それは「ずっと一緒にいたい」と言った年末を過ぎ、年もあけて三月になろうとする頃だった。僕らはまだ約束してご飯を食べていた。
「聡実くん、もうすぐ誕生日やろ。なんか欲しいもんないん」
「はぁ、特にないですけど…、なんか高いもん買うて来そうですね……うーん、せやったら僕、狂児さんと一日一緒におってみたいです。二十四時間」
「二十四時間」
「そう。ほら僕狂児さんのこと好きやないですか」
「えっ」
「えっ」
「知ってる思てましたけど」
「いや、えっ。うん、まあ。そうなんかとは思てたけど実際に言葉にされる破壊力というのはあるやんか」
「ふうん」
「……ほんまに好きなん?」
「そう、僕もなんかしっくりけえへんなと思って」
「しっくりけえへんねや」
と言って狂児は口元を緩めている。
「僕よう考えたら狂児さんのことなんも知らんなと思て。一日くらい一緒におったかて変わらんかもしれんけど」
言ってるうちにだんだん恥ずかしくなってきた。やっぱり好きみたいやんこんなの。
「何でも聞いてくれたら答えるけど」
「何でも……?」
「仕事のことはあかんけど」
「それは知りたないですけどね」
「温泉でも行く? 否応なしにずっと一緒におれるやろ。あと美味しいご飯と温泉にも浸かれてええことしかないやろ」
「……狂児さんが行ける温泉て部屋にお風呂付きの高いとこしかないんちゃう…?」
「せやねぇ。まあええやんか。お誕生日やねんし」
「露天風呂付き個室にお泊まりデートですね」
「お泊まりデート……なんか急にやらしいなぁ」
と呟いている。
「じゃあなんかええとこ予約お願いしますね。僕もう行きます」
そうやって温泉旅行は決まったのだった。
内心この忙しい男が旅行する時間など空けられるのだろうかとあまり期待もしていなかった。三月の終わり頃僕は春休みで帰省することを狂児にも伝えていた。そして今日、連絡がきた。
「明日から二日空いてる〜?」
僕の予定なんか多分把握しているのだろうけど帰省しているからバイトもなく、急に旅行が決まってしまった。どうしよう。
指定された場所で待っていると懐かしい黒塗りの車がするりと寄せてきて、窓があき、
「お待たせ。乗って」
と相変わらずクマの酷い顔でニコニコしながら言う。僕は助手席に座る。隣にはあの頃より少しくたびれた狂児。スーツではなくジャケットにトレーナー、綿のパンツというラフな装いだ。僕がぼんやり見つめていたからか、寄ってきてシートベルトを締めてくれた。韓国ドラマで見るやつや……。ふわりと香水と煙草のにおいが鼻先を掠める。僕の顔をチラリとみて片頬をあげる。
「ほな行こか〜」
車は高速に乗り、だんだんと山道に入って行く。昼間なのに鬱蒼と茂る山の樹々で薄暗い。くねくねとカーブを曲がり、道幅も狭くなる。
「ほんまに温泉あるんですか……?」
何も喋らなくなった狂児に僕は不安になって尋ねる。
「あー、大丈夫、大丈夫。道狭いからちょっと運転に集中させて」
そうか、気をつけなあかん道なんか。僕って何にも気が付かんなぁ。
やっと看板が見えて、そこそこ新しくきれいになった建物が現れる。僕が困ってしまうほど格式が高いというわけでも無さそう。
果たして部屋には露天風呂が付いていた。
「俺大浴場には行かれへんから。聡実くんはどっちも行ってきたら」
「高い部屋なんちゃいますか?」
「そんなでもないけど。牡丹鍋まだあるて言うてたから聡実くんと食べたいと思て。牡丹鍋てイノシシの肉のお鍋よ」
ちょっと過分なお祝いだとは思うけれど今更帰ることもできない。そして牡丹鍋は食べたい。
「……ありがとうございます」
そう言うと狂児は口元を綻ばせて
「お茶でも飲む?」
と急須にティーバッグとお湯を入れる。僕も置いてある饅頭をムシ、ムシ、と食べる。
「うまい?」
「ふつうです」
「そう? もう一個食べてええよ。俺ちょっと横になってええ?」
と言って座布団を枕に目をつぶってしまった。狂児の分のお饅頭も食べてすることがなくなった僕は、お風呂セットを持って大浴場に行き、ほかほかになって部屋に戻ってきた。まだ狂児は寝てる。微動だにしない。死んでる?
