フリュートレーネの祝福厚いうららかな春。
新領地アレキサンドリアは飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げていた。
古くからアーレンスバッハで幅を利かせていた上位貴族こそ、新たな未成年アウブを侮り、軽んじているようだったが、中級から下級の貴族達は皆、実力主義のアウブとアウブ配の目に止まらんと相争っては様々な成果を齎し、そうした動きを商機と捉える聡い商人たちも挙ってアレキサンドリアを訪れた。
新たな名産が産まれ、人と物と金の流れが増えれば領地は富む。
しかし、その分その統制には多大な労力が必要な訳であり。
その苦労を未成年のアウブに負わせまいとするアウブ配は、少々気を張り過ぎてしまったようである。
「…フェルディナンドが隠し部屋から出てこないと?」
件の新領地の未成年アウブ、ローゼマインは、アウブ配の側近の訴えに目を瞬いた。
彼女の配偶者――正確には未だ婚約者の身だが――であるフェルディナンドは、完璧主義と合理主義を絵に書いたような人物である。
執務を抱え込み過ぎることは多々あれど、それで起きる綻びを他人に見せたりはしない。睡眠を削り回復薬を常用し、表面上は何もかも完璧に熟すたちだ。
そのフェルディナンドが、隠し部屋に籠もったまま一向に出て来ないのだという。
彼の側近、ユストクスはこう続けた。
「私どもでは隠し部屋に入れませんので、お手を煩わせて申し訳ありませんがフェルディナンド様の様子を見てきていただけませんでしょうか」
ローゼマインは小首を傾げて「うーん」と唸った。何せフェルディナンドは仕事を抱え過ぎている。隠し部屋で休んでいるのならそのまま休ませてやりたかった。しかし、もし倒れでもしていたらと思うと心配だ。
「分かりました、では様子を見て来ますね。もしお休みのようでしたらそのまま少し休んでいただこうと思います」
「ええ、ありがとうございます。ローゼマイン様」
ユストクスの顔を見るとさほど心配はしていないようだったが、念のためだ。彼女もフェルディナンドが何事もなく休んでくれているところを見て安心したかった。
そうと決まれば行動は早い。外聞外聞と口煩いコルネリウスに見つかる前にさっさと行くのが吉だろう。
フェルディナンドの隠し部屋の扉は、エックハルトが守っていた。彼はローゼマインの姿を認めると、顎をくいとしゃくって入室を促した。アウブに対する仕草としては不遜だが、彼はローゼマインの兄でもある。もともと愛想の良いほうでもないからローゼマインは気にしない。
ローゼマインはコンコンと隠し部屋の扉をノックすると、そっと扉を開いた。
長椅子に横たわるフェルディナンドは眠っているようだった。倒れていたりしなくて安心したが、彼は苦し気に眉を寄せていた。うなされているようである。ローゼマインは少しでも彼の慰めになればと、そっと彼の水色の髪を漉いた。
何かを感じたのか、彼の手が宙を掻く。ローゼマインはその手を取ると、「大丈夫ですよ、フェルディナンド様」と優しく呼びかけた。
「ローゼマイン……」
譫言に彼女の名を呼ぶ彼。その眦には薄っすらと涙が浮いている。
ローゼマインは切ない気持ちになり、眠る彼にそっと覆いかぶさり、ぎゅーをした。
するとフェルディナンドは突然その薄い金の瞳を見開いた。
彼女の手を取り、捻りあげると、一瞬のうちに上下を入れ替える。ローゼマインは何が何だかわからないうちに床に転がされ、両の腕は頭の上でまとめて拘束されていた。
「…なぜここに?」
「痛い痛いいたいです! 離してくださいませ」
フェルディナンドは床に転がした相手が確かにローゼマインであることを認めると、拘束を解き、手を差し出して彼女を助け起こした。
