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夢渡 無依(デフォルト:ゆめわたり むい)
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季節は巡り、雪のチラつく日々が続くようになった。
あの日悪質な犯罪に巻き込まれた私だったが、被害者である私の詳細は明かされることなく報道された。警察の有難い配慮によってマスコミが家へ来ることはなく、学校へは報告されたようだけど必要以上に干渉されなかった。生徒達はもちろん被害者が私と知ることはない。
ひとつ、認識が改めたことがある。警察署に戻ると先に母が到着していたのだが、私を見るや否や駆け寄って来て抱きしめられたのだ。大丈夫だよ、平気だよ、と宥めてもごめんねと震える声で泣くばかり。思っていたより子への愛があったのだなと驚いた。
だからといって、日常は変わらないけれど。帰りの予定を聞かれるようになったくらいか。防犯上当然と言えば当然、むしろ今まで聞かれなかったことが奇跡なくらいだ。私も必要ないと思って言わなかったところはあるけど。
まぁ後は日常にホークスとのやり取りが追加された。挨拶くらいで終わるはずがコミュ力も連絡速度も早い彼なので気づけばLINEを交換していた。今は3日に1回の頻度で何かしらの画像が送られてくるようになった。空とか、食べ物とか何気ない日常の写真。それをSNSに載せたらファンは喜ぶのではと思ったけどそこまで暇ではないんだろう。私もリアクションするか、同じように写真を返すようになり、交換日記のようなやり取りが続いている。
そんな小さな変化はあったものの変わりなく日々は過ぎていった。そんな2年の三学期、私は担任の先生から呼び出しを受けて面談室を訪れていた。問題事になるようなことは事件以降(これも不本意だけど)起こしていないはず。呼びだされるような心当たりがない。担任は無個性の私を差別せず接してくれる数少ない大人だ。そんな先生から話に検討がつかず、少し構えながら先生が待つ扉を開けた。
「夢渡さん、来てくれてありがとう」
「いえ、こちらこそお忙しいのにお待たせしました」
「暖房が中々効かなくて、寒いけどごめんね。どうぞ、座って」
促されるまま、机を挟んで先生の正面に用意された椅子へ座る。先生の顔を見れば穏やかに微笑んでいた。
「さて、緊張させているみたいだし単刀直入に話そうか。先生から提案なんだが、雄英高校を受けてみないか」
「雄英高校……ですか?」
「あぁ。高校自体は知っているかな?」
「えっと……静岡県にある国立高校。多くのヒーローを排出している、入試倍率300のエリート校ですよね」
先生はこくりと頷く。表情こそ柔らかくても、眼力に普段は感じない圧を感じた。
「夢渡なら目指せると思っている」
「……なんでですか?私、無個性でヒーローなんてなれませんし、目指してもないですよ」
「なにも雄英はヒーロー科だけじゃない。普通科、サポート科、経営科で構成されている。各地から夢を求めて、ないしは頭のいい学生が集まるんだ。それが何を指すか……きっと、この片田舎よりずっと生きやすいよ」
正しいことを言っていると思った。地縁だけで構成されたこの田舎で生きるなら、私はまた中学と代わり映えのない高校生活を送るのだろう。地域の性質上受験する学生は近隣の中学生が大半で、クラスがそのまま持ち上がったのではと錯覚するほど顔ぶれは変わらないと思う。私を煙たがると分かっている人達とまた3年間……。
「"無個性だから"と、君自身は何も悪くないのに苦しめられたことは1度や2度じゃないだろう。田舎ほど、小さなコミュニティほど思想は偏る。こんな窮屈なところに居続けて良い事ははっきり言って無いよ」
「……ふふっ、酷い言い草ですね」
「それ以外のいい所なら言えるんだけどね。……雄英は"自由"を掲げる高校だ。努力家の君が正当に評価される学校だと知っている」
「……そう、だと思います」
「私のエゴかもしれない。でも、もし挑戦するというなら全力でサポートしよう」
……少し考えてはいたのだ。雄英に限らず、家を出て一人暮らしをするルートを。その方が両親と顔を合わせずに済むから。でも金銭面の迷惑を考えると今の住まいからバイトをして高卒と同時に仕事につく方が現実的だった。環境の窮屈さは、我慢すればいいだけと言い聞かせていた。
