街の冬はいっそう深くなっていた。
朝になると窓ガラスの端がうっすら曇り、外へ出れば鼻の奥がつんとするような冷気が肌を刺す。ナマエはふわふわした白いマフラーに口元を埋めながら、家の前の小さな段差をぴょんと越えた。吐いた息が白くなるのが少し面白くて、何度も「はあ」と息を吐いては空に溶けていくのを見つめる。
冬の空は澄んでいて、透き通るような静けさがあった。
向かいの家の窓には、もう明かりがついている。ゼノは朝から何かをしていることが多い。忙しそうにあれこれ試しているときもあれば、子どもらしくない真剣な顔で、本や紙に向かっていることもある。
ナマエはそんな一生懸命なゼノを見るたび、少しうれしくなるようになっていた。
引っ越してきたばかりの頃の、胸の奥がすうすうするような心細さは、いつの間にか薄れている。もちろん、英語ですぐに答えられなくて悔しくなることはまだあるし、見知らぬ土地の風景に、ふと遠い日本を思い出して寂しくなる日もある。けれど、向かいの家に行けばゼノがいる。そう思うだけで、知らない国の冬も前ほど怖くなかった。
その日、ナマエは母と一緒にキッチンに立っていた。
母はエプロンの紐を結びながら、炊き立てのご飯を大きなボウルへ移している。湯気がふわりと立ちのぼり、部屋の空気に柔らかな米の匂いが満ちた。日本にいた頃から嗅ぎ慣れていたその匂いは、この家の中だけを一瞬で懐かしい場所に変えてくれる。
「今日はおむすびにしようか」
そう言って、手際よく準備していく母の手元を、ナマエは興味津々な様子で覗き込む。 そんなナマエをくすりと笑いながら、母は「そうだ」とある提案をしてきた。
「ナマエもやってみる?」
「え、いいの?やる!」
ナマエは花を咲かせたような笑顔ですぐに頷いた。
母がキッチンに立つのを見るのは好きだった。手を動かせば、さっきまで食材だったものが、だんだん食べられる形になっていく。その変化が面白かったし、温かい匂いに包まれている時間は、不思議と安心できた。
母は手を洗い、塩水を用意しながらナマエに小さな茶碗を渡す。
「熱いから気をつけてね」
「うん」
小さな手にのせられたご飯は、思ったよりずっと熱かった。ナマエは「あつっ」と声を上げながらも、なんとか両手のひらで包む。母が見本を見せてくれるのに倣って、軽く丸めて、それから少しだけ押さえる。強く握りすぎない。形は三角でも丸でもいいけれど、米粒をつぶしすぎないように。
「こう?」
「そうそう、上手」
「ほんと?」
「ほんとよ」
褒められて、ナマエは少し得意になる。おにぎりの形は少しいびつだったが、自分の手の中で温かいご飯がまとまっていく感触が楽しかった。
母は少しだけ塩を利かせたものをいくつか作った。アメリカに来てから手に入りにくい食材もあるが、米と塩だけのおむすびでも十分おいしい。海苔は今日は少しだけ巻くことにした。
「たくさんできたね」
「うん!」
そこでナマエは、ふと向かいの家を思い浮かべた。 ゼノの部屋。机の上の紙。説明をしながら止まらなくなる声。きらきらする黒い瞳。そして、ときどき、時間を忘れたように何かに没頭している姿。
前にも、話している途中でゼノの母が「おやつよ」と呼びに来たのに、ゼノは「後で」と言った。たしか、そのあと本当にしばらく食べに来なかった気がする。昨日だって、ナマエが遊びに行ったとき、机の横に置かれたままのパンにほとんど手がついていなかった。
「……おかあさん」
「なあに?」
「ゼノ、ちゃんとごはんたべてるかな」
母は一瞬きょとんとしたが、すぐに優しく目を細めた。
「どうしたの、急に 」
「だって、ゼノ、なんか……わすれそう」
「忘れそう?」
うまく言えなくて、ナマエは小さな指をもじもじさせる。
「おはなしとか、おべんきょうとか、そういうの、いっぱいしてると……ごはん、あとでってなって、そのままになりそう」
母は少しだけ驚いたようにナマエを見た。
五歳の子どもらしい曖昧な言い方だったけれど、言いたいことは伝わったらしい。
ゼノが何かに集中すると、食事のような日常的なことが後回しになってしまいそうだと、ナマエはそう感じているのだ。
母は炊飯器の蓋を閉じながら、ふっと笑った。
