抱き締めたかった。顔を合わせたら何を言っていいかわからないかもしれない。けれど、体が今すぐきり丸に会いたいと叫んでいた。
曼珠沙華の道を抜け、オレンジと濃紺の地平線を目掛けて精一杯足を動かしたのだった。
重い空気が部屋に篭る。
ずっと帰りを待っていた担任を見つけたと思ったら、何故かボロボロの六年生達に連れ帰られ今し方事情を説明されたきり丸に言葉はない。
俯いたまま表情が読めない少年に対し、学園長と山田先生が優しく諭し、きり丸を長屋へと帰らせた。その後ろ姿があまりにも痛々しく、見送った六年生達は心の中で謝ることしかできないでいた。
「お姉様……大丈夫かな……」
きり丸と外出しているとは知らず、天鬼の正体を早く知らせるために帰ってきてしまったが彼女は無事帰って来られるだろうか。
辺りはもう真っ暗だ。一人で外出したことない彼女が暗い中帰って来られるとは思えない。明日になれば道も陽の光で照らされる。それを頼りに帰ってきてくれれば、と願うばかりだ。
そんな時だった。
正門の方で小松田の文句垂れる声が聞こえてきた。
───お姉ちゃーん!入門票にサインしてください!その後保健室!
───だーっ!今それどころじゃないんだってば!きり丸はどこ!無事なんでしょーね!
───無事ですからサイン!と、保健室!
───もう筆持つのもめんどいからこれでいいな!
───ええ〜〜〜っ!?これじゃあ読めないですよ〜〜お姉ちゃんガサツゥ〜
誰かの小さく息を呑む音がした。
伊作と仙蔵の表情が徐々に明るくなっていき、留三郎は障子の外から目を離さず、文次郎と長次はホッと肩を撫で下ろし、小平太は声を出さずにニカリと笑った。
学園長と山田先生も彼女の無事がわかって表情を緩めたその直後、彼女ときり丸の会話に顔が強張った。
───あ!よかった、きり丸!
───え、お、お姉さん……?
───無事だった〜〜!マジでよかった!生きた心地しなかったって!もう、急に走り出したから何かと思ったじゃんよ!爆発音が聞こえたけど、あんた巻き込まれてないよね!?
───おれは……大丈夫です
───家帰ってもいないし、おばはんに『DV!?』って言われたけど、まぁいいとしよう
───ごめんなさい………ねぇ、お姉さん…
───何よ、泣きそうな顔して。怒ってないから。無事でいてくれただけでいいよ
───違う、お姉さん………首、血が……いっぱい……
障子がパァンと音を立てて開かれ、二つの影が飛び出た。その後を追うように、また部屋に残像が四つ生まれる。残された大人も深刻な顔をして顔を見合わせ、残像を残すまでではないが声のした方へと足を踏み出した。
「ああ、大丈夫大丈夫。枝に掠っただけだからさ。見た目ほど痛くないんだよねぇ」
「「お姉様!!」」
彼女を呼ぶ声は二つ。だけど一番乗りに辿り着いたのは留三郎だった。
彼女の白い首に刻まれた傷に言葉ごと息を呑んだ。後から追いついてきた六年生達も首元を紅く染めた彼女に絶句である。
「お姉様!酷い怪我じゃないですか!今すぐ手当しましょう!」
「あんたらに言われたかないよ。どう見てもそっちの方が重症でしょうが。特にあんたよ、伊作」
彼女の白い目をスルーし、伊作が救急箱を取りに戻る中、留三郎はふらふらと近寄り、傷口に触れぬよう周りの赤を優しく拭いとる。
「……大した傷じゃないんだから、そんな顔しないで、お留ちゃん」
「大した傷じゃないって………」
これは枝で掠った傷なんかじゃない。この切り口は刃物でできたものだ。どう見ても刀傷である。
最悪の予感が思考を巡る。爆発音を聞いたということは彼女はもしかしたらあの近くにいたのかもしれない。そして、この綺麗すぎる切り口。
「本当、見た目ほど酷くないの。だから心配しなくて大丈夫!」
そんな腫らした目で何を言うか。
