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雨のあとに灯るもの

りすけりすけ

【ミドルスクール編】第11話 風邪引きアンサー回。

十一月の空は、朝から澄んでいた。
夏のキャンプで見上げた夜空とは違う、薄く高い雲が遠くへ引き伸ばされたような空だった。朝の空気はすっかり冷たくなっている。

その日、朝の天気予報では、一日を通して曇りと告げられていた。降水確率は低く、空を覆う雲も薄い。少なくとも、傘を持って出る必要があるような天候には見えなかった。
だからナマエは、いつものようにバックパックと弁当箱を二つ入れたランチバッグを持ち、それ以外は何も持たずに家を出た。
午後になっても、外の空は薄く曇ったままだった。
けれど、雨が降るほどの空模様には見えなかった。
最後の授業が終わり、教室を出る頃までは。

ナマエとスタンリーが昇降口へ向かっていると、廊下の窓を激しい水滴が打ち始めた。
最初はぽつぽつと。
次の瞬間には、校庭全体を白く煙らせるほどの雨になった。

「え……?」

ナマエは窓の外を見て、立ち止まった。
雨粒が地面を叩き、あっという間に水たまりを作っていく。空は朝よりもずっと暗く、厚い雲が低く垂れ込めていた。

「今日、雨予報じゃなかったよね?」
「ああ。一日曇りってなってたな」
「昼過ぎまで全然降りそうじゃなかったのに」
「外れたんだろ」

スタンリーは面倒そうに外を見る。
昇降口には、同じように傘を持っていない生徒たちが集まり始めていた。家族へ迎えの連絡を入れる者、雨が弱くなるのを待つ者、鞄を頭に乗せて走り出す者。
ナマエは困ったように眉を下げた。

「どうしよう……」

ゼノの家までは、歩いて向かうつもりだった。
走れば行けない距離ではない。けれど、この雨では数分も経たないうちに全身ずぶ濡れ確定だろう。

「雨が弱くなるの、待つしかないかな……」

ナマエが空を見上げながら悩んでいると、隣から小さくファスナーを開ける音がした。

スタンリーが、鞄の底から細長いものを取り出す。
黒い折りたたみ傘だった。

「スタン、傘持ってたの?」
「ああ、入れっぱなしのまんま忘れちまってた」
「よかったね。じゃあ、先にゼノのとこ行ってて。私は雨がもう少し弱くなるまで待って―――」

スタンリーは傘を広げると、そのまま外へ一歩踏み出した。そして、ナマエの方を振り返る。

「ほら」
「え?」
「あんたも入んな」

傘は、二人で入るには少し小さい印象だ。
大人用の折りたたみ傘ではあるが、背の高いスタンリーと、小柄とはいえナマエが並んで歩けば、よほど密着しなければ収まらない。
ナマエは少し躊躇した。

「いいの?」
「待ってたって、雨がいつ止むか分かんねえじゃん」
「でも、スタンが狭くなっちゃうよ」
「いいから。来な」

ぶっきらぼうに言い、スタンリーは傘をナマエの方へ差し出した。
ナマエはしばらく彼を見上げていたが、やがて小さく笑い、その隣へ入った。

「ありがとう、スタン」
「ま、どうせ行き先は同じだかんね」

二人は雨の中を歩き出した。
傘を叩く雨音が、絶えず頭上で響いている。
ぱらぱらという程度ではない。傘の布が重たく感じられるほどの雨粒が、次々と落ちてくる。
ナマエは濡れないようにと、スタンリーの近くへ寄った。
肩が触れる。
それだけで、スタンリーの持つ傘がわずかに揺れた。

「スタン?」
「何でもねえ」

スタンリーは正面を向いたまま答えた。
自分から入れと言ったのだ。
近くなるのは当然だ。
狭い傘なのだから、肩が触れることだってある。
分かっている。
分かっているが、ナマエとの距離が突然近くなると、妙に心臓が落ち着かなくなる。

気にするな。
雨を避けて歩いているだけだ。

スタンリーはそう自分へ言い聞かせながら、傘を持つ手に力を込めた。

「すごい雨だね」
「ああ」
「朝は全然降りそうじゃなかったのに」
「天気予報も外れる時くらいあんだろ」
「ゼノなら、どうして外れたのか説明してくれそう」
「最低一時間コースだろうな」

ナマエは想像してくすくすと笑った。その笑い声は、傘を叩く雨音の中でも不思議とはっきり聞こえた。
しばらく歩いているうちに、ナマエはふと違和感を覚えた。
狭い傘に二人で入っているというのに、自分はほとんど濡れていない。
足元には雨が跳ねているものの、ナマエ自身は傘の内側にきちんと収まっている。
ナマエはスタンリーに視線を向けた。
隣を歩くスタンリーの右肩は、いつの間にか暗い色へ変わっていた。
雨に濡れている。
傘は明らかに、ナマエ側へ傾いていた。

