Novel12 days ago · 1w chars · 1 pages

絆されてない、絆されたくない

沙也沙也

絶対に絆されたくないと意地を張る不器用な男と、無邪気な笑顔の裏側で不安に苛まれている少女の恋物語。 ローエンは自分の気持ちもなんとなくわかっているし、他の誰より夢主を気にかけている。 でも、改めて言葉や態度に出すのは、なんとなく癪だと思っている。 ……なかんじの話にしようと思ったんだけど、普通に会話させてるだけで楽しくて、恋はいつ始まるの?な序章です。 「天満つ恋の下で7」にお試しローエンとして展示していました。

空を覆う雲の隙間から、黄金色の陽光が細い糸のように降り注いでいる。
 湖面は光を乱反射する巨大な鏡面となり、絶え間なく波打つそれは岸まで寄せては消えていく。

 清泉町の外れに広がるシードル湖の畔。私は草の上にへたり込んだまま、自らの不甲斐なさにひたすら唇を噛み締めていた。
 吹き抜ける風は容赦なく体温を奪い去っていく。
 右の足首の奥深くでは、燃え盛る小さな火が燻っているような鈍い熱が脈打っており、立ち上がる気力を根こそぎ奪い去っていた。

 たかが野生の獣。されど猪。深い茂みの陰から弾丸のように飛び出してきた毛皮の突撃を躱しきれず、無様に転倒した己の未熟さに、両手で顔を覆い隠したくなる衝動に駆られた。
 草擦れの音が遠くで鳴る。
 鳥たちの囀りは、私の情けなさを嘲笑うかのごとく高い空へと吸い込まれていった。

 どうやって自力で本部まで戻るべきか。ひたすらに思考を巡らせるものの、僅かに動かすだけで走る激痛が、現実の厳しさを突きつけてくる。

「お前、なにしてんの?」

 不意に頭上から降ってきた低い響きに、びくりと肩が大きく跳ね上がる。
 恐る恐る顔を上げると、逆光の中に背の高いシルエットが立っていた。

 陽光を背負ったその輪郭は、一瞬だけ舞い降りた天の使いのようにも見えたが、見慣れた癖のある髪と、悪戯っぽく細められた瞳が相手の正体を告げている。
 彼は私の人生に深く根を張る大樹のような存在だ。

「あ、ローエン」

 思わずその名を口にすれば、男は心底不思議そうな表情を作って小さく首を傾げる。
 彼――ローエンはそのずば抜けた実力で、騎士団第五小隊の副隊長という座に就いた人物である。

 私は取り繕うように愛想笑いを浮かべながら、ぶんぶんと手を振って返した。
 すると、近づいてきた彼がにやりと意地悪い弧を口元に描く。
 彼の纏う服から金属が触れ合う微かな音が、歩みに合わせて耳膜を叩いた。

「副隊長様と呼べ」

「やだよ。てかそれなにムーブ?」

「冗談だ。で、なにしてる?」

 相変わらずの軽口に、強張っていた胸の奥がほんの少しだけ解れていく。
 年齢が近く、彼がまだ平の騎士だった頃からの付き合いである私たちは、とても気安い間柄だった。

 互いの性格の裏の裏まで知り尽くしている仲と言っても過言ではない。だからこそ、今この情けない姿を見られるのは何よりも避けたかった事態でもある。
 だが、鋭い観察眼を持つ彼を誤魔化すことなど、到底不可能に近い。

「う……見逃してローエン」

「そりゃ、話によんだろ」

 肩を竦めて見せる彼の動作には、微塵もここから立ち去る気配がない。腕を組み、私を見下ろす視線には明確な意志が宿っていた。
 逃げ道がないことを悟った私は、仕方なしにぽつりと言葉を零す。

「……見回り中に茂みから出てきた猪に突撃されて足を捻りました」

 静寂が舞い降りる。
 水を渡る風の音だけが、やけに大きく響いた。

 彼の表情から一切の感情が抜け落ち、まるで精巧な彫像のごとく固まっている。
 その沈黙は私にとって、肌を刺す無数の針の雨だった。

「…………」

「無言やめて! わかってるよ、仮にも西風騎士が! アホ丸出しでごめん!」

 羞恥心で顔が爆発してしまいそうだ。私は両手で顔を覆い、膝の間に埋もれるように身を縮める。
 心臓が早鐘を打ち、全身の血液が沸騰したかのように熱い。
 しかし、予想していたような嘲笑や厳しい叱責の言葉は降ってこなかった。

