今朝は珍しくいつもより早く目が覚めた。
現代だったらすぐに二度寝を決め込むが、この時代に来て日を重ねていくうちに生活リズムが強制的に整えられて、朝日が昇ると同時に起きる習慣が増えていく。ここは電気なんてものはないし、熱中できる娯楽もない。夜通し絵を描くこともできるが結局は飽きて寝てしまうのだ。
すっきりした頭を起こし、使い慣れてきた井戸から水を汲んで顔を洗えば先程よりもシャッキリして気分がいい。軽く髪を結い、少しばかり早いけど食堂に向かうことにした。食堂のおばちゃんの朝はこっちよりも早いらしく、食堂から美味しそうな匂いが鼻を刺激する。
「食堂のおばちゃん、おはようございます」
「あっら、おはよう。今日は早いのねぇ」
「目が覚めちゃって。まだ誰もいないし、お手伝いできることがあればさせてください」
「本当?助かるわぁ。それじゃあそこのちくわ切ってもらおうかしら」
おばちゃんとの関係も良好に築けてきている。実家のような温かさを持つおばちゃんの料理は本当に美味しい。ここにきてからあの家に運ばれていた食事もおばちゃんお手製だ。あの時は何もすることがなくて暇だったけれど、この料理が唯一の楽しみだったといっても過言ではなかった。
「全部切り終えましたよ」
「ありがとう。あとはこっちでやるから席で待っていてちょうだい」
まだ誰もいない食堂に1人座る。最近は子ども達と食べていたから少し寂しい気持ちになるが、たまにはこうしてのんびり食べるのもいいかもしれないと鼻を掠める出汁の香りにうっとりした。
「はい、お待たせ!」
「今日も美味しそう。いただきます」
炊き立てのご飯の匂いと温かい味噌汁の香りを吸い込んで体に染み込ませてから箸をとる。現代では適当にパンとコーヒーだった。この時代に来てからは米に変わったがあまりにも美味しい。純日本人の朝食を食べるのなんてここに来る前は滅多になかった。おばちゃんが厳選した食材を使った料理は一品一品が美味しく、ご飯が美味しいことは人生の喜びなんだと実感できる。
「おはようございますっ!」
慌ただしく食堂に入ってきたのは一年は組の教科担任の土井先生。いつもの黒装束ではなく、今日は町に出かけるのか普段着だ。ちくわを噛みながらその様子を見ていると、向こうがこちらに気がついて軽く会釈してきたのでこちらも同様に返す。
「あら土井先生。今日は随分と早いのねぇ」
「ええ、今日から3日ほど出張でして……」
「そぉ。気をつけていっておいで。ほら、朝ご飯だよ。………お残しは許しまへんで」
朗らかな笑みからガラッと目つきが悪くなる食堂のおばちゃん。土井センはわかりやすく身震いをした後、お盆を受け取って肩を落としながらこちらに歩いてきた。目の前に座った土井センはマリアナ海溝よりも深そうな溜息を吐きながら小さく「いただきます……」と箸を手に食べ始める。
「…………大丈夫?」
「……あぁ、ええ………まぁ…」
「大丈夫じゃなさそうだけど。この後出張なんでしょ。しっかりしなって」
「ハハハ……行くの遅くなるかもしれないです…」
食堂に入ってきたときは気落ちしてなかったはずなのに、この一瞬で何があったというのか。食堂のおばちゃんもえらく鋭い目つきでこっち見てるし。土井セン、おばちゃんの恨みでも買ってるのか?
そんな時である。おばちゃんが何かを思い出したようにパンと手を叩いた。
「あらやっだ忘れてたわ。お昼の仕込みのお野菜外に放り出したままだった。取りに行かなくちゃ。2人とも、ちょっと席外すけどすぐ戻るわね。生徒達が来たら教えてちょうだい。………土井先生、わかってるね?」
「ハ、ハイ勿論ですって!」
最後まで疑り深くこちらを見てから去っていくおばちゃん。野菜の仕込みなら仕方ないが、このどんよりした土井センを置いていくのはちょっとやめてほしかった。朝ご飯が不味くなる。当の本人は「ああ、もう時間が…」とか呟いているも食事のスピードが速まる気配はない。
「そんなちまちま食べてたら間に合うわけないでしょうよ」
「それはそうなんですけど………あ、そうだ」
何か閃いたのか、土井センはパッと顔を上げたと思ったらその辺の女虜にしますみたいないい笑顔を繰り出してきた。その笑顔がちょっと不気味で思わず体を引いた。
「ちくわ、お好きなんですか?」
何故急にちくわ。そんないい笑顔で聞くことがそれか。今時合コンでも流行らないぞその質問。
「まぁ好きは好きだけど」
素直に答えてやれば向こうの笑みがさらに深まった。おばちゃんが消えた厨房の方をチラリと見てはちくわの乗った皿を差し出してくる。
「日頃のお礼です」
「お礼のセンスなくて笑う」
「ちゃんとしたお礼は出張帰りにお土産で買ってきますよ」
「ちゃんとしたお礼なら土井半子を見せてくれれば…」
「それはできない相談ですね」
お礼という割にはこちらの要望を叩き落とすその姿勢、絶対何か裏がありそうだ。疑り深く見つめていれば瞬き一つせずに見つめ返してくるので体をさらに引いた。
「どうしても!今!お礼をしたいのです!」
「わかったわかった。今回はそれ食べてあげるからはよ食え。時間ないんでしょ」
「ありがとうございます!!」
ペカーッと褒められた子どものような笑顔。お礼を貰ったのはこっちなのに何で向こうが嬉しそうなんだろうか。まぁ時間に間に合わないのだろうし、今回は貰ってあげようと器を差し出した。ちくわをこちらの器に移した後、土井センは先程までの遅さが嘘かのように朝ご飯をかき込んで「ご馳走様です!」とお盆をカウンターに置いた。
「それでは、私は行って参ります。あの子達のことよろしくお願いしますね。あ、お礼のことはおばちゃんにはご内密に」
「ん、いってらっしゃい」
まるで何かに追われてるかのような慌ただしさだが気にせず、手を振って見送ってから自分も残りを平らげる。ちょうど食べ終えたところでおばちゃんが帰ってきた。カウンターの空いた皿を見て驚いた顔をしながらこちらと空き皿を交互に見ていく。
「土井先生は?」
「時間がないからって急いでかき込んでいきましたよ。ちょうどさっき出ていったところですね」
「あらぁ珍しい。土井先生がこんなに早く食べ終わるなんて……もしやぁ…」
穏やかな雰囲気が一瞬で塗り替えられ、マグマのような熱い睨みがこちらに向けられた。背後にスタンド、いやもうおばちゃんがスタンドといってもいいほどの気迫に自然と背筋が伸びる。何も悪いことしてないのに何故こうも怒られる未来が見えるのか。
それはすぐにわかった。
「あなた………食べたわね……!!」
「た、食べた…?」
もしかして土井センのちくわ食べたのバレたか。いやだって、土井セン時間なさそうだったし、お礼されるようなことしてないけどお礼したいって言われて悪い気はしなかったし。残してはないしまあ大丈夫だろう。だからこれくらいは内緒にしとこうって思ってた矢先にもうバレそうだ。多分おばちゃん千里眼かテレパシー持ってる。
「土井先生の!ちくわ!」
「た、食べてませ〜ん………」
「本当?」
逃げられない鉄の楔のような視線に目は釘付けだ。30秒ほど見つめられてもまだおばちゃんは逸らす気配はない。そろそろこっちもその圧に負けそうだ。そりゃ人間とスタンドならスタンドが勝つに決まってる。そろそろ耐えきれなくなってソロ〜ッと視線を横にずらせば、おばちゃんは目と眉を釣り上げてさらに睨みを深くしてきた。
「お残しは許しまへんけど、嫌いなものを代わりに食べるのも許しまへんで!!」
嫌いなものだって?