「スタン」
「何」
「肩、濡れてる」

スタンリーは一度、自分の肩を見た。
しかし、事もなげな様子でまた前を向く。

「ふうん」
「ふうん、じゃないよ。傘、もっと真ん中にしよう」

ナマエは傘の柄へ手を伸ばした。
しかしスタンリーは、傘を持つ手を少しだけ高く上げ、ナマエの手から逃がした。

「このまんまでいい」
「よくないよ。スタンが風邪引いちゃう」
「こんくらいで風邪引くほど、やわじゃねえよ」
「それなら、二人とも少しずつ濡れた方がいいよ。そもそもスタンの傘なのに」
「あんたまで濡れたら、傘差してる意味ねえじゃん」
「でも、こんなに濡れてるのに」
「俺ん傘だから、決定権は俺じゃん」

スタンリーの言葉に、ナマエは納得できないように眉を寄せた。スタンリーは、そんな彼女を横目で見る。

「いいから、あんたは大人しく中入ってな」
「でも……」
「あんたに風邪引かれんの面倒なんよ」
「スタンが引くのも、私は嫌だよ」

その言葉に、スタンリーは一瞬だけ黙った。
ナマエは本気で心配している。
自分だけが濡れていることを、我がことのように気にしている。
けれど、だからといって傘を戻すつもりはなかった。
彼女は自分よりずっと小さい。元々冷え性だ。雨に濡れれば、一気に体温を奪われるだろう。
少なくとも自分が濡れている間は、ナマエは濡れない。
なら、その方がいい。

「俺は平気」

スタンリーは短く言った。

「ほら、ゼノが待ってんぜ」

ナマエはまだ何か言いたそうだったが、スタンリーの表情を見て、それ以上傘を動かそうとはしなかった。
代わりに、少しでも雨に当たる面積を減らそうと、さらに彼の近くへ寄った。
体が密着する。
スタンリーの心臓が、また余計な反応をした。

傘を中央へ戻した方が、別の意味で楽だったかもしれない。
そんなことを思ったが、今さら遅かった。

ゼノの家へ着いた頃には、雨はさらに強くなっていた。ナマエは玄関の屋根の下へ入り、ほっと息をつく。

「なんとか着いたね」

スタンリーが傘を閉じた。
その姿を見て、ナマエは目を見開いた。
傘の下では右肩だけが濡れているように見えていた。けれど実際には、肩から腕、背中の半分近くまで雨が染み込んでいる。金髪の先にも水滴がつき、頬には雨粒が一筋流れていた。

「ちょ……スタン!思ってたより濡れてる!」
「そう?」
「そうだよ!」

玄関の扉が開いた。
ナマエが呼び鈴を押すより早く、物音に気づいたゼノの母が顔を出した。

「あら、大変。急に降ってきたものね。早く入って」
「お邪魔します。あの、タオル貸してください!」

ナマエは慌てて言った。
ゼノの母は、濡れたスタンリーを見るとすぐに状況を察し、「すぐ持ってくるわ」と言って洗面所から大きめのタオルを二枚持ってきた。

「スタンリーくん、かなり濡れたみたいね。これを使って」
「ありがとうございます!」

スタンリーが受け取ろうとするより先に、ナマエが一枚を取った。

「私のせいで、ごめんね、スタン」

申し訳なさそうな顔をして、ナマエはスタンリーの濡れた肩へタオルを当てた。
ぽんぽんと押さえるように、水分を拭き取ろうとする。

「……っ」

スタンリーの肩が、目に見えて硬くなった。
ナマエの手が、タオル越しとはいえ自分の肩や髪に触れている。
それだけで、雨とは別の理由で体温が上がる気がした。

「ナマエ、いい」
「でも、ちゃんと拭かないと」
「いいから」

スタンリーは素早く、ナマエからタオルを奪い取った。
その動きが思った以上に速かったため、ナマエは目を瞬かせる。

「スタン?」
「自分でやっから」
「でも、スタン、大雑把そうだし」
「あ?どういう意味よ」
「雑に拭いちゃいそう……」
「あんたな……」
「髪もちゃんと拭いてね?襟のところも濡れてるから」
「はあ、分かったって」

スタンリーは言われた通り、大人しくタオルで髪と肩を拭き始めた。
その様子を、階段の上から降りてきたゼノが見ていた。銀色の髪を揺らし、いつものように口元に薄い笑みを浮かべている。