「何も言ってねぇ。……ほら、背中貸してやる」

 衣擦れの音が響き、視界の端で彼が傍らに屈み込むのが見えた。
 広く逞しい背が、無防備に私へと向けられる。
 驚愕に目を見開いた私は、思い切り首を左右に振った。

「い、いいよ。もう少し休んだら歩けそうだから――」

 申し訳なさと、恥ずかしさと、そして何より彼の温もりに触れることへの得体の知れない恐れが、私を後退りさせる。

「三秒経ったら、姫抱きに変更な。さーん、にー……」

「わあーーっ、わかったってばっ!」

 有無を言わさぬカウントダウンに、私は慌てて彼の背中に飛びついた。
 首に腕を回し、身を委ねる。

 鼻先を掠めるのは、革と鉄、そして微かな陽溜まりの匂い。
 その瞬間、彼が僅かに息を呑み、動きをぴたりと止めたのがわかった。

「え、なに? 三秒以内だったよね……?」

「……お前、もう少し防具つけろ」

「なんで? 銃撃つとき邪魔だし、私の売りは身軽さだって知ってるでしょ?」

「……へいへい」

 なんだかよくわからないが、彼は短く息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。
 私の体重などまるで羽毛のごとく感じているのか、彼の足取りは驚くほど力強く、そして安定している。
 背中越しに伝わってくる体温は、冷え切った私を包み込む冬の暖炉だ。

 耳元で聞こえる彼の低い心音は、規則正しい太鼓の響きとなって、私の内側を満たしていく。
 彼越しに見える景色は普段よりも高く、澄んだ青空が一層美しく感じられた。
 心地よい揺れに身を任せながら、私はそっと、誰にも聞こえないような声で囁く。

「……見逃して、なんて言ったけど、見つけてくれてほんとは嬉しかった。ありがとね、ローエン」

 彼が僅かに顔を傾けたのが気配でわかる。
 微かな沈黙の後、彼から返ってきたのは、照れ隠しのような、それでいて絶対の自信に満ちた言葉だった。

「その足が治ったら、猪くらい秒でかわして倒せるように鍛えてやるから、楽しみにしとけ」

「それ、ローエンだけが楽しいやつ!」

 呆れたような、それでいて微かに口角の上がった横顔が視界の端を掠めていく。
 文句を言い返しつつ、大人しく首に回した腕へ力を込めても、逞しい体躯は揺るぎなく私を支え続けていた。
 規則的なリズムが心地よい子守唄のようだ。

 普段なら絶対に見せることのない弱みを握られたというのに、何故か胸の奥底は陽だまりのように温かい。
 悪路を避けて進む青年の足取りは軽やかで、捻った足首へ衝撃が響くことは一度もなかった。
 湖面から吹き付ける風が前髪を大きく揺らす。

 しかし、密着した前面から伝わってくる高い熱量が、風の冷たさを容易く中和していた。
 鼻腔をくすぐるのは、使い込まれた鉄の匂い。
 それは長年嗅ぎ慣れた安心の象徴であると同時に、今の私を酷く狼狽えさせる劇薬だった。

 不意に、彼の足取りがぴたりと止まる。
 前方から響いてきたのは、荷馬車を引く商人たちのくぐもった話し声。

 城門へ向かう街道に合流すれば、当然すれ違う人々の数は増えていく。
 誰かにこの無様な姿を見られるかもしれないという事実に、急激に顔面が熱を帯び始めた。
 慌てて身を捩り、降りようと試みる。

「ちょっと、降ろして……っ、自力で歩くから」

 懇願するような小声を耳元へ落とした。
 だが、両腿をホールドする力強い腕は、鋼の万力となって一切の逃走を許さない。

「暴れんな。落ちたら余計に怪我するぞ」

 再び歩き始めた彼の低く凄むような声色は、幼馴染へ向ける気安さよりも、部下を諫める上官の響きだ。
 その冷ややかな音色に、無意識のうちに息を呑む。

 ちらりと見上げた先にある赤を秘めた氷の瞳は、前方を見据えたままぴくりとも動かない。
 真剣な眼差しは、獲物を狙う鷹のごとく鋭かった。

 こんな時くらい、いつもの軽口で誤魔化してくれればいいのに。
 変に真面目な顔をされると、こちらまでどう対応していいのかわからなくなってしまう。

 ぐるぐると巡る思考を強制終了させるように、私は彼の襟元に額を押し付けた。
 冷たい布の感触が、茹で上がりそうな頬の熱を僅かに奪っていく。

 街道を行き交う人々の視線が、好奇の矢となって次々と突き刺さるのを感じた。
 ヒソヒソという囁き声が耳打ちのように鼓膜を打つ。

「あれ、西風騎士団の……」

「怪我でもしたのかしら」

 同情と興味が入り交じった言葉の破片から逃れるべく、ぎゅっと目を閉じ、さらに深く広い背へと身を隠した。
 呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。
 惨めさと恥ずかしさが入り混じった泥水が、胃を重く満たしていった。