「まだ時間はある。すぐに答えを出さなきゃいけないわけじゃない。3年に上がったら希望調査をするから、その時にでも」
「はい……検討、してきます」
「うん。これで話は終わりだよ。夢渡さんの方から相談したい心配事はあるかい?」
「いえ、ないです」
「そうか。じゃあ、気を付けて帰ってね」
「はい。さようなら」
席を立ち頭を下げ、面談室から廊下へ出た。昇降口へ移動しつつ先生の意見を咀嚼する。……うん、入試倍率が怖いけどやってみてもいいのかな。そもそも一人暮らしをさせてくれるかが問題だから、聞いてみて、許可が出れば挑戦してみよう。家が遠いから諦めていたけど全然1Aのみんなの成長を眺めたいよ?学校の先生してるプロヒとか見たいに決まってるだろ。許されるなら雄英の教室の壁になりたいんだから。
聞いて呆れる不純な動機だけど、実は緑谷出久たちと同い年なことが判明しているのだ。今年、雄英体育祭のテレビ中継で原作のビック3にあたる通形ミリオ達を観測できたことから、来春が原作開始時期だと割り出せた。この世界に来て十数年経ってやっと判明してるのウケるよね。ごめんてほんとに。細々とした設定や年齢なんも思い出せないんだから。
ふわふわと考え事をしながら帰宅する。家には先に両親が帰ってきていた。仕事が早く終わったのかな。相談には良いタイミングだ。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえり。ご飯できてるから荷物おいてらっしゃい」
「はーい」
自室に荷物を置き服を着替え、ダイニングに戻って夕飯の準備を手伝った。テーブルにご飯が揃うと全員座り、いただきますをして食べ始める。いつもは会話らしい会話も無いが、わたしは言わなきゃいけないことがある。半分ほど食べ進めたところで私は箸を置き、少し改まって話し始めた。
「ちょっと、相談してもいいですか」
「どうしたの、無依ちゃん」
「うん……先生が、雄英高校受けてみないかって提案してくれたんだ」
「雄英高校って、テレビで体育祭が中継されるあの?どうして無依ちゃんが……?」
「……無個性の私が将来の選択肢を広げるためにおすすめだって言ってくれたの」
”無個性”のワードを口にした瞬間、母も父もキュッと口を結んで固まった。そしてゆっくりと2人が箸を置く。少しの緊張感を感じながら私は続きを話し始めた
「私も、可能性があるなら行きたいなって思ってます。入試倍率が高いけど挑戦してみたい。ただ静岡にあるから受験とか、受かったら一人暮らしとか、金銭的にご迷惑をかけてしまうんですけど……。ごめんなさい、こんな急に進路の話をして。なるべく迷惑はかけないようにしようと思っています」
許可が出れば、とは言ったものの否定される心の準備も出来てなくて、真っ直ぐ前を見ていた視線を机に落とした。だってここで許可が降りなかったら原作の流れが少しも見れないまま大人になっちゃうじゃん。この世界に転生して一般生徒Gくらいのモブにならないのも損じゃないですか?
「無依、顔を上げなさい」
父の固い声が聞こえ、現実逃避していた思考を止めて顔を上げる。その表情を見て、ふっと息が漏れた。険しい顔をしていると思っていた両親が眉尻を下げ慈愛を帯びた目をしていたから。
「お前が謝る必要はない」
「むしろ私たちが謝らなきゃいけないわ。こんな時代に無個性として生んでしまって、私たちは立ち止まってしまったのに貴方はどんどん成長して大人びていって。もっと向き合わなきゃと思っているのに、平気な顔で笑う貴方に甘えて何もしてあげれなかった」
「お父さん、お母さん……」
ごめんね、と頭を下げる両親に私は慌てて顔を上げるように言う。初めて両親の考えを聞けて動揺している。嫌われてはいないと日頃の生活から分かっていたつもりだが、諦めずコミュニケーションを取ってもよかったかな。人生二週目の中途半端に積んだ人生経験のせいで必要以上に葛藤させていたかもしれない。
「雄英への進学に限らず、どこを目指しても、大学まで進学するようになっても不自由させないよう貯金はしている。無依の行きたいところを選びなさい」
「私たちは応援するわ。塾や予備校も行きたかったら遠慮せずに言って」