「おやおや、随分と濡れたね、スタン」
「見りゃ分かんだろ」
「僕が言いたいのは、なぜそこまで濡れてしまったのかという点だよ」

ゼノの黒い瞳が、ナマエとスタンリーを順に見た。
ナマエは眉を下げてから、すぐに説明した。

「急に雨が降って、私、傘を持ってなくて。スタンが入れてくれたんだけど、傘を私の方に寄せてくれてたから、スタンだけ濡れちゃって……」
「ふむ、なるほど」

ゼノの目がわずかに細くなる。
スタンリーはその視線の意味を察して、顔を背けた。

「何だよ」
「いや、何も。さあ、体が冷える前に拭いたほうがいいよ、スタン」
「そうだよ、スタン!ちゃんと拭かなきゃ」

ナマエは疑うようにじっと見つめた。
スタンリーは観念したように、自分の髪へタオルをかぶせ、乱暴になりすぎない程度に水気を拭き取った。

「これでいいだろ」
「肩も」
「分かってんよ」
「背中も濡れてるよ」
「……ナマエ」
「なあに?」
「ちゃんとやっから、そんな見張んな」

ナマエは少しだけ頬を膨らませた。
その様子を眺めながら、ゼノは苦笑する。

「だって、風邪引いたら大変だよ」
「引かねえって」
「絶対?」
「絶対」

スタンリーはそう言い切った。
その時の彼は、本当にそう思っていた。

***

翌朝。ナマエの家の電話が鳴った。
母は朝食の片付けをしており、父はすでに仕事へ出ていた。ナマエはちょうど、二つの弁当箱を布で包み終えたところだった。

「ナマエ、電話に出てくれる?」
「はーい」

受話器を取る。

「もしもし?」
『……ナマエ?』

聞こえてきた声は、いつもより低く、少しかすれていたが、ナマエはすぐに気づいた。

「スタン?」
『ああ』
「どうしたの?……声、少し変だよ」

電話の向こうで、スタンリーが小さく息を吐いた。

『悪い。今日、学校休む』
「えっ、どうして?」
『熱出た。大したことねえけど、行くのはやめとく』

ナマエの胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
昨日の雨。
濡れた肩。
自分を傘の中へ入れるために、スタンリーはずっと雨に当たっていた。

「熱……?」
『大したことねえよ。寝てりゃ治る』

声には明らかに元気がなかった。
ナマエは受話器を握る手に力を込めた。
電話の向こうで、スタンリーが一度咳をする。
その音に、さらに胸が痛くなる。

『で……もう弁当作ってんなら、悪い』
「え?」
『俺の分。もう作ってたら、無駄になんだろ』

ナマエはテーブルの上に置かれた、ネイビーのクロスに包まれた弁当箱を見た。

「そんなの、気にしなくていいよ」
『でも』
「お弁当より、スタンの方が大事だよ。気にしなくていいから、今日はちゃんと休んで」

しばらく、返事がなかった。
ナマエは心配になって呼びかける。

「スタン?」
『……ああ』

声が、少しだけ柔らかくなっていた。

「水分取って、何か食べて、お薬も飲んでね」
『分かった』
「無理して起きなくていいからね」
『ああ』
「ちゃんと寝るんだよ?」
『母親みてえな事言ってんね』
「だって心配なんだもん」

電話の向こうで、スタンリーが小さく笑ったような気がした。

『んじゃ、切るぜ』
「うん。お大事にね」

電話を切ったあと、ナマエはしばらく受話器を見つめていた。
昨日の帰り道が何度も頭に浮かぶ。
傘を自分の側へ傾けたスタンリー。
濡れた肩。
「このまんまでいい」と言った声。

自分がもっと強く傘を中央へ戻していれば。
無理にでも二人で同じくらい濡れるようにしていれば。
スタンリーは熱を出さずに済んだのではないか。
本当に雨が直接の原因なのか、ナマエには分からない。
ただ、昨日の出来事のすぐあとにスタンリーが体調を崩した。その事実だけで、自分のせいだと思わずにはいられなかった。
母が心配そうに近づいてくる。

「電話、スタンリーくん?」
「うん。熱が出たから、今日はお休みするって」
「あら……昨日の雨で体が冷えたのかしら」
「私を傘に入れてくれて、スタンだけすごく濡れちゃったの」

ナマエは俯いた。

「私のせいかも」

母は娘の肩へ手を置く。

「ナマエのせいとは限らないわよ。でも、心配なのね」
「うん……」

その言葉に、ナマエは小さく頷いた。
テーブルの上には、二人分の弁当が並んでいた。いつものように作った、スタンリーの分。
その弁当を見ていると、胸の奥がまたぎゅっと痛くなった。

学校へ向かう時間になり、ナマエは一人で家を出た。
いつもの場所に、スタンリーはいない。
ゼノの家にも、自転車はない。
隣を歩く足音がない。
ぶっきらぼうな「早く行くぞ」もない。
ナマエは誰もいない隣に視線を向けてから、口元をきゅっと引き結んだ。

学校に着いてからも、ナマエは何度も隣の席を見た。
ランチタイムになって、弁当を取り出す手付きも、どこか散漫だ。友人に声をかけられても、いつもより返事が遅れる。
スタンリーがいないだけで、こんなに静かだっただろうか。

「静か……」

ぽつりと呟く。
もともとスタンリーは、よく喋る方ではない。むしろ無口な方だ。それなのに、彼がいないだけで、周囲の音が全部遠く感じられた。
学校という場所の広さを、ナマエは初めて意識した。

一日が、いつもより長かった。
放課後になると、ナマエはいつもより早足で校舎を出た。いつもならスタンリーと並んで歩く廊下を一人で抜け、校舎を出る。

向かう先は、ゼノの家だ。
途中から、ナマエは走り始めた。
冷たい風が頬に当たる。
鞄が背中で揺れる。
息が切れても、足を止めなかった。

ゼノの家に着くと、ゼノの母が「おかえりなさい、ナマエちゃん」と声をかけてくれたが、ナマエはそれに挨拶を返しながらも、足は止まらなかった。
階段を駆け上がり、ゼノの部屋の扉をノックするのもそこそこに開ける。