温泉宿の部屋に必ずあるタイプの二脚の椅子とテーブルがあり、そこから外が望める。買ってきた冷たくて甘いミルクティーのペットボトルを飲んでいると、
「……俺にもそれ飲ませて……」
とよろよろ近づいてきた。全然目が覚めてない様子で目をしょぼしょぼさせて、僕の飲んでいたペットボトルを受け取って喉を鳴らす。
「甘い。目覚めるわ。聡実くんお風呂入ったん? 浴衣似合てるね。俺もちょっと入って目覚そうかな」
「クマ酷いですけど無理しはったんですか?」
「聡実くんと温泉行きたいからちょーっと頑張って仕事終わらしたけど、そんな心配せんでええよ」
部屋風呂に向かう狂児を見送り、窓の外を何とはなしに眺める。もうすぐ春だけれど、まだ新しい葉っぱも生えてこず、花もほとんど咲いていない。葉の落ちた樹々。小さな小川が流れている。山の中に佇んでいるみたい。鳥の鳴き声と川の流れる音しか聞こえてこない。僕はひとりぼっちのようなさみしい気持ちになる。奥の引き戸が開いて湯上がりの狂児が浴衣姿で僕の前に座る。
「髪、乾かさないんですか」
「風呂に浸かって外見てたらなんやさみしい気持ちになってなぁ。聡実くんもさみしいんちゃうかと思って」
「うん、僕も今うら寂しい気分でした。ふふ、エスパーみたい。あとで一緒にお風呂入りましょうか。そしたらさみしくないやろ」
「大胆なお誘いやね」
「お泊まりデートやから」
「ふふ、せやった」
僕は立ち上がって丹前を脱いで、
「帯がようわからんくて。やって欲しい」
と適当に結んだ帯を解く。
「あとお腹空きました」
「もうそろそろちゃう。ご飯も最初から持ってきてもらおうか」
狂児も立ち上がり、僕の浴衣の前を合わせて後ろに回り、
「ここ持って押さえて」
と言って帯の片方の先の長さを少し残して長い方をくるくる腰に回し、キュッと締める。
「これはまあ簡単な帯やけど、帯って下の方持って締めると崩れにくいよ。……細いなぁ。あんなに食べてんのに。もう一回り回せそう」
後ろから抱き込むようにして、僕にもわかるように締め方を教えてくれる。顔が火照る。
「ここをこうしてくぐらせて……。ほい、できた。身頃に逆らわんように後ろに回して出来上がりや。ん、カッコええよ」
スッと後ろから前にまわり、丹前を渡してくれる。
「ありがとうございます。着付け出来るんですね」
「正月とかまぁ着たりするから」
「ヤクザの映画で見たりするやつや。紋付とか着るんですか」
「うん」
「写真見たい」
「見せません」
「何でですか」
「ヤクザを見慣れんとって欲しい」
「じゃあ何でもない時に着て見せてください」
「聡実くん〜」
「狂児さんが着てたらかっこええやろうなって思たのに……」
「……そんなん言うてもあかん」
「今ちょっと見せたろかなってなった?」
「うん、ちょっと浮かれた。聡実くんにかっこええって思われてたい」
「狂児さんは黙ってたらずっとかっこええですよ」
狂児は顔を手で覆っている。あれ、この人照れてはる。こんなん飽きるほど言われてるやろうに。ちょっとかわいいな。
「失礼します〜」
廊下から夕飯の支度をする声がかかった。
夕飯の牡丹鍋はおいしくて、僕はお櫃で持ってきてもらったご飯を全部食べて仲居さんを喜ばせた。
食後にお布団を敷くのををぼんやり眺めて、
「狂児さん、お風呂入りましょう」
と狂児の方を見ないで言う。返事が無い。
「僕、先に行きますね」
さっき着せてくれた浴衣の帯を解いて裸になり、軽く流して湯船に浸かる。夕暮れ時に見た風景は暗闇に溶けて、ほんの少しライトアップされていた。でもやはり風の音や何かの生き物の鳴き声と、川の音しか聞こえてはこないのだった。
カチャリと音がして狂児が入ってくる。
「お邪魔します〜」
しまった。ついいつもの習慣で眼鏡外してきてもうた。
「どしたん。すごい顔。なんか怒ってる……?」
「眼鏡してへんから何も見えへん」
「俺の裸がそんな見たいん。スケベやな」
「スケベでええから見たい」
