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凍てつく世界できみは

ajax(雨籠もり)ajax(雨籠もり)

クラス委員をしている「私」は、ある日クラスメートから、問題児である「御園明楽」が、同じくクラスメートである「由美」を誘拐した、という報告を受ける。「御園明楽」に心当たりのあった「私」は、「御園明楽」がたびたび出入りしている十三番街の裏路地に調査に向かう。そこで御園明楽と鉢合わせた「私」は、御園明楽から「夜の水族館」の話を聞く。

「いらっしゃい、お嬢さん」
 夜の水族館は、まるで墓場のようだった。生き物たちは暗闇のなかを、まるでそのすべてが見えているかのように、昼間をまったく変わらず、動き続けている。
 御園さんの右手は、そんな暗闇のなかで、とりわけ暖かく、輪郭をはっきりとさせている。左利きの私は幸福だ。彼女の右手を、きちんとしっかり握っていられる。
「こんなところにあるの?」
 私は少し、不安になってそう尋ねる。月光、ガラス張りの天井に差すその静かな光が、水槽を頭上から貫いている。魚の背は光を跳ね返し、壁に不思議な模様を形成する。
「こんなところにあるの。」
 御園さんはいたずらっぽくそう言って、その先――薄暗く光る場所を指さした。
 すでに、何人か集まっているようだった。