「ゼノ!」

机に向かっていたゼノが、珍しく目を丸くする。

「ナマエ?」

普段のナマエなら、必ずノックの後確認を入れてから入る。それどころか、こんなに慌てた声を出すことも少ない。
ゼノは手にしていたペンを置いた。

「そんなに慌ててどうしたんだい?」

ナマエは息を整える間も惜しむように、机へ駆け寄った。

「ゼノ、スタンのお家の場所、教えて!」

ゼノは一度瞬きをした。

「スタンの家?」
「うん」
「理由を聞いても?」
「今日、スタンが熱を出して学校を休んだの」

ゼノの表情から、わずかに笑みが消えた。

「熱?」
「朝、電話をくれたの。熱があるから学校を休むって。昨日、スタン、雨で濡れちゃったでしょ?私が濡れないように、ずっと傘をこっちに傾けてたから、スタンすごく濡れちゃってたし……」

ナマエは両手を握りしめる。

「きっと、体が冷えたんだと思う。私のせいで風邪を引いちゃったのかもしれない」
「それが直接の原因だと断定はできないよ」

ゼノは冷静に言った。

「感染症なら、症状が現れるまでの時間も考慮する必要がある。昨日の雨だけが原因とは限らない」
「でも、濡れたのは本当だよ」
「そうだね」
「スタンのお父さん、いつもお仕事で家にいないって聞いてたから……今、スタン、一人ぼっちかもしれない」

ナマエの声が小さくなる。

「ちゃんとご飯、食べてないかもしれない。水分もちゃんととってないかも。お薬も飲んだか分からないし……」

ゼノは黙ってナマエを見ていた。
大きな黒い瞳には、不安と心配がそのまま浮かんでいる。

今、自分ができることをしたい。

その思いが、全身から伝わってきた。
ナマエはまっすぐゼノを見る。

「私にできることを、何でもいいからしてあげたいの。だから、お願い。スタンのお家の場所、教えて」

ゼノはスタンリーの住所を知っていた。
初めてレールガンの試射を依頼した時、連絡手段と共に住所も聞いている。一度聞いた情報を、ゼノが忘れるはずもない。

「ふむ」

ゼノは短く頷いた。
そして椅子から立ち上がり、壁にかけてあった上着を手に取る。

「なら、僕も行こう」

ナマエは目を見開いた。

「ゼノも?」
「当然だよ。スタンは僕にとっても大切な友人だ。それに、君一人を初めて行く場所へ向かわせるより、僕が同行した方が効率的だろう」

ナマエの顔が明るくなる。

「ありがとう、ゼノ!」
「ただし、君は少し呼吸を整えた方が―――」
「でも少し待ってて。いるもの取ってくるから!」
「ああ、ナマエ―――」

ゼノの言葉が終わる前に、ナマエは部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる音。
玄関が開閉する音。
ゼノはしばらく、開け放たれた扉を眺めていた。

「まったく、行動力が先走っているね」

誰に言うでもなく呟き、苦笑する。
ナマエが戻るまでの間に、ゼノは自転車を家の前へ出した。行き先は歩くには遠い。自転車なら、陽が落ちる前に往復できる距離だ。
ほどなくして、向かいの家からナマエが駆けてくる。手には袋を下げていた。中身は冷却シート、スポーツ飲料、簡単な食材。母に事情を説明し、分けてもらったものだった。

「お待たせ、ゼノ!」
「では、行こう。後ろに乗るといい」

ゼノはナマエから受け取った袋を前カゴに入れて、自転車へ跨る。
ナマエは後ろの荷台へ座り、手をゼノの腰へ回した。

「しっかり掴まっているんだよ」
「うん」

自転車が走り出す。
冷たい風が二人の頬を撫でた。
しばらく走ると、住宅街の一角へ入る。
ナマエの家やゼノの家がある辺りと比べると、少し静かな場所だった。家々の間隔が広く、人通りも少ない。
ゼノは迷うことなく角を曲がり、一軒の家の前で自転車を止めた。ゼノが記憶していた住所に建っていたのは、平屋のガレージハウス。派手ではないが、きちんと手入れされた家だった。敷地の中には、見覚えのある自転車が置かれている。

「スタンの自転車だ」

ナマエが言った。

「住所も一致している。ここで間違いなさそうだね」

二人は玄関へ向かい、呼び鈴を押す。
家の中からは、すぐに反応がなかった。
もう一度押そうかと迷い始めた頃、ようやく足音が聞こえた。ゆっくりと玄関の扉が開く。
顔を見せたのは、スタンリーだった。
金髪は普段より乱れ、顔色もあまり良くない。立っていること自体が億劫そうだった。
スタンリーは、目の前に立つ二人を見た。
ナマエとゼノ。
一度目を閉じてから、もう一度目を開く。
やはりナマエとゼノだ。
熱のせいなのか、理解するまでに少し時間がかかっている。

「……あんたら、何でここにいんの」

いつものように眉をひそめているが、反応は少し遅い。声も掠れている。
ナマエはその様子を見た瞬間、胸が痛くなった。

「スタン、ごめんね」
「何が」
「熱出ちゃったの、昨日濡れたせいだよね。私が傘に入れてもらったから……ほんとにごめんね」

今にも泣きそうなほど申し訳なさそうな顔だった。
スタンリーは、はっきりと困惑した。
自分が熱を出したことを、ナマエのせいだと思ったことなど、一度もない。
そもそも傘へ入れたのも、自分の判断だ。
傘をナマエ側へ傾けたのも、自分がそうしたかったからそうした。