 そんな私の様子に気づいたのか、彼の歩調がほんの少しだけ速まる。
 周囲の喧騒を切り裂くように、力強い一歩が石畳を叩いた。

「顔、隠しとけ」

 ぽつりと零れ落ちた言葉は、春の雪解けのように優しい。その不器用な気遣いに、目の奥がつん、と痛んだ。

 本当は、誰よりも私の性格を熟知しているからこその言葉なのだろう。
 強がりで、弱音を吐くのが苦手で、人前で失敗することを何よりも恐れる本質を、彼は見抜いている。
 ぎこちなく頷きを返し、指定された通りに彼のマントを引き寄せて顔を埋めた。

 柔らかな布地越しに聞こえてくる心音は、少しだけテンポが速い気がする。
 それが早歩きのせいなのか、それとも別の理由があるのか、探り当てようとするのは自意識過剰というものだろう。

 やがて、重厚な城門の前で、門番の騎士たちが弾かれたように敬礼する気配が、空気の揺らぎとなって伝わってきた。

「ローエン副隊長! お疲れ様です!」

「ああ。ちょっと野暮用でな、大聖堂へ直行する」

 普段通りの落ち着き払った声音で応じる彼に対し、私はただ息を潜めることしかできない。

 石造りの階段を上るたび、強靭な肉体がリズミカルに上下する。
 その反復運動に身を委ねているうち、不思議と張り詰めていた緊張の糸が緩んでいった。

 いつからだろうか。
 ただの同期だった男が、私の背を軽く追い越し、大勢の部下を束ねる立場になったのは。

 いつの間にか手の届かない遠い場所へ行ってしまったような寂しさと、それでもこうして変わらず接してくれる安堵感が、胸の中でぐるぐると模様を描いている。

 廊下に反響する足音が、目的地が近いことを告げていた。
 大聖堂の重たい扉を蹴り開ける乱暴な音が響き、白を基調とした室内へ雪崩れ込んだ。

「バーバラ、いるか? 捻挫の急患だ」

 遠慮のない呼びかけに、奥の方で作業をしていた少女が肩をびくりと跳ねさせる。

「ローエン副隊長! それに……えっと、酷い怪我ですか!?」

 慌てふためくバーバラを前に、彼はゆっくりと私を椅子の上へ降ろした。足が床に触れた瞬間、じんわりとした痛みがぶり返す。
 小さく顔をしかめる様子を見て、彼は責めるような視線を送ってきた。

「猪にタックルされて派手に転んだらしい。骨には異常なさそうだが、念のため診てやってくれ」

 簡潔な状況説明の後、男は乱れた衣服を直しながら一歩後ろへ下がる。
 途端に、彼との間にぽっかりと冷たい空間が生まれた。さっきまで密着していたからこそ、その喪失感がやけに大きい。

 バーバラが手際よくブーツを脱がせ、腫れ上がった右足へ治癒の光を当て始める。
 ひんやりとした清らかなエネルギーが患部へ浸透し、痛みが嘘のように引いていった。

「これなら、数日安静にしていれば治りますよ。でも、無理は絶対禁物ですからね」

「ありがとう。ご迷惑をおかけしました……」

 申し訳なさに俯きながら礼を述べると、頭上から大きな溜息が降ってくる。

「わかったら、しばらくは見回り任務から外れることだな。大人しく書類整理でもしてろ」

 呆れ半分、心配半分の言葉に、思わず反論の声を上げてしまう。

「書類仕事なんて一番苦手だって知ってるくせに! 私から動くことを奪ったら何も残らないよ」

 唇を尖らせて抗議すれば、彼が意地悪な笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。

「じゃあ、毎日俺が直々に特訓をつけてやる。逃げ出さないように首輪でもつけるか?」

 冗談めかした声音だが、奥底に光る狂気じみた色に、心臓が大きく跳ねた。
 視線を逸らし、赤くなった耳朶を誤魔化すように髪を弄る。

「……そんなの、絶対に断る」

 精一杯の強がりは、微かな震えを伴って虚空へ消えていった。

 数日後。
 西風騎士団本部の図書館で、高く積まれた調書の山と格闘していると、バサリという羊皮紙の崩れるノイズが鼓膜を打った。
 溜息を一つ吐き出し、散乱した紙片を拾い集める。