「ちくわやかまぼこなどの練り物は土井先生の嫌いなものなのよ!!」
あの無駄にキラキラした笑顔の理由がようやっとわかった。あの男、時間がないと称して嫌いなものを押し付けてただけだった。なんて奴だ土井セン、人畜無害の優しい男でーすみたいな顔しといてサラッと自分の思う通りに事を進めるとは。何だかホストに騙されたみたいな気分だ。
「いい?お嬢ちゃん。あなたまだこの学園にきたばかりだろうから説明してあげるけど……」
そこからはおばちゃんのありがたいお説教がくどくど続き、生徒達が来てもそれはまだ続けられた。乱太郎の「お姉さんが朝から説教されてる〜」や団蔵の「鬼ババがスーパー鬼ババDXに怒られてる」などといい大人が説教されている様を面白そうに見てるものだから思わずジロリと睨んだ。
「聞いてるのお嬢ちゃん!」
「はい!聞いてます!!」
あ、あの野郎っっ………!!
・
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・
・
「あー……先生練り物嫌いっすもんね〜〜」
場所は変わって自分が住んでる長屋。縁側でブスくれているのを隣で内職しているきり丸が苦笑いをする。流されるままに手伝いとして作っていた造花を完成場所に置いてから天を睨み上げた。人が1時間ほどとばっちりの説教を喰らっている間にメンヘラ製造機は出張に行っていると思うと腑が煮え繰り返る思いだ。
「でも意外だったな。土井センにも嫌いなものはあるんだね」
「意外も何も、土井先生は学校の外じゃ割とだらしないっすよ。部屋は汚いし、近所付き合いは悪いし、練り物は全力で拒絶するほど嫌いだし。タソガレドキの諸泉尊奈門さんが練り物見せただけでボコボコにされてましたしね」
「嫌いにもほどがあるでしょ。可哀想モロ出し。……それにしても意外なギャップだったな。メンヘラ製造機かと思ってたがメンヘラ吸引機の可能性も否めないか…?」
何でもできそうな顔をした男が実は生活能力がないとわかれば、そういった女達がこぞって世話を焼きに来そうだ。この人は私がいなきゃダメなんだわ、みたいな感じで寄生するかもしれん。メンヘラ吸引機の意味を聞いてきたきり丸にはそう説明した。
「土井センの嫁になる人は苦労しそう」
「お姉さんが言った人達が嫁に来るなんて、なんか心配になるんすけど」
「そん時ゃきり丸、あんたが見定めてやりな。姑の如く、土井センの伴侶になれる女を見極めるんだよ」
「おれがぁ〜〜〜??」
せめて小姑って言ってくださいよ、ととてつもなく嫌そうな顔をするきり丸。戦災孤児のこの子は土井センを保護者として休みの日は彼の家に滞在しているらしい。家族も同然のきり丸なら土井センの嫁くらい見極められると思ったのだが、当の本人は唇を尖らせて拒否の姿勢を滲み出している。確かに、せっかくできた家族を知らない女に取られたくないのもわかる。
「じゃあお姉さんが嫁にくればいいじゃないっすか」
その返しは予想外だ。一瞬ビシッと体を硬直させた。
「私ゃダメな女にはなりたくないから遠慮する」
「えぇ〜〜お似合いだと思うんすけどねぇ」
「旦那になる人は生活力ある人が前提なんでな。それに土井センは私みたいな怪しい女は眼中にないよ。……そんなことより、土井センが帰ってきたら何が何でも土井半子をやらせたいんだけどどうしたらうまくいく?」
「まだ諦めてなかったんすか」
一年は組の子達が描いた彼らの担任達の女装を似顔絵を見てからは見たくて仕方ないのだ。伝子はいつでも見せてくれるというから機会があればお願いしたが、問題は半子だ。以前は割とノリノリでやってたときもあったと聞いたのに何故か頑なに見せてくれようとしない。
「お姉さんに見せたら負けた気がするって言ってましたよ」
「私達は何の勝負をしてるんだ?」
「土井先生に頼むよりもいい方法がありますよ」
「え!なになに!」
きり丸に身を乗り出せば、こやつはケチの魔物、情報が欲しけりゃわかるだろと言うように手のひらを差し出してきた。一周回って感心しながら金ヅルがくれた銭を2枚差し出せば「まいどあり!」といい笑顔で話し出した。
「五年ろ組の鉢屋三郎先輩に頼めばいいんすよ」
「五年?」
「鉢屋先輩はですね、変装の達人っすよ」
「ってことは……」
「先輩に土井半子の変装をしてもらえば一発です!」
「きり丸!あんたって子は!ナイスすぎる!」
うりうりと頭を撫でてやれば「やめてくださいってー!」と言いながらも素直に受け入れてることから撫でられるのは嫌じゃないらしい。
「そんじゃあ早速……」
「あ、今日から3日五年生は外部で実習らしいっす」
テンション上がってきたところに水を差されズテーンとギャグ漫画よろしくずっこける。なんてこった、今日は五年生いないのか。3日となると土井センも帰ってくる可能性があるじゃないか。いや、土井センが見てないところでやってもらえばいいんだ。本人に頼むよりも遥かに簡単である。仕方ない、今日は諦めてやるか。
「でも土井先生の嫁さん、本当にどんな人になるんだろ」
「またその話に戻るの?」
「だって一回先生の嫁だって人が家にいたことあるんすよ」
「メンヘラ吸引機が現実的になってる」
「まぁ相手男だったんですけど」
どうやらお相手方が知ってる方で、金をもらおうとしての算段だったらしい。それにしても嫁を名乗って金をもらおうととするのはメンヘラとやってることが同じなのよ。