「ナマエはよく見てるのねえ」
「だって……」
「うん?」
「ゼノに、ちゃんとごはんたべてほしい」
その言葉には、打算も理屈もなかった。
ただ純粋に、そう思ったのだ。いつもいろいろ教えてくれるゼノ。難しい話をするときに目をきらきらと輝かせるゼノ。自分の知らないことをたくさん知っている、向かいの家の不思議な男の子。そんな彼が、ご飯を食べないまま平気な顔をしているのは、なんだかだめな気がした。
母は少し黙ってから、柔らかく言った。
「じゃあ、おすそ分けする?」
「いいの?」
「いいわよ。ナマエが作ったのもあるし」
「ほんと?」
「うん。ゼノくん、喜ぶかもしれないわ」
ナマエの顔がぱっと明るくなった。
そうして、小さな皿の上にころんとしたおむすびがいくつか並んだ。ナマエが握ったものは少しだけ形が崩れていて、母が作ったものより一回り小さい。それでも母は「かわいいおむすびね」と笑ってくれた。
ナマエはその中から一番きれいにできたものを選び、小さな手で大事そうにラップで包む。
「ゼノにあげてくる」
「ちゃんとゼノくんのお母さんに聞いてから渡すのよ」
「うん!」
ナマエは上着を着込み、おむすびを包んだ布を胸の前で抱えて向かいの家へ向かった。冷たい風が頬を赤くする。けれど、胸の中には妙な緊張と、少しのわくわくがあった。
ゼノはどんな顔をするだろう。
そもそも、こういうものを持っていっていいのだろうか。迷惑じゃないかな。もう食べたあとかもしれない。それでも、もしまだなら、食べてほしい。
玄関のチャイムを押すと、出てきたのはゼノの母だった。
「あら、ナマエちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは」
「寒かったでしょう。どうしたの?」
「あのね……ゼノ、いる?」
「いるわよ。部屋にいるけど……また何か作業してるわね」
少し困ったような、けれど慣れているような声音だった。ナマエはますます胸の中で「やっぱり」が大きくなる。
「これ、もってきたの」
ナマエが包みを差し出すと、ゼノの母は目を丸くした。
「まあ。ライスボールね?」
「えっとね、おむすび。おかあさんといっしょにつくったの」
「ありがとう。ゼノ、きっと喜ぶわ」
その言葉に、ナマエは少しだけ安心した。
案内されて二階へ上がる。ゼノの部屋の前まで来ると、扉は少しだけ開いていた。中からぱらりと紙をめくる音が聞こえる。
ナマエはそっと顔をのぞかせてみた。
ゼノは机に向かっていて、背筋を伸ばしたまま椅子に座り、何枚も広げられた紙の上に鉛筆を走らせている。机の端には本が何冊も積まれ、その横には冷めたらしい紅茶のカップ。ベッドの整い方すらどこか几帳面で、ゼノを含めた部屋全体がまるで仕事場のような、少し緊張した空気に包まれていた。
机に向かって集中しているゼノは、ナマエが来たことにも、すぐには気づかない。
「ゼノ」
小さく呼ぶと、ようやく彼の手が止まった。
黒い瞳がこちらを向く。一瞬だけ焦点がずれるような、思考の深いところから戻ってくるときの顔をしてから、ゼノはいつもの表情になった。
「ナマエ。来ていたのかい」
「うん」
「入るといい」
ナマエは部屋へ入っていく。そして机の横まで来ると、包みを抱えたまま首を傾げた。
「ゼノ、ちゃんとごはんたべた?」
いきなりの問いかけに、ゼノは一拍遅れて目を瞬いた。
「……食事?」
「うん」
「そういえば、まだだね」
まるで『今初めて思い出した』と言わんばかりの口ぶりである。
つまり、やりたい事に集中している時に他のことがなおざりになってしまうというナマエの予想は見事的中したということだ。
「やっぱり!」
「やっぱり、とは」
「ゼノ、わすれてたでしょ」
「忘れていたというより、後回しになっていたね」
「それ、わすれてるのとおなじだよ」
ナマエが少しだけむっとして言うと、ゼノは珍しく言い返さなかった。確かにそうかもしれない、と考えたような顔をする。
机の上を見ると、文字がびっしりと埋め尽くされた本やら紙やらが積み重なっている。恐らく、そこそこの時間机に張り付いていたのだろう。いつからのこ有様なのか。この様子では朝すら何か口にしたのかも怪しい。ナマエは持ってきた包みをぎゅっと抱え直して、少しだけ勇気を出した。