薄暗いからきり丸は気づいていないかもしれないが、こちらからすればわかりやすく目元が赤くなっている。一瞬で泣いたとわかるほどの腫れ具合だ。
誰が泣かせた、なんて聞けるはずもない。
血を拭った手とは反対の指で目元を撫でてやれば、こちらが気づいたことを察したのか目を伏せて弱々しく笑われる。
「心配しないで、ね?」
ああ、彼女は知ってしまったのだ。
さっきからきり丸を悲しげな目でチラチラ見ている。それが全てで、答えだった。
そこで伊作が救急箱を持って割り込んできた。大人しくその場を譲れば、近くに学園長達も来ていることに気づき、後ろの同級生達の隣に並ぶ。文次郎の何とも言えない視線が少し鬱陶しい。
「よくぞ、無事に帰ってきた」
「無事、といっていいかわからんが、よく帰ってきてくれたな」
「いいえ、そんな……」
「手当を受けながら話を聞かせてもらっても?」
「ええ、構いません」
「うむ。………きり丸、お主は先に長屋に戻っておれ」
「でもお姉さん……」
担任は記憶を失くし、共に外出していた彼女も血塗れで戻ってきたことできり丸の不安は一層増していた。彼女の着物の裾をギュッと握って離そうとしない。そんなきり丸の頭を撫でたのは彼女本人である。
着物を握る手を包み、視線に合わせてしゃがんだ彼女は小さな額を己の額に合わせてやる。
「大丈夫。少し話をするだけ。後でちゃんと顔出すから、先に戻ってて。なんなら私の長屋にいてもいいからさ」
「………ゔん」
素直に頷いたきり丸が踵を返したとき、震えた声が呼び止める。
「ごめんね。うさぎ……何色かわかんないや」
「………おれもです、お姉さん」
二人が言ううさぎが何なのか、この場にいる者は誰一人としてわからない。けれど、そのうさぎが土井先生のことを指していることだけは察せた。
何故うさぎなのか。そのうさぎの色が何なのか。
嫉妬ごと置いてけぼりにされ、この気持ちの行き場がわからない。
・
・
・
首を丁寧に処置された彼女の長屋で少ない会話をした後、自分の長屋で夜を明かす。
誰にも言っていない決意を固めるように草履の紐をギュッと縛って長屋を出ようとしたところ、背後から名を呼ばれた。振り返ればそこにはは組の級友達。心配そうにこっちを見る目に決意が揺らぎそうになる。
「「私/ぼく達が聞いてあげる!!!」」
『あげる』の銃弾が見事に心の臓を撃ち抜く。素直さも売りのドケチ精神と学友達の優しさに込み上げるものがある。そして、込み上げたものが溢れ出て、それを受け止めてくれるであろう友人達に思いの丈を吐き出した。
「おれはっ、土井先生に会いたい!」
六年生達も会った。お姉さんも会った。なのにまだ自分だけ会えていない。
己の決意に乗っかってくれた友人達。きり丸のアルバイトに着いていく程で外出することに決まったところで、虎若が言った。
「お姉さんには言わないの?理由を言えば手伝ってくれるんじゃない?」
「お姉さんは………」
これはあまり言いたくなかった。土井先生が彼女に怪我をさせたことを。いいや、自分が認めたくないだけかもしれない。事実だとしてもまだ信じられないのだ。話してしまったらそれを認めてしまうことになる。
話せば来てくれるだろうが、あんなことになってしまったお姉さんにこれ以上無理はさせたくなかった。
「掃除のしすぎと歩きすぎで筋肉痛が酷くて歩けないんだ。これ以上動いたら起きれなくなるからやめておこうぜ」
「「「あーー……………」」」
鬼ババ、戦力外認定により不参加。
今日はやけに静かだ。
授業がなく、休みの日は賑やかになるのに随分とシンとしている。休みの日であればは組の誰かが顔を出すのに今のところ誰も訪問して来ない。
またしても嫌な予感が募り、直感で正門の方へ向かった。ちょうど小松田が正門前を掃いていたのであの子達について尋ねてみた。あっさりと答えが返ってきた。
「バ、バイト……?」