「結婚しないかもしれないよ。きり丸がいるだけで充分だと思うけど」
「んーーー……おれが独り立ちしたら先生が1人になることが多くなってまただらしない生活に逆戻りっすよ」
「巣立ちっつーもんはそんなもん。子離れさせろ」
「だから、おれが卒業しても先生に相手がいなかったらお姉さんも一緒に姑になってよ」
「私も土井センの嫁を探す側になんの?」
思わず笑ってしまった。ケチと鬼ババ(仮)が背後にスタンバッてたら土井センの嫁になりたい人は近寄れないんじゃないか。
そんな楽しい想像をしながらも、きり丸のお願いに応えてやることはできなかった。この子はまだ一年生。卒業まで五年ある。その時までに自分がここにいるかどうかわからない。曖昧な約束を結ぶことはできないため、誤魔化すようにその頭をポンポンと撫でた。
「ほら、早く終わらせないと間に合わないよ」
それからは互いに無言で作業を進める。あと2、3本で終わるというところで左腕に重みがかかった。首を回して見下ろせば、寝息を立てたきり丸が気持ち良さそうに眠っている。仕方ないな、とゆっくり膝に頭を乗せてジャージを小さな体に被せてやる。
まだ親に守られるであろう年の子がこんなに必死にお金を稼ぐ姿に、やっぱり自分がいる世界ではないのだと実感する。あどけない寝顔を晒す子どもの頭を撫でながら、天を走る空気を少しだけ取り込んで目を閉じた。
「遠い未来まで名が伝わるくらい、すごい忍者になってね」
陰に生きる忍者がそんなことできるわけがない。もっと欲を言うならば、この子達の子孫と未来で会えたならと思うもそれも奇跡が重ならなければ難しいかもしれない。
それでも、差し込む微かな光を希望にして生き続けられるよう祈っておくから。
人は時に避けなければならないことがある。
例えば危機に相見えたときとか、相手の城に侵入して敵にバレるヘマをしないだとか、生徒達を命の危険に晒さないだとか。
そう、時間がなくて嫌いな食べ物を押し付けて出てきたことだって必要なことだったのだ。だって嫌いなものに時間をかけるより出張の方が大事である。絶対、間違ってない、出張に遅れる危機を避けただけだ。
だが、この危機からはどうにも逃げられそうにないらしい。
「あぁ〜〜〜土井先生じゃないですかぁ〜〜〜おかえりなさぁぁい♡」
顎に手を当てて出迎えたのは忍術学園で保護兼捕虜の立場にある彼女。その周りには組の生徒達もいるが、彼女のぶりっこに戸惑ってる者とその理由がわかっててこちらと目を合わせない者とがいる。きり丸なんかその筆頭だ。
「私ぃ、土井先生が3日もいなくて寂しかったんですよぉぉ〜〜会いたかったぁぁ〜〜〜!会いたくて会いたくて震えてたのぉ。だから………ちょっとツラかせよ」
バレてる。これは完全にバレている。3日前に押し付けたちくわが自分の嫌いな食べ物だってことを。確かにこちらが嫌いなものを知らないだろうと思って押し付けたのは悪かったが、会いたくて会いたくて怒りで震えるほどだろうか。猫撫で声のぶりっこから瞬時に鬼ババの顔へと切り替えた彼女と目を合わせないよう、視線を空中に彷徨わせながら何とか言い逃れを考える。
「い、いやぁ私、学園長先生に出張の報告をしないとでして……」
「じゃあその後だ。大丈夫、時間は30分くらいしかとらせん。あまりに遅かったらガキンチョ達向かわせるから逃げるなよ」
何故か中指を立ててこちらに向けてくるがその意図はわからず、彼女はは組の生徒達を引き連れて食堂へと去っていった。その場に残ったのは乱太郎、きり丸、しんべヱ、そして団蔵。ご愁傷様と言いたげな彼らに嫌な予感がじわじわと滲み出てくる。
「先生、大人しく怒られましょうね」
「お姉さん、食堂のおばちゃんに1時間説教されてましたからね」
「とばっちりだー!ってこんなふうに目を釣り上げて怒ってましたよぉ〜」
「ぼくだっておばちゃんに正座させられて怒られたんですからね!」
「「「団蔵のは自業自得」」」
結局おばちゃんにバレたのか。まああのおばちゃんに隠し事はやっぱり無理だったようだ。とばっちりで怒られたのならあの怒りようは理解できた。確かにこっちが悪い。仕方ない、ここは大人しく怒られるとしようじゃないか。
「報告が終わったら向かうから待っててほしいと伝えておいてくれ」
「「「はーい!」」」
報告長めにしよう、と心で決めながら学園長庵へとゆっくり足を進めた。怒られるのは仕方ないが、それはそれで気乗りしないので少しでも時間を稼ごうといつもより歩幅を狭くする。
学園長庵には山田先生もいた。それとなく、けれど遠回しに時間をかけて報告すれば向こうもおかしいと思うわけで。理由を聞かれたので素直に答えれば「そりゃお前が悪い」と一刀両断された。
「ハハ……それはさておき、もう一つご報告が」
「ほう、何じゃ?」
「『浄土天女派』、という宗派に耳にしたことはございますでしょうか」
「いや、ないな。学園長先生は?」
「初めて聞く宗派だの。何か引っ掛かることでもあるのか?」
出張先の茶屋でたまたま出会したその宗派の名前。
崇めるのは天から舞い降りてきた、人々の心を浄化する天女であること。
不思議な空気を纏い、浄化の力を持つ天女をその宗派の者達が探していること。
あらゆる村を渡り歩きながら天女の存在を聞き回っていること。