 御園明楽が不可思議な人物であるということは、学園では周知の沙汰だった。学生服を着崩し、青のメッシュを入れ、胸ポケットには煙草の箱をちらつかせているにも関わらず、補導もされず、不良との関わりもない少女。美人なのにすべての告白を断って、交際経験もゼロだという、謎めいているというか、ミステリアスというか。
 とにかく。
 そういう人物が、御園明楽だった。
 私が彼女と関わることになったのには、少し込み入った事情がある。それは私が、クラス委員という役職に身を置いていたからこその事情だったと、今にして思えば、解釈も可能だったかもしれない。
 クラスの問題は、クラス委員に。
 そういう風潮があるのだ、このクラスには。
「青森さん」
「はい、なんでしょう?」
 放課後。
 日射を遮る肌色のカーテンに暗くなった午後の教室に、人は私と、その二人組だけだった。
「その、すこし相談があって」
「相談?」
「御園さんのことなんだけど」
 ふたりはなんだか、居心地が悪そうだった。両手の指を胸の前で絡ませ、もじもじと視線を定めない。
「御園さん?」
「事件なの」
 と、二人組のうち、今まで黙っていたほう――もしくは、見守っていたほうが、そう口を開く。はっきりとした言い方だった。
「ゆ、誘拐なの!」
 そして、その言葉に後押されるように、手前の少女もそう続ける。
「誘拐って……御園さんが、誰かに連れ去られたの?」
 さすがにそれはないだろう、という前提があっての、その返答だった。
 クラス委員という肩書を持つ以上、クラスに所属するクラスメートのことくらい、部分的にでも知っておかなくてはいけない。
 御園さんには、中学を卒業するまでに、計十二個の空手の大会で優勝経験がある。今となっては、もう空手そのものはしてはいないそうだけれど、腕がなまっているということはないだろう、というのは彼女の身体の筋肉の付き具合を見れば分かる。
 だから、御園さんが誘拐されるというのは少し、非現実だ。
「違うの」
 けれど手前の女子は、そう言って激しく首を振る。
「御園さんが、誘拐したの」
 彼女の目端から涙があふれる。
「御園さんが、由美ちゃんを、誘拐したの!」
 絶叫に似たその声は、教室に強く反響する。
 誘拐。
 誘拐と拉致の違いを考えたことはあるだろうか?
 語源まで詳しくたどると、どうやら誘拐とは、甘言柔言を手練手管に使いこなし、懐柔しておびき出すことを示すそうだ。
 だから、子供がアイスキャンディーに釣られてワンボックスに乗り込むのは誘拐。拉致は誘拐よりは無理やりで、本当に強引に連れ出すことを意味している。
 御園明楽と、由美ちゃん……片瀬由美の事件を、そういう視点で考察するならば、確かに「誘拐」という言葉の遣い方は間違っていない。
 彼女らによれば、由美ちゃんは御園さんに肩を抱かれ、耳元でなにやらぼそぼそと囁かれながら、暗い路地裏へと消えていったそうだった。そしてそれ以降、連絡もないし、学校にも来ていない。
 音信不通。
「えっと。それならまず、私に言うより、警察に連絡したほうがいいと思うんだけどな」
 私が言うと、今度は見守っていたほうが返す。
「警察にはもうお母さんが連絡したと言ってたの」
「母親って……それは、由美ちゃんの?」
「そうなの。由美ちゃん家、シングルマザーだから、頼れるのはお母さんしかいないの」
「それじゃあ、どうして私に?」
「それは、警察が動いていないから」
「動いてないって」
「由美ちゃんのお母さんが言ってたの。警察は事情を聴いてもすぐには動いてくれないって。だから日本はもうおしまいなんだって」
「そ、そうなんだ」
 思想が強いよ。
 ともかく、クラス委員として、そういう事案は見過ごすわけにもいかなかった。……と、同時に、なんとなく、彼女が由美ちゃんを攫うとしたら、どこに行くだろうか、ということにも、ある程度の推測はついていた。
「ねえ、裏路地って、十三番街の?」
 私がそう訊くと、彼女たちはそろって驚いたような顔をする。
「どうしてわかったの?」
「御園さんの素行を調べて欲しいって、先生方から直々の命があってね。パパ活とか、そういうことに手を出していないかの調査だったと思うんだけれど……彼女、十三番街の路地裏に入っていったんだよ」
 そのときの私は、慌てて彼女の後ろをついていったのだが……結局、彼女を見失ってしまった。
 尾行していたことがバレたのではないか、とも考えたが、そうであれば逃げもせず、堂々と私をぼこぼこにすればいいだけなのだ――いくつもの大会を制覇した、その空手術で。
 それをしないというのは、なぜだろう。
「なるほど、誘拐、か。」
 翌日の放課後。
 件の十三番街の裏路地前に私は立っていた。
 雑草が生い茂り、古びた電柱の傍に剥がれたトタンの立てかけられているその場所から、裏路地の先は見通すことができる。本当に、少し道を外れただけで、別世界のようだった。
 散乱したガラス片に青空が跳ね返っている。
 私はそれをまたぐようにして、裏路地へと踏み込んだ。
 途端、視界が暗くなる。
 どうしてだろう。
 晴れている日の影というものは、曇りの日よりも、夜よりも、より一層、不気味な印象を漂わせている。まるでなにか、空気に粘膜のようなものが混ざってしまったかのような、不気味さがそこにはある。
 呼吸。
 ゆっくりと繰り返しながら、じりじりと歩を進めていく。
 背後からの光もやがて遠くなる。
 空の青がこんなにも――遠くなる。
 遠い。
 遠さだ。私の周りを構成するものは、私という人間から、私という生命から、私という人生から、こんなにも遠くかけ離れている。
 室外機の先、放置された植木鉢の隣を歩き、瓦礫のような破片を踏みながら進む。格子の付いた窓、猫の足跡のコンクリート。どうにも馴染めないその光景は、なんだか、自分が得たいの知れない異世界に迷い込んでしまったようで、とかく――高揚した。
「なにしてんの、クラス委員さん?」
 唐突に、背後から――正確には、すぐ後ろ、耳の傍で、私はそう、囁かれた。
「……御園、さん?」
「お、名前、知ってるんだ。さすがクラス委員ってところ、かな?」
 彼女を背後にしておきながら、私は驚愕のためか、すぐには振り返ることができなかった。彼女の細い指先が、私の背骨をなぞっていく。
「なにしてるの?」
「そ、それは」
 私はそこで、虚勢にも似た感情のまま振り返った。
 そして、そこではじめて、彼女――御園明楽が、到底私には触れられないほどの距離にいたことを、知った。
 遠い。
 もうひとつ、付け加えられた恐怖は、私が、いつの間にか、路地から漏れる光すら届かないほどに、路地裏に入り込んでしまっていた、ということだった。私は戦きながら、ゆっくりと、後ずさる。
「どこへ行くの」
「ゆ、由美ちゃんのところに」
「由美?」
「そ、そうだ。きみがさらったんだろう? 目撃者もいる」
「さらった? 私が、由美を?」
 御園さんはゆったりとした足取りで、私のほうに近づく。それが、どうしてだろう、なにか恐ろしいことのような気がして、私は後ろも見ずに後ずさっていく。後ろ手に組んだ指に触れるパイプ管。追い詰められた、と言葉にせずとも直感する。
「怖がらなくていいのに」
 御園さんの膝が、私のももに触れる。
「大丈夫だよ」
 もうすでに、身体が触れ合う距離まで近づいているというのに、彼女は接近をやめない。腹。胸。肩。吸着していくたび、彼女の香水の香りが鼻孔を刺激する。
「由美は自分の意志で来たんだから、今からでも会えるし、いつでも帰せるよ」
 彼女がそう言ったのは、もう吐息が混ざり合うほどにまで、お互いに接近したときだった。
「帰、せる?」
「そう言ったつもりだけど?」
「どこにいるの」
「彼女は、そうだな、今の時間帯は、集会所にいるんじゃないかな」
「集会所?」
「そ。」
 御園さんは、後ろ手に組んでいた私の手に指を絡ませ、力を一切いれずに、少しも強引なところなくそれを解いた。
「これから一緒に行こう。」
 彼女は唇の端で笑う。
「夜の水族館に。」