「そーなんですよぉ。きり丸くんが門限破ったばかりなのにみんなで着いていくって聞かなくってぇ」
ブワリと汗が吹き出した。
「あの子達っ………!」
まさか、全員で土井センのところに行ったのか。
心臓の動きが速くなるのに、血の気は失せていく。焦りと動揺が体を動かし、正門を潜ろうとするが門番がそれを許すはずもない。
「ちょっとぉ〜〜!どこ行こうってんですか〜!」
「あの子達んとこだって!このままじゃあの子達……」
「も〜〜乱太郎くん達なら大丈夫ですって〜!」
出門票のファイルでポンと頭を叩いてくる小松田に目をパチクリさせる。今までこんな小突き方されたことないので面を食らった。
「は組は実戦経験がありますから、なんだかんだ乗り越えちゃうんですよぉ。だからバイト中でも心配ありません!そんなことよりお姉さんの方が心配です!ほらほら、そんな大怪我してるんだから休んでくださいよぉ〜〜」
「こ、小松田??」
何か今日様子おかしくない?いつもならホエ〜とか言いながら「じゃあ出門票にサインを〜」で終わるはずなのに。
有無を言わさず背を押されて保健室まで連れて来られる。
「それじゃあ僕はこれで〜」
手を振って去っていった小松田に終始頭の中がハテナでいっぱいだ。保健室にいた伏木蔵が「鬼姉様の首はスリルとサスペンスの産物〜?」と聞いてくるがそんなんじゃないのでスルーしておく。
すると、ドタバタと慌ただしい足音が聞こえ、保健室の障子が勢いよく開かれた。先程まで話していたはずの小松田である。
目を釣り上げてかざしてきたそれは血がべっとりついた出門票だった。
「お姉ちゃん!昨日の血判でのサイン!下の紙まで汚れちゃったじゃないですか〜〜!どうしてくれるんですかぁ〜〜!」
「紙一枚くらいいいでしょーが!てか文句あんならさっき言えばよかったじゃん!わざわざ戻ってきて御苦労様だなドジっ子!」
「はへぇ?」
小松田がキョトンと目を丸くしてそのまま首を傾げる。
「今日僕がお姉ちゃんと会ったの、今が初めてですよぉ?」
「…………………は?」
・
・
・
「なー飽きたー」
梟が夜を囁く森の中。
ドクタケの動向を見張るため、木の上で忍んでいた五年生達が神経を張り巡らせている。だが、その緊張感を風に乗せてどこかに飛ばした三郎が気の抜けた声を漏らした。それを咎めるのは八左ヱ門、雷蔵はドクタケの動向をメモしながら苦笑いするばかり。
「心配なのはわかるけどさ」
「土井先生なら、絶対帰ってくるよ」
「勿論、土井先生もだけど……」
僕が心配してるのは、とチラリと雷蔵は目だけを動かした。呑気そうに木の幹に寄りかかって欠伸をしている相棒に片眉を上げる。やる気なさそうな割にはちゃんと対象から目を離さないのだからその優秀さには舌を巻く。
任務はちゃんと遂行するし、あーだこーだ言うもの敵から意識は背けていない。ただその片隅に心配事があるだけなのだ。
あの人が血塗れで帰ってきたとき、たまたま自分達は外にいて、微かな騒ぎを聞きつけて迎えば六年生に囲まれた彼女がいた。すぐに先生達の長屋に消えてしまったけれど、彼女が何かに巻き込まれたことだけは察せた。
そして、隣から流れてくる空気が一変したことも。
微かな揺らぎと紙で指を切るようなピリッとした小さな尖り。見なくてもわかる、きっと自分じゃできない表情をしているのだろう。
その日はそれだけで、特に何も行動せず終わった。
次の日、朝起きたら隣に三郎がいなかった。
もしかしたら怪我をした彼女の様子を見にいってるのかもしれない。邪魔はしたくないが、残念ながら今日は学園長からの任務が言い渡される日だ。時間に間に合わないといけない、申し訳ないが呼び戻さないと。
忍たま長屋を出て右を曲がったところで、向こうの保健室前で彼女が小松田さんに背を押されているのが見えた。
あれ、彼女があそこにいる。ということは、三郎はあの人のところに行っていないのか?