ローゼマインは何やらぶつくさ文句を言っているが、フェルディナンドは眉間に皺を寄せ、そんな彼女をじとっとした目で睨んだ。
「…はぁ、まったく君は何をやっているんだ。人の隠し部屋に入るだなどと、破廉恥だとコルネリウスに止められなかったか? いいか、神殿にいた子どもの頃とは違うのだ。君は淑女としての振る舞いを身に付けなさい。まったく、側近たちは何をしていたのだ」
こめかみをトントンと叩いてお説教をするフェルディナンドに、ローゼマインはぷくっと頬を膨らませて抗議の意を示した。全く淑女らしからぬ振る舞いにフェルディナンドの眉間の皺が一層深くなる。フェルディナンドはその頬を両側からむにむにと摘みながら問う。
「…で? 君は人の隠し部屋でいったい何をしていたのだ。隠してもためにならぬぞ。さっさと吐きなさい」
「はなひてふだひゃいまへぇ、ひゃべえまへん~」
ばたばたと藻掻くローゼマインに、フェルディナンドは一度舌打ちすると、更に頬を二度むにむにと揉んでから解放した。
フェルディナンドは哀れな彼女の頬にルングシュメールの癒しを贈るが、ローゼマインは癒しを施すくらいなら最初から摘ままないでほしいと内心で思った。
彼女はまだひりひりするような気がする頬を擦りながら答えた。
「うぅ、ひどいです…。わたくし、ユストクスに頼まれたのですよ。フェルディナンド様が出ていらっしゃないから様子を見てきてほしいと…」
「ちっ、ユストクスめ。余計なことを」
フェルディナンドは苛々とした様子でこめかみを叩いた。
「でも珍しいですね。いつもどんなに疲れていても起きるのに」
「君のせいではないか」
恨みがましい目で見てくるフェルディナンドだったが、ローゼマインには思い当たるところはない。彼女がこてりと首を傾げると、フェルディナンドは渋面を作って言った。
「あの薬は使うなと君が言うから…」
フェルディナンドが言う薬とは、彼が短時間だけ眠る時に服用する薬のことだ。気を失うように眠りにつき、悪夢を見させられて覚醒する。全く健康に良くなさそうなので、ローゼマインはかねてからあの薬を使わないようにとフェルディナンドにお願いしていたのだ。
「わあ、約束を守ってくださったんですね。嬉しいです。あんな悪夢を見る薬は健康によくないですもの。ありがとう存じます、フェルディナンド様!」
「ふん。あの薬を使わなかろうとろくな夢を見ない。大して変わらぬ」
フェルディナンドはそっぽを向いてそのように宣った。確かに先ほどはうなされていたようだった。
「…あの、先ほどはどんな夢を見てたんですか?わたくしの名を呼んでましたよね」
「……」
フェルディナンドは答えない。代わりに眉間の皺がますます深くなる。
「ええと…、言いたくなければ、無理には…」
フェルディナンドは掌で目許を多い、表情を隠すように、ぽつりと言った。
「……君を、失う夢だ」
フェルディナンドの声音は苦渋に満ちている。
「…君は神々の御力に耐えきれず、あのまま……」
ローゼマインは内心で「おおぅ」と淑女らしからぬ唸りをあげた。
彼女の認識としては、魔力さえ使い切ればフェルディナンドが何とかしてくれると信じていたし、実際何とかしてくれた。神々の御力が苦しかった記憶こそ濃厚なれど、そのまま高みに上がってしまうなどという危機意識はあまりなかったのだ。
しかしあの時のことはフェルディナンドの心に大変な傷を刻み込んでしまったらしかった。
「それはむしろわたくしにとっての悪夢ではありませんか。…ふう。わたくし、ちゃんとフェルディナンド様が贈ってくださった神様避けのお守りをしておりますもの。大丈夫ですよ」
ローゼマインは「ほら」と言ってお守りを見せた。
フェルディナンドはのろのろと手を下ろし、お守りを指でなぞる。
「それに、わたくし約束しましたよね。フェルディナンド様を幸せにするって。研究所もちゃんと建てますし、いっぱい美味しい料理も開発するので、ちゃんと幸せになってくださいね?」