浄土天女派という宗派はこちらも初めて聞いた名だ。できる限り調べてはみたがこれといって重要な情報は出てこなかった。陰で暗躍しているのか、目的もわからないその宗派にどこか嫌な予感が湧き上がっている。
「それで、土井先生が考えているのは彼女のことかの」
「ええ。最初は彼女のことかと思っていたのですが…」
だが彼女、浄化どころかほぼ混沌しか生んでいないことに気がついたのである。いや、紙芝居で感動する話はしてくれるし心も洗われる気分にはなるがそれを上回るほどの混沌メイカー。そろそろ胃痛の原因に彼女も加わりそうなほどである。天女のての字も見当たらないため、疑わしくも除外しようとしている自分がいた。
「「あぁ、確かに」」
本音を零せば2人も納得したかのように頷いた。やっぱり彼女は天女ではない、鬼ババだ。浄化の天女、混沌の鬼ババ。どう足掻いても彼女に似合う名は後者である。
「それに天女は魅了の力を持つと聞きます。まず彼女ではないでしょう」
「そんな食い気味に否定せんでも」
「とりあえず、今は情報を集めつつ様子見じゃの。引き続き探っとくれ」
「はい」
「ところで………出張先であったじゃろうお見合いはどうじゃった?」
「やっぱり学園長先生が仕組んだんですね!」
「「「お見合い!!?」」」
背後から己の生徒達の声が飛んできた。振り返れば、やはりそこには乱太郎、きり丸、しんべヱが驚いた表情で突っ立っている。
「先生結婚するんですか!?」
「い、いやちゃんと断っ……」
「お姉さんに知らせないと!」
「言わんでいい言わんでいい!」
「先生〜!終わったら食堂に来てくださいっていってました〜〜!」
「ああわかった……ってお前達ーーーー!!」
おもれーネタが手に入ったと言わんばかりに足早に去っていく乱太郎達を追うため、学園長先生と山田先生に礼をしてからすぐさま学園長庵を出た。
こういうときだけ足が速いあの子達。着いた頃にはもう彼女にしっかり話していた。勿論、周りにはは組の生徒もいる。こちらに気づいた彼らがこぞって取り囲んで次々にそのことについて投げかけてくる。
「きり丸、早速出番だぞ。小姑の力を見せてやれ」
「えー今ぁ?嫁さん(予定)ここにいないしー」
「それもそうか。でも結婚するってなると尚更これは見せないとね」
「土井先生用の紙芝居っすか?」
「結婚するなら好き嫌いは無くしとかないと。嫁さん苦労するでしょ」
「さっきから話を進めるな!あと余計なお世話です!」
纏わりつく生徒達を引き摺りながら勝手に話を進めるきり丸と彼女が座る食卓へと向かった。途中で食堂のおばちゃんがニコニコ楽しそうに見守っているのを横目に自分も2人の前に座る。席に着けば待ってましたと言わんばかりに彼女が悪戯っぽく笑ってみせる。
「金吾は左側、兵太夫は右側、しんべヱは膝の上で土井センの重し。……うん、よし。土井セン包囲網は完璧だね」
「そんなことしなくても逃げませんよ、まったく。……私がいない間、変わったことはありませんでしたか?」
「最近夕方になると近所でギンギン鳴き始めるギンギンゼミが発生したくらいかな。そういう季節?」
「あなたの変わったことではなくて…」
あとそのギンギンゼミはおそらく鍛錬してる文次郎だろう。何やら6年生ともいろいろあったらしく、今では彼女を訪れる者もそれなりにいる。主に仙蔵あたりが化粧関連で話す仲になったと聞いた。混沌を生む鬼ババだが、こうして生徒達に懐かれているのを見るとやはり悪い人ではないのだと思う。
「なに、さっきから人をガン見して」
「いや……あなたはやはり天女って柄ではないな、と」
「私が住んでる所で高騰しているキャベツの値段より安い喧嘩なら買うけど」
思わず漏らしてしまった本音に怒る彼女を宥めるよりも、彼女が住んでいるところはキャベツが高騰しているという情報に意識がいく。もしかしたら、キャベツが高くなっている地域を調べたらこの女性の情報も手に入るのではないか。思わぬ収穫に頬を緩めれば「なに笑ってんの」と怪訝な顔をされる。
「いえいえ。それよりも、新しい紙芝居ができたんですよね?それを私に見せたいと?」
「うん、まぁね。結婚する土井センが好き嫌いで嫁さんに苦労をかけないよう描いた紙芝居なんだけど」
「言っておきますが、私は結婚しません」
「「「「ええーー!しないのーーー!?」」」」
「しない!」
当たり前だが断ってきた。突然すぎるし、学園長先生が知らない間に組んでいたお見合いなんて受ける気にもなれない。自分だってまだこの学園でやりたいことはたくさんある。正直まだ所帯を持つつもりはないのだ。
「じゃあ万が一結婚する日が来るかもしれない土井センのための紙芝居に変更で」
「万が一は余計です!」
「よし、そんじゃあ始めまーす」
そう言った彼女は紙芝居を机の上に乗せた。
《食べてあげる》──────
表紙にはその文字と、どこか見たことある顔とその頭に手のひらサイズの小人がちくわを持って座っている絵が描かれている。メインの人物の絵を見てはは組の生徒達がわぁっと高揚の声を上げた。
「土井先生だー!」
「子どもの土井先生だ!可愛い!」
「子どもの先生の頭に座ってるのも先生だね!」
「何でちくわ持ってんの?」
可愛い絵柄で描かれた自分に少し照れ臭くなる。やっぱり彼女は絵が上手い。子どもも大人も目を惹くその絵柄はどこか安心感も覚える。