「いや、ナマエのせいじゃねえだろ」

スタンリーは額を押さえる。

「そもそも傘差し出したんも、濡れたんも、俺が勝手にやったことだし」
「でも……」
「ナマエ」

横からゼノが声を挟んだ。

「スタンも体調が悪いのだし、ここでの立ち話は非効率的だ」

そう言うと、ゼノは当然のように一歩中へ入った。

「おい、ゼノ」
「失礼するよ」
「もう入ってんじゃねえか」
「君が扉を開けた。つまり入室許可と解釈できる」
「相変わらず勝手な解釈すんね、あんた……」

熱でいつもより反論に勢いがないスタンリーをよそに、ナマエも「お邪魔します」と小さく言って中へ入った。
スタンリーは二人の背中を見て、深く息を吐く。
追い返すだけの気力もなかった。

家の中に人の気配はない。
居間も整っているが、物は少ない。
どこか音が吸い込まれるような雰囲気の、静かな家だった。

「お父さんは?」

ナマエが尋ねると、スタンリーは面倒そうに答えた。

「仕事。まだ帰ってねえよ」

ナマエはそれを聞いて、胸の奥がきゅっと痛んだ。
やはり、スタンリーは一人だった。

「部屋は?」

ゼノが尋ねる。
スタンリーは諦めたように、はあと息をついてから廊下の奥を指した。

「そっち」

スタンリーは二人に押されるように自室に戻った。
部屋の中も、本人らしく無駄が少ない。射撃に関する本や道具が整然と置かれ、机の上には教科書が積まれている。窓際には、子供の頃に獲得したものらしい射撃大会のトロフィーが置かれていた。

「はい、寝て」

ナマエが言う。

「そこまでしんどくねえよ」
「声も変だし、顔も赤いよ」
「熱あっからだろ」
「だから寝るの」

ナマエの声は穏やかだったが、珍しく譲らない響きがあった。
スタンリーはゼノを見る。
助けを求めたわけではない。
けれどゼノは、涼しい顔で頷いた。

「ナマエに従うのが賢明だろうね」
「二対一かよ」

文句を言いながらも、スタンリーはベッドへ横になった。

「スタン、ちょっとごめんね」

その瞬間。
ナマエは何のためらいもなく、スタンリーの額へ手を伸ばした。
小さな掌が、熱を測るように触れる。

「……っ」

スタンリーの体が硬直した。
ナマエの手が直接額に触れている。
額に触れた手は冷たすぎず、温かすぎず、やわらかかった。ナマエの黒い瞳がすぐ近くにある。心配そうに覗き込まれて、息が詰まる。

体温が上がった気がした。
いや、熱のせいだ。
絶対に熱のせいだ。

「まだ少し熱いね」

ナマエは心配そうに顔を近づける。

「しんどくない?」

スタンリーは答えられなかった。
大きな黒い瞳が、すぐ近くから自分を覗き込んでいる。

「スタン?」
「……別に」

ようやく絞り出す。

「でも、顔も赤いよ」
「熱のせい」

即答だった。
ゼノが横で目を細める。

「なるほど。発熱による顔面の紅潮というわけか」
「そうだよ」
「随分と局所的な温度上昇に見えるがね」
「ゼノ、黙んな」

ナマエは二人のやり取りの意味が分からず、首を傾げた。それから持ってきた袋を開き、冷却シートを取り出す。

「これ貼るね」
「何それ」
「冷却シート。ちょっとひんやりするよ」

そう言ってからナマエは台紙を剥がし、スタンリーの額へそっと貼りつけた。
ひやりとした感触が広がる。
スタンリーは小さく息を吐いた。
確かに気持ちがいい。
先ほどまで硬直していた肩から、少しずつ力が抜ける。

「どう?」
「……冷てえ」
「嫌?」
「いや、気持ちいい」
「よかった」

ナマエがほっと笑う。
その笑顔を見て、スタンリーはまた妙な気分になった。体調が悪いせいで、いつもより思考が鈍い。だから余計に、その笑顔が胸の奥へそのまま入ってくるような気がした。

「スタン、何か食べた?」

ナマエが尋ねる。
スタンリーは天井を見た。
朝は水を少し飲んだ。
昼は寝ていた。
冷蔵庫を開けるのも面倒で、まともなものは何も口にしていない。

「あー……食ってねえかも」
「何も?」
「たぶん」
「たぶんって……」

ナマエの眉が下がる。
次の瞬間には、彼女は立ち上がっていた。

「スタン、キッチン借りてもいい?」
「は?」
「何も食べないのは良くないよ」
「構わねえけど……別にそこまでしてもらわなくても―――」
「ありがとう。すぐ戻るから、スタンは寝てて」

スタンリーが言い切る前に、ナマエは言葉をかぶせる。
言うが早いか、ナマエは袋を抱えて部屋から出ていってしまった。
パタパタと廊下を小走りする足音が聞こえる。
残されたスタンリーは、ベッドへ転がったまま、扉を呆然と見つめた。
ゼノはその横で、楽しそうに口元を上げている。