じゃあ、三郎はどこに行ったんだ?委員会関連の仕事か?それとも食堂?時間もないし、どっちを先に覗けばいいか、と迷宮に入りかけたところで目の前を突風が過ぎ去った。
「も〜〜お姉ちゃんったらぁ!これじゃあサイン貰えないじゃないですかぁ〜〜!」
あれ、小松田さんがいる。じゃあさっきの小松田さんは?
真相を確かめるべく正門の方から回って保健室に行く。そこでは伏木蔵を置いてけぼりに言い合いをしている彼女と小松田さんがいた。
「今日僕がお姉ちゃんと会ったの、今が初めてですよぉ?」
「…………………は?」
この会話だけで全てを察せて、思わず笑い出してしまった。それに気づかないわけなく、彼女と小松田さんがこちらを振り返る。
「あれ、らいぞー?」
「不破くん?どうしたんです、そんなところでぇ?」
「お怪我ですかぁ〜〜?」
「ああいや、違うんだ。僕は怪我してないよ、伏木蔵」
こちらの顔を見た途端、彼女がハッとして眉を顰めてにじり寄ってくる。
「らいぞぉ〜〜〜!お宅のさぶちゃん何なんですかねぇ〜〜!しっかり騙されたわこんちくしょう!」
「凄いでしょう?三郎の変装術」
「ええ凄いですとも!小松田がお姉さん呼びしてくるから変だなとは思ったけど!」
「あー…小松田さん、お姉さんのことあまり呼ばないですもんね」
「え〜〜そうかなぁ〜〜?」
「そんなわけで小松田、出門票にサインすっから貸して」
「やですよぉ。お姉ちゃんまた血で書くじゃないですかぁ」
成程、彼女は外に出ようとしていたのだ。それを小松田さんに変装した三郎が止めようとしてここに放り込んだってところか。自分の顔じゃ素直に心配できない彼の不器用さが窺える。
それならば、わかりにくい優しさを見せた相棒の行動をここでおじゃんにするわけにはいかない。
「お姉さん、首、怪我してるんですよね。そんな怪我で外に出たら傷が開きます。ここはゆっくり休んでください」
「そうだけどあの子達が……」
「あの子達?……は組ですか。大丈夫ですよ。あれでも実戦経験は一年でも随一です。バイト行くだけなら心配いりません」
「っっ、そう、かもだけど……」
「三郎がお姉さんに無理してほしくなくてここに連れてきたんです。三郎の心配、受け取ってくれませんか?」
誰かに心配されることはあまりなかったのか、こちらの言葉は彼女に響いたらしい。少し考え込んで、小さく頷いてくれた。
「そう言われると弱いなぁ」
「僕だって心配してますよ。その傷、かなり血が出たでしょうから」
実際かなり血は出ていた。遠目だけど、その着物が赤く染まっていることがわかるくらいには。
「やっぱりわかっちゃう?」
「これでも忍たまですから」
「ふぅん。頼もしいこと」
「それじゃあ、僕はこれで」
「あ、らいぞー。さぶちゃんにお礼言っといて」
「はーい」
保健室から戻れば、三郎は部屋に帰っていた。何事もなかったかのように「雷蔵、どこに行っていたんだ。学園長の招集に遅れるぜ?」と言うその姿勢に小さく笑って軽く謝っておいたのが記憶に新しい。お礼は、相棒は受け取っても素知らぬふりして返すだろうからまだ自分が預かっておこう。
そんな三郎は今、足軽の格好をしたドクタケの忍者が胸元に忍ばせている密書を盗ろうと策を練っている。
「ちゃんと、みんなで帰るよ」
吐息に混じった言葉は風に流された。
その風がどうか彼女に届きますように。
そうしたら、少しは笑顔を取り戻してくれるかもしれないから。