表紙が捲られ、そこには嫌いなちくわを前にして嫌がる子ども姿の自分がいた。その前にある湯呑みの後ろには先程表紙にもいた小人が静かに覗いている。
「『ちくわ いやだ』。おいしくない、たべたくない、ちくわなんてだいきらい。だれかたべてくれないかな〜。はんすけくんはおもいました。すると……」
『たべてあげる』と小さな自分が湯呑みの後ろから姿を現した。小人に誰だと問う自分に小さな自分は言った。
「ぼくはちいさなはんすけくん。いやなものはぜんぶぼくがたべてあげるよ」
手を差し出して受け取ったちくわを小さい自分はパクッと食べ、その背丈よりも大きいちくわをあっという間に平らげてしまった。それからも大きな自分は嫌なものを小さい自分に渡しては全て食べてもらっており、正直羨ましい限りである。
「『えらいわね』。きれいになったおさらをみてしょくどうのおばちゃんはおおよろこび。きらいなちくわをたべずにすんだはんすけくんもおおよろこびです」
「先生ズルーーい!!」
「食べたのチビ先生なのに!」
「喜ぶなー!」
「いや、あれ私じゃないから…」
やたら若くて綺麗に描かれた誰だと言いたくなるほどの食堂のおばちゃんに褒められている自分に、生徒達からのバッシングが酷い。膝にいるしんべヱなんか「それならぼくにくださいよ!」と別の方向にプンスコ怒っている。
次の日のご飯にも嫌いなかまぼこが入っていた。また自分が「かまぼこいやだ」と言えば、小さな自分が出てきて「食べてあげる」とかまぼこを食べた。やっぱり羨ましかった。
「『これもいやだ。あれもいやだ』。はんすけくんはまえよりもわがままになりました。きらいなものはぜんぶちいさなはんすけくんがたべてくれるからです」
「なに甘えてるの先生」
「情けないったらありゃしないよ」
「お前達!だからあれは私じゃないって!」
さっきよりも増したバッシングに肩を落としてからまた紙芝居に目を戻す。次に捲られた紙には、小さな自分がたくさん手を伸ばしてはあらゆる食べ物をとっているではないか。わがままを言っていた自分も困り果てた顔をしている。自分ではないが子ども達の言う通り情けなさが襲ってくる。
「『たべてあげる。たべてあげる』。ちいさなはんすけくんは、どんどんたべておおきくなりました。はんすけくんのきらいじゃないものまで、どんどんたべるようになりました」
「チビ先生意地汚い!」
「ほらぁ。先生が食べ物あげるから調子乗っちゃったじゃーん」
「ちゃんと躾しないと!」
「……もう好きにしてくれ」
ところで、ずっと思っていたのだがそのチビ先生、目に光がなくないか。虚無しか映していない目で食べ物を頬張るその姿に嫌な予感しかしない。知らないうちにしんべヱの腹をギュッと抱き締めていた。何故だかすごく安心する。
そして、次の紙が捲られた途端、生徒達の腹の底から突き上げるような恐怖の叫びが食堂全体に響き渡った。
「「「「「ギャーーーーーー!!!」」」」」
「『あれれれれれれ』。いつのまにか、ちいさなはんすけくんは、ほんとうのはんすけくんよりおおきくなっていました」
「もしかして、とか思ったけどやっぱりーー!!」
「怖い怖い怖い!舌ペロッてしてるの怖い〜〜〜!」
1番始めと立場が逆転したかのように大きくなった体。舌を出しながら光のない目で自分を見下ろすその姿に、絵の中だろうと言葉に表せない恐怖がジワジワと湧き上がってくる。
鬼ババはやはり鬼ババ。生徒達の反応を見ては楽しそうに笑い、また言葉を唇で遊びだす。
「『こんなのいやだ!こんなのいやだ!』」
「え"っ、待ってそれ言ったら……」
左にいた金吾が言葉の意味を察したのか、涙目で腕に縋りついてくる。右にいる兵太夫も泣いてはいないが固唾を飲んで先の展開を覚悟した目で待っていた。しんべヱはというと多分まだわかっていない。
「こんどは、はんすけくんがいやなの?……ちくわいやだ。かまぼこいやだ。そしてこんどは、はんすけいやだ。ということは………」
自分の頭上に大きな手の影が映る。その絵で生徒達は全員察せただろう。一瞬でその場が静まり、何人かの手が服を掴んではきつく握りしめて離さない。
そして、目の前にいる紙芝居の神が容赦無く絶望を叩き込んできた。
────『た べ て あ げ る』
「「「「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」」」」
「「「「せんせーーーーーーー!!!」」」」
紙一面に広がる地獄絵図。
瞬間に湧き上がる阿鼻叫喚。
小さかった自分に摘み上げられた本来の自分が大きな口の上まで運ばれていく。細かく描かれた歯列と薄く見える歯茎がより恐怖を倍増させており、きつく握られた服の裾から振動が発生していた。
口の中に放り込まれた本来の自分はというと、狭くて暗い通路を柔らかな壁に弾かれながら落ちていく。
「『ちゃんとじぶんでたべればよかったよ〜』。まっくらないぶくろのなかで、はんすけくんはとてもはんせいしました」
もう誰もバッシングしない。何故ならば、胃袋に放り込まれた時点で助かりっこないのだから。そういえば、先程からしんべヱが動かないのだがどうしたのだろうか。顔を覗いてみたら、白目を剥いたまま放心していた。この中では1番紙芝居に近いところにいるのだ、その絶望を最先端で見ているのだからこうもなる。