 右足首の痛みはすっかり引いたものの、あの副隊長様から下された謹慎命令は、私をこの空間へ容易く縛り付けていた。
 ふと目をやれば、窓枠を切り取る空が、熟れきった果実のように鮮やかな赤へ染まり始めている。

「あーあ、早く外を走りたいな」

 誰の耳にも届くことなく、独り言は乾いた大気へ溶けていく。
 突如、図書館の扉が鈍い軋みと共に開かれた。現れたのは、最近思考を専占してやまない憎き相手である。
 廊下の灯りを背に受けた青年の輪郭は、黄金の糸を紡いだ絵画のごとく輝いて見えた。

「生きてるか、サボり魔」

「サボってないよ。この膨大な事務作業、ローエンが押し付けたんでしょ」

 容赦なく降ってくるからかいの文句は、痛いところを的確に突いていた。恨みがましい眼差しを向けても、彼は風に舞う木の葉のように軽やかに抗議を受け流す。

 近づいてくる硬質なブーツの足音が、心拍数を否応なく引き上げていった。
 机の横に立った同期殿は、無造作に手元を覗き込む。

「進捗は半分ってところか。相変わらず筆の進みが遅いな」

「私の本来の役目は銃を撃つ行為だよ。ペンを握る労働じゃないもん」

 反論しながらも、どうしても顔を上げる勇気が出ない。
 先日見せられた真剣な表情と、奥底に潜んでいた熱を、昨日の出来事のごとく鮮明に思い出してしまうからだ。

 視界の端に映っていた大きな掌が、不意に私の頭頂部へと置かれる。
 髪越しに伝わってくる強烈な温度は、まるで熱した鉄を押し当てられたかのようだ。

「……っ、な、なに?」

「熱はないな。大人しく机に向かっているから、体調でも崩したのかと思ったぜ」

 意地悪な響きを含む声色とは裏腹に、前髪を梳く不器用な労りは、荒野へ落ちる一滴の甘い雫だ。

 払いのけようと首を振るが、厚みのある右手は容易く動きを封じ込める。
 至近距離で見下ろしてくる赤みの強い瞳は、全てを見透かす冷徹な鏡のようだった。
 静寂が降りた場に、お互いの呼吸のリズムだけがやけに大きく響いている。

「片付けが終わったら、後で飯でも奢ってやるよ」

「ほんと!? エンジェルズシェアの新作カクテルが飲みたい!」

 現金な反応を示した自分を見て、ローエンは風に揺れる大樹のように肩を震わせて吹き出した。

「そういう性格は昔から全く変わらねぇな」

 楽しげに細められた目元には、等身大の素顔が覗いている。無防備な相貌が、真綿で首を絞められるかのように心臓の裏側を甘く締め付けた。

 発言の端々に散りばめられた特別扱いは、心を惑わす猛毒だ。
 ただの仲間や友人という枠組みから、ほんの少しでもはみ出す未来を許してくれるのだろうか。
 胸元へそっと手を当てると、脈動が直接皮膚へ伝わってきた。煩い鼓動を悟られないよう、再び未処理の束へ向き直る。

「言質は取ったからね。絶対奢ってもらうんだから」

「へいへい。それまでに今日の仕事を終わらせるこったな」

 背を向けたまま交わすやり取りは、何気ない日常の一コマである。
 彼が図書館を出ていき静寂を取り戻した空間で、私は火照った両頬を手で挟み込み、深く呼吸を繰り返した。集中力を掻き乱されながらも、インクを走らせる速度は劇的に向上している。

 極上の美酒と二人きりで過ごすひとときが待っているという報酬は、砂漠で見つけたオアシスのように枯渇していた活力を蘇らせたのだった。

 外の景色が、すっかり濃紺へ染まりきった頃。
 ようやく全ての書類に承認印を押し終え、凝り固まった関節を回して大きく伸びをした。
 達成感と共に押し寄せる疲労感は、鉛のように重たい。だが、内側に灯った喜びの感情は、どんな疲れも燃やし尽くしてくれた。