「これ、もってきたの」
「何を」
「おむすび」
布を開くと、ほんのりまだ温かさの残るおむすびが姿を見せた。白い米に塩がきらりと光って、ひとつには小さく海苔が巻かれている。
ゼノはそれを見て、今度こそほんの少しだけ驚いた顔をした。
普段見慣れないものというのも勿論あったが、目の前の小さな少女が自分の食事を心配して、こういった行動に出てくるなど、ゼノの想定にはなかったのだ。
「君が?」
「おかあさんといっしょにつくったの」
「僕に?」
「うん。ゼノにちゃんとごはんたべてほしいから」
飾りのない、どこまでもまっすぐな言葉。
澄んだ黒い瞳が、言葉と同じようにまっすぐこちらを見ている。
ゼノはしばらく何も言わなかった。ナマエが、自分のために食べ物を持ってきた。その事実を、すぐには整理しきれなかったのかもしれない。
反応のないゼノに、ナマエは少し不安になる。
「……だめ?」
「いや」
ゼノは静かに首を振った。
「だめじゃない」
そう言って、彼は机の上の紙を少しだけ端へ寄せた。ナマエが包みを置けるように場所を作る。その仕草が、受け取ってくれるのだと示していて、ナマエの胸はほっとゆるんだ。
「たべて」
「ああ」
ゼノはおむすびを一つ手に取った。
ナマエのより大きいが、まだ子どもらしい丸みのある手が、無駄のない動きでラップを外していく。
手の中に納まるそれをしばらく見つめて、それからゆっくりと一口かじった。
ナマエはそれをじっと見つめていた。
おいしいかな。変な形だったかな。しょっぱすぎないかな。握り方が弱くて崩れたりしないかな。そんな心配が、一口ごとに胸の中で膨らんではしぼむ。
ゼノは1つ目のおむすびを食べ終えても、何も言わなかった。大げさな感想は口にしない。おいしいとも、まずいとも言わない。いつも通りの静かな顔のままだ。
けれど次の瞬間、彼は無言でもう一つのおむすびへ手を伸ばした。
「……!」
ナマエの顔がぱあっと明るくなる。
「ゼノ」
「何だい」
「それ、おいしい?」
「味はちゃんとしているよ」
「それ、おいしいってこと?」
「そうとも言うね」
少し遠回しな言い方だったけれど、ナマエには十分だった。思わず、にこっと笑ってしまう。
ゼノはその笑顔を見て、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
自分が特段何をしたというわけでもない。ただ、与えられたおむすびを食べただけで、ナマエはこんなにも嬉しそうに笑う。そのことが、ゼノには少し不思議だった。不快ではない。むしろ、胸の奥のどこかが静かに何かがあたたまるような感覚があった。
「君は」
「ん?」
「……よく気が付くね」
ぽつりと落ちたその言葉に、ナマエは目を丸くする。
「そうかな」
「そうだよ。普通は、ここまでしない」
ゼノの言う「普通」が何を指しているのか、ナマエにはよくわからない。けれど、彼が困った顔ではなく、少しだけやわらかい顔をしていることはわかった。
「だって、ゼノがごはんたべないの、やだもん」
「やだ?」
「うん。ちゃんとたべて、あったかくしてないと、だめ」
ナマエはそう言って、自分でもうまく説明できないまま眉を下げる。
ゼノは賢くて、なんでも知っていて、難しいことを考えていて、大人みたいに見えるときもある。けれど、それでご飯を食べなくてもいいことにはならない。むしろ、そんなふうに何かに夢中になってしまうなら、ちゃんと食べなくてはいけないのだと、ナマエは子どもながらに感じていた。
ゼノはおむすびを食べながら、その言葉を聞いていた。
『ちゃんと食べて、あたたかくしてないと、だめ。』
それは科学でも理屈でもない。ただの心配だ。けれどその心配は、妙にまっすぐで、無遠慮で、嘘がない。だからだろうか。いつもなら「問題ない」と切り捨てるような言葉なのに、今日はそうできなかった。
「……わかった」
ゼノは短く言った。
「なるべく気をつけるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
ゼノの言葉に、ナマエは満足そうに頷いた。