「うん、ありがとう。頑張るね」
まぁ、ここでわだかまりが解消できたなら結果オーライかもしれない。思っていたより話が長くなって冷めてしまったご飯を温めなおして、三人で揃って食事を終えた。
◇
緑谷出久がオールマイトと出会い、個性を譲渡する提案を受け入れて早くも10か月が経った。課題(ゴミ拾い)をクリアと受験勉強の両立はしんどいの一言じゃ表せないほど困難な道だった。しかし雄英高校受験当日、齢15歳の少年は海浜公園のゴミ一帯を片付ける偉業を成し遂げた。
「オールマイト……!僕……出来た……出来ました……!」
「ああ驚かされた!エンターテイナーめ!」
感動に打ち震える師弟を朝日が照らす。その光は確かに新たな少年の門出を祝福していた。その2人にゴミの山から小さな影が近づいてきた。
「オールマイトにここまでして貰えて、恵まれすぎてる……」
「ハハハッ、まずはその泣き虫治さないとな!……ん?」
「わふっ!」
「わっ!何なに……い、犬?」
タッタッタッ、と砂浜を駆けてきた小型犬は勢いよく緑谷に飛びついた。ゴミ拾いでフラフラになった緑谷は小型犬の力にも抵抗できず砂浜に尻餅をつく。
「ワン!」
「可愛い。チワワかな?」
「ヘッ、ヘッ、ヘッ」
緑谷がおずおずと頭を撫でるとエメラルドグリーンの瞳がキュウッと細められ、グレーから黄緑にグラデーションのかかった尻尾がブンブンと振り回される。その色合いに既視感を覚えた緑谷だったが、あれは猫だったなと振り返り、腹の上に乗るチワワを砂浜に置いて立ち上がった。
「近くを散歩してるんですかね?脱走?」
「迷子ならば愛護センターに連絡しなければいけないね。さぁ、その前に授与式だ、緑谷出久」
オールマイトの声で緑谷に緊張が走る。その様子をチワワは口角を上げて眺めていた。
「食え」
「へぁ⁉」
「別にDNAを取り込められるなら何でもいいんだけどさ!さァ時間ないって!」
「思ってたのと違いすぎる……!!」
「わふっ、アンッ」
「ほらほら!わんこも急かしてるよ!」
「いや、多分笑われてますよ」
犬は二人の周りをご機嫌そうに歩き回る。スキップ混じりのような軽快なステップと、二人を見上げニコニコと笑う小動物の様子に少しばかり癒された。
「ワンッ」
「え?あ、行っちゃった……」
「逃げられては仕方ないね。迷子犬の連絡は私がしておこう。ほら、家まで送るよ。急いで」
雄英高校実技試験まで残り三時間。生まれたてのヒーローが第一歩を踏み出した、寒い冬の朝のことだった。
◇
両親に雄英高校を受けると宣言して一年、そう一年が経ちました。結論から言うと受かりました。嬉しい。
学力は日々の勉強のおかげで模試の時から合格ライン内、加えて予備校も少し行かせてもらって二次試験の対策もバッチリだったので申し分なしといったところ。
そんな私は両親を連れて2回目の静岡へやってきました。1回目は雄英高校内で行う二次試験です。高校デカかったほんとに。私あんな綺麗な校舎に通うんだ。すっげぇや。小学生並の感想しか出ない。正直夢見心地なんだもん。推しをほぼ毎日生で見れるってことでしょ?ホークスも時々出張任務で来た時に寄ってくれてめちゃくちゃ嬉しかったけど、それはそれ、これはこれです。
今日の目的は家探し。東北の実家から到底通えるはずないので一人暮らしデビューのための物件巡りです。引っ越し繁忙期なので苦戦するかと思ったが、毎年雄英高校に通うため上京してくる人のために学生向けのアパートや寮が充実しているらしい。学校まで徒歩20分の二階建てアパートがよさそうだったのでそこに決めた。
「以上で契約完了です。鍵受け渡しは3月〇日で予定しています」
「はい。それでよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
父に続いて言うと、不動産会社の人はニコニコ笑って言った。
「礼儀正しいお子さんですね。さすが雄英に合格するだけありますね」
「……そうですね。この子の努力が叶ってよかったです」
父はあまり語らない人だから親らしい言葉がくすぐったく感じる。私は会釈だけして「帰ろう」と促した。
店を出て、駅に向かって歩き出す。3人で並んで歩くのも幼少期以来だな、またしばらく機会がないなと感慨深く思う。この時間も大事だけど、私は一つ寄りたいところがあった。