「ふ。…楽しみにしておこう」
フェルディナンドは安心したように眦を緩めると、ローゼマインの髪を一房取り、そっと口づけた。
その様がなんだか切なかったのと、照れくささを紛らわしたくて、ローゼマインはばっと両の腕を広げた。
「ぎゅー、しましょうか!」
「…は?」
フェルディナンドは再び渋面を作った。
「…いや、ぎゅーはいい。すまないが出て行ってくれないか、起こしてくれたことには感謝する」
「えー! ひどいです」
「ユストクスに私を起こすよう頼まれたのであろう。私は執務を再開する。支度をするから早く出て行きなさい」
「嫌です! いいじゃないですかちょっとくらい」
「我儘を言うのではない」
「我儘ではありません! だって、フェルディナンド様、寂しそうなんですもの」
「…っ」
フェルディナンドは束の間、反論の言葉を失った。
その隙に。
「えいっ!」
ローゼマインはフェルディナンドに思いっきり抱き着いた。
そう簡単に引き剝がされないよう身体強化まで掛けて彼の背を掴む。
「君は…っ」
苦しそうな、切なそうな、そんな表情を感情の乏しい顔に佩いて。
フェルディナンドはそのままローゼマインを抱きすくめた。
フェルディナンドが眼下に見下ろすつむじから、ふわりと香るリンシャンの香りに、ほんの少し混ざる汗の匂い。
艷やかな髪に揺れる虹色魔石の髪飾り。
「…寂しさは落ち着きました?」
見上げるローゼマイン。小さく可憐にほころんだ唇。
「…寂しくはないが、落ち着かぬ」
心臓がとくとくと少し早い拍動を刻む。
「……君には伝わらぬと思うから直截に言うが…、この先を求めてしまいそうになるから、離れてくれ。名を使ってくれていい」
どちらの心臓の音なのか、あまりに近い距離が分からなくさせる。
ローゼマインは先ほど摘ままれた頬が熱くなるのを感じた。
「ふぇ、フェルディナンドさま?」
戸惑うローゼマインは、フェルディナンドの耳が僅かに赤みを帯びているのを目敏く発見した。
(どうしよう。こんなに肩が広くて、力が強い男の人なのに、フェルディナンド様がなんかかわいい…)
「そ、その。もう少しだけなら、よいですよ…?」
「…っ!」
堪らぬといった様子でフェルディナンドはローゼマインの顎を取り、荒々しく口づけた。彼の広い手がローゼマインの背中を撫ぜる。
「んっ、ふうっ…」
ローゼマインから悩まし気な声が漏れる。
その声に彼の理性は焼き切れそうになる。
彼女の背を撫ぜていた手をきつく握り、フェルディナンドは痛みで無理矢理に正気を取り戻した。
彼も身体強化を掛け、迂闊にも獣の腕の中に飛び込んできた子兎を引き剥がす。
「…すまない。早く出て行ってくれ。頼むから…」
「ひゃ、ひゃい!」
ローゼマインはバタバタと、慌てて隠し部屋を出て行った。
扉を出たところにはユストクスとエックハルトが待っていた。二人は目を丸くしてローゼマインを見ている。ローゼマインはここで二人が待っているであろうことをすっかり失念していたから何と言って良いか分からず言葉を探した。
「…あ、の。フェルディナンド様、起きられましたから…少ししたらいらっしゃるかと………」
それだけ言うと、彼女はぱたぱたと走り去った。
ユストクスはにやにやと、エックハルトは満足気にそれを見送った。
あの迂闊なアウブは、執務室に戻る前にあの上気した頬をどこかで冷ますのだろうか。あのまま戻ればリーゼレータなどは簡単に何があったか察してしまいそうなものだが。
ユストクスはそんなことを考えたが、走り去った彼女には助言を届ける暇が無かった。
その後フェルディナンドは目覚ましの魔術具を作り、星を結ぶまでローゼマインに隠し部屋への侵入禁止を言い渡したとか。

