 待ち合わせ場所の噴水広場へ向かうと、既にそこには見知ったシルエットが佇んでいた。
 夜風に靡くマントが、暗闇の中で生き物のように蠢いている。

「お待たせ」

「珍しいな。定刻通りに来るなんて」

 振り返った表情に微かな驚きが走る。

「失礼ね。ご褒美が懸かってる時は本気を出すの」

 ふわりと微笑みかけると、相手も釣られたように口角を上げた。
 並んで歩き出すと、自然と袖が触れ合いそうになる。ほんの数センチの間隔が、底知れぬ深淵のように遠く感じられた。
 賑わう酒場の入り口を開けると、芳醇な麦酒の匂いと客たちの熱気が、巨大な波となって全身へ押し寄せてきた。

 喧騒が渦巻くエンジェルズシェアの店内は、色とりどりの感情が交差する場所だ。
 私たちは運良く空いていたカウンターの隅へ腰を下ろした。すぐ隣に座る彼の肩が、ふとした拍子に私の二の腕を掠める。
 その僅かな接触だけで、全身へ熱が駆け巡った。

 カウンター越しにマスターが差し出したのは、約束通りの色鮮やかな新作カクテルである。
 薄張りのグラスを満たす液体は、沈みゆく夕陽を溶かした宝石のようだ。結露した表面を指先でなぞると、冷たい水滴がゆっくりと滑り落ちていく。

 隣を見上げれば、彼はアップルサイダーが入ったグラスを傾けていた。
 喉仏が上下する無骨な動きと、微かに開いた唇から漏れる息が、氷の溶ける乾いた音に混じって鼓膜を震わせる。

「どうだ、美味いか?」

「うん。甘くて、でも後味がスッキリしてる」

 言葉を交わすたび、アルコールの香りが混じった熱い吐息が頬を撫でる。
 無意識のうちに、己のグラスを握る力が強くなった。顔の熱さを酒のせいにすべく、私は冷たい液体を一気に呷る。

「おい、そんなペースで飲むな。悪酔いするぞ」

 窘める声色は、聞き分けのない子供を叱る保護者の響きだった。その余裕ぶった態度が、急に酷く腹立たしく感じられる。
 私は空になったグラスをことりと音を立てて置いた。

「別に平気だよ。ローエンこそ、明日も朝練があるんじゃないの?」

「俺の心配より、自分の足の心配をしろ。まだ完治してねぇんだからな」

 向けられた瞳の奥には、珍しく純粋な心配の色が揺らいでいた。
 素直に受け取ればいい好意なのに、どうしても言葉の裏を勘繰ってしまう。
 ただの幼馴染だから気にかけてくれているのか、それとも別の感情があるのか。

 永遠に解けない知恵の輪を渡された気分だ。

「……もう痛くないもん。明日から見回りに復帰する」

「却下だ。最低でもあと三日は大人しくしてろ」

「横暴! 大団長に直訴してやるんだから!」

 わざとらしく口を尖らせてみせると、彼は呆れたように大きな掌で顔を覆った。指の隙間から漏れる苦笑は、張り詰めた空気を和らげる春風のごとく穏やかだ。

 彼が軽く手招きすると、店員が素早くおかわりを運んでくる。今度は少し度数の低いフルーツワインが私の前に置かれた。
 無言の気遣いが、じわじわと胸の奥底を侵食していく。

「お前が動けない間、俺が代わりにあの猪を狩ってきてやるよ。夕飯のシチューの具にしてやるから、それで我慢しろ」

「なにそれ。……じゃあ、美味しく煮込んでよね」

 軽口を叩き合いながら、お互いの視線が空中で交錯する。周りの喧騒が遠ざかり、まるで二人だけが透明な硝子玉の中に閉じ込められたかのようだ。
 彼の赤く冷たい瞳に、私の顔が小さく映り込んでいるのがわかる。伸ばせば届く距離にあるのに、その数センチがどうしようもなく遠い。

 テーブルの上で微かに動いた彼の手が、私の指先に触れるか触れないかの位置で止まった。
 脈打つ血液の音が、自分の耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
 触れてほしいと願う心と、今の関係が壊れることを恐れる心が、シーソーのように揺れ動いていた。