「おお、実にエレガントな行動力だね」
「……なんで来たんよ」

スタンリーが尋ねる。

「ナマエが君を心配したからだよ」
「それは、なんとなく分かんよ」
「ナマエが君の体調不良を、一日中気にしていたようでね。放課後、僕の部屋へ飛び込んできて、君の住所を教えてほしいと懇願されたのさ」
「飛び込んできた?ナマエが?」
「珍しく、ノックも忘れるほど慌てていたよ」

スタンリーは目を瞬かせた。

「君が一人で食事も取っていないのではないかと心配していた。実際、その推測は正しかったようだね」

ゼノの黒い瞳が、静かにスタンリーを見つめる。

「彼女は『自分にできることをしてあげたい』と言った。だから、僕も同行したのさ」

スタンリーは額の冷却シートへ指を触れた。
ナマエが自分のために。
学校が終わるとすぐゼノの家へ走り、必要なものを揃え、自宅まで来た。

「……はっ、ナマエらしいな」

苦笑が漏れた。
その声には、呆れと、困惑と、それだけではない温かいものが混じっている。

「そうだね」

ゼノは穏やかに答えた。

「昔から、誰かのためとなると驚くほど行動が早い」
「自分のことってなると、我慢ばっかすんのにな」
「同感だよ。困ったものだ」

二人はしばらく黙った。
鍋や食器の触れ合う音がかすかに聞こえてくる。
静かだった家に、人の動く音がある。
スタンリーは、その音を聞いていた。

不思議な感覚だった。
いつもの家なのに、いつもと違う。
キッチンから料理の音が聞こえ、部屋にはゼノがいて、ナマエが戻ってくる気配を待っている。
それだけで、空気が少し変わったように思えた。

しばらくして、また廊下から足音がした。
扉が開くと、ナマエが両手でトレイを持って入ってきた。
器から白い湯気が立ち上っている。

「お待たせ」

ナマエはベッドの側まで来ると、首を傾けた。

「おかゆ作ったんだけど、食べられそう?」

スタンリーとゼノが、同時に器を見る。

「……おかゆ?」
「おかゆとは?」

二人の声が重なり、ナマエは少し驚いてから、ああ、と頷いた。

「おかゆはね、お米をたくさんのお水で柔らかく炊いた料理だよ。普通のご飯より水分が多くて、すごく柔らかいの。胃に負担が少ないから、日本では風邪を引いた時とか、体調が悪い時によく食べるんだよ」
「なるほど。炭水化物と水分を同時に摂取でき、咀嚼や消化にかかる負担も比較的少ないというわけだね」
「うん。今日は卵がゆにしたから、初めてでも食べやすいと思うよ。味も薄めにしたし、体が温まるから」

ナマエはベッドの側までトレイを運んだ。
ふわりと優しい匂いが広がる。
白く柔らかな米の中に、ふんわりと溶き卵が混ざっている。わずかに塩気のある湯気と、卵の優しい匂いが漂った。

スタンリーは匂いにつられるように上半身を起こし、器の中を見る。朝から何も食べていなかった胃が、遅れて空腹を訴え始めた。

「食べられそう?」

ナマエがもう一度尋ねる。
スタンリーは短く答えた。

「食う」

ナマエが笑う。

「よかった」

スタンリーはトレイを受け取り、器を支えた。
スプーンで一匙すくう。
湯気が立つ。
そのまま口へ入れようとして、ナマエに止められた。

「スタン、熱いよ」
「分かってんよ」
「火傷するから、ちゃんと冷ましてね」
「はいはい」

スタンリーは仕方なく、ふう、ふう、と息を吹きかけた。
少し冷ましたあと、口へ運ぶ。
優しい味だった。
強い味ではない。なのに、物足りなくない。温かくて、柔らかくて、飲み込むと胃の中がじんわりと温まる。
熱で重かった身体の奥に、ゆっくり火が灯るような感じがした。

「……うま」

言葉が、勝手にこぼれた。
ナマエの顔がぱっと明るくなる。

「ほんと?」
「ああ」

スタンリーはもう一匙すくった。
今度は自分で少し冷まし、口へ運ぶ。
一匙。
また一匙。
最初はゆっくりだった手が、少しずつ速くなる。
ゼノは椅子に座り、その様子を眺めていた。

「随分と食欲があるね、スタン」
「朝から何も食ってなかったかんね」
「つまり、ナマエの推測は完全に正しかったわけだ」
「うるせえな」
「でも、食べられてよかった」

ナマエは心底安心したように笑った。
器は、あっという間に空になった。
ナマエが少し驚いた顔をする。

「全部食べたね」
「ああ」
「お鍋にまだあるけど、もう少し食べる?」

スタンリーは一瞬だけ考えた。
病人らしく遠慮するという選択肢もあった。
けれど、胃はまだ温かいものを求めている。

「……食う」
「ふふ。取ってくるね」

ナマエは嬉しそうに空の器を持ち、再び部屋を出ていった。
二杯目も、あっという間だった。
食べ終わる頃には、スタンリーの顔色がほんの少しだけ落ち着いていた。ナマエは満足そうに頷き、食器や調理道具を片づけると、ゼノと一緒にスタンリーをもう一度ベッドへ寝かせた。