しんべヱが食べ物の匂いを辿って、ようやく突き止めた八宝斎の居所。
何かの策を思いついたのか、いやらしい笑みの八宝斎を先頭に縛られたまま連れて行かれたのは、ずっと会いたいと願っていたあの人の元だった。
「土井先生……よかった、生きてた……」
けれど、会いたかった先生に自分達の記憶はない。向けられたことのない凍てついた視線に、微かに抱いていた期待が目線と共に降下していく。
そこでしんべヱが何かを思いついたように表情を明るくし、隣で縛られている乱太郎に言った。
「先生は今、敵を騙すためにある術を使ってるんだよ!確か……」
『まくら返しの術』!!
「袋返しの術だ!!」
天鬼が反射で言った後に胃の辺りを抑えて呻き始める。それを見た乱太郎達が頷いて次々に思いつく限りを我らの担任にぶつけた。
「テストの点数、目の検査!」
「宿題何それおいしいの?」
「ゔぁっ……」
効いてる、めちゃめちゃ効いてる。これならば先生の記憶も戻るかもしれない。ここで止めたらダメだ。まだまだ、思い出の手裏剣はたくさんある。
「ごん、お前だったのか!!」
「もう疲れたよ、パトラッシュ!!」
「ハチ、ただいま!!」
「たべてあげる!!」
「「かまぼこ女房ちくわは愛人、アーメン!!」」
「「『ずうっと、ずっと、だいすきだよ』……土井先生!」」
胃だけではなく胸も抑え始めた。目の端に涙もうっすら滲んでいる。効果抜群のようで何よりだ。こっちも泣きそうだが。
ここで、きり丸も参戦した。
「己の命より銭大事!」
「バイト一番宿題二番!」
「スペシャル雑炊バッタ入り!」
「卵売るときゃ烏骨鶏!」
「四里先の銭落つる音!」
「地獄の沙汰も金次第!」
「だけど払ってたまるか六文銭!」
先生……
「一緒に帰ろう………?」
景色が…瞬く間に元の色を取り戻していく感覚がした。
最後の足掻きかのように、己の中に残っている鬼の部分が刀を振るう。駆けつけた者達が茫然とする中、パララと軽い音が地面に落ち、縛られていた三人が解放された。
切れた縄は溢れ出そうな今までの自分を押さえ込んでいたみたいで、それが絶たれた今、溢れたものは全て自分の中に吸収されていく。まるで翠雨によって生まれた露が落ち、一雫から新たな命が息吹くように。
「私は、忍術学園一年は組教科担任、土井半助です!」
誰も彼もが安堵の息を漏らした。
捕まっていた子ども達が飛びついては涙を流してくる。きり丸は力いっぱいしがみついてなん何度も確かめるように名前を呼んでくる。最終的にはは組の全員が来てくれて、久しぶりの再会に涙した。
八宝斎が頭を打ったのを最後にその場を後にし、この場でのけじめをつけ、家路を辿っていたときにきり丸が言った。
「先生……おれ安心しました」
「ハハ…本当に心配かけたな」
「まぁそれもあるっすけど………金色のうさぎにならなくてよかったなって」
どこかで聞いたことある単語だと思い、少し考えてから思い出した。この事件が起きる前に彼女が読み聞かせた本に登場したうさぎのことだと。
「お姉さんが言ってたんすけど、先生が金色のうさぎになっちゃったらおれが月に行くことになる、寂しがり屋の先生はそうさせないと思うから金色のうさぎにはならないって言ってたんです。……お姉さんの言葉、当たってました?」
「まったく、あの人は……」
天鬼だった頃の記憶に彼女の泣き顔が刻まれている。