一方、そのころ外の世界では。
「『みちがえるようにいいこになったわね』。すききらいがなくなったはんすけくんに、しょくどうのおばちゃんがえらいえらいとほめています。そのはんすけくんが、ほんもののはんすけくんじゃないとも、しらずにね」
そこで鬼ババは言った。さて、ガキンチョ共、と。
「本当のはんすけくんはどうなったでしょーか」
恐怖と絶望で消沈している生徒達に更なる追い討ち。誰も答えないのは想定済みなのか、彼女は何も言わずにまた紙を捲る。次の絵を見たくなくて、でもやっぱりその後は気になって。生徒達が手で目を隠しながらも指の隙間からチラリと覗いているのがわかる。
「『もうすききらい、しないよーー!』」
口をこじ開け、必死な形相で出てきた自分。そのコミカルな展開に、全身に巡っていた恐怖と不安が脱力した体と吐いた息と共に外に出ていく。生徒達もハァ〜ッとその場に座ってはよかったと安堵の声を漏らしていた。
だがここで終わらないのが鬼ババだ。
「安心してるけどね、あんた達。そこにいる土井センが本当の土井センとは限らないかもよ?」
なんてこと言うんだ。いや、そうだ、これは彼女なりの仕返しなのだ。生徒達を不安にさせて自分の罪悪感を煽ろうという魂胆なのだろう。だが舐めないでほしい。この子達は問題児ながらも実践経験はあるため、そういった摩訶不思議な物語の展開なんてないと言うに決まっている。
「お……おばちゃーーーん!ちくわ、もしくはかまぼこありますか!!」
だが、やはり問題児クラスは組。予想の斜め上をいくのがこの子達である。乱太郎が食堂のおばちゃんのところに一目散に駆け寄っては必死にお願いし始める。それに追随するように他の生徒達もこぞっておばちゃんの方へ向かった。
「土井先生がっ、チビ先生に乗っ取られたかもしれないんですぅ〜!」
「かまぼこかちくわなどの練り物を見せればきっとわかります!」
「食べればチビ先生、すっっごく嫌がったら土井先生!」
「本物の土井先生かを確かめるために、食堂のおばちゃん!お願いします!」
「ちょっと待てお前達!!すでに嫌がってるのが見えないのか!私は本物だ!」
最悪の展開だ。全然見破れてなかった。小さい自分の口に放り込まれるよりも最悪かもしれない。恐怖と不安でパニックになった生徒達が鬼ババの戯言をあっさり信じてしまった。元凶はというと「オホホホホ」と鬼ババさながらの腹立つ笑いでこちらを見据えている。
「仕返しするにしても限度っていうのがあるのでは〜っ!」
「『やられたらやり返す、倍返しだ!』っていうのが私が住んでいたところの法律でして」
「〜〜〜っなんて女だあなたって人は!」
「さそり座の女」
やっぱり彼女は天女なんかじゃない。絶対にだ。断言してもいい。人が絶望の淵にいるのに鼻で笑う天女なんかいてたまるか。
「まぁこれに懲りたらもう押し付けないでよ」
「あなたに頼んだのが間違いだった……」
「いっそのこと練り物に愛着持てばいいんじゃない?結婚の話もなかったんだし、この際かまぼこと結婚するとか……」
「断固としてお断りだ!!!」
彼女の地獄の紙芝居は食堂のおばちゃんが気に入ったようで、壁に飾られている『お残しは許しまへんで!』の文字の隣に並べられた。残したらこうなります、という意味合いで。
しばらくの間、お残しをしようとする人はめっきり減ったらしい。
出張と紙芝居の疲労というダブルパンチを喰らった次の日。
今日からまた授業が始まる。は組の子達が少しでも授業が理解できるようにと絵が上手い彼女に資料の依頼をしに行く。昨日ので懲りたのでもう彼女に嫌いなものは押し付けない。そう決心して、彼女が住む長屋へと足を運んだ。
長屋が見えてきたところで、その家の前に何人かが集まっているのが気配でわかった。こんな朝早くに誰が来ているのか。
あれ、今は朝だっけか。
不可思議な感覚を覚えながらも長屋に急げば、そこにいたのはは組の生徒達だった。その中の1人、三治郎がこちらに気づくと「先生ー!」と手を振ってくる。
「お前達、ここで何してるんだ?」
「何って、先生のお祝いをしに来たんですよ?」
不思議そうに首を傾げる三治郎にこちらも同様の動きを示した。お祝い、とは。自分は一体何を祝われるのだろうか。顔に出ていたのか、三治郎の隣にいた伊助が花が咲くような笑顔で言い放つ。
「先生ご結婚おめでとうございます!」
「「「「おめでとうございます!!」」」」
「はぁ!?」
結婚!?
その話は断ったはずだが!?
展開に着いていけなくて硬直していると、きり丸が手を引いては向こうの方を指差す。
「ほら、嫁さんも待ってますよ」
その指先に示された場所には、後ろ姿で佇んでいる女性がいる。さっきまでそこには誰もいなかったのに、音もなく現れた女性。その後ろ姿は見覚えがあるようなないような。いやいやまさか。そんなわけない。そう思いながらもこの長屋に住んでいる彼女の姿を目だけで探すが、どこにも見当たらなかった。
じゃあ本当に……。
もしそうなら……、と何故か受け入れ態勢に入っている自分にストッパーを掛けながらもあの、と声を掛けた。声を掛けられた女性が肩をピクリと跳ねさせ、こちらを振り返る素振りを見せる。白無垢を着た女性の正体に心の臓がザワザワと騒ぎ始めた。
そして、女性が完全にこちらを向いた。
「ギャアァァァァァァァァ!!!」
顔が、ない………!