「ははは。最近聡実くんは明け透けやな。こっち来て。近く来たら見えるやろ」
すぐ隣に並ぶと、狂児は昔カラオケルームでしてたみたいに抱き込むように肩を回す。近いのに触れはしない絶妙な距離。
「聡実、見して。消してへんやろ」
「うん」
「狂児さんて。もしかしてお風呂入るたび……ていうか着替えるたびにこれ見てんの……?」
「……せやね。あれ、めっちゃ引いてるやん」
「確かに罰ゲームですね……」
「なんでぇ。そんなわけないやんか。これ見るたびに聡実くんのこと思い出してるよ。元気やろか、とかお腹空いてへんやろか、とか」
「なんやねん、それ……」
「あと逆もあんねん」
「逆?」
「聡実くんのこと思い出した時に見たりさすったりしてる」
「もう勘弁してください……」
僕のこと好きなんかこの人。よう聞かんけど。
「俺のことわかってきた〜?」
「知らん。頭おかしいってことはわかった。ていうか知ってたわ。あと寝起きのしょぼくれが酷い」
「いいとこは? なぁ、いいとこもあるやろ」
「今んとこ……。あ、着付けが出来る?」
「なんかもっと心に響くようなの無い?」
「心に響くような行いありました?」
「無いな」
ひとしきり話しているうちに本題を思い出す。よく見えない目を眇めて、近くに寄り、
「背中の刺青見たい」
「ええよ〜」
くるりと後ろを向いてくれる。見事な鶴。二羽も。
「二羽おる。綺麗。どこまであるん?」
「鶴はつがいを一生変えへんらしいよ。ええやろ。スミ、太ももまで入ってるけど。見る?」
「ええて。ええって言うてんのに」
バシャンと音を立てて立ち上がる。美しく、均整のとれた肉体にびっしりと浮かぶ極彩色。
「触ってもいい?」
「ええよ」
僕も立ち上がって背中を指の腹でそっとさわる。身じろぎするのを感じながら手のひらを当てると心臓がドクンドクンいってる。生きてる。
「なぁ聡実くん」
「——俺も、見て触ってもええの?さとみくんの背中」
「えっ。僕の背中? 何もないのに……」
少し考えて
「……でも僕だけ触るのは不公平ですよね。いいですよ」
「ほんまに? ……ほんまにええの?」
じっとりした口調だった。
「——どうぞ」
と僕は後ろを向く。
狂児がこちらを向いた気配がする。パシャリと水音が立ち、熱い指先が僕の首すじから背骨の一つ一つをなぞる。そこから僕のひふが溶けそうに感じる。背骨の終わりまできてどうするのかとじりじりしていると、手を広げてずろりと腰を軽く掴む。僕はびっくりして
「なに」
と声をあげる。熱のこもった視線が注がれている気がして顔が熱くなって頭がくらくらする。触れている手の、指先に僅かに力が加わる。そして急に手を離し、
「冷えてきたから浸かろか」
と言う声とともにお湯の中に沈んでまた向き合う。狂児は目の奥に熾火がひっそり燃えているような視線を寄越す。
「こんな簡単にヤクザに体触らしたらあかんよ」
「ヤクザじゃなくて狂児や」
「俺かてヤクザやろ」
「狂児さんは僕の前でヤクザやったことなんかないやろ。少なくとも再会してからは」
「そんなベリっと剥がせるわけちゃうから聡実くんと会うてるときも俺はヤクザやで」
「うるさい」
「ウワッ」
「こんなにちんちん勃たしといてスカしてんちゃうぞアホ!」
「ちょっと……やめてや……」
正直言って僕も勃っていたけれど、なんだか腹が立って仕方ないのでぎゅうぎゅうに握り込んでやった。
「痛い!痛いからほんまにやめて!」
「お前がエッチな感じで触ってきた癖になんやねんほんま! ええ加減にせえよ! 謝れ! 偉そうに説教してからに」
「……すみませんでした! 痛いて!お願いやから離して……」
「……ちんちんも見たかったけどもうええです。デカ過ぎる。とうもろこしぐらいあるやんか」
「もう見てるんちゃう……? あととうもろこしほどはないよ」
「眼鏡無いから見えへん言うてるやろ! あととうもろこしぐらいあったし」
「ごめんて。やらしく触ってごめんなさい。俺が悪かった許して……」