泣き顔は似合わない彼女に流させた涙に罪悪感はあった。けれどそれとは別に確立した喜びが滲み出ていた。
泣くほどに自分を思ってくれていたのかと、泣くほどに忘れたことに悲しみを抱いてくれたのかと。
胸に咲く花の息吹に気づいた瞬間だった。
「そうだな。当たってるかも、な」
金色のうさぎは大切なものを二つ置いていった。子どもと愛を育んだ森のうさぎだ。きり丸が子どものうさぎだとしたら、森のうさぎは……。
ふいに空を見上げる。見晴るかす空の大海原に浮かぶ月にはもう不気味なうさぎはいない。今宵の月光を飾った彼女はさぞ美しかろう。見られないのが非常に残念だ。
握っていたきり丸の手に力を込める。
「大丈夫。もう二度と、お前達を忘たりはしないさ」
だが自分には、彼女が金色のうさぎに思えて仕方ない。
いつかふといなくなる。そんな予感がしている。そうならないように、どうにかして繋ぎ止める方法はないのか。
それを考えるのは後だ。まずは帰ってから彼女へのけじめをつけなければ。
集められた食糧が城下の者達に配られるのを見届けた。
帰る途中で今回の件に関わってくれた桜木清右衛門と若王寺勘兵衛が合流し、今の六年生と五年生との再会に花を咲かせる。先輩の話に真剣に耳を傾ける後輩の姿に大人達は懐かしさから表情を緩めて見守った。
彼らを連れた利吉くんとも別れ、一行は忍術学園へと向かう。うどん屋で腹を満たしてからまた学園への道をみんなで走った。
正門が見えてきたと思ったら、中から目を釣り上げてカンカンの小松田くんが出てきてはガミガミと門限に関してお叱りを受ける。
大人達が宥め、正門の前で少し談笑していれば小松田くんが思い出したように戸口を開けて向こう側に顔を覗かせた。
「お姉ちゃ〜ん?みんな帰ってきましたよ〜?」
彼の声には組とその他生徒が反応し、小松田くんを押し退けて中に入るがそこには誰もおらず、誰も彼もが小松田くんを疑わしげに見遣った。
「小松田さーん、お姉さんいませんけどぉ?」
「あれぇ?お姉ちゃん、さっきまでここにいたはずなんだけどなぁ。なんたって、昨日の夜からずっとここにいたし……」
小松田くん曰く、昨日の夜から戸口の横でずっと蹲っていたらしい。間違いなく、自分達の帰りを待つためだ。それを聞いて胸に込み上げてくるものがある。は組の生徒達も思い当たる節があるのか、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
「お姉さん、わたし達が何も言わずに出ていったから心配してたのかな……」
「あらあら、皆さんおかえりで」
乱太郎が気落ちした声で言った後、向こうから誰かが歩いてきた。くノ一教室の山本シナ先生だった。老婆姿の彼女は一同の顔を見渡してにっこり笑う。
「彼女なら、昨日から寝ずにここにいましたから限界が来て今は私の部屋で寝ていますよ。さっき通りかかったら行き倒れたように寝ていましたので運びました」
「そっかぁ、よかった!」
「起きたらみんなでお姉さんに会いに行こう!」
「「「うん!!」」」
彼女の所在に安堵したは組の生徒達も夜通し動き回っていたため、今日はもうヘトヘトだろう。山田先生の促しによってみんなで長屋へと一直線に向かっていった。
五年生も六年生も学園に帰ってきて安心したのか、どこかホッとした表情を見せて各々動き始めた。
「そうだ三郎、『ありがとう』だってさ」
「えー何が?」