「もう起きてても平気だろ」
「だめ。熱があるんだから休むの」
「寝すぎて眠くねえんよ」
「横になってるだけでも違うから」
「ナマエの言う通りだよ、スタン。早期回復のためにも、しばらく安静にしている方がいい」
「ったく、あんたら過保護かよ」

口ではそう言いながらも、スタンリーは大人しく枕へ頭を戻した。
食事を取ったことで、先ほどまでの気怠さが少し軽くなっている。
三人は、しばらく他愛のない話をした。
学校であったことや、授業の進み具合。
ナマエは鞄からノートを取り出し、今日の授業内容を簡単にまとめたページを見せた。

「ここまで進んだよ。プリントは先生から預かってきたの」
「ああ、助かる」
「分からないところがあったら、一緒にやろうね」
「明日には学校行くから、問題ねえよ」
「無理はだめだよ」
「熱下がったら行く」
「下がらなかったら?」
「下がるね」
「おお、スタン。そういうものは気合いで決まるものではないよ」

ゼノが淡々と指摘する。

「ゼノまで病人扱いかよ」
「実際に病人だろう」
「軽い熱だっての」
「君の強がりは、この状況ではいささか信憑性に欠けるね」

スタンリーは不満そうに目を細めた。
ナマエが、そのやり取りを見て笑う。
それから少しだけ、声を落とした。

「でもね、スタン」
「何よ」
「今日、スタンが学校にいなくて、私少し寂しかった」

スタンリーが動きを止める。
ゼノの目も、ぱちりと開かれた。
ナマエは自分の膝の上に置いた手を見つめながら、素直に続けた。

「朝も、ランチの時も、帰る時も。スタンがいないと、学校がいつもより静かに感じたの。不思議だね。スタン、そんなにたくさんお喋りするわけじゃないのに」
「どういう意味よ」
「ふふ。悪い意味じゃないよ」

ナマエは顔を上げ、柔らかく笑った。

「スタンが隣にいるのが、当たり前になってたんだなって思ったの」

スタンリーは返事をすることができなかった。
胸の奥が、熱とは別の理由で温かくなる。
ナマエにとって、自分が隣にいることは当たり前。
いないと寂しい。
その言葉は、自分が思っているよりも、ずっと深いところへ落ちてきた。

「だから、早く元気になってね」

朗らかに笑いながら、まっすぐな言葉をぶつけられ、スタンリーは思わず目を逸らした。

「……飯も食ったし、治んだろ」

声が少しだけ低くなっていた。
スタンリーの言葉に、ナマエはまたふふと笑う。
ゼノは何も言わない。
ただ穏やかな表情で、スタンリーの横顔を静かに観察していた。

***

やがて、窓の外の光が少しずつ橙色へ変わっていく。
ナマエは時計を見て、名残惜しそうに立ち上がった。

「そろそろ帰らなきゃ」
「そうだね。日が落ちる前に戻るとしよう」

ゼノも椅子から立つ。
ナマエは持ってきた袋の中から、最後にスポーツ飲料のボトルを取り出し、スタンリーのベッド脇にあるサイドテーブルへ置いた。

「これ、ちゃんと飲んでね。水分取らなきゃだめだよ」
「分かった」
「一気にじゃなくて、少しずつね」
「はいはい」
「お薬は?」
「家にあんだろ」
「熱も、ちゃんと測ってね」
「分かったって」

スタンリーは少しうんざりした顔をしたが、声には本気の苛立ちはなかった。
むしろ、心配されていることをどう受け取ればいいのか分からず、持て余しているようにも見える。

その時だった。
扉の向こうから、玄関が開く音がした。
スタンリーの表情が少し変わる。

「あー……親父かも」

足音が廊下を進み、こちらへ向かって来る。
やがて、部屋の扉が開いた。

そこに立っていたのは、長身の男性だった。
肩幅が広く、仕事帰りらしい服装をしている。顔立ちは厳しく、表情も豊かではない。けれど、目元や鼻筋にはどこかスタンリーと似た面影があった。
瞳は、スタンリーのアンバーとは違う、冷たい青。
その青い目が、部屋にいるナマエとゼノを捉え、わずかに見開かれた。

「あ、お邪魔してます」

最初に頭を下げたのはナマエだった。

「ナマエ・ミョウジです。スタンと同じ学校に通っています」

ゼノも落ち着いて続ける。

「ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドです。スタンとは以前から親しくさせてもらっています」

スタンリーの父親は、二人を交互に見た。
そして短く答える。

「そうか。よろしく」

愛想のある言い方ではない。
けれど、拒絶するような響きもなかった。
スタンリーの父はベッドのスタンリーを見る。

「体調は?」
「まだ熱っぽいけど、飯食ったし、寝てれば治んだろ」
「そうか」

要点だけの、とても短いやり取りだった。
親子の会話としては少しそっけない。だが、スタンリーの父の視線は、きちんと息子の顔色を見ていた。ナマエはそれに気づいて、少しだけ安心した。
スタンリーの父は、今度はナマエとゼノに視線を向ける。