握ってたちんちんがだんだん柔かくなっていったので手を離した。タマも握ったったら良かった。腹立つ。
「ふっ、ほんま聡実くん、かっこええな。ヤクザのおっさんのちんちん握り潰そうとするて……ふふっ、はっはははは」
なんやこいつ。
「僕もう上がりますから!」
上がって拭いて、下着をつけて、さて、やはり浴衣がうまく着られないので狂児を呼んだ。狂児は嬉しそうに着せてくれた。歯磨きして布団に入っても僕はまだ業腹だった。
狂児は隣の布団から
「なぁ聡実くん。まだ怒ってんの。どうしたら許してくれるん」
「……ヤクザやからとか言うのやめてください。出会った時から知ってるし!」
「……うん。それから?」
「あんなふうに触るの途中で我慢してしょうもないこと言い出すんやったら最初から我慢してください。何回それやんねん。もう会わへんなら空港に来んといてください。部屋に来といて俺のことどうしたいのてなんや。会うたらあかん思てんねやったら部屋に来るな。あわよくば感ありすぎ。何も我慢出来てへん。こっちは振り回されっぱなしやねんぞ」
「ほんまにその通りやな」
「どうせこれからも我慢出来へんねやからよう考えてください」
「……うん」
「僕もう寝ます」
「そっち行ったらあかん?」
「話聞いてました?」
「聞いてたけど布団来たらあかんとは言われてないし。エロい感じや無かったらええねやろ?」
「えぇ……あれ? そうなんかな……」
「聡実くんてチョロいな。心配やわ」
「——、ムカつく。もうこっちの布団来んといてください」
「ふふ、は〜い」
なんやねんこいつ……。一瞬いいのかもって思ってもうた。そしてそれは僕の望むことでもあったから。バカにされとる。さっきだっていくらでも僕の手を退けることはできたはず。でも、お願いして、僕が許すのを待っていたのだ。その方がより嬉しいから。大きな犬のような狂児。腹が立つのに同じくらいかわいいと思ってしまう。沼みたいな男や。
もう寝よ。
翌朝目が覚めると、しっかり抱き込まれていた。こいつ……と思ったけれどよくよく見たら僕が狂児の布団の方に来ている。自分のせいか……。
「おはよ〜う」
「おはようございます」
「寝癖すごいな」
「狂児さんもやで」
「よう寝れた? 聡実くん寝相すごいな。すごい回転してぶつかってきたで。ほんまにかわいいなぁ」
「なんかすみません」
浴衣もほとんど脱げてるので脱ぎはじめると、狂児が眼鏡をかけて見てくるのでドギマギする。眼鏡もクソほど似合う。
「じろじろ見ないでください。セクハラや」
「昨日見た背中の映像を合成してる」
「キッッショ」
「ほんまにキショい時の言い方や……」
こいつ全然反省してへんやん。クソヤクザや。浴衣の胸元をはだけさせて刺青がチラチラ見えて、布団に横になって肘で支えて枕にしながらガン見してくる。なんやこのエッチなおじさんは……。何で僕はこんな難易度の高いキショくてエロいおじさんが好きやねんやろ。前世で罪を犯したんかな。もう十分苦しんでるから許されたい。
「お腹空きました」
「朝飯八時やって。まだ時間あるなぁ。お風呂もう一回入る?」
「もうええです」
「俺シャワーちょっと浴びてくるわ」
やっと布団から出るのを見て昨日あったことを細々思い出して何とも言えない気持ちになる。腹を立ててちんちん掴むってなに……。このあとどうなるん。何もわからん。そんな怒ってへんからええんかな。
あんなこと言い出さへんかったら確実にエッチなことになってたはず。経験が少ない僕でもわかる。それをすんでのところで我慢したんやあいつは。自分がヤクザやから。
支度を済ませてレストランに向い、和食の朝食を例によってお櫃を空にするほど食べてチェックアウトした。
山の中の温泉街は季節外れなのか平日だからか、ほとんど歩く人もいない。しばらく車で進み、滝へ続く道の入り口に来た。駐車場には一台も停まっていない。滝の由来の看板を眺めて、
「滝見たい」
と言うと、
「こっち行くと滝壺があるて書いてあるな」
舗装された道路から離れて木の茂る小道を行く。