そのとき、部屋の扉を軽くノックして、ゼノの母が顔を出した。
「ゼノ、ナマエちゃん、ココアを持ってきたわよ……あら」
机の上のおむすびと、それを食べている息子を見て、彼女の目元が安心したようにゆるむ。
「まあ、よかった。ちゃんと食べてるのね」
「ナマエが持ってきてくれた」
「あなた、私がご飯を食べるよう言っても、「後で後で」と聞いてくれないじゃない」
自分の息子が世間一般から見て、かなり特殊でとっつきにくい子供であることを、母親である彼女は痛いほどわかっていた。年の近い子供とは話が合わず、大人である自分もゼノの話の内容について行けない事もしばしばだ。母親として、友達を作って欲しいという思いはあるが、本人にその気がないのだから無理強いもできない。
天才ゆえの孤独。
だからこそゼノの母は、ゼノに臆することなくまっすぐに着いていくこの少女、ナマエの存在がたまらなく嬉しいのだ。息子が、年の近い子とやり取りし、何より彼自身がナマエの存在を受け入れている。初めてのことだった。
ゼノの母は、どこか安心したような声音で二人へと歩み寄った。
トレイの上には温かなココアと、小さな皿に載ったクッキーがある。部屋の空気が一層やわらかくなる。ゼノの母はナマエの頭をそっと撫でた。
「ありがとう、ナマエちゃん」
「えへへ……」
「ゼノも、良かったわね」
「……別に」
表情にこそ変化はないが、その声音がほんの少しだけやわらかくなっている事に、母だけは気が付いた。
やがてゼノの母が部屋を出ていくと、ナマエはいつものように丸椅子を引っ張ってきて、ゼノの机の横にちょこんと座った。ゼノは最後のおむすびを食べ終え、指先についた米粒を気にするように見たあと、ナプキンでそっと拭う。
机の上の紙には、難しい線や数字のようなものがたくさん書かれていた。ナマエには意味がわからない。けれど今日は、それを見る気持ちがいつもより少し違っていた。
ゼノは、こうして何かに熱中していると何もかも忘れてしまいそうになる。
だから、ちゃんと見ていないといけない気がした。
「ゼノ」
「何だい」
「これからも、ごはんわすれてたら、もってきてあげる」
「……そう」
ゼノは一瞬だけ動きを止めた。
「迷惑だった?」
「いや」
彼は首を振る。
「迷惑じゃない。むしろ……」
そこまで言ってから、少しだけ考え込む。
「助かる、のかもしれない」
その答えは、ゼノにしてはずいぶん率直だった。
ナマエはその響きを何度か心の中で転がしてから笑った。
「じゃあ、またもってくるね!」
まるで自分のことのように、うれしそうに笑う。
その笑顔を見て、ゼノは思う。
この子は、本当に僕のことをよく見ている。
話をするときだけではない。何をしていて、どんなふうに時間を過ごしていて、何を後回しにしそうかまで、いつの間にか気付いている。観察というほど計算されたものではない。ただ、純粋に気にかけているから見えてしまうのだろう。
ゼノはそのことを、不思議だと思った。
なぜ、ここまで一生懸命になるのか。
自分の食事の有無が、彼女の生活に及ぼす影響など、何もないだろうに。
理由や利点を考えて動いているようには見えない。ただ純粋に、「ちゃんとしてほしい」と思っているから動く。そんなやり方は、ゼノの思考回路にはあまりない。
けれど、それを非合理だと切り捨てたいとは思わなかった。
むしろ、その温度のことをもう少し知りたい気がした。
しばらくして、ナマエは机の上の紙を見ながら首を傾げる。
「ゼノ、これなに?」
「これはね――」
そこでゼノはいつものように説明を始めた。紙の上の線が何を意味しているのか。どうしてこの数字が必要なのか。前回より少し簡単な英語を選んで話してくれているのが、ナマエにもなんとなくわかった。
その横で、ナマエは静かに話を聞く。
時々、机の端に置かれた空の皿を見る。ゼノがちゃんと食べてくれた、と確認するたび、胸の奥に小さな灯がともる。
温かいものを食べると、人は少しだけ安心した顔をする。
それはナマエの母を見ていて知っていたことだ。父も、忙しい日に温かな味噌汁を飲むと、少しだけ肩の力が抜ける。だからきっと、ゼノにもそういうものが必要なのだと思った。