「もうじき暗くなる。明るいうちに帰った方がいい」

確かに、夕陽はだいぶ低くなっていた。
ゼノが頷く。

「そのつもりです」

ナマエはベッドの側へ寄った。

「スタン、無理しないで、ゆっくり休んでね」
「ああ」
「もし明日も具合悪かったら、ちゃんと休んで」
「飯も食ったし、明日には治ってんよ」

スタンリーはそう言って、少しだけ目元を緩めた。
朝よりも声に力がある。
そのことに、ナマエは安心したように笑った。

「うん。でも無理はしないでね」
「分かった」

ゼノもスタンリーを見る。

「体調が戻るまでは、無駄に動かないことだね。君が倒れると、ナマエが心配で大変なことになる」
「ああ、それはもう分かった」
「理解が早くて何よりだよ」

 軽いやり取りに、ナマエは小さく笑った。

「またね、スタン」
「では、また」
「ああ。またな」

ナマエとゼノは部屋を出た。
玄関まで来ると、スタンリーの父が見送るように立っていた。表情は相変わらず豊かではない。けれど、扉を開ける前、彼は二人に向かって静かに言った。

「ありがとう。わざわざすまなかったね」

ナマエとゼノが振り返る。
スタンリーの父親は、相変わらず大きく表情を変えてはいなかった。
けれど、その青い瞳は、先ほどより少し柔らかく見えた。

「君たちも、気をつけて帰りなさい」

ナマエは明るく笑い、頭を下げる。

「はい。お邪魔しました」
「失礼します」

ゼノも丁寧に一礼した。
家を出ると、冷たい夕方の空気が二人を包んだ。
ゼノが自転車へ跨り、ナマエが後ろに座る。
来た時と同じように、ナマエはゼノの腰へ手を回した。
自転車がゆっくりと走り出す。
空は薄い橙色から、少しずつ群青へ変わり始めていた。

「スタン、早く元気になるといいね」

ナマエが呟くと、ゼノは前を向いたまま穏やかに答えた。

「そうだね。君のおかゆを二杯も食べたのなら、回復は早いだろう」
「ほんと?」
「少なくとも、食欲があるのは良い兆候だよ」
「そっか。よかった……」

ナマエの声には、心からの安堵が滲んでいた。
ゼノは少しだけ口元を緩める。
ナマエは昔からそうだ。自分ができることを探して、誰かのために動く。知識や能力で勝負するわけではない。だが、その行動は時に、どんな合理的判断よりも真っ直ぐに人の心へ届く。
スタンリーも、きっとそう感じただろう。
そして彼は、それをどう扱えばいいのか、まだ分からずにいる。

「あと、水分とるのを忘れなければいいけど」
「とるよ。君に言われたのだからね」
「そうかな」
「そうだよ」

ゼノは断言した。
ナマエは「そうだといいな」と少しだけ笑い、ゼノの背中へ頬を寄せるようにしながら、夕暮れの町を眺めた。

***

翌朝。空は晴れていた。
昨日までの曇り模様はなく、冷たい朝の光が道を照らしている。

ナマエはいつもより少し早く支度を終えた。
スタンリーには無理をしないでほしい。
けれど、できれば会いたい。
相反する気持ちを抱えながら、ナマエは玄関を出た。

そして、足を止めた。
いつもの場所に、人影があった。
ゼノの家の前。

壁にもたれかかるようにして、スタンリーが立っている。

金髪はきちんと整えられ、口にはロリポップ。顔色も昨日より良く、少なくとも熱に浮かされているようには見えない。
ナマエの顔が、一瞬でぱっと明るくなった。

「スタン!」

彼女は嬉しそうに駆け寄る。

「もう大丈夫なの?」
「ああ。熱下がったかんね」
「ほんとに?」
「あんたらうるせえし、ちゃんと測ったよ」

ナマエはスタンリーの前まで来ると、安心したように笑った。

「よかった……」

そのふにゃりと力の抜けたような笑顔を見た瞬間、昨日彼女が言った言葉がスタンリーの脳裏をよぎる。

スタンが学校にいなくて、少し寂しかった。
隣にいるのが、当たり前になっていた。

なぜかずっと、耳に残って離れない。

「……昨日のおかゆ、あんがとな」

スタンリーがポツリと呟くように言う。
ナマエは少し驚いたあと、さらに嬉しそうに笑った。

「うん」

二人は並んで歩き出した。
昨日は一人だった道。
今日はまた、隣にスタンリーがいる。
ナマエはそれだけで、朝の景色が少し明るく見える気がした。

「スタン」
「何」
「今日も一緒で嬉しい」

あまりにもためらいなく真っ直ぐに言われて、スタンリーは足を止めかけたが、何とか歩き続ける。

「……大げさ」
「そう?」
「一日休んだだけじゃん」
「でも、その一日が寂しかったから」

ナマエは当たり前のように言う。
彼女は、なぜこうも恥ずかしげもなく、まっすぐな言葉を発することができるのか。スタンリーは内心頭を抱える。返事に困り、結局顔をそらした。

「……そ」

それだけ言うのが精一杯だった。
ナマエは不思議そうに彼を見上げたが、すぐに前を向いて歩き出した。

スタンリーは隣を歩くナマエをちらりと見る。
朝の光の中で、黒い髪が揺れている。前を向いて、上機嫌な様子でにこにこしている。
スタンリーは呆れたように息を吐きながら、その歩幅をナマエに合わせる。

二人の足音が、朝の道に並ぶ。
昨日途切れた日常は、何事もなかったように、また静かに動き始めていた。

— End —

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