「山のにおいする」
「うん」
ぽつ、ぽつと言葉を交わしながらしばらく歩くと急に開けて滝壺が現れた。近づいて見られるように整備してあるが、古い。
「ほら」
と狂児が手を差し伸べる。あまりに自然な気遣いで手を取ってしまう。そのまま手を繋いで滝壺の近くに辿り着く。滝の飛沫が飛んでくる。今日はそこまで天気が良くないから水の色はそこまで綺麗ではないが、深い緑色をしている。滝の音と飛沫を浴びて二人で佇む。他には誰もいなくて。世界に二人だけのような気分だ。世界に二人だけやったら。狂児は僕のそばに居ってくれるんやろうか。
「聡実くん」
「なに」
「しぶきが飛んでくるからずっと居ると冷えるで。ここもう少し登ると吊り橋があった気がする」
「来たことあるん?」
「子どもの頃、一回だけ家族で来てん。だいぶ小さいとき。たぶんじいちゃんがボートかなんかで当ててちょっと金出来たんやったかな」
狂児はいつもよりラフなジャケットにタートルネックの薄手のセーターを着て、綿のパンツを履いていた。階段を登り切り、狭い山の遊歩道を行くと開けたところに着く。もう少し歩くと着きそう。
ふと苔に滑りそうになったとき、
「危ない!」
脇の下を掴まれて抱えられる。急に狂児の匂いに包まれてドギマギしていると
「滑るから」
とまた手を繋がれる。暖かくてデカい手。
「嫌やない?」
僕は首を横に振りつつ何の色ものらない表情を見ていた。この人昨日とうもろこし大にちんちんを大きくしてた人?夢やったんかな。
程なくして確かに吊り橋が見えた。立て看板には、老朽化しているので一人づつ渡ること、とある。
「昔はみんなで渡れたんやけど。俺高いとこあかんから泣いてなぁ。兄貴がふざけて渡らそうとしてじいちゃんとおかんにめっちゃ怒られとった」
柔らかい顔をして思い出を語るのを見ていると小さい狂児が浮かんできそうだった。
「かわいいですね。そんな頃もあったんや。今も渡られへん?」
橋の近くまで見に行き、渋い顔をする。
「……聡実くん、もう戻ろか」
「ここまで来といて」
「いや、行けるか思たけど。全然あかん」
「じゃあ僕一人で行きます。下の流れてる川見たい」
「え……。嫌やそんなん」
「何で」
「さみしい」
「さみしい?」
「——俺には行かれへんところに聡実くん一人で行ってしまうんはさみしい」
この男は……ほんまに。ちょっと口を尖らせて横を向いてる。
「来たらいいじゃないですか」
「一緒には渡られへんねん」
「一人って何キロくらいを想定してるんでしょうね」
「大人の男一人かな。だいたい八十キロくらいか。俺やな」
「そんなあるんですか」
「今は七十五キロくらいかな。聡実くんは? 五十五キロくらい?」
「何でわかるんですか……コワ。たぶんそのくらいです」
「そんなら……足して百三十か」
狂児は僕をじっと見つめる。遠くで川の音が聞こえる。
「さみしいんやったら、一緒に行きましょう。そのくらい大丈夫ですよ。きっと」
「聡実くんを危険にさらすようなことは出来へん」
僕はこの融通の効かない男をぐっと睨みつけ、
「そんなら僕が渡るん見といてください」
とまだ僕の手を握っていた熱い手を離し、吊り橋へ向かう。吊り橋といっても太いワイヤーの手すりもあり、渡るときしむものの木の板が朽ちた様子もなく、しっかりとしていた。あの看板は昔のものかもしれない。真ん中あたりまで来て、下を覗く。遥か下にさっきの滝に流れる川が見える。見晴らしが良くて、見る限り鳥が飛んでいる他に誰も何もいなくて、橋のたもとに仁王立ちしている狂児がいるだけ。
確かにさみしい。僕は真下の川の写真と、橋に立って見える風景の写真と、橋の袂の狂児の写真とを撮った。スマホを鞄にしまい、戻ろうとして、少しの段差に軽く躓いてしまった。その瞬間に
「聡実くん!」
という大声が聞こえて彼は走ってきた。僕はほとんど焦ってはいなかったので、はっきりと狂児の様子を見ていた。橋を大きく揺らしてみるみる近づいてきて僕の目の前は黒いセーターで埋まった。きつく抱きすくめられている。