いやそれよりも女性の顔、かまぼこじゃないか!顔は白くともこめかみ辺りが桃色に染まっていることから間違いない。何でかまぼこが白無垢着て立っているんだ。何で誰もこのことに突っ込まないんだ。
絶望の噴火口に放り投げられた気分である。そんなとき、長屋の障子がバンと開けられ、中から誰かが飛び出してきた。
「それではこれより、土井センとかまぼ子の結婚式を始めたいと思います。ご参列の皆様、どうぞこちらに」
「「「「はーーーい!」」」」
長屋から出てきた、南蛮の打掛けを羽織った彼女の指示に従って生徒達が傍へと並ぶ。1人置いてけぼりの中、いつの間にかかまぼこが隣に並んでいたのでギョッとして素早くそこから離れた。仮にも新郎の立場であろう自分がこの態度なのに、彼女はというと気にしない様子で本を見ながらやる気なさそうに話し始める。
「えーー、新郎土井セン。あなたはここにいるかまぼ子が俎板に乗せられた時も汁物の材料になった時も、その身を食うことになった時も愛すことを誓いますか」
「誓うかーーーー!!」
「新婦かまぼ子。あなたはここにいる土井センに包丁でその身を切られた時もお湯にぶち込まれた時も、その身が食われる時も愛すことを誓いますか」
「誓います」
「かまぼこが喋るな誓うな!」
こちらの訴えなど聞こえていないかのように進行させていく彼女に、目を釣り上げて抗議しようと一歩近づいたとき、またしても新たな登場人物が現れた。
「その結婚待ったァァァァ!」
「ぎょええええぇぇぇ!!」
式をぶち壊さん勢いで乱入してきたのは顔がちくわの女だった。こちらは何故かボロボロで、まるで愛する人を取り返すために障害を乗り越えてきたかのような雰囲気を醸し出している。
「私から半助さんを取るなんて、この泥棒かまぼこ!」
「何よ、他の人に押し付けられたちくわが出る幕ないのよ!」
何やら始まった練り物達のキャットファイト。ご参列の生徒達は白い目で見てくるし、ちくわを押し付けられた彼女は結構関係者なのに我関せずと耳をほじりながら本を読み始める始末だ。
練り物ファイトが長引けば飽きもする。生徒達がうんざりした顔を隠さなくなってきた頃、彼女が立ち上がってあの子達の元へ行く。
「ガキンチョ共。新郎土井センは女2人を誑かした罪多き男だ。けれど本当は誠実な土井セン、2人を同時に愛してしまっただけなのだと思う」
「愛してない愛してない!」
むしろ逆だ。だが彼女、さっきから人の声が聞こえていないかのようにこちらを一切視界に入れない。
「だから、とりあえずここは適当に祈ってやり過ごそうと思う。私の後に続いて復唱して。
───かまぼこ女房ちくわは愛人、アーメン。はいせーの」
「「「かまぼこ女房ちくわは愛人、アーメン」」」
「どんなお祈りだ!」
本当に勘弁してくれ!
誰も味方がおらず、地面に膝をついて拳をぶつけていたところでフワッと体が浮く感覚がした。さっきまであった地面はなく、そこには真っ暗な闇。奈落の底に落ちていく浮遊感と腹に当たる風圧を受けながら上を向けば、生徒達と彼女がこちらを笑顔で覗き込んでいるのが見える。
「「「「かまぼこ女房ちくわは愛人、アーメン」」」」
穴の中であの子達が放り投げた言葉が反響して自分の身に襲ってくる。何度も何度も肌に染み付かせるような悍ましい言葉の連投に、反発するように大きく息を吸う。
だから…………
「結婚しないって言ってるだろう!!!」
奈落の底から引っ張り上げられる意識と共に体を起こす。起き上がると同時に開かれた瞼の向こうは外ではない、自身の寝室であった。ハァハァと息を切らし、汗でべっとりと張りついた寝衣の感触がここが現実であると知らしめる。障子の隙間から差し込む薄い光がもうすぐ朝だと告げていた。あれが夢だと理解し、安堵で長い息を吐けば隣から視線を感じて首を向ける。
「大丈夫か、半助……」
ちょっと引いたように眉に皺を寄せてこっちを見ている山田先生に「すみません、起こしてしまいましたか」と額の汗を拭いながら謝罪する。
「随分うなされておったが、それほどに嫌な夢だったのか?」
「ええそれはもう。3本の指に入るほどの悪夢でした」
未だにあの言葉が頭の中でリフレインされる。染み付いてしまったそれを振り払うように首を激しく振ったが、その言葉を忘れるにはしばらく時間がかかりそうでガックシと項垂れる。夢の中までやり返してくるとは。
少し早いが起きよう、とスッキリしないまま支度をしてから山田先生と食堂へ向かう。その途中、夢の中であの言葉を吐いた元凶が向こうから歩いてくるのが見えた。彼女はこちらに気がつくと小さく手を振ってくる。
「山田先生、土井セン、おはようございます」
「おはようございます。今日は随分と早いですな」
「目が覚めちゃいまして」
山田先生と軽く談笑する彼女をジトリと見ていると、視線に気がついたのか怪訝な顔を向けてくる。
「どうしたの、朝からそんな顔しちゃって。嫌な夢でも見た?」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
呑気に心配してくるその呑気な顔に、こちらの心労も知らないでと細い肩を掴んで顔を近づけた。
「いいですか。私はかまぼこを女房にしないしちくわも愛人にしません!」
「は?」
意味がわからないと惚ける彼女とその横で横を向いて吹き出した山田先生。魘されて起きたときに叫んだ言葉の意味がわかったらしく、しばらく震えていて復活するには時間を要しそうだ。
「あなたが昨日変なこと言うから最悪の夢を見て、朝から気分最悪ですよ!」
「朝から突然面白いこと言われた私の身にもなって」
笑いを隠さないまま、未だ体を震わす山田先生と食堂に向かう彼女に後ろで文句言うもどこ吹く風なのがまた腹立たしい。食堂のおばちゃんに挨拶し、朝食の盆を貰おうとして……固まった。
「わぁお。土井セン、奥さんのお出迎えですよ」
汁物に浮かぶ薄く切られた白と桃色の練り物。表情を失くした自分、隠さずに大笑いする彼女、呼吸困難寸前の山田先生、ニンマリ笑う食堂のおばちゃん。大人達がくだらないことで盛り上がる早朝の食堂に漂うのは笑い声と美味しそうな香りだけだ。そこに微かなどんよりとした空気が混じっている。
「あらぁ、土井先生かまぼこを奥さんにしたのぉ?」
「愛人はちくわらしいですよ」
「まぁー!とうとう好き嫌いを克服するだけじゃなくて好物になったってこと!」
「本人のこの顔からして離婚する気満々っぽいですけど」
「お別れは許しまへんで!」