「留三郎。僕達も後でお姉様に会いに行こう。怪我の具合も見たいしね」
「…ああ、そうだな」
生徒達も長屋へ帰り、ここには大人だけが残された。そこですかさずシナ先生がこちらに意味深な笑みを向けてくる。
「土井先生」
「あ、はい、何でしょうか」
「女の子だってね、幾つになっても大事な人達を笑って出迎えたいんですよ。……落ち着いたら顔を見せておあげなさいな」
隣の山田先生が溜息と共に小さく笑った気配がした。そして「機嫌が直るのに時間がかかるかもしれんが、まぁ頑張れ」と手を振ってその場を去っていく。己の経験談が混じったエールに苦笑いするが、これは他人事ではない。いつの間にかシナ先生もいない。
強がりな彼女のことだ。己が降らす雨で困らせたくなかったのだろう。
「ああ、これで二度目だな」
一度目は涙雨のように。
二度目は甘雨のような。
胸の花を育てる雨ならこの手で掬いたいところだが、彼女はきっと傘を渡してくるに違いない。
それならば、今日は雨が止むのを待とう。雲の切れ間を待ってから会いに行こう。
渋っていた蕾が雨で花開き、その花びらが一枚たりとも散らないように。
・
・
・
「お姉さぁ〜〜ん、そこを何とかお願いしますぅ〜〜」
「いーやーでーすーーー」
翌日の朝、やっと戻ってきた日常に混じる声が二つ。
食堂に響くその声を聞く者達はいつものことだと各々食べ進めて見向きもしない。すれ違う生徒達に挨拶をし、声が聞こえる方を見れば自分にとって大事な人物が二人何かを言い合っている。片方は手を合わせて何かを願い出て、もう片方は頬杖をついては聞く耳を持とうとしない。
「大体、土井セン帰ってきたんだからそっちに全部任せればいいでしょーが。私が行く意味何一つないんですけど」
「だってぇ、お姉さんこの前隣のおばちゃんと大家さんにドブ掃除頼まれてたじゃないっすかぁ。それならお姉さんも行かなきゃですって」
「ぜぇったい嫌!そしたらあのおばはん達にまた会うことになんじゃん!第一声に有り難くねぇ揶揄いのお言葉くるじゃん!私がおばはんをドブに落としてもいいの?」
「そしたらおれが今まで培ってきたご近所付き合いがおじゃんになるぅ!!」
何やらよろしくない会話が聞こえてくる。しかもそれが自分にとって無関係じゃないということに、朝から気分が落ちていくのがわかる。
とはいえ、これを放っておくわけにはいかない。これも自分がいない間に起きていた出来事だ。自分で始末をつけなければならないものだ。
「ほらほら二人とも。そんなに声を上げるんじゃない」
「出たな諸悪の根源」
「そこまでじゃないだろう」
聞こえた限りでは自分の家のドブ掃除の話だった。そこまで悪いことはしていないはずだ。
だが彼女はビシッとこっちに指を突きつけて睨んでくる。
「土井セン、ちゃんと次の休みにきり丸とドブ掃除に行くこと。いいね?」
「ま、まぁそれは行くが……それがお前達が言い合いしていた理由か?」
「聞いてくださいよ土井先生!お姉さんったら前は掃除手伝ってくれたのに今回は行かないっていうんですよ!優しさが見えない!鬼ババ!」
「それは土井センがいなくてあんた一人だったからですー!!土井センいるなら私必要ないでしょ!」
「別にいいじゃないっすか!土井先生の嫁って言われるくらい!」
「……………え」
何か、嬉しい幻聴が聞こえたような。
そして、複数の痛すぎる視線が飛んできたような。