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「いらっしゃい、お嬢さん」
 夜の水族館は、まるで墓場のようだった。生き物たちは暗闇のなかを、まるでそのすべてが見えているかのように、昼間をまったく変わらず、動き続けている。
 御園さんの右手は、そんな暗闇のなかで、とりわけ暖かく、輪郭をはっきりとさせている。左利きの私は幸福だ。彼女の右手を、きちんとしっかり握っていられる。
「こんなところにあるの?」
 私は少し、不安になってそう尋ねる。月光、ガラス張りの天井に差すその静かな光が、水槽を頭上から貫いている。魚の背は光を跳ね返し、壁に不思議な模様を形成する。
「こんなところにあるの。」
 御園さんはいたずらっぽくそう言って、その先――薄暗く光る場所を指さした。
 すでに、何人か集まっているようだった。
 夜の水族館は、十三番街の裏路地から入ることができる。最初にその道を見つけたのは、どうやら彼女であるらしい。彼女に集められた子供たちは、夜の水族館までの通路を「集会所」と呼び、水族館が閉まってしまうのを待ち構える。
 警備員にばれるのではないか、とも考えたのだけれど、最近の水族館はどやら、入り口に近付いた者などを、センサーで管理しているらしい。つまり、最初から抜け目だったこの通路から侵入することは、誰にもバレる心配はない、ということだった。時代はハイテクに進むけれど、アナログにはアナログなりの利点がある、ということだろう。
 夜の水族館に入るには、夜の十時を待つ必要があった。私は親に「今日は友人の家に泊めてもらう」と下手な嘘をついて、その時間までカフェで時間を潰すことにした。
「それにしても、由美のことでクラス委員が動くのは、少し予想外だったよ」
 アイスコーヒーを飲みながら彼女はそう呟く。
「クラス委員ってのは、クラスが主体になる行事の際に運営を任される程度の役職だと思っていたよ」
「……違うよ」
 私は唇を尖らせる。
「クラス委員はクラスメートのことはなんでも知ってなくちゃいけないの。あなたが空手の名手ってことはもちろん知っているし、由美ちゃんが小学二年生の読書感想文で結構いい賞をとったってことも知っている」
「へえ」
 御園さんは少し意外そうな顔をした。それからいたずらっぽく笑って、
「でもきみは、私がどうして空手をやめたのか知らない。」
 と言った。
「え」
「それに、由美が親から虐待を受けていることも知らない。」
「……」
「おかしいと思わなかった? 誘拐事件だと思うのであれば、警察に連絡すればいい。きみに頼む筋合いはない。警察は事情を聴いても動いてくれないなんて、よくある嘘だよ。誘拐なんて被害届を出せば一発で受理される。」
「それは……」
「警察が動いていない時点で、警察には通報もしていないんじゃないかな。ではどうして由美のお母さんは警察に通報していないんだろう? こういうのは逆にして考えてみるといい。どうして由美のお母さんは、警察に通報できないのか?」
「虐待が、バレるから……?」
「そういうこと」
 彼女はアイスコーヒーを飲み干して言う。
「夜の水族館は、そういう人たちが集まって、話を聞き合う場所なんだ。話を聞くってのは、なんだかありふれた、効果のないものに思われがちだけれど、人に向けてその話をするってことは、自分の今の状況を整理して言葉にするということで、それはすなわち、向き合う、ということに繋がる。」
「だから、自主的?」
「そう。私は由美ちゃんに場所を教えただけ。由美ちゃんはあれから家に戻らず、集会所と夜の水族館を行き来しているみたいだけれど、それも私のあずかり知るところではない。」
 すべては彼女が決めることだ。
 御園さんはそう言って、腕時計を確かめる。午後九時半。
「そろそろ行こうか」
 と言って立ち上がる。私もそのあとを追う。
 十三番街は夜になるととても暗い。大通りの裏手にあたるこの場所は、川底で錆びて朽ちていくのを待つ鉄のように、ひんやりと涼しく、寂しい。
「あのさ」
 と、数歩先を歩く御園さんを呼び止める。
「どうして空手、やめちゃったの?」
 御園さんが振り返る。
「監督がね」
 御園さんの苦笑いを、初めて見る。
「私のことを好きだったみたいで、無理やりされちゃったんだ」
 ああ。
 私は黙ってしまう。
 こういうとき、なんて言えばいいのか分からない。
 そうか。
 私は、クラスメートのことを知っているつもりだったけれど。
 知らなかったのだ。
 なにも。
「……ごめん」
「きみが謝ることじゃないよ」
「……」
「行こうか」
 彼女に手を引かれる。
 どうして私が泣いているんだろう。
 夜の水族館は、とても静かな場所だった。人間には無関係の生物が、悠々と水下を揺蕩っている。
 その先に、光の集まる場所があった。
 それは哀しいくらい、人工的ではなかった。
 水族館を介して降りていくその月光は、六人の男女を淡く儚く照らしている。そのなかに由美ちゃんもいる。顔にいくつもの絆創膏を張った由美ちゃんと目が合う。
 ここには光が届かない。
 そういうところで生きている人たちなのだ。
 だからこそ。
 はじめまして。
「私の名前は、」

— End —

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Sakuria
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