「後は帰るだけだけど、無依ちゃんはどこか行きたいところはある?」
「一人暮らし用の家具でも見ておくか?」
「わ、我儘言ってもいいなら、海浜公園に行きたいです」
そう、緑谷出久が片付けた海浜公園。先月あたりに夢で彼らの始まりを見て思い出したのだ。ニュースに取り上げられていたから場所はすぐわかった。せっかくなら綺麗なうちに見ておきたいじゃん。
両親は提案を快く受け入れ、そのまま海浜公園の最寄りまで向かってくれた。街を抜け、案内板に従って歩いていくと広大な砂浜と穏やかな海が広がっていた。
「わー!綺麗ねぇ、お父さん」
「あぁ、記事で見たゴミの山なんて見る影もないな」
「そうだね。私向こうの方まで見てきていい?海にはそこまで近づかないから」
「いいわよ、無依ちゃん。見えなくなるまで遠くに行かないでね」
許可を貰えたので足取り軽やかに砂浜へ降りる階段を駆け、砂浜を踏んで歩く。潮の匂いが心地いい。春先の寒い時期だから人はほとんどいない。多分近所の散歩が習慣の人とか、犬を連れて歩いている人がいるくらい。
「……さむーーーー」
わかってたけど、風はめちゃくちゃ冷たい。夏に来たら気持ちいいのかな。いや、暑さでやられそう。普通に運動してなくて貧弱だから。今から体力づくりしても間に合うかな。
波打つ海を前に、目を閉じて肺いっぱいに空気を吸い込む。グッと背筋を伸ばして、ゆっくりと息を吐いた。勿体ぶりながら瞼を上げるとまっさらな絶景が飛び込んでくる。まだ少し陽が落ちるのが早いから、水色に少しオレンジがかった空が海に映ってキラキラと反射していた。
「えっ」
「……え?」
最初の「えっ」は私の斜め後ろから聞こえてきた声だ。急ぎ足で近づいてくる足音が止まり、背後に立たれたような気がして振り向いた。……ら、初めましてのよく見知った顔がそこにあって困惑したのが2つ目の私の「え?」だった。
緑谷出久。静岡県出身、ビリジアンカラーの天然パーマとそばかすが特徴の彼が居たのだ、目の前に。
なんで。どうして。いや、彼がオールマイトと出会ってから毎日通っていたここにいることは自然か。だとしてなんで私の背後に立って驚いた顔をしてるの。何も言わないし怖いんだけど。
「……こ、こんにちは?」
「えっ、あっ、こ、こんにちは!」
元気だね緑谷くん。よく見たら少し汗をかいている。走ってきたみたいだからトレーニングの一環かな。とりあえず挨拶をしてみたけど足は動かない。視線と手が忙しなく動いていて、言葉を探しているみたいだ。
「あの……えっと……お姉さんの個性ってなんですか!」
唐突だね。一応同い年なんだけどそんな老けて見えるか私。そして道行く他人に突然個性を聞くなんてどうしたんだ。なにこれ、普通に答えればいい?私何を期待されてる??
「……な、ない、です」
「な……ない……?」
「無個性、です」
戸惑いつつも正直に答えると、緑谷くんは固まってしまった。気まずいって。君も知ってるでしょ、無個性に対する世間の厳しさ。これ私がフォローしなきゃ?よね?
「今どき珍しいですよね、無個性って」
「へ、あ、そ、そうですね。俺も」
「俺も?そうなんですか?」
「ハッ!いや、僕の友達が!無個性で……虐められたり大変だったと」
「なるほど。私もそうですね……それこそ相手にはしていなかったですが」
いや無理だよ。無個性トークって何も生まれないから。虐められたを起点に話広がることないでしょ。緑谷くんの聞きたかったことってそれだけですか。会話切り上げて逃げていいか。大体のキャラは好きなので緑谷くんも可愛い可愛い推しにあたるけど私個人が関わりたい欲ではないんですよ。
「す!すみません!突然失礼なこと聞いて……」
「いえ……私もひとつ質問していいですか?」
「ハイ!なんでも!!」
「ふはっ、すごい元気……君は夢、ありますか?」
「夢……ヒーローに、なることです。オールマイトに憧れて、あの人みたいなヒーローになりたいと思ってます」
不安や焦り、それ以上の希望を孕んだ力強い声がそう宣言した。始まりの緑谷出久だ。ここから成長していくんだ。同じ学校で成長を見れるのが楽しみになってきた。
「きっとなれます。そんな気がします」
「……!あ、ありがとうございます!!」