「きり丸、あんた気づいてないね?おばはん達にそう呼ばれたときに近くにいた町娘達の視線を。あれね、完全にお前を殺すって目だったよ。思い出せ、土井センはメンヘラ製造機でメンヘラ吸引機なんだ。あの女共も土井センが引き寄せたメンヘラ共なんだよ。私はあんなのと戦う力なんてないし、その気もございません。喜んで隣を譲るわ。あそこで土井センの隣を歩いてみなよ、私ゃ秒でドブに放り投げられるよ。ドブ掃除どころかメンヘラ共の大乱闘よ」
「考えすぎっすよ」
「あ〜〜……ほらほらお前達、とりあえずその話はまた後で……」
「うるせぇよ諸悪の根源でメンヘラ製造機が。責任とってメンヘラという名のドブ片付けてこいよ」
「誰がドブ製造機だ鬼ババ」
余程行きたくないらしい。駄々のこね方が大人気ない。とはいえ、長屋のドブ掃除は彼女には関係ないこと。残念ながら、また長屋に連れていくのは先になりそうだ。
「きり丸、今回は私達の事情だし、彼女を巻き込むわけにはいかない。残念だけど諦めよう」
「んむぅぅぅ〜〜!この前帰りに見つけた団子屋一緒に行こうと思ってたのにぃ〜〜!」
「はいはい。それはまた今度連れてって。奢ってあげるからさ」
「いやったぁーーー!!」
奢るという言葉だけで機嫌を直したきり丸がわかりやすく喜びを表現したのを、大人二人は呆れる傍ら微笑ましく見守る。
一通り喜び終えたきり丸が次の休みのことを聞きかけたところで言葉を切った。その視線は己の首辺りに固定されている。
「先生、首、どうしたんすか?昨日はなかったっすよね?」
どこか怪我したのかときり丸の心配そうな視線をまともに受けて慌てて弁解する。先のことがあったため、少しの怪我でも敏感にさせてしまったのはこっちのせいだ。
右の首筋に貼られた湿布を上から抑えてきり丸を宥める。
「大した怪我じゃないさ。だからそんな顔をするな」
「……なら、なんでそこ怪我したのか教えてくださいよ」
唇を尖らせるきり丸になんて説明しようかと目を泳がせる。
チラリと彼女の方を見ればこの話に参加しないつもりなのか、頬杖をついたままそっぽ向いてこっちを見ない。少しの気まずさが伝わってきて、自然と笑みが漏れる。
「これは………もう一つのけじめだよ。大人同士のね」
湿布の下で疼く傷を優しく手のひらで温める。甘く痛む刻まれたけじめに笑みが深まるのがわかった。誰も知らない、自分と彼女だけが知っている二人だけのけじめに優越感が湧き上がる。
「先生……?」
「何だい?それよりほら、早く食べないと授業に遅れるぞ」
互いの湿布の下で刻まれた期間限定のお揃いの証を、今度はいつ刻もうか。
「………なーんて、ね」
土井センと鬼ババ、どちらとも金のうさぎになれるんです。
以下、マシュマロにて質問いただいたみんなの鬼ババの呼び方です。
お姉様
仙蔵、伊作、長次、小平太、滝夜叉丸(たまにレディ鬼ババとも呼びます)、三木ヱ門、羽丹羽くん、くのたま達、左近とか数馬も伊作につられて呼んでるかも?
お姉さん
一年は組、い組、ろ組のほとんど、二年生、三年生、五年生(さぶちゃんは7話にておねーサン)、守一郎、タカ丸
鬼姉様
喜八郎、伏木蔵
姉さん
文次郎
お姉ちゃん
小松田さん
名前呼び
土井セン、ダンおじ、その他先生達、利吉くん(まだ出てきてないけど)
アンタ、あの人
お留ちゃん(姉のようには思えないため)
ところで皆さん…………
………誰派ですか???

