 酒場のマスターがベルを鳴らし、ラストオーダーの時間を告げる。
 魔法が解ける時刻を知らせる冷酷な鐘の音だ。

「……そろそろ、出るか」

 名残惜しそうにグラスの底を回してから、ローエンが静かに立ち上がった。私もそれに倣って椅子から降りようとして、捻挫した右足に微かな違和感が走る。

 思わず小さく声が漏れ、バランスを崩しかけた。床に倒れ込むより早く、強靭な腕が私の腰を抱き寄せる。

「ほら見ろ。だから無理するなって言ったんだ」

 耳元で囁かれた低い声は、背筋を震わせる甘い毒だった。
 彼の胸板に額がぶつかり、厚い布地越しに力強い心音が伝わってくる。見上げると、苛立ちと心配が入り混じった複雑な表情がそこにあった。
 私を支える腕の力は強く、決して逃がさないという意思を感じさせる。

 周囲の客たちは誰もこちらを気にしていないが、私の世界は彼の色だけで染まり切っていた。微かに見上げた眼差しの先で、不満げに歪められた端正な顔立ちが影を落とす。
 重なる吐息が、前髪をふわりと揺らした。

「ご、ごめん……ちょっと気が緩んで」

 言い訳を口にしながら彼の襟元を軽く押し返そうとするものの、腰に回された腕は微動だにしない。
 それどころか、引き寄せる腕の力は更に強まり、布越しに伝わる体温が急激に跳ね上がるのを感じる。

 交錯する瞳の光は、獲物の逃げ場を奪う透明な蜘蛛の糸だ。

「……ったく、俺が隣にいて正解だったな」

 小さく零された呟きには、安堵と微量の独占欲が滲んでいた。その低い響きは、極上の媚薬のように耳の奥底を痺れさせる。
 そのまま半ば抱き抱えられるような体勢で、私たちは夜の街へと足を踏み出した。

 酒場の重たい扉が背後で閉まると、夜風が火照った頬の表面を滑っていく。
 歩幅を極端に狭めてくれるローエンの気遣いが、申し訳なさと同時に得体の知れない歓喜を連れてきた。

「寒くねぇか?」

「うん、大丈夫。ローエンが……凄く暖かいから」

 無意識に本音を零してしまい、慌てて己の口元を両手で覆い隠す。静寂の降りた夜道は、私の不用意な失言を際立たせてしまう。
 チラリと隣を盗み見ると、ローエンは明後日の方向を見つめたままだ。

 無言の行動で示されたその照れ隠しが、どうしようもなく愛おしい。不意に伸びてきた無骨な指先が、迷子を繋ぎ止めるように私の手をすっぽりと包み込んだ。

「転ばないように、手、繋いでおくからな」

 弁解めいた台詞と共に握り込まれた掌は、少しだけ汗ばんでいる。ぎこちない沈黙が二人の間に落ちるものの、それは全く不快なものではない。
 規則正しく刻まれる足音だけが、甘美な二重奏のように星空へ響き渡っていく。
 騎士団の宿舎へ続く階段が、今日ばかりは永遠に終わらなければいいのにと、密かに願ってしまった。

 宵の風が火照る頬を撫でる感覚は、ひんやりと冷たいのに、絡め合う互いの指だけは、理性をどろどろに溶かすほどに熱い。半歩先を歩く広い背中は、あらゆる嵐を退ける巨木のように頼もしかった。
 時折ちらりと振り返る赤い氷の双眸は、隠された奥底まで見透かしているように思える。

 騎士団宿舎の門が前方へ見えてきた途端、胸の奥が冷たく縮み上がった。
 この心地よい温もりを手放した瞬間、ただの気安い同期という枠組みへ強制送還されてしまうのではないだろうか。
 そんな得体の知れない恐怖が、じわじわとつま先から這い上がってくる。
 私は必死に口角を引き上げ、一切の陰りを含まない満面の笑みを顔面へ貼り付けた。
 朗らかな表情の裏側に渦巻く見苦しい執着心を、隣を進む青年へ悟られるわけにはいかない。

「送ってくれてありがとう、ローエン」

 無邪気に振り絞った声色は、いつもと変わらず空気を震わせたはずだ。
 ゆっくりと指の拘束が解かれ、素肌が急激に熱を奪われていく。どうしようもない喪失感に耐えきれず俯きかけた刹那、不意に髪を乱暴な動作で掻き回された。

「……明日も様子を見に行く。勝手に動き回るなよ」

 耳元へ落とされた低い響きに、はっとして視線を上げると、ローエンはバツが悪そうに明後日の方向を睨みつけていた。
 外套の裾を翻して踵を返す足早な後ろ姿に、ぽつんと取り残された私は、撫でられた頭頂部を両腕で押さえ、力なくその場へしゃがみ込む。

 体内に燻る呼気が、暗がりの底へ白く溶けていった。

— End —

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Sakuria
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