「……聡実くん、何ともないん?」
さっきあんなに大きい声を出していたのに、今聞こえてきたのは早鐘のように鳴る心臓の音と、安否を尋ねる小さい震える声だった。
「ちょっとこの出っ張りに躓いただけ。二人で橋にいる方が危ないやろ」
「……うん。何ともなくて良かった」
「ほら。二人で乗っても大丈夫やん」
「結果論やろ。もう来てもうたけどさぁ、あかんねん、ほんまは。一緒に居ったら」
「……もう行こ」
ぐちぐち言う男の手を引いて歩く。確かに僕一人の時より軋む音が大きい。そして揺れる。でも僕らは二人で渡って戻ってきた。
「聡実くんになんかあったら、俺耐えられへん」
「僕もです。僕も狂児さんが死んだと思ったからカツ子に行ったんです」
「……うん」
なんか知らんけどしょぼくれてるなぁ。
「僕、わかりましたよ。狂児さんが好きなんかどうか」
「……うん」
「さっきからうんしか言わへんやん」
「うん」
「もう」
「——聡実くんが…やっぱり好きちゃうて言うのを聞くのが嫌やから」
狂児は下を向いてる。まだ手は繋がれたままだ。ほんまにこいつ……。腹立つなぁ。
僕は繋がれた手を引いて狂児を抱き寄せてもう片方の手を背中に回して耳元で言ってやる。
「好きですよ」
狂児は頭を僕の肩に埋めて
「ほんまに?」
「ほんまですよ。僕も橋の上に一人でおったらさみしかった。二人でいたい。あと、狂児さんてほんまにぶりっ子や。あざとい。僕はまんまと狂児さんのぶりっ子に絆されてますよ」
「聡実くん何言うてるん。俺もう四十過ぎのヤクザのおっさんやで」
「わかってやってんちゃうの? 罪が深いな……」
僕が離れようとすると強く抱きしめられる。
「狂児さんが僕を好きなんかは聞かんときますね」
「……聞いてよ」
「答えてくれるんですか?」
「うん」
「僕のこと好きなん?」
「好き。めっちゃくちゃに好きやで。はー、好きなんて言うてええんかな。キモくない?」
「まぁちょっとキモいですけど」
「ほら〜〜」
「狂児さんて普段からちょっとキモいから別に違和感ないですよ」
「え! 何? どこが? どの辺がキモいん?」
「うるさ……」
僕らは手を繋いで山道を歩いた。来る時のもの寂しさは変わらないはずなのにふわふわしている。それは僕の気分がふわふわしているだけなんだけれど。
自販機で飲み物を買い、車に乗り込む。僕はわざとシートベルトをしないで待っていると、彼が近づいてパチンとはめてくれた。その時に頬にチュッとキスをする。
「こら」
「好きなんで……」
「好きって言うたら何でもいけるわけちゃうねん。魔法の言葉やないから」
「嫌でしたか」
「嫌なわけあるかい。あ〜、グイグイくるなぁ」
「早よせんと狂児さんおじいちゃんなってまうから」
「それはそうやねんけど。——このままではあかんの?」
「このままって?」
「たまにあって飯食ったり」
「ええですよ。セックスとかしないっていうことですか? 僕はしてみたいですけど、狂児さんがせえへんていうならせえへんでもいいです」
「あ〜〜〜」
「うるさいなぁ」
「したいよそら! したいに決まってるやん! ベロンベロンに全身舐めまわしたいよ。そんなんしてもうたらさあ、もう離れられへんて。聡実くんが俺のこと要らんようなったとき、何も無いただおじいちゃんになった俺が残されんの可哀想すぎひん?」
「仕方ないです。恋愛ってそういうもんです」
「酷いな!!」
「僕との思い出をしがんで死んでください。ずっと要らへんようにならんかもしれんし」
「せやね。しがめる思い出があるだけいいんかな。まぁよう考えて、て言われたことを考えるよ」
車のエンジンをかけて進み出す。隣を見るとどこかスッキリしたような顔の狂児。僕もスッキリした。特になにも解決してへんけど。来てよかった。温泉て体にいいな。
「狂児さん。温泉てええとこですね」
「せやね」
「滝も良かったですね」
「うん。またいつか一緒に行こ」