今日のおむすび一つで何かが大きく変わるわけではない。ゼノはこれからも、夢中になれば時間を忘れるだろうし、食事を後回しにしてしまうこともあるだろう。
それでも、ナマエの中にはもうはっきりした気持ちが芽生えていた。
ゼノにちゃんとご飯を食べてほしい。
寒い日は温かいものを食べてほしい。
難しいことばかり考えているなら、その分、そばで少し違うことをしてあげたい。
その思いは幼いながらも強く、そして自然なものだった。
***
夕方になって家へ戻ると、母が尋ねた。
「ゼノくん、食べてくれた?」
「うん!」
「よかったわね」
「うん。むごんで、もういっこたべてた」
「ふふ。それはきっと、ナマエのおむすびが気に入ったのね」
ナマエは満足そうに頷いてから、キッチンの椅子によじ登る。テーブルの上には、夕食の準備途中の野菜やボウルが並んでいた。母の手元を覗き込みながら、ナマエはふと思った。
ご飯を作ると、食べてもらえる。
食べてもらうと、ちょっと安心する。
その人がちゃんとしてくれる気がして、うれしい。
その感覚はまだぼんやりとしていたけれど、幼いナマエの胸の中に、確かな種のように落ちていた。
「おかあさん」
「なあに?」
「こんど、もっといっぱいつくりたい」
「お料理?」
「うん」
母は包丁を置いて、少しだけ目を丸くした。それから、嬉しそうに笑う。
「いいわよ。少しずつ覚えていこうか」
「ほんと?」
「ほんと。ナマエ、上手だったもの」
褒められて、ナマエはにこにこと笑った。
***
その晩、向かいの家では、ゼノがいつもより早い時間にキッチンへ下りてきた。夕食の支度をしていた母がそれに気づいて口を開く。
「あら、珍しいわね」
ゼノは少しだけ考えるようにしてから、伏し目がちに答えた。
「今日は食べた方が効率がいいと思って」
息子の言葉に、母はぱちくりと目を開いたが、やがて優しげに微笑んだ。
その理由が本当に「効率」だけではないことを、母はなんとなく察していたからだ。
「ナマエちゃんに言われたから?」
「……別に、それだけじゃない」
「ふふ」
「何だい」
「ううん。あなたが誰かにちゃんと気にかけられてるのって、いいことだと思って」
「気にかけられている、というほど大げさなものじゃないよ」
「そうかしら」
母は穏やかに笑うだけだった。
ゼノは席につきながら、昼間のことを思い出す。
おむすびを差し出した小さな手。
ちゃんとごはんたべて、という真剣な声。
自分が無言で二つ目に手を伸ばしたとき、ぱっと明るくなったナマエの顔。
妙なものだ、と思う。
たかが食事だ。後で食べればいいだけのことだった。けれど、あの子がわざわざ持ってきたことで、それは「ただの後回しにできること」ではなくなった。
胸のなかに、ぽかぽかした何かが静かに揺らいでいる。
初めての感覚。
しかし、それは決して不愉快なものではない。
ひとつだけ、以前よりはっきりわかったことがある。
ナマエは、自分のそばで、ただ笑っているだけの子ではない。
この子は、僕のことを気にしている。
僕の手の届かないところ――食事や休息や、そういう些細なことにまで目を向けてくる。
それは少しだけ面倒で、けれど不思議と嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥の冷えた部分に小さな熱が灯るみたいで、悪くないとさえ思う。
冬の一日が終わるころには、向かい合う二つの家のあいだに行き交うものは、言葉だけではなくなっていた。それは幼い二人の関係にとって、とてもささやかで、けれど確かな一歩。
冬の冷たい空気の中で、確かに何かがあたたかくなっていた。
昼間のことを思い返したゼノは、ほんの少しだけ迷ってから、窓の外の向かいの家を見た。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
「……また、作ってきてくれるかい」
その声は部屋の静けさの中に落ちて、すぐに消えた。
けれどその願いは、きっとそう遠くないうちに、ちゃんと届くのだろう。
























一気に全部読ませていただきました!とっても面白いです!続き楽しみにしています✨