「じゃあ、行きますね。私遠方から来てて、帰りの新幹線が来ちゃうので」
「そうなんですね!?すみません話しかけて!帰り道、お気をつけて!」
「ありがとうございます。では」
ぺこりと会釈して踵を返す。両親が居る方向へ駆けていくと、二人は笑って待っていた。
「無依ちゃん、誰かと話してた?」
「なんか話しかけられた。ヒーローになりたいんだって」
「いい夢だな。学生さんか?ヒーロー科にいるかもな」
「名前も年も聞いてないけど、いたら面白いね」
さあ、帰ろう。4月から大忙しだから、それまでの一休みだ。
◇
死柄木弔は絆されていた。
「……来たか」
「なぁん」
死柄木が一人錆びれた簡易ベッドに腰を掛けていると、どこからともなく一匹の猫が現れる。グレーの毛艶がいい、エメラルドグリーンの瞳を持ったロシアンブルー。床から死柄木の腰掛けるベッドの上へあがると、その膝に寄り添い丸く伏せる。死柄木はその背を壊さぬよう手の甲でゆっくり撫でた。
始まりはいつだったか。オールフォーワンに拾われ、ある廃墟を拠点に生活をしていた頃。あるときは家族への苛立ちに襲われ、あるときは意味も分からず涙を流し、言い表せない憤怒と絶望と虚無感で思考が満たされる。ヒーローへの怒りは常持ち続けているが、そればかりに支配されていては疲れてしまう。複雑で不安定な精神環境の弔は一人、ぼうっと床に座っていた。
そんな弔にゆらゆらと近づいてくる影が一つ。気配に気づいて影に焦点を当てた弔はその目を丸くした。
「……ねこ」
暗い中爛々と光る黄緑の目、なめらかに揺れる長い尻尾の先は明るく色が抜けていた。4足歩行の生き物、といえば弔の中ですぐに思い浮かんだのはモンちゃんだった。自分が最初に壊してしまった家族。
「……ナァ」
「ぁ、わっ……」
猫は体育座りのように膝を立てた弔の足元に擦りついた。少し乾燥した弔の肌にふわふわの毛がまとわりつく。柔らかくて、あったかい。手が触れないよう胸元に手を握りこむ弔、その足を猫はくるくると歩き回った。
2,3周して満足したのか猫は足からするりと離れ、弔と同じ方向を向き、スンと腰を落として佇んだ。首を挙げて死柄木を見上げる猫。
「にゃぁー」
「なんだよ。殺すぞ」
不快なものは壊せばいい。嫌いなものは殺せばいい。個性の使い方をそう覚えたはずなのに、手を守っていることに死柄木は気づいていない。猫はゆらゆらと揺らした尻尾で弔の腕に触れ、そのまま手へと滑らせる。
「っ、触んな」
弔は手の甲に触れた尻尾をはたき落とした。普通ならそれだけで猫なんて気まぐれな生き物は離れるだろうに、猫はすぅっと目を細めただけで逃げる素振りも見せなかった。ゆるりと腰を上げる猫、方向転換をして弔の顔、ないし胸の前で握りしめた手に近づいていく。
「にゃあ」
「……死にたきゃ死ね」
弔はスンスンと鼻を寄せる猫の顔の前に手を下ろす。すると猫は指の腹をちろちろと舐め、親指以外の指に顔を擦りつけた。アホなのか、賢いのか、怖いもの知らずの猫の挙動に弔は目を奪われる。
「なー……」
鳴いた猫は興味を失ったように手から離れ、弔の座っていた横に積まれているゴミの上へ器用に登る。弔が猫を追って視線を上げると、ちょうど目線上で猫が止まっていた。ゆらりと揺れた尻尾が弔の目元を撫でる。瞬間、弔の頭には昔痒み止めの薬を塗ってくれた優しい手つきがフラッシュバックする。
「ぁ……」
「なぁん」
猫は鳴いて暗がりに消えていく。数秒してハッと気が戻った弔は何だったんだと撫でられた頬をなぞった。
猫の気まぐれはその一回で終わると思っていた。なのに、死柄木がふと一人ぼーっとしていると、その猫はどこからともなく現れた。先生が拠点を移しても、誰も侵入できない部屋でも、暗がりからふらりと現れる。擦り寄って、熱を分けて、優しく鳴いてどこかへ帰る。
死柄木はその猫を自分に取りついた化け物か幽霊のような存在と認識することにした。一度間違えて崩してしまったこともあった。けれど数か月後、また何事もなかったように現れたのだ。鳴くだけで物も言わない、その時だけ心に空いた何かを埋める都合のいいもの。
「今日は疲れた。もう寝るんだ」
「にゃあ」
死柄木がベッドに寝そべると猫はおやすみ、とでも言うように鳴いて長い尻尾を死柄木の頭に滑らせた。



