もう言い返す気力もなく、盆を持って席についてげっそりしながら箸を手に取る。隣には山田先生、前には彼女が座ってはまだ笑いを残したまま食べ進めていた。汁物に浮かぶかまぼこが今か今かと食べられるのを待っているかのように泳いでいる。ここにいる彼女じゃない、夢の中の彼女が愛を誓えと言っている気がしてより気が滅入った。胃が痛い。
しばらくして、次々と生徒達も食堂にやってくる。こちらの表情が浮かないのを心配してくれるが、今日のメニューを見た途端みんな納得して応援してから散っていく。何人目の応援かわからなくなってきた頃、前に座っていた彼女が立ち上がる。
「ご馳走様でした。お先失礼します」
前の席が空いて視界が広くなってもかまぼこは消えてくれない。何回目かの溜息を吐いたとき、入り口の方から彼女が誰かと話す声が耳に入ってきた。
「鬼ババさんですよね。庄左ヱ門からよく話は聞いています。なぁ、雷蔵」
「はい。僕も図書委員会の後輩であるきり丸からあなたのこと伺っています」
「庄左ヱ門ときり丸は後でしめるとして、鬼ババはやめてね?2人は…双子?」
彼女と話しているのは五年ろ組の不破雷蔵と鉢屋三郎だ。珍しくもない組み合わせだが鬼ババがいるため自然と意識がそちらに向かう。決してかまぼこから逃げたいわけではない、そう決して。
「いいえ、私はこの不破雷蔵の顔に変装しているだけの血は繋がっていない他人です」
「へぇ…!変装かぁ、すごい。それにしてもよく似てる………あ、ちょっと待って。君、鉢屋三郎くん?」
「はい、よくおわかりで」
「やった!ここで会えるなんて!ラッキー!」
パァッと表情を明るくさせた彼女は両手を合わせて頬に寄せ、お願いするように三郎を見つめる。
「きり丸から聞いてたの。変装の達人だって。そこで鉢屋くんに変装してほしい人がいてね」
「はぁ、別に構いませんけど」
何だか嫌な予感がした。食べるのも忘れて凝視すれば、視線に気づいた彼女がニヤリと笑ったことでその意図が完全にわかった。鉢屋は変装の達人、そして彼女からの土井半子見たいというお願いを散々断ってきたことから、鉢屋に土井半子をさせようという魂胆だということに辿り着く。
ここでは何だからと食堂を去っていった3人。マズい、このままでは頑なに見せなかった土井半子がとうとう彼女の視界に納められてしまう。残っていたかまぼこを摘み、何度か躊躇しながらもようやく全て胃の中に収められた。おばちゃんにご馳走様と言い残し、全力で3人の後を追いかける。
途中で会った乱太郎、きり丸、しんべヱの朝の挨拶に全力でおはようと返しながら。
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「まったく、年が近い者がいると子どもっぽく意地になるなんて。まだまだ半人前だな」
「山田先生〜おはようございまーす!」
「ああ、おはよう」
途中ですれ違ったであろう土井先生の必死な様子に訝しんだ乱太郎達が食堂に入ってきた。
「土井先生、どこかへ行くんですか?何やら急いでいらっしゃいましたけど…」
「気にするな。大人達が子どもみたいに戯れてるだけだ」
「戯れてる……?」
「噂をすればな、ほら」
食堂の窓から賑やかな声が聞こえてくる。先程までここで笑い声と陰気な空気を醸し出していた張本人達の声が食堂に流れてきた。片方の声を聞いた乱太郎達はああと納得したように笑ってから席について食べ始める。まるで朝の日常ですと言わんばかりに。
───土井セン食べ終わるの早くない!?奥様とごゆっくりどうぞ!!
───あなたが何やら企んでいるようなので必死こいて食べましたよ!鉢屋、今のうちに逃げなさい!
───人聞きの悪いこと言うな!逃げなくていいからね鉢屋くん!
───人を挟んでメトロノームせんでください
鬼ババVS土井センVSダークライ三郎の大人気ない大人の不毛な争いに、食堂にいた人達は吹き出しそうになりながらも何とか抑えて口に入れたものを飲み込んだ。
そんな中、声の聞こえる方に目を向けたまま食べ始めようともしないきり丸に乱太郎が声を掛ける。
「きりちゃん、どうしたの?」
「え、あぁ、いや……」
我に返ったきり丸はまだどこか上の空で、乱太郎としんべヱは顔を見合わせて首を捻る。箸を手に取るも、やはり視線は外の方へ。その目はどこか寂しげな、物欲しげな色を宿していた。
「きり丸……?」
「お姉さんってさ、いつまでここにいてくれんのかな」
「お姉さん?」
釣られて外に視線をやった。食堂の壁に阻まれているが、その向こうには土井先生と言い合っている彼女がいるだろう。確かに、突然来たあの人は何故ここにいるのか。紙芝居だの何だので考えるのを後回しにしていたことに気付く。
「お姉さん、帰れるかわからないって言ってたけどさ……」
いつの日か、突然フッと消えてしまいそう。
そんな不安を胸に抱いていたきり丸は握っていた箸に少しだけ力を込めた。自分と同じで帰る場所がないのかもしれない。家族はいないのかもしれない。彼女の絵を初めて見たあの日の会話で、もしかしたら自分達は似ているのかもと親近感が湧いたのだ。だからこそ、彼女に気を許してその温もりの上で微睡んだ。
「きり丸……」
「……いーや!何でもない!」
胸の内で澱んでいた気持ちを晴らすかのように無理やり笑ってみせる。乱太郎としんべヱが心配そうに見てくるのをわかってても、気づかないフリして食べ進める。
そう、気づかないフリをすればいいのだ。まだ引き返せる。贅沢を知ったら後戻りできなくなるって自分で言ったじゃんか。
ずっと昔に失くしたものを彼女に求めてはダメだ。彼女は彼女だ。何者でもない。代わりになんてなれないし、向こうもなろうと思わないだろう。気づいてしまえばまた困らせる。未来のことを話したとき、あの人は困ったように笑って頭を撫でてくるだけだった。だから、望んではいけない。これ以上望むな。そのときが来たとき、笑って見送れる関係でいられる方が互いのためにいいのだ。
「ごちそうさまでした!」
パンッと手を合わせたところで外から山田先生の怒号が聞こえてきた。少し遅れて食べ終わったにも関わらず、大人達が未だ言い合いを続けていることからおかんむりになったらしい。
───いい歳していつまでやっとるんだ!!大人気ない!………それで、どっちが本当の元凶だ?……2人して互いを指差すんじゃない!!
「ハハッ。しょうがねーなぁ、土井先生もお姉さんも」
雲の流れを操っていた風が少しだけ学園にお邪魔してきた。自然の息吹を顔に吹きつけられ、また外へと去っていく。
ああ、今日も平和そうで何よりだ。
鬼ババのお気に入りは1番可愛く泣いてくれる金吾。



























